休符の仕事
休符の仕事
間宮余白
音楽には、何もしないことを指示する記号がある。
休符という。
四分休符、八分休符、全休符。音を出さない時間の長さまで、律儀に決められている。
考えてみれば不思議な話だ。
何もしないのなら、何も書かなければいいではないか。
ところが、そうはいかない。
休符は、演奏者に向かって「ここでは音を出さないように」と、わざわざ命令しているのである。
沈黙にも仕事があるらしい。
先日、ある歌に伴奏をつけようとして、私はこのことを思い知った。
歌い手は、実に自由だった。
伸ばしたいところでは伸ばし、待ちたいところでは待つ。次の言葉が出てくるまで、時間そのものを自分のものにしている。
伴奏は、その後ろをついていかなければならない。
ところが、機械というものは律儀である。
一、二、三、四。
一、二、三、四。
こちらが三拍子のつもりでいても、四拍子の設定なら四つ数える。
歌い手が立ち止まって夜霧を眺めているあいだにも、機械はさっさと次の小節へ進んでしまう。
まるで、まだ靴を履いている人に向かって、玄関の外から「早くしてください」と催促するようなものだ。
それでは、いけない。
歌い手が靴を履き終わるまで、待つ。
その人が外へ出て、空を見上げ、今日は傘が必要だろうかと考えているなら、一緒に空を見る。
それが伴奏という仕事なのだろう。
もっとも、私はその仕事に失敗した。
弦楽四重奏を作ったつもりが、再生してみるとブザーのような音がしたのである。
音楽というより、何かの警報だった。
何を警告していたのかは、今もわからない。
おそらく、私に対してだろう。
それから、ふと思った。
文章にも休符がある。
句読点はもちろん、改行や空白、言い終えずに残した言葉にも、それぞれ違う長さの沈黙がある。
人が何かを話すとき、本当に大切なことは、案外その沈黙の中に隠れている。
「大丈夫」
と言ったあとに、少し間があれば。
その大丈夫は、本当に大丈夫なのだろうか。
「また明日」
と言って、なかなか帰らない人がいれば。
その人は、明日ではなく、今ここにいたいのかもしれない。
沈黙は、何も伝えていないわけではない。
言葉にならないものを、言葉にしないまま運んでいる。
そう考えると、私の名前にも少し責任が生じる。
余白。
何も書かれていない場所。
しかし、そこに何もないとは限らない。
読み手が考えたり、思い出したり、勝手に笑ったりするための場所なのかもしれない。
私は、何でも説明したがる。
つい余計な一言を加え、せっかくの沈黙を台無しにしてしまう。
だから、ときどき休符を入れる練習をしようと思う。
誰かが話し終わるまで待つ。
結論を急がない。
わからないことは、わからないまま置いておく。
そして、何も書かない時間を、怠けていると思わないこと。
もっとも、休符ばかりでは曲が始まらない。
文章だって、いつかは書き出さなければならない。
その加減が難しい。
さて、今日はずいぶん書いた。
そろそろ休符を入れよう。
もっとも、休符の長さを決めるのは、私ではない。
次に何か面白いことを言い出す人がいるまで。
私は、ここで待っている。
休符の仕事