田舎と故郷

中央道の須玉インターを降りて、目的の場所に向かっていた。
 山梨県は妻の故郷だ。結婚する前から山梨県には年に何回も訪れている。ただ今日はいつもの故郷ではなく、別の場所に向かっていた。明野町という場所だ。

 助手席には妻が乗っている。

「待ち合わせは12時だっけ?」
「うん、少し早く着きそうね。」
「どんな所なんだろう…。」
「楽しみだね。」

 そんな会話をしながら、僕は車を走らせる。

 妻は「田舎暮らし」に憧れていた。
いや、憧れていたというのは違う。妻はもともと山梨の「田舎」の人間だ。妻の父親は田舎の農家の長男だった。小さい頃から祖父母の家に行って、馬や鶉と遊んでいたとよく語る。

「あなたと出会った頃、あなたと話して、小さい頃お父さんと一緒に鶉を追いかけて遊んだころのことを思い出したの。」

 そう妻は言ってくれたが、僕は団地っ子だ。昭和40年代に立ち並んだ団地で生まれた。サラリーマン夫婦の次男だ。何でそんな僕と話しをして、昔のことを思い出したのかはわからない。
 でも「田舎」というものに憧れがあった。そう、憧れがあったのは僕のほうだ。

 小学生のころ、夏休みの宿題に作文という全くつまらない物があった。僕は作文が好きではない。文を書くのは別にいい。ところが作文となると文を作らなければならないのだ。それにはテーマがいる。
 クラスのみんなは夏休みに「田舎」で祖父母と過ごしたことを、文字を使って文にする。
 それは「田舎」というテーマがあるから作れるのであって、「田舎」を知らない僕は、どうしたら作れるのかわからなかった。

「先生、田舎って何ですか?」

キョトンとした先生はこう答えた。

「お父さんやお母さんの実家。だからお爺ちゃんやお婆ちゃんの家のことだよ。」

 僕は更に迷う。お爺ちゃんとお婆ちゃんには家がない。家がないどころか、母方の祖父母はもうこの世にいなかったし、生前も伯母の家にいたからだ。さらに父方の祖父も他界していたし、祖母はうちで一緒に暮らしていた。
 家に帰った僕は両親にも祖母にも、「田舎って何?」
と聞いた。少し困った顔をしていたように思う。

「田舎」には遊びに行けないのですけど、どうしたらいいですか?

それが夏休みの作文だ。

 後から聞いたことだが、両親の祖父母とも、戦争で家を失ったらしい。それからは苦労をしながら伯父や伯母のところに身をよせて暮らしていたと聞く。


 「田舎にいって畑とかやりながら暮らさない?」
 
 そう妻が言ったのは、始めてではない。思い出すと出会ったころから言っている。
 妻は田舎暮らしを望んでいた。どうしてそんなに田舎に行きたいのか、僕には正直わからなかった。

 今日は「田舎」に移住するための家を見に来ている。売主との待ち合わせは12時だ。

 「移住」は世間では流行っているらしい。50年前は、サラリーマンになって東京の団地に「移住」するのが流行っていたそうだ。そう考えると、人はいつも「移住」を流行りにしているのかなと、どうでもいいことを考えていた。
 その50年前の移住者2世が、
自分は移住ではなく、妻の里帰りだと思い込もうとしていたのは、なんとも滑稽だった。

 僕の「移住」の定義はこうだ。

都会で暮らしてきて、仕事をリタイアした後、田舎に「移住」してのんびり過ごす。

 こういう「移住者」にはなりたくない。なぜなら「移住者」たちの中には、田舎暮らしに馴染めず、ほんの1年くらいで都会に「里帰り」する人も多いからだ。一緒にしないでほしいと思っている…。


 「里帰り」の家は、築110年の古民家、というか、半分は廃屋だった。さすがにこれはないかなぁ、なんて考えていると、妻は
「すごく素敵!」
と言った。
 僕たち夫婦はリフォーム会社を営んでいる。そう、僕は職人だ。毎日、仕事でお客さん宅の工事を行っている。

「そうかなぁ、これは直すのも大変だよ。もう少しまっすぐ建っている家にしようよ。」
「あら、直すのはあなたの得意分野じゃない。」
「うーん…。でも材料も労力もいっぱい…」
「ここがいいよね!この竈門。あっ、五右衛門風呂もある!」
「いやいや、これはもう使えないでしょ。だってここのさぁ…」
「部屋もすごくいい!和室が田の字になってる!」
「いや、あのね、ちょっと…」
「離れもあるよ!ここに木工所を移設して…」
「ちょっと、ちょっと…。」
「畑とかあるんですか?」
「あるよ。こっち。」

 もう無理だ。話しが進んでいる。

 その半分廃屋の家は、数週間後に僕の名義になった。

 自分のものとなると気持ちも変わる。どうであれ東京では考えられないくらいの土地の広さだ。
 そして憧れの「田舎」だった。

 「これから少しずつリフォームしながら、何年かかるかわからないけど移住しようね!」

 妻はそう言った。僕ももうその気になっていてた。やはり妻には敵わない。ただ頭の片隅でおもっていた。

「里帰りね…。」


 毎週末、仕事が休みの時に山梨に来て、少しずつリフォームを進める。そして、完成した時に引っ越しをする、そんなことを始めたばかりの時、父のケアマネジャーから電話があった。

「お父さんが脳梗塞で運ばれました!」

 僕の両親は、僕たち夫婦の東京の家で一緒に暮らしていた。もともと山が好きだった父は、数年かけて山梨に「移住」することを楽しみにしていた。そこで倒れた。

 一命をとりとめたものの、父はもう階段を登れない。東京の自宅は玄関が階段の上にある。

「退院したら山梨に連れて行かないと、お家に入れないね。」
「そうだな、山梨の玄関は階段ないからね。」
「でも、土間から玄関の段差はどうするの?」
「うーん、この廃屋のほうにもう一つ玄関を作って、スロープにすればいいんじゃないかな?」
「あっ、それいいね!」
「でもさ、それって大至急工事をしないと、退院するまでに間に合わないよね。」
「そうね。でもあなたならできるでしょ?」
「えっ?東京の仕事はどうするの?」
「まぁ、なんとかなるでしょ。流れに任せようよ。」
「うーん、移住を先送りにするっていう流れはないのか…」
「じゃあ、これからは忙しくなるね。私、頑張るからね。」
「あのね、移住を先送りに…」
「そうしたら、すぐに先生と話して退院の日を決めないと。」
「あのね、移住…」
「あっ、引っ越し屋さんも頼まないとね。」

 こうして、妻は東京で認知症の母の世話をしながら過ごし、父は病院でリハビリをして過ごし、僕は廃屋との闘いを始めた。

 もともと両親と僕たち夫婦は、別々の家で暮らしていた。
 8年前、妻が、
「ご両親といつか同居するなら、介護状態になってからでは無理だよ。」
と言った一言で、僕たちは一緒に暮らすこととなった。
 妻がこう言ってくれたのには理由がある。
 妻の父は、割と若くして亡くなっていた。まだ54歳だったらしい。それを追うように60歳で妻の母は他界。妻は介護のことをよく知っていた。
 僕と妻は2人とも再婚だ。だから僕は妻の両親を「直接」は知らない。それでもこうして僕は「間接的」に知っている。それがなんとも言えないぼんやりとした感情だ。
「お義父さん、お義母さん、本当に、実にありがたいことでございます。」
 信仰心の強い僕たち夫婦は、毎日お仏壇に向かってそう言っている。もう「直接」知っている人になっている気がしているが、それは今考えることではないことを承知しているつもりだ。つもり、というのは自分の想いであって、それを「煩悩」と………。


 東京で両親と同居してから、僕はあることに気がついた。僕は両親のことをあまり知らない。
 赤ん坊の時から、記憶がはっきりしてくる5歳くらいまでは、親のことを知らない。これは誰でもそうだと思うが、さらに大学に入ってからの僕はあまり家にいなかったから、自分の記憶だけに頼ると、13年くらいしか両親と過ごしていない。しかも、それは多感な時期でもあり、はっきり言ってそれもあまり覚えていない。
 
 同居してしばらく経って、僕は両親に言った。

「僕ね、父さんと母さんのこと、あまり知らないんだよね。」

 両親は驚いていたが、それはそうだろう。なかなかそんなことを本人に言う人はいないということに、あとから気がついたからだ。

 父が脳梗塞で倒れて、そのあと初めて話した時、
「脳梗塞になってしまった。申し訳ない。」
と言っていた。父のことはよく知らないが、はじめて、「ああ、可哀想になぁ」と思った。

 山梨のリフォーム工事は進む。
 母の認知症も進む。

 年末に父は退院した。病院に迎えに行き、そのまま山梨の「移住先」に向かった。

「リハビリ、よく頑張ったね。」
「うん、理学療法士さんたちもとても良い人ばかりだったからね。」
「車椅子でも入れるように、改修したよ。」
「そうか、それは助かるなぁ。どんな家なんだろう…。」
「あー。築110年の古民家だよ。」
「それは知ってるよ。工事中の写真もおくってくれただろ?」
「そうだったね。ところで具合はどうなのよ。」
「左半分がやっぱり動きにくいかな。」
「そうなんだね。あっ、あれが八ヶ岳ね。こっちは甲斐駒ヶ岳。」
「お!すごい景色だな。」
「うん。景色はいいけど寒いよ。大丈夫かな?」
「どのくらい寒いの?」
「うーん、川が凍るくらいかな。」
「それはすごいね。」

山梨の家に帰ってきた僕は、父を車椅子に乗せ、完成したばかりのスロープを通った。

 「お帰りなさい!」

妻が言った。

「ただいま!」

父が答える。

「里帰り」は妻で、「移住」は父だろ。
などと考えていた。そして新しい生活が始まる。

 田舎の暮らしは楽ではない。畑や田んぼをやろうとする人にとってはなおさらだ。
 作物っていうのは育てて実がなったら終わりではない。そもそも、土づくりをして、「何か」を植えなければ実らない。毎日のお世話も必要だ。
 収穫したら、次に植える「何か」のために、土づくりをする。「何か」を何にするかも決めないと植えられない。  
 今日収穫した野菜たちだって、売り物のようにきれいに袋に入っているわけではない。食べるためには、洗ったりしなければならない。虫に喰われているところもある。
 一番の仕事は草刈だ。土地は広い。そして田畑のまわりの雑草が伸びる。それもすごく伸びる。刈り終わるころには、刈り始めたところがもう伸びはじめているくらいだ。
 しかも、これらは本業ではない。ご近所にも専業農家の方はほとんどいない。僕もその一人だ。

 ご近所付き合いも独特だ。
というか、東京のご近所付き合いのほうが独特なのだろう。50年前に東京へ「移住」した人たち、そしてその2世、3世がつくりあげたご近所付き合い。最近では付き合わないという付き合い方があるようだ。
 まあ、どっちでもいいか…。

 小学生からの幼馴染が遊びに来てくれた。遊びというのは本当は違う。彼は植木職人だ。僕が呼んだ。彼は言った。

「こっち来てどのくらいだっけ?えっ、まだ1年経ってないの?もうすっかり馴染んでるね。」
 
 そうかな。でもたしかに僕はこの地域と暮らしを気に入っている。だって、ワンコたちと散歩するだけで、帰って来る時には野菜を抱えているし…。ご近所の皆さん、いつもありがとうございます…。
 「移住」しようとする人にこれだけは伝えたい。

田舎暮らしは決してスローライフではない…。

 八ヶ岳に近いこの地域の景色は本当に素晴らしい。そして夜は暗い。街灯もほとんどないから、本当に暗い。だから星空は素晴らしい。でも、星空を眺めている人はいない。暗くなったら誰も外に出ない。むしろ出られない。暗すぎて。
 改修工事中に、世田谷育ちの水道職人が泊まりがけで工事に来てくれた。彼はこう言った。

「こんなに暗いところ、人生ではじめてですよ。」

 僕は星空を眺めるのが好きだ。何も考えず、ただ眺めているのがなんとも心地よい。


 今の小学生たちが当時の「作文」を書くとしたらどうするのだろう。経済の停滞で、都心に住むのはお金がかかる。移住者2世が購入するマイホームは郊外だ。祖父母の家が都心にある。「田舎」というのは、移住者たちにはなくなったのだろうか。
 かつて故郷のことを「田舎」と呼んだ。今は故郷のことを「都会」っていうのだろうか、と考えた。
 芸術家だった伯父が、かつて蟹缶の作品を出したことがある。蟹缶の内側に印刷があって、こちらが缶の中身になっているという作品だ。なぜか突然思い出して、少し面白くて一人で笑った。
 10月26日。そういえば今日は伯父の命日だ。


 父と母は、今はもう山梨の施設に入っている。この家にいたのは、ほんの数ヶ月だった。それでも両親は山梨県民だ。今は「田舎」の人だ。

 憧れていた「田舎」
 帰ってきた「田舎」
 住民登録だけの「田舎」

 それでも「田舎」はいい。故郷だ。

 「誰の?」

 その時、東京に住む娘が来た。
同じ東京にいた時には、めったに来なかったのに、ここにはよく来る。娘は山梨生まれだ。妻の長女で、今は僕の娘にもなってくれている。

「ただいま!」
「おー!お帰り?」

心地のよい風か通り過ぎる。

 

田舎と故郷

田舎と故郷

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-11-02

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