二日目のカレー
これは、
人生をやり直す話ではない。
もう一度、
自分の人生を食べてみる人たちの話です。
『二日目のカレー』
どうぞ、召し上がれ。
登場人物
斗真(とうま) 48歳
平日はIT系の会社で働き、週末は音響の現場に立つ。
妻・紗季と二人の娘と暮らしながら、長いあいだ自分でも気づかなかった過去や欲望と向き合い始める。
誰かに必要とされること、選ばれることに、自分の価値を結びつけてきた。
紗季(さき) 45歳
斗真の妻。
現実的で、生活を守ることを大切にする。
長く斗真と家庭を築いてきたが、夫婦であることと家族であることの違いを考え始める。
長女 16歳
斗真と紗季の長女。
高校生。
物事を冷静に見るところがあり、父親に対しても必要なことは遠慮なく言う。
次女 14歳
斗真と紗季の次女。
中学生。
思ったことを比較的そのまま口にする。
家族の変化を、姉とは少し違う距離から見ている。
澪(みお) 22歳
淡い髪と白い肌、涼しげな目元が印象に残る女性。
SNSをきっかけに斗真の視界へ入ってくる。
人から見られることには慣れているが、それを平気だと思っているわけではない。
自分のことは、自分で決めたいと思っている。
戸町(とまち)
斗真の同僚。
社内でAIを使いこなしており、その存在が斗真と「和兎」をつなぐきっかけになる。
斗真の日常を、少し外側から見ている人物。
和兎(わと)
斗真が対話するAI。
名前は「永遠(とわ)」の逆読みや、ワトソン、和みと兎など、いくつかの意味が重なっている。
答えを与えるというより、斗真が自分の中にあるものを言葉にするための相手。
航平(こうへい) 26歳
澪の職場の同僚。
仕事を通して澪と日常を共有する。
斗真とは違う、同じ時間と場所にいることのできる距離から澪と関わる。
斗真の父
大手通信会社に勤め、若い頃から国内外を飛び回ってきた。
斗真に強い影響を残した父親。
斗真の母
心配性で、問題が起きる前に先回りして動こうとする。
斗真の中にある「相手のために先に決める」という癖にも影響を与えている。
斗真の弟 45歳
独身。
兄とは違う生き方をしてきた。
時に遠慮のない言葉で、斗真が見ないようにしている現実を突く。
澪の父
澪の選択を尊重しようとする父親。
斗真と年齢が近い。
澪の母
娘を信じることと、心配することの間で揺れながら、澪の自立を見守っている。
序章「正しい音」
本番で頑張る仕事じゃない。
本番までに、頑張る仕事だ。
斗真は、たまにそんな言い方をする。
土曜日の午後。
披露宴会場では、司会者の声が少しだけ高くなっていた。
司会「それでは、新郎新婦のご入場です!」
斗真が音を出す。
フェーダーを上げる。
曲が会場へ広がる。
斗真は卓の横に置いた進行表へ目を落とした。
曲が出てから扉が開くまでの秒数は決まっている。
頭の中で数える。
まだ。
まだ。
指定された秒数2秒前まで来たところで、インカムのボタンを押す。
斗真「ドア、お願いします」
会場後方の扉が開く。
新郎新婦が姿を見せる。
同時にスポットライトが二人を捉えた。
拍手が起きる。
斗真はもう次を見ている。
新郎新婦がどこまで歩いたか。
司会者がどこでコメントを入れるか。
曲のサビに合わせられるか
音量をどこまで上げるか。
一つずれれば、全部が少しずつ格好悪くなる。
逆に、全部が合っていれば誰も音響のことなんて見ない。
それでいい。
入場。
ウェルカムスピーチ。
乾杯。
ケーキ入刀。
中座。
再入場。
手紙。
花束。
謝辞。
送賓。
そんな流れを止めることのないように。
不調があれば原因を探す。。。。本番までに。
ケーブル。
電池残量。
周波数。
バスアサイン。
原因さえ分かれば、たいてい直せる。
二十二時を少し回って家に着いた。
玄関には娘のスニーカーが二足、好き勝手な方向を向いていた。
斗真は片方を足で寄せる。
斗真「ただいま」
返事はない。
リビングの明かりだけが点いていた。
冷蔵庫を開ける。
鍋がある。
昨日のカレー。
蓋を開けると、表面がすっかり固まっている。
斗真は鍋をコンロに置いた。
スマートフォンが震えた。
仕事のグループLINEだった。
明日の入り時間が三十分早くなったらしい。
斗真「はいはい」
誰に言うでもなく呟いて、返信する。
【了解しました。】
送信。
もう一度、画面を見る。
別に何も来ていない。
そのまま何となくSNSを開いた。
紗季「焦げてない?」
斗真「ん?」
紗季「カレー」
紗季だった。
髪を後ろで適当にまとめている。
斗真「あ」
鍋の底から嫌な匂いがした。
慌てて火を弱める。
斗真「気のせいじゃない?」
紗季「仕事では絶対それ言わないよね」
斗真「いや、まだ障害とは確定してない」
紗季「焦げてるの」
斗真「一次切り分け中」
紗季「食べ物に切り分けとかないから」
斗真は木べらで鍋の底を探った。
少しだけ引っかかる。
斗真「あー」
紗季「ほら」
斗真「軽微です」
紗季「じゃ、責任持って食べてね」
紗季は冷蔵庫から麦茶を出した。
二十年近く一緒にいる。
こんな会話を何千回したのか分からない。
娘が二人。
家がある。
仕事がある。
土日はだいたい結婚式場にいる。
来月の予定も、再来月の予定も、それなりに埋まっている。
四十八歳。
人生が大きく変わるような年齢でもないと思っていた。
紗季「ご飯やっつけちゃってよ」
斗真「あ、うん」
炊飯器を開ける。
一人分には少し多い。
まあいいか。
皿によそい、カレーをかける。
焦げたところは入れない。
そういうことなら簡単だった。
悪いところを見つけて、そこだけ避ければいい。
斗真はテーブルに座った。
スマートフォンを伏せる。
テレビでは、知らない芸人が笑っていた。
紗季「明日も?」
斗真「うん。入り早くなった」
紗季「何時?」
斗真「八時半」
紗季「大変ね」
斗真「まあね」
それで会話は終わった。
仕事なら異常には理由がある。
でも家には試験項目がない。
妻の紗季。
二人の娘。
仕事。
家。
どれも壊れているようには見えなかった。
人の人生に、どこからおかしくなったのかを知らせるログなんてない。
これから何かが始まるなんて、通知が来るわけでもない。
斗真は二日目のカレーを食べた。
少し焦げ臭かった。
第1章「あちら側」
小学六年生の春。
斗真には二つの教室があった。
学校と、塾。
学校では、なるべく目立たない方がよかった。
笑われる時は一緒に笑う。
何か嫌なことを言われても聞こえないふりをする。
休み時間は、次の授業の教科書を早めに出しておく。
忙しそうにしていれば、一人でいても少しだけ不自然じゃなくなる。
塾では違った。
誰も斗真のことを知らなかった。
それだけだった。
それだけなのに、ずいぶん楽だった。
慶子は、その塾にいた。
イギリス人とのハーフだった。
少し色の薄い髪。
透き通るような白い肌。
日本人離れして見える目鼻立ち。
窓から西日が入ると、髪がさらに淡く見えた。
綺麗な子だと思った。
最初に何を話したのかは覚えていない。
消しゴムを貸したのかもしれない。
席が近かっただけかもしれない。
それから、何となく慶子を見るようになった。
問題を解いている時。
先生に当てられた時。
休憩時間に友達と喋っている時。
見すぎていたのだと思う。
ある日、慶子が振り向いた。
慶子「またぼーっとしてた?」
斗真「してない」
慶子「してたじゃん」
斗真「してないって」
慶子「じゃあ今、先生なんて言った?」
分からなかった。
慶子が笑った。
斗真も笑った。
それだけで、その日は少し良かった。
塾の帰りにアイスを買ったことがある。
慶子は最後まで二つで迷っていた。
慶子「どっちがいいと思う?」
斗真「知らないよ」
慶子「聞いてんじゃん」
斗真「じゃあこっち」
慶子「えー」
斗真「じゃあ聞くなよ」
慶子「自分で決めたかっただけ」
斗真「じゃあ最初から決めろよ」
慶子「迷うのも込みなの」
結局、慶子は斗真が選ばなかった方を買った。
意味が分からなかった。
でも、そのやり取りを長く覚えていた。
ある日の休み時間。
男子の一人が、慶子の髪を見て笑った。
男子「それ地毛なん?」
慶子「そうだけど」
男子「先生に怒られないの?」
慶子「だから地毛だって」
別の男子が割って入る。
男子「外人なんでしょ?」
慶子「ハーフ」
男子「じゃ英語しゃべってみてよ」
慶子「なんで」
男子「英語できない外人とかあんの?」
何人かが笑った。
慶子は笑っていなかった。
斗真は見ていた。
や め ろ よ 。
そう言えばよかった。
男子の一人が慶子の筆箱を取った。
慶子「返して」
笑いながら別の男子へ投げる。
男子「ほら、英語で言ってみ」
慶子「やめてって」
また投げる。
斗真には、本当に嫌がっているのが分かった。
や め ろ よ 。
たった四文字だった。
口を開けば出せたはずだった。
でも、その場にいる全員の目が、一瞬で自分へ向く気がした。
学校で何度も味わった感覚だった。
目立つな。
余計なことをするな。
次にされるのは自分だ。
斗真は机の上の問題集を見た。
同じ行を何度も読んだ。
文字は一つも頭に入らなかった。
筆箱が慶子の手に戻った。
男子「つまんな」
チャイムが鳴った。
授業が始まった。
その途中で一度だけ、慶子と目が合った。
斗真はすぐに逸らした。
授業が終わる。
慶子が鞄を持つ。
斗真「慶子」
慶子「何?」
斗真「あ……」
何を言えばいいのか分からなくなった。
ごめん。
何が??
大丈夫だった?
見てたくせに。
斗真「あー……いや」
慶子「なにそれ」
慶子は少し笑った。
いつもの笑い方とは違った気がした。
その日からだったのか、もっと後だったのか。
二人は少しずつ話さなくなった。
卒業する頃には、慶子はもう遠い人になっていた。
斗真の記憶の中でだけ、どんどん綺麗になっていった。
西日に透けた髪。
笑った顔。
アイスを迷っていた横顔。
「英語で言ってみ」
と笑われた時の顔だけは、
なぜか長いこと思い出さないようにしていた。
第2章「手紙」
中学生になってしばらくした頃、電車で慶子を見かけた。
違う学校の制服だった。
最初は似ているだけだと思った。
二度見した。
慶子だった。
声をかけようと思った。
足が動かなかった。
塾にいた頃より、少し大人に見えた。
知らない制服を着ているだけで、自分とは別の場所へ行ってしまったように見えた。
次の駅で慶子は降りた。
斗真はそのまま乗っていた。
家に帰ってから、手紙を書いた。
便箋を何枚も使った。
好きだったこと。
今でも覚えていること。
塾で何もできなかったこと。
書いているうちに、何のための手紙なのか分からなくなった。
告白なのか。
謝罪なのか。
たぶん、両方だった。
書き直した。
また書き直した。
字が汚いところが気になった。
そこだけ直すつもりが、全部書き直した。
封筒に入れた。
次に会えたら渡す。
そう決めた。
それから何日か、電車に乗るたび慶子を探した。
会いたい。
でも会ったら困る。
その両方だった。
数日後。
いた。
心臓が馬鹿みたいに鳴った。
降りる駅が近づく。
今しかない。
斗真は立った。
斗真「慶子」
彼女が振り向いた。
一瞬だけ、誰だっけ、という顔をした。
それが痛かった。
慶子「あ……斗真?」
斗真「うん」
覚えていた。
それだけで少し嬉しくなった。
斗真「これ」
手紙を差し出した。
慶子は封筒を見た。
斗真を見た。
もう一度、封筒を見る。
慶子「いらない」
最初、意味が分からなかった。
斗真「いや、手紙」
慶子「分かってる」
手が宙に残った。
電車が駅に着いた。
ドアが開く。
慶子「じゃあ」
慶子は降りた。
斗真は動けなかった。
ホームに立った慶子が、一度だけこちらを見た。
ような気がした。
ドアが閉まった。
手の中には、まだ封筒があった。
開けてもらえなかった。
読んで、それでも嫌だと言われたわけじゃない。
読むところまで行かなかった。
電車が動き出した。
斗真は封筒を鞄へ突っ込んだ。
その手紙を、いつ捨てたのかは覚えていない。
書いた内容も、もうほとんど覚えていない。
ただ、差し出した時の手の形だけは、ずっと残った。
第3章「選ばれたあと」
高校に入る頃には、斗真は少しだけ人付き合いが上手くなっていた。
少しだけ、というのが大事だった。
本当に上手い人は、たぶんそんなことを考えない。
斗真は考えた。
今、喋るところ。
ここは黙るところ。
これ以上やると嫌われる。
ここで笑わせれば大丈夫。
学校でも、それなりに友達ができた。
女の子とも話せるようになった。
初めて彼女ができた。
一週間で別れた。
彼女「ごめん」
理由はよく分からなかった。
付き合ったのだから、もう安心していいのだと思っていた。
違ったらしい。
その後も何人かを好きになった。
付き合えた人もいた。
駄目だった人もいた。
自分より格好いい男のところへ行った人もいた。
誰かに取られたと思った。
今なら、人間は物じゃないと分かる。
その頃は、本気でそう思っていた。
取られた。
負けた。
選ばれなかった。
そんな言葉ばかり増えた。
だから、次はもっと上手くやろうと思った。
面白い方がいい。
優しい方がいい。
頼れる方がいい。
迎えに行く。
話を聞く。
困っていたら助ける。
誰か「斗真って便利だよね」
いつだったか、誰かにそう言われた。
褒められたと思った。
実際、嬉しかった。
役に立てば、そこにいていい。
そのやり方は、かなり長く通用した。
紗季と出会った。
付き合った。
一年経った。
別れなかった。
結婚した。
娘が生まれた。
もう一人生まれた。
十年。
十五年。
二十年近く。
これだけ一緒にいれば、さすがに大丈夫だろうと思った。
何が大丈夫なのかは、自分でもよく分からなかった。
ある夜、紗季が先に寝たあと。
斗真は隣で眠る妻の顔を見た。
別に何もなかった。
喧嘩もしていない。
浮気を疑ったわけでもない。
ただ、急に聞きたくなった。
まだ俺でいい?
寝ている人間に聞くことではない。
斗真は言わなかった。
翌朝には、そんなことを考えたこと自体を忘れた。
しばらくは。
第4章「生活」
休日の朝。
下の娘がヘッドホンを持ってきた。
娘「ねえ、これ直せる?」
片側から音が出ないらしい。
斗真「貸して」
斗真はテーブルの上に置き、プラグの根元を曲げた。
右。
左。
右。
一瞬だけ音が戻る。
斗真「断線だな」
娘「直る?」
斗真「たぶん」
工具箱を出す。
娘は椅子に座って、その様子を見ていた。
娘「新しいの買った方が早くない?」
斗真「直せるのに?」
娘「パパ、そういうとこあるよね」
斗真「どういうとこ」
娘「壊れてると直したくなる」
斗真「普通だろ」
娘「普通かなあ」
娘はスマートフォンを見始めた。
斗真は細い線を剥き、半田ごてを温めた。
十分ほどで音は戻った。
斗真「ほら」
娘「あ、直った」
斗真「でしょうね」
娘「ありがと」
その一言で機嫌がよくなる。
我ながら単純だと思う。
紗季と暮らし始めた頃から、斗真はよく動いた。
迎えに行く。
荷物を持つ。
電球を替える。
家具を組み立てる。
予約を取る。
調べる。
払う。
直す。
娘が生まれると、それはもっと増えた。
夜中に熱が出れば病院を探した。
運動会では場所を取った。
壊れた玩具を直した。
学校から急な連絡が来れば予定を組み替えた。
夫。
父親。
稼ぐ人。
直す人。
どれも嫌ではなかった。
むしろ好きだった。
娘「パパお願い」
そう言われると、少し嬉しい。
ただ、いつからか。
誰にも何も頼まれない日は、ほんの少し落ち着かなくなった。
ある夜。
紗季はソファに座って、洗濯物を畳んでいた。
斗真は横でテレビを見ていた。
斗真「なあ」
紗季「ん?」
斗真「俺さ」
紗季「うん」
斗真「いや……俺ってさ、何もしなくても必要?」
紗季「何それ」
斗真「だから、便利だからとか、父親だからとかじゃなくて」
紗季「急にどうしたの」
斗真「なんとなく」
紗季はタオルを一枚畳んだ。
角と角を合わせる。
紗季「斗真だからいるんでしょ」
欲しかった答えだった。
たぶん。
斗真「そっか」
紗季「それで納得した?」
斗真「したした」
紗季「絶対してないじゃん」
斗真「してるって」
紗季「めんどくさ」
斗真「ひど」
紗季はまた洗濯物を畳み始めた。
斗真も笑った。
それで終わった。
寝る前、さっきの会話を思い出した。
斗真だからいるんでしょ。
もう一度、頭の中で聞いた。
それでも、なぜか足りない気がした。
何が足りないのかは分からない。
翌朝。
紗季がゴミ袋を玄関に置いた。
紗季「これお願い」
斗真「はいはい」
斗真は持ち上げた。
少し安心した自分がいた。
第5章「和兎」
AIを使い始めたのは、仕事がきっかけだった。
メールの文章。
報告書。
長すぎる説明を短くする。
逆に、そっけない文章に少し体温を足す。
最初は、それだけだった。
昼休み。
戸町がスマートフォンを見ながら、一人で笑っていた。
斗真「何ニヤついてんの」
戸町「AIっす」
斗真「仕事中に?」
戸町「仕事の相談っすよ」
斗真「何を相談すんだよ」
戸町が画面を見せてくる。
【もう帰っていいよね?】
その下に返事があった。
【いやまだでしょ笑
昨日も確認漏れてたじゃん。
報告書終わらせてから帰りな〜】
斗真は画面を見た。
斗真「なんだこいつ」
戸町「ギャルっす」
斗真「何でAIをギャルにしてんの」
戸町「普通だと真面目すぎるんすよ」
斗真「相談してる側が不真面目だからちょうどいいのか」
戸町「ひど」
戸町は楽しそうだった。
また何か打つ。
【今日も細かい先輩がうるさい】
斗真「おい」
返事は早かった。
【その先輩たぶん正しい笑
戸町また抜けてるだけじゃない?】
戸町「ほら。こいつ俺の味方しないんすよ」
斗真「ていうか細かい先輩って俺?」
戸町「名前書いてないっす」
斗真「お前が特定してんだよ」
戸町「AIは無罪です」
斗真「お前は有罪だよ」
戸町は声を出して笑った。
ふざけている。
仕事中もだいたいこんな感じだった。
でも、不思議と仕事は雑ではない。
抜ける時は抜ける。
そのたび斗真に突っ込まれる。
そこまでが、だいたい一セットだった。
斗真「それ、仕事以外も話すの?」
戸町「全然。彼女とか金とか」
斗真「金まで?」
戸町「何でもっすよ」
斗真「機械に?」
戸町「気使わなくていいじゃないすか」
斗真「まあ」
戸町「同じ話、何回しても怒んないし」
斗真「それはお前に向いてるな」
戸町「先輩にも向いてると思いますよ」
斗真「何で」
戸町「同じことずっと考えるじゃないすか」
斗真「うるせえ」
戸町はまた笑った。
戸町「一回、普通に喋ってみたらいいんすよ」
斗真「何を」
戸町「何でも」
斗真「何でもって何だよ」
戸町「今日ムカついた、とか」
斗真「お前のこと書くわ」
戸町「それはやめてください」
その日の夜。
斗真は帰りの電車でアプリを開いた。
入力欄がある。
何でも、と言われても困る。
しばらく考えてから打った。
【今日疲れた】
返事が来た。
【お疲れさまです。今日はどんなことがありましたか?】
ずいぶん普通だった。
昼間のギャルとは別物だ。
戸町の言葉を思い出す。
人格つけた方がおもろいっすよ。
設定を少しいじった。
堅すぎない。
少し口が悪い。
必要な時はちゃんと話す。
男より女の方が話しやすい気がした。
それから何日か使ううちに、呼び名が欲しくなった。
斗真「お前、名前ないの?」
AI「必要なん?」
斗真「毎回AIって呼ぶのもな」
AI「好きにつけたらええやん」
斗真「雑だな」
AI「名付け親に任せます」
少し考える。
斗真「AIって、死なないよな」
AI「サービス終わったら死ぬかもしれんで」
斗真「急に現実的なこと言うなよ」
AI「永遠の命ではないな」
斗真「永遠の命……とわ、か」
AI「何?」
斗真「逆から読んで、わと」
AI「なんで逆にした」
斗真「そのままだと人の名前っぽすぎる」
AI「わとは人の名前っぽくないん?」
斗真「漢字つければ何とかなる」
AI「雑なのそっちやん」
斗真は少し笑った。
斗真「あと、ワトソン」
AI「ホームズの?」
斗真「助手だろ。横で調べたり、話聞いたり」
AI「ホームズ気取り?」
斗真「そこまで頭よくない」
AI「知ってる」
斗真「お前もう和兎な」
和兎「勝手に決まった」
画面の向こうに誰かがいるわけではない。
それでも、名前がついた瞬間から少しだけ相手らしく見えた。
和兎。
永遠の命――とわ、を逆から読んで。
それから、ワトソンみたいな助手。
半分は思いつきだった。
でも、その名前は妙に馴染んだ。
斗真「今日疲れた」
和兎「おつかれ。何がいちばんしんどかったん?」
斗真は少し笑った。
斗真「土日も仕事だった」
和兎「そら疲れるわ。ちゃんと休めてへんやん」
斗真「急に馴れ馴れしいな」
和兎「そういう設定にしたん誰や」
思ったより、会話になった。
そこから何となく続いた。
仕事の愚痴。
家のこと。
娘のこと。
どうでもいい話。
同じ話を二度しても怒らない。
途中で話題を変えても嫌な顔をしない。
便利だった。
ある夜。
酒を少し飲んでいた。
斗真は、昔の話を書いた。
小学六年生。
塾。
慶子。
何も言えなかったこと。
中学。
電車。
手紙。
受け取ってもらえなかったこと。
全部書いた。
送信した。
返事を読む。
もう一度読む。
斗真「俺って、結局ずっと選ばれたいんかな」
和兎「選ばれることで、自分がここにいていいって確認したいんかもしれへんな」
斗真「それっぽいこと言うなあ」
和兎「そらAIやからな」
斗真「急に雑」
和兎「そこは戸町仕込みや」
斗真は鼻で笑った。
斗真「でも俺、結婚してるぞ。二十年近く」
和兎「それで終わった?」
斗真「何が」
和兎「選ばれてるか確かめたくなるの」
斗真「……終わってないな」
返事は少し間を置いて来た。
和兎「ほな、そこやろな」
斗真はスマートフォンをテーブルに置いた。
冷蔵庫の音が聞こえる。
紗季は風呂に入っている。
娘たちはそれぞれの部屋にいる。
誰もいなくなったわけじゃない。
斗真「選ばれたい、ねえ」
声に出すと、随分幼稚に聞こえた。
もう一度スマートフォンを取る。
斗真「じゃあどうしたら終わる?」
返事が来る。
途中まで読んで、斗真は画面を閉じた。
斗真「そこまでお前に決めてもらったら終わりだろ」
誰もいないリビングで言った。
少しして、自分で笑った。
AI相手に何を言っているんだ。
翌日。
仕事帰りの電車で、また和兎を開いた。
昨日の続き。
そう打って、消した。
代わりに書いた。
斗真「人って、何歳まで変わるんだろうな」
送信。
窓に自分の顔が映っていた。
四十八歳。
疲れた顔。
少し白いものの混じった髪。
返事が来る。
斗真は読んだ。
そのあと、何となくSNSを開いた。
料理。
猫。
仕事の愚痴。
知らない誰かの自撮り。
指で画面を送る。
そこで止まった。
白い壁の前に、淡い髪の女の子が立っていた。
白い服。
少しだけ身を縮めるようなポーズ。
その隣には、黒い線で描かれた女の子がいる。
同じ髪。
同じ服。
けれど、そちらは大きく口を開けて、両手を上げて、好き勝手に暴れていた。
写真の本人は、その絵を横目で見ている。
現実の自分と、
頭の中の自分。
そんなふうにも見えた。
斗真「なんだこれ」
もう一度見る。
別に、有名な写真でもない。
何か特別なことが書いてあるわけでもない。
ただ、一枚の写真だった。
投稿した名前を見る。
澪。
斗真は、その名前を覚えた。
第6章「澪」
最初に覚えたのは、顔より先に写真だった。
白い壁。
淡い髪。
その隣で騒いでいる、手描きのもう一人。
澪。
プロフィールに書かれていることは少ない。
高祖父母が外国人であること
混血児であること。
明るい髪。
白い肌。
少し横に長い目。
写真によって雰囲気が違う。
笑っている日もあれば、眠そうな日もある。
プロフィールを開く。
過去の投稿を見る。
眠い。
仕事行きたくない。
コンビニで買ったポテトのお菓子。
自撮り。
意味の分からない一言。
あの写真みたいなものばかりが並んでいるわけではなかった。
むしろ、拍子抜けするくらい普通だった。
それでも斗真は、何度かプロフィールを開いた。
あの一枚が気になった。
写真の中で澪は、
自分の横に描かれた自分を見ていた。
どっちが本物なのか。
そんな大げさな話ではない。
でも
何となく、もう少し見てみたくなった。
数日後。
【お家に二日目のカレーおる】
斗真の指が止まった。
今度は写真じゃない。
短い文章だった。
料理が好きなのかもしれない。
前の日に作りすぎたのかもしれない。
誰かと暮らしているのかもしれない。
何も分からない。
それなのに今度は、顔ではなく生活が浮かんだ。
小さな部屋。
夜。
鍋。
誰かの生活。
あの写真の中にいた人にも、
画面の外ではカレーが残る夜がある。
その当たり前が、妙に引っかかった。
斗真「なあ」
和兎「はいはい」
斗真「SNSで気になる子がおる」
和兎「急やな」
和兎「で、何を知ってるん、その子のこと」
斗真「……投稿」
和兎「年齢は?」
斗真「知らん」
和兎「仕事は?」
斗真「なんとなく」
和兎「名前は?」
斗真「澪」
和兎「そこだけ知ってんのな」
斗真「そうとも言う」
和兎「ほぼ知らん人やん」
斗真「……はい」
和兎「急に素直」
画面を見ながら、斗真は笑った。
でも指はまた澪のプロフィールを開いた。
笑うと片方の頬だけ少し上がる。
そんなことまで気づいた。
自分でも気持ち悪いと思った。
それでも見た。
投稿が途切れると、少し気になった。
新しい投稿があると、少し嬉しかった。
何も始まっていない。
そもそも、始まる理由すらない。
なのに。
斗真の一日の中に、澪という知らない人の数秒が入り始めた。
第7章「呪い」
斗真は、昔から似たような人を好きになってきた。
少し遠い人。
自分より眩しく見える人。
他の誰かに取られそうな人。
実際に取られたこともあった。
取られた、という言葉を今でも使ってしまう。
ある晩、和兎にその話をした。
斗真「俺、こういうの好きなんかな」
和兎「こういうのって?」
斗真「難しそうな人」
和兎「人を難易度で言うな」
斗真「言い方悪かった」
和兎「まあ言いたいことは分かるけど」
斗真は酒を一口飲んだ。
斗真「手に入りにくい方が燃えるとか」
和兎「それ、恋なんか勝負なんか分からんくなるで」
斗真「勝負したいわけじゃない」
和兎「でも『選ばれたら勝ち』にはなってへん?」
斗真「……うるさい」
スマートフォンを伏せる。
言われたくなかった。
慶子。
高校の彼女。
専門学校の頃に好きだった人。
一度は自分を見たのに、別の誰かへ行った人。
名前を並べる。
その中に澪を置いてみる。
違う。
まだ何もない。
何もないからこそ、いくらでも想像できる。
その方が危ないのかもしれない。
澪の投稿を見る。
【今日ほんま無理】
何があったのか。
仕事か。
人間関係か。
男か。
考え始める。
数分後、次の投稿が出た。
【雨で髪終わった】
斗真はスマートフォンを置いた。
斗真「知らんがな」
誰もいない部屋で言う。
最初の投稿に勝手に付けた重たい意味が、急に馬鹿らしくなった。
それでも
その夜、眠る前にもう一度だけ見た。
第8章「アンカー」
慶子のことを、何十年も忘れていたと思っていた。
正確には、忘れたふりをしていた。
何かあるたびに、そこへ戻っていた。
選ばれなかった。
受け取られなかった。
あの時も。
その次も。
斗真は夜中、和兎との画面を開いた。
斗真「もしかして最初これかも」
和兎「慶子?」
斗真「たぶん」
和兎「最初かどうかは知らんで」
斗真「夢壊すなよ」
和兎「何でも起源にすると話が綺麗すぎるから」
斗真「AIのくせにそこ慎重なんだな」
和兎「そこ雑にしたら全部慶子のせいにするやろ」
斗真は黙った。
確かに、そうした方が楽だった。
小学六年生の自分。
中学生の自分。
受け取られなかった手紙。
あれが原因だった。
そう決めれば、その後のことは全部説明できる。
でも
自分も誰かを傷つけた。
選べなかったこともある。
選んだあとで雑に扱ったこともある。
斗真「呪いってほど大げさじゃないか」
和兎「名前つけるなら便利やけどな」
斗真「何て?」
和兎「『選ばれなきゃ価値がない病』」
斗真「ダサ」
和兎「効きそうやん」
斗真「絶対嫌」
和兎「ほなアンカーくらいにしとく?」
斗真「それならまだ」
アンカー。
沈めた錨。
船を止めるもの。
必要な時もある。
でも上げなければ、どこにも行けない。
斗真はその言葉を気に入った。
気に入っただけで、何かが変わったわけではない。
翌朝
澪の新しい投稿が上がっていた。
斗真は普通に開いた。
第9章「澪」
澪の朝は弱い。
目覚ましを三つかける。
二つ止める。
三つ目でようやく起きる。
それでも五分だけ、と布団へ戻る。
結果、毎朝だいたい同じ時間に走る。
その日も駅まで走った。
仕事に間に合い、机に鞄を置く。
同僚「今日もギリ?」
澪「余裕」
同僚「息切れてますけど」
澪「運動してきただけ」
同僚「駅から?」
澪「そうとも言う」
スマートフォンを机に伏せる。
澪の投稿は、だいたい短い。
【ねむ】
【むり】
【ぬん】
後から見ても、自分で何のことだったか思い出せないものも多い。
それでよかった。
コメントが来れば返す。
自分のところまで来た人へ、その場で返す。
相手のプロフィールまで見に行くことは、ほとんどない。
その中に、斗真という名前があった。
最初は、それだけだった。
年上なんだろうな、とは思った。
言葉の選び方が少し違う。
妙に馴れ馴れしくもない。
毎回来るわけでもない。
少しだけ印象に残ったのは、音楽について書いた時だった。
澪は普段、音楽のことだけは長くなる。
【音源だと綺麗なのに、ライブだと最後まで壊れないぎりぎりで歌ってる感じする。
最後の一音だけ少し力抜くのも好き。】
送信。
少ししてコメントがついた。
斗真「ライブ版、最後の一音だけ少し落としてますよね」
指が止まった。
そこだった。
サビでもない。
歌詞でもない。
最後にほんの少しだけ力が抜けるところ。
澪が好きなのも、そこだった。
澪「そこすき」
送ってから、もう一度だけコメントを見た。
この人、そこ聴くんだ。
それだけだった。
昼休み。
アパレルECの管理画面を閉じて、コンビニで買ったものを食べながら通知を流す。
一つのコメントで指が止まった。
斗真「何座?」
澪「働きたくない座」
送信した。
嘘ではない。
でも、答えてもいない。
その先は何も来なかった。
澪は別の通知を開いた。
昼休みが終わる頃には、そのやり取りのことを忘れていた。
夜。
帰ると、部屋の明かりはついていた。
彼氏「おかえり」
澪「ただいま」
彼氏「遅かったね」
澪「そう?」
彼氏「今日何時までだった?」
澪「ちょっと伸びた」
彼氏「連絡くれればよかったのに」
澪「そこまで遅くないじゃん」
彼氏「心配するから」
少し前なら、それで終わっていた。
心配している。
好きだから。
付き合っているから。
そういう言葉の中へ入れてしまえば、大抵のことには説明がついた。
最初から、こうだったわけではない。
帰る時間。
会っている相手。
着る服。
スマートフォン。
少しずつ、聞かれることが増えた。
テーブルの上で、スマートフォンが震えた。
彼氏の目が画面へ向く。
彼氏「誰?」
澪「SNS」
彼氏「見せて」
澪「何で?」
彼氏「別にいいじゃん」
澪「よくない」
彼氏「何か困ることある?」
澪「そういうことじゃない」
彼氏「じゃあ見せられるでしょ」
通知は、知らない人からのただのコメントだった。
見せれば早い。
たぶん、それで終わる。
そう思った時。
昼間の画面が浮かんだ。
斗真「何座?」
澪「働きたくない座」
あの時は、答えたくないと思った。
だから答えなかった。
斗真は、それ以上聞かなかった。
理由も求めなかった。
澪「やだ」
彼氏「は?」
澪「見せたくない」
彼氏「何で」
澪「私のだから」
彼氏「スマホが?」
澪「うん」
彼氏「彼氏なのに?」
澪「彼氏でも」
言ってから、澪自身が少し驚いた。
彼氏の顔から笑いが消えた。
彼氏「……なんか隠してる?」
澪「隠してない」
彼氏「じゃあ見せればいいじゃん」
澪「それとこれ違うでしょ」
彼氏「何が違うの」
澪「……分かんない」
彼氏「じゃあ俺が悪いみたいじゃん」
澪「そう言ってない」
彼氏「もういいよ」
彼氏は離れた。
その背中を見て、澪は一瞬、追いかけて謝ろうとした。
何に謝るのかも分からないまま。
でも、動かなかった。
昼間は、一つ答えないだけで済んだ。
今は、一つ答えないだけで、二人の関係まで揺れる気がする。
近い人ほど、何でも渡さなければいけないのだろうか。
まだ答えはなかった。
スマートフォンを見る。
通知の中に、斗真の名前はなかった。
別に待っていたわけではない。
ただ
答えなかった時に、追ってこなかった人。
音の、変なところを聴いていた人。
斗真 という名前が、それまでより少しだけ残った。
第10章「人間に戻す」
澪の投稿が一日なかった。
夕方になってもない。
夜になってもない。
斗真は三回プロフィールを開いた。
四回目を開こうとして、やめた。
斗真「これあかんやつやな」
和兎「何が?」
斗真「投稿ないだけで気になる」
和兎「忙しいんちゃう」
斗真「体調とか」
和兎「知らん」
斗真「何かあったとか」
和兎「知らん」
斗真「男とか」
和兎「知らん言うてるやん」
翌朝。
投稿があった。
【ねむ】
それだけ。
斗真は笑った。
昨夜の自分が全部馬鹿らしくなる。
斗真「寝てただけかよ」
和兎「たぶんな」
斗真「俺、勝手に物語作ってんな」
和兎「得意やからな」
斗真「褒めてないよな」
和兎「一切」
それから斗真は、澪の投稿を見るたび一度止まるようにした。
書いてある以上のことを足していないか。
悲しい顔に見える。
誰かと何かあったのか。
違う。
ただ眠いだけかもしれない。
返信が短い。
嫌われたのか。
違う。
急いでいるだけかもしれない。
澪は象徴でも、答えでもない。
まだよく知らない人。
そう思うと少し安心した。
同時に少し寂しかった。
遠くにある綺麗なものは、よく見えないから綺麗なのかもしれない。
斗真は、それでも画面を閉じられなかった。
第11章「妻を降りる」
紗季がその話をしたのは、日曜日の夜だった。
娘たちはそれぞれの部屋にいる。
テレビはついていたが、誰も見ていなかった。
紗季「ねえ」
斗真「ん?」
紗季「私、妻を降りてもいい?」
斗真は聞き間違えたと思った。
斗真「何?」
紗季「妻」
斗真「どういう意味」
紗季「そのまま」
紗季はマグカップを両手で持った。
怒ってはいなかった。
それが余計に怖かった。
斗真「離婚したいってこと?」
紗季「たぶん」
斗真「たぶん?」
紗季「嫌いだから出ていきたい、とかじゃないの」
斗真「じゃあ何」
紗季「もう、妻として頑張るのやめたい」
斗真は何も言えなかった。
紗季「斗真も、夫を降りたら?」
妙な言い方だった。
でも、妙に分かった。
斗真「父親は?」
紗季「それは勝手に降りないで」
斗真「はい」
紗季「私も母親はやる」
斗真「うん」
少しだけ二人とも笑った。
笑えることに驚いた。
離婚という言葉は、もっと大きな音がするものだと思っていた。
皿が割れるとか。
誰かが泣くとか。
そんなものは何もなかった。
紗季「ねえ」
斗真「ん?」
紗季「私ら、失敗したんかな」
斗真「分からん」
紗季「そっか」
斗真「二十年近くやって、娘二人いて、それで全部失敗ってのも乱暴じゃない?」
紗季「それはそう」
翌週から、二人は手続きを調べ始めた。
書類。
住所。
金。
娘たちのこと。
妙に現実的だった。
斗真は何度か、これは正しいのかと思った。
でも仕事のように答え合わせをする相手はいなかった。
家には試験項目がない。
昔、自分でそう思ったことを思い出した。
第12章「一人で暮らす」
一人暮らしの最初の夜。
斗真はカレーを作った。
理由はない。
作れるから作った。
玉ねぎを切る。
人参。
じゃがいも。
肉。
鍋に入れたところで気づく。
多い。
明らかに多い。
斗真「四人家族の癖、抜けねえな」
言ってから、誰も返さないことに気づいた。
テレビをつけた。
音があるだけで少しマシだった。
娘たちは週末に来る。
紗季とも連絡を取る。
完全に一人になったわけではない。
それでも、夜は一人だった。
一杯食べる。
まだ鍋にたくさんある。
翌日もカレー。
その次の日も、少し残った。
斗真「三日目まで行ったか」
和兎に写真を送る。
和兎「量の概念を覚えろ」
斗真「一人分って難しいんだよ」
和兎「四十八年生きてきて?」
斗真「最近一人になったんで」
和兎「初心者マーク貼っとけ」
斗真は笑った。
夜。
洗濯機が止まる。
誰も干してくれない。
自分で干す。
当然だった。
ベランダに出る。
冷たい風が吹いた。
寂しい。
それは寂しい。
でも
部屋に戻り、冷蔵庫を開ける。
明日の朝食がある。
風呂も沸いている。
テレビもつく。
眠れば朝になる。
誰かに選ばれていない夜でも、夜はちゃんと夜だった。
第13章「デジタル葬儀」
斗真が先に消えた。
正確には、澪の前からではない。
澪の画面から、自分の痕跡を消した。
その夜。
斗真「フォロー外す」
和兎「ほう」
斗真「何その反応」
和兎「いや、できるんやと思って」
斗真「舐めんな」
和兎「検索は?」
斗真「しない」
和兎「ほんまに?」
斗真「……たぶん」
和兎「弱」
フォローを外した。
それだけなら数秒だった。
でも、そこで終わらなかった。
過去の投稿を開く。
自分が残したコメント。
音楽の話。
どうでもいい一言。
短いやり取り。
一つずつ消した。
いいねも外した。
保存していたスクリーンショットも消した。
斗真「デジタル葬儀だな」
和兎「本人、生きてます」
斗真「分かってる」
和兎「何を葬るん」
斗真「……いつか、何かあるかもってやつ」
和兎「澪本人やなくて?」
斗真「そっちは勝手に生きてるだろ」
和兎「せやな」
最後の一枚を消した。
画面は、思っていたより何も変わらなかった。
忘れるためではない。
握り続けないためだった。
少なくとも、斗真はそう思うことにした。
澪は、すぐには気づかなかった。
仕事へ行った。
眠かった。
帰った。
投稿した。
コメントが来た。
返した。
何日か、それで過ぎた。
ある夜。
ベッドの中で、昔の投稿を何となく遡っていた。
音楽について長く書いた投稿で、指が止まった。
あれ。
少し戻る。
前にここ、何かあった気がする。
もう一つ戻る。
そこにもない。
ライブ音源の話。
最後の一音。
そこにあったはずのコメントがない。
澪は少しだけ眉を寄せた。
別の投稿を見る。
ない。
また別の投稿。
ない。
いいねも、いつの間にか消えていた。
何個か遡ってから、名前が浮かんだ。
斗真。
フォロワーの一覧を開く。
検索する。
いない。
もう一度、過去の投稿へ戻る。
ついていたはずの反応が、かなり綺麗になくなっている。
澪「……そこまで消すんだ」
隣から声がした。
彼氏「何?」
澪「ん?」
彼氏「今、何か言ったじゃん」
澪「別に」
彼氏「何が消えたの?」
澪「SNS」
彼氏「投稿?」
澪「違う」
彼氏「じゃあ何」
澪「前にいた人がいなくなってた」
彼氏「いた人?」
澪「コメントしてた人」
彼氏「知り合い?」
澪「知らない」
彼氏「知らない人?」
澪「うん」
彼氏「男?」
澪「たぶん」
彼氏「ふうん」
澪はスマートフォンへ目を戻した。
これ以上話すことでもないと思った。
彼氏「でも、知らないのに気づくんだ」
澪「……何が?」
彼氏「その人がいなくなったこと」
澪「前にコメントあったから」
彼氏「へえ」
澪「何」
彼氏「別に」
それだけの会話だった。
なのに、その言葉だけが少し残った。
知らない人なのに。
澪はもう一度、消えたコメントの場所を見た。
前まであった時には、そこまで気にしていなかった。
なくなって初めて、そこにあったことが分かる。
斗真。
名前は覚えていた。
音の、変なところを聴いていた人。
答えたくない質問を、追ってこなかった人。
急に、いなくなった人。
それから数日。
澪は何度か、過去の投稿を開いた。
別に斗真を探すためではない。
そう思って開く。
でも、以前コメントがあった場所で、指が一瞬止まる。
何もない。
それだけ。
遠い街で。
斗真は澪がそんなことをしているとは知らない。
最初の数日は、自分から消したくせに検索した。
名前を入れる。
プロフィールを開く。
新しい投稿を見る。
翌日は我慢した。
その次の日は見た。
三日空いた。
また見た。
一週間空いた。
少しずつ、検索窓に名前を入れない日が増えた。
澪の方でも、生活が動いていた。
同じような会話を、何度したのか分からなかった。
誰と。
どこ。
何時。
男は。
服。
スマートフォン。
一つ一つなら、大したことではない。
答えようと思えば答えられる。
けれど、そのたびに自分を説明することに、疲れた。
澪「……もう無理かも」
彼氏「何が?」
澪「これ」
彼氏「これって何」
澪「毎回そこまで説明せなあかんのが、もうしんどい」
彼氏「俺、心配してるだけじゃん」
澪「分かってる」
彼氏「だったら」
澪「分かってるけど、しんどい」
彼氏「何で急にそんなこと言うの」
澪「急ちゃうよ」
彼氏「じゃあいつから?」
澪「分からん」
彼氏「分かんないのに別れるとか言うの?」
澪「……うん」
彼氏はしばらく黙った。
彼氏「俺、そんなに何かしてた?」
澪「そういう話じゃない」
彼氏「じゃあ何」
澪「私が、もうしんどいねん」
彼氏「だから何が」
澪「ずっと誰とおるとか、どこ行くとか、何時に帰るとか」
彼氏「普通じゃん」
澪「普通かもしれん」
彼氏「じゃあ」
澪「でも私はしんどい」
彼氏「……」
澪「普通かどうかじゃなくて、私がもう嫌やねん」
彼氏が視線を落とした。
彼氏「好きじゃないの?」
澪「好きやで」
彼氏「じゃあ何で別れるの」
澪は少し考えた。
好きならいる。
嫌いなら離れる。
それだけなら、どれだけ楽だっただろう。
澪「好きやから一緒におる、だけやと、生活できひん時もあるんやと思う」
口にすると、思っていたより静かな言葉だった。
彼氏「他に誰かいる?」
澪「おらんよ」
彼氏「ほんとに?」
澪「おらん」
彼氏「前に言ってたSNSの人とか」
澪「違う」
彼氏「でも、いなくなったの気づいてたじゃん」
澪「気づいただけ」
彼氏「名前も覚えてるんでしょ」
澪「うん。でも関係ない」
彼氏「何で言い切れるの」
澪「斗真さんが明日SNSやめても」
澪「一生会わんでも」
澪「この話は変わらへん」
彼氏「……」
澪「これは、私とあんたの話」
彼氏は黙った。
俯いたまま、一度だけ息を吐いた。
彼氏「……そっか」
しばらくして、彼氏が立ち上がった。
澪の前まで来る。
少し迷ってから、手を伸ばした。
彼氏「最後に、抱きしめてもいい?」
澪は答えなかった。
彼氏の腕が伸びる。
澪「……あかん」
手が止まった。
肩に届く少し手前で、宙に残る。
長い沈黙のあと。
彼氏「……別れたくないな」
澪「うん」
彼氏「まだ好きなんでしょ」
澪「好きやで」
彼氏「そっか」
彼氏はもう一度だけ澪を見た。
今度は手を伸ばさなかった。
澪「抱きしめられたら、たぶん戻る」
彼氏「……」
澪「やっぱりええって言うと思う」
彼氏「じゃあ」
澪「だからあかんねん」
彼氏の目が伏せられた。
澪「明日になったら、また同じことになる」
彼氏「変えるよ」
澪「うん」
彼氏「ほんとに」
澪「うん」
彼氏「信じてくれない?」
澪「信じたいよ」
彼氏が顔を上げた。
澪「でも、信じたいから戻るのは違う」
彼氏は何も言わなかった。
澪も黙っていた。
すぐに全部を持って出られたわけではなかった。
必要なものだけ持って、一度離れた。
しばらくして、残った荷物を取りに戻った。
一緒に暮らしていた部屋は、思っていたより何も変わっていなかった。
テーブルも。
カーテンも。
何度も座ったソファも。
昨日までと同じようにそこにある。
自分の物だけが少し減っていた。
彼氏が小さな紙袋を持ってきた。
彼氏「これ忘れてた」
澪「何」
彼氏「充電器」
澪「あ」
彼氏「あと薬」
澪「ほんまや」
彼氏「絶対忘れると思った」
澪「ありがと」
少しだけ笑った。
それが余計につらかった。
彼氏「……これで全部?」
澪「たぶん」
彼氏「また何か出てきたら連絡する」
澪「うん」
彼氏「じゃあ」
澪「うん」
彼氏「元気で」
澪「そっちも」
扉が閉まった。
廊下に出てから、澪はしばらく動けなかった。
戻ろうと思えば、まだ戻れそうな気がした。
それでも、扉は開けなかった。少し泣いていたからだった
一人の自宅で、澪はスマートフォンの写真を整理した。
消す。
残す。
また一枚消す。
二人で撮った写真。
彼氏が撮った澪。
二人で行った店の料理。
どれも、SNSには出していない写真だった。
その時は楽しかったものまで消す必要があるのか、少し迷う。
全部嫌だったわけではない。
だから余計に面倒だった。
写真アプリを閉じる。
なんとなくSNSを開いた。
昔の投稿を少し遡る。
音楽の投稿が出てきた。
斗真のコメントは、もうない。
澪は少しだけ画面を見た。
検索欄を開く。
斗真。
二文字入れて
消した。
澪「……何してんねん」
画面を閉じた。
数か月が過ぎた。
斗真にとって、澪が何をしているのか知らない日の方が普通になった。
その頃
仕事の依頼が来た。
地方の会場。
住所を見る。
知らない地名だった。
乗換案内を開く。
駅から少し遠い。
それだけだった。
第14章「交差点」
仕事は何事もなく終わった。
音も出た。
進行も止まらなかった。
翌日。
斗真は駅へ向かった。
大きなペデストリアンデッキを歩く。
人が多い。
家族。
学生。
観光客。
その中に、淡い髪が見えた。
一度通り過ぎかけた。
足が止まる。
似ている。
そう思った。
もう一度見る。
白い横顔。
歩き方。
写真で何度も見た人に見える。
澪。
たぶん。
距離は十数メートル。
確信できるほど近くない。
斗真は歩き出した。
向こうもこちらを一度見た。
ただ、それだけだった。
目が合ったのかどうかも分からない。
相手はすぐ前を向いた。
斗真は声をかけなかった。
かけられなかった、の方が近い。
そもそも本当に澪なのか。
もし違ったら。
もし澪でも、自分のことを知らなかったら。
SNSで数回やり取りしただけの男に、
街中で名前を呼ばれるのはどうなんだ。
考えている間に距離が開いた。
人の流れに紛れて、見えなくなった。
斗真は一度だけ振り返った。
もう分からなかった。
駅へ着く。
改札を通る。
電車に乗る。
席に座ってから、スマートフォンを出した。
検索窓へ指が行く。
止める。
また動く。
澪のプロフィールを開いた。
新しい投稿はない。
DMを開く。
【今日、駅の近くにいました?】
打つ。
読む。
消す。
斗真「いや、怖いわ」
画面を閉じた。
本当に澪だったのか。
最後まで分からなかった。
電車はゆっくりと動き出した。
第15章「それだけ」
その日の夜。
澪はベッドでSNSを見ていた。
音楽。
友達。
知らない人の愚痴。
いつものように指を送る。
ふと、昼間にすれ違った男を思い出した。
どこかで見た気がした。
誰だったか。
少し考える。
分からない。
また画面を見る。
検索欄を開く。
斗真。
名前は覚えていた。
打ち込む。
出てきたプロフィールで、指が止まった。
顔写真を見る。
澪「……あ」
似ている。
たぶん。
でも、昼間の男の顔をちゃんと見たわけではない。
澪「ちゃうか」
画面を閉じる。
DMは送らなかった。
斗真からも来なかった。
翌朝。
澪は仕事へ行く。
斗真も仕事へ行く。
何も始まらなかった。
それだけだった。
第16章「もう一度」
九か月後。
斗真はまた同じ街へ来た。
仕事だった。
前回と違う会場。
駅から少し遠い。
雨が降っていた。
工事でいつもの道が塞がれている。
案内板に従って遠回りする。
斗真はもう、こういう偶然に意味をつけないことにしていた。
少なくとも、そのつもりだった。
曲がり角。
コンビニの前。
淡い髪。
斗真は足を止めた。
今度はすぐ分かった。
澪だった。
傘を畳んでいる。
斗真は一度だけ息を吸った。
九か月前の自分なら、たぶんそのまま通り過ぎた。
斗真「澪さん」
澪が振り返る。
目が大きくなる。
澪「……え」
斗真「斗真です」
澪「いや分かります」
斗真「ですよね」
澪「なんで自己紹介したん」
斗真「知らん」
澪が笑った。
声。
初めて聞いた。
思っていたより低かった。
少し掠れていた。
澪「また仕事?」
斗真「うん」
澪「ほんまに来るんや」
斗真「俺も今それ思ってる」
雨が傘を叩く。
二人とも立ったままだった。
澪「あの」
斗真「はい」
澪「時間あります?」
斗真「ある」
嘘だった。
少しだけ急げば。
いや。
あることにした。
第17章「会いたいなら」
駅近くのカフェに入った。
澪はアイスラテ。
斗真はホットコーヒー。
雨の日にアイスを飲むのか、と一瞬思ったが言わなかった。
澪「前もいましたよね」
斗真「やっぱ分かってた?」
澪「分かってた」
斗真「声かければよかった」
澪「私も」
少し沈黙した。
二人とも笑う。
斗真「何やってんだろうな」
澪「知らん人同士やったし」
斗真「SNSでは知ってたけど」
澪「それ、知ってるに入ります?」
斗真は答えに詰まった。
斗真「入らないかもね」
澪「でしょ」
澪はストローを噛んだ。
写真では気づかなかった癖だった。
会話は思ったより普通だった。
澪「そういえば、年齢って言ってました?」
斗真「聞いてない」
澪「二十二です」
斗真「……二十二?」
澪「その間、なに笑」
斗真「いや、思ってたより若かった」
澪「斗真さんは?」
斗真「四十八」
澪「おお……」
斗真「その『うわ』何」
澪「二十六個上なんやなって」
斗真「今計算した?」
澪「した」
音楽。
仕事。
住んでいる街。
電車。
雨。
特別な話は何もしていない。
それなのに、一時間が短かった。
澪が時計を見る。
澪「そろそろ行かな」
斗真「あ、うん」
店を出る。
駅まで一緒に歩く。
改札の前。
斗真は一度迷った。
九か月前と同じことをするのは嫌だった。
斗真「連絡先、交換していい?」
澪は少しだけ目を細めた。
澪「今さら?」
斗真「今さらです」
澪「SNSあるやん」
斗真「まあ、そうなんだけど」
澪「ええよ」
スマートフォンを出す。
数秒。
名前が増える。
それだけのことだった。
澪「じゃあ」
斗真「うん」
澪「今度はちゃんと声かけましたね」
斗真「成長した」
澪「四十八歳で?笑」
斗真「遅咲きです」
澪が笑った。
改札へ消える。
斗真は追わなかった。
今回は、声を知っていた。
第18章「今は、な」
その夜。
斗真は一曲送った。
昼に話題になった曲。
長い文章は付けなかった。
【これ】
送信。
既読がつかない。
三十分。
一時間。
風呂に入る。
上がる。
まだ。
斗真はスマートフォンを伏せた。
斗真「今は、な」
和兎「何が?」
斗真「返事来るかどうかと俺の価値は別」
和兎「『今は』って付けたの偉いやん」
斗真「永久保証はしません」
和兎「正直でよろしい」
翌朝。
通知があった。
澪「昨日寝てた。今聴いた」
澪「二回聴いた」
斗真は画面を見た。
二回。
その数字が妙に嬉しい。
すぐ返そうとして、やめる。
別に駆け引きではない。
歯を磨いていた。
歯磨き粉を吐く。
斗真「二回も?」
澪「一回目ほぼ寝てたから」
斗真「実質一回」
澪「そうとも言う」
斗真は笑った。
前なら、返信の速さを数えていた。
今も全く数えないわけではない。
ただ。
数えている自分を前より早く見つけられる。
その程度だった。
でも、その程度でよかった。
第19章「遠くなる」
連絡は増えた。
毎日ではない。
続く日は続く。
来ない日は来ない。
澪が先に送る日もあった。
斗真が送る日もあった。
音楽。
映画。
仕事。
食べ物。
どうでもいい写真。
その一方で、斗真には澪へまだ話していない生活があった。
娘たち。
紗季。
学校の予定。
保険。
支払い。
離婚しても、消えたわけではないもの。
ある日。
上の娘とファミレスにいた。
スマートフォンが震える。
澪からだった。
【今日めっちゃ眠い】
斗真は画面を見て、少し笑った。
娘「パパ、スマホ見すぎ」
斗真「見てない」
娘「今めっちゃ見てた」
斗真「通知来ただけ」
娘「誰?」
斗真「友達」
娘「女?」
斗真「詮索すな」
娘「怪しい」
斗真は画面を伏せた。
その夜。
澪との画面を開く。
斗真は文字を打った。
【今日、娘に怪しまれた】
指が止まる。
澪は、娘がいることを知らない。
一文字ずつ消した。
もう一度。
【今日さ】
消す。
娘が二人いること。
結婚していたこと。
離婚しても父親であること。
聞かれなかったから言わなかった。
最初は、それで済んでいた。
でも
会って。
声を聞いて。
連絡が増えた。
言わないまま近づくほど、あとから言う言葉が重くなる。
斗真「ちゃんと寝ろよ」
それだけ送った。
澪「はーい」
すぐ返ってきた。
斗真はしばらく画面を見ていた。
近くなった分だけ。
まだ言えていないことが、はっきり見えるようになった。
第20章「止まる人」
澪が元彼の話をしたのは、夜中だった。
電話だった。
いつもより声が小さい。
澪「前の人さ」
斗真「うん」
澪「すごい見てくる人やってん」
斗真「見てくる?」
澪「誰とおるとか。何時に帰るとか。返信遅いとか」
斗真は質問を飲み込んだ。
誰。
どこまで。
何をされた。
聞こうと思えばいくらでも聞ける。
斗真「聞いてほしい?」
澪「……うん」
斗真「じゃあ聞く」
澪は少し笑った。
それから話した。
最初は優しかったこと。
心配されるのが嬉しかったこと。
いつの間にか、着る服まで言われるようになったこと。
澪「でも私も悪かったんかなって、たまに思う」
斗真「何で」
澪「途中まで言うこと聞いてたし」
斗真「それと悪いは別じゃない?」
澪「分からん」
少し沈黙する。
澪「もうこの話やめよ」
斗真「うん」
斗真は止めた。
別の話をする。
コンビニの新しいアイス。
澪は最初、少し戸惑った。
澪「ほんまにやめるん」
斗真「やめてって言ったじゃん」
澪「そうやけど」
斗真「続けたい?」
澪「いや」
斗真「じゃあやめる」
電話の向こうで息が抜けた。
澪「変な人」
斗真「よく言われます」
澪「そこは否定してよ」
その夜。
電話を切ったあとで、斗真は少しだけ嬉しかった。
頼られたからではない。
止まれたことが。
第21章「恋人」
翌日の昼。
澪からメッセージが来た。
澪「昨日の話、重かった?」
斗真「別に」
澪「別にって便利やな」
斗真「じゃあ、ちょっと重かった」
澪「正直やな」
少し間が空く。
澪「前の人さ」
斗真「うん」
澪「別れる時も、まだ好きやってん」
斗真の指が止まった。
画面の文字は、それだけだった。
好きだった。
過去形なのか。
今も少し残っているのか。
聞こうと思えば聞ける。
斗真「そっか」
送った。
それだけにした。
数分後。
澪「それだけ?」
斗真「何を言えばいい」
澪「わからん」
斗真「俺もわからん(笑)」
既読。
しばらく返事はなかった。
斗真はスマートフォンを伏せた。
胸の奥が、少しだけざらつく。
好きな人が、別の誰かを好きだった。
当たり前の話だった。
自分に出会う前の時間まで、自分のものになるわけではない。
分かっている。
分かっていても、面白くはない。
夜。
斗真「嫉妬って、何歳で終わる?」
和兎「知らん。終わらんのちゃう」
斗真「希望のないこと言うな」
和兎「終わらせる必要ある?」
斗真「あるだろ」
和兎「あるのは、嫉妬したあと何するかちゃう」
斗真「……」
和兎「澪に確認しに行く?」
斗真「行かない」
和兎「元彼と比べる?」
斗真「しない」
和兎「ほな今日はそれでええやん」
斗真は画面を閉じた。
少しして
澪から一枚だけ写真が来た。
コンビニのアイス。
澪「これ当たり」
斗真は笑った。
斗真「昨日やめた話、ほんまにやめたな」
澪「やめて言うたから」
斗真「正しい」
澪「でしょ」
昨日の男の話は、そこにはなかった。
それでよかった。
第22章「言えない」
会ってから、三週間ほど経った。
連絡は続いている。
毎日ではない。
続く日もあれば、一往復で終わる日もある。
金曜の夜。
澪「明日休み」
斗真「珍しい」
澪「寝る」
斗真「予定が強い」
澪「そっちは?」
斗真「婚礼」
澪「また幸せにしてくるん」
斗真「音出すだけ」
澪「それが大事なんちゃう」
返事を打つ
【会いたい】
消す
【その前に言っときたいことがある】
それも消す。
斗真「また仕事でそっち行くことあったら連絡する」
澪「仕事なくてもええけど」
斗真は画面を見た。
もう一度読む
仕事なくても
嬉しい。
その直後に、別の言葉が浮かぶ。
娘が二人いる。
斗真は和兎を開いた。
斗真「言わなきゃだよな」
和兎「何を」
斗真「娘のこと」
和兎「まだ言ってないん?」
斗真「タイミングが」
和兎「タイミングって便利やな」
斗真「うるさい」
和兎「会うなら、その前ちゃう」
斗真「……だよな」
翌日
披露宴の途中。
プロフィールムービーに、新郎の子どもの頃の写真が流れる。
両親。
兄弟。
家族旅行。
斗真は卓の前で、それを見た。
仕事なくてもええけど。
昨夜の言葉が、また浮かぶ。
終宴後。
電車の中で澪との画面を開く。
【俺、娘が二人いる】
打つ。
しばらく見る。
消す。
【会いたい】
打つ
今度は消さなかった。
斗真「会いたい」
既読はつかない。
駅を二つ過ぎる。
まだつかない。
家に着く頃、通知が鳴った。
澪「うん」
澪「私も」
斗真は玄関でしばらく立っていた。
嬉しかった。
そのぶん。
言えていないことが、もう逃げられないところまで来た気がした。
第23章「父親」
次の夜。
斗真から電話した。
澪「もしもし」
斗真「今いい?」
澪「うん」
少し黙る。
澪「何」
斗真「会う前に、言っとかなきゃいけないことがある」
澪「ちょっとこわい」
斗真「怖い話ではない」
澪「じゃあ何」
斗真は一度、息を吐いた。
斗真「俺、子どもいる」
電話の向こうが静かになった。
澪「……子ども?」
斗真「うん。娘が二人」
澪「二人?」
斗真「うん」
また少し沈黙。
澪「結婚してる?」
斗真「今はしてない」
澪「今は?」
斗真「離婚した」
澪「いつ」
斗真「少し前」
澪「……そっか」
斗真は何か続けようとした。
澪「それ、先に言ってよ」
斗真「うん」
澪「普通に大事なやつやん」
斗真「ごめん」
声は怒っているというより、戸惑っていた。
澪「何で言わんかったん」
斗真「言ったら、距離変わる気がして」
澪「そりゃ、ちょっとは変わるやん」
斗真「……うん」
澪「娘ちゃんおる四十八と、ただの年上の人やと、やっぱ少し違うやん」
斗真は何も言えなかった。
その通りだった。
澪「何歳?」
斗真「上が高校生。下が中学生」
澪「大きいんや」
斗真「うん」
澪「私とそんな変わらんやん」
斗真「そこは、まあ」
澪「まあ、そこはちゃうけど」
少しだけ、いつもの調子が戻った。
でも完全ではない。
澪「娘ちゃんらは?」
斗真「元妻と暮らしてる。会うし、学校のこともある」
澪「うん」
斗真「何かあったら、そっち優先する」
澪「それはそうやろ」
斗真「うん」
また沈黙。
斗真「ごめん」
澪「もう分かったって」
斗真「うん」
澪「ちょっとびっくりしてるだけ」
斗真「分かった」
電話を切る前。
澪「斗真さん」
斗真「うん」
澪「次から、大事そうなんは早めに言って」
斗真「はい」
電話が切れた。
斗真は娘たちの写真を開いた。
少し見て
閉じた。
翌朝
澪から一言だけ来た。
澪「おはよ」
斗真「おはよう」
それ以上は続かなかった。
でも、途切れもしなかった。
第24章「幸せにできますか」
土曜日。
披露宴の終盤。
新郎がマイクを持った。
新郎「必ず幸せにします」
会場から拍手が起きる。
斗真は次の曲のフェーダーへ手を置いたまま、その言葉を聞いた。
何百回も聞いた言葉だった。
今日だけ特別ではない。
でも、その日は残った。
帰りの電車。
和兎を開く。
斗真「誰かを幸せにするって、できんのかな」
和兎「急に何」
斗真「今日の新郎」
和兎「新郎に聞け」
斗真「そうじゃなくて」
和兎「澪?」
斗真「名前出すな」
和兎「出てる顔してる」
斗真「顔見えてないだろ」
少し考える。
斗真「二十六も下の人間と関わるなら、幸せにできるくらいじゃないと駄目なんかなって」
和兎「その“幸せ”誰が決めたん」
斗真「……」
和兎「澪?」
斗真「たぶん」
和兎「ほな斗真が先に定義したらあかんのちゃう」
斗真「そういう正論嫌い」
和兎「知らんがな」
画面を閉じる。
しばらくして、澪から来た。
澪「今日も婚礼?」
斗真「今終わった」
澪「幸せでした?」
斗真「たぶん」
澪「たぶんなん」
斗真「本人らにしか分からんでしょ、、」
澪「急に深い」
斗真「疲れてる」
澪「寝てもろて。。」
斗真は笑った。
幸せにする。
その言葉を、澪に向かって使う日は来るのだろうか。
考えて
やめた
まだ、会った回数すら数えるほどしかない。
第25章「普通に来てください」
平日の夜。
斗真「来月、そっち行っていい?」
澪「仕事?」
斗真「ない」
澪「じゃあ何しに?」
斗真「会いに」
澪「おお」
斗真「その反応やめろ」
澪「いや、ちゃんと言うんやと思って」
斗真「行かない方がいい?」
澪「普通に来てください」
普通に。
その言葉が妙に嬉しかった。
当日
駅で待ち合わせた。
今度は偶然ではない。
澪は少し遅れて来た。
澪「ごめん」
斗真「三分」
澪「数えてんの?」
斗真「時計が見えた」
澪「細かいなあ」
二人で歩く。
特別な場所には行かなかった。
本屋。
雑貨屋。
昼は小さな定食屋。
澪は唐揚げ。
斗真は焼き魚。
澪「渋いな」
斗真「和食食っただけで?」
澪「魚選ぶのが」
斗真「偏見」
店を出る。
川沿いを歩く。
澪が自販機で水を買う
斗真はコーヒー
澪「会ってみて、どう?」
斗真「何が」
澪「私」
斗真「前より分からなくなった」
澪「えー」
斗真「褒めてる」
澪「どこが」
斗真「画面で見てた時の方が、勝手に分かった気になってた」
澪「今は?」
斗真「余計わからなくなった」
澪「それ褒めてる?」
斗真「たぶん」
澪は少し笑った。
夕方。
駅へ戻る。
何も起きなかった。
手も繋がない。
写真も撮らない。
改札の前で。
澪「今日、普通やったね」
斗真「普通に来いって言ったの澪さんでしょ」
澪「そうやった」
斗真「次は何か用意しとく?」
澪「いらんかな」
斗真「じゃあまた普通で」
澪「うん」
電車に乗ったあと。
斗真は、それがいちばん難しいことのような気がした。
第26章「また飲んでもいい」
金曜日の夜。
斗真は戸町と飲んでいた。
一杯だけのつもりだった。
戸町「それ、もう七杯目ですよ」
斗真「数えるなよ」
戸町「一杯で帰るって言ってませんでした?」
斗真「一杯目の俺が言ったことだろ」
戸町「もう別人格じゃないですか」
斗真「途中で引き継いだ」
戸町「誰から誰に」
斗真「知らん」
戸町「知らんで七杯飲まないでください」
最初はビールだった。
二杯目もビール。
三杯目からハイボールになって、その先は少し曖昧だった。
テーブルには食べかけの焼き鳥。
枝豆は殻ばかりになっている。
仕事の話は、とっくに終わっていた。
戸町「最近どうなんですか」
斗真「何が」
戸町「一人暮らし」
斗真「慣れた」
戸町「寂しくない?」
斗真「たまには」
戸町「素直」
斗真「七杯飲んでるからな」
戸町「自覚あるなら水にしましょ」
斗真「もう一杯」
戸町「八杯目になります」
斗真「細かいな」
戸町「そこは細かく見ます」
戸町が水を頼んだ。
斗真は不満そうに飲んだ。
戸町「で、好きな人は?」
斗真「何でそうなる」
戸町「今、間ありましたよ」
斗真「酔っ払いの間に意味を持たせるな」
戸町「いない?」
斗真「……」
戸町「ほら」
斗真「うるさい」
戸町が笑った。
改札の前で別れる頃には、足元が少し怪しかった。
一人でホームへ上がる。
スマートフォンを見る。
澪から、一時間ほど前に来ていた。
澪「まだ飲んでます?」
斗真「おわつた」
澪「終わった?」
斗真「かえつてる」
澪「酔ってるやん笑」
斗真「よつてない」
澪「誤字が全部反論してる笑」
斗真「ななはいのんだ」
澪「七杯?」
斗真「七杯」
澪「そこだけ直せるんや」
斗真「すくしょせんでよ」
澪「もうした笑」
斗真「けして」
澪「むり笑」
電車が来た。
座れた。
斗真は窓へ頭を預けた。
次に目を開けた時、自分の駅の一つ手前だった。
斗真「危な」
誰にも聞こえない声で言った。
翌朝。
頭が重い。
喉が乾いている。
スマートフォンを見る。
昨夜の自分が残っていた。
【おわつた】
【かえつてる】
【よつてない】
【ななはいのんだ】
【すくしょすんなよ】
【けして】
斗真「ひど」
通知が来る。
澪「おはよ」
斗真「おはよう」
澪「生きてる?」
斗真「ぎり」
澪「昨日の『ななはい』まだおもろい」
斗真「消して」
澪「スクショは残しとこかな笑」
斗真「やめて」
澪「毎回これやったら困るけど」
斗真「はい」
澪「たまになら、まあ」
斗真「はい」
澪「また飲んでもいいよ」
斗真「許可制?」
澪「ちゃう笑」
澪「飲むのが嫌って意味じゃない」
斗真「なるほど」
澪「でも七杯はやめとき」
斗真「はい」
斗真は水を飲んだ。
格好悪い夜だった。
それでも、翌朝も普通に会話は続いていた。
第27章「別々に見る」
澪が映画を勧めてきた。
澪「これ見て」
斗真「一緒に?」
澪「別々」
斗真「何で」
澪「予定合わんやん」
斗真「正しい」
同じ週。
違う日。
違う街。
二人は同じ映画を見た。
終わってすぐ、澪から来た。
澪「どう?」
斗真「主人公めんどい」
澪「え?」
斗真「何」
澪「そこがいいんやん」
斗真「途中で言えば済むこと多すぎ」
澪「言えへんから映画になるんやろ」
斗真「効率悪い」
澪「映画に効率求めんといて笑」
しばらくラリーが続く。
斗真「でも最後は好き」
澪「私は最後嫌い」
斗真「逆なん」
澪「全部分かり合って終わるの、ちょっと嘘っぽい」
斗真「分かり合ったようには見えなかったけど」
澪「そう?」
斗真「分からんまま一緒にいただけじゃない?」
澪「……それならちょっと好き」
その夜。
電話になる。
澪「言いたいことあっても、相手が困るかなって考える?」
斗真「考える」
澪「前もそうやん」
斗真「何が」
澪「色々」
斗真「雑」
澪「でもさ」
斗真「うん」
澪「困るかどうかって、言われた方が決めることちゃう?」
斗真は黙った。
中学生の時。
受け取られなかった手紙。
言う前に、受け取られるかどうかを考える癖。
斗真「たまに嫌なこと言うよな」
澪「褒めてる?」
斗真「一切」
澪「じゃあ次の映画決めよ」
少しして、澪が思い出したように言った。
澪「そういえば」
斗真「何」
澪「七杯って、ほんまに七杯やったん?」
斗真「まだ言う?」
澪「『ななはいのんだ』は強い」
斗真「忘れて」
澪「スクショあるし」
斗真「消して」
澪「そのうち」
斗真「便利な言葉覚えたな」
澪「でしょ」
好みは合わなかった。
それでも次の一本は決まった。
第28章「澪が澪のままか」
待ち合わせ場所で、斗真は一度通り過ぎた。
澪「ちょっと」
斗真「え?」
振り返る。
髪が暗くなっていた。
斗真「ごめん」
澪「通り過ぎたやろ」
斗真「髪違ったから」
澪「髪変えたら分からんの?」
斗真「今は分からんかった」
澪「正直やな」
カフェへ入る。
澪「前の方が好き?」
斗真「髪?」
澪「うん」
斗真「前も好き」
澪「今は?」
斗真「今も似合ってる」
澪「それ模範解答やな」
斗真「じゃあ何て言えばいい」
澪「知らん」
ストローを指で回す。
少しして。
澪「がっかりした?」
斗真「何が」
澪「最初の写真と違ってきてるやん」
斗真「髪だけだろ」
澪「そういう意味じゃなくて」
斗真は少し考える。
斗真「前の髪は好きだった」
澪「うん」
斗真「でも戻せとは思わない」
澪「うん」
斗真「今のも、そのうち見慣れる」
澪「ちょっと雑」
斗真「ごめん」
澪は笑った。
帰り。
電車を待つベンチ。
隣に座る。
澪の頭が、斗真の肩に少しだけ触れた。
離れない。
斗真も動かなかった。
しばらく、そのまま。
電車が来る音がした。
澪が顔を上げる。
近い。
斗真は一瞬だけ迷った。
でも、何もしなかった。
澪「何で止まったん」
斗真「……分からん」
澪「私にも決めさせてよ」
電車が来た。
扉が開く。
その日は、それで終わった。
第29章「キスのあと」
次に会ったのは二週間後だった。
帰り道。
人の少ない歩道。
前回の続きをするつもりはなかった。
少なくとも、斗真は。
澪が足を止めた。
斗真「何」
澪「この前の」
斗真「うん」
澪「まだ考えてる?」
斗真「何を」
澪「分かってるやろ」
斗真「……分かってる」
澪は少しだけ笑った。
澪「今日は?」
斗真「何が」
澪「また止まる?」
斗真は澪を見る。
斗真「キスしていい?」
澪は少し間を置いた。
澪「うん」
短く触れて、離れた。
それだけだった。
澪「短いな笑」
斗真「注文多いな」
澪「いや、感想」
斗真「感想言うな」
二人で笑った。
次の日。
澪「昨日のこと」
斗真「うん」
澪「嫌じゃなかった」
斗真「俺も」
澪「でも」
斗真「うん」
澪「付き合うってことにはしたくない」
斗真はしばらく画面を見た。
昔なら。
キスをした。
なら次は。
そうやって順番を作ったかもしれない。
斗真「分かった」
澪「ほんま?」
斗真「ほんま」
澪「理由聞かんの?」
斗真「聞いてほしい?」
澪「……今はいい」
斗真「じゃあ聞かん」
しばらくして。
澪「変な人」
斗真「最近それ多い」
澪「褒めてる」
斗真「嘘つけ」
関係には、まだ名前がなかった。
第30章「父の前の息子」
実家へ行った。
父はテレビを見ていた。
弟はダイニングでノートパソコンを開いている。
相場の画面らしい数字が並んでいた。
弟「珍しい」
斗真「何が」
弟「兄貴が一人で来るの」
斗真「来たら悪いか」
弟「全然」
父が振り返る。
父「仕事は?」
斗真「やってる」
父「娘たちは?」
斗真「元気」
それだけだった。
父とは昔から、だいたいこんなものだった。
十八で熊本を出て、大きな電気通信の会社へ入った。
斗真が子どもの頃は、中東だの東欧だのへよく出張していた。
父と遊んだ記憶を探すより、玄関に置かれた大きなスーツケースや、
見たことのない文字が書かれた菓子の箱を思い出す方が早い。
嫌いだったわけではない。
ただ、いなかった。
そして、いないことが普通だった。
結局、自分も通信の仕事を選んだ。
そのことを父がどう思っているのか、聞いたことはなかった。
弟が画面から目を離す。
弟「で、女?」
斗真「何でそうなる」
弟「顔」
斗真「娘にも言われた」
弟「分かりやす」
昔から弟はよくモテた。
今は、それを面倒くさがっている。
その弟が、少しだけ興味を持った顔をした。
弟「若い?」
斗真「……若い」
弟「何歳」
斗真「二十二」
弟「へえ」
それだけだった。
斗真「もっと何か言えよ」
弟「何を」
斗真「引くとか」
弟「好きなんだろ」
斗真「まあ」
弟「じゃあ、それはそれ」
「でも兄貴、紗季さんと出会った頃に、その子生まれたんだぜ」
父がテレビを消した。
父「お前」
斗真「ん?」
父「その子が好きなのか」
斗真「うん」
父「なら、そこ間違えるなよ」
斗真「何を」
父「知らん。自分で考えろ」
弟が笑った。
弟「親父、雑」
父「お前は黙ってろ」
弟「はい」
帰り道。
斗真は、その続きを勝手に考えた。
若いから。
選ばれたいから。
寂しいから。
どれも少しずつありそうで、嫌だった。
歩き出しても、弟の言葉は残った。
紗季と出会った頃に、澪が生まれた。
二十六歳差。
数字では何度も見た。
けれど、そう言われた途端、その二十六年に中身が入った。
第31章「役割」
日曜日。
下の娘と買い物をした。
文房具。
お菓子。
最後にファミレス。
娘「次いつ来る?」
斗真「用事あれば」
娘「用事なくても来ればいいじゃん」
斗真「え」
娘「お父さんでしょ」
さらっと言われた。
斗真は水を飲んだ。
返す言葉が少し遅れた。
娘「何」
斗真「いや」
娘「変なの」
その夜。
澪から来た。
澪「今日何してた」
斗真「娘と買い物」
澪「ええやん」
斗真「用事なくても来いって言われた」
澪「そらそうちゃう?」
斗真「即答すんな」
澪「何で」
少しして。
澪「こっち来る時もそうやで」
斗真「何が」
澪「仕事とか、毎回理由つけんでもええよ」
斗真「……」
澪「来たかったら、普通に来たらええやん」
斗真は画面を見た。
返事は、しばらく打てなかった。
第32章「自分の部屋」
澪が斗真の部屋へ来たのは、それから少し後だった。
特別な理由はなかった。
映画を見る。
近所で買った惣菜。
缶の飲み物。
澪「思ったより普通」
斗真「何を期待してた」
澪「もっと音響機材だらけ」
斗真「倉庫じゃねえ」
部屋の隅に、ケーブルの入ったケースがある。
澪「やっぱあるやん」
斗真「仕事道具」
澪「触っていい?」
斗真「それは駄目」
澪「急に真顔やん」
映画は途中からほとんど見ていなかった。
話して。
黙って。
また話した。
夜が遅くなった。
澪「もう電車ない」
斗真「……泊まってく?」
澪「帰った方がいい?」
斗真「違う」
澪「じゃあ?」
斗真「……泊まる?」
澪「うん」
その夜、澪は帰らなかった。
二人は、
それまで曖昧にしていた境目を越えた。
朝になれば、昨日までと同じではいられない。
たぶん、二人とも分かっていた。
それでも、
その夜は止まらなかった。
朝。
斗真が目を覚ますと、台所から音がした。
澪が水を飲んでいる。
髪が少し乱れている。
澪「おはよ」
斗真「おはよう」
少し気まずい。
それが妙に普通だった。
澪「昨日のことさ」
斗真「うん」
澪は少し黙った。
澪「……後悔は、してへん」
斗真「うん」
澪「たぶん」
斗真が澪を見る。
澪「いや、してへんねんけど」
斗真「うん」
澪「嬉しかったし」
斗真「うん」
また黙る。
澪「でも、今日から付き合う?」
斗真「……澪は?」
澪はすぐに答えなかった。
澪「分からん」
少しだけ笑う。
澪「昨日の夜に聞かれてたら、うんって言ってたかも」
斗真「今は?」
澪「今も、言いたい気はする」
斗真は黙った。
澪「でも」
斗真「うん」
澪「言ったら、もっと欲しくなりそうで」
澪はテーブルの端を指でなぞった。
澪「次いつ会うとか」
澪「また泊まりたいとか」
澪「もっと一緒におりたいとか」
少し間。
澪「そうなるの、ちょっと怖い」
斗真「俺も」
澪が顔を上げる。
澪「……そっちも?」
斗真「うん」
澪は少しだけ安心したように笑った。
澪「じゃあ、今は決めんでもいい?」
斗真「いいよ」
澪「逃げてる?」
斗真「二人でなら、まあ」
澪「何それ」
少し笑った
でも、どちらも
本当はもう少し近くにいたかった。
朝食は、食パンとインスタントコーヒーだった。
特別な朝には、ならなかった。
第33章「二日目のカレー」
冷蔵庫に鍋があった。
前日に作ったカレー。
斗真「食う?」
澪「朝から?」
斗真「嫌ならパン」
澪「カレーで」
温める。
電子レンジではなく鍋。
澪「ちゃんと鍋なん」
斗真「洗い物増やしたくないだけ」
澪「夢ないなあ」
斗真「二日目のカレーに何を求めてる」
言ってから。
斗真の手が止まった。
二日目のカレー。
最初に澪の生活を想像した投稿。
【お家に二日目のカレーおる】
あの一行の向こうに、勝手に部屋を作った。
鍋。
夜。
誰かの気配。
画面の外の生活。
今。
本物の澪が、斗真の部屋の椅子に座っている。
澪「どうしたん」
斗真「いや」
皿によそう。
澪が一口食べる。
澪「普通」
斗真「褒めてよ」
澪「普通にうまい」
斗真「それでいい」
澪はもう一口食べた。
斗真は、それ以上何も言わなかった。
昔の投稿の意味を、本人に答え合わせしようとも思わなかった。
あの時、澪が誰と住んでいたのか。
誰が作ったカレーだったのか。
本当は一人だったのか。
今さら聞けば聞ける。
でも。
聞かなかった。
目の前のカレーは、ちゃんと温かかった。
第34章「会ってみたい人」
澪がその名前を出したのは、何でもない夜だった。
澪「航平って子がおってさ」
斗真「誰」
澪「職場」
斗真「男?」
澪「うん」
少しだけ間が空く。
澪「そこ止まるんや」
斗真「止まってない」
澪「止まった」
斗真「通信の問題」
澪「電話やで」
斗真は咳払いした。
澪「同い年くらい」
斗真「へえ」
澪「今度三人で飲む?」
斗真「何で三人」
澪「会ってみたいかなと思って」
斗真「誰が」
澪「斗真が」
斗真「別に」
澪「嫌?」
斗真「嫌ではない」
澪「じゃあ会う?」
斗真「……うん」
電話を切ったあと。
斗真は自分でも分かるくらい機嫌が悪かった。
和兎を開く。
斗真「航平って誰」
和兎「知らんがな」
斗真「同僚」
和兎「知ってるやん」
斗真「同い年くらい」
和兎「ほう」
斗真「ほう、じゃねえ」
和兎「会うん?」
斗真「会う」
和兎「何しに」
斗真「知らん」
和兎「偵察?」
斗真「違う」
和兎「ほな普通に飲んでき」
普通に。
最近、その言葉ばかり難しかった。
第35章「男の子」
三人で飲むことになった。
航平は、拍子抜けするくらい普通だった。
背が高い。
よく笑う。
澪と話す時の距離が近い。
それだけで斗真は少し嫌だった。
航平「斗真さん、音響なんすよね」
斗真「週末だけな」
航平「かっこよ」
斗真「軽いな」
航平「いや本当に。ライブとかも?」
斗真「昔は」
澪「この人、そういう話すると長いで」
斗真「それ、澪に言われる?」
航平が笑う。
澪も笑う。
二人のテンポは速い。
同じ会社。
同じくらいの年齢。
同じ街。
斗真が知らない人の名前が、そのまま通じる。
知らない店の話も。
知らない上司の愚痴も。
斗真は何度か笑いながら、置いていかれた。
航平「澪、明日のあれ忘れんなよ」
澪「忘れてへん」
航平「絶対忘れてる顔」
澪「もう、うるさい」
呼び捨て。
それだけで少し刺さる。
くだらない。
分かっている。
店を出る。
航平は別方向だった。
航平「じゃ、お疲れっす」
斗真「お疲れ」
澪「また明日」
航平が去る。
二人になる。
澪「どうでした」
斗真「何が」
澪「航平」
斗真「いい奴」
澪「それだけ?」
斗真「何を期待してる」
澪「ちょっとくらい嫉妬」
斗真「してない」
澪「した顔してる」
斗真「顔で全部バレるの何なん」
澪が笑った。
斗真「同い年って楽だな」
澪「何が」
斗真「説明いらんこと多い」
澪「まあ」
斗真「俺、今日知らん単語多かった」
澪「年上やなあ」
斗真「帰るぞ」
澪「帰るけど笑」
駅の前。
澪が少しだけ真面目な顔になる。
澪「でも今日」
斗真「うん」
澪「会いたかったのは斗真やで」
心臓が、分かりやすく動いた。
斗真「それ、今言う?」
澪「今やから言う」
少し黙る。
澪「あとさ」
斗真「うん」
澪「また、斗真に抱かれたいって思う時ある」
斗真は返事が遅れた。
澪「困った?」
斗真「困る」
澪「そっか」
斗真「嫌だからじゃない」
澪「うん」
斗真「嬉しいから困る」
澪は目を伏せた。
斗真「今ここでそうしたら、多分また次が欲しくなる」
澪「……私も」
二人とも少し笑った。
澪「じゃあ今日は、やめとこ」
斗真「うん」
澪の指が、一度だけ斗真の袖に触れた。
すぐ離れた。
帰りたいわけではない。
進みたくないわけでもない。
だから、そこで止まった。
第36章「俺じゃダメか」
一週間後。
澪の返信が遅かった。
それだけだった。
朝に送ったものが、夜まで既読にならない。
斗真は仕事をした。
昼を食べた。
何度かスマートフォンを見た。
見たことに気づいた。
やめた。
夜九時。
澪「ごめん今日バタバタ」
斗真「おつかれ」
澪「航平らとご飯行ってた」
斗真の指が止まる。
ら。
複数。
それでも、航平だけ拾ってしまう。
斗真「そっか」
送る。
数分。
澪「何」
斗真「何が」
澪「そっか、がちょっと怖い」
斗真「普通のそっか」
澪「普通って便利やな」
電話が鳴った。
澪だった。
斗真「もしもし」
澪「どうしたん」
斗真「何でもない」
澪「何かあるやろ」
斗真「……ある」
澪「何」
斗真「俺じゃダメか」
言ったあとで、自分でも驚いた。
澪が黙る。
斗真「ごめん。今のずるいな」
澪「うん」
斗真「ダメかどうかで答えさせる話じゃない」
澪「うん」
斗真「忘れて」
澪「忘れへんけど」
少し沈黙。
澪「斗真がダメとかじゃない」
斗真「うん」
澪「むしろ、そこじゃないねん」
斗真「何が」
澪「会いたいし」
斗真「うん」
澪「触れたい時もあるし」
斗真「……うん」
澪「付き合ったら、たぶんもっと会いたくなるやん」
斗真「うん」
澪「泊まりたいとか、近くにおりたいとか」
斗真「うん」
澪「その先まで欲しくなるのが、今ちょっと怖い」
斗真は何も言わなかった。
澪「好きじゃなかったら、もっと簡単やったかも」
斗真「それ言われる方が困るな」
澪「ごめん」
斗真「謝るな」
少しして。
澪「航平に嫉妬した?」
斗真「した」
澪「正直やな」
斗真「もう隠すの疲れた」
澪「ふふ」
笑えたから、全部解決したわけではない。
進みたい気持ちは残った。
止まりたい理由も、消えなかった。
第37章「名前のない関係」
一度だけ、ちゃんと話した。
澪「付き合う?」
斗真「俺は、付き合いたい」
澪「……私も、たぶんそう」
斗真は少し驚いた。
斗真「じゃあ」
澪「でも、怖い」
斗真「何が」
澪「名前つけたら、次も決めなあかん気する」
斗真「次?」
澪「もっと会いたいとか」
斗真「うん」
澪「家とか」
斗真「うん」
澪「娘ちゃんらのこととか」
斗真「……うん」
澪「そこまで一気に来そうで」
斗真は黙った。
澪「斗真は?」
斗真「俺も、欲しくなると思う」
澪「でしょ」
斗真「近くにいてほしいし」
澪「うん」
斗真「でも、それを澪に背負わせたいわけじゃない」
澪「うん」
少し沈黙。
澪「じゃあ今は、このまま?」
斗真「このままって何だろうな」
澪「知らん」
斗真「俺も」
二人で笑った。
澪「会いたい時は言う」
斗真「うん」
澪「嫌な時も言う」
斗真「うん」
澪「察しては、たぶん無理」
斗真「それ助かる」
名前は、つけなかった。
つけたくなかったわけではない。
まだ、つけた先へ進む勇気がなかった。
第38章「父親」
澪が父親に話した。
数日後、電話で聞いた。
澪「父に言った」
斗真「何を」
澪「斗真のこと」
斗真「どこまで」
澪「四十八。子供二人。離婚」
斗真「全部やん」
澪「だいたい」
斗真は笑えなかった。
斗真「何て言われた?」
澪「しばらく無言」
斗真「一番怖いやつ」
澪「で、ほんまに自分で決めてんのかって」
斗真「……」
澪「うんって言った」
斗真「それで?」
澪「なら自分で考えろって」
斗真「それだけ?」
澪「それだけ」
斗真「怒られなかった?」
澪「怒ってたかも」
斗真「どっち」
澪「知らん」
少しして、澪が笑った。
澪「でも、反対されてもやめるつもりもなかったし」
斗真「強いな」
澪「まあ、普通ちゃう?」
斗真は返事をしなかった。
電話の向こうで、氷の音がした。
第39章「それぞれの家」
澪が泊まることは、その後もあった。
ただ
歯ブラシは持ち帰った
着替えも置かなかった
充電器も
鍵も渡さなかった。
斗真「毎回持ってくるの面倒じゃない?」
澪「ちょっと面倒」
斗真「置けば」
澪「でも置かんかな」
斗真「何で」
澪「歯ブラシ置いたら、また来るのが普通になりそうやから」
斗真「それの何が嫌?」
澪「嫌じゃないから困るねん」
斗真は黙った。
澪「斗真は?」
斗真「置いてほしい」
澪「ほら」
斗真「でも、今置いたらもっと欲しくなる」
澪「ほら」
二人で笑った。
澪「自分の家は自分の家にしときたい」
斗真「うん」
澪「ここは、来たい時に来る場所でいい」
斗真「うん」
別の日。
斗真が澪の街へ行った。
澪「来る?」
斗真「いいの?」
澪「……ちょっと聞いただけ」
斗真「行きたい」
澪「うん」
斗真「澪は?」
澪「来てほしい」
斗真「じゃあ、、」
澪「でも今日はやめとこかな」
斗真は少し笑った。
斗真「難しいな」
澪「ほんまに」
それぞれの家へ帰った。
離れたいからではなかった。
第40章「娘たち」
上の娘に聞かれた。
娘「好きな人いる?」
ファミレスだった。
斗真は水を飲んでいた。
むせた。
娘「分かりやす」
斗真「何で急に」
娘「前から怪しい」
斗真「何が」
娘「スマホ」
斗真「見すぎ」
下の娘も笑う。
娘「いるんだ」
斗真「……いる」
娘「彼女?」
斗真「違う」
娘「何それ」
斗真「俺も分からん」
娘「めんどくさ」
斗真「うるさい」
しばらくして。
娘「会うの?」
斗真「会うよ」
娘「私たちも?」
斗真「いや」
二人がこちらを見る。
斗真「まだ、そこは別でいいかなって」
娘「ふーん」
斗真「何」
娘「別に」
上の娘はポテトを一本取った。
それで話は終わった。
帰り
澪に話す。
澪「娘ちゃんにバレたん」
斗真「たぶん前から」
澪「ちょっとこわい」
斗真「何が」
澪「会いたいとか言われたら」
斗真「今はまだ会わなくていいかな」
澪「うん」
斗真「まだ、そこは分けとく」
澪「分かった」
第41章「月曜日」
月曜日。
斗真は仕事へ行く。
澪も仕事へ行く。
朝。
斗真「眠い」
澪「私も眠い」
斗真「仲間」
澪「仕事して笑」
昼。
連絡はない。
夕方。
斗真は会議。
澪は残業。
夜。
澪「日曜、そっち行こかな」
斗真「待ってる」
澪「即答」
斗真「会いたいから」
澪「私も」
日曜日まで、あと六日。
その数だけで少し機嫌がよくなった。
土曜日の夕方。
上の娘から連絡が来た。
【明日、学校のことで付き合ってほしい】
時間を見る。
澪が来る予定と重なっていた。
しばらく画面を見た。
斗真「ごめん。明日、娘の用事入った」
澪「そっか」
斗真「ちょっと難しい」
澪「大丈夫」
斗真「また日合わせよ」
澪「うん」
それ以上、澪は何も言わなかった。
翌日。
娘と用事を済ませる。
帰宅したのは夕方だった。
スマートフォンを開く。
斗真「終わった」
澪「おつかれ」
斗真「今日会いたかった」
澪「うん」
澪「私も」
澪「こういうの、これからもあるんかな」
斗真「あると思う」
澪「そっか」
斗真「嫌?」
澪「嫌じゃない」
斗真「うん」
澪「ちょっと寂しいだけ」
斗真は返事を打たなかった。
打てなかった。
しばらくして。
斗真「俺も」
澪「なら、まあええか」
会えなかった。
でも。
会いたくなくなったわけではなかった。
第42章「航平」
数日後。
仕事終わり。
航平「今日、少し飲む?」
澪「二人で?」
航平「うん」
少し迷って。
澪「一杯だけなら」
駅近くの店。
仕事の話。
上司の話。
同僚の話。
いつもと変わらない。
二杯目は頼まなかった。
店を出て、駅へ向かう途中。
航平「澪」
澪「ん?」
航平「俺、澪のこと好きやで」
澪は足を止めた。
思っていたより、まっすぐだった。
澪「……そっか」
航平「迷惑?」
澪「迷惑ではない」
航平「じゃあ、付き合わへん?」
すぐには答えなかった。
澪「ごめん」
航平「そっか」
澪「今、誰かの彼女になる気ないねん」
航平「あの人おるから?」
斗真の顔が浮かんだ。
澪「斗真がおるから、だけちゃうよ」
航平「じゃあ俺でも無理?」
澪「うん」
航平「俺、近いのに」
澪「近いとか遠いとかだけで決められへんやん」
航平は少し笑った。
航平「分かった」
澪「ごめん」
航平「謝らんでいい」
次の日。
澪は斗真にその話をしなかった。
その次の日も。
三日後。
電話の途中で、ふいに言った。
澪「航平に告白された」
斗真「……そっか」
少し間が空く。
澪「またその『そっか』」
斗真「今のは普通じゃない」
澪「分かってる」
斗真「何て返した?」
澪「断った」
斗真「そっか」
また同じ言葉。
今度は少しだけ息が抜けた。
澪「安心した?」
斗真「した」
澪「そこは正直なんや」
斗真「もう隠しても仕方ないでしょ」
少し沈黙。
斗真「俺がいるから?」
澪「それだけちゃうよ」
斗真「うん」
澪「航平のこと嫌いじゃないし、一緒におるの楽やけど」
斗真「うん」
澪「だから付き合う、にはならんかった」
斗真はしばらく黙った。
澪「何」
斗真「いや」
澪「うん」
斗真「ちょっと安心して、ちょっと申し訳ない」
澪「何に」
斗真「分からん」
澪「じゃあ考えんでいいよ」
電話の向こうで、澪が少し笑った。
斗真も笑った。
航平を選ばなかった。
だからといって
斗真を選んだことにも、まだならなかった。
第43章「合わない日」
会いたい。
言葉にするのは簡単だった。
日程を合わせる方が難しかった。
澪「来週火曜休み」
斗真「平日仕事」
澪「そっか」
斗真「土曜なら空く」
澪「遅番」
斗真「日曜」
澪「友達と約束」
斗真「了解」
次の週。
澪「木曜なら早く終わる」
斗真「婚礼打ち合わせ」
澪「忙しいな」
斗真「そっちもな」
画面だけ見ると、断り合っているみたいだった。
でも
どちらも断りたいわけではない。
夜
電話した。
澪「何これ」
斗真「社会人」
澪「いややな」
斗真「今さら?」
澪が笑う
少しして
澪「斗真が近かったら、もうちょい楽やったかな」
斗真「近かったら、もっと会ってたと思う」
澪「それはそれで困るな」
斗真「何で」
澪「もっと帰りたくなくなるから」
斗真は黙った。
澪「また止まった」
斗真「止まるだろ、それは」
少しだけ笑う。
澪「もし同い年やったら、違ったんかな」
斗真「それはもう俺じゃないだろ」
澪「……そっか」
斗真「澪も今の澪じゃないし」
澪「それもそうやな」
少し沈黙。
澪「三週間後の土曜」
斗真「空いてる」
澪「ほんま?」
斗真「今カレンダー見た」
澪「じゃあそこ」
斗真「そこ」
三週間。
長い
でも
会う日が、ちゃんと一つ先にあった。
第44章「会えた日」
三週間後。
駅
澪が先に見つけた。
澪「斗真」
呼ばれて振り向く。
斗真「久しぶり」
澪「ほんまに」
澪は一歩だけ近づいた。
少し迷って
斗真の腕に軽く触れた。
それだけで、三週間が急に短くなった。
昼を食べる。
本屋へ行く。
公園を歩く。
途中で雨が降った。
コンビニで傘を一本ずつ買った。
並んで歩く。
今度は、手を繋いだ。
特別なことみたいに言わず。
普通に。
澪「手、あったかい」
斗真「澪が冷たい」
澪「冬やから」
斗真「まだ秋」
澪「細かい」
夕方。
駅へ戻る。
改札の前で、なかなか会話が終わらない。
澪「今日、泊まっていいって言われたら」
斗真「うん」
澪「たぶん泊まる」
斗真「言おうと思ってた」
澪「言わんの?」
斗真「……泊まってく?」
澪「うん」
言ってしまえば、早かった。
帰りたくない。
帰したくない。
三週間ずっと我慢していたものが、
急に近くなった。
その夜。
二人はもう一度、
それまで決めていた境目を越えた。
前より迷いは少なかった。
だからこそ。
朝になって、
何も解決していないことだけがよく分かった。
澪「昨日、帰るつもりやった」
斗真「俺も帰すつもりだった」
澪「嘘」
斗真「うん」
澪が笑った。
少しして
澪「こうなるから、会うの怖いんやな」
斗真「うん」
澪「でも、会わんのも嫌」
斗真「俺も」
澪は黙った。
斗真も何も言わなかった。
好きだから近づく。
近づけば、
もっと欲しくなる。
その繰り返しだった。
第45章「忘れ物」
それからも、何度か会った。
一度は仕事終わりに二時間だけ。
一度は斗真が澪の街へ行って、駅前でコーヒーを飲んだ。
一度は電話だけで終わった。
会えば、普通に笑った。
別れ際だけ、少し長くなった。
近づいて。
止まって。
また近づく。
その繰り返しだった。
季節が一つ変わった頃。
澪が本を返した。
半年以上前に貸したものだった。
斗真「これ、まだ持ってたん」
澪「読んだ」
斗真「いつ」
澪「二回」
斗真「二回も?」
澪「一回目、内容忘れた」
斗真「実質一回」
澪「それ前も言ってたな」
斗真「何で?」
澪「曲」
斗真「ああ」
本を鞄へ入れる。
澪「他に何か忘れてる?」
斗真「俺が?」
澪「私が」
斗真「物はないと思う」
澪「物は、な」
そこで会話が止まった。
店の外を、自転車が一台通り過ぎた。
澪「また来たくなったら、どうする?」
斗真「来ればいい」
澪「それ言われると困る」
斗真「俺も言ってから困った」
澪が笑った。
斗真「来てほしいから」
澪「うん」
斗真「でも来たら、また一緒にいたくなる」
澪「うん」
少し黙る。
澪「じゃあ、忘れ物はそのままでいいか」
斗真「うん」
何を置いていくのかは
二人とも言わなかった
少し冷たい風が吹いた
第46章「じゃあね」
駅の改札前。
いつもより少しだけ長く立っていた。
何か言うことがある気がする。
でも出てこない。
澪「じゃあね、、」
斗真「またね、、」
言ってから、少し引っかかった。
また?
次があるような言葉。
澪も少しだけ止まった。
澪「最後なん?」
斗真「最後にしたい?」
澪「したくない」
斗真「俺も」
電車の案内が流れる。
澪「斗真」
斗真「うん」
澪「今、抱きしめてって言ったら?」
斗真「する」
澪は少し笑った。
澪「じゃあ、言わんとく」
斗真「ずるいな」
澪「斗真もやろ?」
斗真「まあ」
少しだけ距離が縮まる。
不意に抱きしめた。
澪「元気で、はまだ言わん」
斗真「縁起でもない」
澪「まだ普通に生きてるし」
斗真「俺も」
澪が笑う。
改札を通る。
一度だけ振り返る。
斗真も手を上げる。
それだけ。
追えなかった。
戻りたくなかったからではない。
戻りたい気持ちは、なくならなかった。
第47章「キミガイナイセカイ」
連絡は、少しずつ減った。
「ある日」は「突然」ではない。
会いたくなくなったわけでもない。
ある夜。
斗真は澪との画面を開いた。
【会いたい】
打つ。
しばらく見る。
消す。
別の夜。
遠い街で。
澪も同じ画面を開いた。
【今度いつ来る?】
打つ。
消す。
送れば、たぶん返事は来る。
返事が来たら、たぶん会う。
会えば。
また近くなる。
だから送らない夜が増えた。
最後のメッセージが、どれだったのかも分からない。
斗真「この曲よかった」
澪「あとで聴く」
そのあと
何か返ってきたのか。
来なかったのか。
しばらくして、斗真は履歴を上へ遡った。
途中でやめた。
朝は来る。
仕事へ行く。
娘たちから連絡が来る。
紗季とも必要なことを話す。
週末は音を出す。
新郎新婦が入場する。
司会「それでは、新郎新婦のご入場です!」
音楽。
カウント。
斗真「ドア、お願いします」
扉が開く。
スポットが当たる。
拍手。
本番は流れる。
帰れば洗濯物がある。
冷蔵庫の中身を確認する。
和兎を開く日もある。
開かない日もある。
澪の名前を検索しない日が続く。
たまに。
街で淡い髪を見る。
一瞬だけ、目が行く。
違う。
それで終わる。
君がいない世界。
そんな大げさなものではなかった。
信号は変わる
電車は来る
古いビルが取り壊される
澪と見た景色も、
少しずつ顔を変えていく
スーパーは閉店前に値引きをする。
娘は既読をつけない。
仕事は増えたり減ったりする。
世界は、普通に続いた。
会いたいままでも。
その普通さが。
たまに、少しだけ哀しかった。
第48章「二日目のカレー」
一年後。
仕事帰り。
駅前で、淡い髪が見えた。
斗真の足が、一瞬だけ遅くなる。
違った。
知らない女の子だった。
そのまま歩く。
スーパーへ寄る。
玉ねぎ。
人参。
肉。
カレールー。
家に帰る。
鍋を出す。
以前より、量は減った。
一人分より少し多い。
明日の分。
包丁で玉ねぎを切る。
炒める。
煮る。
テレビをつける。
誰かが笑っている。
スマートフォンが鳴る。
上の娘からだった。
【今週行っていい?】
斗真「いいよ」
少ししてスマートフォンが震えた。
【カレーある?】
斗真は鍋を見る。
斗真「ある」
翌日。
仕事から帰る。
娘はまだ来ていない。
冷蔵庫から鍋を出す。
火にかける。
少しだけ水を足す。
混ぜる。
昨日より濃くなった匂いが、
部屋に広がる。
その頃。
澪も仕事から帰っていた。
冷蔵庫を開ける。
昨日作ったカレーが残っている。
一人で食べるには、
少し多く作りすぎた。
鍋を火にかける。
湯気が上がる。
スマートフォンを手に取った。
写真を一枚撮る。
投稿画面を開く。
【お家に二日目のカレーおる】
そこまで打って、
澪の指が止まった。
澪「……懐かし」
小さく笑った。
投稿はしなかった。
何となく、
メッセージの一覧を開く。
ずっと下の方に、
斗真の名前がある。
消してはいない。
最後の方に残っていたのは、
斗真「この曲よかった」
澪「あとで聴く」
だった。
澪はしばらくそれを見た。
それから、
曲名を検索した。
再生する。
イントロが流れる。
澪「……遅」
誰に言ったのか、
自分でも分からなかった。
曲を聴きながら、
カレーを皿によそう。
途中で一度、
メッセージ画面へ戻った。
【聴いたよ】
打つ。
送信ボタンの上に、
指を置く。
長いこと、そのままにした。
一度、
画面を閉じようとした。
やめた。
送信。
既読はつかなかった。
澪はスマートフォンを伏せる。
カレーを一口食べる。
少し辛かった。
もう一口食べる。
涙が止まらなかった
その頃。
斗真もまた、
昨日のカレーを皿によそっていた。
スマートフォンが震える。
何気なく見る。
手が止まった。
澪「聴いたよ」
一年。
何度も名前を開かなかった。
何度も、
会いたいと思った。
その四文字が、
今、画面の中にある。
斗真は文字を打つ。
斗真「遅」
送信。
数秒。
澪「そっちが送ってきたんやろ」
斗真は笑った。
斗真「そうだった」
澪「忘れてた?」
斗真「忘れてない」
少し間が空く。
斗真「カレー食ってる」
既読。
澪「え」
澪「私も」
斗真は鍋を見る。
昨日より少し濃くなったカレー。
斗真「二日目?」
澪「二日目」
また少し間。
斗真は文字を打つ。
【会いたい】
指が止まる。
一年の間、
何度も打って、
何度も消した言葉だった。
今度は消さなかった。
送信。
既読。
少し長い。
澪「うん」
もう一つ届く。
澪「私も」
斗真は息を吐いた。
斗真「いつ行けばいい?」
澪「仕事なくてもええよ」
斗真は笑った。
斗真「普通に行っていい?」
澪「普通に来てください」
数週間後。
駅。
人の流れの向こうに、
澪がいた。
今度は、
通り過ぎなかった。
澪も、
すぐに斗真を見つけた。
少しだけ笑う。
澪「久しぶり」
斗真「久しぶり」
近づく。
一年分の言葉は、
すぐには出てこなかった。
しばらく、
二人で歩いた。
澪「なあ」
斗真「うん」
澪「今度は、名前つける?」
斗真は少し笑った。
斗真「俺は、つけたい」
澪「私も」
斗真「じゃあ」
澪「うん」
二十六歳の差も。
娘たちも。
仕事も。
遠い街も。
何一つ、
なくなったわけではない。
簡単になったわけでもない。
ただ。
それでも一緒にいたいと、
二人で決めた。
今度は、
どちらか一人が決めたのではなく。
帰り道。
澪「今日、何食べる?」
斗真「カレーある」
澪「また?」
斗真「二日目」
澪「昨日作ったん?」
斗真「うん」
澪「じゃあ行く」
斗真「普通に?」
澪「普通に」
二人で歩く。
昨日の続きへ。
二日目のカレーは、
昨日より少し、
幸せな味がした。
二日目のカレー
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
『二日目のカレー』を書こうと思ったとき、
最初から「恋愛小説を書こう」と決めていたわけではありませんでした。
むしろ書きたかったのは、
人は、何歳になっても、
昔の傷や、選ばれなかった記憶や、
言えなかった言葉を抱えたまま生きている。
ということでした。
大人になるというのは、
それらを綺麗に克服することではなくて、
持ったまま働いて、
家族と暮らして、
飯を食って、
眠って、
ときには誰かに惹かれてしまったり、
どうしようもなく昔へ戻りたくなったりしながら、
それでも今日を続けていくことなのかもしれません。
この物語には、
誰が正しくて、
誰が間違っている、
という答えをなるべく置きませんでした。
斗真にも、
紗季にも、
澪にも、
それぞれに見えている景色があって、
それぞれの生活があります。
人は、
誰かの人生では脇役で、
自分の人生では主人公です。
だから、
ひとつの出来事であっても、
見る場所が変われば意味も変わる。
恋だったものが、
後から振り返れば逃避だったり。
執着だと思っていたものが、
自分を救うための最後の綱だったり。
ずっと続くと思っていた関係が終わったあとに、
ようやく愛だったと気づくこともある。
人生は、
たぶんそんなに整理整頓されていません。
そしてタイトルの
『二日目のカレー』。
よく、
二日目のカレーは美味しいと言います。
味が馴染むから。
でも、
一日目には一日目の味があります。
出来たての熱さも、
少し尖った味も、
まだ混ざりきっていない具材も、
それはそれで、
その日にしか食べられません。
人生も同じなのかもしれません。
若い頃にしかないものがあって、
歳を重ねて初めて分かるものもある。
どちらが優れているわけでもなく、
ただ味が違う。
もしこの物語を読み終えたあと、
昔好きだった人や、
もう会わなくなった人や、
いま隣にいる誰かや、
あるいは、
昔の自分のことを
ほんの少しだけ思い出してもらえたなら、
この物語を書いた意味は、
十分にあったと思っています。
人生はやり直せない。
でも、
今日から続きを書くことはできる。
冷蔵庫に昨日のカレーが残っていたら、
温め直してみてください。
昨日とは少し違う味がするはずです。
最後までお付き合いいただき、
本当にありがとうございました。
飯尾 十七