ネズミ
ギィ…バタン
背後で扉の閉まる音。無いとは思うが、念のため他の誰かが入って来ないように振り返って鍵を掛けた。一応奴の隠していた鍵でこの部屋には侵入したのだが、傍から見れば私はただの不法侵入者にしか見えないだろう。…見に来るものが居るのならば、の話だが。
再び狭いリビングに目を向ければ、玄関を入って真正面にあるネズミのような男の絵と目が合う。灰色のコートを羽織り、ロッキングチェアに深く腰掛ける赤い目の男だ。周囲は暗く、闇に紛れそうな中で男の長くて白い前歯だけが不気味に光っている。
これは奴が唯一持っていた絵画だ。私は「趣味が悪い」と言ってやったのだが、まだ捨てていなかったようだ。題名は何だったか。覚えていないので、「ネズミ男」と安直な名前で呼んでおくことにしよう。
私は「ネズミ男」と目を合わせながら、一歩だけ進む。半開きのその目からは生気が宿っているようには感じられないが、そこにはどことなく奴のような、何か狂気じみた熱を感じた。
…そういえば、そのことについては奴も触れてはいた。「コイツ、オレと気が合うんじゃねえかな」と、よく笑っては顔の部分を殴りつけていた。今にして思えば、どうしてそれでこの絵が破れたりしなかったのかが不思議だ。今も傷一つ付いていない。
なんとなく不気味に思い、私はその絵から目をそらした。視界の端を、薄灰色の汚れた何かが掠めていった。
そろそろ本格的に室内を探索しようと、一つ深呼吸する。奴の部屋は小さなボロアパートの一室にあるが、アパートの中では最も大きい部屋である。奴はこのアパートの住人の中で、一番の金持ちだったのである。
私にはよく金をせびっていたので、全くそんなイメージは無いが、このアパートの住人には常に大きい態度を取っていたせいで、よく問題になっていたと、この間アパートの大家から聞いた。いわゆるトラブルメーカーとか言われる人種だったので、大家は今回の件について「本当に残念です」と語っておきながら、厄介者が消えてどこか嬉しそうだった。
そんな私の友人の部屋は、それでも一般の家庭よりは粗末で、貧しさを感じさせる。アパート一番の金持ちと自称していたが、実際の奴はこんなものなのである。
私はそれを知っていたが、あえてこのアパートの人々には何も言わなかった。おそらく住人達も皆、それを知っていただろう。奴の自尊心を傷付けずにいるなら、黙っているのが最適解だっただけだ。
私は、「ネズミ男」を見ないようにリビングを見回す。歩けば床がギシギシと鳴り、今にも抜け落ちてしまうのではと内心かなりヒヤヒヤした。真下と両隣の部屋には間違いなく音が筒抜けだが、真下の住人は一昨日に孤独死し、両隣は奴のせいで引っ越ししたと聞いているので、何も問題は無い。
ギシギシと音を立てながらリビングの真ん中へ行くと、そこで初めて床の至る所に黒いシミが付いていることに気付いた。奴の部屋は基本的にゴミ袋で埋まっているので、それにばかり目が行って床の様子などには意識が向かない。かつこの部屋はボロアパートの一室にあるので、これまでの汚れだろうと割り切ることも出来た。
しかし、このシミは違う。まだ奴がいる時に何度もここへ来たが、こんなものは無かった。
私はそれを妙に確信していて、なぜか重要なことのように感じていた。そう、奴が失踪したことと関係があるはずだと、本気でそんな気がしたのだ。
黒いシミに気が付くと、その他にも違和感が生まれてくる。たとえばそれは、普段より明らかに多いゴミ袋の量だったり、そこへ近づくと分かる腐敗臭だったり、異様に大量に飛び回るハエだったりした。
…もうここまで来ると、ゴミ袋に何かの死骸が入っているのだろうと察しは付いたが、それらを開けて確かめてみる気にはなれなかった。
一体、奴はここで何をしていたんだ?
徐々にそんな疑問が胸の内に湧き上がり始める。奴はここに私を上げる時、よく「ネズミやゴキブリ共がウザいったらありゃしねえ」とぼやいてはいたが、それでも一匹だってそれらを殺すことはしなかった。
それが奴なりの美徳なのか何なのか、「家族は殺せねえもんだろ?」と半笑いで言っていた。常にアパートの住人に威張り散らしている姿とは遠くかけ離れているので、嘘ではないだろうかと思う。が、確かに奴がネズミやゴキブリを殺している場面は、少なくとも私の目の前では一度だって起こらなかった。
長年の付き合いであった私ですら、よく分からないことが多い奴だった、と思う。だからこそ、アパートの住人達や大家とトラブルを起こしながらも、奴は彼らから追い出されずに済んだのかもしれない。どこか人を引き付ける魅力があるのだ、奴は。
しばらくゴミ袋を眺めた後、開けて確認するのは最後にしようと、私は視線をそらした。
その途端に再び「ネズミ男」と目が合い、ドキリとする。別に、もう一度その絵を見た時に描かれた人物の姿勢や表情が変化しているとか、そもそも絵自体が変化しているとか、そういった特別なことなど何一つ起こりはしていない。ただただ不意打ちを食らったように、暗く赤い瞳に驚かされ、同時に私は自分が抱く謎の恐怖心を自覚した。
なぜだろうか。奴がいる時はそうではなかったはずだが、この部屋に居るとどうしてか落ち着かない感じがするのだ。それは、ゾッとするような出来事が起こった時の、あの独特な緊張感と等しく、しかしどこかそうでないような気もした。
「おい、ヘンリー」
気を紛らわすように、私は奴の名前を呼ぶ。人づてに聞いた話が本当ならば奴は失踪し、この部屋には居ないので、当然返事など来るはずも無い。しかし、私はそれを変に期待して周囲を見回した。
「ヘンリー。居るのか、ヘンリー!」
私の声は微妙に反響して、狭いアパートの一室に染みこんでいく。辺りにはホコリ臭い空気とじめじめした冷気だけが漂っていた。予想通りの結果が訪れたが、どうしても奴がここに居る気がしてならなかった。
一分ほど、じっと耳を澄ませた。聞こえたのは、未だ止まっていない壁掛け時計の秒針を刻む音、ネズミやゴキブリがそこら中を駆け回って立てる足音、隙間風のヒュウヒュウと言う音。アパートのどこかから響いてくる誰かの怒鳴り声ぐらいだ。奴の声らしき音は一度として聞こえることは無かった。
…そうだ、それが当たり前なのだ。今になってようやく、そう納得した。
奴はもういない。どこへ行ったのかは知らないが、消えてしまったのだ。アパートの住人の言葉を借りれば、“忽然と、まるで霧のように”。
ある夜に奴の大きな悲鳴が建物全体に轟いてそれっきり、らしい。いや、“悲鳴”ではなく“雄叫び”と述べる者も居た。“狂った笑い声”なのではないかと言う者もいれば、ひたすら意味不明なことを叫んでいたと言う者も。どれが本当なのかは判断がつかないが、少なくとも、同じ夜に奴の叫び声が聞こえたのというのは、全員共通のようだ。
一体、奴の身に何が起こったというのか。誰もそれを知らないが、深く考えようとはしなかった。夜逃げか何かだと折り合いをつけたらしい。しかし、奴がそんなことをするのかと言えば、私にとっては甚だ疑問だったのだ。あんなに己の金持ち具合をアピールするような高いプライドの持ち主が、それを打ち捨てて逃げる真似をするだろうか。むしろその場に縋りついて、逃げるよりももっと悲惨な地獄に落ちそうな気もするが。
だから私はここへ来たのだ。事の真相を探るために、奴の自宅を訪ね、奴を見つけ出すことにした。しかし正直なところ、それは言いようのない義務感にまみれていて、この行動にはある意味私の意思は伴っていないのだった。
導かれるようにしてこの部屋に来ていた。私は、奴に呼ばれたのかもしれない。
私は再び歩き始めると、ワンルームの片隅にある硬い布団の前まで辿り着く。ベッドさえ無いこの部屋で、奴はこの上で毎日夜を明かしたのだろう。私はその光景を実際に見たことは無いが、目を閉じればそれがまざまざと浮かび上がってくるような気がした。
決して衛生的とは言えない…むしろ不潔とさえ言えるようなこの場所で、隙間風や雨漏りに怯えながら横になるのだ。寒い冬になっても、薄くボロボロの汚れたシーツでどうにか凌ぐしかなく、常に腹が鳴って仕方が無い。
…硬い布団の上がどんなふうなのかを私は知らないが、おそらくこれ以上ないほどに惨めなのだろう。
失踪したあの夜、奴は気が狂ってしまったのかもしれない。ふと、そんな考えが脳裏をよぎる。奴の底無しの自尊心が己の惨めさに耐えきれなくなって、正気を保てなくなった。あの日轟いた悲鳴は、そんな奴の心からの叫びだったのではないか。
いや、しかしそれでは奴はどうやって失踪したのだろうか。誰もが知っている通り、このボロアパートはどこも歩けば床が鳴り、走ればそこが抜けるのではと思うほどにひどく軋めく。どこかへ逃げ出そうとするならば、誰かが必ず音を聞きつけるだろう。だが、住人の話によると、奴の悲鳴だけが聞こえてそれ以外の物音は何も無かったというのだ。
奴はどこへ消えたのか。住人の話が嘘でないのならば、この部屋にいるのではないか。
私はしゃがみ込むと、手袋を付けた手でシーツを布団から引き剥がした。その途端に灰色の薄汚いネズミが一匹、私の目の前に現れたかと思うと慌てた様子で逃げていった。ソレの逃げた先を目で追っていくと、他より一段とゴミに埋もれたタンスの中へと消えていった。そこがネズミの本来の棲み処なのだろうか。奴がいる時は、確か奴の衣服が入っていたと思うが。…といっても、奴からそう聞いただけで、実際にその中を見せてもらったことは無いが。当時からあの雑菌まみれの汚い生き物の根城となっていた…という可能性も、捨てられないのではないだろうか。
私は小さく息を吐き、ネズミを追った目を布団に戻して…ギョッとした。
不衛生に汚れた灰色の布団が、赤黒い液体でベッタリと濡れていた。漂ってくる鉄のニオイでおそらくこれは血液だと予想し、私は少しの間呆然とそれを見つめていた。
床の黒いシミを見た時も思ったことだが、奴はこの部屋で何を行っていたのだろう。状況から見るに、何者かを殺傷したのか。あるいは殺され袋に詰められたのか。殺されるとまではいかなくても、血が出るような何かがここで行われていたのは間違いない。
悲鳴を最後に消えた友人。部屋に残された大量の血痕。…何かを感じないわけにはいかず、私は段々と恐ろしくなってきていた。何かがおかしい。奴はどこへ行った? この異様な空間は何だ?
ふと視線を感じる。振り返れば、そこにタンスがあった。先程ネズミが消えていった、あのタンスだ。気のせいかと思ったが、背を向ければ強い視線を確かに感じ、気のせいではないのだと思った。
一瞬、得体の知れない何かがそこに潜んでいるのではと足がすくみ、いや、今この場に居るのは奴の可能性が高いだろうと考え直す。つまり、あのタンスを開けるべきだ。
「ヘンリー、そこか?」
私はわずかに空いたタンスの扉に声を掛けながら、その隙間に指を差し込む。ゆっくりと引っ張ると、ギィィ…と音を立てながら中の様子をさらけ出した。
…奴はいない。代わりに、積もった服の上にネズミが一匹、私を見上げる形で静止していた。それは毛布の中にいたあのネズミだろう。この家で見かけたような他のネズミの俊敏さは無く、小太りでどこか狂気じみたものを感じる目をしたソレ。なんとなく奴を連想し、私はゾッとした。…いや、そんなはずは無い。
扉を閉める。隙間など作らないように力強く締め、あのネズミを見ないようにした。きっと何かの勘違いだ。そうに違いない。ネズミと奴が同一のものであるはずが無いのだから。
そうして再びそこから目をそらし、デジャブを感じる暇も無く私は「ネズミ男」と目が合った。
ロッキングチェアに深く腰掛け、不気味に白い歯を光らせている赤い目の男。この時にようやく気付いたのだが、私が「ネズミ男」と呼ぶこの絵の人物は死んでいた。口は半開きで、ガリガリに痩せ細った手は黒い血のあふれる腹に力無く置かれている。撃たれたのか刺されたのか、それは定かではないが、死因が腹の傷であることは疑いようも無い。
なぜ今さらそんなことに気付いてしまったのかは私にも分からないが、その事実が認識されたことによって私の中の怖気はなおさら増した。半分閉じかけたまぶたから覗く赤い目が…あの生気の宿らない狂気的な目が、常に私を見ている気がするのだ。
死んでいるくせに死んでいないように振る舞う「ネズミ男」は、私の中に潜む醜くみすぼらしい感情をさらに醜く膨れ上がらせ、呑み込もうとしてくる。それはまさにネズミのように不衛生で、病気的で、かつ際限など無いグロテスクな“何か”であった。それが私の内面を引っ掻き回しているような、なんとも最悪な気分にさせられる。…とにもかくにも、死んでいる「ネズミ男」は、とんでもなく醜悪な魔力を秘めている忌々しい絵画であることに間違いない。
私はその不気味な男を見たくないがために、一旦それを壁から外しておくことにした。しかし、壁にぴったり張り付いてしまっているように、全く動かせない。無理矢理引っ張ろうが、憤然と殴りつけようが、汚い額縁に入れられたこの絵はびくともせずにその場に固定され続けた。
気味が悪い。それでも未だこの部屋から逃げ出す気になれないのは、私がおかしくなっているからだろうか。いや、おかしいのはこの部屋だ。そしてついに失踪するまでここを離れなかった、あの友人がおかしいのだ。
そうだ。こんな場所に居続けていては、誰だっておかしくもなるだろう。歩くたびにやかましく軋むシミだらけの床、鼻をつく悪臭の漂う…さらにはホコリっぽさも感じる不潔な空気、そこかしこをネズミが徘徊していて、硬く薄い布切れの上で夜をしのがねばならない、まさにゴミ溜まりのような不衛生な空間。おまけに四六時中こちらを見つめ続ける、死体の絵ときた。
ああそうか、とふと腑に落ちる。やはり奴がキチガイであったから、ボロアパートの住人達は奴に近寄らず、かえって放置する形になったのだろう。奴がこの部屋から追い出されなかった理由は、たったそれだけのことだったのだ。…だからどうするかといった話ではないが、それによって私の腹の底に溜まっていた疑問は一つ解消されることとなった。
しかし、肝心の「奴が消えた理由」や「どうやって消えたか」などの謎は依然そのまま存在し続け、私は結局この薄暗い部屋の中へと意識を戻される。時計の音は未だにカチ、カチと規則正しいリズムを刻みながら、現在はもうすぐ暗くなる時刻なのだと私に知らせてくる。
その音に混じって、かすかにネズミが柱を削り取る音が聞こえた気がした。
外せないならば仕方が無い。私は出来るだけ「ネズミ男」と目を合わせないように心がけようと決め、とうとうこの淀んだ空気の中心である無数のゴミ袋を開けてみることにした。
奴の住むこのワンルームには物が多いように見えて、その大半を占めるゴミを取っ払えば案外何も無い。壊れかけのクローゼットと、みじめな気分にさせてくれる布団とシーツと、…例の死んだ男の絵ぐらいか。
家賃もまともに払えていないのか、水道やガスはもうずいぶん前から止まっていた。「あの大家はケチでクソだ」と奴は散々罵っていたのを覚えている。その後に「いつかこの手でぶち殺してやりてぇぜ」と卑劣に笑っていたことも。その声はやけに大きく響き、下手すればボロアパートの住民全員に聞こえていたのではないかと思う。半ば殺害予告に近かったはずだ。
しかし、奴がそれを果たすより先に、奴は忽然と姿を消した。あれだけ騒ぎを起こしておいて、呆気ない終わり方だと私には感じられた。それが気味悪かったのか、このアパートの住民も大家も、嫌われ者の空き巣でさえ、この部屋にはこれまで手を付けることは無かった。それは荒らされた形跡の無い、元々荒れ果てた陰鬱なワンルームが物語っている。
だから、奴の居場所を初めて荒らす人物は、私であるはずだ。奴の友であるはずの私にこういうことをされるとは、奴はとんでもなく不運である。それも、これまでの行いの結果だなどと言われてしまえば、それまでなのだが。
とにもかくにも、今はこの異臭が溢れるゴミ袋である。中身は見えないように黒い袋となっており、試しに持ち上げてみれば、液体と固体の両方が入っている独特な揺れ方をした。他の袋のうち、穴が開き中が漏れ出しているものを見れば、その液体が何かの血であることは確実だ。おそらく私が持ち上げた袋も、そうでない穴無し袋も、その全てに同じようなものが入っているのだろう。
持っていたものを再び床の上に下ろし、開けようと決意したにもかかわらず、私はしばらくやはり止めようかと迷っていた。中身が何であれ、必ず恐ろしくてグロテスクな“ゴミ”がそこに入っているのをほぼ確信していたからだ。確信が外れたとしても、絶対に良からぬものはそこにある。そうでないなら、この悪臭は何だと言うのか。
ようやく覚悟が出来、それが揺らがないうちにポケットに入っている小さいハサミで袋を切り裂く。途端にどろりと赤黒い液体があふれ出し、それと同時に大量の小さな毛玉が…拳ほどの大きさの毛玉が流れてきた。
「うぇっ」と小さく声が漏れた。私の中で“悪臭”として留めていたこの空気が、今まさに“死臭”へと置き換えられてしまったことへの吐き気、怖気、驚愕である。奴が今まで何をしていたのかを目の当たりにし、私は言い知れない嫌悪感と不安を覚えた。
出てきたものは全て、ネズミの死骸だったのだ。これをいつから溜めていたのかは分からないが、この大量の袋を見る限りだと、きっと数百ものネズミが奴の被害に遭ったのだろう。
奴は言わなかったか? 「家族は殺せねぇもんだろ?」と。結局は耐えきれずに、殺してしまったということか。一度は「家族」と称した、このみすぼらしくて不潔な生き物を、だ。しかしそれならば、これほど部屋を埋め尽くすまで、なぜ黒い袋に死骸を詰めて集めていたのか。普通ならば、ここまで死臭を放つ前に捨ててしまえば良いのだ。放置していたところで、疫病の根源となるだけなのだから。
腐りかけのネズミ達を前にして、私はよろけるように後ずさる。この部屋を逃げ出したい気持ちは一層強まっていた。こんな病巣のような場所に居ては、精神どころか身体すらも蝕まれていくだろう。もしかしたら、今ここに居る私も危ないかもしれない。そう考えると、もう一秒だってこんなところになど居たくなかった。
しかし、そこで私は身を強張らせる。視線を感じたのだ。私以外に居るはずも無い何者かの、強い視線である。
腹の底から込み上げる恐怖を無視して、私は視線の正体を確かめることにした。自身に燻ぶる様々な感情よりも、散々この部屋を引っ掻き回しておいて、結局何も分からないまま帰るなど、それこそ身勝手な気がした。奴の行方も全く掴めていないのに、帰るのは許されないのではないか、と。
恐る恐る振り返る。まず最初に目に入ったのはやはりあの不気味な「ネズミ男」で、その狂気を孕んだ赤い目にどうしても意識が向きそうになる。だが、違う。視線はコレからではない。
視界の下の方で、何かが蠢いた。そちらに焦点を合わせれば、それはネズミだった。薄汚く、動きの鈍い、小太りなあのネズミだ。ソレの背後にある「ネズミ男」と同様の、狂気性を物語る目。その目が、私をじっと見つめている。
なぜかは分からないが、鳥肌が立った。本来ならば死んでいるはずの「ネズミ男」が、今、生きた姿で私の目の前に現れている気がしたからかもしれなかった。それか単純に、雑菌にまみれた不衛生の象徴のような存在が、私を気色の悪い目で見ているからかもしれない。いずれにせよ、私はこのネズミにとてつもないおぞましさを感じた。自分でも驚くほどに、目の前の小汚い生物が気持ち悪かった。
「なんだ、お前は」
込み上げる吐き気をこらえて、気を紛らわすようにそう尋ねた。喋れるはずも無いネズミに話しかけるなど正気の沙汰ではないが、事実、私は正気を失いつつあるのだと頭の片隅でうっすらと理解していた。
近寄ってしゃがみ込んでみる。しかし、そのネズミは一切動じずただひたすらに私を見つめ続けた。薄気味悪い程に静止し、まるでこのネズミも彫像の一種であるかのような錯覚に囚われそうになる。しかし、時たま動くヒゲや腹が、この物体を生き物であると示していた。
「なんだ、お前は」
もう一度、呟くように言った。返ってくるのは規則正しく現実を刻む時計の音と、アパートのどこか遠くで聞こえる甲高い悲鳴ぐらいだ。目の前のネズミは鳴き声すらも発さず静止している。今この場で生き物のように振る舞っているのは、私だけのような気がした。
それはすなわち、この部屋に奴はいないということだ。分かりきっていたはずの結論を、今さら改めてまとめ直すことにどれほどの意味があるのかは分からないが、私にはなぜかそれが大事なことであるかのように感じられた。だからあえてもう一度考えてみる。…ここに私の友など最初からいなかったのだ。この陰鬱で不潔な狂った部屋の中に、煙のように溶けて消えてしまった。奇妙だが、そうとしか言えないのである。
ネズミは依然として、私の眼前に直立している。絵の男と同じ目をして、まるで私の前に立ちふさがるように、けれどその小ささでは何も意味を見出せない身体で立っている。
ふと、私の中に苛立ちが生じた。導かれるようにボロアパートの一室に立っていたとはいえ、私にこんなことをしてまで友の失踪の原因を探る義務など、本来ならば無いはずなのだ。…それが、なぜ今こんなことになっている? 奴は消えたのだから、気に掛ける必要などないではないか。
私は既におかしくなっているのだろう。この部屋のどこまでも暗い雰囲気に当てられて、情緒までが息苦しいもので満たされていく。ここに来たすべての責任を、気が付けば奴に転嫁しているのだった。
そうして私はようやく認めた。己が既に狂ってしまっていることに。ただのちっぽけなネズミにひたすら心を搔き乱され、ただの死体の絵に「見られている」などと妄言を吐き、そもそも奴がいないことなど明白な部屋で永遠に奴の姿を探し続ける…もうここまで来て、自身を狂っていないなどと言い切ることは難しいだろう。絶対におかしいはずだ。この脅迫的な部屋の前に頭がやられて、私は今、奴のように“キチガイ”が感染っているのだ。
そう気付いたなら、私はすぐに一切の感情を切り捨てて、それらごと全てを置き捨ててこのボロアパートを立ち去るべきである。
だから私は立ち上がった。今すぐこの恐怖だけを胸にして、かつその本能だけに従って、奴の消えた薄汚いワンルームから逃げるべく。それが私にできる唯一の行動のような気がした。
そしていざ動き出そうとしたその瞬間である。私は短い悲鳴を上げることになった。
別に、例の「ネズミ男」の恐怖にとうとう耐えきれなくなったとか、奴かその他の例が現れたとか、そんなくだらないことではない。今まで散々「ネズミ男」に怯えてきた私が言うのも変かもしれないが、私は心霊や魔術といった奇妙な現象のことなど、まるで信じないタチなのである。
では、一体何に驚いたか。…ネズミがようやく動き出したかと思うと、私のすねに思いきりかじりついたのだ。
今までピクリとも動かなかったそのネズミの唐突な攻撃に、私は恐怖より先に怒りを感じた。あの鈍く光る長い前歯は思ったよりも深く肉に食い込み、それと同時に雑菌が傷口へと入り込んでしまったのではないかと考えると、先程よりも一層ネズミが憎く思えた。
私は苛立ちに任せて、噛まれた足でネズミを蹴飛ばした。ネズミはいとも簡単に吹き飛び、そのまま「ネズミ男」の腹の部分へと激突した。その拍子にネズミの柔らかい身体はぐしゃりとひしゃげ、ソレの口から真っ赤な血と内臓がほとばしった。あっと思う頃にはもう遅く、ネズミは絶命した。私が殺してしまったのだった。
「ネズミ男」の腹の部分からは、今まさに撃たれるなり刺されるなりした後のように、ドロドロと今まで生きていたモノの体液が滴り落ちていく。まさか本当に絵からこの男が飛び出してきたのではないか。四方に飛散した赤い液体には、そう思わされるような迫力があった。
ついさっきまで生命としてそこにあったネズミが、瞬く間にただの毛の生えた肉塊へと変貌し、やがて「ネズミ男」の腹から剥がれてぼとりと落下していくのを見届けた後、私は今度こそこの死にまみれた奴の部屋から逃げ出した。
どこをどう逃げ帰ったのかは覚えていないが、私は気が付けば自分の家…それも、奴の住んでいたあのボロアパートなんかよりもはるかに「正常」で満ち足りた、普通のアパートの一室で、半ば放心状態のままソファに座っていた。ネズミの歯が食い込んだ足からはだらだらと血が流れ、雑菌が入り放題の状態を維持し続けている。適切な処置をする気力が湧かなかった。
そんなことよりも、私は奴の部屋で最後に見たあのネズミと「ネズミ男」のことが気になって仕方が無かった。例のネズミを蹴り上げた時の感触と、ソレがひしゃげる音、飛び散る赤い鮮血。…それらが脳裏に焼き付いて離れなかった。
ネズミなど、殺しても何の罪にも問われない。むしろありふれ過ぎて邪魔くさい奴らが死ねば、私達一般人はありがたがるだろう。あんなモノ、そこらの害虫と変わらないはずだ。
私が異常なのだ。あの小太りで、狂気を孕んだ目のドブネズミに自身の友人の姿を重ね、それを殺したことで罪悪感に駆られる、この私が。もうそこには存在しない友人が当たり前にあの部屋にいないからと、絵やネズミで代用しようとする、この私が。
異常でないと、誰が言いきれる? 狂っていないと、誰が言いきれる?
私は、奴のような狂人へと成り下がってしまったのではあるまいか。常にそんな不安が拭えなかった。あの部屋で押し付けられた無数の雑菌よりも、それが原因で病気になることよりも、私は自分が奴と同じ運命を辿ることになることの方が怖かった。
足からは依然、血がだらだらとあふれ出してくる。やがて血が足りなくて死ぬかもしれないと思うと、ようやく動き出そうという気になった。
そこら中を赤い靴後で汚しながら、やっとのことで救急箱を見つける。私はそこから清潔な包帯を取り出し、それをぞんざいに巻き付けた。ギュッと力強く引っ張り、傷口を圧迫して止血する。止血が完了するまでは、ずっとこの姿勢だ。少し面倒だが、こうでもしないと血は止まらないだろう。
私は包帯を巻き付ける力を一層強める。下手するとそれこそ布が肉に食い込むのではないかという勢いで、これでもかというほど力を強める。それだけに全神経を集中させ、あの部屋での出来事を頭から追い出そうとしたのだ。
その時、何かが視界の端で動いた。私は自身の包帯が巻かれた足にばかり集中していたので、最初は気にならなかった。ただ、そこらに投げ捨てていた本のページが風で捲れたのだろう…そう思って。
しかし、あまりに右往左往と動き回り、さらにはカリカリという明らかに紙の音ではない音が聞こえ始めたので、鬱陶しくなった私はとうとうそちらの方へと向き直った。…そして硬直した。
ネズミである。あの小太りな奴ではないが、例のワンルームで見たそれと同じ類の、薄汚いドブネズミがそこでのたうち回っていた。
一つだけ付け加えておくと、私の住むアパートは奴の場所よりも手入れが行き届いて、ネズミなど滅多に出ない。その分家賃は少しだけ高いが、払えないほどではないので、私はここを気に入っている。
そんな場所に、よりにもよって今、ネズミは私の目の前に現れた。赤い足跡が広がる床の上を落ち着かないような様子でちょろちょろと歩き回り、しきりに鼻をひくつかせながら、まるで殺虫剤を掛けられたゴキブリのように時折その場で転げ回っている。きりきり舞いでも踊っているかのような、滑稽な動きだった。
そうしたネズミの異常な行動を、私は呆気に取られて見つめていた。同じ場所を2、3回繰り返し行ったり来たりしたと思ったら、急に立ち止まって10秒程度その場をぐるぐる回り、すると今度は激しく足踏みをしてまた走り回る…といった具合に、その動きにはまるで規則性が無い。
やがてネズミは赤みがかった泡を吹き出しながらその場に倒れ、ぴくぴくとしばらく痙攣した後、ついに二度と動かなくなった。のたうち回って立てていたやかましい音は消え去り、その場はしんと静まり返る。
時計の音がやけにうるさく感じられた。
私は狂っている。そこかしこでネズミがのたうち回る音を聞きながら、私は自身をそう分析した。
その理由は明白で、私は何日経っても「奴」の幻覚に悩まされ続けているからだ。「奴」とは当然、私の友人のことだ。毎日奴がどこかにいるような気がして、探しに行かねばと、気が付けばそう考えている。居るはずの無い人間を探すことに意味は無いはずなのに、おかしなことだ。
それでいつの間にか、私は自分の部屋に「ネズミ男」が飾られているのを見つけた。奴の部屋の壁にぴったり張り付いて取れなかったあの絵を、私はどうやってこの場所まで移動させたのかは謎だが、「ネズミ男」は確かにそこにあった。あの狂気性を物語る赤い目で、常に私を見張っているように。
これは奴の呪いなのではないか? 時々、そんなことを考えた。私が殺したあのネズミは、実際には本物の我が友人であり、奴は苛立ちに任せて蹴った私を恨んでいるのではないか。
いや、あり得るはずが無い。人がネズミになるはずが無いし、ネズミが奴になりうるはずも無い。だからネズミが私の周囲でよく死ぬようになったのも気のせいであり、私の姿がどことなく「ネズミ男」に似るようになってきたのも気のせいである。全てはおかしくなった私の幻覚であり、ネズミの死骸はゴミ袋に入れて見えないようにしていれば、そのうち消えるはずだ。
アパートの住人とは、よく諍いを起こすようになった。住人どもはありもしない悪臭や騒音について騒ぎ立て、私はそんな彼らにどうして分かってくれないのかと暴言を撒き散らし、それで奴とは別の友人から心配されるようになった。
私は狂っている。どうかしている。それが分かっているのに、なぜこうも、どうにもならない無力感に支配されているのか。
日に日におかしくなっていく自分が怖い。自然と、ネズミを奴だと認識するようになっていくのが怖い。毎日現れる無数のネズミが怖い。そうしてそれらが日常となっていくのが怖い。
怖いと思っているうちに、それらがじわじわと私自身を蝕んでいくのを、私は何も出来ずにただ待っているしかないのだ。それがどれほどの恐怖なのかは、これを体験しない限りきっと誰にも分かるまい。
…ああ、呪いだ。ある日耐えきれずに叫んだ私は、それを確信する。これは呪いに違いない。とても不潔で、病気的で、陰鬱で、あまりに狂気的な呪いだ。それが奴を、私を、誰かを、連鎖して狂わせていく。そうして何もかもが正気を失っていく。
そうに違いない。そうでなければ、一体何だというのだ。
狂気にまみれた私は、薄汚いネズミとなった。いや、元からネズミだったのかもしれない。今さら、どうでもいいことなのだが。
とにもかくにも、きっとこの呪いは永遠に連鎖していき、やがてこの町全体をも覆い尽くしてしまうのだろう。私はそれを確信して、次の「誰か」が巣の中へいざなわれるのを待つ。待っている。
ああ、この部屋が狂っていた。
ネズミ