三つの紫に塗れる
和風ダークファンタジーです。
雨のそぼ降る六月
「私は、美しいもののためなら命など惜しくないと思っていた。」
画家である私は、かねてより噂に聞いていた寂れた旧家の日本庭園、その片隅にある「三の池」の畔に立っていた。
地元には古くから不気味な言伝えがある。
『あの池に咲く紫の花々を、同時に愛でてはならない』
それは、かつて狂気と美貌の果てに命を落とした。ある名家の三姉妹の化身だからだと。
だが、絵の具の匂いに脳を焼かれた私にとって、その警告は極上の絵の具(モチーフ)の誘い文句に過ぎなかった。
私はキャンバスを立て筆を握る。
すべては、この世のものとは思えぬ「至高の紫」を描き出すためだった。
第一章:初夏、乾いた風と誇り
最初に咲いたのは、五月の風に揺れる「菖蒲」だった。
背が高く、乾いた土の上に凛として佇むその姿はまるで誰にも屈しない気高い令嬢のようだった。
「なるほど、これが長女か」
私は夢中で筆を走らせた。
しかし、描き進めるうちに奇妙な感覚に襲われる。
誰もいないはずの背後に、冷ややかな視線を感じるのだ。
格式や血筋を重んじ、一族の没落を恐れるあまり狂気に囚われたという長女の魂。
耳の奥で、ジョキ、ジョキと髪を切るはさみの音が聞こえた気がした。
頭がぼーっとする。
現実とキャンバスの境界が曖昧になっていく。
それでも私は、取り憑かれたように黄色い瞳のような模様を宿した菖蒲の紫を塗り重ねていった。
第二章:梅雨、水底の涙
やがて季節は梅雨へと移り、浅い水の中に「杜若」が咲き始めた。
その花弁は、吸い込まれそうなほどに深く、青みを帯びた紫。
まるで、冷え切った水底に沈む怨念の色そのものだった。
杜若が咲き誇るにつれ、池の周囲からは一切の虫の声が消え、不自然なほどの静寂が満ちていく。
ずぶ濡れになりながらキャンバスに向かう私の耳に、雨音に混じってかすかな女のすすり泣きのような声が……
『どうして……私を愛してくれなかったの……』
姉に許婚を奪われ、妹にさえ蔑まれたという、次女の無念が脳裏をよぎる。
体の芯まで凍りつくような冷気が足元から這い上がってくる。
逃げなければとそう本能が告げているのに、私の指先はその哀しい青紫を求めることを止められなかった。
第三章:盛夏、あざ笑うドレス
そしてついに、梅雨の盛りに「花菖蒲」が大輪の花を開いた。
姉たちの確執を冷ややかに見つめ、最後にすべてをあざ笑うかのように咲き誇る――まるで狡知に長けた末娘のように。
彼女の纏う紫は、絞りや覆輪が混ざり合い、信じられないほど妖艶で華やかだった。
菖蒲、杜若、そして花菖蒲。
三つの紫が奇跡的に池を埋め尽くしたその日、私の理性を繋ぎ止めていた鎖は、音を立てて弾け飛んだ。
「素晴らしい……!これだ、これこそが私が追い求めた美だ!」
胸の奥から湧き上がる抑えきれない嫉妬と虚栄心。
もっと美しくもっと鮮やかに、私は狂ったように筆を動かした。
目の前の絶景に目を奪われ、自分の影が四つに増えていることにも気づかずに……。
終幕
キャンバスに向かう私の背後にそっくりな顔をした三人の美しい女が立っていた。
彼女たちは互いの肩に手をかけ、妖しく微笑みながら私を見下ろしている。
長女の菖蒲が、私の正気を静かに刈り取る。
次女の杜若が、耳元で甘く囁き、水辺へと誘う。
そして三女の花菖蒲だけが、微笑みながら、絹のような手で私の背を押した。
「さあ、あなたも私たちの紫に染まりなさい」
翌朝、雨の上がる三の池には、ただ一枚の描きかけのキャンバスと水面にぽつんと浮かぶ男の帽子だけが残されていた。
不思議なことに、昨日まで絵の具だったはずのキャンバスの紫は、まるで生き物のようにじわりと滲み、池の水へと溶け出していく。
池の底では、昨日よりもいっそう深く……鮮やかな三色の紫が静かに身を揺らしていた。
三つの紫に塗れる
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