然う、わたしたちは個人主義者


ケシズムは景勝主義的であるとともに、極めて個人主義的であるとも言える。
ケシストは第一に常に理解し意識して居る。世界が地理気候諸環境の産物に過ぎず、優劣はあるが優劣は存在しないということを。
それを受けて一部の未開人たちは、望みを託すように考えて已まない。人間ひとりひとりにも当て嵌まる真理かのようにして。
一見すれば無数の一人一人の人間の集合体である国や文明文化社会は、細胞だの原子だのの集合体である人間個人そのものと比喩できる関係にある。そのように考える。

国は個人ひとりひとりにはどうにも出来ず、また個人ひとりひとりの内面すべてまで国がどうしてしまうこともまた不可能である。
しかし個人、ひとりひとりそれぞれ自身は、今そこで自分で決断して思い考えてしまえば自分のことをすぐにどうにでも変えてしまえるのだった。
確かに人間もすべて国文明と同じように地球宇宙の環境とそれに基いた人間関係社会環境の産物である。
しかし個人というそなた自身がそのたった今の思いつきで自分とその運命を変えてしまえるという時点で、この比喩はもう破綻を迎えた。
国や社会と、個人の隔離。個人による、国や社会からの完全な、独立。
なるほどこれは個人主義だ!個人は国とか社会とかいう集団から完全に切り離されるべき存在なのだ!
そしてその独立した各個人は、国や社会を第一に思い、個人の権利や利得を徒に求めるばかりではないときた。なるほどこれは、実に実に個人主義的だ。
自由や権限を追い求めることよりも、自分が自分であることは自分自身の責任であることを自覚し自認し、そして国や社会や延いては性別人種その他優劣がすべて環境に基いて然うなった自然現象であることを理解し、然うして国や社会の利益を追い求める。
これほど個人が独立して責任を負う個人主義は他にない!



ケシズムは景勝主義的であるとともに、極めて自由主義的であるとも言える。
自由と冠して自由を謳う者たちが何も無秩序で奔放な人間の野蛮性を許し無責任に何をしても構わないとするようなものを標榜して居るとは全く解しない。重要なのは、我々人類がそもそもその存在からして完全に自由となることが不可能であるという根本を共有することであった。
我々は同じではなく、平等ではなく、正しいことも間違ったことさえもするものである。
容姿も出自も経緯も背景も同じではない。
どれも素晴らしいことなんてなく、人々の中には明確に上か下かの序列が決まって居る優劣をそれぞれに獲得し、負って居る。
腹が空く必要のあるないに関らず腹が空き資源を費やし、子孫を受け継ぐようにも文化を継ぐようにも強要されて居ないにも関らず社会全体としては多くの数の子供が生れ文化を紡ぎ、生死には直結しない娯楽を楽しみ、どの道に生きて居るし死はやって来るにも関らず生死とは関係のないその日その時の悩みを抱え、野に飛び出して肉や木の実を食べても生きてゆけるのにも関らず社会の中で文明人として生きるために機械化された仕事に一週間の殆どを拘束され突き動かされ深刻な場合は一体何のために生きて居るか自問できるほどに消耗する。また、それらのような状態の者たちも居るし、然うでない者たちも居る。
それら我々を構成し我々の動かざる根拠となる事実すべてから、我々はもともとに自由ではない。
そこから解放されることこそが自由だ!と言いたいのは承知して居る。
だが解放されるとは一体どういうことなのだろうか?
世界には差が存在して居る。明暗がある。そこから解放されたとすればそれはもう宇宙の死である。
どんなに自由を叫ぼうとも世界にハッキリと刻まれて居る差とそれに基く人々の上下意識を消し去ることなど出来やしない。そしてそんなこと、出来てはならない。宇宙が立ち消えてしまうではないか!
我々は我々であるということから自由になどなれないのだから、そんな無駄なことに囚われるでない。
寧ろ我々は上下意識や優越感と劣等感がそこにありそれを古今東西に抱き抱いて居たことを認め合い共有し合うことで本当の意味の自由を得る。
今までになかった、ナニモノにも囚われない真の自由の申し子たち。
誰かナニモノかに縛られて居たのではない。自らで自らの首を絞めて居た。自分で自由を奪って居たのだ!
真の自由へ向けてケシズムは邁進せん。そこにそなたは居るのだろうか?



ケシズムは景勝主義的であるとともに、極めて民主主義的であると言える。
つまりは簡単である。旧時代に仕方なく然うするしかやり様がなかった結果の産物である議会だの様々な意見の羅列だのの習慣を尊びつつも無きものとし、厖大でダラダラとして核心をつく配信上の雑談の海の魚となる。そこで藻か貝か小エビか小魚か大魚か海の獣の何かしらとなり、藻か貝か小エビか小魚か大魚か海の獣の何かしらを喰う。
時代がそれを齎したに過ぎないとしても、我々は我々で毅然として居る。嘗ての時代には需要があり自然であったやり方をサマになって居ない権威ごっこの延長線上で続けて居るだけのそれは美しくない。あくまでも景勝的に、映えないからという然ういう理由で堂々とここに拒むのである。
つまりそれらはどれも人間ひとりひとりの尊厳のためではないか。尊厳は今や権利の主張によらずして、各自らが自らを価値あるものとして視覚的に知らしめ続けることによって守られ確保されるものなのであった。だからといって権利が否定されるでもない。そのところがどうであろうと今も世界は視覚上や認識上の印象によってアレやコレやソレらのすべての価値を決めつけて次から次へ突き進んでゆく。我々こそ俗に言われた民主主義者だ。しかしそのようには名乗らない。全く以て恰好良くもないものだから。



ケシズムは景勝主義的であるとともに、極めて理智主義的であると言える。
人類がその全体合意を以てより合理的に取組むべきことは何かと合理的に考え導いた場合、我々としてはこの世界が結局は「明らかにカッコ良かったり何だかカッコ良かったり美しかったりするもの」によって支配され舵を切られて居るという結論へ至り、結局は大多数にとって見映えが良いと思うものを更に整え醜いものを排除するか「絵になる不細工」へと変貌させてゆくことが何より合理的な人類文明への荒療治であると学び知った。
ひとりひとりの尊厳を尊重し自由と平和と愛を掲げて表向きは叮嚀に皆で取組んでゆくことは否定されるべきではない。それを否定しない上で我々はこの結論に達して居るのであった。リチスト達が進む道はまさにリチストという或る素晴らしき者たちの或る一つの素晴らしき民間的慈善活動であるに過ぎず、世界を絶対に変えることのできるものとは言い難い。小さな視点では合理的でもより大きな視点では世界との齟齬が生じることだろう。
我々以上に理に適った友愛主義者は宇宙にない。それ故こうして我々は思う。



ケシズムは景勝主義的であるとともに、極めて人命主義的であるとも言える。
我々は人々の幸福のために斯うして居るわけではない。
幸福を得る者も然うでない者も居たり居なかったりすることだろうがそれは兎も角、世界を何かイイ感じにすることのみを目指して居る。世界がイイ感じであるということが、それ即ち人類やその命にとって優しい世界であることである。
命を救うだのと芸もなく連呼するな!と言うのではない。社会全体地球全体で多くの命を救おうとした時には先ず、一国一国や一人一人の見映えが良くなければいけないということに尽きる。その見映えとは、本来あるべき姿と知るべし。脈絡もない姿への装飾整形と見誤るまじ。宇宙の摂理に基いた美をいかに自らで整え活かせて居るのかどうかが人類の各その命を大外から包み込むように社会として救い出せるか否かを決める。
命を救うだのと言う前に然うしたことについて社会が世界が、同意し共有できるかどうか。
できぬ者が所謂そうした人命主義者と呼び捨てられよう。ただ責められるような者たちでもない。我々が勇敢すぎるだけなのだろう。



ケシズムは景勝主義的であるとともに、極めて資本主義的であり、社会主義的であり、資本社会主義的であり社会資本主義的であるとも言える。
俗にいう資本主義も社会主義も、何れもが国地域の持てる資本を増強し最大限に活かしてゆくことを目指して居る。資本を取り巻く環境が自由であるか社会的であるかの違いを今では明らかにすることはない。資本が大切であるということだけに皆が屈託なく同意できる時代にあって我々は正面から資本を想い資本を守り資本を悉く活かしてゆく。
先ず資本とは国地域の今そこにある自然なるモノである。営みである。習わしである。そこに明らかに在る歴史ある国物体こそ丸々以て資本である。それを守ろうとせずして一体、どこへ向かおうとして居るのだろう。少数派が存在して居ることは十分に承知した上で、世の大多数のその自らを構成する国地域の景勝の中の景勝を守ることさえ出来ない者たちが一体どんな資本を生活を延いては国地域を守れるというのだろうか。物々交換的な金銀財宝的な現物的なカネだろうか?特権階級で居ることができる快感だろうか?保身だろうか?空想上の自由や愛国や博愛だろうか?
生産能力も歴史遺産もそして人材もそれぞれ自由に価値を高め、社会全体で守られるべし。それはまたもや景勝である。然うした簡単且つ真っ当な着地点に落ち着いたすべての者が正直となりこちらに扉を開けねばならない。今ではないが、すぐにである!

然う、わたしたちは個人主義者

然う、わたしたちは個人主義者

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-09-17

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