踏切

 駅を出ると、思っていたよりも明るかった。
 愛は改札を抜けてから、しばらくその場に立っていた。何かを待っているわけではない。携帯電話を取り出すほどの用事もなかった。
 駅前にはタクシーが一台停まっていて、運転手が窓から腕を出していた。腕の先に煙草があったが、火がついているのかどうかは、ここからではわからなかった。

 踏切が鳴る。

 特にその踏切を渡るわけではない。ただ、あちらとこちらがぼんやりとしていた。

 晴子の家までは、歩いて15分ほどだった。
 最後に来たのは、いつだっただろう。愛は考えたが、すぐにやめた。
 思い出すのに時間がかかることと、思い出せないことは、似ているようで違う。今日はどちらでもよかった。
 駅前の道を渡ったところに、以前は何があったのか、もう思い出せなかった。店だったような気もするし、空き地だったような気もする。建物がなくなったのか、自分が勝手に建物を置いていたのか、それもわからない。

 信号が青になった。
 愛は歩き出した。

 晴子の家の片づけは終わらせた。改修工事も終わり、買い手も決まった。あとは引き渡すだけだった。晴子が長く暮らした家は、もう晴子の家ではなくなる。そういうことになっていた。
 そういうことになっていた、という言い方は便利だと思った。
 誰が決めたのか、いつ決まったのか、いちいち考えなくても、決まったこととして話を進められる。

 道の端に、片方だけの軍手が落ちていた。愛はそれを見て通り過ぎた。軍手は、親指の部分だけが少し裏返っていた。誰かが落としたのだろう。拾うほどのことでもなかった。拾ったところで、どこへ持っていけばいいのかわからない。
 晴子の家にも、そういうものがたくさんあった。

 もちろん、軍手ではない。

 愛には価値がわからないもの。晴子には価値があったもの。あるいは、価値があったのかどうかさえ、もう確かめようのないもの。
 晴子は、そういうものについて、以前、はっきりと言ったことがあった。

「私にとっては価値のあるものだけど、あなたたちには何の価値もないでしょ。だから私が死んだら全部捨ててね」

 生前の晴子の部屋には、いろいろな物があった。
 コラージュや、色鉛筆で描かれたゴッホの模写。襖に貼られた模造紙。ソファに張りつけたハートマークのシール。全て晴子の自作だった。
 愛は、それらを一つずつ思い浮かべようとしたが、どれも部屋の中にあるときの姿でしか浮かんでこなかった。物だけを取り出して思い出すのは、難しかった。

 そんなことをぼんやり考えながら歩いていると、晴子とよく行ったホテルのレストランが見えてくる。晴子のお気に入りの女性店員がいたレストランだ。
 毎回、食事が終わると必ず次の予約を入れる。いつも担当はお気に入りの彼女だった。
 ある時彼女は、次の予約日には、もう退職してこの店にはいない、と丁寧に挨拶をしてくれた。
 晴子は次の予約をキャンセルした。


 愛は時計を見た。
 家に着くまで、まだ10分以上は歩くだろう。


 愛が大学を卒業して二十年が経ったころ、晴子に久しぶりに会った。

「愛、私が死んだら家の整理と死体の整理をしてくれる?」

「えっ? どういうこと?」

 養子縁組の話だった。
 晴子は愛の父の姉、伯母だった。
 中学生のときも、高校生のときも、晴子はいつも言っていた。
「愛は私の養子になりなさい。お兄ちゃんがいるんだから、いいでしょ?」
 ああ、あのことは本気だったんだ。
 愛はそう思ったが、別に驚くこともなく答えた。

「じゃあ、区役所に手続きに行かないとね。いつにする?」

 晴子は、ずいぶん前からそのつもりだったらしい。
 養子縁組をしたあとも、二人の付き合い方は大して変わらなかった。
 晴子とは年に三回だけ会っていた。電話で約束するわけでもない。確認をすることもない。ただ三回。晴子の誕生日近くの日曜日と、愛の誕生日近くの日曜日と、愛の夫である武志の誕生日近くの日曜日。
 それ以外には会うこともない。電話もしない。
 そもそも晴子は携帯電話を持っていなかった。家の電話も、ファックス用紙が切れてからは、もう音を消していた。

「どうしても連絡することがあれば、朝八時までにして。八時過ぎたら音を消すからね。」

 晴子はそう言っていた。

 こんなこともあった。ある日、愛は仕事で晴子の家のすぐ近くに行くことになった。八時前に電話をかけると、晴子が出た。
 今日、仕事で近くに行くこと。昼ごろ、顔を見に行ってもよいかということ。それを伝えた。

「うーん、どうしようかな…。じゃあ会っておこうかな。」

 会っておこうかな、という言い方が、いかにも晴子らしかった。
 愛は、そんなことを思い出していた。


 軍手を置き去りにして、角を左に曲がり、自動車ディーラーの裏側を通る。整備工場側の、さらに裏側だった。
 あまり客が来ることのない場所だった。そこで働く社員にとっては、おそらく楽園のようなところなのだろう。社員用の吸い殻入れがあり、少し散らかっている。
 楽園なのに散らかっているのが、何ともしっくり来る気がした。

 なぜ、あの電話のことを思い出したのだろう。愛はそう考えたが、特に気にもしなかった。

 楽園の前を通り過ぎる。


 ある年の年末、愛は武志と鎌倉にいた。鶴岡八幡宮に行き、そば屋に入ったとき、めずらしく晴子から着信があった。

「話があるから、明日家に来てほしいんだけど…。」

 愛は承諾した。それどころか、今、鎌倉にいるからすぐに行くこともできると言ったが、やはり明日にしよう、と言ったのは晴子だった。
 翌日、愛は武志を連れて晴子の家に行った。

「あのね、愛。私はもう一人で暮らすのは無理みたい。だから愛の家に連れて行ってほしいんだけど…。」

 あのとき、晴子はどんな気持ちで電話をかけてきたのだろう。
 愛は考えたが、わからなかった。わからないことは、別に珍しくもなかった。その日、そのまま晴子を車に乗せて、愛と武志は家に帰った。


 吸い殻入れの楽園を通り過ぎると、登り坂になる。
 右には公園があって、お母さんらしき人と娘らしき子が遊んでいる。
 おそらく親子だろう。
 親子が遊んでいる、と思っていいのだろうが、それは聞かないとわからない。別に自分が思うだけだから、どちらでもよいのだろう。愛は、そんなどちらでもよいことを考えていた。


 愛と武志が晴子を家に迎えてから数日後、救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。
 まだだいぶ遠いところで、サイレンは消えた。愛の家のインターホンが鳴った。
 そう、救急車を呼んだのは愛だった。
 その日、晴子は、いよいよ体調が悪くなり、どうしようか考えていたようだった。

「不本意ながら、救急車を呼んでくれる?でも、サイレンは鳴らさないように来てもらうように頼んで。あなたたちのご近所の方がびっくりするし、いろいろ大変でしょ?」

 愛は救急車を頼んだ。サイレンのことも伝えた。
 しかし、サイレンを鳴らさずに走るのは無理だと言われた。
 そのことを晴子に伝えると、めずらしく少し複雑な顔をしていた。

 晴子は周りにとても気を遣う人だったと思う。しかし、そのことを知っている人はおそらく少ない。
 愛は大学生の時、晴子の友達という人と一緒に食事をしたことがある。でもその友達という人は、今では友達ではない人になっている。晴子の気遣いに気付かない人たちには、晴子は難しい性格をしていると思われていたようだ。

 
 公園の登り坂の向こうで、自転車に乗った男がベルを鳴らした。
 前を歩いていた女が振り返り、少し横に避けた。男は礼を言わなかったし、女も何も言わなかった。自転車は、すぐに見えなくなった。


 晴子は兄弟姉妹、親戚ともあまり交流がない。ないというよりは交流していたのに、ある日突然交わらなくなるらしい。
 晴子は6人兄弟姉妹だ。姉2人と兄1人。そして弟が2人いた。下の弟は愛の父、もう一人は芸術家だった。芥川賞の候補になったことがある作家だ。該当者なし、で受賞出来なかったとき、晴子はこんなことを言ったらしい。

「芥川賞を狙うなら、人が死なないとだめよ。」

 その後、愛の伯父は芥川賞を受賞した。


 登り坂から下の国道を見ると、1台の車がレストランに入ろうとしていた。その後ろの車は少し急ブレーキをかけながらクラクションを鳴らした。
 どちらが悪いのか。愛は、そんなことを考えていた。


 こんな事もあった。

 晴子には近所に随分と年の離れた若い女性の友達がいる。この日は晴子の家で、その友達と、愛と武志、そして愛の両親とで食事をするという、なんとも珍しい組み合わせがあった。
 楽しく雑談をしているときに、愛の父はご近所さんに、「こんなお婆さんと友達になって何か得があるの?」というようなことを言った。愛の父は、皆を笑わせようとして言ったことだろう。

「友達に年齢は関係ないでしょう。それに損得を考えて、友達はやらないわよ。」

そう言って微笑んでいた。
 後日、愛は晴子から聞いた。

「あなたのお父さんは、すごいことを言う人ね。わたし、びっくりしちゃった。でもあの子、昔からそういうところあるのよね。同じ脳みそがやってるんだから、何をやるにしても思考回路が同じなのね…。」

 ああ、これが晴子の気遣いなのか、と愛は思った。
 このあと晴子は愛の父に会うことはなかった。交わらなくなったのだ。
 たしかに難しい人なのかもしれない。
でも愛にとってはどちらでも良かった。それよりも「同じ脳みそがやっている。」という言葉が頭から離れない、ということを考えていた。


 晴子は半年前に肺がんを宣告され、脳への転移も認められていた。
 実はその更に半年前、皮膚ガンの手術をうけていたことを愛と武志だけは知っている。

「皮膚ガンのことは、誰にも言わなくていいからね。言うとお見舞いとか来るでしょ。それも面倒だから。私は愛と武志がいてくれればそれでいいよ。」

 愛と武志は、このことを誰にも言わなかった。


 肺ガン検査のための入院も嫌がっていたが、窓際のベッドならと言って晴子は諦めた。
 検査が終わり、病名が告げられたとき、晴子は言った。

「ああ、そうですか。治療はしません。入院なんてとんでもない! もう帰っていいですか?」

 検査入院のときに会った医師とは違う先生だった。目鼻立ちのはっきりした女医は、晴子の言葉に驚いていた。
 晴子が驚くと思っていたのだろうが、逆に自分が驚いていた。
 余命とか気にならないのか、といったことを尋ねていたが、晴子はまったく気にしていないようだった。

「死ぬなんて、人生で自分が主役になれる最高のイベントじゃない!」

 愛は、あとでこっそり病院に電話して病状を聞いた。思っているよりも早いと言われた。

「検査入院のときの先生の名前、昔別れた夫と同じ苗字なのよ。だから嫌いなのよね……」

 晴子は大笑いはしない人だったが、いつも微笑んでいた。
 そう、あの同じ苗字の医師の話をしたときにも。


 晴子の家まではあと5分くらいだろうか。公園のお母さんらしき人が笑った。笑顔で娘らしき子と遊んでいる。

 坂を登りきると、晴子の家が見える。


 あの日、救急車を呼んだあと、晴子は愛の家の近くの病院に入院することになった。以前はたった1日の検査入院も、あんなに嫌がったのに。

「肺がんのことは、誰にも言わなくていいからね。言うとお見舞いとか来るでしょ。それも面倒だから。私は愛と武志がいてくれればそれでいいよ。」

 やっぱり言った。この言葉を聞くのは2度目だ。「同じ脳みそ」だ。

 担当の医師から晴子と愛に話があった。
 救急車を呼んだということは、延命処置をするということだと言われた。

「じゃあ、もう一回やり直そうかな。でもそれは無理ね。先生、治療はしなくていいの。ただ痛いのだけは何とかしてください。」

 医師は、末期であることをすぐに理解したのだろう。
 本当はそのような処置はできないと言ったうえで、それを了承した。
 病室に移って、晴子は愛に言った。

「死ぬの失敗しちゃった……」

 
 公園を通り過ぎ、坂を登ると、晴子の家があった。

 家に到着する。

 あの軍手から思い出した晴子の家は、もうなかった。
 すべての荷物は撤去され、晴子のキッチンも風呂も洗面台も、壁紙も絨毯も模造紙の襖も、すべてリフォームされている。
 されている、というのは実は違う。
 リフォームをしたのは、ほかならぬ愛だった。
 愛は武志と一緒に、リフォームの会社を営んでいた。そして、このリフォームの依頼主は晴子だった。

「私にとっては価値のあるものだけど、あなたたちには何の価値もないでしょ。だから私が死んだら全部捨ててね」

 また、この言葉が頭を過った。
 この依頼主は、リフォームの途中経過を、面会に行くとよく聞いてきた。

「出し惜しみしないでしっかりやりなさいよ。全部ね、全部。」

 晴子は帽子作家だった。
 一点物の帽子を作って卸していた。有名な店で、なかなかの高値で売れていた。自分のブランドも持っていた。東京やベルリンなどでファッションショーもやったことがあるデザイナーだった。

 愛は高校生のとき、晴子の家でこんなことを言った。

「晴子さんはいいな。帽子をつくることができる技術があって……」

 晴子は微笑みながら言った。

「努力したのよ。」

 その言葉は、愛の頭のなかに今も残っている。
 今思えば、当たり前のことなのかもしれない。しかし、高校生の愛には衝撃的だった。
 何がそんなに衝撃的だったのか、今は少しわからなくなっている。
 この一言のことを、後に晴子に伝えたことがあった。

「あ、そう。私、そんなこと言ったの?」

 晴子は記憶力がいい。少なくとも愛はそう感じている。何気ない会話もよく覚えている。その晴子がこう言ったのは、本当に覚えていなかったのだろうか。
 愛は、ぼんやりと考えていた。

 晴子は五十歳を過ぎてからドイツ語を学び、帽子を売ってはドイツへ行き、また帰ってきて帽子を売ってはドイツへ行く、そんなことをしていた。
 ピアノを弾く愛は、
「何でもいいから」と言ってよくドイツでピアノの楽譜を買ってきてもらっていた。
 愛の演奏会を聞きに来てくれた時には、素敵な花束を持ってきてくれた。
 二十歳を過ぎてからは、ドイツワインを一緒に飲んだ。
 晴子は、そのことを覚えている。

 ある武志の誕生日の近くの日曜日、何度目かの食事会をしていた。晴子は武志と仲が良い。愛はそれを楽しんでいた。

 「もう一度ドイツに行こうよ。僕も愛も一緒にサポートするからさ。」

 晴子は少し考えた。その日はそれで終わった。

 次に会ったのは、晴子の誕生日近くの日曜日。「約束の食事会」だった。いつものように愛と武志は晴子の家にいた。

「いろいろ考えたけど、やっぱり私はもうドイツには行けないと思う。だから、あなたたち2人で行ってきなさい。」

 そう言って晴子はお金の入った封筒を渡した。一緒にドイツへ行こうよと誘われたことが、本当にうれしかった、と付け加えて…。

「いつから行くのか、どこを回るのか、詳しく教えて。そして帰ってきたらたくさん話を聞かせてね。」

そう言った。

 晴子はドイツ旅行の話題以降、ドイツ語の本の翻訳をしている。カフカという作家の本らしい。
 誰に見せるわけでもない。ただ自分で翻訳をしている。
 人はこれを趣味というのだろうが、晴子は言った。

「これが今の私の仕事。」


 晴子の部屋に入る。

 部屋からは富士山が見える。見えるといっても、山頂が少し頭を出しているくらいだ。
 しかし、富士山が見えるというのは、どうも不動産販売の特権らしい。


 入院した晴子に、愛と武志は毎日会いに行った。
 晴子は、愛が仕事の話をするとうれしそうだった。
 愛は「努力したのよ。」のあの日以来、仕事をするということを晴子に教わった気がしている。
 特に何かを教わったわけではない。

「一円でも利益が出るならやりなさいよ。お金をもらえて勉強できるんだから、こんなに楽しいことはないでしょ?」

 晴子は、微笑みながらよくそう言っていた。

 晴子の病気は進行していった。
 理学療法士がリハビリを勧めてくる。普段、大笑いしない晴子が笑っている。

「死のうとして失敗したのに、何でリハビリなんてしないといけないの? おかしくて笑っちゃう!それでね、あの私の前のベッドにいる人、リハビリを一生懸命やってるのよ。でも、あの人も、もう死にそうよ! 笑っちゃう!」

 晴子は理学療法士のことを「リハビリ男」と呼んだ。
 いつもカーテン越しにリハビリを勧めてきていたから、おそらく顔も見たことがない。
 理学療法士も、まさか自分が「リハビリ男」と呼ばれているとは知らないだろう。
 しかし、この「リハビリ男」は晴子の話に何度も登場した。
 ただ、話の内容は覚えていない。でも、何度も登場した。
 晴子は微笑んでいた。

 病室に看護師さんが来た。
 この人は「アニメちゃん」だ。声がアニメの声優さんのようだからである。
 晴子は、モンブランとビールをテーブルに置き、「アニメちゃん」に言う。

「今日はね、私の葬式なのよ」

 このモンブランとビールを買ってきたのは愛だ。
 葬式をやるから買ってきてほしいと言われたからだ。
 依頼主は、いつも晴子だった。

 晴子には、愛との間に一つの設定があるらしい。
 昔、結婚する前に好きだった彼との間に生まれたのが愛。そして、彼の親に反対され、愛とは引き離された。
 彼の両親はずいぶん前に亡くなり、この数年前に彼も亡くなったため、数十年ぶりに再会した娘、ということらしい。
 これは誰に話すのだろう。
 愛はそんなことを考えていたが、すでに看護師さんたちは知っていた。
 しかし、晴子は昔に戻りたいわけではない。いつものように微笑みながらこう言っていた。

「若い頃になんて絶対戻りたくない。若いって肌がきれいなだけでしょ?もう1回あの頃からやり直すなんて、考えたくもない。」


 リフォームが終わった部屋を見渡しながら思う。
 ここでの思い出を蘇らせる。
 あまりにいろいろありすぎて、小説のようにうまく表せない。そのうまく演じきれない自分を見ている愛がいた。

 晴子は最後に言った。

「私の人生も捨てたもんじゃなかった。でもコシノジュンコにはなれなかったな。」

 すべて片づけて、リフォームをして、明日、この家は買い主に引き渡す。
 もう晴子の家ではなくなる。
 本当は、全部片づけたわけではない。
 晴子作、色鉛筆描きのゴッホの模写。猫の椅子。バイオリンの置物。カフカの本。
 これらは密かに、愛の家の住人となった。

 「アニメちゃん」からこんなエピソードを聞いたことがある。
 ある夜、晴子はベッドから落ちたらしい。ポータブルトイレとベッドに挟まって身動きがとれなくなっていたようだ。それでも晴子はナースコールを押さず、発見されるまで挟まっていた。

「だって、私が呼んだら余計な仕事が増えちゃうでしょ。」

やっぱり晴子は気を遣う。

 
 晴子の「人生最期の日」。

愛と武志は、晴子の病室にいた。もうしゃべれない。目も開かない。話しもできない。
 夕方になって武志は一度家に帰った。晴子の容体が変わる。心拍がなくなる。その時、愛は言った。

「武志が戻って来るまでもう少しだけ待って!」

 医師たちが病室に入ってきた。
 晴子は心拍を取り戻していた。

 武志が戻ってきて、そのまま夜中を迎え、再び心拍がなくなった。あのドラマなどでよく見る波長の機械は、ドラマのようには動かない。心拍がなくなっても、もう一つの波長は動いている。医師はこういうことはよくあると教えてくれた。

 波長だけが動く。どのくらいそのままいただろうか。
 これが耳だけは最後まで聞こえているという状態なのか。

「晴子さん、もう頑張らなくていいよ。ありがとう。」

 やっぱり聞こえていたのだろう。波長はなくなった。最期まで晴子は気を遣う。同じ脳みそで。

 病室を出て待合室にいるように言われ、椅子に腰掛けた。
 本棚がある。本が無造作に置かれている。ぼんやりと見ていると、その中に見つけた。
 「老人力」
 伯父の作品だ。伯父は数年前に他界している。晩年は晴子とあまり交わらなかったと聞いているが、ここにちゃんと居てくれた。

 
 晴子の2度目の葬式は、愛が喪主で行った。愛は会場にあったピアノを弾いた。その楽譜にはユーロの値札シールが貼ってある。


 駅への帰り道、あの親子らしき親子はもういなかった。
 自動車ディーラーの吸い殻入れは、その社員たちに大人気のようだ。
 やはり、あそこは楽園だ。

 駅が近づく。
 帰り道は、少し長いように感じる。

 踏切が鳴る。

来る時と同じ踏切の音なのに、今はこちらの音がする。この踏切は特に渡らない。

 愛は、武志との待ち合わせ場所に向かった。

踏切

踏切

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-11-02

Copyrighted
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