月
第十六章「紳士現る」――続き
「つまり紳士が現れたんです! 皆さん! 聞いてるか?」
ヒロシは拍手を要求した。
拍手はなかった。
テレビ局は五つとも消えていた。横に配置されていた局も、縦に配置されていた局も、斜めに配置されていた局も、いまでは同じ一枚の壁になっていた。壁には白い紙が貼られていた。紙には何も書かれていなかったが、ヒロシにはそこに自分の名前が印刷されているように思えた。
「青木康善。あるいはヒロシ。あるいは該当者なし」
背後で声がした。
振り返ると、紳士が立っていた。
紳士は黒い背広を着ていた。靴は磨かれていた。ネクタイは青かった。顔には特徴がなかった。特徴がないという特徴だけが、異常なほど鮮明だった。
「あなたが紳士ですか」
「そういうことになっています」
「誰が決めたんです」
「決めた人間は、もう帰りました」
「どこへ?」
「普通の生活へ」
紳士はポケットから小さな領収書を取り出した。そこには、ヒロシがこれまでに書いた文章の総文字数が記されていた。金額の欄には、九十九万九千九百九十円とあった。
「これは何の金ですか」
「あなたが書かなかった文章の代金です」
ヒロシは領収書を受け取ろうとした。しかし指が紙を通り抜けた。紙は実体を失っていた。代わりに、紳士のポケットから小さなランドセルが転がり落ちた。
「お兄ちゃん、これ覚えてる?」
ランドセルの中から声がした。
ヒロシは答えなかった。
答えた瞬間、また一章増えてしまうからだった。
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