犯人は、まだ書かれていない
犯人は、まだ書かれていない
間宮 余白
その町には、犯人のいない事件ばかりが起きていた。
盗まれた財布は、持ち主より先に家へ帰っている。
割られた窓ガラスは、翌朝には元どおりになっている。
失踪した男は、失踪届が出される三日前から、毎朝同じ喫茶店でコーヒーを飲んでいる。
警察は困っていた。
なにしろ被害者はいるのに、被害がない。
容疑者はいるのに、犯行がない。
唯一、確実に存在しているのは、事件の報告書だけだった。
*
町の交番に勤務する巡査の水野は、ある日、奇妙な届け出を受けた。
「私の殺人事件を調べてください」
訪ねてきたのは、灰色のスーツを着た中年男性だった。
「殺人事件ですか」
「はい」
「被害者は?」
「私です」
水野は男性の顔を見た。
顔色はいい。
呼吸もしている。
何より、先ほどから交番のお茶菓子を三つ食べている。
「失礼ですが、生きていらっしゃいますよね」
「今のところは」
「今のところ?」
「明日の午後三時十七分に殺される予定です」
水野は時計を見た。
午後三時十六分。
「明日の?」
「はい」
「それはまた、ずいぶん正確ですね」
男性は鞄から一冊の本を取り出した。
表紙には、こう書かれていた。
『水曜日の殺人』
著者名はない。
「これを読んでください」
水野は本を開いた。
最初の一行で、手が止まった。
《水野巡査は、交番を訪れた男から一冊の本を受け取った。》
*
本には、今起きている出来事が書かれていた。
水野が眉をひそめたこと。
男性が四つ目のお茶菓子に手を伸ばしたこと。
交番の前を、赤い自転車が通り過ぎたこと。
そして、次の一文。
《水野巡査は、試しに本を閉じた。》
水野は本を閉じた。
「……これは」
「そういう本なんです」
男性は四つ目のお茶菓子を口に入れた。
「どこで手に入れたんです?」
「昨日、郵便受けに入っていました」
「差出人は?」
「ありません」
「中身は全部読んだんですか」
「はい。最後まで」
「それで、あなたが殺されると?」
男性はうなずいた。
「明日の午後三時十七分。町の時計台の下で、何者かに刺されます」
「犯人は?」
「それが……」
男性は本の最後のページを開いた。
《男を刺した犯人は、》
そこで文章が途切れていた。
残りは真っ白だった。
*
水野は署に連絡しようとした。
しかし、電話がつながらない。
携帯電話も圏外だった。
交番の外へ出ると、町はいつもどおりだった。
パン屋の主人が店先を掃除している。
郵便配達員が自転車を止めている。
猫が一匹、塀の上であくびをしている。
ただし、奇妙なことがひとつあった。
誰も、水野の問いかけに答えない。
「すみません!」
パン屋の主人は掃除を続けた。
「ちょっと!」
郵便配達員は手紙を仕分けている。
水野が肩に触れると、男はぴたりと動きを止めた。
まるで、次の動作を誰かが考えている途中のように。
水野は交番へ駆け戻った。
「あなた、いったい何者なんです?」
男性は困った顔をした。
「それが、私にもわからないんです」
「名前は?」
「書いてありません」
「住所は?」
「書いてありません」
「職業は?」
「たぶん、会社員だと思います。スーツを着ていますから」
水野は椅子に腰を下ろした。
「……つまり、あなたは本に書かれていることしか知らない?」
「そういうことになります」
「では、この町も?」
男性は静かにうなずいた。
*
水野はもう一度、本を開いた。
今度は最初から丁寧に読んだ。
ところどころに、妙な空白があった。
《水野巡査は、 歳だった。》
《交番の所在地は、 町 丁目。》
《男の名前は、 。》
書き忘れだ。
水野はそう思った。
誰かがこの物語を書いている。
しかし、その誰かは、細かい設定を決めないまま書き進めてしまったらしい。
しかも、明日の殺人事件の犯人さえ決めていない。
「ずいぶん無責任な作者ですね」
男性が言った。
「同感です」
水野は本を机に置いた。
「でも、ひとつだけ方法があります」
「何です?」
「犯人が書かれていないなら、事件そのものを起こさなければいい」
「どうやって?」
「明日、時計台へ行かなければいいんです」
男性は首を振った。
「それは無理でしょう」
「なぜ?」
「本には、私が時計台へ行くと書いてあります」
水野は黙った。
確かにそうだった。
*
翌日。
午後三時。
水野は男性とともに、時計台へ向かった。
空はよく晴れていた。
広場には数人の通行人がいる。
時計台の針は、ゆっくりと三時十七分に近づいていた。
「怖いですか」
水野が尋ねた。
「ええ」
男性は答えた。
「でも、少し楽しみでもあります」
「楽しみ?」
「私を殺す犯人が、どんな人なのか」
水野は本を開いた。
文章は、少しずつ増えていた。
《午後三時十五分。男は時計台の下に立っていた。》
《水野巡査は周囲を警戒していた。》
《午後三時十六分。》
次の行は、まだ白かった。
水野は鉛筆を取り出した。
「何をするんです?」
「試してみます」
水野は空白に書き込んだ。
《そのとき、空から巨大な大福餅が落ちてきた。》
何も起こらなかった。
「駄目ですか」
男性が言った。
「どうやら、作者以外には書き足せないようですね」
水野はため息をついた。
そして、ふと気づいた。
「……いや、待てよ」
「どうしました?」
「この本には、あなたが刺されると書いてある」
「はい」
「でも、死ぬとは書いていない」
男性は目を見開いた。
水野は続けた。
「しかも、犯人も決まっていない」
「そうですね」
「つまり、まだ結末は確定していないんです」
時計台の針が動いた。
三時十七分。
その瞬間、男性が胸を押さえた。
「うっ!」
水野は駆け寄った。
男性の胸元から、赤いものが突き出していた。
しかし、それはナイフではなかった。
一本の赤い鉛筆だった。
男性は驚いた顔で鉛筆を抜いた。
血は出ていない。
「……何ですか、これ」
水野は鉛筆を受け取った。
軸には、小さな文字が刻まれていた。
《校正用》
二人は顔を見合わせた。
*
そのとき、本の最後のページに文字が浮かび上がった。
《男を刺した犯人は、作者の誤字であった。》
水野はしばらく黙っていた。
「……誤字?」
男性も黙っていた。
やがて水野が言った。
「どうやら、『刺す』と『差す』を間違えたようですね」
「鉛筆を差す、ですか」
「ええ」
「でも、胸に鉛筆を差すなんて、普通は言いませんよね」
「そこまで考えていなかったんでしょう」
男性は天を仰いだ。
「なんという作者だ」
その瞬間、町全体が小さく揺れた。
*
遠く離れた、とある部屋。
一人の作家が机に向かっていた。
書きかけの原稿を読み返しながら、首をひねっている。
「うーん。犯人を誰にするか決まらないなあ」
作家は鉛筆を置いた。
「まあいいか。今日はここまで」
そして、パソコンを閉じた。
*
町の時計台は、三時十七分を指したまま止まった。
水野巡査も、灰色のスーツの男も、広場の人々も、ぴたりと動きを止めた。
ただ一匹、塀の上の猫だけが動いていた。
猫は時計台から飛び降りると、交番へ向かった。
机の上には、開いたままの本がある。
猫はその上に乗り、前足でページを押さえた。
そして、最後の余白に肉球を押しつけた。
ぽん。
小さな足跡が残った。
すると、そこに新しい一文が現れた。
《なお、この物語の著者は、猫である。》
猫は満足そうに目を細めた。
人間の作家は、まだ知らない。
自分が書いているつもりの物語を、毎晩こっそり書き直している者がいることを。
そして今夜も、机の上には一冊の原稿が残されている。
猫は前足を舐めながら、次の事件を考えていた。
今度は、もう少しまともな犯人を用意してやろう。
もっとも、猫にとってまともな犯人とは、たいてい掃除機のことである。
おしまい
犯人は、まだ書かれていない