十
十 ──。
1
2026 年 09 月 09 日 19 時 09 分
会社に戻る途中、コンビニに寄り、ミントのタブレット
を買った。外に出て、何の気なしにレシートを見ると、
その数字の羅列が目に入った。
(やけに 9 が多いな)
足早に歩きながら、おれは少し笑ってしまったが、同時
にこう思った。
( 9 。苦、か。ふん、何が苦なものか。おれは今日も
新規の物件を三件獲ってきたぜ)
会社ビルの自動ドアを通り抜け、エレベーターに乗り、
ミントを二粒、口に放り込む。大鏡に映る目の鋭い男
に向かい、うそぶいた。
(大丈夫だ。お前はよくやっている。手を抜くな。
上へ昇っていくのだ。そのために、わざわざここへ
来たのだからな)
エレベーターを降り営業部に向かう途中、高級スーツに
身を包んだ男に出くわした。
「お帰りですか、ニシノ部長。お疲れさまでした」
「おう、ウエダ君。ごくろうさん。どうだ、今日は?」
「三件確保しました。今日中に足りない部分を
まとめて、なるべく早く確定させます。お任せください」
「そうか。さすがだな。ライバル会社から引き抜いた
甲斐がある。施工屋だった君を営業に向いていると
見込んで引っ張ったのは、おれだからな。頼むぞ」
「期待は裏切りません。ご心配なく。ニシノ部長、
お見送りしますよ」
扉が閉まり、動き出したのを耳で確認すると、おれは
下げていた頭を上げ、エレベーターの前から踵を返した。
2
「君がウエダ君か?」
大型の貯水槽を設置するため、穴の底で墨出しをしていた
おれは、顔を上げ、声のほうを向いた。
「……そうですけど。……どちら様ですか?」
「君のところの営業部長に聞いたんだよ。ウチには
いいのがいるって。優秀なんだって? 男前じゃないか」
「あー、そうなんですか。……で? 今日は?」
「見に来たんだよ。上にあがって来ないか? 少し話をしよう」
あがると、矢継ぎ早にいくつか質問された。充実。精悍。実力者。
そのような言葉がいかにも似あう、この壮齢の男の話しぶりは、
おれの耳に心地よく響いた。それに応えるように、短く、簡潔に
答えると、男はひとつ頷き、自分の名刺を差し出した。
ニシノという、ライバル会社の営業部長だった。
「直にやり取りしても構わないな? すぐに連絡する」
次の日に連絡があり、その週の土曜、繁華街の料亭に呼ばれた。
個室に通される途中、スマホをサイレントモードにして時刻を見た。
19 : 59 。指定されたのは 20 時。時間ちょうどだった。
ニシノは既に居て、胡坐をかき、猪口を手に芸者の酌を受けていた。
いまでもこんな世界があるのか。
まだ若いおれにしてみれば、呆気に取られる一場面だった。
席に着くと、ニシノは早速言った。
「ウチに来い。ウチでは君は営業をやれ。君は営業のほうが
向いている。稼げるぞ」
おれは目線を逸らして、顔を右に向けた。予想はしていたが、
少し考えて、自分に確認した。
(そうか。やはりな。別にいいけどな。
いまの会社や現場に特に不満は無いが、特別な愛着や執着が
あるわけでもない。営業か。まあ、出来るだろう。
乗るか。でも、おたくは的だからな。おれを甘く見るなよ。
いくからには、おれは上を目指すぜ)
おれは前を向いて、ニシノに目線を合わせた。
「分かりました」
3
「課長のワタベだ。しばらくは君のサポートをさせる。
分からないことはワタベに聞いてくれ」
ニシノのデスクに呼ばれると、ひょろっとした、いかにも
ひ弱なイメージを抱かせる、細いフレームの眼鏡をかけた
男を紹介された。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。
今日は早速ですけど、ウエダさんに担当してもらう得意先や
エリアを一通り回ってしまいますので。では、行きましょう」
ニシノのデスクを離れ、エレベーターのなか、外を歩いて
いるとき、電車のなか。ワタベは一言もおれに話しかけて
来なかった。
営業先で相手と話しているときだけ、おれのほうを向いて、
にこやかに言う。
「中途採用ですけど期待の新人ですので。
どうか、よろしくお願いします」
おれはワタベがどういう人間か、把握したかった。
しかし、会話をしようという気配が感じられない。
何も話さないのだから掴みようがない。
移動の時間が、苦痛で不快だった。
地方にプラントを持つ企業の本社に行き、挨拶を済ませた
あと、担当者が図面と見積書を見ながらワタベに言った。
「ここなんだけど、この数量で足りる?
あとから追加って言われても困るよ?
二か月後には事務所として使うからさ。人員も移動させるし」
ワタベは黙ったまま何も言わない。分からないのだろうか?
おれは図面と見積書を見た。
「あー、足りないですね。この材料、909 なんで。
図面は 910 だけど、本当は 909 なんですよ。
だから 90 ミリ足りない。駄目です」
ワタベはおれを見た。おれを見て、何も言わない。
担当者が言った。
「ウエダ君だよね? 君が担当になるんだから君がやってよ。
なるべく早く直して全体もチェックしてくれる?
え、なに? 現場やってたの? いい人を入れたねー」
ワタベは何も言わず微笑んだ。
帰りも、やはり一言も話さなかった。
翌日の朝、ワタベがにこやかな顔をして言った。
「ウエダさん、今日からひとりで回ってください。
大丈夫でしょ?」
そうか。そういうことか。なるほどな。
わざわざニシノが直接引き抜いて来たおれが疎ましいのか。
おれのなかで、ワタベの評価が決まった。
こいつは大した奴ではない。
「分かりました。いいですよ」
4
分かっているか。分かっていないか。
分かっている者からすれば、それは即座に分かる。
分かっていないのに、分かっているふりをする。
ぼやかす。逸らす。黙る。手に取るように分かる。
すると、何が起こるのか。信用、信頼を失う。軽く見られる。
要するに分かっていればいいのだ。営業など、それに尽きる。
おれは、ひとりで営業回りをすることになった。
何も問題は無い。更に言えば都合がいい。
誰にも気兼ねする必要が無い。自分の強みを晒すことも無い。
では、どうするのか?
自分がいままで培ってきたものを最大限、活用すればいい。
おれは様々な工事の責任者として数多くの営業と接してきた。
立場が逆になるだけのことだ。双方のやり方は分かっている。
この会社の営業部には新参のおれを入れて外回り担当が 29 人いる。
受注したい物件は様々なので、その都度、数人でチームを組んだり、
コンビで回る。おれのように、ひとりで回る者は数人しかいない。
ワタベもそのうちのひとりで課長とは名ばかり、すべてを掌握して
動かしているのは部長のニシノだ。そういう形態なので、単純に
受注件数や金額では評価されない。ニシノにどう評価されるのか。
おれは、そのことに細心の注意を払った。
毎日、平然と。着々と、急速に。おれは実績を伸ばしていった。
それを見ていたのだろう。はじめのうちは遠巻きにしていた他の
営業部員たちのなかで、おれに近づいて来る者が現れだした。
まず、おれと同じく、ひとりで担当している得意先を回るコクボ。
おれより数年、年上だろうか。おだてるように話しかけてくる。
「さすがだねー。オオハシさんから聞いたよ。引き抜かれて痛い
どころじゃないって。そんなこと言われてみたいよねー」
「そんなことないですよ。私なんて、まだまだ小僧ですよ。
分からないことがあったら教えてください。よろしくお願いします」
当たり障りなく答える。オオハシとは、前の会社の営業部長だ。
そうか。探ったということだな。おれがオオハシからそのことを
聞く前に自分から言ったわけだ。
他にはキタヤマ、カワシマ。男と女の、おれより年下の部員で、
ふたりは住宅などを担当する同じチームに所属していて仲がいい
ように見える。
おれに現場について何かと質問してくる。にこやかに答える。
「そこはこうしたほうが現場は助かるね。
施主さんもそのほうがいいと思う。貸しは作っとくといいよ。
向こうはだんだん強く言えなくなるから」
「あー、なるほど! ありがとうございます! さすがですね!
これからもいろいろ聞きますけど、よろしくお願いします!」
皮肉るようなことなど言わない。出し惜しみはしない。
嫌われて得なことなど何もない。好かれるほうがいい。
……でもな。
お前らもそうだろうが、おれもお前らを見ているからな。
おれは着実に、確実に、自分の地歩を固めていった。
5
「順調じゃないか。予想より全然いい。期待以上だよ」
ニシノにそう褒められると、おれは姿勢を正し、頭を下げた。
「すべて、ニシノ部長のおかげです。感謝しています」
おれは頭を上げ、ニシノを見た。ニシノは、おれを見ていた。
まるで射抜くように。ほんの少しの綻びも見逃さない、
何が何でも弱いところを、相手の弱みを見つけ出そうとする目。
「実はな。今度、県から発注される、ある工事に指名された。
そこの付帯工事はもういくつもやったんだが、いよいよ本命だ。
しかし、受注出来る可能性は低い」
「……はい」
「君、やってみないか? 得意分野だろう。どうだ?」
やるに決まっている。チャンス以外の何物でもない。
「はい。やります。
……私の裁量で動いてもいいんですか?」
「そうか。期待してるぞ」
「……はい」
「現場説明会の日時などはワタベに聞いてくれ」
「はい」
「いままでの経緯はざっと、そんなところですね。
具体的なことは現説で、になります」
「指名業者は何社ですか?」
「 9 社です。……ウエダさんが前にいらした会社も
そのうちのひとつです」
表情を動かさず、ワタベは言った。
「……ほう。そうなんですか」
「オオハシさんが連絡してくれ、と言っていました。
久しぶりでしょ?」
「そうですね……。分かりました。以上でいいですか?」
「はい。では、頑張ってください」
「ウエダです。お久しぶりです」
自分の机の電話からかけると、オオハシは以前と変わらぬ
調子で答えた。
「……おう! ウエダか。久しぶりだな。何だ、会社から
かけてるのか」
「はい。いまさっき、ニシノ部長から聞きました。おれが
担当します」
「聞いてるよ。まあ、今回は顔見せだ。お前、現説に
行ったことないだろ? ▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮
▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮」
「ん? ▮▮▮▮? ▮▮?」
「お前、そのくらいのことは知ってるだろ。
▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮。何だ? 聞いてないのか?」
「……いや。分かりました。では、当日」
ワタベの奴、何も言わなかったな。ニシノもだ。
そうか。おれを試しているのか。そうか。
なら、見てろよ。獲ってきてやるからな。見てろ。
6
現説が終わると、オオハシがおれに声をかけてきた。
「ウエダ! ▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮」
▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮
▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮
▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮
▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮
▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮おれとオオハシを入れて、9 人。
▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮
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▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮
「▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮
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▮▮▮▮▮▮▮▮」
▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮
ふん、おれの知ったことか。
「▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮」
オオハシは、ゆっくりと、少し離れた席にいるおれを見た。
口角を上げ口許は笑っているが、額には血管が浮き出ている。
じっと、おれを見て、何も言わない。
おれは、もう一度言った。
「▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮」
▮▮▮▮▮▮▮オオハシが
口を開いた。
「お前、どういうつもりだ? ▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮
▮▮▮▮▮▮▮」
「▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮
教えてくださいよ」
「……お前、おれに喧嘩を売るのか? 分かってて言って
いるんだろうな」
「とにかく、▮▮▮▮▮▮▮。勝負させてくださいよ」
「好きにしろ。おれは、もう知らん。お前のやり方でやって
みろよ」
「……」
「お前、なんか変わったな。どうした?」
「何もないですよ」
「そうか。まあ、お前は今日から敵だからよ。覚悟しとけよ」
そのあとオオハシは、おれに一瞥もくれず帰っていった。
おれは車に戻り、スマホを取り出した。
16 : 09 しばらく考え、電話をかける。
「サトミか? 今夜、大丈夫か? 分かった。九時頃行く」
電話を切った。……おれは、画面を見つめた。
16 : 19
( 9 。さっきも 9 だった……。何だ? 最近、やけに目に
つかないか?
9 、苦? ……ふん! 馬鹿らしい)
会社に戻るため、おれは車のエンジンをかけた。
7
「▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮」
「▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮
▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮
おれは元々、公共工事の施工管理担当で営業はしていなかった
から内情については詳しく知らない」
女の部屋のベッドのなかで、そんな話をしていた。
女の名は、サトミ。おれがニシノから料亭で「ウチに来い」
と言われたときにいた芸者だ。会社を移ってひと月ほど
経った頃、声をかけられた。
「ウエダさんですよね?」
いつものようにコンビニでミントのタブレットを買い、
外に出たところだった。
「……どちら様?」
見覚えのない若い女。魅力的だった。
女は微笑みながら、よく動く黒目でおれを見ている。
黒くて長い髪をうしろの高い位置で束ねていて、
左右に揺れる髪が女の活発さを感じさせた。
「前に、ニシノさんと駅から近くの料亭にお越しに
なさってましたよね? そのときにいたんですけど」
女はいたずらっぽく言った。
「スカウトされてましたよね? すごいです。
ニシノさんてそういう人じゃないですよ。
あっ、わたし、そのときにいた芸者です」
「あー。いらっしゃいましたね。全然分からなかった」
「うふふ。わたし、芸者の恰好をしてましたからね……。
あの……ウエダさんて、ご結婚されてるんですか?」
「え? ……はは。してますよ。何故、それを?」
「かっこいいなーって思っていたんですよ。
そうかー。やっぱりしてるかー。そうですよね」
おれは改めて女を見た。よく動く黒目と揺れる髪が、
やはり、おれを惹きつける。
「突然ですけど……。今度、ご飯とかいかがですか?」
「えー? ほんとですか? ……奥さんはいいんですか?」
「大丈夫、ご心配なく。あなたと、ぜひ一度ご一緒したい」
「えー? うれしい! じゃあ…… 9 日はどうですか?」
「いいですよ。日曜ですね。ランチに行きましょう。
美味しいところ、ご案内しますよ」
サトミとは、すぐに深い関係になった。ニシノとは
そうではないと聞いた。本当のところは分からないが、
もし関係があるのなら、おれはとっくに終わっている。
信じるしかなかった。
ベッドのなかで、おれは言った。
「サトミに、どうしても頼みたいことがあるんだ。
聞いてくれるか?」
8
今回、指名された工事は、県発注の複合公共施設。
多目的ホール、会議室、地域活動スペースなどが入る RC 造の
中規模建築物だ。
工事金額はおよそ 10 億円。しかし、現在の物価変動を考慮すると、
通常の積算では多少、足が出ると予測される。
多少といっても、おそらく一千万、二千万。小さな住宅なら
建てられる額だ。おれは、そこに着目した。
以降、続きますが、カットしました。
9
すべて、カットしました。
▮
玄関を開け、なかに入ると、廊下の先にあるリビングの
ドアは開いていて、カーテンは閉められたままだった。
カーテンはきちんと閉められておらず、広い隙間から
差し込む光の先で、マキはソファに横たわり目を閉じている。
テーブルの上や下にはビールの缶やワインの瓶が散乱していた。
「マキ」
声をかけると、マキは閉じていた目を開け、物憂そうに
身体を起こした。
「……あら、久しぶりじゃない? 何日ぶりかしら。
もう帰って来ないのかと思ったけど」
「ロック番号をどうやって知った?」
「あなたのことなんて何でも分かるわよ。あなたは
わたしのものよ」
「……前の会社で秘書課にいたお前を落としたのは
おれだぜ?」
「そう思ってるんだ? ふふ。落としたのはわたしよ。
そう仕向けたの」
「何故?」
「見込んだのよ。あのまま我慢していれば、いずれ役員
どころか、社長にだってなれたんじゃない?
……そうしたら勝手に辞めちゃって。次には浮気までして。
あなたはわたしのものじゃなくなった」
「それが理由か? おれは破滅だぜ? 戻れる場所は無い」
「そうよ。いけない? 自業自得じゃない。滅べばいい。
わたしにあなたは、もういらない」
背を向け、玄関から出ようとするおれに、マキは言った。
「オオハシさんて、いい人よね。わたし、復職するから」
ニシノも、ワタベも、コクボも、キタヤマも、カワシマも、
( )も、サトミも、オオハシも。マキも。誰も悪くない。
おれは理解した。踊っていたのはおれだ。たったひとりで。
哄笑する観客に向かって晒していたのだ。無様な踊りを。
ひとりで踊り狂い狂い、踊り終えたのだ。無様な踊りを。
以降、ラストシーンへと向かいますが、カットしました。
以上となります。
十