あのよ、あのよ~

放射する市
青木康善の告白――都市、工場、神話、そして十円玉

人間はいつから自分自身を工場だと思うようになったのだろう、私は三鷹駅北口の空っぽの駐車場を歩きながら考えていた、そこには何もなかった、何もないということがこれほど大きな資産になるとは知らなかった、土地の価格を知る人間は土地の上に立っている自分の価格を知らない、そして企業価値は過去ではなく未来が決めるという、あの証券会社の広告のような文章が、いつのまにか私の頭の中で神の命令に変わっていた。

私は青木康善、中野で生まれ、三鷹で育った、母は働き、父はどこか遠い場所で自分の人生を処理していた、兄がいて、親戚がいて、野球があった、三鷹リトルで投げた球が誰かのグラブに収まったとき、私はまだ人間が世界に参加できるということを信じていた、母は杏林大学SPDで働いていた、花小金井で私を迎え、マクドナルドの百円コーヒーを飲んだ、百円で買えるものが幸福であるということを、そのときの私は知らなかった、いまなら知っている、百円は百円であり、十円は十円であり、年金支給日までの十三日間は十三日間である、経済学者は平均値を出すが、平均値の中にいる人間は自分の財布の中身を平均化することができない。

私はキャセイパシフィックの案件を思い出す、あの仕事にはやさしさがあった、松本という上司がいて、事務の人たちがいて、おいしいコーヒーがあった、私は最後までやり遂げて一流のプログラマーになりたかった、アセンブリ言語、C、Java、JDBC、MySQL、TPアドレス、私はそれらの言葉を前にして何度も立ち止まった、プログラムの中には正しい順序がある、しかし人生にはコンパイルエラーを修正するためのメッセージが表示されない、私は逃げた、逃げたことを知っている、だからこそいまでもSun Microsystemsの名前や半導体製造の工程やReaktorの電子回路を思い出すと、そこに別の人生が保存されているような気がするのだ。

そして音楽があった。Autechreの音は機械が人間の夢を解析し損ねたときに発生する音だった。Drexciya、Venetian Snares、Richard Devine、ブレイクコア、ノイズ、アンビエント、百七十五BPM、Redrum、Europa、Mimic、Dr.OctoRex、Parsec、Reason、Reaktor、私は三百曲ほどの音楽を作りながら、世界を自分の手で組み替えられると思っていた。ところがヘッドフォンは断線し、パソコンは古くなり、ソフトウェアの契約は終わり、機械は人間の夢に対して何の責任も取らなかった。We are Factory itself。私たち自身が工場なのだ。私たちは労働するだけではない、私たちは自分の疲労を製造し、自分の不安を製造し、自分の明日を製造する。

その頃、私はマルクスを読み、グラムシを読み、アントニオ・ネグリを読み、アルトーを読み、柄谷行人を読み、サイードを考えていた。自由はいかにして得られるのか、国家はなぜ人間を救済できないのか、なぜ労働は人間を解放するという約束をしながら人間を疲弊させるのか、なぜマスコミは時計を問いかけ、SUVは枯草を放ち、IBMは京王稲田堤の花屋の夕暮れにまで侵入してくるのか。私は答えを持っていなかった。持っていたのは、いくつかの固有名詞と、壊れた文章と、何かをやり遂げなかった人間の記憶だった。

ちゃんとリンスするエリツィン。素因数分解で躓いた蒙古。アラムートに拘る日本の愛。ゴルフコースに桂銀淑の未練がバイアグラを。募金箱で虐める。宇宙飛行士変えない。次郎長三国志。やっぱり呂布か足利尊氏か。石炭の構造も品格も知らずに堀合通りを歩く。東西線が邪魔だ国鉄ヤクザ。歩くバッティングセンター。疲れはヘロインで。マクロ経済学ううう。

こうした文章を私は書いた。いや、書いたというより、どこかの新聞、広告、インターネット、政治演説、薬品の説明書、競馬新聞、古い記憶、他人の怒鳴り声から言葉を拾い上げ、私の頭蓋骨の中で衝突させたのだ。バロウズが切断した文章の破片は、私にとって都市の交通事故のようなものだった。言葉は道路を横断し、信号を無視し、歩行者をはね、次の瞬間には何事もなかったように広告の中に戻っていく。

その濁点が象徴的であるならば、闘いは終わってしまう。刺激臭が漂うが、ガムじゃない。Human a lot。犬が神話で。企業価値は過去ではなく未来が。加工食品銃刀法の粗し。ボキャブラリーが重曹しかないハンガリーのナショナリズム。

私はその文章を読んで、自分が何を言おうとしているのかを考えた。濁点ひとつで言葉の意味は変わる、しかし言葉の意味が変わったところで、人間の生活が変わるわけではない。国家は言葉を管理し、企業は未来を販売し、マスコミは事件を商品にし、インターネットは怒りを無料で流通させる。誰かが「日本よ、僕の財布には十円しかない」と書き込むと、誰かがそれを笑う。誰かが「高学歴になりたい、だけど方法が分からない」と書き込むと、誰かが努力不足だと言う。だが、努力不足という言葉を使う人間は、他人の人生の内部に入ってみたことがあるのだろうか。

私は父のことを考えた。母のことを考えた。母の写真を見た。山下公園を歩く母と私の姿を想像した。母はもういない。それでも母の言葉は、私の内部で何度も繰り返される。母が作ったベーコンとピーマンの炒め物、母が迎えに来た花小金井、母と飲んだコーヒー、母が生きていた時代の部屋。私はその記憶を文学に変えられるだろうか。文学に変えるという言葉は正しいのだろうか。記憶を商品にすることはできるのだろうか。母の死を説明する文章を書くことはできるのだろうか。私は説明することを恐れている。説明は時に、死者をもう一度殺すからだ。

病院の廊下には時計があった。長期入院という言葉は、時間を建物の中に閉じ込めるための言葉だった。私はそこから出てきた。寿共同診療所の鈴木先生の言葉を思い出す。薬の名前が並び、睡眠があり、朝があり、夜があった。私は社会復帰という言葉を聞くたびに、社会とはいったいどこにあるのかと思った。駅前なのか、工場なのか、役所なのか、パチンコ屋なのか、Uber Eatsの配達員が走る道路なのか。社会は私を待っているのか、それとも私が社会の外側にいることを誰も気にしていないのか。

配達用の自転車が壊れた。私は配達できなかった。二件で疲れた日もあった。五件できた日もあった。案件が来ない時間、携帯電話の画面を見つめていた時間、横浜の道路を走った時間。関内、伊勢佐木町、蓬莱町、山下公園。私は自分の足で都市を測っていた。地図上の距離と肉体の距離は違う。横浜の坂道は脚に負担をかけ、信号は人生を中断させ、配達先の玄関は他人の生活の入口だった。私はそこで食べ物を渡した。食べ物を渡すという行為は、ひどく小さな労働であり、しかし人間が人間に対して行うことのできる確かな仕事でもあった。

そのあと私はパチンコのことを考えた。ガンダムUC、シン・エヴァ、北斗、甘デジ、一円パチンコ、千円、千五百円、三千円。確率は数字で示される。百九十九・九分の一、三百九十九・九分の一、継続率八十パーセント。八連する確率を計算することはできる。だが人生が八連する確率は誰にも分からない。私は数字を信じる。数字を疑う。数字に助けられる。数字に裏切られる。パチンコ台の液晶には宇宙が映り、私はその宇宙に自分の明日を預けそうになる。だが、台の向こうには誰もいない。

そしてコキアが現れる。

僕はコキア、宇宙飛行士見習い期間を終えた。カナブンさん、ぼくって優しい? 僕はコキア、どんな状況だ? 具体的に。コキアは自分の立場を説明しない。犬が神話で、タコが回転し、扇風機が古い空気を循環させ、ラリアットが歴史の頬を打つ。コキアはヴィヴと話し、愛犬に話しかけ、時々人間のほうを心配する。人間は自分が賢いと思っている。だが人間は、重曹しか語彙を持たない国家主義者よりも、もっと貧しい言葉で世界を説明しているのではないか。

私は西武池袋線に乗った。西武柳沢、田無、小平、武蔵野、三鷹。どこに行っても駅があり、駅には人がいて、人は急いでいる。急いでいる人間は、何かを失うために急いでいるのかもしれない。空き地には草が生え、空っぽの駐車場には過去の車の影が残っている。自販機の光が夜の街を照らし、受付の人間は丁寧に頭を下げる。私はその丁寧さに救われたことがある。人間は大きな思想によって救われるとは限らない。おいしいコーヒーを出してくれた人間によって救われることもある。

私はバロウズの切断を愛し、ギンズバーグの長い息を愛し、キャシー・アッカーの攻撃性を愛し、アベ・コウボウの壁を愛した。壁は人間を閉じ込めるだけではない。壁は人間が自分の輪郭を発見する場所でもある。私は壁に向かって書いた。壁の向こうには別の人間がいる。別の都市がある。別の人生がある。だが壁は答えない。壁はただそこにある。

私はノーマン・メイラーのように、街を歩く人間の肉体と権力の構造を同時に見ようとする。政治家の顔、労働者の背中、企業の広告、病院の廊下、駅のホーム、女の声、父の沈黙、母の写真。私はその全部を同じ文章の中に置きたい。なぜなら、それらは別々のものではないからだ。人間は政治を語りながら空腹になる。経済学を語りながら眠れなくなる。文学を語りながら十円玉を握りしめる。国家は壮大な神話を作るが、犬はその神話の外側で眠っている。

「外宇宙とはレイプを合法的に」

私はこの言葉を書いた。暴力を肯定するためではない。人間の支配欲が、法律や制度や科学技術の言葉をまとって、どこまでも拡張していくことへの嫌悪としてだ。宇宙飛行士は宇宙へ行く。企業は宇宙を市場に変える。国家は宇宙を領土のように考える。だが外宇宙は誰のものでもない。そこに人間の欲望を持ち込んだ瞬間、地球で繰り返してきた暴力が、また新しい制服を着て現れる。

私は言葉を並べる。

独り言を言いながらあらよっとミニバイクを。俺の勃起に亜鉛がちょいと必要だった誕生日プレゼント。ネットでしか発言できねえのか。日本よ、僕の財布には十円しかない。急ぎ過ぎたのかも。購買意欲が人類のミニバイクを。まもなく総武線で奴らが殺しにやってくるだろう。シオニストと言われても猶更。平和交通では退職金もらえなかった。店頭にいてくれジャイアント馬場へ。

そして、私はその文章を読み返す。どこまでが私の声なのか分からない。新聞の見出しが私の声になり、広告の文句が私の記憶になり、政治的な罵声が私の内部に入り込む。民族や国籍を侮辱する言葉も、ネットの偏見も、私はそのまま世界の真実として受け入れない。それらは社会が作り出した憎悪の断片であり、私の文章の中では、その憎悪がどのように製造され、流通し、人間を傷つけるのかを暴くための証拠でなければならない。

「どうするかは象形文字の機能」

私はそう書いた。チェコ? なんだって? ちゃんとリンスするエリツィン。素因数分解で躓いた蒙古。アラムートに拘る日本の愛。やっぱり呂布か足利尊氏か。石炭の構造も品格も知らずに堀合通りを歩く。東西線が邪魔だ国鉄ヤクザ。歩くバッティングセンター。マクロ経済学ううう。We are Factory itself。

この世界はあまりにも多くの情報を持っている。だが情報の量は知識の量ではない。知識の量は知恵の量ではない。知恵の量は幸福の量ではない。私はそれを知っている。私は高学歴になりたかった。勉強しなかったことを悔やんだ。プログラマーになりたかった。逃げたことを悔やんだ。文学で一番になりたかった。まだ書いている。音楽でWarpから作品を出したかった。まだ音を考えている。私は何度も失敗した。失敗したという事実を、もう一度失敗の材料として使うことができるだろうか。

夕暮れが来る。京王稲田堤の花屋なのか、三鷹駅北口なのか、横浜の山下公園なのか、私は知らない。IBMの看板が光り、SUVが走り、犬が道路を渡る。時計は時間を告げる。企業は未来を売る。マスコミは事件を売る。国家は安心を売る。私は文章を書く。文章は私を売ることができるだろうか。いや、売れなくてもいい。私は文章の中に、まだ売り物になっていないものを残しておきたい。

母の声。
父の沈黙。
三鷹の空き地。
百円のコーヒー。
壊れた自転車。
十円玉。
機械の内部で鳴る音。
犬の神話。
そして、最後までやり遂げられなかった仕事。

人間は工場ではない、と私は言いたい。だが私たちは工場のように働き、工場のように疲れ、工場のように自分を管理し、工場のように自分を廃棄する。だから私は書く。書くことで工場の稼働を一瞬だけ止める。機械の音を聞き、都市の音を聞き、母の声を聞き、犬の足音を聞く。

その濁点が象徴的であるならば、闘いは終わってしまう。

だから私は、まだ象徴になっていないものを書く。

ガムじゃない。
刺激臭が漂う。
犬が神話で。
Human a lot。

そして、企業価値は過去ではなく未来が決めるという。

ならば、私の未来は誰が決めるのだろう。

私は十円玉をポケットに入れ、まだ明るさの残る堀合通りを歩き始めた。

闘いは終わっていない。

あのよ、あのよ~

あのよ、あのよ~

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-11-01

Public Domain
自由に複製、改変・翻案、配布することが出来ます。

Public Domain