最後の一席
最後の一席
間宮余白
その映画館には、客席がひとつ多かった。
座席表には百二十席と書いてあるのに、実際に数えると百二十一席ある。
最後列の右端。
赤いビロード張りの、少し古びた椅子だった。
映画館の支配人は、その椅子を数に入れなかった。
「売り物じゃないからね」
新人の映写技師が理由を尋ねると、支配人はそう答えた。
「じゃあ、誰が座るんです?」
「さあね」
支配人は、答えを知らないようだった。
ただ、毎朝その椅子だけは自分で拭いた。
*
映画館は古かった。
大通りから一本入った路地の奥にあり、看板の電球は三つ切れていた。
上映作品は古い外国映画ばかりで、客はいつも十人ほど。
ときには三人しかいないこともあった。
それでも支配人は、毎日きちんと上映した。
ある雨の日、映写技師は最後列の右端に猫が座っているのを見つけた。
灰色の、ずいぶん年を取った猫だった。
人間のように背もたれに寄りかかり、スクリーンを見ていた。
「支配人、猫がいます」
「そうかい」
「追い出さなくていいんですか?」
「切符を持っていないのかね」
「猫ですよ」
「なら、持っていないだろうね」
支配人は、あまり気にしていなかった。
猫は映画が終わると、誰よりも静かに出ていった。
翌日も来た。
その翌日も。
いつも最後列の右端に座り、エンドロールが終わるまで動かなかった。
*
映写技師は、その猫が少し気になり始めた。
喜劇の日も、悲劇の日も、猫は同じ顔でスクリーンを見ていた。
ただ、一度だけ様子が違った。
古い日本映画を上映した日だった。
物語の終盤、主人公の男が駅のホームで別れた女を見送る場面になると、猫は椅子から降りた。
そして、スクリーンに向かって歩き始めた。
「おい」
映写技師は小声で呼び止めた。
猫は振り返らなかった。
スクリーンのすぐ前まで行くと、そこで座った。
映画の中では、列車がゆっくり動き出していた。
猫は、列車が見えなくなるまで、じっとしていた。
*
その晩、映写技師は支配人に尋ねた。
「あの猫、何なんでしょうね」
支配人は、しばらく考えてから言った。
「昔、ここで働いていた人がいたんだよ」
「誰です?」
「映写技師だ」
「僕の前任者ですか」
「ずっと前のね」
その人は、映画館が開館した年から、三十年以上ここで働いていたという。
無口な人だった。
仕事が終わっても帰らず、最後列の右端に座って、客のいなくなったスクリーンを眺めていた。
「何を見ていたんですか?」
「何も映っていないスクリーンさ」
「変わった人ですね」
「そうだね」
支配人は笑った。
「でも、あの人は映画が好きだった」
映写技師は、猫のことを聞こうとした。
けれど、支配人はもう事務室の電気を消していた。
*
冬になると、客がますます減った。
映画館の経営は苦しくなり、支配人は閉館を決めた。
最後の上映作品は、あの古い日本映画だった。
駅のホームで男と女が別れる映画。
その日は珍しく、客席がいっぱいになった。
昔の常連客や、近所の人たちが集まったのだ。
映写技師は映写室から客席を見下ろした。
最後列の右端に、猫がいた。
いつものように、静かに座っていた。
映画が始まった。
客席は暗くなり、スクリーンに光が満ちた。
列車が動き出す場面になった。
映写技師は、ふと猫の方を見た。
猫は立ち上がらなかった。
ただ、スクリーンを見ていた。
映画が終わり、エンドロールが流れた。
客たちは拍手をした。
支配人が舞台に立ち、短い挨拶をした。
「長い間、ありがとうございました」
それだけだった。
客が帰り、照明がついた。
最後列の右端に、猫はいなかった。
*
翌朝、映写技師は映画館の片づけに来た。
最後列の右端の椅子に、小さな封筒が置かれていた。
宛名はなかった。
中には、一枚の古い写真が入っていた。
若い映写技師が、映写機の前で笑っている写真だった。
裏には、鉛筆で短い言葉が書かれていた。
「最後まで、ありがとう」
映写技師は写真を持って、支配人のところへ行った。
「これ、誰の写真ですか?」
支配人は写真を見て、しばらく黙っていた。
「ああ」
それから、ゆっくり笑った。
「若い頃の私だよ」
映写技師は驚いた。
「じゃあ、昔の映写技師というのは……」
「私だ」
「でも、三十年以上ここで働いていた人がいたって」
「いたよ」
「誰です?」
支配人は答えなかった。
ただ、最後列の右端の椅子を見た。
そこには、赤いビロードの上に、灰色の毛が一本落ちていた。
*
映画館が取り壊される日、支配人は最後列の右端の椅子だけを持ち帰った。
自宅の小さな部屋に置いた。
それから毎晩、椅子の前に古い映写機を据え、壁に映画を映した。
客席は一つ。
切符売り場もない。
ある夜、映画の途中で支配人は眠ってしまった。
目を覚ますと、椅子の上に灰色の猫が座っていた。
猫はスクリーンを見ていた。
支配人は何も言わなかった。
映画が終わるまで、二人でそこにいた。
それから支配人は、毎晩映画を上映した。
猫が来る日も、来ない日も。
ある晩、映写機のランプが切れた。
壁は真っ白になった。
支配人は椅子に座り、しばらくその壁を眺めていた。
やがて、隣に猫が座った。
何も映っていない壁を、二人で見ていた。
支配人は、小さく笑った。
「いい映画だったね」
猫は返事をしなかった。
ただ、ゆっくり目を閉じた。
最後の一席