新解釈
『舞い秘め。【新解釈版】』
つばきつばさ
40分
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4人用台本
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台本説明
この台本は 机の上の地球儀 作 『舞い秘め。』を 原作者の許可の元に再構築した二次創作作品です。
登場人物
政彦
男性
鷹野政彦(タカノマサヒコ)。男性。没落寸前の伯爵家当主。美津と婚約を結ぼうとしている。
セリフ数 129
衣里
女性
天月衣里(アマツキ エリ)。女性。伯爵家の娘。丞の婚約者。
セリフ数 91
美津
女性
清河美津(キヨカワ ミツ)。女性。船成金の家の娘。衣里と同じ女学校に通っている。
セリフ数 71
丞
男性
神坐丞(ジンザ ススム)。男性。衣里の婚約者。政彦の友人。
セリフ数 60
台本本文
―― (天月邸。応接間)
政彦
熾熱燈(しねつとう)の光(ひかり)晴れがましきも……。
衣里
父が来るまで、卓を運ばせて骨牌(かるた)でも致しますか? 鷹野様。
政彦
…………骨牌?
衣里
舞姫、でしょう? 冒頭の、骨牌仲間に一人残された主人公が、熾熱燈(しねつとう)のあまりの眩しさに、虚しさを覚える場面で。
政彦
あぁ……。よくお分かりに。
衣里
アーク灯を熾熱燈(しねつとう)だなんて書いたのは、彼くらいのものでしょうから。
政彦
鴎外がお好きですか。
衣里
……父が。
―― (間)
衣里
だからわたくしの名前は「衣里(えり)」と言うのです。
政彦
……エリスの「衣里」ですか。
衣里
酷いでしょう? 伯爵家の娘の名前の由来が、お話に出てくる貧乏な踊り子だなんてね。
政彦
満更でもないようだ。
衣里
だって、普通でない方が楽しいではありませんか。
政彦
なるほど。
衣里
装(よそお)わねばならない出自なら、なおのこと。
政彦
天月(あまつき)の御令嬢にはさぞや気苦労も多いことでしょうね。
衣里
鷹野の御令息にはございませんこと?
政彦
どうでしょう。
衣里
人間誰もが月のように、決して誰にも見せない側面を持っている。というのは、誰の言葉でしたでしょうか。
政彦
この熾熱燈でも照らせませんかね。
衣里
(小さく笑う)
政彦
(独白)微笑んだ彼女は血の気を感じぬほどに美しく、青みがかった頬に対照する真っ赤な唇(くち)が、妙に眩しかった。
美津
(語り、七五七五七七五の調で) 薄水(うすみず)に浮く 儚きは 白き弧を欠く 君が頸(くび) やがて降りゆく夜(よ)を待たず 朱(あけ)に染まれや 白夜月(はくやづき)
―― 場面転換。数日後。喫煙所 (間)
丞
お前が船成金の娘と結婚とはね。
政彦
滅多なことを言うなよ、神坐(じんざ)。まだきちんと婚約できた訳じゃないのだから。
丞
船成金が伯爵家からの求婚を断るものか。
政彦
まあな。 どんなに金を積もうと買い切れない爵位(しゃくい)を得られるのだ。 断る理由はないだろう。 ……鷹野の家は、私の代でしかと建て直してみせるさ。
丞
お前はいつだって合理的だな、鷹野。 それは愛を知らんからだぞ。
政彦
(鼻で笑って)愛。お前が、愛を語るか。
丞
どうにも、かの太田豊太郎の節があるな。
政彦
まさかお前まで鴎外か。
丞
お前まで?
政彦
ああいや、なんでもない。 にしても、柄にもないじゃないか。お前こそ、その『器械的な男』の一人だと思ったが。
丞
なに。ひとつ、かぶれてみたのさ。
政彦
例の婚約者殿からか。
丞
ああ。文学少女に付き合うのも楽じゃない。
政彦
ならばよせばよかろう。
丞
愛というものを知れば、そう気安く論断できるものじゃない。
政彦
よく言うぜ、じきに鼻毛を抜かれるぞ。
丞
鼻毛がなんだ。愛ゆえに、俺と彼女は結ばれるのさ。 お前だってそうだろう。
政彦
結婚に愛など要らんよ。少なかれ、私には。
―― 場面転換。数日後。天月邸。 (間)
衣里
本来ならわたくしの方から伺うのが筋でしょうに、大したおもてなしもできず。 あんなに素敵なお土産までお持ちになってくださって、本当……ごめんくださいね。
美津
そんな! どうぞお顔をあげてください。 私、このことを何が何でも『い』の一番に衣里様にお報(しら)せしたかったのです。 そうして居ても立っても居られず、衣里様のご都合も考えずに駆けつけてしまいました。 御無礼をお詫びするのは私のほうです。ごめんくださいませ。
衣里
(小さく笑って) 改めて、此度のお輿入れ。まことにおめでとうございます。 しかもお相手はお公家様(くげさま)とか。
美津
(小さく笑って)ええ。 これで安心して、このお屋敷の敷居を跨ぐことができます。
衣里
あら、どう言う意味かしら?
―― (間)
美津
知っているんです、私。皆さまに陰で笑われていること。
衣里
美津さん?
美津
「船成金の娘が偉そうにしたところで生まれ血筋は変えられぬ」
衣里
(咄嗟に美津の手を握って)美津さん。
美津
「生まれ血筋が変えられぬからと今度は金で買い上げた」
衣里
(美津の肩に手を回し)もうおよしに。
美津
「賤(いや)しさに拍車がかった清河(きよかわ)の泥船(どろぶね)め」
衣里
(美津を抱きしめて) 美津さん。貴女のお父様は、一代で財を築いた。 本当に素晴らしいことだわ。 その結果、貴女たちは人を雇う側になった。 つまり、皆の手本にならなくてはならない。 ならば、そのように品性を疑う人たちの言葉など、気にしなくて結構です。 誇りなさい、貴女のお父様を。
美津
いいんです……。
衣里
……え?
美津
何を言われようと、笑われようと。
衣里
美津さん。
美津
私、嬉しいのです。もうすぐ、衣里様と本当にお揃いになれるのです。
衣里
お揃いだなんて。
―― (間)
美津
先日お買い求めになられた歯の細い柘植(つげ)の櫛も、丸い朱色の手鏡も、薄紫が差した便箋も、素敵ですよ。 衣里様。 ご婚約おめでとうございます。
衣里
(苦笑して)まさかこれまでお揃い、だなんて言わないでしょうね。
美津
(少女のように笑う)
―― 場面転換。数日後。喫茶店・店内
美津
とても雰囲気の良いカッフェーでしょう?
政彦
ええ。調度品ひとつとっても細(こま)かな彫金。 厚いテヱブルに、安息椅子の滑らかな脇息(きょうそく)も謙虚に贅を尽くしている。 なによりランプの灯りが控えめなのが、実に好い。 ここはシベリアという菓子が有名だそうですね。楽しみです。
美津
まあ。お調べになったの?
政彦
美津さんが行きたいと仰るので、どんな所かな、と。
美津
シベリアだなんて、庶民の食べ物だと笑われると思っておりましたわ。 ……存外マメなのですね、鷹野様は。
政彦
私の振る舞いはそんなに粗雑でしたか。
美津
いえ。ただ、貴方は私に興味がないと思っていたから。
政彦
こうして二人でお会いするのも、もう三度目ですよ。 それなのに興味がないなんて。 全く心の内が読めませんね、美津さんは。 (わざとらしく笑う)
美津
それは必要なことかしら。
政彦
(笑いを止めて) いえ。ただ不思議な方だと。
美津
鷹野様こそ、成金の娘に媚びへつらう必要などないでしょう。 私に言わせれば、心の内が読めないのは貴方の方ですわ。
政彦
へつらっているつもりは、ないのですがね。 ご機嫌取りのように見えますか。
美津
鷹野様は、お優しくて、非の打ち所がないお人に見えます。
政彦
それはどうも。
美津
鷹野様は……我が家の財産と結婚したいのですよね。 私の心が欲しい訳ではないのでしょう。
政彦
は?
美津
いっそ肯(うなず)いて下さればいいのに。
―― (間)
政彦
美津さんは、私に何を求めておられるのです。
美津
何も求めてなど。
政彦
自分のことを単なる資金調達の用具と割り切るような、血の通わない婚約者ですか。
美津
いいえ。
政彦
想い叶わなければ手拭いで手足を結んで心中するような、愛に冒(おか)された婚約者ですか。
美津
……まさか。
政彦
なるほど。つまりは、欲しい誰かが別におありなのですね。
―― (間)
美津
私は『月』が欲しいのです。
政彦
……それは何かの比喩ですか?
美津
さあ。どうでしょう。 ……時折、欲望を抑えられなくなるんです。 何でもないように澄ました白い月の首元にがぶりと噛み付いて、月が苦痛に歪む姿が見たくなる。 そうしてぐちゃぐちゃにできたなら、きっと私は満たされるのに。
政彦
(独白)私の脳裏には、天月家ご令嬢の、あの青みかかった薄い肌が浮かんだ。
美津
なんて。……ふふ。鷹野様には、きっとお分かりにならないわ。
政彦
どうしてそうお思いに。
美津
私が他の愛を欲してもご興味ないようですから。
政彦
それは。
美津
けだし、愛を知らないでしょう、貴方。
政彦
美津さんはご存知なのですか。
美津
(間) いいえ。
政彦
知らないものを知るために必要な第一歩は、知らないことを知ることから始まります。
美津
心にもないことを仰るのね。
政彦
そう思われても仕方がありません。 信頼とは、たった三回の逢瀬で積み上がるようなものではありません。
美津
……どのみち、私たちには関係のないことですわ。 私たちの結婚は、紙の上で行われるのですから。 済みません。ちょっとはばかりへ行って参ります。
―― (間)
政彦
(舌打ちして、ため息) くだらん。
―― 政彦、タバコの箱を握ってバルコニーに立つ 同喫茶店・バルコニー
政彦
……もし、そちら天月の。
衣里
あら。鷹野様。こんなところでお会いするとは奇遇ですわね。
政彦
本当ですね。……ええと。
衣里
(政彦の意図に気付いて)ああ、白夜月を見ていましたの。 最近よく見えるんですよ。真昼間から、白い月が。
政彦
おや。(目線を移して)本当ですね。 (間) あぁ、そうだ。先日は、ありがとうございました。
衣里
いえわたくしは何も。父が大層喜んでいましたわ。何か良い話だったのかしら。
政彦
(鼻で笑って)大した話ではありませんよ。 流行りの葉巻の話と、新しい投資先の話をしました。
衣里
そう。鷹野様はこのカフェーにはよくいらっしゃいますの?
政彦
(曖昧に答えて) ときに、おかしなことを伺っても。
衣里
ええ。
政彦
月を欲しいと思ったことはおありですか。
衣里
(小さく笑う)
政彦
ああこれは(何か取り繕おうとして)
衣里
ありますわ。ずっと昔に、小さな子供の頃に。
政彦
そうですか。
衣里
でも今は、欲しいと思いません。
政彦
道理です。
衣里
月には月なりの気苦労があるでしょうから。
政彦
(独白) そう呟くと彼女は、目線を空に戻した。 手を伸ばせば握り絞めることができる距離に、たおやかな三日月があった。
衣里
済みません、連れを待たせてあるんです。そろそろ失礼致します。
―― 去ろうとする衣里の肩に、政彦が手を乗せる
政彦
待ってください。
衣里
………何でしょう?
政彦
月を。
衣里
え……。
政彦
五日後に、ここで半刻(はんとき)、一緒に月を見ていただけませんか。
―― (間)
政彦
(深呼吸して咳払いをひとつ) とんだ妄言を。どうかお忘れください。
衣里
その日、月が見えるとは限りませんが。
―― (間)
衣里
月の見えない日でも、約束通りここに来て良いものかしら。
政彦
…………は。
衣里
では五日後に、また。
―― 衣里、ついで政彦。バルコニーを去る。
美津
お戻りでしたか。
政彦
すみません。お一人にさせてしまいましたね。
美津
勘繰りのひどさに愛想を尽かしてお一人でお帰りになられたとばかり。
政彦
まさか。
美津
あの女性とはどんな間柄で?
政彦
見ていたのですか。
美津
バルコニーで並んで肩まで触れて。随分と親しげにお見受けしましたけれど。
政彦
妬いてくれるのですか。
美津
(鼻で笑う)
政彦
ただの顔見知りですよ。正確には、彼女の父君(ちちぎみ)と縁故がありましてね。
美津
天月様と。
政彦
なんだ、ご存知でしたか。
美津
そんな……。
政彦
随分な驚かれようで。私もこれで、華族の端くれなのですが。
美津
そういう意味では!
政彦
いいのですよ、取り繕わなくても。 打算尽くの婚約だとあなたに勘繰らせるほど傾いた家であることは紛れもない事実だ。
美津
違うの。私、嬉しいのです。喜んでいるのです。
政彦
喜ぶ。美津さんが。なぜです。
美津
……(何か言おうとして飲み込む)
政彦
いい機会です。腹に一物(いちもつ)飲ませたままではお互いに苦しいでしょう。 何を言っても驚きませんから、教えてください。
美津
衣里様を見て、どう思われましたか。
政彦
どうと言いますと。
美津
麗しいと、美しいと、思いましたか。
政彦
そうですね。美人であることは間違いないと思います。
美津
あの細い頸を、見ましたか。
政彦
頸。
美津
見たでしょう。あの距離に居たのですから。 見たでしょう、あの、三日月のような、細くしなやかな頸を!
政彦
美津さん。
美津
すみませぬ。……取り乱しました。
政彦
彼女が、天月衣里が……あなたの欲しい『月』ですか。
美津
(にたりと顔を歪ませて、ひき笑う)
政彦
美津さんも、そんな表情をするのですね。
美津
もう一度お尋ねします。彼女を、どう思われましたか。
政彦
妖しく、物憂げであると。
美津
あの頸筋に、何を思いましたか。
政彦
指を絡めて少し力を込めれば、ビードロの一輪挿しのように容易く……
―― (間)
政彦
壊してしまえそうだと。
美津
最後、鷹野様は彼女に何と仰ったの。
政彦
五日後に、一緒に月を見てくれないかと。
美津
それから?
政彦
それだけです。
美津
それから、どうするおつもりなの。
政彦
(息を吸い込んでから)それは……
美津
(政彦を遮り)あなたはきっと、月を掴もうとする。
―― 場面転換。後日。天月邸。
衣里
でね。修身(しゅうしん)の教科書に書いてあったんです。 月夜の晩、とあるお邸(やしき)からピアノの音がした。 窓からそっと覗くと、それを弾いているのはなんと盲目の少女。 ベートーフェンはその様子にいたく感動しこの曲を作ったそうですわ。
丞
(無言で衣里の顔を見つめる)
衣里
(丞の態度に気付き)……そんなに退屈でらした?
丞
いいや。君の表情(かお)をずっと見ていたんだ。
衣里
(苦笑して)いやだわ。
丞
起承転結に沿って瞬く眦(まなじり)も飛び跳ねる唇も、実に生き生きとしている。 もし仮に、俺が生まれながらに盲(めし)いでいたなら。 他愛ないその寓話を果たして額面通りに受け取ることができたろうか。
衣里
それ、どういう意味かしら。
丞
見得(みう)るものと見えざるものとには確固たる隔たりがある。
衣里
そうですわね。
丞
君、このところあの店に足繁く通っているらしいね。
衣里
……ええ。
丞
あすこの珈琲が口にあったなら何よりだ。
衣里
ええ。
丞
ときに、かの盲目の少女は、窓からそっと覗かれていることに気付いたと思うかい。
―― (間)
衣里
気付いていたと思いますわ。
丞
なぜ、そう思う?
衣里
青眼でも盲目でも、女は視線に敏(さと)いものです。
丞
気付いていてもピアノを弾くのをやめないのだね。
―― 場面転換。数日後。喫茶店・バルコニー
衣里
こうしてお会いするのは、これきりにしませんか。
政彦
ここで月を見るのに飽きましたか。
衣里
そういうわけではありませんけれど。
政彦
最初の約束は私から、その先の約束はあなたからでした。
―― (間)
政彦
ああ、私のことがお嫌いになりましたか。
衣里
そのような気遣いはもとより一毫(いちごう)たりともございません。
政彦
……何度目のことでしたか、あなたは月を見なくなりましたね。
衣里
(息を呑む)
政彦
月を見ている私を盗み見るようになった。 (間) 月に見飽きて、何を待っているのです。
衣里
待ってなどいません。わたくしはただ、怖いのです。
政彦
怖い? 何が怖いのです。
衣里
貴方がわたくしを見る目は、他の人がわたくしを見る目よりも、ずっと冷たい。
―― (衣里、膝と膝を強く寄せて下腹部に両手を置く)
衣里
鷹野様。わたくし貴方の視線が怖いのです。 わたくしね、視線には敏感なのです。すぐに分かります。 皆、わたくしの首元を食い破りそうな視線で見つめてくる。 どこかがむずがゆいような、微熱があるような表情で。
政彦
(ポツリと)月の、首元……。
衣里
でも、貴方は違います。
政彦
この三白眼と無愛想は生まれつきですよ。
衣里
いいえ。貴方は、何かを確かめようとしている。
政彦
なるほど。では、こうしてお会いするのは今日限りにしましょう。
衣里
……我儘を言ってすみません。
政彦
最後にひとつお聞かせください。
衣里
はい?
政彦
あなたは、何を隠しているのです。
衣里
隠してなどいません。
政彦
視線に敏感なのは、打ち明けられぬ疚(やま)しさをずっと抱えているからでは。
衣里
……いいえ。
政彦
こちらを盗み見て、全てを晒す機会を伺っていたのでは。
衣里
勝手なことを言わないで!
政彦
あの晩、あなたのお父様と、本当に葉巻と投資の話をしたと思っていますか。
衣里
(目を見開き、震えて)まさか。
―― (政彦、衣里の頭をぐいと引き寄せ、耳打ちする)
政彦
暴いて差し上げます。あなたの望むとおりに。私の部屋に来なさい。
―― 場面転換。鷹野邸
政彦
(独白)白魚のような指が、濃紺のブラウスの、貝殻に似たボタンをひとつずつ外してゆく。 (独白)唇の血の気は失せて、のたうつ蛭を連想させるのに、青みがかった頬に歪な微笑が滲んでいる。 (独白)やはり彼女は、待っていたのだ。
衣里
わたくしはね、お父様の大事な人形なの。 お父様の思い通りに動き、お父様の望んだように生きる。 お父様のものである御印(おしるし)を、髪の先から爪の先まで、夜毎(よごと)にこうして刻まれる。
政彦
(独白)肌着を紐解いた。 (独白)寒緋桜(かんひざくら)の赫(あか)い花びらが、青白い肌に散っていた。
衣里
これが、お父様が私にくれた、愛の証。 愛とはなんて優しく、苦しいものかしら。
政彦
(独白)私は彼女の魔性の源泉を理解した。 (独白)そうして何も言わずに、彼女を押し倒すと、身体中に散った花びらに口を寄せ、噛むように吸い上げた。
―― (政彦、音を立てて何度も強く衣里の肌を吸う)
衣里
ああ、お父様……お父様……お父様……。
―― (間) 場面転換。政彦の私室。二人ベッドの上に横たわり天井を見る。 政彦、横になったままタバコに火をつけてため息のように一服。
衣里
婚約者がいるのです。
政彦
彼は知っているのですか。
衣里
父とのことはわかりませんが、あなたとのことは薄らと。
政彦
本当に、これきりですか。
衣里
……ええ。
―― 衣里、おもむろにベッドから立ち上がり脱いだ衣服を拾い、身につける。
衣里
今日のことは……いえ、今日までのことは、どうか忘れてください。
政彦
努(つと)めます。では。
衣里
さようなら。
―― 場面転換。珈琲店。 (衣里、ひとり席に腰掛け頬杖をつく) (丞、後ろから現れる)
丞
お隣、宜しいですか天女様。
衣里
……丞さん。どうしてここに。
丞
君がいる場所なら俺は仮令(たとえ)地獄の底にでも。
―― (丞、衣里の隣に座る)
衣里
もう。
丞
物憂げな顔だね。何かあったか。
衣里
別になにもないわ。
丞
まっすぐ家に帰らずこんなところで寄り道するなんて。お父上が心配するぞ。
衣里
わたくし、もう子供じゃなくてよ。
丞
このまま帰ったら、鷹野の匂いに気づかれるかもしれない。 だからタバコの煙ただようカフィー・ショップで燻(いぶ)されるようにして時間を潰している。 なんて、健気じゃないか。
衣里
やっぱり……ご存知だったのね。
丞
君はわかっていて、それでもピアノを弾いたんだね。
衣里
私はふしだらな女です。この先のことは丞さんの思うまま如何様(いかよう)にもなさってください。
―― (衣里、立ちあがろうとする) (丞、衣里の肩を掴んで無理やりに座らせる)
丞
俺は君を愛している。それは変わらない。これまでも、これからも。
衣里
でも。
丞
声を落として。
衣里
(小さく呼吸する)
丞
聞かせてくれ。鷹野に抱かれて、どうだったのか。
衣里
……全ての引き出しを開けて、中身を確かめるようでした。
丞
タバコの煙で誤魔化さねばならないほど、しっかりと愛されたのだろう。
衣里
(目を見開き、口端を歪めて丞を見る) まさか。あの方はわたくしを一厘(いちりん)たりとも愛しておりませぬ。 器械的に、取り調べるように、わたくしを暴きました。
丞
なのに君の顔は上気している。赤みを帯びている。 滾(たぎ)ったのか。
衣里
救われたのです。愛のない冷え切った情交に。
―― (丞、笑い出す)
衣里
どうぞご軽蔑ください。わたくしは……
丞
(遮るようにして)家まで送るよ。それから父上と少し話をしよう。 そうすれば君はひとり静かに眠れるだろう。今日のところは。
衣里
丞さん。
丞
衣里、愛してるよ。
―― 場面転換。三日後。喫煙所
丞
鷹野。久しぶりだな。
政彦
ああ……。
丞
どうした?顔色が優れんが。
政彦
ここのところ寝不足でな。
丞
寝不足ね……面白い本でも買い付けたか。
政彦
どうにも夢見が悪い。
丞
悪夢でも見ているのか? お前、子供のような可愛げがあるじゃないか。
政彦
笑ってくれ。
丞
話の種に聞かせてくれよ。一体どんな夢なんだ。
政彦
月が、月がずっと視界から消えない。
丞
なんだい、そりゃ。
政彦
白みがかった三日月が追いかけてくるんだ。
丞
荒唐無稽な『カツドウ』みたいな話だね。 ま、タバコでも喫(の)めよ。頭が冴えるぞ。
政彦
……あぁ。いただく。
―― 政彦は、丞にタバコをもらって火を点ける
丞
(自分もタバコをふかしてから呟く)……追いかけてもらえるだけいいじゃないか。
政彦
なんだいきなり。
丞
俺の天女様が天岩戸(あめのいわと)にお隠れなすってな。
政彦
天女様……くだんの婚約者殿か。何か要らんことでもいったのだろ。
丞
ひとつ頼み事をしたんだ。そうしたら、ひとりで考える時間をくれと。 この数日、会ってくれないんだよ。
政彦
この数日って……お前ひょっとして毎日会いに行ってるのか。
丞
毎日でも飽きないからな。今日もこれから会いに行ってくるつもりだ。
政彦
どんな美人も三日もすれば見飽きると思うが、殊勝なことだね。
丞
衣里には……いや。天月のお姫様にはその価値があるんだよ。お前ならわかるだろう?
―― (間)
政彦
……は?
丞
どんな美人も三日で見飽きるなどとんだ大嘘だ。現に今でも夢に見てるじゃないか。
―― (丞、タバコの煙を長々と吐く)
丞
彼女と何回カフェーで密会した?
―― 政彦、タバコをポトリと落とす
丞
俺が知らないとでも思ったのか? 天女様を二日と空けずに拝んでいるんだ。気づかないわけがないだろう。
―― 丞、政彦が落としたタバコを拾い上げ、手のひらで握り消す。
丞
(その熱さをこらえて小さくうめく) どうしたんだ。金魚みたいな顔をして。
政彦
済まなかった。お前の、お前の婚約者と知っていれば……
丞
抱かなかったか? くちづけなかったか? 暴こうとしなかったか? (深呼吸) それはどうかな。 鷹野、俺はね、怒っていないんだ。お前と彼女に失望してもいない。 むしろお前には共感しているんだ。 あの美しさに駆られぬ男などこの世にあろうものか。 ましてやお前のように底冷えした野心家なら。 衣里がお前と密会していると知った時、俺は昂ったよ。 そしてこう叫びたくなった。 「世の貴石(きせき)散りばめし天女像は、盗み出したくなるほどに美しかろう」と。
政彦
彼女とは何度かあの店で会った。だが肌を重ねたのは一度きりだ。
丞
そうか。ではこれからも抱いてやってくれ。
政彦
冗談はよしてくれ。
丞
冗談じゃない。俺は感謝している。衣里を暴いたのがお前でよかった。 彼女のことを微塵も愛していない、お前のような男でよかった。
政彦
(丞の落涙に気づき)……お前、泣いているのか。
丞
俺の体は子を成せない。神坐(じんざ)の跡取りを残せない。 それが衣里にとってどれだけの苦しみになるか。 石女(うまずめ)と呼ばれ、それゆえに一層あの父親に支配されるようになろうと、それでも俺は、
―― (間)
丞
衣里を愛している。
政彦
……本気なんだな。
丞
ああ。 彼女にもう一つだけ、墓場まで持っていく秘密を持たせてくれ。
―― 場面転換。鷹野邸。
美津
この部屋で、鷹野様は衣里様を愛されたのですか。
政彦
愛した。いいや、暴いたのです。彼女がされたこと、隠したこと、望んだことの全てを。
美津
どのように。
―― (政彦、美津のワンピースの襟に指をかける)
政彦
一糸とて纏わぬ姿で、秘密を明かしました。
美津
(喉を鳴らして唾を飲む)
政彦
それから、彼女の身体中に遺された愛撫の跡を、追想しました。
美津
(目を閉じてかみしめるように)すてき。 そのときの衣里様は、笑っていましたか、泣いていましたか?
政彦
青ざめた顔をして震えながら、花盛りに笑っていました。
美津
(言葉にならない歓喜の声をあげる) 鷹野様! どうか私も暴いてください。 衣里様と同じが、おんなじがいいのです! 私は月になりたい、小石ひとつで歪む水面(みなも)の月でいい、たとえ刹那でも、あのお姿をこの身に映したいのです。
―― (政彦、倦んだ目で頷き、美津のワンピースを引き裂く)
政彦
肌に残る無数の吸い跡は白夜月の下に散る寒緋桜(かんひざくら)のようでした。
―― (美津、さも楽しげに息を荒げる)
美津
白状いたします。私、あのあと神坐様にお会いして、全てお伝え致しました。 あなたの婚約者が五日後に、男と密会しますと。 やがてその男は、あなたの婚約者を花を摘むように壊してしまうでしょうと。
―― (政彦、美津の肌に音を立てて吸い付く)
美津
鷹野様に弄ばれ、神坐様に見捨てられたら、手に届かない月が私の手元に転がり落ちてくるかもしれないと。 そう思っていたんです。
―― (政彦、美津の肌から口を外して)
政彦
衣里。入ってきなさい。
―― (衣里、政彦に呼ばれ部屋に入る)
美津
衣里様ッ?
衣里
美津さん、裏で画(え)を描いたのはあなたでしたのね。
美津
違います、違うんですこれは。
衣里
こんな息苦しいお人形になりたいだなんて、奇特な方ね。
美津
衣里様、私は!
衣里
いいわ。そんなにわたくしと一緒がいいのなら、そうしましょう。
美津
衣里様、どうか、どうかお許しください。
衣里
これから五日に一度、鷹野様より胤(たね)を頂きに参ります。 その折はあなたも同衾(どうきん)なさい、ね?
美津
……宜しいのですか。
衣里
(にっこり微笑んで)ええ。
美津
子種まで衣里様とおそろいだなんて、私、天にも昇る想いです。
衣里
窓を開けましょうか。白夜月が出ていましたよ。
―― (美津、衣里にかけより、抱きしめて音を立てて口づける)
美津
衣里様、愛しております。衣里様!
政彦
(独白)肌同様に薄青みがかった黒目を、微動だにさせず、衣里は美津の抱擁と接吻を受け入れた。 (独白)一種の「ニル、アドミラリイ」の気象は彼女の魔性をより深いものにした。
衣里
(遠い目をして)鷹野様。
政彦
はい。
衣里
愛とはなんて優しく、苦しいものですね。
政彦
私にはわかりかねます。
衣里
(薄ら笑って)生娘(きむすめ)みたいに、臆病な方。
―― 場面転換。数年後。神坐邸前。
丞
(尋ねた政彦を出迎えて)久しいな。息災だったか。
政彦
ああ。 にしてもお前、随分と貫禄がついたじゃないか。
丞
はは。栄転したものの、日がな一日座り仕事でな。 分厚くなるのは財布の中身だけで十分だが。
政彦
そうか。ところで、奥方のご様態はどうだ。
丞
葬儀で倒れて以来、すっかり寝ついてしまった。
政彦
それはいけない。しっかり滋養をつけて散歩でもしなくては。
丞
父親っ子だったからな。気落ちしているのだろう。
政彦
(意味ありげに笑う)
丞
今日はお前ひとりか。
政彦
いや、妻と娘もきたが、なにぶん子供の足なのでね。
―― (間)
美津
遅くなりました。
丞
これは鷹野君の奥様。ご無沙汰しております。
美津
神坐様、ごきげんよう。
丞
そちらのお子さんは。
美津
(気付いて)ええ。 さあ、神坐様にご挨拶なさい『衣里』ーーー
新解釈