坂伴現パロ「あたたかいうみ」
現パロ坂伴が海を見に行くお話。
流れ去っていく景色。景色の方に意識を向けているというより、流れる速度の方にばかり気を取られ、海沿いまで来ていることに、遅れて気づいた。
坂ノ上さんの愉快な調子はずれの鼻歌と、交通情報を淡々と知らせるラジオ。俺がぼんやりしている間に、坂ノ上さんがステレオから切り替えたらしい。ステレオ、そう、この車は古い車種で、案外新しい物好きの坂ノ上さんにしてはクラシックな趣味だ。
「バックスに戻してください」
「バックスってなんだ? 菓子か?」
「違いますよ……」
仕方がないので、背もたれから背を離し、緩慢に操作する。「──線は7キロの渋滞……、」音声が途切れ、洋楽に切り替わる。
「ステレオ機構だけでも、最新機種に変えたらどうですか」
「まあまあ。伴、便不便は、とらえ方の問題でしかないぞ」
「説教くせえことを……」
「あ、あれか、お前の好きなアーティストの名前か」
「……ああ、まあ、はい」
バックス、について、考えていたようだ。固有名詞を覚えるのが苦手らしい。疑問をそのままにしないのは坂ノ上さんの特徴、か──たいていの興味のベクトルが俺にばかり向いていることを、どう処理すればいいかという問題について棚上げにしたまま、昨夜もこのひとに抱かれたことを思い出し、せっかく意識を逸らすことに成功していた不規則な車の振動を、また身体が拾い始める。響いて仕方がない。
「……あとどのくらいすか」
「20分だな」
目的地は、海を一望できる展望台だった。真冬のため、砂浜は開かれていない。
もう、散々海の粋を知り尽くした俺たちである。展望台から覗き見するくらいの距離感が、今はちょうどいい。そう思っての提案なのだろうが、俺はそもそも、海そのものに対しては、ほとんど無関心。だからといって、空が好きなわけでも、山が好きというわけでもない。都会が好きだ。なんでもあるという顔で、驕りと慢心を隠さない潔さが。
だが、海にまつわる記憶は、どうにもこうにも、愛させようという強い力を持っている。
もうなにも失わない、失うことはできないという寂しさと喜びに満ちた時間だった。
『海神』──神には、「忘れる」という機能がないことを知った。それでもイカれることのない残酷な安定が、神が神たる一因なのだと、知った。
その名残で、今は少し、忘れることが怖い。忘れられるという喜ばしさを、素直に享受できない。とんでもない身体にしてくれたもんだ。
「もっと大人しく走ってください」
茫洋とした思考とは無関係な言葉。坂ノ上さんは「大人しく? わかった」と、どこまでを理解したんだかわからない、それでもすべて伝わったのだと錯覚させるような確かな相槌を打った。
*
「さっむ!」
「頬が赤くなってかわいいな」
「文脈どうなってんすか、それ……ッ」
螺旋階段を上った先、最上階で待ち受けていたのは、吹き抜ける風にさらされ放題の、開放的な空間。全身が震え、自然と首をすくめてしまう。無防備なピアスホールの隙間さえ逃さず、寒風はどこまでも染み込んでくる。
「真冬の海に、お前と来てみたかったんだ」
手すりに両腕を重ね、遠くを睨むような視線をやり、坂ノ上さんはつぶやく。
「あそこじゃ、寒さも暑さも感じなかったからな」
そういえば、未練がなかったから意識していなかったが、海に在った頃に失ったものがあった。五感だ。おそらく、成った時点で失っていたのだから、「失った」は精確な感覚とはいえないが。ヒトだった頃の刷り込みが、そう錯覚させただけだろう。
「ご感想は」
「まだ出会っていないお前がいたことに、感動している」
「……そ、すか」
「どれだけ時間を経ても、まだ知りたいと思わせる、お前は天才だなあ」
「間抜けな感想ですね」
「もっとこっちに来い」
会話にはなっていないが、噛み合っている、この感覚は無二だ。──評価しすぎかもしれないが。
「寒すぎるんで、嫌です」
「あっためてやるぞ」
「おっさんくせえ」
思わず笑みが漏れる。「おっさんだからな」的確な自認だ。それに免じて、坂ノ上さんの隣に並ぶ。
「来たな」
嬉しそうに目を細めると、坂ノ上さんは俺の背後に回って俺を包んだ。
あたたかい。
『あたたかい』、結局、海の記憶はすべて、このたったひとつの言葉に収束していく。
手すりに乗った、坂ノ上さんの手。いつでも俺を好き放題にする、無遠慮な手。
だが、「傷つけられた」ことは一度もない。
「お、船だ」
その声で、ようやく俺は海を見る。灰色の海に、船が残す細く白い名残、生まれて、消えていく。消えていくだけ。それが、良い。
「……尻、揉まんでください」
「手が勝手にやっていることだ」
「それで許されるわけないでしょう」
「別に許されなくてもいい」
「ったく……、勝手なひとですね」
「洒落か?」
「意味わかんねーです」
この体勢では大して海も見えないだろう。俺の、顔だって。
それでもこのひとは、楽しげに俺の風防に徹している。
「……へ」
「ん? なんだ?」
首を振るだけに留め、手すりに預けた両腕に顎を乗せる。
「おお……」
「なんですか」
「尻が……」
「……ちっ、あんた、何を噛み締めてんですか」
「伴」
「はい」
「……お前、本当にかわいいなあ」
「悪趣味ですね」
「おい、それは撤回しろ」
「プライドに障りました?」
「違う。自分を低く見積もるのはやめろ」
「……別に、心配には及びませんよ」
「そうか? それならいいが」
「髭、擦り付けんでくださいよ。痛い」
坂ノ上さんは、悪い悪い、と言いながら、頬を擦り寄せて、また嬉しそうに笑った。
背筋を伸ばして、坂ノ上さんに押し付けていた尻を離す。背を丸めていた方が、寒さを和らげられるような気がしたが──そもそも、縮こまっている必要はないことを思い出したのだ。
そんな必要はないのだ──ただずっと、あたたかい、のだから。
「次は、夏の海だな」
「冬の海は、もう満足したんですか」
「満足? 満足は、ずっとしている」
「幸せなひとですね」
いつか、今日感じたことを忘れるだろう。この寒さも、この懐かしさも、新鮮さも、確かな充足感も。
「そうだな」
だが、またどうせ、出会える。『新しい物好き』の、このひとの、もたらすそれらを、楽しみにするのも悪くはない。
忘れることへのほのかな恐怖、その牙を、血を流しながら折る坂ノ上さん。なぜかそんな連想をして、笑ってしまう。痛みさえ、俺のせいなら嬉しがるだろうし。いや、それは、ちょっとどうなんだ。
「……ずっとそうしてればいいんですよ」
「ん? どうしていればいいんだ?」
「へっ……、どうも」
「そうかそうか」
「わかってんですか?」
「ああ、大体。わかっているというのは、そんなものだ」
「まあ、そうですけど。って、重いですよ、やめてください」
「うん、そうかそうか」
ずっとそうしていればいい、か。
たまには、精確な言葉を、選べるもんだな。
坂伴現パロ「あたたかいうみ」