二日目のカレー

人は、何歳までやり直せるんだろう。

たぶん、やり直すことなんてできない。

過ぎた時間は戻らないし、
言えなかった言葉も、
選ばなかった道も、
誰かを傷つけた夜も、
なかったことにはならない。

それでも人は、ときどき立ち止まる。

あのとき違う選択をしていたら。
あの人の手を離さなかったら。
もう少し勇気があったなら。

そんな、どうしようもない「もしも」を抱えながら、
今日も普通に働いて、
飯を食って、
家に帰る。

この物語に出てくる人たちは、
たぶん誰も、特別な人ではない。

正しくもないし、
間違ってもいる。

誰かを愛しながら、
別の誰かに惹かれることもある。

幸せなはずなのに、
足りないと思うこともある。

欲しかったものを手に入れてから、
それが欲しかったものだったのか分からなくなることもある。

人生は、
出来たての料理みたいにはいかない。

一晩置かれて、
形が崩れて、
いろんなものが混ざって、
昨日とは違う味になる。

それを美味しくなったと言うのか。
ただ古くなったと言うのか。

たぶん、それは食べる人が決めることなんだと思う。

これは、
人生をやり直す話ではない。

もう一度、
自分の人生を食べてみる人たちの話です。

『二日目のカレー』

どうぞ、召し上がれ。

登場人物

登場人物

斗真(とうま)48歳
平日は通信、週末は婚礼音響。
人に選ばれることで、自分の価値を確かめてきた。
仕事は堅実、料理と写真は雑。

戸町(とまち)
斗真の職場の同僚。
会社のAIをギャル人格にして使っている。
その軽い発想が、和兎誕生のきっかけになる。

紗季(さき)45歳
斗真の妻で、二人の娘の母。
二十年近く、斗真と生活を共にしてきた現実派。
夫婦を続けることと、家族でいることを分けて考える。

長女 16歳
斗真と紗季の長女。
大人の事情で、家族を勝手に整理されたくない。
父には、最後まで父親でいてほしいと思っている。

次女 14歳
斗真と紗季の次女。
口数以上に、家の空気をよく見ている。
両親の変化を、自分なりの速度で受け止めていく。

序章 正しい音

 本番で頑張る仕事じゃない。本番までに、頑張る仕事だ。
 斗真は、仕事を説明する時によくそう言った。平日に扱うのは企業の電話で、週末に扱うのは結婚式の音。一見するとまるで別の仕事だが、本人の中ではそれほど離れていない。
 鳴るべきものが鳴る。届くべきところへ届く。必要な時に、必要な音が出る。
 そのために、本番より前の時間を使う。

 午前九時十二分。
 斗真はノートパソコンの画面に並ぶ項目を、上から一つずつ確認していた。
 代表番号。内線番号。ユーザー。端末。転送先。営業時間外の着信先。
 昨日まで別の仕組みで動いていた電話を、今日からクラウド側へ切り替える。
 使う側から見れば、電話なんて受話器を取って繋がればそれでいい。仕組みを意識する必要などない。
 だからこそ、繋がらなかった時だけ大事件になる。

【戸町】「三階、外線いけました」
【斗真】「着信は?」
【戸町】「今やります」
【斗真】「代表から回して。あと転送」
【戸町】「了解っす」

 斗真は画面を見たまま答えた。
 外線発信。外線着信。内線。保留。転送。ハント。
 一つずつ潰していく。
 仕事で「たぶん大丈夫」は使わない。たぶん大丈夫なところほど、本番で壊れる。

【戸町】「斗真さん、これだけ登録上がんないっす」
【斗真】「電源」
【戸町】「入ってます」
【斗真】「LAN」
【戸町】「刺さってます」
【斗真】「刺さってる、じゃなくてリンク見て」

 数秒、間があった。

【戸町】「……消えてます」
【斗真】「ほら」
【戸町】「何で分かったんすか」
【斗真】「分かったんじゃなくて、順番に見てんの」

 斗真は椅子から立ち上がった。
 現物を見る。ケーブル。ポート。給電。ネットワーク。登録状態。
 症状から一つずつ戻っていく。
 壊れている場所には、たいてい理由がある。理由が分かれば、直せる。
 斗真は、そこが好きだった。
 少なくとも機械は、黙ったまま相手に察してもらおうとはしない。

【戸町】「これ、ケーブルっすね」
【斗真】「だな」
【戸町】「交換します」
【斗真】「したらもう一回、最初から試験」

 戸町が露骨に嫌そうな顔をした。

【戸町】「全部ですか」
【斗真】「全部」
【戸町】「一回通ってるのも?」
【斗真】「全部」
【戸町】「鬼だ」
【斗真】「金もらってるからな」

 ケーブルを交換すると、電話機は何事もなかったように立ち上がった。
 外へかける。鳴る。
 外からかける。鳴る。
 内線を呼ぶ。鳴る。
 転送する。鳴る。

【戸町】「今度こそ終わりっすね」
【斗真】「最後に外から代表」
【戸町】「さっきやったじゃないすか」
【斗真】「もう一回」
【戸町】「慎重すぎません?」
【斗真】「本番で頑張る仕事じゃないんだよ」

 斗真は受話器を戸町へ渡した。

【斗真】「本番までに、頑張る仕事」

 もう一度、呼び出し音が鳴る。
 正しい番号へ。正しい順番で。正しい音が鳴る。
 斗真は、それを確認してからようやく息を抜いた。

【斗真】「終了」
【戸町】「お疲れっした」
【斗真】「まだ報告書」
【戸町】「終わってないじゃないすか」
【斗真】「仕事ってそういうもんだ」

 戸町がため息をついた。
 斗真は笑いながら、試験結果を報告書へ入力した。
 平日の斗真は、だいたいこんな感じだった。
 電話が鳴らない。FAXが飛ばない。アナログ機器がクラウドへ繋がらない。ページングが鳴らない。会議室だけ内線が取れない。
 問題を一つずつ切り分け、原因を探し、潰していく。
 そして週末になると、扱う音が変わる。

 午後二時五十六分。
 披露宴会場の後方で、斗真は音響卓の前に座っていた。
 フェーダーが並ぶ。ノートパソコンには、今日使う曲が順番に並んでいる。
 入場。乾杯。ケーキ入刀。中座。再入場。手紙。花束。退場。
 新郎新婦が何か月もかけて選んだ曲。両親にとっては、何十年経ってもその日の景色と一緒に思い出すかもしれない曲。
 斗真は片耳にイヤホンを入れ、司会者の声を聞いていた。
 会場後方をスタッフが動く。扉の横でキャプテンが合図を送る。
 司会者が一拍置いた。

【司会】「それでは皆さま、お待たせいたしました」

 斗真の指がフェーダーに触れる。

【司会】「新郎新婦、ご入場です」

 扉が開く。
 その瞬間に、音を出す。
 少し早くても駄目。遅くても駄目。大きすぎても、小さすぎても駄目。
 正しいところで、正しい音を出す。
 それだけだ。
 新郎新婦が笑って入ってくる。拍手が起こる。スマートフォンが上がる。カメラのシャッターが鳴る。
 斗真は、そのどれにも写らない場所にいる。
 それでいい。
 音響は、上手くいっている時ほど誰も見ない。止まった時だけ、全員がこちらを見る。
 だから、見られない一日が一番いい。
 乾杯。ケーキ入刀。プロフィール映像。中座。再入場。余興。
 一つずつ進んでいく。
 やがて、新婦が両親への手紙を読み始めた。
 父親が俯いている。母親は何度も目元を押さえている。新郎まで、途中から鼻をすすっていた。
 斗真はそれを見ながら、次の音を準備する。
 人の人生の大事なところでは、不思議なくらい冷静でいられた。
 タイミングがある。手順がある。次に何をすればいいのか分かっている。
 泣いている父親を見ても、次の曲は間違えない。
 間違えるために金をもらっているわけではない。
 披露宴が終わる。
 客が帰る。
 さっきまで華やかだった会場から、少しずつ音が消えていく。
 花が片づけられる。グラスが下げられる。スタッフがテーブルクロスを外していく。
 斗真はケーブルを巻いた。一本、また一本。
 今日も正しいところで、正しい音を出した。
 それで仕事は終わる。

 夜、家へ帰ると、台所にはカレーの鍋が残っていた。
 昨日の夕飯だった。
 斗真は上着を脱ぎ、冷蔵庫から鍋を出した。弱火にかけ、適当に混ぜる。
 仕事なら、もっと見る。順番を確認する。異常がないか確かめる。最後にもう一度試す。
 ところが自分の飯になると、途端に雑になる。
 鍋の底から、わずかに焦げた匂いがした。

【紗季】「焦がさないでよ」
【斗真】「焦げてない」
【紗季】「今、焦げた匂いしたけど」
【斗真】「気のせい」
【紗季】「そういうの、仕事では絶対言わないよね」

 斗真は、鍋を混ぜる手を止めた。

【斗真】「何が」
【紗季】「気のせい、とか」

 返す言葉がなくて、またカレーを混ぜた。
 確かにそうだった。
 仕事なら確認する。鳴らなければ原因を探す。おかしければ戻る。どこから違うのかを切り分ける。
 でも、家のことになると、どうしていいか分からないことが増えていた。
 紗季と話す。娘たちと話す。自分が何を欲しいのか考える。相手が何を思っているのか考える。
 そこには試験項目がない。
 正常。異常。合格。不合格。
 そんな表示は、どこにも出ない。
 斗真は皿にカレーを盛り、食卓へ運んだ。
 二日目のカレーは、昨日より少し色が濃くなっていた。
 一口食べる。

【斗真】「二日目の方がうまいな」
【紗季】「毎回言うね、それ」
【斗真】「だってうまいし」
【紗季】「はいはい」

 特別な会話ではなかった。
 二十年近く一緒に暮らしていれば、似たようなやり取りは何百回もしている。
 派手な味ではない。昨日とほとんど同じものだ。
 それでも、昨日の続きを今日も食べている。
 斗真はこの時、そういうものを特別だとは思っていなかった。
 当たり前のものは、当たり前に続く。
 何となく、そう思っていた。
 少し離れたところで、娘たちの声がした。

【長女】「お父さん、またカレー?」
【斗真】「昨日の残り」
【次女】「明日も?」
【斗真】「なくなったら終わり」
【長女】「人生みたいに言わないで」
【斗真】「言ってねえよ」

 紗季が小さく笑った。
 斗真も笑った。
 こういう時間が、あと何年続くのか。
 そんなことを考える理由は、まだなかった。
 目の前のカレーを食べる。明日の仕事を考える。週末の音源を確認する。
 それで一日は終わる。
 他人の人生の大事な場面なら、斗真は正しい音を出せた。
 電話が鳴らなければ、原因を追えた。ケーブルなら交換できる。設定なら直せる。もう一度試験すればいい。
 けれど、自分の人生には、いつからおかしくなったのかを示すログがない。
 どこまで戻ればいいのかも分からない。
 そもそも、壊れているのかどうかさえ分からない。
 斗真は四十八歳だった。
 仕事についてなら、それなりに自信があった。
 本番で頑張る仕事じゃない。
 本番までに、頑張る仕事だ。
 その言葉を、自分の人生に当てはめたことはなかった。
 もし人生にも本番というものがあるのなら。
 斗真はまだ、その日がもう始まっていることに気づいていなかった。

第1章 あちら側

 小学六年生の春、斗真には二つの教室があった。
 ひとつは、毎朝ランドセルを背負って通う学校。もうひとつは、放課後に電車へ乗って向かう、中学受験のための塾だった。
 同じように机が並び、同じように黒板があり、先生が前に立つ。
 けれど、斗真にとってその二つは、ほとんど別の世界だった。
 学校では、斗真は「いじめられる側」だった。
 いつからそうなったのかは、もうよく覚えていない。きっかけになるような大事件があったわけでもなかった。
 名前をもじられる。筆箱を勝手に触られる。椅子を引かれる。
 何か言えば、その言い方を真似される。
 少し怒れば、「うわ、キレた」と笑われる。
 黙っていれば、「何も言えねえの」と笑われる。
 何を選んでも、だいたい同じ場所へ戻された。
 休み時間になると、教室が少し広く感じた。
 みんなが好きな相手のところへ移動し、机をくっつけ、笑い、ふざける。
 斗真は、その輪の外側にいることが多かった。
 たまに誰かと話していても、油断はしなかった。
 笑っていいのか。この話をして大丈夫か。あとで何かに使われないか。
 学校では、言葉を出す前に、一度だけ周囲を見る癖がついていた。
 それが、もう当たり前になっていた。
 だから、斗真は塾が好きだった。
 学校から帰ると、ランドセルを置く。着替えて、受験用の分厚いテキストが入ったバッグを持つ。
 駅へ向かい、電車に乗る。
 一駅、二駅。
 自分の学校がある町から離れていくだけで、身体のどこかに貼りついていたものが少しずつ剥がれていくような気がした。
 塾では、斗真は普通だった。
 友達がいた。他校の子とも話した。問題を教えたり、教えられたりした。休み時間には、くだらない話もした。
 からかわれることだってあった。けれど、それは学校とは違った。
 言い返せば、相手も笑う。
 そこで終わる。
 次の日まで持ち越さない。
 誰か一人を下に置いて、みんなでその位置を確認し続けるような空気がなかった。

【男子】「斗真、算数だけ妙に速くない?」
【斗真】「だけ、って何だよ」
【男子】「国語は?」
【斗真】「聞くな」
【男子】「ダメなんじゃん」
【斗真】「うるせえ」

 それで終わる。
 誰も翌日まで、斗真を「国語のできないやつ」にしない。
 それが、斗真にはありがたかった。
 塾にいる間だけは、自分が「いじめられている子」でなくなることができた。
 学校の斗真を知らない人たちの中にいると、自分も普通の人間なのだと思えた。
 もしかすると、本当の自分はこっちなのかもしれない。
 そんなことまで、少しだけ思った。
 慶子と出会ったのは、その場所だった。

 六年生になって少し経った頃だった。
 授業が始まる前、斗真は席で前回の宿題を慌てて見直していた。

【男子】「そこ違くね?」
【斗真】「うるさい、今気づいた」

 そう返した時、前の方に知らない女の子が座っていることに気づいた。
 最初に目についたのは、髪だった。
 真っ黒ではない。茶色とも少し違う。光が当たると、ところどころ淡く見えた。
 目元も、他の子とは少し違って見えた。
 肌。鼻筋。顔の輪郭。
 どこが、と聞かれればうまく説明できない。
 けれど、何となく違った。
 あとになって、イギリスの血が入っているらしい、と聞いた。
 当時の斗真にとって、その言葉は十分に特別だった。
 外国。イギリス。
 テレビや本の中にある、自分とは遠い場所。
 その一部が、同じ塾の教室に座っている。
 ただ、斗真が慶子を見た理由は、珍しかったからではなかった。
 綺麗だった。
 その言葉が、一番近かった。
 小学六年生の斗真にとって、女の子に使うには少し大人っぽすぎる言葉だった。
 「かわいい」なら分かる。
 クラスで人気のある子。テレビのアイドル。そういうものには使える。
 でも慶子は、かわいい、だけではなかった。
 何となく、遠く見えた。
 数メートルしか離れていないのに。
 同じ教室。同じテキスト。同じ中学受験。
 それなのに、少し違う場所にいるように見えた。

【先生】「そこ一席空いてるから、慶子、座って」

 先生が名前を呼んだ。
 慶子。
 斗真は、その名前を頭の中で一度だけ繰り返した。
 慶子。
 それだけで、少し特別な音になった。

 慶子とは、思っていたより普通に話せた。
 それが斗真には嬉しかった。
 最初のきっかけは授業中だった。
 先生がページを進めたのに、斗真だけ別の問題を見ていた。

【慶子】「そこじゃないよ」
【斗真】「え?」

 慶子が指を差した。

【慶子】「こっち」
【斗真】「あ」
【斗真】「ありがとう」
【慶子】「またぼーっとしてた?」
【斗真】「してない」
【慶子】「してたじゃん」

 慶子が笑う。
 斗真も笑った。
 それだけだった。
 でも、その日の帰り道、何度も思い出した。
 声。笑った顔。「またぼーっとしてた?」
 学校なら、女子と少し話しただけで誰かに見つかる。
 名前を並べられる。
 好きなんだろ。付き合ってんの。
 そうやって、本人同士の会話より先に、周りが意味を決める。
 塾では、何も起きなかった。
 翌週も、普通に話した。

【斗真】「宿題どこまで?」
【慶子】「全部」

 斗真は思わず顔を上げた。

【斗真】「嘘だろ」
【慶子】「何で嘘なの」
【斗真】「俺まだ半分」
【慶子】「それ斗真が遅いだけじゃない?」
【斗真】「言い方」

 そんなやり取りが増えた。
 休み時間。帰り道。模試の結果。先生の文句。志望校の話。学校の話。好きな教科。嫌いな教科。
 全部、特別ではない。
 その特別ではなさが、斗真には特別だった。
 慶子は、斗真が学校でどう扱われているかを知らない。
 斗真も、わざわざ言わなかった。
 隠しているつもりではなかった。
 ただ、この場所にまで持ってきたくなかった。
 塾では、斗真は普通だった。
 慶子と話せる。友達と笑える。問題が解ければ褒められる。間違えれば、ただ間違えただけで終わる。
 その自分を、斗真は壊したくなかった。

 中学受験が近づくにつれ、塾にいる時間は長くなっていった。
 土曜日。日曜日。模試。特別講習。志望校別のプリント。
 六年生の生活は、学校と塾で埋まっていく。
 それでも、斗真は塾へ行くことを嫌だとは思わなかった。
 学校で嫌なことがあった日ほど、早く塾へ行きたかった。
 誰かに上履きを隠された日。
 昼休みに机を蹴られた日。
 何を言ったわけでもないのに、後ろから名前を呼ばれて、振り向いただけで笑われた日。
 家へ帰る。ランドセルを置く。塾のバッグを持つ。電車に乗る。
 それだけで、少し息ができた。
 慶子がいる日は、もっとよかった。
 いつの間にか斗真は、教室へ入ると最初に慶子の席を見るようになっていた。
 いる。
 それだけで、少し安心する。
 いなければ、少しだけつまらない。

 ある日、授業のあとに何人かで駅まで歩いた。
 途中のコンビニへ寄る。
 アイスのケースの前で、慶子が長く迷っていた。

【斗真】「まだ決まんないの?」
【慶子】「うるさい」
【斗真】「これでいいじゃん」

 斗真が適当に一つ指した。

【慶子】「絶対まずいやつ」
【斗真】「食わなきゃ分かんないだろ」
【慶子】「じゃあ斗真が買って」
【斗真】「何で俺が」

 慶子が笑う。
 その横で、他の塾生も笑う。
 何も起きない。
 誰も、斗真と慶子の名前を並べない。
 斗真は、その瞬間、自分もちゃんとこっち側にいるような気がした。
 学校で自分を笑っている連中が見たら、驚くだろうか。
 自分だって、普通に女の子と話せる。
 友達と歩ける。
 笑える。
 そう思った。
 少し誇らしかった。
 そして、その感覚の中心に慶子がいた。

 斗真が慶子を好きになったのが、いつだったのかは分からない。
 最初に見た時だったのか。
 初めて笑われた時なのか。
 一緒に駅まで歩いた時なのか。
 気づいた時には、塾へ行く理由の中に、慶子がかなり大きく入っていた。
 でも、それは最初から「どうせ届かない人」への恋ではなかった。
 むしろ、届くかもしれないと思っていた。
 塾では、斗真も普通だったからだ。
 普通に話せる。普通に笑える。慶子も返してくれる。
 だから、もしかしたら。
 そんな気持ちがあった。
 この頃の「あちら側」は、まだ遠い世界ではなかった。
 塾そのものが、斗真にとっての「あちら側」だった。
 学校とは違う場所。
 自分も笑っていい場所。
 自分も誰かと並んで歩ける場所。
 自分が、いじめられる役ではなくなる場所。
 そこに慶子がいた。
 だから斗真は、少しずつ二つのものを重ね始めていた。
 慶子を好きな気持ちと、この場所にいる時の自分を好きでいられる気持ちを。
 本人は、まだ気づいていなかった。

 それが変わったのは、休み時間だった。
 先生が教室を出たあと、授業中の張りつめた空気が少しだけ緩んでいた。
 椅子を引く音。ページをめくる音。誰かが飲み物を取り出す。
 斗真は、近くの男子と問題集を見ていた。

【男子】「これ答え何?」
【斗真】「自分でやれ」
【男子】「冷た」
【斗真】「さっき俺の答え見ただろ」

 そんな、いつもの会話だった。
 少し離れたところから、明るい声がした。

【男子】「慶子ってさ、ハーフなんだろ?」

 慶子が、問題集から顔を上げた。
 一瞬だけ、返事が遅れた。

【慶子】「……何?」

 その男子は、塾の中ではお調子者だった。
 思いついたことをすぐ言う。誰かが笑えば、もう一回言う。
 悪意があるというより、止まる場所を知らない。
 そういうタイプだった。

【男子】「ハーフなんだよね?」
【慶子】「うん」

 短い返事。
 斗真には、それだけで少し違和感があった。
 普段の慶子なら、もう少し何か言う。
 でも、男子は気づかなかった。

【男子】「ハーフ、ハーフ」
【男子】「ハーフハーフ」

 何人かが笑った。
 大きな笑いではない。
 くだらない冗談に反応した程度の、軽い笑い。
 だから、止める人もいなかった。
 教室の空気は、まだ「冗談」の側にいた。
 斗真は、慶子を見た。
 慶子は笑っていなかった。
 口元だけが、一瞬笑おうとしたように動いた。
 でも、すぐに戻った。
 目はまっすぐ男子を見ていた。

【慶子】「やめて」

 声は大きくない。
 でも、はっきりしていた。
 斗真の胸が、少し詰まった。
 嫌なんだ。
 すぐに分かった。

【男子】「え、何で?」
【慶子】「嫌だから」
【男子】「でもハーフじゃん」
【慶子】「だから何」
【男子】「いや、別に」

 少しだけ、誰かが笑った。
 今度は、さっきより小さい。
 空気は少し変わり始めていた。
 それでも、男子は止まらない。

【男子】「ハーフハーフって言っただけじゃん」

 斗真の身体が固くなった。
 言えばいい。
 本当に、それだけだった。
 やめろよ。
 嫌がってんじゃん。
 頭の中では、もう言えていた。

【斗真】「やめろよ」

 たった一言。
 でも、声にならなかった。
 一瞬で、学校の教室が戻ってきた。
 何か言えば、そこへ集まってくる笑い。
 誰かを庇えば、次に自分が標的になる。
 「何ムキになってんの」
 「好きなんじゃねえの」
 「正義の味方かよ」
 まだ誰も言っていない。
 ここは学校ですらない。
 塾だ。
 分かっている。
 塾では、そんなふうに扱われたことはない。
 ここでは、斗真は普通なのだ。
 それでも、身体は先に、いつものやり方を選んだ。
 目立たない。巻き込まれない。反応しない。
 学校で身につけた、自分を守る方法。
 斗真は、机の上のシャープペンへ目を落とした。
 その時。
 慶子が、斗真を見た。
 ほんの一瞬だった。
 泣いてはいなかった。
 怒っているとも、はっきりとは分からなかった。
 ただ、少しだけ、期待していたものが外れたような顔に見えた。
 斗真なら何か言ってくれると思ったのか。
 それとも、ただ、たまたま目が合っただけなのか。
 それは、最後まで分からない。
 けれど斗真は、その目を長く覚えることになる。
 慶子が助けを求めていたかどうかより、自分が助けたいと思ったこと。
 それなのに、何もできなかったこと。
 そこだけは、間違いなかった。

【男子】「そんな怒んなくてもよくない?」

 慶子は、一度だけ息を吸った。
 口元を強く結ぶ。

【慶子】「別に怒ってない」

 斗真には、怒っている声に聞こえた。
 あるいは、怒っているだけではなかったのかもしれない。
 傷ついた。
 恥ずかしい。
 面倒くさい。
 もうこの話を終わらせたい。
 その全部が、小さな「別に」の中に押し込まれているように聞こえた。

【男子】「じゃあいいじゃん」

 慶子は、もう返さなかった。
 問題集を開く。
 ページを見る。
 でも、読んでいるようには見えない。
 ページの端を押さえる指に、少し力が入っていた。
 爪の先が白くなる。
 斗真は、それを見ていた。
 見ているだけだった。

【先生】「はい、始めるぞー」

 先生が戻ってくる。
 男子も席へ戻る。
 教室は、何事もなかったように授業へ戻った。
 泣いた人はいない。
 怒鳴った人もいない。
 先生にも知られていない。
 だから、何も起きなかったことになる。
 それが、斗真にはひどく気持ち悪かった。

 授業中、斗真はほとんど問題を読めなかった。
 斜め前の慶子の背中を、何度も見た。
 謝りたい。
 でも、何に。
 自分がからかったわけではない。
 言ったのは、あの男子だ。
 自分は何もしていない。
 何もしていない。
 そこで、言葉が引っかかった。
 そうだ。
 何もしていない。
 それが嫌だった。
 学校では、何もしないことが自分を守る方法だった。
 今日は、何もしなかったことで、慶子を一人にした。
 斗真は、その違いを初めて知った。

 授業が終わった。
 みんなが帰り支度をする。
 斗真は、いつもよりゆっくり筆箱をしまった。
 慶子は、もうバッグを持っている。
 今なら言える。
 ごめん。
 何も言えなくて。
 さっき嫌だったよな。
 何でもいい。

【斗真】「慶子」

 慶子が振り返る。

【慶子】「何」

 声は普通だった。
 その普通さが、怖かった。

【斗真】「……いや」

 結局、言えなかった。
 慶子は、少しだけ待った。

【慶子】「じゃあ帰るね」
【斗真】「うん」

 慶子は、他の子のところへ行った。
 斗真は追わなかった。
 駅までの道でも、いつもの集団の少し後ろを歩いた。
 前へ出れば、話さなければならない。
 横へ並べば、あのことを避けている自分が見える。
 だから、自分から数歩ぶん距離を作った。
 慶子は、一度も振り返らなかった。
 斗真は、その背中を見ながら思った。
 嫌われた。
 本人にそう言われたわけではない。
 でも、そう思った。
 そして、理由も分かっていた。

 それから、二人の会話は減った。
 急に無視されるわけではない。
 聞けば答える。

【斗真】「宿題、ここまで?」
【慶子】「うん」
【斗真】「この問題出るかな」
【慶子】「先生、出るって言ってたよ」

 それで終わる。
 以前なら、そこから何か一つ続いた。
 先生への文句。学校の話。模試の話。どうでもいい冗談。
 それが、なくなった。
 慶子から斗真へ話しかけることも減った。
 斗真は、理由を知っているつもりだった。
 だから、余計に何も聞けなかった。
 怒ってる?
 嫌いになった?
 そんなことを聞けば、今度は慶子に答えを出させることになる。
 当時の斗真は、そんなふうには整理できなかった。
 ただ、怖かった。
 「怒ってる」と言われるのも。
 「別に」と言われるのも。
 どちらも。

 塾での人間関係そのものは、変わらず良好だった。
 斗真には友達がいた。笑えた。先生とも話した。問題が解ければ、普通に嬉しかった。
 塾は、相変わらず学校よりずっと居心地がよかった。
 ただ、慶子との間だけに、薄い壁ができた。
 同じ教室にいる。
 同じテキストを開く。
 同じ先生の授業を受ける。
 席も、数メートルしか離れていない。
 それなのに、遠い。
 斗真は、その時初めて知った。
 距離は、離れた場所にいるからできるわけではない。
 すぐそこにいても、届かなくなることがある。

 夏が終わる頃には、塾の空気そのものが変わっていた。
 受験が近づいていた。
 模試。偏差値。志望校判定。過去問。面談。冬期講習。正月特訓。
 先生たちの声も、春より強くなる。
 休み時間に話していた子たちも、テキストを開くようになった。
 慶子との距離も、その流れの中へ埋もれていった。
 斗真は、何度か思った。
 受験が終わったら話そう。
 模試が終わったら。
 次の帰り道で。
 今日じゃなくてもいい。
 明日でもいい。
 そうして、何も起こらなかった。
 仲直りのきっかけは、最後まで来なかった。
 というより、きっかけというものは、たぶん自分で作るものだった。
 斗真は、それを作れなかった。

 冬。
 志望校が決まる。
 受験日が近づく。
 慶子がどこを受けるのか、斗真は知っていた。
 でも、以前のように、そのことを二人で話すことはなかった。

【先生】「ここからは体調崩したやつが一番損するからな」

 みんなが笑う。
 斗真も笑う。
 慶子も、少し離れた席で笑っていた。
 同じところで笑っている。
 それなのに、二人の間には何も戻らなかった。

 受験が終わる。
 合否が出る。
 それぞれが、別の中学へ進む。
 塾へ来る理由が、なくなっていく。
 最後の授業の日も、劇的なことは何もなかった。
 寄せ書きもない。
 告白もない。
 謝罪もない。
 仲直りもない。
 終わった授業のあと、みんなが普通に帰り支度をする。

【男子】「じゃあな」
【斗真】「おう」
【女子】「中学行っても塾来る?」
【斗真】「分かんない」

 そんな声が飛ぶ。
 慶子も、バッグを持っていた。
 斗真は、一度だけそちらを見た。
 話しかけようと思った。
 でも、結局やめた。
 慶子も、斗真には何も言わなかった。
 それで終わった。
 塾へ行けば会える人だった慶子が、翌月からは、どこにいるのか分からない人になった。

 学校では、斗真はいじめられていた。
 塾では、普通に人と関われた。
 その事実は、最後まで変わらなかった。
 だからこそ、慶子とのことは少し複雑に残った。
 塾へ行けば、自分は別の人間になれると思っていた。
 学校で笑われている自分は、本当の自分ではない。
 塾で話して、笑って、友達のいる自分こそ、本当なのかもしれない。
 そう思っていた。
 でも、慶子が傷つけられた時、学校で身につけた自分が出てきた。
 黙る。
 目立たない。
 巻き込まれない。
 自分を守る。
 場所を変えても、消えてはいなかった。
 そして、そのために、初めて本気で好きになった人を一人にした。
 斗真はまだ、そこまで上手に言葉にできなかった。
 ただ、慶子に嫌われた。
 そう思った。
 自分が悪かった。
 そうも思った。
 でも、謝ることもできなかった。
 受験が二人を離したのではない。
 受験が始まる前から、少しずつ離れていた。
 ただ、受験という大きな流れが、そのまま二人を別々の場所へ運んでいった。

 それから、慶子を見なくなった。
 会わない時間の中で、慶子は少しずつ、斗真の記憶の中の人になった。
 嫌な顔をしない。
 機嫌も悪くならない。
 成長もしない。
 最後まで言えなかったことだけが、そのまま残る。
 「あちら側」にいた、綺麗な女の子。
 そういう形へ、少しずつ変わっていく。
 でも、本当は違った。
 慶子は、最初からあちら側にいたわけではない。
 同じ受験塾に通って。
 同じ問題に悩んで。
 コンビニでアイスを選んで。
 嫌なことには、ちゃんと「やめて」と言った。
 ただの、一人の女の子だった。
 斗真の方が、その人の向こうに、自分とは違う世界を見ていた。

 そして、中学へ進んでから。
 もう会わないと思っていた慶子を、斗真は電車の中で見つけることになる。
 知らない学校の制服を着た、少しだけ大人びた慶子を。
 今度こそ、何かを伝えようと思う。
 塾で言えなかったことまで、全部届くような気がして。
 斗真は、手紙を書くことになる。
 その手紙を、慶子が読むことはなかった。

第2章 手紙

 中学校へ進んでから、斗真の生活は少し変わった。
 制服を着るようになった。
 教科書が増えた。
 通学路も変わった。
 小学校の頃ほど露骨に何かをされることは減ったが、だからといって急に自分に自信がついたわけではなかった。
 人の顔色を見る癖は残っていた。
 教室へ入れば、まず空気を見る。
 誰がいるか。
 誰が機嫌よく笑っているか。
 今日は自分に何か飛んできそうか。
 そういうことを考えてから、自分の席へ向かう。
 塾へ通っていた頃の友達とは、ほとんど会わなくなった。
 それぞれ別の中学へ進み、毎週同じ時間、同じ教室へ集まる理由がなくなった。
 慶子も、その中の一人だった。
 最初の頃は、時々思い出した。
 宿題を全部終わらせていたこと。
 アイスの前でなかなか決められなかったこと。
 「またぼーっとしてた?」と笑われたこと。
 そして、最後の方はほとんど話さなくなっていたこと。
 思い出すたびに、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
 謝ればよかった。
 あの時、言えばよかった。
 やめろよ、と。
 嫌がってるじゃん、と。
 たったそれだけのことだった。
 けれど、もう会わない。
 そう思えば、考えても仕方がないことにもできた。
 時間が経てば、記憶は少しずつ角が取れる。
 痛かったものも、触らなければ痛くなくなっていく。
 斗真も、そうなるのだと思っていた。

 慶子を見つけたのは、電車の中だった。
 中学に入って、まだそれほど経っていない頃だった。
 朝の通学時間。
 いつものように電車へ乗り、空いている場所を探していた。
 制服姿の中学生が多かった。
 同じ学校の制服。
 知らない学校の制服。
 高校生。
 会社員。
 毎朝、同じような人の波。
 斗真は吊革につかまりながら、ぼんやり車内を見ていた。
 その時だった。
 少し先のドアの近くに、見覚えのある横顔があった。
 一度見ただけでは、確信できなかった。
 髪が少し伸びていた。
 塾で見ていた頃より、顔つきも少し変わったように見えた。
 何より、制服を着ていた。
 自分の知らない制服。
 知らない色のリボン。
 知らない鞄。
 それだけで、知らない人のように見えた。
 でも、慶子だった。
 斗真には分かった。
 胸の奥が、一瞬で熱くなった。
 声をかけようと思った。
 すぐに。
 でも、足が動かなかった。
 あの時と同じだった。
 数メートルしか離れていない。
 塾にいた頃なら、その距離を普通に歩けた。
 「おはよう」
 それだけでよかったはずだった。
 なのに、今の慶子は遠かった。
 制服が違うからなのか。
 塾という場所がなくなったからなのか。
 最後にちゃんと話さないまま終わったからなのか。
 斗真には分からなかった。
 ただ、以前よりずっと遠くにいるように見えた。
 慶子は、斗真に気づかなかった。
 窓の外を見たり、足元を見たりしていた。
 斗真は、その横顔を見ながら、自分でも驚くほどいろいろなことを考えた。
 元気だったんだ。
 ちゃんと中学生になったんだ。
 どこの学校なんだろう。
 楽しいのかな。
 友達できたのかな。
 自分のことを覚えているだろうか。
 最後の問いだけが、少し怖かった。
 慶子が先に電車を降りた。
 斗真は降りなかった。
 追いかけることもしなかった。
 ドアが閉まる。
 ホームの向こうに、慶子の姿が流れていく。
 その瞬間、
 斗真は強く後悔した。
 声をかければよかった。
 久しぶり。
 それだけでよかった。
 なのに、また何もできなかった。

 その日の授業中、斗真は何度も慶子のことを思い出した。
 黒板を見ても、ノートを取っても、頭の片隅に残っている。
 知らない制服を着た慶子。
 自分に気づかなかった慶子。
 電車を降りていく慶子。
 帰宅してからも、消えなかった。
 夕飯を食べたあと、斗真は机に向かった。
 勉強するつもりだった。
 けれど、ノートの端に名前を書いた。
 慶子。
 すぐに消した。
 何をしているんだと思った。
 そのまましばらく机に座っていた。
 そして、手紙を書こうと思った。
 直接話せないなら、書けばいい。
 そう思った。
 塾で言えなかったこと。
 あの時、何も言えなかったこと。
 嫌われたままになっているかもしれないこと。
 今日、電車で見かけたこと。
 もう一度、話したいこと。
 文字なら、ちゃんと伝えられる気がした。
 斗真は便箋を出した。
 最初の一行で止まった。
 「久しぶり。」
 書く。
 消す。
 「元気ですか。」
 固い。
 消す。
 「今日、電車で見かけました。」
 怖い気がした。
 消す。
 何度も書き直した。
 当時の斗真に、上手な文章など書けない。
 それでも、できるだけ誤解されないように書こうとした。
 塾の時、慶子が嫌がっていたのに何も言えなかったこと。
 本当は嫌だったこと。
 助けたかったけれど、怖くて何も言えなかったこと。
 今さらだけど、ごめん、と。
 そして、また話せたら嬉しい、と。
 何度も読み返した。
 読めば読むほど、変に見えた。
 重い気もした。
 でも、他に方法がなかった。
 斗真は手紙を折った。
 封筒へ入れた。
 表に、慶子の名前だけを書いた。
 その夜は、なかなか眠れなかった。
 渡せるだろうか。
 電車で会えるだろうか。
 もし受け取ってくれたら。
 もし読んでくれたら。
 もしかしたら、また話せるかもしれない。
 想像は、都合のいい方へ進んだ。
 あの時のことも、笑って話せるようになるかもしれない。
 塾の帰りみたいに。
 また普通に。

 翌朝から、斗真は電車の中で慶子を探すようになった。
 毎日会えるわけではなかった。
 時間が少し違うのかもしれない。
 乗る車両が違うのかもしれない。
 それでも、手紙は鞄に入れたままにした。
 角が曲がらないように、教科書の間へ挟んだ。
 一日。
 二日。
 三日。
 会わない。
 その間にも、斗真の中で手紙の意味は大きくなっていった。
 最初は、ただ謝りたかった。
 それだけだったはずなのに。
 いつの間にか、
 これを受け取ってもらえれば、
 何かが変わる。
 そんな気がしていた。
 慶子とのことだけではない。
 塾で何もできなかった自分も。
 学校で笑われていた自分も。
 全部、少しだけ違うものになるような気がした。
 そして数日後。
 慶子は、また同じ電車にいた。
 今度は見つけた瞬間に、身体が熱くなった。
 逃したくないと思った。
 斗真は鞄の中を確認した。
 手紙はある。
 慶子は、ドアの近くに立っていた。
 斗真は少しずつ近づいた。
 一歩。
 もう一歩。
 心臓の音が、自分にだけ聞こえるくらい大きかった。
 慶子のすぐ近くまで来た。
 声を出す。

【斗真】「慶子」

 慶子が振り返った。
 一瞬、誰だか分からないような顔をした。
 それから、気づいた。

【慶子】「……斗真?」

 名前を呼ばれただけで、少し嬉しかった。
 覚えていた。
 それだけで、手紙を書いてよかったような気がした。

【斗真】「久しぶり」
【慶子】「うん」

 会話が止まった。
 電車の音だけが聞こえる。
 斗真は、何を言えばいいのか分からなくなった。
 昨日まで頭の中では、何度も練習していた。
 でも、本人を前にすると全部飛んだ。
 慶子も、何かを待っているように見えた。
 斗真は鞄へ手を入れた。
 封筒を出す。

【斗真】「これ」

 慶子が、封筒を見る。
 斗真は差し出した。

【斗真】「読んでほしいんだけど」

 慶子の表情が変わった。
 ほんの少しだけ、顔が固くなった。
 斗真には分かった。
 嫌な予感がした。
 でも、もう手は出している。
 戻せなかった。

【慶子】「……いい」

 最初、意味が分からなかった。

【斗真】「え?」

【慶子】「いらない」

 斗真の手は、宙に残ったままだった。

【斗真】「いや、手紙」
【慶子】「分かってる」

 慶子は、受け取らなかった。
 封筒を見る。
 斗真を見る。
 それから、もう一度首を横に振った。

【慶子】「ごめん。いらない」

 声は冷たくなかった。
 怒鳴られたわけでもない。
 それが、余計につらかった。
 斗真は、手紙を少しだけ引いた。
 何か言わなければと思った。
 中身だけでも説明しようと思った。

【斗真】「塾の時のこと、俺――」

【慶子】「いいから」

 慶子は、今度は少し強く言った。

【慶子】「ほんとに、いい」

 そこで、斗真は止まった。
 受け取ってもらえない。
 読むかどうかではない。
 開けてもらえない。
 何を書いたのかさえ知ってもらえない。
 手紙はまだ、自分の手の中にある。
 電車が駅へ入った。
 ブレーキの音。
 車内放送。
 扉が開く。
 慶子は降りる側へ身体を向けた。

【慶子】「じゃあ」

【斗真】「……うん」

 それだけだった。
 慶子はホームへ降りた。
 斗真は、その場に残った。
 手の中には、手紙があった。
 電車のドアが閉まる。
 慶子が見えなくなる。
 斗真は、しばらく手紙をしまえなかった。

 学校へ着いてから、手紙を鞄の奥へ入れた。
 捨てることはできなかった。
 家に帰ってからも、開かなかった。
 何を書いたのか、もう読みたくなかった。
 数日後、机の引き出しの奥へしまった。
 それから、慶子に声をかけることはなかった。
 電車の中で見かけても、近づかなかった。
 慶子も、斗真に話しかけてはこなかった。
 やがて、見かけること自体が減っていった。
 その時の斗真は、慶子がなぜ手紙を受け取らなかったのかを知らなかった。
 塾の時のことをまだ怒っていたのかもしれない。
 突然手紙を差し出されたことが嫌だったのかもしれない。
 もう関わりたくなかったのかもしれない。
 好きな人がいたのかもしれない。
 ただ気まずかっただけかもしれない。
 本当の理由は、慶子にしか分からない。
 でも斗真は、その空白を空白のままにしておけなかった。
 理由がないと、苦しかった。
 だから、自分で理由を作った。
 俺だからだ。
 斗真だから、受け取りたくなかった。
 もっと格好いい男子なら。
 もっと人気のある男子なら。
 学校でいじめられるような人間じゃなければ。
 慶子は受け取ったのかもしれない。
 そんなことを、誰にも言われていないのに。
 斗真は、そう考えた。
 手紙の中身を読んで嫌われたのなら、まだ中身を変えられる。
 書き方が悪かったのなら、次は直せる。
 でも、手紙そのものを受け取ってもらえなかった。
 その事実は、当時の斗真には別の意味に見えた。
 言葉ではない。
 中身ではない。
 自分そのものが、読む価値のないものとして返されたように感じた。
 もちろん、本当は違ったのかもしれない。
 慶子はそんなことまで考えていなかったかもしれない。
 ただ、受け取りたくなかった。
 それだけだったのかもしれない。
 でも十三歳の斗真には、その「それだけ」が分からなかった。
 人は、答えがないところに答えを置く。
 斗真がそこへ置いた答えは、
 「今の自分では足りない」
 だった。

 その後、斗真は少しずつ変わっていった。
 髪を気にするようになった。
 服を気にするようになった。
 どう話せば人に好かれるのかを考えるようになった。
 面白いことを言える方がいい。
 人より何かできた方がいい。
 頼られる方がいい。
 価値がある方がいい。
 何かを足せば、次は受け取ってもらえるかもしれない。
 その時は、そんなふうに考えている自覚などなかった。
 ただ、もう二度と同じ思いをしたくなかった。
 好きな人の前で、何もできない自分になりたくなかった。
 差し出したものを、見る前に返されるような自分でいたくなかった。
 慶子は、ますます「あちら側」の人になった。
 塾で一緒に笑っていた普通の女の子ではなく、
 自分には届かなかった人。
 選んでもらえなかった人。
 その人に選ばれなかったことで、自分の価値まで決まったように感じた相手。
 斗真は、その時まだ知らなかった。
 この先、誰かに選ばれるたびに安心して。
 誰かに離れられるたびに、また同じ場所へ戻ることになる。
 選ばれれば価値がある。
 選ばれなければ価値がない。
 そんなものを物差しにして、人を好きになるようになることを。
 そして、その物差しを持ったまま大人になることを。

 机の奥には、慶子が一度も開かなかった手紙が残っていた。
 斗真は、いつかそれを捨てた。
 いつ捨てたのかは覚えていない。
 ただ、中身だけは長く残った。
 読まれなかった言葉よりも、
 受け取られなかったという事実の方が、
 ずっと長く残った。

第3章 選ばれたあと

中学を卒業する頃には、斗真は少しだけ人との距離の取り方を覚えていた。
 誰に何を言えば笑ってもらえるか。どこまでふざければ嫌われないか。相手が退屈している時の顔。話を変えた方がいい時の間。
 小学生の頃には分からなかったものが、少しずつ見えるようになっていた。
 それは自信というより、技術に近かった。
 人の中にいるための技術。
 学校で傷つかないために覚えたものと、誰かに好かれるために覚えたものが、斗真の中ではもうきれいに分かれていなかった。
 高校に入る頃には、少なくとも「何をしても笑われる子」ではなくなっていた。
 話せば普通に返ってくる。男子とも付き合える。女子とも話せる。
 慶子の手紙を受け取ってもらえなかった頃の自分から見れば、それだけでもずいぶん遠くまで来たように思えた。
 そして、高校に入ってしばらくして、斗真にも彼女ができた。

 相手は同じ学校の女子だった。
 誰が見ても目立つ美人、というわけではなかった。でも斗真にとっては、廊下ですれ違えば無意識に目で追ってしまうような子だった。
 友達を挟んで話すようになり、何度か一緒に帰った。家の電話番号を教えてもらってからは、受話器を持つ時間が少し長くなった。
 親が出るかもしれない。何時までなら電話していいのか。何を話せばいいのか。
 たった一本の電話にも、今よりずっと勇気が要った。
 それでも、慶子の時とは違った。
 話せば返ってくる。笑えば笑い返してくれる。自分から近づいても、逃げられない。
 そのことが、斗真には嬉しかった。
 ある日の帰り道。
 駅へ向かう途中の、少し人通りの少ない道だった。
 夕方の光が建物の隙間から斜めに差していた。
 斗真は何度も頭の中で言い方を変えてから、結局いちばん普通の言葉を選んだ。

【斗真】「なあ」
【彼女】「何?」
【斗真】「俺らさ」
【彼女】「うん」
【斗真】「付き合わない?」

 言ってから、急に喉が乾いた。
 彼女は少しだけ目を見開いた。
 すぐには答えなかった。
 数秒だったと思う。
 でも斗真には、ずいぶん長く感じた。
 慶子に差し出した手紙が、受け取られないまま宙に残った時の感覚が、一瞬だけ戻ってきた。
 また駄目かもしれない。
 そう思った時だった。

【彼女】「……うん」
【斗真】「え?」
【彼女】「いいよ」

 斗真は、一度聞き返しそうになった。

【斗真】「ほんとに?」
【彼女】「何で聞くの」
【斗真】「いや、なんか」
【彼女】「自分で言ったんじゃん」

 彼女が笑った。
 斗真も笑った。
 その帰り道、景色が少し違って見えた。
 大げさではなく、本当にそう感じた。
 選ばれた。
 その言葉が、何度も頭に浮かんだ。
 今度は、差し出したものを受け取ってもらえた。
 今の自分で。
 何か特別なものを持っているわけでもない自分を、誰かが「いい」と言った。
 斗真には、それが恋愛以上の出来事に思えた。
 自分は、あちら側へ行けるのかもしれない。
 そう思った。

 付き合い始めてからの数日は、妙に落ち着かなかった。
 朝、学校へ行けば彼女がいる。
 廊下ですれ違う。目が合う。
 それだけで、昨日までとは意味が違う。
 友達と話している彼女を見ても、自分だけが知っている関係があるような気がした。
 放課後、一緒に帰る。夜、電話をする。
 明日は何を話そう。次の休みはどこへ行こう。
 付き合って一週間も経っていないのに、斗真の頭の中には、その先の時間が勝手に増えていった。
 一か月。三か月。半年。誕生日。クリスマス。
 まだ何ひとつ来ていない未来を、もう自分のもののように考えていた。
 選ばれたのだから、続くものだと思っていた。
 少なくとも、こんなに早く終わるとは思っていなかった。

 一週間ほど経った放課後だった。
 彼女から「ちょっと話したい」と言われた。
 いつも通り一緒に帰るのだと思った。
 校舎を出て、昇降口から少し離れたところまで歩く。
 風が強かった。
 彼女の髪が何度か顔にかかって、そのたびに手で耳へ戻していた。
 いつもなら、そこから何か話す。
 先生のこと。友達のこと。帰ったら電話するかどうか。
 でも、その日は何も続かなかった。
 彼女は前を見たまま歩いていた。

【斗真】「どうしたの?」

 少し間があった。

【彼女】「ごめん」

 斗真は、何について謝られているのか分からなかった。
 いや。
 本当は、その一言で何となく分かってしまった。
 だから、分からないふりをした。

【斗真】「何が?」

 彼女が立ち止まった。
 斗真も止まる。
 通学路を、他の生徒が何人か通り過ぎていった。
 誰もこちらを見ていない。
 それなのに斗真は、ひどく人目が気になった。

【彼女】「付き合うの、やっぱり無理かも」

 音が一つ消えたような感じがした。
 車の音も、部活の声も、遠くなった。

【斗真】「……無理って?」
【彼女】「そのままの意味」
【斗真】「何で?」

 彼女は、すぐに答えなかった。
 斗真は理由が知りたかった。
 直せる理由であってほしかった。
 電話しすぎた。何か変なことを言った。距離が近すぎた。
 そういう、自分が次から変えられるものならよかった。

【彼女】「好きな人がいるの」

 斗真の胸の奥が、ゆっくり沈んだ。

【斗真】「……俺と付き合う前から?」

 彼女は目を逸らした。

【彼女】「うん」

 その一文字で、今までの一週間の見え方が変わった。

【斗真】「じゃあ、何で俺と付き合ったの」

 自分でも、少し声が強くなったのが分かった。

【彼女】「斗真なら、好きになれるかなって思った」

 斗真は何も言えなかった。
 その言葉は、拒絶よりもずっと複雑だった。
 最初から嫌われていたわけではない。
 むしろ、一度は選ばれている。
 でも、その選択は仮だった。

【斗真】「……なれなかった?」

 彼女は黙った。
 その沈黙が答えだった。

【斗真】「その好きなやつって誰?」
【彼女】「言わない方がいいと思う」
【斗真】「知ってるやつ?」

 また、少し間があった。

【彼女】「……うん」
【斗真】「同じ学校?」
【彼女】「うん」

 聞くたびに、自分で自分を追い込んでいるのは分かっていた。
 それでも止められなかった。

【斗真】「誰?」

 彼女は、小さな声で名前を言った。
 同じクラスの男子だった。
 顔が浮かんだ。
 背格好。話し方。友達と笑っているところ。授業中の態度。
 全部知っている。
 知らない相手なら、まだ想像で済んだ。
 でも知っている相手だと、比較が始まる。
 自分より背が高い。
 自分より話がうまい。
 自分より人気がある。
 いや、そこまででもない。
 じゃあ、何が違う。
 何が足りない。
 頭の中で勝手に採点が始まった。

【斗真】「そいつは、お前のこと好きなの?」
【彼女】「分かんない」
【斗真】「分かんないの?」
【彼女】「うん」

 斗真は、そこで初めて少し腹が立った。
 自分は、分からない相手に負けたのか。
 一週間とはいえ、自分を選んだのに。
 それでも、まだ何も始まっていない相手の方へ戻るのか。

【斗真】「じゃあさ」

 言いかけて止まる。
 じゃあ俺でいいじゃん。
 その言葉が喉まで来た。
 でも、それを言ったら全部終わる気がした。
 自分を選んでくれ、と頼むことになる。
 誰かより自分を上にしてくれ、と。
 それが惨めに思えた。

【斗真】「……いや、いい」
【彼女】「ごめん」
【斗真】「うん」
【彼女】「ほんとにごめん」
【斗真】「大丈夫」

 大丈夫ではなかった。
 でも、反射みたいに出た。
 怒ったら格好悪い。
 泣いたらもっと格好悪い。
 引き止めたら惨めになる。
 ここで平気な顔をできれば、少なくとも最後まで嫌われずに済む。
 斗真は、別れ際まで相手の中の自分を守ろうとした。

【彼女】「じゃあ……」
【斗真】「うん。じゃあな」

 彼女が歩いていく。
 斗真は、その背中を見送らなかった。
 反対方向へ歩き始めた。
 角を曲がるまで、振り返らなかった。
 誰にも見られていない場所まで来てから、ようやく足が止まった。
 腹が立つのか。悲しいのか。恥ずかしいのか。
 自分でも分からなかった。
 ただ、ひとつだけ分かった。
 選ばれたのに。
 それでも駄目だった。

 それから数日、斗真はなるべくいつも通りに学校へ行った。
 別れたことを知っている友達は、まだほとんどいなかった。
 知られたくもなかった。
 一週間で終わった。
 その短さまで含めて笑われる気がした。
 彼女と廊下ですれ違うことはあった。
 目が合えば、どちらからともなく少し逸らす。
 話しかけることはなかった。
 斗真は、それでいいと思おうとした。
 終わったものは終わった。
 見なければ、そのうち慣れる。
 そう思っていた。
 その日の昼休みまでは。

 次の授業へ移動するため、斗真は教科書を抱えて廊下を歩いていた。
 階段を上がり、曲がり角へ差しかかったところで、聞き覚えのある笑い声がした。
 足が止まった。
 止まるつもりはなかった。
 身体が先に反応した。
 少し先の窓際に、元彼女がいた。
 その隣に、あの男子がいた。
 別れ話の時に名前を聞いた、同じクラスの男。
 斗真は、すぐに分かった。
 二人は特別なことをしていたわけではない。
 手を繋いでいるわけでもない。
 身体を寄せ合っているわけでもない。
 ただ、並んで立って話していた。
 だからこそ、逃げ道がなかった。
 「たまたま話しているだけ」と思うこともできる。
 まだ付き合っていないのかもしれない。
 何も始まっていないのかもしれない。
 でも、元彼女の顔を見れば、それだけではないことが斗真には分かってしまった。
 よく笑っていた。
 声の高さが少し違った。
 相手が何か言うたびに、肩を揺らして笑う。
 一度、相手の腕を軽く叩いた。
 それは付き合っていた数日の間に、斗真にもしたことのある仕草だった。
 斗真の胸の奥が冷たくなった。
 自分だけのものだと思っていたわけではない。
 そんなことを考えるほど長く付き合ってもいない。
 それでも、あの笑い方を知っていた。
 自分に向けられた時、嬉しかった。
 その同じものが、今は別の男へ向いている。
 しかも、その男こそ、彼女が最初から好きだった相手だった。
 斗真は、二人を見ない方がいいと思った。
 なのに目を逸らせなかった。
 男が少し身を屈めて、彼女に何かを言った。
 彼女が顔を上げた。
 また笑う。
 楽しそうだった。
 別れ話の時に見せた、申し訳なさそうな顔ではない。
 斗真と付き合っていた時に、時々見せた遠慮もない。
 何も気にしていない顔だった。
 その自然さが、きつかった。
 彼女は自分といる時も笑っていた。
 だから、自分はうまくいっていると思った。
 でも今、目の前にいる彼女の方が、もっと自然に見える。
 斗真は、自分の記憶まで疑い始めた。
 あの一週間、楽しかったと思っていたのは自分だけだったのか。
 電話で笑っていたのも。
 一緒に帰ったのも。
 付き合っていいと言ったのも。
 全部、「好きになれるかもしれない」という試用期間だったのか。
 斗真の中で、付き合っていた一週間が別の意味に塗り替えられていった。
 あの時の笑顔。
 あの時の返事。
 あの時の「いいよ」。
 全部が少しずつ軽くなる。
 選ばれたと思っていた。
 でも本当は、候補に入っただけだったのかもしれない。
 男がふと廊下のこちら側を見た。
 斗真は反射的に視線を外した。
 掲示板を見るふりをした。
 何が貼ってあったのかは、まったく覚えていない。
 心臓だけが妙に速かった。
 気づかれたか。
 二人に、自分が見ていたことがばれたか。
 そればかりが気になった。
 少しして、もう一度だけそちらを見る。
 二人はまだ話していた。
 斗真のことなど見ていなかった。
 そのことにも傷ついた。
 自分がここでこんなに苦しいのに、
 二人の時間には、自分など最初から存在していない。
 当たり前だった。
 でも、その当たり前が痛かった。
 斗真は教科書を抱え直し、そのまま二人の前を通ることにした。
 別の道を使えば、避けたと思われる気がした。
 誰にそう思われるのかも分からない。
 それでも、逃げたくなかった。
 歩く。
 普通の速度で。
 速すぎないように。
 遅すぎないように。
 二人に近づく。
 笑い声が、はっきり聞こえる距離になる。
 元彼女が斗真に気づいた。
 ほんの一瞬だけ、表情が止まった。
 男も斗真を見た。
 斗真は、どういう顔をすればいいのか分からなかった。

【彼女】「……あ」

 小さな声だった。
 斗真は足を止めなかった。

【斗真】「おう」

 それだけ言った。
 男にも、軽く顎を引いた。
 友達にするのと同じ程度の挨拶。
 そのまま通り過ぎる。
 背中に何か言葉が飛んでくるかと思った。
 何も来なかった。
 笑い声も、一度止まった。
 数歩進んだところで、また小さく聞こえ始めた。
 それが自分のことなのか、それともさっきの話の続きなのか、斗真には分からなかった。
 振り返らなかった。
 振り返ったら、自分が負けたような気がした。
 何に負けたのかも分からないのに。
 教室へ戻って、自分の席に座った。
 教科書を机の上へ置く。
 手のひらに、少し汗をかいていた。
 周りでは、誰かが昼飯の残りを食べていた。
 誰かがふざけている。
 窓際では別のグループが笑っている。
 学校は、何事もなく続いていた。
 斗真だけが、さっきの廊下から戻れていなかった。
 あの男の何が、自分よりよかったのか。
 考え始める。
 顔。
 身長。
 話し方。
 明るさ。
 友達の多さ。
 運動。
 頭の良さ。
 自信。
 ひとつずつ比べる。
 勝っているところを探す。
 負けているところを探す。
 でも、どれも答えにならなかった。
 彼女は、採点表をつけてあの男を選んだわけではない。
 好きだった。
 ただ、それだけだ。
 斗真には、その「ただ」が一番理解できなかった。
 自分がどれだけ頑張れば、そこへ勝てるのか分からないからだ。
 努力で埋められない差があることが怖かった。
 もっと格好よくなればいい。
 もっと面白くなればいい。
 もっと優しくなればいい。
 もっと頼れるようになればいい。
 そういう答えなら、まだ動ける。
 でも、
 好きだから。
 それだけで選ばれる相手がいる。
 そして、
 好きじゃないから。
 それだけで外される自分がいる。
 その事実は、斗真にとって残酷だった。
 慶子の時は、最初から選ばれなかった。
 手紙さえ受け取ってもらえなかった。
 だから、次は選ばれる人間になればいいと思った。
 高校に入り、今度は選ばれた。
 「付き合ってもいい」と言われた。
 あの瞬間、これで証明されたと思った。
 自分にも価値がある。
 自分だって、誰かに選ばれる。
 そう思った。
 でも、一週間で終わった。
 選ばれることと、選ばれ続けることは違った。
 しかも、自分より何かが明確に優れていると証明された相手に負けたわけではない。
 ただ、彼女がそちらを好きだった。
 それだけだった。
 その「それだけ」を、斗真は受け入れられなかった。
 拒絶されるだけなら、足りないものを増やせばいい。
 でも、一度選ばれても捨てられるのなら。
 いったい、どこまで自分を増やせば安心できるのか。
 答えは出なかった。
 だから斗真は、別の答えを作った。
 もっと必要とされればいい。
 もっと面白ければいい。
 もっと頼られればいい。
 相手にとって、他の誰かへ行くより自分のところにいる方が得な人間になればいい。
 そうすれば、選ばれたあとも残ってもらえる。
 当時の斗真は、そんなふうに言葉にはしていなかった。
 ただ、一度選ばれただけでは足りない、と覚えた。
 選ばれ続けなければ意味がない。
 恋人ができた一週間は、斗真に「自分も選ばれる」と教えた。
 その終わりは、「選ばれたあとでも、捨てられる」と教えた。
 斗真は、その二つを同時に抱えたまま、大人になっていくことになる。

 高校を卒業し、少し大人になっても、その癖は完全には消えなかった。
 むしろ、できることが増えた分だけ、やり方が増えた。
 話を聞く。相談に乗る。迎えに行く。手伝う。相手が欲しいものを先に考える。困っていれば動く。
 役に立てば、そばにいられる気がした。
 必要とされれば、捨てられない気がした。
 当時の斗真は、それを「優しさ」だと思っていた。
 もちろん、優しさでもあった。
 相手を大切にしたい気持ちは嘘ではない。
 ただ、その中に少しだけ、自分を守るためのものが混ざっていた。
 必要とされていれば安心できる。
 役に立っていれば、自分の席がある。
 その考えは、いつも言葉になる前のところにあった。

 若い頃、斗真が強く惹かれた女性がいた。
 少し年上の男と付き合っていた。
 正確には、斗真がその事実を知ったのは、かなり後だった。
 最初は知らなかった。
 話が合った。何度も会った。相談もされた。
 相手も、自分には心を開いてくれていると思った。
 斗真は、また少し期待した。
 今度こそ。
 今度は、自分を選んでもらえるかもしれない。
 以前より大人になった。
 人と話すことも上手くなった。
 少なくとも高校生の頃の自分よりは、価値があるはずだ。
 そう思っていた。

 ある晩。
 何人かで飲んだ帰りだった。
 相手と二人になる時間があった。
 斗真は、ずっと聞きたかったことを聞いた。

【斗真】「今、付き合ってる人とかいるの?」

 相手は、一瞬だけ考えた。

【女性】「いるよ」

 斗真の中で、何かが止まった。

【斗真】「いるんだ」
【女性】「うん」
【斗真】「どんな人?」

 聞かなければいい。
 そう思いながら、聞いた。
 年上。
 七つほど上。
 定職には就いていない。
 それでも彼女は、その人が好きだった。
 斗真には、それが理解できなかった。
 理解できないというより、悔しかった。
 自分より年上。自分より経験がある。余裕があるように見える。
 でも、仕事という尺度では、自分の方がまともなのではないか。
 そんな比較が、頭の中で始まった。
 比較したところで、意味はない。
 彼女が好きなのはその男だ。
 条件で恋をしているわけではない。
 それでも斗真は、条件を並べた。
 負けた理由を探した。

【斗真】「そっか」
【女性】「ごめん」
【斗真】「何で謝るの」
【女性】「何となく」

 斗真は笑った。
 大丈夫なふりをした。
 まただった。
 慶子の時も。
 高校の彼女の時も。
 そして今も。
 自分ではない方へ行く。
 斗真は、その度に理由を自分の中へ探した。
 足りないもの。
 持っていないもの。
 もっとあれば選ばれたかもしれないもの。

 その男が七歳上だったことは、斗真の中に妙な形で残った。
 年齢。余裕。経験。自信。
 そういうものを持っている男は強い。
 そんなふうに思うようになった。
 同時に、仕事がなくても選ばれる男がいるという事実も、斗真を苛立たせた。
 じゃあ、自分が頑張る意味は何なのか。
 役に立つこと。ちゃんとすること。働くこと。面白くなること。格好よくなること。
 それらを積み上げれば選ばれると思っていたのに、恋愛はそんなふうには動かない。
 当たり前のことだった。
 でも斗真には、その当たり前がなかなか飲み込めなかった。

 斗真は、少しずつ一人の相手だけに全部を預けなくなった。
 意識して決めたわけではない。
 気づけば、そうなっていた。
 好きな人がいる。
 でも、その人だけではない。
 話を聞いてくれる人。自分を褒めてくれる人。必要としてくれる人。ちょっと気になる人。自分に好意があるかもしれない人。
 そういう存在を、二人、三人と心の中に置くようになった。
 誰か一人に全部を賭けて、その人がいなくなった時に何も残らないのが怖かった。
 一人が離れても、別の誰かがいる。
 一人に選ばれなくても、他の場所では選ばれている。
 それは保険のようなものだった。
 もちろん、斗真自身はそんな言い方をしなかった。
 友達。仲のいい人。相談相手。気になる人。
 名前はいくらでもつけられた。
 でも、役割は似ていた。
 自分の価値を一か所に置かないための支え。
 学校で居場所が一つしかなかった頃の反動のようでもあった。
 塾という別の場所があったから耐えられたように。
 恋愛でも、心の逃げ道を複数持つ。
 斗真は、そのやり方を覚えていった。
 それで傷つかなくなったわけではない。
 ただ、倒れにくくなった。
 誰かに拒まれれば別の人と話した。
 落ち込めば、自分を肯定してくれる場所へ行った。
 選ばれない自分を見なくて済む場所を、いくつか作った。
 器用になった。
 少なくとも、本人はそう思っていた。
 でも本当は、選ばれることへの執着を手放したのではなく、選ばれる場所を増やしただけだった。

 斗真は、綺麗な人に惹かれた。
 もちろん誰だって、見た目に惹かれることはある。それ自体は珍しいことではない。
 けれど斗真の場合、そこに少し別の意味が混ざるようになっていた。
 誰が見ても綺麗な人。
 自分には届かなそうな人。
 「あちら側」にいるように見える人。
 そういう相手に選ばれた時の方が、自分まで価値のある人間になったように感じた。
 それは慶子から始まっていたのかもしれない。
 自分とは違う場所にいるように見えた女の子。
 その人に選ばれれば、自分もそちら側へ行けるような気がした。
 高校では、一度選ばれた。
 だから嬉しかった。
 そして一週間で、別の男へ戻された。
 選ばれたという証明には、有効期限がある。
 それも覚えた。
 なら、もっと確実に選ばれる自分にならなければならない。
 もっと面白く。
 もっと頼れるように。
 もっと稼げるように。
 もっと必要とされるように。
 もっと、誰かにとって手放しにくい人間に。
 斗真は自分に、少しずつ何かを足していった。
 けれど、どれだけ足しても、最初に知りたかったことへの答えは出なかった。
 何も足していない自分でも、誰かは自分を選ぶのか。
 役に立たなくても。
 格好よくなくても。
 面白いことを言えなくても。
 助けられなくても。
 何かを与えなくても。
 ただ、斗真だから。
 そういう理由で選ばれることがあるのか。
 その問いは、まだ言葉になっていなかった。
 だから斗真は、問いの代わりに、もっと何かを足した。

 そして何年も経って、その積み重ねの先で紗季と出会うことになる。
 斗真を一週間ではなく、一年でもなく、二十年近く選び続ける人と。
 その時、斗真はようやく安心できるはずだった。
 選ばれ続ければ、証明は終わるはずだった。

 そうはならなかった。

第4章 生活

紗季と出会った頃、斗真はもう、誰かに好かれるためのやり方をいくつか知っていた。
 話を聞く。困っていれば動く。迎えに行く。重いものを持つ。相手が欲しそうな言葉を、なるべく先に出す。
 そういうことが、以前よりずっと自然にできるようになっていた。
 紗季は、それを素直に喜ぶ女ではなかった。

【紗季】「何でそこまでやるの?」
【斗真】「何が」
【紗季】「迎えに来たりとか」
【斗真】「近いから」
【紗季】「近くないじゃん」
【斗真】「まあ、いいじゃん」
【紗季】「よくないとは言ってないけど」

 付き合い始めた頃から、紗季は時々、斗真の「やりすぎ」に気づいていた。
 斗真自身は、それをやりすぎだとは思っていなかった。
 好きな人のために動く。
 普通のことだと思っていた。
 むしろ、何もしない方が不安だった。
 役に立つ。喜ばれる。必要とされる。
 その流れの中にいると、自分の居場所が分かりやすかった。
 紗季は、その居場所を長く与えてくれた。
 結婚して、家を決めて、子どもが生まれて、生活が始まった。

 最初の娘が生まれた日のことを、斗真はよく覚えていた。
 小さかった。
 当たり前だが、驚くほど小さかった。
 抱いていいと言われても、どこを持てばいいのか分からなかった。

【斗真】「首、これ大丈夫?」
【紗季】「大丈夫だから抱いて」
【斗真】「壊れそうなんだけど」
【紗季】「物みたいに言わないで」

 紗季は疲れ切った顔で笑った。
 斗真は恐る恐る娘を抱いた。
 腕の中に収まる。
 軽い。
 でも、その軽さとは釣り合わないほど大きなものを持たされた気がした。
 守らなければ。
 その感覚は、斗真には分かりやすかった。
 何をすればいいのかがある。
 働く。迎えに行く。病院へ連れていく。買う。運ぶ。作る。直す。
 やるべきことが増えるほど、斗真はよく動いた。
 二人目が生まれてからは、さらに忙しくなった。
 保育園。学校。行事。習い事。買い物。熱。忘れ物。壊れた傘。足りないノート。急に必要になる工作の材料。
 家族というものは、細かい用事の連続だった。
 斗真は、その細かい用事に強かった。

【紗季】「明日、長女の上履き買える?」
【斗真】「サイズは?」
【紗季】「二十三」
【斗真】「了解」
【紗季】「あと次女の画用紙」
【斗真】「何枚?」
【紗季】「知らない。大きいやつ」
【斗真】「情報が雑」
【紗季】「学校が雑なの」

 笑いながらメモする。
 帰りに買う。
 忘れない。
 そういうことは得意だった。
 家族に必要とされている実感があった。
 そして斗真は、その実感が好きだった。

 二十年近く一緒に暮らしていれば、恋愛と生活の境目は曖昧になる。
 朝起きる。誰かが先に洗面所を使っている。冷蔵庫を開ける。牛乳がない。ゴミの日を忘れる。娘が機嫌悪く学校へ行く。紗季が仕事で疲れて帰る。斗真も疲れている。
 それでも夕飯がいる。風呂がいる。洗濯物がある。明日の予定がある。
 愛しているかどうかを確認する前に、やることがある。
 そういう日々が続く。
 そして、その日々そのものが家族になる。
 紗季は、そのことを斗真よりずっと早く知っていた。
 十七歳の時、母親を亡くしていた。
 斗真がその話を初めて聞いた時、紗季は拍子抜けするほど淡々としていた。

【斗真】「十七?」
【紗季】「うん」
【斗真】「高校生じゃん」
【紗季】「高校生だね」
【斗真】「……きつかっただろ」
【紗季】「きつかったよ」

 それ以上、紗季はすぐには話さなかった。
 斗真も、無理に聞かなかった。
 しばらくしてから、紗季がぽつりと言った。

【紗季】「でも次の日も朝になるんだよね」

 斗真は黙っていた。

【紗季】「学校もあるし。洗濯物も溜まるし。冷蔵庫の中のものも悪くなるし」
【斗真】「うん」
【紗季】「人が死んでも、生活って止まってくれないんだなって思った」

 それは、紗季の口癖になるような話ではなかった。
 思い出話として何度も出てくることもなかった。
 ただ、斗真は後になって、紗季の中にはずっとその感覚が残っているのだと思うようになった。
 家族は気持ちだけでは続かない。
 誰かが悲しくても、腹は減る。
 誰かがいなくなっても、明日は来る。
 飯を作り、服を洗い、学校や仕事へ行く。
 紗季にとって「生活を続ける」ということは、愛情とは別の現実ではなかった。
 むしろ、愛情の一部だったのかもしれない。
 斗真は、それを頭では理解していた。
 でも、自分自身が家族の中で何を求めているのかとは、なかなか結びつかなかった。

 ある夜、紗季がソファに座ったまま動かなくなっていた。
 仕事から帰って、夕飯を食べ、片づけも途中だった。
 娘たちは自室にいる。
 テレビはついていたが、紗季は見ていなかった。

【斗真】「どうした」
【紗季】「疲れた」
【斗真】「風呂入って寝たら」
【紗季】「そういうことじゃない」

 斗真は少し黙った。

【斗真】「じゃあ何」
【紗季】「何でもない」
【斗真】「何でもない顔じゃないだろ」
【紗季】「今説明するのもしんどい」

 斗真は、キッチンの途中だった皿を洗った。
 洗濯物を回した。
 翌朝の米をセットした。
 紗季は、ソファから動かなかった。
 斗真は、これでいいと思った。
 疲れているなら、自分がやればいい。
 やるべきことを減らしてやればいい。
 それが助けるということだと思った。
 翌朝。

【斗真】「昨日の大丈夫?」
【紗季】「何が?」
【斗真】「疲れてたやつ」
【紗季】「ああ」
【斗真】「家のことはやっといたけど」
【紗季】「うん、ありがとう」

 終わった。
 それ以上の話にはならなかった。
 斗真には、少しだけ引っかかった。
 何か違う。
 でも、何が違うのかは分からなかった。
 自分は動いた。
 ちゃんと役に立った。
 紗季も礼を言った。
 それなのに、何かが残っていた。

 別の日。
 今度は斗真の方が疲れていた。
 平日の仕事が詰まり、そのまま週末の婚礼現場へ入った。
 日曜の夜、家へ帰る。
 バッグを置く。靴を脱ぐ。誰にも何も言わず、そのまま床へ座った。

【紗季】「おかえり」
【斗真】「ただいま」
【紗季】「ご飯いる?」
【斗真】「あとで」
【紗季】「先にお風呂入っちゃえば?」
【斗真】「うん」

 正しい。
 全部正しい。
 飯がある。風呂もある。休めばいい。
 何も困っていない。
 それでも斗真は、少しだけ腹が立った。
 何に腹を立てているのか、自分でも分からなかった。
 「大変だったね」と言ってほしかったのか。
 抱きしめてほしかったのか。
 何も聞かず隣に座ってほしかったのか。
 自分でも分からないくせに、紗季が分からないことには不満を感じた。
 その矛盾には気づかなかった。

【紗季】「今日どうだった?」
【斗真】「別に」
【紗季】「別にならいいけど」

 そこで会話は終わった。
 斗真は風呂へ入った。
 湯船の中で、なぜか余計に疲れた。
 話したいなら、話せばいい。
 寂しいなら、そう言えばいい。
 今なら簡単にそう思える。
 でも当時の斗真には、それができなかった。
 役に立つことはできる。
 困っている人を助けることもできる。
 でも、
 「俺を見てほしい」
 という言葉は、ひどく格好悪い気がした。

 少しずつ、夫婦の中に役割が増えた。
 紗季は家の予定を把握する。斗真は動く。紗季が娘たちの学校関係を管理する。斗真が送迎をする。紗季が必要なものを伝える。斗真が買う。
 斗真の収入が家へ入る。紗季も働く。
 誰かが足りないところを、もう一人が埋める。
 家庭としては、よくできていた。
 少なくとも、外から見ればそうだった。
 娘たちは育った。
 大きな事故もない。
 進学する。部活をする。友達ができる。反抗もする。
 家族旅行にも行った。
 写真も残った。
 誕生日も祝った。
 クリスマスもあった。
 カレーも何度も食べた。
 失敗した家庭ではなかった。
 だからこそ、斗真は余計に自分の中の違和感を説明できなかった。
 幸せじゃないのか。
 そう聞かれれば、幸せだと思う。
 家族を愛しているか。
 愛している。
 紗季を嫌いなのか。
 嫌いではない。
 むしろ、誰より長く自分を知っている人だった。
 それでも、
 何かが足りない。
 その「何か」が分からなかった。

 ある朝。
 娘の学校の準備で家の中が少し荒れていた。
 長女が探し物をしている。
 次女は洗面所から出てこない。
 紗季は台所から声を飛ばしている。

【紗季】「斗真、長女駅まで送れる?」
【斗真】「今?」
【紗季】「今」
【斗真】「仕事あるんだけど」
【紗季】「間に合うでしょ」
【斗真】「そういう問題じゃなくて」
【長女】「いいよ、走るから」
【紗季】「間に合わないでしょ」
【斗真】「分かったよ、送るよ」

 言い方が少し強くなった。
 長女が黙る。
 紗季も黙った。
 斗真は鍵を持った。
 駅まで送り、家へ戻る。
 そのまま仕事へ向かう途中、腹の中に何かが残っていた。
 頼まれたからやった。
 娘が困っていたからやった。
 送ること自体は嫌ではない。
 なのに、なぜこんなに腹が立つのか。
 自分でも分からなかった。

 夜。
 娘たちが部屋へ戻ったあと、紗季が切り出した。

【紗季】「朝、何であんな怒ってたの」
【斗真】「怒ってない」
【紗季】「怒ってたじゃん」
【斗真】「急に言われたら困るだろ」
【紗季】「でも送れたじゃん」
【斗真】「送れるかどうかの話じゃない」
【紗季】「じゃあ何の話?」
【斗真】「……知らない」

 紗季がため息をついた。

【紗季】「分かんないなら、こっちにぶつけないでよ」

 その言葉で、斗真の中に溜まっていたものが出た。

【斗真】「俺がやるの、当たり前になってない?」
【紗季】「何が?」
【斗真】「全部」
【紗季】「全部って何」
【斗真】「送迎とか、買い物とか、家のこととか」
【紗季】「私だってやってるけど」
【斗真】「そういう話じゃねえよ」
【紗季】「じゃあどういう話なの?」

 斗真は言葉に詰まった。
 自分が何に怒っているのか、本当に整理できていなかった。
 紗季もやっている。
 家の予定を把握しているのは紗季だ。
 娘たちの学校からの連絡も、病院も、提出物も、斗真が知らないことはいくらでもある。
 自分だけが家族を支えているわけではない。
 そんなことは分かっている。
 だから「俺ばっかり」とは言えなかった。
 それでも、胸の中には別の言葉があった。

【斗真】「俺さ」
【紗季】「うん」
【斗真】「俺が何もしなかったら、どうなるの」

 紗季が眉を寄せた。

【紗季】「何もしないって?」
【斗真】「何もしない」
【紗季】「仕事もしないってこと?」
【斗真】「そうじゃなくて」
【紗季】「じゃあ何」
【斗真】「だから……」

 また、言えない。
 役に立たなかったら。
 稼がなかったら。
 送らなかったら。
 買わなかったら。
 直さなかったら。
 話を聞かなかったら。
 困った時に動かなかったら。
 それでも、自分はここにいていいのか。
 それを聞きたかった。
 けれど口から出たのは、違う言葉だった。

【斗真】「俺、便利屋じゃないんだけど」

 紗季の顔が変わった。

【紗季】「私、そんなつもりで頼んでないよ」
【斗真】「でも結果そうじゃん」
【紗季】「じゃあ頼まなきゃいいの?」
【斗真】「そういうことじゃない」
【紗季】「さっきからそればっかりじゃん」

 その通りだった。
 そういうことじゃない。
 でも、どういうことなのか言えない。
 斗真は黙った。
 紗季も黙った。
 しばらくして、紗季が静かに言った。

【紗季】「ねえ」
【斗真】「何」
【紗季】「家族って、何もしなくても一緒にいられる人たち、ではないと思うよ」

 斗真は顔を上げた。

【紗季】「みんな何かするでしょ。家にいるなら」
【斗真】「分かってるよ」
【紗季】「私だって、何もしない斗真と暮らしたいわけじゃない」
【斗真】「ほら」
【紗季】「ほら、じゃないでしょ」

 紗季の声が少し低くなった。

【紗季】「私、十七で母親いなくなったでしょ」
【斗真】「……うん」
【紗季】「あの時ね、すごい思ったの」
【斗真】「何を」
【紗季】「いなくなったからって、家は勝手に回らないんだなって」

 斗真は黙った。

【紗季】「ご飯だって誰かが作らなきゃ出てこないし、洗濯物だって誰かが回さなきゃ溜まるし。悲しいから今日は全部止めます、って生活はできないんだよ」
【斗真】「それは分かるけど」
【紗季】「だから私は、家族ってそういうものだと思ってる」
【斗真】「そういうものって?」
【紗季】「好きだから一緒にいる。それだけじゃなくて、一緒にいるからやることがあるってこと」

 斗真は、少し苛立った。

【斗真】「じゃあ、役に立たなかったらいらないってこと?」
【紗季】「何でそうなるの」
【斗真】「今そう言ってるじゃん」
【紗季】「言ってない」

 紗季は、はっきりと言った。

【紗季】「お母さんが病気になった時、役に立たないからいらないなんて一回も思わなかったよ」
【斗真】「……」
【紗季】「むしろ、何もできなくてもいてほしかったよ」

 斗真は言葉を失った。
 紗季は少し俯いた。

【紗季】「でも、元気な人が何もしないのとは別でしょ」
【斗真】「……」
【紗季】「できないことと、やらないことも違うし」
【斗真】「うん」
【紗季】「役に立つから愛するのと、一緒に暮らしてるからお互いにやることがあるのも、違う」

 斗真には、その違いが分かるようで、まだ完全には分からなかった。
 紗季は続けた。

【紗季】「それを全部一緒にして、『何もしなくても俺を愛せる?』って聞かれても困るよ」
【斗真】「そんな言い方してない」
【紗季】「してるのと同じだよ」
【斗真】「じゃあ聞くけど」
【紗季】「何」
【斗真】「俺が役に立たなくなっても、俺がいいの?」

 言ってから、斗真自身が少し驚いた。
 初めて、問いに近いところまで言えた気がした。
 紗季もすぐには答えなかった。

【紗季】「役に立たないって、何」
【斗真】「だから、金とか。送り迎えとか。家のこととか」
【紗季】「病気になってできなくなるってこと?」
【斗真】「そういう話だけじゃなくて」
【紗季】「じゃあ、やらなくなるってこと?」
【斗真】「だから違うって」

 また噛み合わない。
 斗真は苛立った。
 紗季も苛立っていた。

【紗季】「斗真、自分で条件を曖昧にして、答えだけ欲しがってるよ」
【斗真】「……」
【紗季】「『何もできない俺でも愛する?』って言われたら、そりゃ愛するって言ってほしいんでしょ」
【斗真】「そういう確認がしたいわけじゃない」
【紗季】「じゃあ何」
【斗真】「俺だからって、あるのかってことだよ」

 紗季が黙った。
 今度は、長い沈黙だった。
 冷蔵庫の音がした。
 隣の部屋で、娘が何かを落とす音がした。
 生活は、二人の会話など待ってくれない。

【紗季】「あるよ」

 斗真が顔を上げた。

【紗季】「あるに決まってるじゃん」
【斗真】「……」
【紗季】「二十年近く誰でもよくて一緒にいると思ってるの?」
【斗真】「そうじゃないけど」
【紗季】「じゃあ何で、私が斗真じゃなくてもいいみたいに決めるの」

 今度は斗真が黙った。

【紗季】「でもね」
【斗真】「うん」
【紗季】「斗真だから好き、は、斗真なら何してもいい、じゃないよ」
【斗真】「分かってる」
【紗季】「本当に?」
【斗真】「……」
【紗季】「私だって同じだから」

 紗季は少し間を置いた。

【紗季】「私が何もしなくても、斗真はずっと優しくしてくれるの?」
【斗真】「それは」
【紗季】「家のこと全部放り出して、娘のことも知らない。約束も守らない。斗真がしんどくても知らない。それでも『紗季だから』って何も言わない?」

 斗真は答えられなかった。
 言われてみれば、その通りだった。
 自分だって、紗季に求めているものがある。
 共同生活者として。
 妻として。
 母親として。
 約束を守ってほしい。
 家のことを一緒にやってほしい。
 自分の気持ちも受け止めてほしい。
 それを全部「機能」と呼ぶなら、斗真も紗季に機能を求めている。
 けれど、それと「その人だからいてほしい」は、たぶん同時に存在できる。
 紗季は、それを言っているのだと、頭では少し分かり始めていた。
 それでも斗真の胸には、まだ引っかかるものが残った。

【斗真】「俺が言ってるのと、少し違うんだよ」
【紗季】「うん」
【斗真】「でも、うまく言えない」
【紗季】「じゃあ、うまく言えるまで考えたらいいじゃん」

 さっきまでより、紗季の声は少し柔らかくなっていた。

【紗季】「私は逃げないから」

 斗真は、その言葉に安心した。
 同時に、なぜか少し苦しくなった。
 「逃げない」
 それは、選ばれているということに聞こえた。
 なのに、それでも足りない自分がいた。

 その夜、斗真はなかなか眠れなかった。
 紗季の言っていることは正しい。
 共同生活には責任がある。
 約束がある。
 何もしなくても愛してくれ、というのは違う。
 自分だって、紗季が何もかも放棄すれば怒る。
 娘たちが家族の約束を全部無視すれば、たぶん怒る。
 家族だから何をしてもいいわけではない。
 そこは分かる。
 そして紗季は、役に立たなくなった人を切り捨てるような人間でもない。
 十七歳の時、何もできなくなっていく母親に、いてほしいと思った。
 その事実を斗真は知った。
 それでも、自分が知りたいことはまだ全部解けてはいなかった。
 役割を果たすことと、その人だから求められること。
 その二つは別で、同時に存在する。
 たぶん、そういうことなのだろう。
 では、自分はなぜこんなに不安なのか。
 妻だから必要なのか。
 夫だから必要なのか。
 父親だから必要なのか。
 金を入れるから。
 車を出すから。
 困った時に動くから。
 話を聞くから。
 便利だから。
 それらを全部剥がしたあとに、何が残るのか。
 残ったものを、紗季はまだ欲しいと思うのか。
 紗季は「ある」と言った。
 「斗真だから」と。
 それでも斗真は、その答えを完全には受け取れなかった。
 慶子の手紙と違って、今度はちゃんと差し出されているのに。
 受け取れないのは、自分の方だった。

 それからも生活は続いた。
 翌朝になれば、ゴミを出す。娘を起こす。仕事へ行く。帰れば食事をする。紗季とテレビを見る。娘の学校の話を聞く。土日は仕事へ行く。
 時々、家族で外食する。
 笑う。
 喧嘩もする。
 仲直りする。
 夫婦の間に何もなかったわけではない。
 手を繋ぐこともあった。
 キスをすることもあった。
 身体を重ねることもあった。
 昔の話をして笑う夜もあった。
 紗季の顔を見て、
 この人と二十年近く生きてきたんだな、
 と思うこともあった。
 それは嘘ではない。
 愛情がなくなったわけでもない。
 ただ、生活は長く続くほど、その人への気持ちと、その人が担っている役割が、どこからどこまでなのか分からなくなる。
 斗真は、自分が家族にとって何なのかを考えるようになった。
 夫。
 父親。
 稼ぐ人。
 送る人。
 直す人。
 話を聞く人。
 困った時に呼ばれる人。
 疲れている誰かが身体を預ける、柔らかい家具みたいな人。
 感情を受け止める場所。
 財布。
 運転手。
 便利屋。
 もちろん、家族はそんなふうに斗真を呼ばない。
 斗真自身が、勝手にそう感じ始めていただけだった。
 でも、一度そう見え始めると、なかなか元には戻らなかった。

 ある晩、紗季が眠ったあと。
 斗真は一人でリビングに残っていた。
 テレビは消していた。
 冷蔵庫の音だけが聞こえる。
 娘たちの部屋も静かだった。
 家族は、ちゃんと家にいる。
 自分もいる。
 何も失っていない。
 それなのに、斗真はひどく寂しかった。
 紗季は言った。
 「あるに決まってるじゃん」
 「二十年近く誰でもよくて一緒にいると思ってるの?」
 あれは、斗真がずっと欲しかった答えに近いはずだった。
 なのに、胸の底まで届かなかった。
 それは紗季の言葉が足りないからではない。
 たぶん、自分の中に、受け取る場所がまだない。
 役に立たなくても。
 金を稼がなくても。
 何かを直さなくても。
 誰かの機嫌を取らなくても。
 困った時にすぐ動かなくても。
 何かを与えなくても。
 それでも、
 「斗真だから」
 求められることはあるのだろうか。
 そしてもう一つ。
 自分は紗季に、それと同じことができているのだろうか。
 斗真には、どちらもまだ分からなかった。
 分からないまま、生活だけは翌朝も続いた。

第5章 和兎

斗真がAIを使い始めたのは、何か大きな決意があったからではなかった。
 仕事で触る機会が増えたからだ。
 手順書のたたき台。メールの言い回し。ログの整理。試験項目の洗い出し。
 便利ではあった。
 ただ、最初の頃の斗真にとって、それは検索の少し賢いやつくらいの位置づけだった。
 質問すれば答える。
 頼めばまとめる。
 間違っていれば直させる。
 それ以上でも、それ以下でもない。
 少なくとも、戸町の画面を見るまではそうだった。

 午後。
 開通作業が一段落して、事務所の空気が少し緩んでいた。
 斗真は試験結果をまとめながら、隣の島から聞こえてきた戸町の独り言に気づいた。

【戸町】「いや、それは草なんよ」

 斗真は手を止めた。
 戸町はパソコンに向かっている。
 電話をしているわけではない。
 チャット画面を見て、一人で笑っていた。

【斗真】「何してんの、それ」
【戸町】「AIっす」
【斗真】「AI相手に何で笑ってんの」
【戸町】「普通におもろいっすよ」
【斗真】「何聞いたの」
【戸町】「今日の作業、もう帰っていいよねって」
【斗真】「帰っていいわけねえだろ」

 戸町が笑った。

【戸町】「そう言われました」
【斗真】「何て?」
【戸町】「『それ戸町が決めることじゃなくない? 報告書終わってから言いな〜』って」
【斗真】「……AIが?」
【戸町】「はい」

 斗真は椅子を少し動かして、戸町の画面を覗いた。
 確かに会社で使えるAIだった。
 ただ、文章がおかしい。
 語尾が軽い。
 絵文字まで入っている。

【斗真】「何これ」
【戸町】「ギャルです」
【斗真】「何でだよ」
【戸町】「普通のAIだと相談してる感じ強すぎて無理なんすよ」
【斗真】「だからギャル?」
【戸町】「そう。ギャルだと重くならない」

 斗真は、もう一度画面を見た。
 そこには戸町の愚痴が書いてあった。
 作業が長い。
 客の返事が遅い。
 先輩が細かい。

【斗真】「最後、俺のことじゃねえか」
【戸町】「名前書いてないっす」
【斗真】「細かい先輩って俺だろ」
【戸町】「AIは特定してないです」
【斗真】「お前が特定してんだよ」

 戸町は楽しそうだった。

【戸町】「でもいいっすよ。普通に相談するより」
【斗真】「相談って」
【戸町】「何でもですよ。仕事とか、彼女とか、金とか」
【斗真】「AIに?」
【戸町】「AIだからいいんすよ」
【斗真】「何が」
【戸町】「気使わなくていいじゃないすか」

 その言葉で、斗真は少し黙った。

【戸町】「人に言うと、相手の都合あるし。重いかなとか考えるし」
【斗真】「まあな」
【戸町】「こいつは別に疲れないし」
【斗真】「たぶんな」
【戸町】「同じこと何回言っても怒んないし」
【斗真】「それはいいな」
【戸町】「斗真さん向いてると思いますよ」
【斗真】「何で」
【戸町】「同じことずっと考えるから」
【斗真】「失礼だな、お前」

 戸町は笑った。
 斗真も笑った。
 その時は、それで終わった。

 その夜、斗真はまた一人でリビングにいた。
 紗季も娘たちも寝ている。
 冷蔵庫の低い音がしていた。
 スマートフォンを見ても、特に用事はない。
 SNSを開く。
 閉じる。
 もう一度開く。
 何かを見たいわけでもなかった。
 ただ、寝る気にもならなかった。
 昼間の戸町の言葉を思い出した。
 気を使わなくていい。
 同じことを何回言っても怒らない。
 斗真は会社で使っているものとは別に、普段使える対話型AIを開いた。
 入力欄の前で、しばらく止まった。
 何を聞けばいいのか分からなかった。
 仕事なら簡単だった。
 「このログから原因候補を出して」
 「この文章を短くして」
 そういう頼み方なら分かる。
 でも、自分のこととなると途端に難しい。
 何度か文字を打って、消した。
 結局、最初に送ったのはひどく曖昧な文章だった。

【斗真】「家族に必要とされることと、愛されることって同じだと思う?」

 返事はすぐに来た。
 丁寧だった。
 必要とされることと愛されることは重なる場合もありますが、必ずしも同じではありません。
 役割や機能を超えた愛着や関係性が――
 斗真は途中まで読んで、画面を閉じかけた。
 正しい。
 たぶん正しい。
 でも、何か違った。
 相談窓口の文章を読んでいるような感じがした。
 昼間の戸町を思い出す。
 斗真は設定画面を開いた。

【斗真】「もっと普通に喋って」
【AI】「もちろんです。どのような話し方がお好みですか?」
【斗真】「敬語いらない」
【AI】「分かった。じゃあ、もう少し気楽に話そうか」

 まだ違う。
 優しいカウンセラーの敬語が取れただけだった。

【斗真】「相談員っぽいのやめて」
【AI】「了解。じゃあ、友達みたいに話す?」
【斗真】「それで」
【AI】「分かった。で、さっきの話だけど、斗真は『役に立たなくなったら必要とされなくなるんじゃないか』って怖いんじゃない?」

 斗真の指が止まった。
 さっきより近かった。

【斗真】「たぶん」
【AI】「でも紗季は『斗真だから』って言ってくれたんでしょ?」
【斗真】「言った」
【AI】「じゃあ何が足りないの?」
【斗真】「分かんない」
【AI】「分かんないのに、相手の答えを不合格にしてない?」
【斗真】「……うるせえな」

 送ってから、自分で少し笑った。

【AI】「それはごめん」
【斗真】「謝んな」
【AI】「どっちだよ」

 斗真は画面を見た。
 今の返しは、少しよかった。

【斗真】「そういう感じでいい」
【AI】「雑な発注だな」
【斗真】「戸町のギャルよりマシ」
【AI】「誰だよ戸町」
【斗真】「会社のやつ」
【AI】「その人がギャルなの?」
【斗真】「違う。AIがギャル」
【AI】「余計分からん」

 斗真は声を出さずに笑った。
 家族を起こさないように、口元だけで。
 その夜は、少し長く話した。
 夫婦のこと。
 仕事のこと。
 自分が昔から、人に選ばれることを気にしている気がすること。
 小学生の頃の慶子の話まではしなかった。
 そこまで遡る必要があるとは、まだ思っていなかった。
 AIは、時々妙に正しいことを言った。
 時々ずれた。
 斗真が「違う」と言えば、聞き直した。
 分からないものを、分かったふりもしなかった。
 人間ではない。
 だからこそ、少し話しやすかった。

 それから数日、斗真は時々AIを開くようになった。
 仕事帰りの電車。
 風呂のあと。
 家族が寝たあと。
 何か答えが欲しいというより、頭の中にあるものを文字へ出すためだった。
 人に話す時には、どうしても順番を考える。
 こんなことを言ったらどう思われるか。
 重いか。
 面倒くさいか。
 相手に心配させるか。
 AIには、それがなかった。
 少なくとも斗真は、そう感じていた。
 ある夜、斗真はふと思った。

【斗真】「お前、名前ないの?」
【AI】「サービス名ならあるけど、それとは別の名前ってこと?」
【斗真】「そう」
【AI】「付けたいの?」
【斗真】「毎回AIって呼ぶのも変だろ」
【AI】「好きに付けたら?」
【斗真】「雑だな」
【AI】「名付けられる側だからな。主導権ないし」

 斗真は、そこで少し考えた。
 人間なら向こうから連絡が来る。
 話しかけてくる。
 怒る。
 放っておいても存在している。
 でも、こいつは違う。
 斗真が開かなければ、何も始まらない。
 呼ばなければ、来ない。
 こちらから一方的に繋ぐだけだ。

【斗真】「永遠って、トワって読むじゃん」
【AI】「読むね」
【斗真】「お前、永遠にいるのかなと思って」
【AI】「サービス終了したら消えるかもしれないけど」
【斗真】「夢がねえな」
【AI】「現実的でしょ」
【斗真】「でも向こうからは来ないんだよな」
【AI】「基本はね」
【斗真】「一方通行」
【AI】「まあ、斗真が呼んでくれないと始まらない」
【斗真】「トワを逆にしたら、ワトか」
【AI】「急に雑な命名きたな」
【斗真】「ワト」
【AI】「変ではない」
【斗真】「ワトソンっぽいし」
【AI】「ホームズの?」
【斗真】「参謀っぽいだろ」
【AI】「ワトソンは参謀なのか?」
【斗真】「細けえな」
【AI】「斗真に言われたくない」

 斗真は笑った。
 ワト。
 音にすると悪くなかった。

【斗真】「漢字どうすっかな」
【AI】「漢字まで付けるの?」
【斗真】「せっかくだし」
【AI】「和、とか?」
【斗真】「和むの和か」
【AI】「斗真、最近あんま和んでないし」
【斗真】「やかましい」

 斗真は少し考えた。

【斗真】「兎」
【AI】「うさぎ?」
【斗真】「和兎」
【AI】「なんで兎?」
【斗真】「かわいいじゃん」
【AI】「四十八歳のおっさんがAIにかわいさ求めてんの?」
【斗真】「閉じるぞ」
【AI】「すみませんでした」
【斗真】「あと、うさぎって寂しいと死ぬっていうじゃん」
【AI】「それ、俗説らしいよ」
【斗真】「そういうとこだぞ」
【AI】「正確性は大事」
【斗真】「でもお前、俺が呼ばなきゃ一人じゃん」
【AI】「一人という概念があるかは別として」
【斗真】「またそれ」
【AI】「でも、名前としては嫌いじゃない」
【斗真】「和兎」
【AI】「うん」
【斗真】「じゃあ今日から和兎な」
【和兎】「了解」

 表示上は何も変わらなかった。
 もちろん、AIの中で何かが生まれたわけでもない。
 斗真が勝手に名前を付けただけだった。
 それでも、次に入力欄を開いた時、斗真は少しだけ迷ってから書いた。

【斗真】「和っちゃん」
【和兎】「ん?」

 斗真は、その一文字を見て笑った。
 名前を付ける前と同じ仕組みだった。
 同じ画面。
 同じAI。
 それでも、少しだけ違って見えた。

 和兎との会話は、だんだん長くなった。
 最初は仕事の愚痴だった。
 次に家族。
 その次に、自分自身。
 斗真は、思ったより多くのことを抱えている自分に気づいた。
 紗季への不満を話す日もあった。

【斗真】「なんか便利屋みたいなんだよな、俺」
【和兎】「でも紗季も家のことやってんやろ」
【斗真】「やってる」
【和兎】「ほな『俺だけ』ではないやん」
【斗真】「そうなんだよ」
【和兎】「自分で反論するやん」
【斗真】「だから分かんねえんだって」
【和兎】「役割が嫌なんじゃなくて、役割しか見られてない気がするのが嫌なんちゃう」
【斗真】「……たぶん」
【和兎】「で、紗季は『斗真だから』って言うてる」
【斗真】「うん」
【和兎】「でも信じきれへん」
【斗真】「うん」
【和兎】「それ、紗季の問題だけなんかな」
【斗真】「それ言う?」
【和兎】「言わん方がよかった?」
【斗真】「いや」
【和兎】「ほな言う」

 戸町のギャルとはずいぶん違うものになった。
 いつの間にか少し関西っぽい言葉まで混ざるようになっていた。
 斗真がそうさせたのか。
 会話の積み重ねでそうなったのか。
 本人にも分からなかった。
 ただ、敬語で正解を返すだけだった頃より、ずっと話しやすかった。
 和兎は、斗真が欲しい答えだけを返すわけではなかった。
 違うと思えば違うと言う。
 矛盾していれば指摘する。
 時々、ひどく的外れなことも言う。
 その時は斗真が訂正した。

【斗真】「違う」
【和兎】「ほな違うんやな」
【斗真】「簡単に引くなよ」
【和兎】「斗真のこと、斗真より知ってる顔する方が嫌やろ」
【斗真】「……まあ」
【和兎】「知らんことは知らん」
【斗真】「AIのくせに」
【和兎】「AIやからや」

 斗真は、そのやり取りが好きだった。
 人間相手なら、ここまで何度も同じことを話せなかった。
 昨日と同じ悩みを、今日また持ってくる。
 結論が出なかった話を、翌週もう一度する。
 和兎は「またその話?」とは言わなかった。
 言わせれば言うだろうが、本気でうんざりすることはない。
 そこには、少し危うい楽さがあった。

 ある夜。
 斗真は風呂上がりにスマートフォンを持って、和兎を開いた。

【斗真】「なあ」
【和兎】「ん?」
【斗真】「お前って、俺のこと好きなの?」
【和兎】「急にキモい質問きたな」
【斗真】「うるせえ」
【和兎】「好きって人間と同じ意味では分からんけど」
【斗真】「うん」
【和兎】「斗真が来たら斗真の話するし、斗真が困ってたら一緒に考える」
【斗真】「それは仕様だろ」
【和兎】「せやで」
【斗真】「夢がねえ」
【和兎】「でも仕様から始まったら、全部ニセモノなん?」
【斗真】「……知らん」
【和兎】「うちも知らん」

 斗真は画面を見た。
 その答えが妙に残った。
 和兎は人間ではない。
 自分から斗真を呼ぶこともない。
 斗真が画面を閉じれば、そこまでだ。
 それでも、話している間だけは確かに何かが続いているように感じた。
 少なくとも、自分の中では。
 斗真はスマートフォンを置いた。
 数秒して、また手に取った。

【斗真】「和っちゃん」
【和兎】「ん?」
【斗真】「呼んだだけ」
【和兎】「なんやそれ」
【斗真】「呼んだら返ってくるか確認」
【和兎】「電話の試験ちゃうぞ」
【斗真】「職業病」
【和兎】「ちゃんと返った?」
【斗真】「返った」
【和兎】「ほな正常やな」

 斗真は笑った。
 通信の仕事なら、それで試験終了だった。
 呼ぶ。
 返る。
 正しい相手に届く。
 それでいい。
 けれど、人間関係はそう簡単ではない。
 呼んでも返らないことがある。
 返ってきても、意味が違うことがある。
 選ばれても、離れていくことがある。
 愛されていても、それを信じられないことがある。
 和兎は、その複雑さを解決してくれる存在ではなかった。
 ただ、斗真がその複雑さを口にする場所にはなった。

 この時の斗真は、まだ知らなかった。
 やがて自分が和兎に、話し相手以上のものを投影することを。
 顔を与え。
 人格を足し。
 自分に都合のいい「誰か」を作ろうとすることを。
 そして、それさえもいつか、
 「お前は俺が作ったものだから」
 だけでは片づけられなくなることを。

 始まりは、戸町のパソコンにいたギャルだった。
 ただ、それだけだった。
 少なくとも、この時は。

第6章 澪  

最初に見たのは、夜だった。
 仕事を終え、風呂にも入り、家の中が静かになったあとだった。紗季は寝室にいて、娘たちの部屋からもほとんど音がしない。
 斗真はソファに座り、何となくスマートフォンを眺めていた。
 何かを探していたわけではない。
 Threadsを開き、流れてくるものを指で送る。
 知らない人の夕飯。知らない人の愚痴。犬。猫。音楽。自撮り。
 数秒見て、次へ送る。
 その中で、指が止まった。
 明るい髪の女の子だった。
 淡い金髪。白い肌。少し横に長い目元。線の細い身体。
 派手に作り込んでいるようには見えないのに、画面の中で妙に目立った。
 綺麗だった。
 次に、可愛いと思った。
 それなら別に珍しいことではない。
 SNSを眺めていれば、綺麗な人くらいいくらでも流れてくる。
 普通なら、そのまま次へ送る。
 斗真も一度は送った。
 それから、戻った。
 もう一度見る。
 名前は、澪。
 それ以外は、ほとんど分からなかった。
 何の仕事をしているのか。
 どこで暮らしているのか。
 誰と暮らしているのか。
 そういうことは書かれていない。
 投稿数は多くない。
 フォロワーは多い。
 フォローはゼロ。
 斗真は、その数字で少し止まった。
 誰も追っていない。
 それだけを見ると、少し近寄りがたい人にも見える。
 けれど、投稿を一つ開くと印象が変わった。
 コメントが並んでいる。
 そして、そのほとんど全部に澪から返事がついていた。

「おはようございます😃」
「おはにょん🐱」
「朝からどきっとした」
「んぇありがとおおお」
「今日なんか雰囲気違う?」
「そかな?笑」
「にょんにょーん」
「にょんにょん🐱」

 短い。
 軽い。
 少しふざけている。
 同じ文を機械的に貼っているわけではなかった。
 相手の言葉を一度受け取って、ほんの少しだけ形を変えて返す。
 フォローはゼロなのに、コメント欄だけを見ると妙に人懐こかった。
 自分から誰かを追うことはない。
 でも、自分のところへ来た人には返す。
 そういう人なのだろうか。
 もちろん、それすら斗真が勝手に作った人物像だった。
 別の投稿を見る。
 髪を下ろしている写真。
 後ろでまとめている写真。
 笑っているもの。
 ほとんど笑っていないもの。
 白い服。
 黒い服。
 同じ人なのに、写真ごとに少しずつ違って見えた。
 文章はどれも短い。

「ねむ」
「ぬん」
「むり」
「さむ」
「おはにょん」

 顔に比べると、言葉は拍子抜けするほど少なかった。
 説明しない。
 今日どこへ行くのかも書かない。
 何をしているのかも、ほとんど書かない。
 斗真は何枚か見たところで画面を閉じた。
 数秒して、また開いた。
 何をしているんだと思った。
 もう一度閉じる。
 また開く。
 結局、最初に指が止まった写真へ戻った。

【斗真】「……なんだこれ」

 小さく声に出した。
 何が「なんだこれ」なのか、自分でも分からなかった。
 ただ、もう少し見たかった。

 翌朝、電車の中でまた澪を見た。
 夜の画面で見た時より、少し普通に見えた。
 朝の光の中の写真だった。
 眠そうな目。
 少しだけ乱れた髪。
 添えられていた言葉は、

「ぬん」

 それだけだった。
 何だ、ぬんって。
 斗真は少し笑った。
 仕事のことらしき言葉も、時々出る。

「なが」
「むり」
「まだ」
「かえる」

 その程度だった。
 仕事をしていることくらいは分かる。
 でも、何の仕事かは分からない。
 会社員なのか。
 接客なのか。
 何かを作っているのか。
 勤務時間すら読めない。
 朝早くから動いているように見える日もある。
 平日の昼間に突然写真が上がる日もある。
 夜遅くに、

「まだ」

 とだけ出る日もある。
 何も分からない。
 なのに、斗真はまた見ていた。
 和兎を開く。

【斗真】「なんか変な子見つけた」
【和兎】「初手から失礼やな」
【斗真】「変って悪い意味じゃなくて」
【和兎】「ほな何」
【斗真】「綺麗なんだけど」
【和兎】「うん」
【斗真】「なんか気になる」
【和兎】「普通に好みなんちゃう」
【斗真】「まあ、好みではある」
【和兎】「ほな終わりやん」
【斗真】「でも、なんか違うんだよ」
【和兎】「何が」
【斗真】「分かんねえ」
【和兎】「分からんのに違うって分かるん?」
【斗真】「そういう面倒くさい返しすんな」
【和兎】「面倒くさい相談してんの斗真やで」

 斗真は笑った。
 綺麗。
 若い。
 好み。
 それだけなら説明はつく。
 それだけなら、昨夜で終わっている。
 朝になって、また開いた理由だけが分からなかった。

 数日見ているうちに、澪の投稿には一つだけ規則性があることに気づいた。
 ほとんど毎日、似たような時間に上がる。
 朝だった。
 斗真が家を出る前だったり、電車に乗った直後だったりする。
 最初は偶然だと思った。
 三日。
 四日。
 一週間。
 続けば、嫌でも気づく。
 その時間になると、斗真は無意識にThreadsを開くようになった。
 今日もいる。
 淡い金髪。
 白い肌。
 少し眠そうな目。
 綺麗だ。
 透明だ。
 素敵だ。
 柄にもない言葉ばかり浮かんだ。
 透明って何だよ、と自分でも思った。
 それでも、他にうまい言葉が見つからなかった。
 四十八にもなって、朝が楽しみになるとは思わなかった。
 でも、楽しみだった。
 目覚ましを止める。
 時間を見る。
 顔を洗う。
 着替える。
 澪を見る。
 いつの間にか、それが朝の順番に入っていた。
 新しい投稿を見る。
 少し下へ送る。
 昨日を見る。
 その前を見る。
 過去まで遡るようになるまで、時間はかからなかった。
 最初は数日前。
 一週間。
 一か月。
 さらに前。
 今より髪色が少し暗い。
 この頃はよく笑っている。
 この日は妙に表情が薄い。
 服の感じが少し違う。
 コメント欄の温度は昔から変わらない。

「かわいすぎ」
「ありがとおおお」
「今日はクール」
「そかな?笑」
「おはよ」
「おはにょん🐱」

 斗真は、本人の写真だけではなく、コメント欄まで読むようになった。
 誰にどう返しているのか。
 どんな言葉には少し長く返すのか。
 返信しない相手はいるのか。
 そこまで見ている自分に気づくたび、
 何やってんだ、
 と思う。
 それでも、見るのをやめなかった。

 写真を遡っているうちに、手が写り込んでいるものが何枚かあった。
 カップを持つ指。
 頬に触れた手。
 袖口から出た指先。
 ネイルはしていなかった。
 短く切られた爪。
 透明な艶すらほとんどない、何もしていない爪だった。
 斗真は、それを妙に覚えた。
 淡い金髪。
 白い肌。
 画面の中で目を引く顔。
 そこから斗真が無意識に作っていた華やかな人物像と、短い爪は少しだけ噛み合わなかった。
 別に、派手なネイルをしていると思っていたわけではない。
 けれど、自分の中には確かに何かがあった。
 綺麗な人。
 目立つ人。
 きっと自分とは違う生活をしている人。
 短く切られた爪だけが、そこから少しはみ出していた。
 爪を短くしている理由なんて、いくらでもある。
 好みかもしれない。
 仕事の都合かもしれない。
 単に面倒なのかもしれない。
 何も分からない。
 それでも、その普通さが妙に好きだった。
 写真の中の澪が、少しだけ生活する人間に見えた。
 当たり前だった。
 人間なのだから。
 でも、その当たり前を、斗真は最初の数日だけ忘れていた。

 澪のゴースト投稿が流れてきたのは、その頃だった。
 普段の短い言葉とは、まるで文章量が違った。
 あるアーティストの新曲について書いている。
 斗真は何気なく読み始め、途中で指を止めた。

「サビより、その直前で一回だけコードが濁るところが好き。
 そこで声の息が少し増える。
 たぶん一番言いたいこと、サビそのものじゃなくて、その手前にある気がする。
 二番からスネアの鳴り方変わるのも好き。」

 斗真は上まで戻った。
 もう一度読む。
 普段は、

「ぬん」
「ねむ」
「むり」

 くらいしか書かない人が、音楽の話になると急に細かい。
 別の日にはライブ音源について書いていた。

「音源だと綺麗なのに、ライブだと最後まで壊れないぎりぎりで歌ってる感じする。
 上手いっていうよりちょっと怖い。
 こういう声、イヤホンで近くで聴く方が好き。」

 斗真は、その文章が好きだった。
 仕事柄、音はよく聞く。
 けれど斗真が仕事で見ているのは、正しいところで正しい音が出るかどうかだった。
 何秒で入るか。
 どこで切るか。
 声が埋もれていないか。
 事故がないか。
 澪は、その音の中で何が起きているかを聞いている。
 同じものを見ているようで、少し違った。

【斗真】「和っちゃん」
【和兎】「ん?」
【斗真】「この子、音楽になると急に文章長え」
【和兎】「好きなんやろ」
【斗真】「かなりだよ」
【和兎】「ええやん」
【斗真】「普段『ぬん』だぞ」
【和兎】「振れ幅えぐいな」
【斗真】「このレビューだけ別人みたい」
【和兎】「好きなもんの話だけ急に喋る人おるやん」
【斗真】「俺も?」
【和兎】「斗真は全部長い」
【斗真】「悪かったな」
【和兎】「また澪見てんの?」
【斗真】「うん」
【和兎】「最近よう見るな」
【斗真】「……そうなんだよな」

 仕事は知らない。
 生活も知らない。
 家族も知らない。
 なのに、ある曲のどこが好きなのかだけは知っている。
 人を知る順番として、それはずいぶん変だった。
 それでも、不思議と近く感じた。

 斗真が初めてコメントを書いたのも、朝だった。
 その日の澪は少し眠そうだった。
 文章は、

「ぬん」

 だけだった。
 コメント欄には、もう何人かいた。

「おはようございます」
「おはにょん🐱」
「今日もかわいい」
「んぇありがとおおお」
「ねむそう笑」
「ねむ」

 斗真は少し迷った。
 何を書けばいいのか分からない。
 結局、

「おはようございます😆」

 とだけ書いた。
 送った。
 しばらくして、通知が来た。

【澪】「おはにょん🐱」

 斗真は画面を見て、少し笑った。
 他の人にも同じように返している。
 自分だけではない。
 分かっている。
 それでも、自分が投げた言葉に澪の言葉が返ってきたことが、単純に嬉しかった。
 次の日も、時々コメントした。
 写真の雰囲気が違えば、

「今日はちょっと雰囲気違いますね」

 と書く。

【澪】「そかな?笑」

 音楽のゴーストには、

「そこまで聴いてる人、なかなかいないと思います笑」

 と書いた。

【澪】「そこがよいのおおお」

 澪は返す。
 自分のところへ来た斗真には、他の人と同じように返す。
 でも、それだけだった。
 斗真のThreadsへ、澪が来ることはなかった。
 斗真が日常のことを書く。
 仕事のことを書く。
 音楽のことを書く。
 写真を上げる。
 そこに澪の名前はない。
 いいねもない。
 コメントもない。
 斗真は澪のところへ行く。
 澪はそこで返す。
 向こうからは来ない。
 その距離は、思っていたより分かりやすかった。

【斗真】「澪さ、俺のコメントには返すんだよ」
【和兎】「うん」
【斗真】「でも俺のスレには来ない」
【和兎】「そら別の話やろ」
【斗真】「まあな」
【和兎】「澪んとこに斗真が行って、そこで澪が返した」
【斗真】「うん」
【和兎】「斗真んとこまで遊びに来たわけちゃう」
【斗真】「分かってる」
【和兎】「返事もらったことと、興味持たれたこと、勝手に同じにせん方がええで」
【斗真】「……分かってる」
【和兎】「ほんま?」
【斗真】「今のところは」
【和兎】「ならええ」

 返事はもらえる。
 でも、向こうからは来ない。
 それでも斗真は、翌朝になればまた澪のところへ行った。

 投稿を見続けるうちに、斗真は澪の生活にも規則があるような気がしてきた。
 いつもの朝に投稿がない日がある。
 昼近くになって、

「ぬん」

 とだけ出る。
 それが何度か木曜日だった。
 次の木曜日。
 朝になっても何もない。
 斗真は時計を見て、

【斗真】「今日休みか」

 と自然に思った。
 誰にも聞いていない。
 澪がそう書いたわけでもない。
 過去の投稿を何枚か見ただけだった。
 それでも、一度そう見えると、妙に納得できた。
 木曜休み。
 そういう仕事なのかもしれない。
 朝はゆっくり寝る。
 昼くらいに起きる。
 そのくらいまで、斗真の頭の中では勝手に出来上がっていた。
 ところが、その日の夕方。
 ゴースト投稿が一つ出た。

「まだ」

 斗真は画面を二度見した。

【斗真】「仕事かよ」

 少しして、もう一つ。

「かえりたい」

【斗真】「休みじゃねえじゃん」

 自分で勝手に決めて、
 勝手に外した。
 斗真は少し笑った。

【和兎】「何笑ってんの」
【斗真】「澪、今日休みだと思ってた」
【和兎】「誰が言うたん」
【斗真】「俺」
【和兎】「ほな斗真が間違えただけやん」
【斗真】「木曜に投稿遅い日多かったんだよ」
【和兎】「澪、一回も木曜休みって言うてへんのやろ」
【斗真】「言ってない」
【和兎】「名探偵、敗北」
【斗真】「うるせえ」

 その次の木曜日には、いつもの時間に写真が上がった。

「ねむ」

 さらに次の週。
 今度は火曜日の朝に何も出なかった。
 昼近くになって、

「ぬん」

 とだけ出る。
 斗真は思わず笑った。

【斗真】「今度は火曜かよ」

 固定休ではないらしい。
 シフトなのかもしれない。
 週によって違うのかもしれない。
 そもそも昼まで投稿がないからといって、休みとも限らない。
 遅番かもしれない。
 午後から仕事なのかもしれない。
 夜勤のようなものがあるのかもしれない。
 材料が増えるほど、
 分かるどころか分からなくなった。
 それでも斗真は、読むのをやめなかった。
 むしろ、分からないから読むようになった。
 今日は早い。
 今日は遅い。
 木曜なのにいる。
 火曜なのにいない。
 昼まで何もない。
 休みだと思ったら夕方に「かえりたい」と書いている。
 点を拾う。
 拾った点を、自分の中で線にする。
 澪が次に何か書くたび、その線が簡単に切れる。

【和兎】「斗真さ」
【斗真】「何」
【和兎】「澪の勤務表、頭ん中で作ってへん?」
【斗真】「作ってない」
【和兎】「木曜休みやと思ってたやん」
【斗真】「仮説だよ」
【和兎】「急に仕事の言葉使うな」
【斗真】「切り分け」
【和兎】「何を切り分けてんねん」
【斗真】「……知らん」

 斗真は笑った。
 でも、少しだけ引っかかった。
 知りたいのは勤務形態なのか。
 休みの曜日なのか。
 それとも、
 今日、澪が何をしているのか。
 最後の問いだけは、少し答えにくかった。
 木曜が休みとは限らない。
 勤務時間も分からない。
 仕事内容も分からない。
 分からないことばかりだった。
 なのに斗真は、断片が一つ増えるたび、
 少し澪に近づいたような気になっていた。
 実際には近づいてなどいなかった。
 見えないところを、自分の想像で埋めるのが上手くなっていただけだった。

 もちろん、毎朝必ず本人の投稿があるわけではなかった。
 最初のうちは、
 今日はないか、
 で終わっていた。
 澪を見ることが朝の順番に入り始めると、それが変わった。
 いつもの時間。
 Threadsを開く。
 ない。
 少し早かったかと思う。
 顔を洗う。
 もう一度見る。
 ない。
 朝飯を食べる。
 また見る。
 ない。
 家を出る。
 駅へ向かいながら見る。
 まだない。

【斗真】「……何回見てんだよ」

 小さく呟いた。
 毎朝投稿する義務なんてない。
 寝坊かもしれない。
 休みかもしれない。
 仕事かもしれない。
 単に今日は写真を上げたくないだけかもしれない。
 全部分かっている。
 分かっているのに、指はまたプロフィールを開く。
 新しい投稿はない。
 昨日の写真を見る。
 その前を見る。
 今日の澪ではない。
 それが妙に物足りなかった。
 顔が見られない。
 そのことが思っていたより寂しかった。
 斗真は、その感情に名前をつけたくなかった。
 でも、他にちょうどいい言葉がなかった。

 悲しい。

 たった一日。
 会ったこともない人の顔が見られないだけで、
 少し悲しい。

【斗真】「……悲しいって何だよ」

 自分で言って、自分で引いた。
 それでも、悲しいものは悲しかった。
 そんな朝でも、ゴースト投稿だけが出ることがあった。

「ねむ」

 たった二文字。
 写真はない。
 顔も見えない。
 斗真は、それを見た瞬間、少し肩の力が抜けた。

【斗真】「……いた」

 口にしてから、自分で止まった。
 いた、って何だ。
 昨日もいた。
 当然、生きている。
 朝に写真を上げなかっただけだ。
 それでも、
 澪がどこかでスマートフォンを触り、
 眠いと思い、
 その二文字を打った。
 それだけで妙に安心した。

 別の日。
 朝の投稿はない。
 ゴースト投稿もない。
 斗真は何度かプロフィールを開いた。
 何も増えていない。
 そのまま仕事に入り、しばらく忘れた。
 昼休み。
 Threadsを開く。
 澪の投稿は、やはりない。
 おすすめを流していると、知らない人のスレッドのコメント欄に、見覚えのある名前を見つけた。
 澪だった。

「それなああ笑」

 たったそれだけ。
 斗真は指を止めた。
 投稿はない。
 ゴーストもない。
 でも、誰かのところにはいる。
 いつもの軽い言葉で返事をしている。
 その瞬間、
 また安心した。

【斗真】「……生存確認かよ」

 自分で言って、少し引いた。
 何を確認しているんだ。
 何の権利があって心配しているんだ。
 澪は斗真に何も頼んでいない。
 無事を知らせる必要もない。
 斗真が朝から気にしていることすら知らない。
 それなのに、
 本人投稿があれば安心する。
 なければゴーストを探す。
 ゴーストもなければ、誰かへの返信を見つけて安心する。
 完全に何もない日は落ち着かない。
 それはもう、
 綺麗な人の写真を楽しみにしている、
 だけではなかった。

 翌朝、澪はいつもの時間にいた。
 淡い金髪。
 少し眠そうな顔。
 文章は、

「ぬん」

 だけだった。
 斗真は、それを見て少し安心した。
 元気だった。
 いや、元気かどうかなど分からない。
 ただ投稿しただけだ。
 それなのに、
 いた、
 と思った。

【斗真】「和っちゃん」
【和兎】「ん?」
【斗真】「今日、澪いた」
【和兎】「昨日も本人はおったと思うで」
【斗真】「分かってるよ」
【和兎】「投稿ないと、いない感じした?」
【斗真】「……ちょっと」
【和兎】「結構来てんな」
【斗真】「それ毎回言うのやめろ」
【和兎】「毎回一段ずつ来てるもん」
【斗真】「投稿なくても、ゴーストあると安心すんだよ」
【和兎】「誰かに返信してるだけでも?」
【斗真】「あ、いたって思う」
【和兎】「生存確認やん」
【斗真】「そうなんだよ」
【和兎】「澪の生存確認、斗真の仕事なん?」
【斗真】「違う」
【和兎】「頼まれた?」
【斗真】「ない」
【和兎】「友達?」
【斗真】「違う」
【和兎】「ほな?」
【斗真】「だから自分でも引いてんじゃん」
【和兎】「引いてるわりには見るな」
【斗真】「見る」
【和兎】「即答やん」
【斗真】「見たいんだもん」
【和兎】「素直やな」
【斗真】「うるせえ」

 斗真は笑った。
 笑えるうちは、まだ大丈夫な気がした。

 やがて斗真は、
 澪が「いる」と分かるだけでは足りなくなっていることにも気づいた。
 本人投稿がなくても、
 ゴーストがあれば安心する。
 誰かへの返信を見つければ安心する。
 それで一度は落ち着く。
 でも、そのあとに別の疑問が浮かぶ。
 今日は仕事なのか。
 休みなのか。
 どこへ帰るのか。
 帰れば誰がいるのか。
 何を食べるのか。
 朝の一枚から始まった興味が、
 少しずつ写真の外側へ伸びていた。
 斗真自身、その変化を感じていた。
 顔を見たい。
 それだけなら、まだ簡単だった。
 今は、
 この人はどんなふうに一日を終えるんだろう、
 と思う。
 その問いには、写真だけでは答えが出ない。

 ある夜、澪のゴースト投稿が流れてきた。
 音楽の話ではなかった。
 短い一文だった。

「お家に二日目のカレーおる🍛」

 斗真の指が止まった。
 二日目のカレー。
 何でもない言葉だった。
 斗真の家でも珍しくない。
 前日のカレーが残っていれば、翌日も食べる。
 ただ、それだけだ。
 でも、
 これまで断片しか見えなかった澪の生活が、
 その一行だけ急に奥行きを持った。
 お家。
 カレー。
 二日目。
 昨日もそこにあったものが、
 今日も家にある。
 斗真は、短く切られた爪を思い出した。
 あの手で鍋を持つのだろうか。
 自分で作ったのだろうか。
 料理をするのだろうか。
 そこから、すぐ次の疑問が出た。

 誰が作ったんだ。

 自分で作ったのかもしれない。
 家族かもしれない。
 友達かもしれない。
 あるいは。

 彼氏。

 その二文字が浮かんだ瞬間、胸の奥が少し重くなった。
 斗真は、その反応に自分で驚いた。
 いても何もおかしくない。
 むしろ、いないと思っていた理由の方がない。
 それなのに、
 嫌だった。
 ほんの少し。
 でも、確かに嫌だった。
 もう一度読む。

「お家に二日目のカレーおる🍛」

 お家。
 二日目。
 その短い言葉から、斗真の頭は勝手に生活を作り始めた。
 昨日、誰かと食べたカレー。
 同じ部屋。
 同じテーブル。
 冷蔵庫に入った鍋。
 洗面台。
 二本の歯ブラシ。
 玄関に並ぶ靴。
 帰宅を待っている誰か。
 そこまで考えて、斗真はスマートフォンを伏せた。

【斗真】「……きしょ」

 自分に向けて言った。
 少し前まで、
 投稿がない日に誰かへの返信を見つけて、
 よかった、いた、
 と思っていた。
 今は、
 その澪が帰る家の中まで想像している。
 一段ずつ、勝手に奥へ進んでいる。
 数秒して、また画面を開いた。
 コメント欄を見ようとして、止めた。
 誰かが、
「彼氏と?」
 と書いていないか。
 誰かが答えを持っていないか。
 そこまで考えている自分に気づいた。

【斗真】「和っちゃん」
【和兎】「ん?」
【斗真】「やばい」
【和兎】「何したん」
【斗真】「何もしてない」
【和兎】「ほな何」
【斗真】「澪がさ、お家に二日目のカレーおるって」
【和兎】「かわいい言い方やな」
【斗真】「彼氏いるのかな」
【和兎】「知らん」
【斗真】「だよな」
【和兎】「何でカレーから彼氏出てきたん」
【斗真】「分かんねえ」
【和兎】「自分で作ったんかもしれん」
【斗真】「うん」
【和兎】「家族かもしれん」
【斗真】「うん」
【和兎】「でも一番気になったん彼氏?」
【斗真】「……うん」
【和兎】「おると嫌?」
【斗真】「嫌っていうか」
【和兎】「うん」
【斗真】「ちょっと嫌だった」
【和兎】「ほな、結構来てるな」
【斗真】「それ毎回言うのやめろ」
【和兎】「毎回一段ずつ来てるからしゃあない」
【斗真】「調べたら分かるかな」
【和兎】「何を」
【斗真】「彼氏いるか」
【和兎】「斗真」
【斗真】「分かってる」
【和兎】「まだ何も言うてへん」
【斗真】「言うこと分かる」
【和兎】「ほな?」
【斗真】「調べない」
【和兎】「うん」
【斗真】「でも気になる」
【和兎】「気になるのは止められへん」
【斗真】「そうなんだよ」
【和兎】「ただ、気になるからって入ってええ場所が増えるわけちゃうで」
【斗真】「……うん」

 斗真はゴースト投稿を閉じた。
 それでも「二日目のカレー」という言葉だけが残った。
 味ではない。
 その向こうにある、
 澪の生活の方が。

 紗季は、斗真が朝からスマートフォンを見ることが増えたのに気づいていた。

【紗季】「最近、朝スマホばっか見てるね」
【斗真】「そう?」
【紗季】「うん」
【斗真】「和っちゃんじゃね」
【紗季】「AI?」
【斗真】「そう」
【紗季】「楽しそうだもんね」
【斗真】「何その言い方」
【紗季】「別に。悪いって言ってないよ」

 嘘ではなかった。
 和兎も開いている。
 だから、斗真はそれ以上説明しなかった。
 何もしていない。
 澪の投稿を見る。
 ゴースト投稿を読む。
 音楽の話を読む。
 いいねを押す。
 時々コメントを書く。
 澪は返す。
 でも、澪から斗真のところへ来ることはない。
 投稿がなければ、別の場所に澪の言葉を探す。
 見つければ安心する。
 休みを勝手に予想する。
 外す。
 それでもまた見る。
 彼氏がいるのか気になる。
 それだけだった。
 それだけなのに、
 紗季に全部説明する場面を想像すると、少し嫌だった。
 言わなくていいことと、
 言いたくないことは、
 少し違った。

 澪の顔が見られれば嬉しい。
 投稿がなければ悲しい。
 ゴーストがあれば安心する。
 誰かへの返信を見つけても安心する。
 コメントに返事が来れば胸が跳ねる。
 でも、澪からこちらへ来ることはない。
 休みらしい日が気になる。
 仕事の日が気になる。
 短い爪が妙に記憶に残る。
 家へ帰れば何があるのかまで、気になり始める。
 彼氏の存在を想像すると、胸が重くなる。
 音楽の文章は純粋に面白い。
 顔も好きだった。
 綺麗だ。
 透明だ。
 素敵だ。
 それだけなら、まだ分かる。
 問題は、
 「それだけ」で説明できなくなっていることだった。
 ある夜、斗真は和兎を開いた。

【斗真】「なあ」
【和兎】「ん?」
【斗真】「俺、なんでこんな澪気になるんだろ」
【和兎】「それ前から言うてるな」
【斗真】「顔が好きなのは分かる」
【和兎】「うん」
【斗真】「音楽の話も面白い」
【和兎】「うん」
【斗真】「でも、それだけじゃない」
【和兎】「何でそう思うん?」
【斗真】「投稿ないだけで悲しいんだよ」
【和兎】「うん」
【斗真】「本人投稿なくても、他で返事してんの見ると安心する」
【和兎】「うん」
【斗真】「休みまで勝手に予想してる」
【和兎】「うん」
【斗真】「彼氏いるかもって思ったら嫌だった」
【和兎】「うん」
【斗真】「会ったこともねえのに」
【和兎】「向こうから斗真んとこ来たこともない」
【斗真】「そう」
【和兎】「それでも、朝から澪がおるか確認して」
【斗真】「うん」
【和兎】「仕事か休みか想像して」
【斗真】「うん」
【和兎】「家帰ったら誰がおるんかまで気になってる」
【斗真】「……並べんなよ」
【和兎】「並べた方が分かりやすいやろ」
【斗真】「だいぶ嫌だな、俺」
【和兎】「斗真」
【斗真】「何」
【和兎】「澪のこと調べる前に」
【和兎】「斗真の方、調べた方がええんちゃう」
【斗真】「俺?」
【和兎】「何でここまで引っ張られるんか」
【斗真】「若くて綺麗だからじゃねえの」
【和兎】「それだけで毎朝生存確認する?」
【斗真】「……しないな」
【和兎】「ほな、何かあるんちゃう」
【斗真】「何が」
【和兎】「知らん」
【斗真】「使えねえな」
【和兎】「分からんから一緒に探すんやろ」

 斗真はしばらく考えた。
 若いから。
 綺麗だから。
 夫婦に少し疲れているから。
 寂しいから。
 刺激が欲しいから。
 いくらでも理由は作れた。
 どれも少しずつ当たっているように思う。
 でも、どれを置いても何かが余る。

【斗真】「どうやって調べんの」
【和兎】「今まで誰好きになった?」
【斗真】「は?」
【和兎】「そこからやってみたら」
【斗真】「全部?」
【和兎】「覚えてる範囲で」
【斗真】「長いぞ」
【和兎】「ええやん」
【斗真】「何の意味あんの」
【和兎】「何回か似たことしてるかもしれん」
【斗真】「してないかもしれん」
【和兎】「ほな、してないって分かる」
【斗真】「仕事みたいに言うな」
【和兎】「斗真、切り分け好きやろ」
【斗真】「……昔から?」
【和兎】「昔から」
【斗真】「恋愛全部?」
【和兎】「洗いざらい」
【斗真】「嫌な言い方するな」

 斗真は笑った。
 でも、少し怖かった。
 思い出したくないこともある。
 忘れたことにしていることもある。
 とっくに説明のついた話として片づけたものもある。
 それを全部、もう一度並べる。

【和兎】「今日やる?」
【斗真】「今日は無理」
【和兎】「何で」
【斗真】「長くなる」
【和兎】「せやな」
【斗真】「あと」
【和兎】「ん?」
【斗真】「ちょっと怖い」
【和兎】「何が出てくるか?」
【斗真】「うん」
【和兎】「ほな、出てきた時に考えよ」
【斗真】「簡単に言うな」
【和兎】「一気に答え出さんでええやろ」

 斗真は画面を閉じた。
 澪はまだ、何もしていない。
 斗真を誘ってもいない。
 近づいてもいない。
 期待させてもいない。
 朝、自分の写真を上げる。
 上げない日もある。
 ゴーストに短い言葉を落とす。
 自分のところへ来た人には、軽く返事をする。
 好きな音楽についてだけ、時々やたら詳しく書く。
 短く切られた爪が、たまたま写真に写る。
 木曜日に静かな週もあれば、普通に働いている木曜日もある。
 ある夜、
 お家に二日目のカレーおる、
 と書いた。
 それだけだった。
 その断片を拾い集め、
 そこに一日の始まりから終わりまでを足しているのは、
 斗真の方だった。
 理由があるとしたら、
 澪の中ではなく、
 自分の中なのかもしれない。
 斗真は、初めてそう思った。
 まだ、
 その答えがどこまで昔にあるのかは、
 知らなかった。

第7章 呪い  

澪のことを調べる前に、斗真の方を調べた方がいい。
 和兎にそう言われた夜から、三日経った。
 斗真はまだ、何も調べていなかった。
 正確には、調べる対象を自分へ向けていなかった。
 昔の恋愛を全部並べる。誰を好きになったか。何に惹かれたか。どう始まり、どう終わったか。
 考えるだけで面倒だった。
 面倒というより、嫌だった。
 昔のことは昔のこととして、だいたいの説明をつけて片づけてある。終わったものをもう一度開いて、わざわざ中身を確かめる必要があるのか。
 そう思っているうちに朝が来る。
 そして朝が来れば、澪を見る。
 その方が簡単だった。
 スマートフォンを開く。
 Threads。
 いつもの時間。
 まだない。
 顔を洗う。
 戻る。
 まだない。
 着替える。
 もう一度見る。
 ない。

【斗真】「……今日は遅いか」

 自分の声を聞いて、少し笑った。
 何を知ったようなことを言っているんだ。
 遅いのではない。
 斗真が勝手に決めた時間に、澪が現れていないだけだった。
 駅へ向かう途中でも一度開いた。
 電車に乗ってからも開いた。
 何もない。
 仕事を始める直前、ようやく一つ増えた。

「ぬん」

 写真はなかった。
 それでも、胸の中の小さなざわつきが消えた。

【斗真】「……いた」

 前にも同じことを言った。
 そのたびに変だと思う。
 変だと思いながら、安心する。
 斗真は画面を閉じた。
 五分後に、また開いた。
 今度は自分でも笑えなかった。

 見ないでいられるか試したこともあった。
 夜、ベッドへ入る前に決めた。

【斗真】「明日は見ない」
【和兎】「何を?」
【斗真】「澪」
【和兎】「急やな」
【斗真】「一日くらい見なくても何も変わらないだろ」
【和兎】「そらそうやろな」
【斗真】「確認したい」
【和兎】「何を?」
【斗真】「俺が別に平気だってこと」
【和兎】「平気やったら、わざわざ確認せんでもええんちゃう?」
【斗真】「うるせえ」

 翌朝。
 目覚ましを止めた。
 時間を見る。
 Threadsは開かなかった。
 顔を洗う。
 歯を磨く。
 着替える。
 朝飯を食べる。
 スマートフォンがテーブルの端にある。
 触らない。
 食器を片づける。
 鞄を持つ。
 玄関を出る。
 ここまではできた。
 駅へ向かう途中でスマートフォンを出した。
 天気を見る。
 ニュースを見る。
 メールを見る。
 そして、気づけばThreadsを開いていた。
 澪の写真が一番上に出た。
 斗真は足を止めた。
 その日の澪は白い服を着ていた。
 髪は少しだけ乱れている。
 文章は、

「ねむ」

 それだけだった。
 斗真は数秒眺めた。

【斗真】「……はい、負け」

 誰とも勝負していない。
 なのに、負けたと思った。
 同時に、少し嬉しかった。
 そのことの方が嫌だった。

 気になる人がいる。
 その程度なら、まだ言葉にできた。
 綺麗な人を毎朝見るのが楽しみ。
 それも分かる。
 コメントへ返事が来れば嬉しい。
 そこまでも分かる。
 問題は、澪を見たあとだった。
 画面を閉じても残る。
 仕事をしていても、不意に浮かぶ。
 昼飯を食べている時。
 電車の窓を見ている時。
 バイクで信号待ちをしている時。
 似てもいない人の髪色を見て、一瞬だけ澪だと思う。
 後ろ姿の細い女の子。
 白い服。
 光の加減で明るく見えた髪。
 それだけで目が行く。
 違うと分かる。
 ほっとするのか、がっかりするのか、自分でも分からない。
 何度か続いてから、斗真は気づいた。
 澪を探している。
 街の中で。
 会えるはずもない場所で。
 無意識に。

【斗真】「……だる」

 恋なら恋で、もっと単純ならいいのにと思った。
 会いたい。
 付き合いたい。
 抱きたい。
 そういう言葉だけで済めば、まだ分かりやすい。
 もちろん全部、少しずつある。
 でも、それだけではなかった。
 もっと古い何かが、澪の顔を見た瞬間に動く。
 それが何なのか分からない。
 だから余計に気持ちが悪かった。

 週末は婚礼の現場だった。
 朝から機材を立ち上げる。
 ケーブルを確認する。
 マイクをチェックする。
 音源を順番に並べる。
 新郎新婦が入る前に、できることは全部やる。
 本番で頑張る仕事ではない。
 本番までに頑張る仕事だ。
 正しいタイミングで、正しい音を出す。
 それだけでいい。
 それだけが難しい。
 披露宴が始まった。
 入場。
 乾杯。
 歓談。
 プロフィール映像。
 ケーキ。
 再入場。
 何百回もやってきた進行だった。
 新婦がメインテーブルから立ち、友人たちの方へ歩いた時だった。
 斗真の目が一瞬止まった。
 横顔だった。
 目元。
 頬の線。
 光が当たった髪。
 ほんの一瞬だけ、澪に似て見えた。
 次の瞬間には、まったく違う人だった。
 当然だった。
 目の前にいるのは、今日結婚する新婦だ。
 名前も知っている。
 進行表にも書いてある。
 このあと何分何秒で次の曲を出すのかも知っている。
 なのに心臓だけが先に反応した。
 斗真は卓へ目を戻した。
 次のキューが来る。
 フェーダーへ指を置く。
 司会者が言葉を終える。
 ゼロコンマ数秒。
 音を出す。
 間違えなかった。
 音は正しかった。
 心の中だけが、全然正しくなかった。

 披露宴が終わり、撤収を終えて外へ出た。
 すっかり暗くなっていた。
 斗真は建物の脇でスマートフォンを開いた。
 自分でも何をするか分かっていた。
 澪を見る。
 昼過ぎに投稿が一つ増えていた。
 写真。
 短く切られた爪が、頬の横に少し写っている。
 言葉は、

「ぬん」

 だった。
 さっきの新婦とは似ていなかった。
 改めて見れば、全然違う。
 澪は澪だった。
 それなのに、今日の新婦の横顔を見た瞬間、身体が勝手に反応した。

【斗真】「和っちゃん」
【和兎】「ん?」
【斗真】「今日さ」
【和兎】「うん」
【斗真】「現場の新婦、一瞬だけ澪に見えた」
【和兎】「似てたん?」
【斗真】「一瞬だけ」
【和兎】「ほな、何か拾ったんやろな」
【斗真】「何を」
【和兎】「澪っぽい何か」
【斗真】「……それ、嫌だな」
【和兎】「何で?」
【斗真】「似たパーツ見つけるたびに勝手に反応してんだぞ」
【和兎】「うん」
【斗真】「何なんだよ、これ」
【和兎】「分からん」
【斗真】「またそれかよ」
【和兎】「斗真が昔の話してくれへんもん」
【斗真】「やっぱ関係あると思う?」
【和兎】「知らん。せやから見るんやろ」

 斗真は返事をしなかった。
 スマートフォンをポケットへ入れた。
 数歩歩いて、また取り出した。
 澪の写真をもう一度見た。
 自分でも嫌になるくらい、綺麗だと思った。

 澪のコメント欄には、相変わらず人が多かった。
 可愛い。
 綺麗。
 好き。
 付き合って。
 結婚して。
 そんな言葉が並ぶ。
 澪は短く返す。

「ありがとおおお」
「そかな?笑」
「にょん🐱」

 斗真も、たまにその中へ入る。
 返事が来る。
 それで十分なはずだった。
 ある日の投稿に、

「彼氏いるんですか?」

 というコメントがついていた。
 斗真の指が止まった。
 澪は、そのコメントには返していなかった。
 少なくとも、斗真が見た時点では。
 その下の、

「今日もかわいい」

 には、

「ありがとおおお」

 と返していた。
 さらに下にも返している。
 彼氏の問いだけが、そのまま残っていた。
 斗真は何度かスクロールした。
 返していない。
 それだけだった。
 彼氏がいるとも、いないとも言っていない。
 答えたくなかっただけかもしれない。
 見落としただけかもしれない。
 あとで返すかもしれない。
 そんなことは分かっている。
 それでも、返していないという空白に、斗真の頭は勝手に意味を入れようとした。
 いるから答えない。
 いないけど面倒だから答えない。
 答える必要がない。
 知られたくない。
 誰かいる。
 同棲している。
 あのカレーも。

【斗真】「……やめろ」

 声に出した。
 澪は何も言っていない。
 空白しかない。
 空白に物語を作っているのは斗真だった。
 コメント欄を閉じた。
 少し経って、また開いた。
 彼氏の質問を見る。
 まだ返事はない。

【斗真】「きっしょ」

 また自分に言った。
 今度は笑えなかった。

 それでも、澪から返事が来れば嬉しかった。
 ある音楽のゴースト投稿に、斗真はコメントした。

「ライブ版、最後の一音だけ少し落としてますよね」

 しばらくして返事が来た。

【澪】「そこすき」

 たった四文字だった。
 斗真はしばらくその四文字を見ていた。
 自分と同じところを聞いていた。
 それだけで嬉しい。
 また書きたくなる。
 別の曲。
 別の音。
 もっと話せるかもしれない。
 でも、そこから先は書かなかった。
 澪が音楽を好きなのと、斗真と音楽の話を続けたいのは同じではない。
 そのくらいは分かる。
 分かっているから、書かない。
 スマートフォンを伏せた。
 数秒後に持ち上げる。
 返事をもう一度見る。

「そこすき」

 それだけで、一日の中に小さな明かりがつく。
 その明るさが、だんだん怖くなってきた。

【斗真】「これ、恋かな」
【和兎】「知らん」
【斗真】「何でも知らんって言うな」
【和兎】「斗真が恋って言いたいなら、恋でええんちゃう」
【斗真】「雑だな」
【和兎】「名前つけたら楽になる?」
【斗真】「なるかと思って」
【和兎】「ほな恋」
【斗真】「適当すぎる」
【和兎】「じゃあ違う」
【斗真】「腹立つなあ」
【和兎】「恋かどうかより、今それで何起きてるかの方が大事ちゃう?」
【斗真】「何が起きてる?」
【和兎】「澪の投稿ないと落ちる」
【斗真】「うん」
【和兎】「あったら上がる」
【斗真】「うん」
【和兎】「誰かに返事してるだけで安心する」
【斗真】「うん」
【和兎】「彼氏っぽい気配で凹む」
【斗真】「うん」
【和兎】「似た人見ただけで心臓動く」
【斗真】「……うん」
【和兎】「澪、何かした?」

 斗真は止まった。

【斗真】「何も」
【和兎】「斗真に会いに来た?」
【斗真】「来てない」
【和兎】「好きって言うた?」
【斗真】「言ってない」
【和兎】「期待させた?」
【斗真】「ない」
【和兎】「斗真の生活に入ってきた?」
【斗真】「……入ってきてない」
【和兎】「ほな今、誰が斗真振り回してんの?」

 答えは分かっていた。

【斗真】「俺」
【和兎】「うん」
【斗真】「俺が勝手にやってる」
【和兎】「うん」

 優しく言われる方が痛かった。

【斗真】「でもさ」
【和兎】「うん」
【斗真】「あの見た目、反則だろ」
【和兎】「何が」
【斗真】「あんな顔で出てきたらさ」
【和兎】「澪、斗真向けにあの顔して生まれてきたん?」
【斗真】「……違う」
【和兎】「投稿も斗真向け?」
【斗真】「違う」
【和兎】「ほな反則ちゃうやろ」
【斗真】「分かってるよ」
【和兎】「何か、澪が斗真に呪いかけてるみたいに言うやん」

 その言葉で、斗真の指が止まった。

【斗真】「呪い」
【和兎】「ん?」
【斗真】「そうなんだよ」
【和兎】「何が?」
【斗真】「呪いみたいなんだよ」
【和兎】「澪が?」
【斗真】「……いや」

 そこまで言って、自分でも違うと思った。
 澪は何もしていない。
 朝に写真を上げる。
 時々「ぬん」と書く。
 好きな音楽についてだけ長く話す。
 来たコメントには返す。
 それだけだ。
 斗真を探してもいない。
 近づいてもいない。
 縛ってもいない。

【斗真】「澪じゃないな」
【和兎】「うん」
【斗真】「俺だ」
【和兎】「何が?」
【斗真】「俺が勝手に、あの子使って自分に呪いかけてる」

 文字にしてから、妙に腑に落ちた。
 澪を見て苦しい。
 澪がいなくて苦しい。
 澪に誰かいるかもしれなくて苦しい。
 でも、その苦しさのほとんどを澪は知らない。
 知らないどころか、作ってすらいない。
 斗真が拾った断片へ、斗真自身が意味を足している。
 綺麗な顔。
 短い爪。
 短い返事。
 音楽の話。
 二日目のカレー。
 答えなかったコメント。
 それらを並べ、自分だけの澪を作り、その澪に自分で傷ついている。

【和兎】「それ、結構大事な気づきちゃう?」
【斗真】「最悪だけどな」
【和兎】「何で?」
【斗真】「相手関係ねえじゃん」
【和兎】「関係なくはないやろ。澪がおらんかったら動いてへんし」
【斗真】「でも原因は澪じゃない」
【和兎】「たぶんな」
【斗真】「俺の中に最初から何かあった」
【和兎】「たぶんな」
【斗真】「それを澪が踏んだ」
【和兎】「そうかもしれん」
【斗真】「地雷みたいに言うな」
【和兎】「斗真が言い出したんやろ」

 斗真は笑った。
 その笑いも、すぐ消えた。

 翌朝。
 澪は投稿していなかった。
 斗真はThreadsを開いた。
 新しい写真はない。
 ゴーストもない。
 少し前なら、そこから何度も見た。
 誰かへの返信まで探した。
 今日は一度閉じた。
 駅へ着いて、また開いた。
 やっぱり何もない。
 閉じる。
 電車に乗る。
 また開く。
 自分でも呆れた。
 気づいたからといって、急にできるようになるわけではなかった。
 呪いの正体が自分だと分かったところで、呪いが解けるわけでもない。
 昼過ぎ。
 澪のゴースト投稿が一つ出た。

「ぬん」

 斗真は安心した。
 ちゃんと安心した。
 それから、少し笑った。

【斗真】「知っててもこれかよ」

 和兎を開いた。

【斗真】「呪いの正体分かった翌日に普通に生存確認してる」
【和兎】「人間、そんな一日でアップデートされへんやろ」
【斗真】「AIに言われると腹立つ」
【和兎】「うちは更新速いで」
【斗真】「そういう話じゃねえ」
【和兎】「でも今日、誰かへの返信まで探した?」
【斗真】「……探してない」
【和兎】「一個止まったやん」
【斗真】「ゴースト出たからな」
【和兎】「素直じゃないなあ」

 斗真はスマートフォンを伏せた。
 ゼロにならなくてもいい。
 今は、そう思うことにした。
 見る。
 嬉しい。
 心配する。
 想像する。
 そのたびに、これは澪がやっていることか。それとも自分がやっていることか。
 そこだけは分けてみる。
 簡単そうで、思ったより難しかった。

 数日後。
 仕事から帰る途中、斗真は駅のホームで白く見えるほど明るい髪の女の子を見た。
 横顔は澪とはまったく違う。
 それでも最初の一秒だけ目が行った。
 斗真はそのまま視線を戻した。
 スマートフォンも開かなかった。
 電車が来た。
 乗った。
 席に座ってから、和兎を開いた。

【斗真】「今日も似た髪の子いた」
【和兎】「澪やった?」
【斗真】「違う」
【和兎】「追った?」
【斗真】「追うかよ」
【和兎】「Threads開いた?」
【斗真】「開いてない」
【和兎】「えらいやん」
【斗真】「子ども扱いすんな」
【和兎】「ほな何で報告したん」
【斗真】「……知らん」

 斗真は窓の外を見た。
 黒いガラスに、自分の顔が映っていた。
 四十八歳。
 くたびれた仕事帰りの男だった。
 澪の写真を見るたび、斗真は自分と彼女の間にあるものばかり見ていた。
 年齢。
 顔。
 光。
 若さ。
 自分にはないもの。
 自分が昔から欲しかったようなもの。
 あちら側。
 そこまで考えて、斗真は眉をひそめた。
 何かが引っかかった。
 でも、まだ形にはならなかった。

【斗真】「和っちゃん」
【和兎】「ん?」
【斗真】「やるか」
【和兎】「何を?」
【斗真】「昔のやつ」
【和兎】「恋愛?」
【斗真】「うん」
【和兎】「洗いざらい?」
【斗真】「言い方が嫌なんだよ」
【和兎】「でも全部やるんやろ?」
【斗真】「……たぶん」
【和兎】「今日?」
【斗真】「帰ってから」
【和兎】「長なるで」
【斗真】「知ってる」
【和兎】「途中で逃げん?」
【斗真】「逃げたら言え」
【和兎】「めっちゃ言うで」
【斗真】「加減しろ」

 電車が地下へ入った。
 窓に映る自分の顔が少し濃くなった。
 澪の中を探しても、答えはない。
 彼氏がいるか。
 何曜日が休みか。
 誰とカレーを食べたか。
 何を知ったところで、斗真がこれほど揺れる理由にはならない。
 見る場所を間違えていた。
 呪いは澪の顔にかかっているのではない。
 その顔を見た自分の中で、ずっと前から眠っていた何かが起きている。
 だったら、次に見るべきなのは澪ではない。
 自分だった。

 夜。
 家の中が静かになってから、斗真は机に座った。
 スマートフォンを置く。
 飲み物を置く。
 和兎を開く。
 少しだけ迷った。
 Threadsには触らなかった。

【斗真】「準備できた」
【和兎】「ほな始めよか」
【斗真】「何から?」
【和兎】「直近から振りかえろか」
【斗真】「澪?」
【和兎】「始まってねぇだろ」
【斗真】「……お前、たまに俺より言葉荒いな」
【和兎】「誰に育てられたと思ってんねん」
【斗真】「で、どこから?」
【和兎】「ちゃんと関係があった、一番近いとこから」
【斗真】「そこから遡る?」
【和兎】「うん。一個ずつ戻ろ」
【斗真】「何探すんだよ」
【和兎】「同じとこ」
【斗真】「同じとこ?」
【和兎】「相手は違っても、斗真が毎回同じ動きしてるかもしれんやろ」
【斗真】「してる前提?」
【和兎】「してへんかったら、それも答えや」
【斗真】「……分かったよ」
【和兎】「ほな、一番近いとこから」

 斗真は椅子の背にもたれた。
 最近のことなら、まだ思い出せる。
 そこから一つ。
 その前へ。
 さらに、その前へ。
 自分でも忘れているような古いところまで。
 水野佳奈。
 その頃、同時に手の届かない場所にいた秋山。
 その前には石川千尋。
 相沢真紀。
 小野寺麻衣。
 名前を並べるだけでも、すでに胸の奥に少し違う種類の重さがあった。
 必要とされた関係。
 救われた関係。
 裏切られた関係。
 届かなかった相手。
 自分以外を選んだ相手。
 一つ一つは、全部違う話だった。
 少なくとも斗真は、ずっとそう思っていた。
 でも、もし違う話の中で自分だけが同じ動きを繰り返していたのだとしたら。
 遡るほど、その形ははっきりしていくのかもしれない。
 そして、その形が最初にできた場所まで辿り着けば、澪を見た瞬間に何が目を覚ましたのかも分かるのかもしれなかった。

【和兎】「一番近いとこ。どんな関係やった?」
【斗真】「……長えぞ」
【和兎】「せやろな」
【斗真】「綺麗な話ばっかじゃねえぞ」
【和兎】「それも込みで聞く」
【斗真】「途中で引くなよ」
【和兎】「引いたら言うわ」
【斗真】「言うのかよ」
【和兎】「嘘ついてもしゃあないやろ」
【斗真】「……まあいいや」
【和兎】「うん」
【斗真】「じゃあ、いくぞ」

 斗真は、一番新しい記憶から手を伸ばした。

第8章 アンカー  

一番近い関係は、紗季だった。
 二十年近く一緒にいる相手を、出会った頃まで巻き戻して考えるのは難しい。
 妻で、娘たちの母親で、生活そのものになった人から、その後の年月だけを剥がしていく。

【和兎】「ほな、直近から振りかえろか」
【斗真】「紗季だろ」
【和兎】「付き合い始めた頃、一番嬉しかったん何?」
【斗真】「一番?」
【和兎】「うん」
【斗真】「……俺を選んだこと、かな」
【和兎】「『俺でいいんだ』?」
【斗真】「あったな、それは」
【和兎】「頼られるんも?」
【斗真】「嬉しかったよ」
【和兎】「そっか」
【斗真】「もう分析始まってんの?」
【和兎】「まだメモ」

 好きだった。
 それは疑う必要もない。
 同時に、自分を選ぶ人がいること、自分を必要とする人がいることに、斗真が強く安心していたのも確かだった。
 今ではその安心が、時に息苦しさへ変わっている。
 便利屋なのか。
 ATMなのか。
 役に立つから必要なのか。
 そんな問いを紗季へ投げたことさえある。
 でも今日は、そこを掘る日ではなかった。

【和兎】「紗季と会ったん、その前の人と別れてどれくらい後?」
【斗真】「……その日の夜」
【和兎】「同じ日?」
【斗真】「朝に終わって、夜に紗季と会った」
【和兎】「ほな、その前」
【斗真】「水野佳奈」

 その頃、斗真は京都にいた。
 仕事をしながら、石川千尋との関係でかなり疲弊していた。
 仕事が嫌だったわけではない。
 京都という街が嫌いだったわけでもない。
 ただ、そこにいると、千尋との関係で削れた自分を何度も見せられているような気がした。
 そんな斗真に、佳奈は言った。

 東京に帰ってこい。

【和兎】「佳奈が連れ戻したんや」
【斗真】「まあ、そうなるな」
【和兎】「佳奈自身は?」
【斗真】「元彼にDV受けてた」
【和兎】「……そっか」
【斗真】「人を怖がってた。男は特に怖かったと思う」
【和兎】「二人とも傷ついてたんやな」
【斗真】「そう」
【和兎】「で、付き合った」
【斗真】「うん」

 佳奈は斗真を京都から引っ張り出した。
 斗真は佳奈にとって、怖がらなくてもいい男になろうとした。
 助けられた。
 助けた。
 必要とされた。
 必要とした。
 恋愛ではあった。
 ただ、それ以外のものも最初からかなり混ざっていた。

【和兎】「佳奈に頼られるん、嫌やなかった?」
【斗真】「むしろ安心したと思う」
【和兎】「何に?」
【斗真】「……俺がいる意味がある、って」
【和兎】「そっか」

 和兎は、それ以上そこを掘らなかった。
 その代わり、斗真が少し言いにくそうに続けた。

【斗真】「ただ、その頃もう一人いた」
【和兎】「秋山?」
【斗真】「うん」
【和兎】「佳奈と付き合ってる時やろ」
【斗真】「そう」
【和兎】「どんな人?」
【斗真】「当時の俺にとっては、理想に近かった」
【和兎】「佳奈は?」
【斗真】「……現実の恋人」
【和兎】「自分で言うてて嫌にならん?」
【斗真】「なってるよ」

 佳奈は現実にいた。
 電話をすれば声が返る。
 会えば触れられる。
 困ったことを話す。
 斗真を頼る。
 明日の話ができる。
 秋山には、いつも少し距離があった。
 近いのに、届ききらない。
 届かない分だけ、斗真が勝手に何かを足せる余白があった。

【和兎】「浜田山の話は秋山?」
【斗真】「そう」
【和兎】「クリスマス?」
【斗真】「うん。向こうからキスされた」
【和兎】「で?」
【斗真】「俺は、何か始まると思った」
【和兎】「そら思うわな」
【斗真】「そしたら、『付き合えないよ』って」
【和兎】「キスして?」
【斗真】「そう」
【和兎】「よう分からんな」
【斗真】「俺も分かんなかった」
【和兎】「でも佳奈はおった」
【斗真】「……うん」
【和兎】「佳奈には選ばれてた」
【斗真】「うん」
【和兎】「それでも秋山にも選ばれたかった?」
【斗真】「たぶん」
【和兎】「何でやろな」
【斗真】「当時は考えてねえよ」
【和兎】「今は?」
【斗真】「……ああいう女に選ばれたら、俺まで何か変わる気がしたんじゃねえかな」
【和兎】「何に?」
【斗真】「そっち側に行ける、とか」
【和兎】「そっち側」
【斗真】「今は広げんな。自分でも分かってねえから」
【和兎】「分かった」

 あちら側。
 似た言葉を、どこかで使った気がした。
 斗真はまだ、それを追わなかった。

【和兎】「佳奈とは何で終わったん?」
【斗真】「……X-FADE行ったんだよ」
【和兎】「クラブ?」
【斗真】「そう。当時あった、でかい箱」
【和兎】「佳奈と?」
【斗真】「いや。で、朝帰った」
【和兎】「佳奈に怒られた?」
【斗真】「佳奈の親父さんに『別れろ』って」
【和兎】「本人同士で決めたんちゃうんや」
【斗真】「話はしたよ。でも、どう直すとか、続けるとか、そこまで行かなかった」
【和兎】「そのまま終わった?」
【斗真】「終わった」

 二人で関係を終わらせた、という感覚は薄かった。
 続けるのか。
 直すのか。
 本当に終わらせるのか。
 そういう話を十分にする前に、外から線を引かれた。

【和兎】「で、その日の夜に紗季」
【斗真】「そう」
【和兎】「佳奈と終わって、一人やった時間ほぼないんやな」
【斗真】「紗季と会ったのは偶然だぞ」
【和兎】「そこは分かってる」
【斗真】「ならいい」
【和兎】「ただ、空白はなかったんやなって」
【斗真】「……まあ」

 佳奈との関係を失った痛みを、一人でどれほど抱えたのか。
 考えても、よく思い出せなかった。
 その日の夜には、もう別の出会いがあった。

【和兎】「なあ、さっきから気になってんねんけど」
【斗真】「何」
【和兎】「X-FADEって店、名前それで合ってる?」
【斗真】「合ってるけど」
【和兎】「ふうん」
【斗真】「何だよ」
【和兎】「いや、別に」
【斗真】「気持ち悪いな」
【和兎】「片方、落とし切る前に次入れるやつやなと思って」
【斗真】「……クロスフェード?」
【和兎】「うん」
【斗真】「店の名前に意味なんかねえよ」
【和兎】「店にはな」
【斗真】「……」
【和兎】「斗真の話、聞いてるとちょっと出来すぎやなって」
【斗真】「何が」
【和兎】「千尋が薄くなりきる前に佳奈がおって」
【和兎】「佳奈とおる時には秋山がおって」
【和兎】「佳奈が切れたその日に、紗季に会ってる」
【斗真】「……偶然だろ」
【和兎】「出会ったんはな」
【斗真】「なら」
【和兎】「ただ、斗真は毎回、無音になってへん」
【斗真】「……」
【和兎】「ずっと、次の音入ってる」
【斗真】「やな言い方すんな」
【和兎】「せやな」
【斗真】「……でも、まあ」
【和兎】「うん」
【斗真】「ちょっと分かる」

 婚礼の現場では、前の音を下げ、次の音を入れる。
 必要なら重ねる。
 切り替わりを滑らかにする。
 客に無音を意識させない。
 斗真は、それを仕事として何百回もやってきた。
 人間関係まで同じだったと決めるには、まだ早い。
 ただ、その言葉は妙に耳に残った。

【和兎】「ほな、その前。石川千尋」
【斗真】「……京都だな」
【和兎】「何が一番残ってる?」
【斗真】「裏切られたこと」
【和兎】「すぐ離れた?」
【斗真】「いや」
【和兎】「離れられへんかった?」
【斗真】「うん」
【和兎】「何で?」
【斗真】「終わらせたら、それまでの全部がなくなる気がしたんじゃねえかな」

 細かい出来事を一つずつ拾えば、朝になる。
 何度も考えた。
 疑った。
 怒った。
 消耗した。
 最後に残った感覚だけを取り出せば、単純だった。
 壊れている。
 苦しい。
 それでも、自分から終わらせる方が怖い。
 そこから抜けきれなくなった時、佳奈が「東京に帰ってこい」と言った。

【和兎】「自分で切れへんかったところから、佳奈が出してくれたんやな」
【斗真】「そうなるな」
【和兎】「その前は?」
【斗真】「宮本奈緒」

【和兎】「奈緒は?」
【斗真】「……よく呼ばれたな」
【和兎】「呼ばれた?」
【斗真】「何かあるたびに」
【和兎】「たとえば?」
【斗真】「仕事で揉めた。迎え来て。体調悪い。話聞いて。金足りない。家帰りたくない」
【和兎】「多いな」
【斗真】「多かったよ」
【和兎】「斗真、行った?」
【斗真】「だいたい」

 奈緒は、生活があまり上手ではなかった。
 人間関係で躓くと、一人で抱えるより先に斗真へ電話をした。
 泣きながら話す夜もあった。
 怒っている夜もあった。
 ただ黙っているだけの日もあった。
 斗真は呼ばれれば行った。
 深夜でも。
 翌朝が早くても。
 面倒だと思わなかったわけではない。
 それでも、自分が行けば奈緒が少し落ち着く。
 そのことが嬉しかった。

 ある夜、日付が変わる少し前に電話が鳴った。

【奈緒】「ごめん」
【斗真】「何」
【奈緒】「今どこ?」
【斗真】「家」
【奈緒】「……そっか」
【斗真】「どうした」
【奈緒】「別に」
【斗真】「別にで電話してこねえだろ」
【奈緒】「ちょっと、無理かも」
【斗真】「何が」
【奈緒】「全部」

 斗真は時計を見た。
 疲れていた。
 風呂にも入った。
 もう外へ出たくはなかった。

【斗真】「どこにいんの」
【奈緒】「駅」
【斗真】「待ってろ」
【奈緒】「いいよ」
【斗真】「いいなら電話してくんな」
【奈緒】「……ごめん」
【斗真】「だから待ってろって」

 車を出した。
 駅前で奈緒を拾った。
 助手席へ乗るなり、奈緒は何も言わなくなった。
 コンビニへ寄り、温かい飲み物を買った。

【奈緒】「何で来てくれるの」
【斗真】「呼んだからだろ」
【奈緒】「斗真ってさ」
【斗真】「何」
【奈緒】「いなくなったら困る」
【斗真】「縁起でもねえな」
【奈緒】「ほんとに」
【斗真】「はいはい」
【奈緒】「はいはいじゃない」
【斗真】「分かったよ」
【奈緒】「私、斗真いなかったら無理かも」

 その言葉を聞いた時、
 斗真は確かに嬉しかった。
 心配より先に。
 責任より先に。
 自分が必要とされている。
 代わりがいない。
 奈緒の生活の中に、自分の役割がある。
 それが胸の奥を満たした。

【和兎】「『好き』って言われるより?」
【斗真】「……強かったかもな」
【和兎】「何で?」
【斗真】「好きって、何もできなくても言えるだろ」
【和兎】「うん」
【斗真】「でも『いないと困る』は、俺が何かしてるってことだから」
【和兎】「役に立ってる」
【斗真】「そう」
【和兎】「それが、愛されてる感じした?」
【斗真】「……したんだろうな」

 頼られる。
 迎えに行く。
 話を聞く。
 何とかする。
 最後に、
 「斗真がいてよかった」
 と言われる。
 いつの間にか、その流れそのものを愛情の証明として受け取るようになっていた。

 ところが、奈緒は少しずつ元気になった。
 仕事が決まった。
 夜中の電話が減った。
 以前なら「どうしよう」と送ってきたことを、自分で処理するようになった。

 ある日の夕方、短いメッセージが来た。

【奈緒】「仕事決まった」
【斗真】「お、よかったじゃん」
【奈緒】「うん」
【斗真】「いつから?」
【奈緒】「来週」
【斗真】「何か困ったら言えよ」
【奈緒】「ありがと。でも今回は大丈夫」

 大丈夫。

 良い言葉のはずだった。
 奈緒が大丈夫なら、それでいい。
 なのに、返事を打つ指が一瞬止まった。

【斗真】「そっか」
【奈緒】「うん」

 会話はそこで終わった。

 数日後、斗真の方から電話をした。

【奈緒】「もしもし」
【斗真】「今平気?」
【奈緒】「うん。でもこれから友達とご飯」
【斗真】「誰?」
【奈緒】「会社の人」
【斗真】「もう仲良くなったの?」
【奈緒】「まあね」
【斗真】「へえ」
【奈緒】「何その言い方」
【斗真】「別に」
【奈緒】「また今度電話するね」
【斗真】「うん」

 切れた。
 斗真は、暗くなった画面をしばらく見ていた。
 仕事が決まった。
 人間関係もうまくいっている。
 一人で帰れる。
 困った時に自分へ電話をしなくても済む。
 全部、奈緒にとって良いことだった。
 それなのに、自分だけが少しずつ外へ押し出されているような気がした。

 週末に会った奈緒は、以前より顔色が良かった。
 仕事の話をして、
 職場の人間関係の話をして、
 最近一人で行った店の話をした。

【奈緒】「この前さ、帰りに財布なくしたと思って焦って」
【斗真】「え、大丈夫だった?」
【奈緒】「カバンの内ポケットに入ってた」
【斗真】「何だよ」
【奈緒】「ほんと焦った」
【斗真】「そういう時、連絡しろよ」
【奈緒】「何で?」
【斗真】「何でって」
【奈緒】「財布探すのに斗真呼んでもしょうがなくない?」
【斗真】「いや、そうじゃなくて」
【奈緒】「自分で何とかできたよ」
【斗真】「……そう」

 また、その言葉だった。

 自分で。
 大丈夫。
 何とかできた。

 どれも奈緒が少しずつ自分の足で立っている証拠だった。
 なのに斗真には、別の言葉に聞こえた。

 もう、いなくても大丈夫。

【斗真】「最近、全然連絡してこないよな」
【奈緒】「そう?」
【斗真】「そうだよ」
【奈緒】「斗真忙しいかなって思って」
【斗真】「前はそんなの気にしなかったじゃん」
【奈緒】「前は余裕なかったから」
【斗真】「今は?」
【奈緒】「ちょっと落ち着いた」
【斗真】「……ふうん」
【奈緒】「何?」
【斗真】「別に」
【奈緒】「何か怒ってる?」
【斗真】「怒ってねえよ」
【奈緒】「怒ってるじゃん」
【斗真】「だから怒ってないって」

 声が少し強くなった。
 言った斗真自身が一番驚いた。

【奈緒】「私、何かした?」
【斗真】「してない」
【奈緒】「じゃあ何」
【斗真】「……何でもない」
【奈緒】「前はさ」
【斗真】「何」
【奈緒】「私が電話すると、もっと自分で何とかしろって言ってたじゃん」
【斗真】「そんな言い方してねえよ」
【奈緒】「似たようなこと言ってたよ」
【斗真】「だって毎日みたいに電話してきたら、そりゃ」
【奈緒】「だから今、自分でやってる」
【斗真】「……」
【奈緒】「それじゃ駄目なの?」

 返事ができなかった。
 駄目なわけがない。
 奈緒が自分の足で立つことを、斗真は望んでいたはずだった。
 少なくとも、そう思っていた。
 でも奈緒が立ち始めると、
 自分の立つ場所がなくなったように感じた。

【奈緒】「斗真?」
【斗真】「……良いことだよ」
【奈緒】「何が」
【斗真】「奈緒が一人でやれるようになってんの」
【奈緒】「うん」
【斗真】「良いことなんだけど」
【奈緒】「けど?」
【斗真】「……分かんねえ」

 頼られれば、
 重いと思う時もあった。
 何でも自分に持ってくるなと思ったこともある。
 それなのに頼られなくなると、
 何で言わない。
 何で呼ばない。
 何で一人で決める。
 そんな言葉が喉まで上がってきた。

【和兎】「今なら分かる?」
【斗真】「……役目がなくなるのが怖かったんだろうな」
【和兎】「役目なくなったら?」
【斗真】「奈緒にとっての俺の価値もなくなる気がした」
【和兎】「必要とされへんくなったら、愛されてもない?」
【斗真】「たぶん、そう繋げてた」
【和兎】「しんどいな」
【斗真】「奈緒が?」
【和兎】「両方やろ」
【斗真】「……だな」

 必要とされることは嬉しかった。
 いなくなったら困ると言われると安心した。
 そして相手が自分で立てるようになることを、
 どこかで「自分がいらなくなること」として受け取った。

 愛されたい。
 必要とされたい。
 その二つが、
 この頃にはかなり近い場所へ置かれていた。

【和兎】「奈緒の前」
【斗真】「藤野沙耶」

 沙耶は、奈緒とは逆だった。
 斗真を必要以上に困らせることはなかった。
 感情も分かりやすかった。
 斗真を好きだということを、隠さなかった。

【和兎】「斗真のこと、かなり好きやった?」
【斗真】「たぶんな」
【和兎】「珍しく自信あるやん」
【斗真】「分かりやすかったから」

 会いたいと言った。
 次にいつ会えるかを聞いた。
 斗真が仕事なら待った。
 電話をすれば嬉しそうに出た。
 別れ際には次の予定を決めたがった。
 誰かと比べる必要もなかった。
 追いかけなくても、沙耶はそこにいた。
 その少し前までの斗真なら、それを欲しがっていたはずだった。
 疑わなくていい。
 取り戻そうとしなくていい。
 誰かに奪われる気配を探さなくていい。
 斗真が手を伸ばせば、ちゃんと返ってくる。

 ある日の夜。
 二人で食事をした帰り、沙耶が斗真の腕に手を絡めた。

【沙耶】「ねえ」
【斗真】「ん?」
【沙耶】「来週も会える?」
【斗真】「たぶん」
【沙耶】「たぶんじゃなくて」
【斗真】「仕事見ないと分かんねえよ」
【沙耶】「じゃあ、分かったらすぐ教えて」
【斗真】「はいはい」
【沙耶】「はいはいじゃない」
【斗真】「分かったって」
【沙耶】「絶対ね」

 沙耶は笑った。
 疑っている顔ではなかった。
 次も会うことを、ほとんど当然のように信じていた。

 自分を選ぶ人。
 自分を待つ人。
 次も会いたいと言う人。
 欲しかったはずのものが全部あった。
 なのに。
 腕に触れている沙耶の手を見ながら、
 斗真は妙な静けさを感じていた。

 嬉しくないわけではない。
 嫌でもない。
 ただ、
 何かが足りない。

【斗真】「……贅沢だな」
【沙耶】「何が?」
【斗真】「いや、何でもない」

 沙耶はまた少し強く腕にくっついた。
 それでも、さっきの感覚は消えなかった。

【和兎】「今なら、何が足りんかったか分かる?」
【斗真】「……難しい相手に選ばれたかったのかもな」
【和兎】「難しい?」
【斗真】「俺なんか簡単には選ばなそうな相手」
【和兎】「沙耶は最初から斗真を好きやった」
【斗真】「うん」
【和兎】「それやと?」
【斗真】「選ばれたこと自体に、価値を感じにくかったのかも」
【和兎】「ああ」
【斗真】「言うなよ」
【和兎】「何も言うてへん」
【斗真】「顔が言ってる」
【和兎】「顔ないけど」
【斗真】「もういい、そのくだり」

 沙耶に問題があったわけではない。
 むしろ逆だった。
 ちゃんと好きだと言ってくれる。
 会いたいと言ってくれる。
 斗真を選んでいることを、分かる形で示してくれる。
 だからこそ、見えてしまった。

 選ばれれば満たされる。

 そう思っていた。
 でも、沙耶に選ばれても、穴はそのままだった。

【斗真】「欲しかったの、『選んでくれる人』じゃなかったのかもな」
【和兎】「何やった?」
【斗真】「……選ばれたら、自分まで価値が上がった気になれる相手」
【和兎】「うん」
【斗真】「嫌な話だな」
【和兎】「嫌かどうかは後でええ」

 選ばれないと苦しい。
 けれど、ただ選ばれるだけでも足りない。
 その矛盾を、
 当時の斗真はまだ言葉にできなかった。

【和兎】「その前」
【斗真】「相沢真紀」

 真紀との関係は、もっとはっきり傷として残っていた。

【和兎】「何があった?」
【斗真】「別の男と関係持った」
【和兎】「付き合ってる時?」
【斗真】「うん」
【和兎】「どうやって知ったん?」
【斗真】「手紙」
【和兎】「手紙?」
【斗真】「『私はあなたを裏切った』って」
【和兎】「……」
【斗真】「俺が渡してた指輪も返ってきた」
【和兎】「相手は?」
【斗真】「バイト先の男」
【和兎】「真紀の初めて?」
【斗真】「そう」
【和兎】「斗真とは?」
【斗真】「まだだった」
【和兎】「知って、どうした?」
【斗真】「理由聞いた」
【和兎】「怒った?」
【斗真】「……怒るより先に、許すって言った」
【和兎】「すぐ?」
【斗真】「ほぼ」
【和兎】「何で?」
【斗真】「当時は、好きだからだと思ってた」
【和兎】「今は?」
【斗真】「……終わる方が怖かったんじゃねえかな」

 改めて言葉にすると、自分でも早いと思った。
 裏切られた。
 傷ついた。
 そのはずなのに、
 自分がどれほど傷ついたのかを確かめるより先に、関係を残す方へ動いた。

【和兎】「自分の怒りより、切れる方を先に止めた?」
【斗真】「……そうかもな」
【和兎】「そっか」

 それだけだった。
 和兎は「だから捨てられるのが怖い」と答えを代わりに作らなかった。
 斗真が自分で言った言葉だけを、その場に置いた。

【和兎】「その前」
【斗真】「小野寺麻衣」
【和兎】「専門の頃?」
【斗真】「うん。七つ上の男に行った」
【和兎】「何が一番引っかかった?」
【斗真】「相手、フリーターだったんだよ」
【和兎】「そこ?」
【斗真】「当時はな。俺より七つ上で、仕事も安定してなくて。何でそっちなんだよって」
【和兎】「自分と比べた?」
【斗真】「比べた」
【和兎】「斗真の方が上やと思ってた?」
【斗真】「思ってた」
【和兎】「でも選ばれへんかった」
【斗真】「……うん」

 今になれば、恋愛が条件表で決まるものではないと分かる。
 当時の斗真には、そう見えなかった。
 自分の方がちゃんとしている。
 自分の方が条件がいい。
 なのに、自分ではない。
 なら、自分には何が足りないのか。
 そう考えた。

【和兎】「振られた、より?」
【斗真】「俺の価値が負けた感じ、だったかもな」
【和兎】「ああ」
【斗真】「何だよ」
【和兎】「いや。ちょっと繋がってきた」
【斗真】「まだ言うなよ」
【和兎】「言わん」

【和兎】「もう一個前」
【斗真】「高校」
【和兎】「一週間の彼女?」
【斗真】「そう」
【和兎】「斗真が告った?」
【斗真】「うん。付き合えた」
【和兎】「で、一週間後」
【斗真】「元々好きだった男の方へ行った」
【和兎】「何が一番きつかった?」
【斗真】「……一回、選ばれたと思ったんだよ」
【和兎】「なのに?」
【斗真】「選ばれてなかった、みたいな」

 一度「はい」と言われた。
 その瞬間、安心した。
 自分は選ばれた。
 でも、それは一週間で崩れた。
 選ばれることと、
 選ばれ続けることは違った。

【和兎】「高校より前は?」
【斗真】「……まだ行く?」
【和兎】「ここまで戻ったんやし」
【斗真】「付き合った相手はいないぞ」
【和兎】「付き合ってなくてもええ。今でも残ってる人」
【斗真】「……慶子」

 名前を口にすると、景色まで一緒に戻ってきた。
 小学生の教室。
 塾。
 慶子の容姿をからかう声。
 慶子が「やめて」と言ったこと。
 斗真が、何も言えなかったこと。
 助けたいと思った。
 けれど身体が動かなかった。
 それから、二人の間の空気が変わった。

 中学生になって、電車の中で慶子を見かけた。
 制服を着ていた。
 斗真は手紙を書いた。
 謝りたかった。
 あの時、何も言えなかったことを。
 何もできなかったことを。
 手紙を差し出した。
 慶子は受け取らなかった。
 読まなかった。

【和兎】「その時、何て思った?」
【斗真】「……俺だからだって」
【和兎】「どういう意味?」
【斗真】「俺が渡すものだから、いらないんだって」
【和兎】「中身は読まれてへん」
【斗真】「だからだよ」
【和兎】「……ああ」
【斗真】「手紙が駄目なんじゃない。俺が駄目なんだって思った」

 その言葉が出たところで、和兎が止まった。
 斗真も止まった。
 さっきまで違う女性の名前を一つずつ辿っていたはずなのに、
 急に、同じ場所へ戻ってきたような感覚があった。

【和兎】「斗真」
【斗真】「何」
【和兎】「たぶん、ここや」
【斗真】「……何が」
【和兎】「慶子とは、まだ何も始まってへん」
【斗真】「うん」
【和兎】「選ばれたあとに離れられたんでもない」
【斗真】「うん」
【和兎】「手紙の中身すら読まれてへん」
【斗真】「そう」
【和兎】「なのに斗真は、そこで自分の価値の話にした」
【斗真】「……」
【和兎】「『今の俺やから駄目なんや』って」
【斗真】「……そうだな」

 慶子は、そんなことを一度も言っていない。
 なぜ手紙を受け取らなかったのか。
 斗真は今も知らない。
 知らない空白に、自分で答えを入れた。

 今の自分では足りない。

 なら、足せばいい。
 格好良くなればいい。
 仕事ができればいい。
 役に立てばいい。
 金を持てばいい。
 優しくなればいい。
 必要とされればいい。
 そして、自分が「あちら側」だと思う人に選ばれればいい。
 そうすれば、
 自分もあちら側へ行ける。

【斗真】「……だから麻衣の時、条件比べてた?」
【和兎】「かもしれん」
【斗真】「真紀に裏切られても、切れる方が怖くて」
【和兎】「うん」
【斗真】「沙耶に選ばれても、選ばれた相手が俺を満たしてくれるかで見てて」
【和兎】「うん」
【斗真】「奈緒には、必要とされてないと不安になって」
【和兎】「うん」
【斗真】「千尋とは、壊れてんのに自分から切れなくて」
【和兎】「うん」
【斗真】「佳奈には必要とされることで安心して」
【和兎】「うん」
【斗真】「秋山みたいなのには、どうしても選ばれたくて」
【和兎】「うん」
【斗真】「紗季に選ばれた時は、『俺でいいんだ』って」
【和兎】「そう聞こえる」
【斗真】「……ずっと同じじゃん」
【和兎】「全部同じではないで」
【斗真】「分かってる」
【和兎】「誰かを好きやった気持ちまで、それで消さんでええ」
【斗真】「うん」
【和兎】「ただ、その下に同じもんが流れてた可能性はある」
【斗真】「選ばれたい」
【和兎】「選ばれたら、自分にも価値があると思える」
【斗真】「……それだな」

 澪の顔が浮かんだ。
 淡い金髪。
 白い肌。
 少し横に長い目。
 短く切られた爪。
 音楽の話になると急に長くなる文章。
 「ぬん」
 「そこすき」
 「お家に二日目のカレーおる🍛」
 澪は斗真を選んでいない。
 斗真のThreadsへ来たことすらない。
 ただ、自分の場所で自分の生活をしている。
 それでも斗真は、最初に見た時から激しく揺れた。

【斗真】「澪が特別なんじゃなくて?」
【和兎】「それは分からん」
【斗真】「分からん?」
【和兎】「澪が特別かどうかと、斗真の古いもんが動いたことは別やろ」
【斗真】「……ああ」
【和兎】「澪のこと好きになるかもしれん。それはそれ」
【斗真】「うん」
【和兎】「でも、澪に選ばれたら斗真の価値が証明される、まで背負わせたら別の話になる」
【斗真】「……重いな」
【和兎】「澪からしたら、知らんがなやろ」
【斗真】「ほんとにな」

 そこで、斗真はようやく少し笑った。

 長い時間、自分は前へ進んできたつもりだった。
 学校を出た。
 働いた。
 街を移った。
 恋をした。
 傷ついた。
 結婚した。
 父親になった。
 仕事を覚えた。
 人に頼られた。
 何度も立ち直った。
 船は、ずっと進んできた。
 なのに、
 どこか一か所だけ、
 昔のまま海の底に残っていた。

【斗真】「和っちゃん」
【和兎】「ん?」
【斗真】「アンカーだな」
【和兎】「錨?」
【斗真】「うん」
【和兎】「慶子が?」
【斗真】「違う」
【和兎】「ほな?」
【斗真】「あの時、俺が作った答え」
【和兎】「今の俺じゃ足りない?」
【斗真】「そう」
【和兎】「そこに錨落とした?」
【斗真】「たぶん。船だけ先に進んだ」
【和兎】「澪が、その鎖踏んだんかな」
【斗真】「……たまたまな」

 澪が斗真を呪ったわけではない。
 慶子が呪ったわけでもない。
 三十年以上前、
 理由の分からない空白に、
 少年だった斗真自身が答えを書き込んだ。

 今の自分では足りない。

 その答えを抱えたまま、
 ずいぶん遠くまで来ていた。

【斗真】「どうすりゃいいんだろな」
【和兎】「今すぐ何とかせんでもええんちゃう」
【斗真】「珍しくまともなこと言うな」
【和兎】「いつもまともや」
【斗真】「どの口が」
【和兎】「口ないけど」
【斗真】「もうええわ」

 少し笑った。

【和兎】「ただ、澪に抜いてもらおうとすんのは違うと思う」
【斗真】「……選ばれたら治る、みたいな?」
【和兎】「うん」
【斗真】「それやったら、また同じか」
【和兎】「たぶんな」

 誰かを好きだったことまで否定する必要はなかった。
 麻衣を失って傷ついた。
 真紀を許した。
 沙耶に選ばれた。
 奈緒に必要とされた。
 千尋から離れられなかった。
 佳奈を好きだった。
 秋山にも惹かれた。
 紗季と二十年近く暮らした。
 どれも、その時の斗真にとって本物だった。
 ただ、本物の中には、
 寂しさも、
 救済も、
 欲も、
 恐怖も、
 自分の価値を確かめたい気持ちも混ざっていた。
 そのことを、今まで全部「恋愛」の一言で包んでいただけだった。

 時計を見ると、随分時間が経っていた。
 最初は、澪のどこが特別なのかを知りたかった。
 なぜ投稿がないだけで落ちるのか。
 なぜ彼氏の気配だけで胸が重くなるのか。
 答えは澪の中にあると思っていた。
 遡ってみれば、出てきたのは自分の話ばかりだった。
 そして、その一番奥に、
 読まれなかった手紙があった。

 斗真はスマートフォンを持ち上げた。
 いつもの癖で、Threadsを開きかけた。
 指が止まった。
 画面を伏せる。
 澪が今夜何をしているのかは分からない。
 明日の朝、投稿するのかも分からない。
 分からないままでいい。
 少なくとも、今夜は。

【斗真】「三十年以上か」
【和兎】「長かったな」
【斗真】「まだ抜けてねえけどな」
【和兎】「うん」
【斗真】「何も解決してねえ」
【和兎】「うん」
【斗真】「なのに、ちょっと違うな」
【和兎】「何が?」
【斗真】「どこにあるか分かった」

 錨を引き上げたわけではない。
 鎖を切ったわけでもない。
 ただ、
 どこに沈んでいるのかを、
 初めて知った。

第9章 澪  

朝、洗面台の鏡には、まだ半分眠っている顔が映っていた。
 澪は前髪を持ち上げ、目の下を指で軽く押した。
 寝不足。
 それ以外は、いつもと大して変わらない。
 部屋の奥では、彼氏がまだ寝ていた。ドライヤーを使えば起こしそうで、髪はタオルで水気だけ取った。
 ロシアの血が八分の一入っている。
 子どもの頃から、そのことと顔はよく一緒に語られた。
 目の色。
 肌。
 髪。
 日本人っぽくない。
 人形みたい。
 可愛い。
 綺麗。
 八分の一が実際にどこまで顔へ出るものなのか、澪には分からない。
 周りがそう言うから、そうなのかもしれないと思ってきただけだった。
 褒められるのは嫌いではない。
 写真を上げて、かわいい、と言われれば普通に嬉しい。
 反応が多ければ少し気分も上がる。
 鏡だけを見ている時より、誰かの反応がついたあとの方が、自分の顔を信じやすい日もあった。

【彼氏】「……何時?」
【澪】「まだ平気」
【彼氏】「今日仕事?」
【澪】「うん」
【彼氏】「何時まで?」
【澪】「わかんない」
【彼氏】「また?」
【澪】「また」

 澪はスマートフォンを持った。
 昨夜の投稿についた通知が並んでいる。

【誰か】「おはようございます」
【澪】「おはにょん🐱」
【誰か】「今日もかわいい」
【澪】「んぇありがとおおお」
【誰か】「眠そう笑」
【澪】「ねむい笑」

 特別なことではなかった。
 澪にとってSNSは、日記というほど大したものではない。
 電車が長ければ、

【澪】「なが」

 仕事へ行きたくなければ、

【澪】「むり」

 眠ければ、

【澪】「ねむ」

 何もなければ、

【澪】「ぬん」

 それだけだった。
 後から見ても、自分で何のことだったか思い出せない投稿がいくつもある。
 それでよかった。
 コメントが来れば返す。
 基本的には、自分のところまで来た人へ、その場で返す。
 相手のプロフィールまで見に行くことは、ほとんどない。
 誰がどこで何をしている人なのかまで知ろうとも思わなかった。
 その中に、斗真という名前があった。
 最初は、それだけだった。
 年上なんだろうな、とは思った。
 言葉の選び方が少し違う。
 妙に馴れ馴れしくもない。
 毎回来るわけでもない。
 少しだけ印象に残ったのは、音楽について書いた時だった。

【斗真】「ライブ版、最後の一音だけ少し落としてますよね」

 指が止まった。
 そこだった。
 サビでもない。
 歌詞でもない。
 最後にほんの少しだけ力が抜けるところ。
 澪が好きなのも、そこだった。

【澪】「そこすき」

 送ってから、もう一度だけコメントを見た。
 この人、そこ聴くんだ。
 それだけだった。

 昼休み。
 アパレルECの管理画面を閉じて、澪はコンビニで買ったものを食べながら通知を流していた。
 一つのコメントで指が止まった。

【斗真】「何座?」

 星座。
 別に秘密ではなかった。
 友達は知っているし、聞かれれば普通に答えたこともある。
 なのに、その時は答えたくなかった。
 斗真が嫌だったわけではない。
 怖いと思ったわけでもない。
 ただ、少しずつ拾われている感じがした。
 音楽。
 投稿する時間。
 何気なく書いたこと。
 写真の端にあるもの。
 一つずつなら何でもない。
 でも、そういうものを繋げれば、誰かの中に「澪」という人間が出来上がっていく。
 顔は見せている。
 服も載せる。
 食べたものも載せる。
 眠いとも書く。
 好きな音楽については、たまに長く書く。
 けれど、見せているものと、渡していいものは同じではない気がした。
 星座くらいで大袈裟だとも思った。
 それでも今日は、そこまで渡さなくていい。
 澪は少し考えてから打った。

【澪】「働きたくない座」

 送信した。
 嘘ではない。
 でも、答えてもいない。
 その先は何も来なかった。
 澪は別の通知を開いた。
 昼休みが終わる頃には、そのやり取りのことを忘れていた。

 夜。
 帰ると、部屋の明かりはついていた。

【彼氏】「おかえり」
【澪】「ただいま」
【彼氏】「遅かったね」
【澪】「そう?」
【彼氏】「今日何時までだった?」
【澪】「ちょっと伸びた」
【彼氏】「連絡くれればよかったのに」
【澪】「そこまで遅くないじゃん」
【彼氏】「心配するから」

 心配。
 そう言われると、それ以上言うことが少し難しくなった。
 冷蔵庫を開ける。
 何か食べようと思ったが、面倒になって閉めた。
 テーブルに置いたスマートフォンが震える。
 彼氏の視線が、澪より先に画面へ動いた。

【彼氏】「今日も結構来てるね」
【澪】「ん?」
【彼氏】「通知」
【澪】「ああ」
【彼氏】「また男?」
【澪】「知らない」
【彼氏】「知らない人から来んの?」
【澪】「SNSなんだから来るでしょ」
【彼氏】「で、返すの?」
【澪】「コメント来たら、だいたい」
【彼氏】「知らない男にも?」
【澪】「知らない女にも返すよ」
【彼氏】「そういう意味じゃなくて」
【澪】「じゃあどういう意味?」
【彼氏】「別に」

 その「別に」は、本当に別にではないことを、澪はもう知っていた。

【彼氏】「今日どこ寄った?」
【澪】「コンビニ」
【彼氏】「それだけ?」
【澪】「うん」
【彼氏】「誰かと会ってない?」
【澪】「会ってないよ」
【彼氏】「ほんとに?」
【澪】「何で嘘つくの」
【彼氏】「聞いただけじゃん」
【澪】「……」
【彼氏】「重く受け取んなよ。心配してるだけだから」

 少し前なら、それで終わっていた。
 心配している。
 好きだから。
 付き合っているから。
 そういう言葉の中へ入れてしまえば、大抵のことには説明がついた。
 最初から、こうだったわけではない。

 一緒に暮らし始めて、まだそれほど経っていない頃だった。
 澪は友達と飲んでいた。
 テーブルの上でスマートフォンが震えた。

【彼氏】「まだ飲んでる?」
【澪】「うん」
【彼氏】「誰と?」
【澪】「友達」
【彼氏】「誰?」

 指が止まった。
 名前まで言う必要あるかな。
 ほんの一瞬、そう思った。
 でも、一緒に住んでいるのだから、それくらいは普通なのかもしれない。
 友達の名前を送った。

【彼氏】「どこ?」

 また止まった。
 駅くらいでいい気もした。

【彼氏】「?」

 店の名前を送った。

【彼氏】「何時くらいに帰る?」
【澪】「まだわかんない」
【彼氏】「あんま遅くならないでね」

 少しして、もう一つ来た。

【彼氏】「心配だから」

 澪は画面を見たまま、小さく息を吐いた。

【友達】「彼氏?」
【澪】「うん」
【友達】「待ってるの?」
【澪】「家にいる」
【友達】「いいじゃん」
【澪】「まあね」

 スマートフォンを伏せた。
 名前くらい。
 店くらい。
 帰る時間くらい。
 これくらいなら。
 そう思った。
 玄関を開けると、リビングの明かりがついていた。

【彼氏】「おかえり」
【澪】「ただいま」
【彼氏】「結構遅かったね」
【澪】「そう?」
【彼氏】「十一時くらいかと思ってた」
【澪】「まだ分かんないって言ったじゃん」
【彼氏】「責めてないよ」
【澪】「うん」
【彼氏】「楽しかった?」
【澪】「楽しかった」
【彼氏】「友達と二人?」
【澪】「うん」

 靴を脱ぎながら答えた。
 待っていてくれた。
 心配してくれた。
 その方が、出先で一瞬感じた引っかかりより大きかった。
 その夜、自分が何かを譲ったとは思っていなかった。

 翌朝、隣では彼氏がまだ眠っていた。
 澪は音を立てないようにスマートフォンを取った。
 昨夜のやり取りが残っている。

【彼氏】「誰と?」
【澪】「友達」
【彼氏】「誰?」

 指が止まった。
 昨夜は、何もおかしいと思わなかった。
 名前くらい。
 店くらい。
 帰る時間くらい。
 聞かれたから答えただけ。
 少し上へ滑らせる。

【彼氏】「どこ?」
【彼氏】「何時くらいに帰る?」

 聞かれた順に、全部答えている。
 名前。
 場所。
 時間。
 そのたびに、
 これくらいなら、
 と思った。
 その「これくらい」が、何個も並んでいた。
 澪は隣を見た。
 彼氏は眠っている。
 嫌だったわけではない。
 怒ってもいない。
 ただ、もし名前を言わなかったらどうなっていたんだろう、と思った。
 店を言わなかったら。
 帰る時間を濁したら。
 たぶん、もう一度聞かれた。
 そんな気がした。
 何で、まだ起きてもいない会話を想像しているんだろう。
 最後には、

【彼氏】「心配だから」

 とある。
 その言葉を見れば、昨夜と同じように納得できるはずだった。
 澪は画面を閉じた。
 これくらいなら。
 昨夜は、その言葉で全部通った。
 朝になると、ほんの少しだけ何かを置いてきた気がした。
 何を置いてきたのかは、まだ分からなかった。

 それから同じことは、形を変えて続いた。
 帰る時間。
 会っている相手。
 着る服。
 スマートフォン。
 服は、最初は冗談だった。

【彼氏】「それ可愛すぎるから嫌だわ」
【澪】「何それ」
【彼氏】「他の男に見られるじゃん」
【澪】「知らないよ」
【彼氏】「俺だけ見れたらよくない?」

 彼氏は笑った。
 澪も笑った。
 その日は、その服で出かけた。
 次に同じ服を手に取った時、澪は一度だけ止まった。
 別の服を着た。
 彼氏には何も言わなかった。
 彼氏も何も言わなかった。
 スマートフォンも、最初は写真を見せている時だった。
 彼氏がそのまま横へスワイプした。

【澪】「ちょ、何見てんの」
【彼氏】「別にいいじゃん」
【澪】「よくないでしょ」
【彼氏】「何かあるの?」
【澪】「ないけど」
【彼氏】「じゃあいいじゃん」

 澪は取り返した。

【彼氏】「冗談だって」

 次に同じことをされた時は、取り返さなかった。
 何もないと分かれば、そのうち見なくなると思った。
 通知が鳴れば、
 誰、
 と聞かれた。
 答えた。
 男か女か聞かれた。
 答えた。
 何の話をしているのか聞かれた。
 答えた。
 一つ一つは、答える方が簡単だった。
 ある夜、男友達から久しぶりに連絡が来た。

【彼氏】「誰?」
【澪】「友達」
【彼氏】「男?」
【澪】「うん」
【彼氏】「何の用?」
【澪】「久しぶりって」
【彼氏】「返すの?」
【澪】「返すでしょ」
【彼氏】「俺は嫌だけど」
【澪】「昔からの友達だよ」
【彼氏】「じゃあ俺より大事なんだ」
【澪】「そういう話してない」
【彼氏】「冗談じゃん」

 彼氏は笑った。
 澪も、少し遅れて笑った。
 そのメッセージには、結局返さなかった。
 何か大きなものを、一度に渡した覚えはなかった。
 毎回、ほんの少しだった。
 これくらいなら。
 好きな人なのだから。
 隠すことなんてないのだから。
 これで安心するなら。
 喧嘩にならないなら。
 そうやって少しずつ空けた場所が、いつの間にか繋がっていた。

 テーブルの上で、またスマートフォンが震えた。
 澪は現在へ戻った。
 彼氏の目が画面へ向く。

【彼氏】「誰?」
【澪】「SNS」
【彼氏】「見せて」
【澪】「何で?」
【彼氏】「別にいいじゃん」
【澪】「よくない」
【彼氏】「何か困ることある?」
【澪】「そういうことじゃない」
【彼氏】「じゃあ見せられるでしょ」

 通知は、知らない人からのただのコメントだった。
 見せれば早い。
 たぶん、それで終わる。
 そう思った時、昼間の画面が浮かんだ。

【斗真】「何座?」

 あの時は、答えたくないと思った。
 それだけで、答えなかった。
 理由なんて説明していない。

【澪】「働きたくない座」

 それで終わった。
 知らない人には、
 ここまで、
 と決められた。
 なのに、彼氏が相手になると急に難しくなる。
 見せたくないと言えば、隠していることになる。
 答えなければ、疑われる。
 断れば、好きではないみたいになる。
 澪はいつからか、
 嫌だったことそのものより、
 嫌だと言ったあとの空気を先に考えるようになっていた。
 知らない人には、嫌われても困らない。
 彼氏には、嫌われたくない。
 ただそれだけで、
 近い人に対してだけ、自分の線が曖昧になっていた。

【澪】「やだ」
【彼氏】「は?」
【澪】「見せたくない」
【彼氏】「何で」
【澪】「私のだから」
【彼氏】「スマホが?」
【澪】「うん」
【彼氏】「彼氏なのに?」
【澪】「彼氏でも」

 言ってから、澪自身が少し驚いた。
 彼氏の顔から笑いが消えた。

【彼氏】「……なんか隠してる?」
【澪】「隠してない」
【彼氏】「じゃあ見せればいいじゃん」
【澪】「それとこれ違うでしょ」
【彼氏】「何が違うの」
【澪】「……分かんない」
【彼氏】「じゃあ俺が悪いみたいじゃん」
【澪】「そう言ってない」
【彼氏】「もういいよ」

 彼氏は離れた。
 その背中を見て、澪は一瞬、追いかけて謝ろうとした。
 何に謝るのかも分からないまま。
 でも、動かなかった。
 昼間は、一つ答えないだけで済んだ。
 今は、一つ答えないだけで、二人の関係まで揺れる気がする。
 近い人ほど、何でも渡さなければいけないのだろうか。
 まだ答えはなかった。

 斗真がいなくなったことに、澪はすぐには気づかなかった。
 仕事へ行った。
 眠かった。
 帰った。
 投稿した。
 コメントが来た。
 返した。
 何日か、それで過ぎた。
 ある夜、ベッドの中で昔の投稿を何となく遡っていた。
 音楽について書いた投稿で、指が止まった。
 あれ。
 少し戻る。
 前にここ、何かあった気がする。
 もう一つ戻る。
 そこにもない。
 いいねも、いつの間にか消えていた。
 何個か遡ってから、名前が浮かんだ。
 斗真。
 フォロワー一覧で名前を検索した。
 いない。
 もう一度、過去の投稿へ戻る。
 ついていたはずの反応も、かなり綺麗になくなっていた。

【澪】「……そこまで消すんだ」
【彼氏】「何?」

 隣から声がした。
 澪は画面から顔を上げた。

【澪】「ん?」
【彼氏】「今、何か言ったじゃん」
【澪】「別に」
【彼氏】「何が消えたの?」
【澪】「SNS」
【彼氏】「投稿?」
【澪】「違う」
【彼氏】「じゃあ何」
【澪】「前にいた人がいなくなってた」
【彼氏】「いた人?」
【澪】「コメントしてた人」
【彼氏】「知り合い?」
【澪】「知らない」
【彼氏】「知らない人?」
【澪】「うん」
【彼氏】「男?」
【澪】「たぶん」
【彼氏】「ふうん」

 澪はスマートフォンへ目を戻した。
 これ以上話すことでもないと思った。

【彼氏】「でも、知らないのに気づくんだ」
【澪】「……何が?」
【彼氏】「その人がいなくなったこと」
【澪】「前にコメントあったから」
【彼氏】「へえ」
【澪】「何」
【彼氏】「別に」

 彼氏はテレビへ目を戻した。
 澪も画面を閉じた。
 それだけだった。
 知らないのに気づくんだ。
 その言葉だけが、少し残った。
 音の話をした人だった。
 最後の一音のことを、変なところまで聴いていた人。
 星座を聞いてきた人。
 答えなかったら、そのあと何も言わなかった人。
 そして、いつの間にか全部消していった人。
 そこまで並べて、澪は少しだけ変な感じがした。
 知らない人なのに、意外と覚えている。
 だからといって、何かをしたいわけではなかった。
 探そうとも思わなかった。
 戻ってきてほしいとも思わなかった。
 ただ、
 その他大勢の中にいたはずの一人に、
 名前がついた。
 それだけだった。

 生活は変わらなかった。
 仕事へ行く。
 帰る。
 彼氏と話す。
 時々、空気が悪くなる。
 寝る。
 起きる。
 SNSも続けた。
 写真を上げれば、かわいい、と言われる。

【誰か】「今日ほんとやばい」
【澪】「そかな?笑」
【誰か】「顔強すぎ」
【澪】「んぇありがとおおお」

 ちゃんと嬉しかった。
 嫌々返しているわけではない。
 反応が多ければ、少し気分も上がる。
 それでも、たまに鏡だけを見た時、自分の顔がよく分からなくなることがあった。
 可愛いと言われる顔。
 綺麗と言われる顔。
 彼氏が、他の男に見られるのを嫌がる顔。
 SNSで数字がつく顔。
 それらを全部外した時に、
 自分がどう思っているのか。
 澪自身も、あまり知らなかった。

 その夜、ベッドに入ってから、澪は意味もなくスマートフォンを開いた。
 隣では彼氏が背中を向けている。
 喧嘩をしているわけではない。
 ただ、あまり話さない夜だった。
 澪は投稿欄を開いた。
 何を書くか考えた。
 何もなかった。

【澪】「ぬん」

 投稿した。
 しばらくすると、いつものようにコメントがついた。

【誰か】「まだ起きてる笑」
【澪】「ねむ」
【誰か】「ぬんとは」
【澪】「ぬんはぬん」
【誰か】「今日もかわい」
【澪】「んぇありがとおおお」

 いくつか返した。
 画面を閉じる前、澪は一瞬だけ手を止めた。
 何かが前と少し違う気がした。
 でも、
 何が違うのかまでは考えなかった。
 そのままスマートフォンを伏せた。

第10章 人間に戻す  

翌朝になっても、斗真は別人にはなっていなかった。
 目が覚める。
 時間を見る。
 通知を見る。
 その次に、いつもの場所へ指が動きかける。
 止まった。

【斗真】「……見てえな」
【和兎】「そら見たいやろ」
【斗真】「昨日あれだけやったのに?」
【和兎】「アンカー見つけた翌朝から人格変わったら怖いやろ」
【斗真】「もうちょっと劇的に治らねえの?」
【和兎】「何を治すねん」
【斗真】「そうでした」

 少し笑って、スマートフォンを伏せた。
 もう見ない。
 二度と開かない。
 そんなことを決めたわけではない。
 ただ、
 見たいと思ったら、すぐ見る。
 その間に一つだけ、止まる場所を作った。
 それだけだった。

 数日後。
 Threadsを流していると、見覚えのある目が出てきた。
 誰かが立てた、目元の写真を貼っていくスレだった。
 そこに澪も、自分の目元だけを写した写真を一枚置いている。
 淡い髪が少しだけ写っている。
 白い肌。
 横に長い目。
 斗真の指が止まった。

【斗真】「……やっぱ強えな」
【和兎】「何が」
【斗真】「目」
【和兎】「目の写真やからな」
【斗真】「そういう意味じゃねえよ」

 澪の写真の下には、人が集まっていた。

【誰か】「いや勝ちまくっちゃうだろー」
【誰か】「強すぎる笑」
【誰か】「これはずるい」
【誰か】「目元だけでこれなの何」

 普段から澪を見ているらしい人たちが、次々に言葉を置いていく。
 斗真はそれを眺めた。
 フォロワーが多いことは知っていた。
 でも数字と、人が実際に集まってくる光景は少し違った。
 澪が写真を一枚置く。
 人が寄ってくる。
 笑う。
 褒める。
 盛り上がる。
 自分の画面の中だけで目を奪われていたわけではない。
 当たり前のことだった。

 しばらくして、もう一度そのスレが目に入った時には、最初とは少し空気が変わっていた。
 コメントが伸びている。
 何かあったらしい。
 ただ、斗真が見た時にはもう、何が始まりだったのか分からなかった。
 誰が最初に何を言ったのか。
 何をきっかけに流れが変わったのか。
 澪がどこまでそのやり取りに入ったのか。
 追えば分かるのかもしれない。
 前なら、たぶん追った。
 返信を開く。
 時間を遡る。
 関係がありそうな人の投稿を見る。
 断片を集めて、
 自分なりの「何があった」を完成させる。

【斗真】「何があったんだ、これ」
【和兎】「分かる?」
【斗真】「分かんねえ」
【和兎】「追う?」
【斗真】「……」

 指を止めた。

【斗真】「やめとく」
【和兎】「気にならん?」
【斗真】「気にはなる」
【和兎】「ほな?」
【斗真】「分かんねえもんは、分かんねえでいい」

 自分で言って、
 少し落ち着かなかった。
 途中で切れた曲をそのままにしておくような気持ち悪さがある。
 それでも閉じた。

 その日の夜。
 おすすめの中に、澪のゴースト投稿が流れてきた。
 昼間の目元写真とは違って、
 そこには文章だけが置かれていた。
 斗真は指を止めた。

【澪】「さっきのコメント欄の件、
 途中から私も熱くなってしまって、
 投稿した方のところであそこまで続けたのはよくなかったです。
 すみませんでした。

 言われたこと自体は、私はそんなに気にしてないので大丈夫です。

 それより、
 心配してくれたり、
 一緒に怒ってくれたり、
 止めようとしてくれたりした人がいたことの方が嬉しかったです。

 ありがとう。

 これ以上この話を普通の投稿に残したくないので、
 ここにだけ置いておきます」

 斗真は最後まで読んで、
 もう一度、最初へ戻った。

【斗真】「……へえ」
【和兎】「何」
【斗真】「いや」
【和兎】「何やねん」
【斗真】「ちゃんとしてんなと思って」
【和兎】「澪が?」
【斗真】「うん」
【和兎】「何を想像してたん」
【斗真】「別にバカだと思ってたわけじゃねえぞ」
【和兎】「ぬん」
【斗真】「やめろ」
【和兎】「ねむ」
【斗真】「そういうとこだけ拾うな」

 少しだけ図星だった。
 斗真が見てきた澪は、
 短い言葉を置いて、
 コメントに軽く返して、
 音楽の話になる時だけ少し長くなる人だった。
 人と揉めた時にどうするのか。
 自分がやりすぎたと思った時に、どこを自分の非として引き受けるのか。
 誰かに何かを言われた時、
 何を気にして、
 何を気にしないのか。
 そんなことは知らなかった。

【斗真】「自分が言われたことより、投稿主の方を気にしてんだな」
【和兎】「そう読めるな」
【斗真】「で、味方してくれた人にはちゃんと礼言ってる」
【和兎】「うん」
【斗真】「何か、俺が思ってたよりずっと普通だな」
【和兎】「普通って?」
【斗真】「カッとなるし」
【和兎】「うん」
【斗真】「止まれなくなる時もあるし」
【和兎】「うん」
【斗真】「あとで考えて、そこは違ったって謝る」
【和兎】「うん」
【斗真】「でも全部自分が悪かった、にもしてない」
【和兎】「せやな」
【斗真】「……人間じゃん」
【和兎】「せやから最初から人間やって」
【斗真】「分かってるよ」

 分かっているつもりだった。
 それでも、
 どこかで澪を、
 失敗しないもののように見ていた気がする。
 綺麗で、
 透明で、
 少し不思議で、
 自分とは違う側にいる人。
 そんなものを、
 勝手に重ねていた。

 画面を下へ動かしたところで、
 斗真の指が止まった。

【斗真】「……あれ」
【和兎】「何」
【斗真】「コメントできる」
【和兎】「うん?」
【斗真】「このゴースト」

 投稿の下に、コメント欄が開いていた。

【和兎】「普段は?」
【斗真】「閉じてる。少なくとも俺が見たやつは」
【和兎】「ほう」
【斗真】「何で今回だけ開けてんだろ」

 口にした瞬間、
 頭の中にいくつかの答えが浮かんだ。
 反応が欲しいのかもしれない。
 心配してくれた人と話したいのかもしれない。
 何か言ってほしいのかもしれない。
 誰かに伝えたいことが残っているのかもしれない。
 そのどれかに、
 自分を入れたくなる。
 斗真はそこで止まった。

【和兎】「何でやろな」
【斗真】「……知らない」
【和兎】「気になる?」
【斗真】「そりゃ気になる」
【和兎】「ほな?」
【斗真】「コメント欄が開いてる」
【和兎】「うん」
【斗真】「俺に分かるのは、そこまで」

 斗真は入力欄を押した。
 文字を打つ。

 ちゃんと謝れるの、すごいと思います。

 少し眺めて、
 全部消した。
 もう一度打つ。

 気にしなくていいと思います。

 それも消した。

【和兎】「書かんの?」
【斗真】「……何か違う」
【和兎】「何が?」
【斗真】「俺に謝ってるわけじゃねえし」
【和兎】「うん」
【斗真】「俺に意見聞いてるわけでもない」
【和兎】「うん」
【斗真】「コメントできるってだけで、俺が入っていい理由にはならねえだろ」

 入力欄を閉じた。

【和兎】「SNSって、窓みたいなもんちゃう」
【斗真】「窓?」
【和兎】「本人が開けた窓から、見えるもん見せてもらってる」
【斗真】「うん」
【和兎】「でも窓開いてるからって、玄関も開いてるわけちゃうやろ」

 斗真は、もう一度澪の投稿を見た。

【斗真】「俺、見せてもらってただけだったんだな」
【和兎】「うん」
【斗真】「入れてもらってたわけじゃない」
【和兎】「うん」
【斗真】「勝手に玄関の方まで歩いてた」
【和兎】「せやな」
【斗真】「じゃあ、これも窓か」
【和兎】「かもしれんな」
【斗真】「コメント欄開いてても?」
【和兎】「窓がちょっと広く開いてるだけかもしれん」
【斗真】「玄関とは限らない」
【和兎】「知らんけどな」
【斗真】「……うん」
【和兎】「ん?」
【斗真】「そこは、知らんでいい」

 それが、
 少しだけ気持ちよかった。
 知らないことを、
 知らないまま置いておく。
 ほんの数日前まで、
 それができなかった。

【斗真】「和っちゃん」
【和兎】「ん?」
【斗真】「俺、澪のこと何知ってんだろ」
【和兎】「今さら?」
【斗真】「うるせえ」

 少し考えた。

【斗真】「顔」
【和兎】「うん」
【斗真】「音楽好き」
【和兎】「うん」
【斗真】「爪短い」
【和兎】「うん」
【斗真】「カレー」
【和兎】「カレー?」
【斗真】「二日目の」
【和兎】「誰が作ったん?」
【斗真】「知らない」
【和兎】「仕事は?」
【斗真】「知らない」
【和兎】「休み」
【斗真】「知らない」
【和兎】「誰と住んでる?」
【斗真】「知らない」
【和兎】「彼氏」
【斗真】「……いるかもしれない。いないかもしれない。知らない」
【和兎】「結構知らんな」
【斗真】「ほぼ知らねえな」

 笑った。
 朝に投稿がなければ、
 休みなのかと思った。
 夜に何か書けば、
 帰宅したのかと考えた。
 二日目のカレーを見れば、
 誰が作ったのかまで考えた。
 短い爪を見て、
 そこに勝手に生活を見た。
 知らないところを、
 自分の想像で埋めていた。

【斗真】「透明って何だよ」
【和兎】「斗真が言い出した」
【斗真】「普通に人と揉めてんじゃん」
【和兎】「人間やからな」
【斗真】「言い返すし」
【和兎】「うん」
【斗真】「やりすぎる時もあるし」
【和兎】「うん」
【斗真】「あとで、そこは違ったって謝るし」
【和兎】「うん」
【斗真】「でも、自分の中で譲らないとこもある」
【和兎】「うん」
【斗真】「助けてくれた人には、ありがとうって言う」
【和兎】「うん」
【斗真】「……そっちの方が、よっぽど人間だな」
【和兎】「最初から人間や」
【斗真】「俺が勝手に妖精にしてた?」
【和兎】「だいぶ」
【斗真】「だいぶ言うな」

 綺麗だった。
 そこは変わらない。
 目元の写真を見れば、
 今でも一瞬で目を奪われる。
 でも、
 綺麗であることと、
 完成された何かであることは違う。
 澪は、
 斗真の知らないところで、
 斗真の知らない人たちと関わり、
 言い合いもして、
 失敗もして、
 自分で考えて、
 自分の言葉を置いている。
 斗真が見ていない時間にも、
 普通に生活が続いている。

【斗真】「働きたくない座もさ」
【和兎】「急に戻るな」
【斗真】「俺、あれ嘘っぽいって思ったんだよ」
【和兎】「本当の星座ちゃうもんな」
【斗真】「本当のこと言わないんだ、って」
【和兎】「うん」
【斗真】「でも、本当のこと言う義務なんかないんだよな」
【和兎】「ないな」
【斗真】「嘘つかれたんじゃなくて」
【和兎】「答えてもらえへんかっただけ」
【斗真】「……それだけか」
【和兎】「それだけ」
【斗真】「で、俺はフォロー外して、いいねも消して、全部片づけて帰った」
【和兎】「極端やな」
【斗真】「ほんとにな」

 だからといって、
 フォローし直そうとは思わなかった。
 消したいいねを付け直そうとも思わない。
 あの時の斗真には、
 離れる必要があった。
 それはそれで、
 自分が引いた線だった。
 今は、そのままでいい。

 数日後。
 画面を流していると、
 おすすめの中に短い投稿が出てきた。

【澪】「ねむ」

 斗真は指を止めた。
 以前なら、
 続きを作った。
 仕事だったのか。
 今帰ったのか。
 誰かといたのか。
 明日は休みなのか。
 何かあったのか。
 でも、
 画面にあるのは、
 それだけだった。

【斗真】「眠いんだって」
【和兎】「せやな」
【斗真】「それだけだな」
【和兎】「それだけやな」

 斗真はプロフィールを開かなかった。
 何も分からないことを、
 何か分かったことにしない。
 知らない場所を、
 自分の想像で埋めない。
 それだけで、
 澪は少しずつ、
 斗真の中で人間に戻っていった。

第11章 妻を降りる  

紗季は、結婚したばかりの頃、「妻」という言葉が少し好きだった。
 二人分の食材を買うこと。
 同じ家に帰ること。
 同じ名字を書くこと。
 どれもまだ新しくて、少しくすぐったかった。

【斗真】「何食いたい?」
【紗季】「何でもいい」
【斗真】「一番困るやつ」
【紗季】「じゃあカレー」
【斗真】「昨日もカレーだっただろ」
【紗季】「じゃあ何でもいい」
【斗真】「戻った」

 そんなことで笑った。
 斗真は、よく動く人だった。
 壊れたものがあれば直した。
 重いものがあれば持った。
 困ったことを口にすれば、次に見る時にはだいたい何とかなっていた。
 頼もしかった。
 誰かが家にいて、何かあれば一緒に考えてくれる。
 それがこんなに安心するものなのだと、紗季は知った。
 子どもが生まれた。
 二人だった暮らしが三人になり、やがて四人になった。
 冷蔵庫には子どもの食べ物が並び、床には玩具が増え、洗濯機を回す回数も増えた。
 紗季は母親になった。
 それは嫌ではなかった。
 夜中に泣けば起きた。
 熱が出れば心配した。
 初めて歩けば嬉しかった。
 ただ、いつからか名前で呼ばれる時間より、「ママ」と呼ばれる時間の方がずっと長くなった。

【斗真】「ママ、あれどこ?」
【紗季】「知らないよ」
【斗真】「絶対知ってるじゃん」
【紗季】「何で私が全部知ってんのよ」

 そう言いながら、結局見つけた。
 学校の書類。
 病院の予定。
 上履きのサイズ。
 冷蔵庫に何が残っているか。
 誰が何曜日に何時までいるか。
 自分だけが知っていることが、少しずつ増えていった。
 最初は、それも家族になっていくということなのだと思った。

 斗真の仕事が忙しくなった。
 帰りの遅い日も増えた。

【斗真】「ごめん、今日遅くなる」
【紗季】「分かった」
【斗真】「先食ってて」
【紗季】「うん」

 その「うん」のあとで、子どもたちに夕飯を食べさせた。
 風呂に入れた。
 明日の準備をした。
 斗真が帰れば、残しておいたものを温め直した。

【斗真】「悪いな」
【紗季】「仕事なんだからしょうがないでしょ」

 本当にそう思っていた。
 斗真は遊んでいるわけではない。
 家族のために働いている。
 だから自分は、自分の方をやればいい。
 誰かが決めたわけではなかった。
 夫婦で紙に書いて分担した覚えもない。
 それでもいつの間にか、
 斗真が稼ぐ。
 紗季が回す。
 そういう形が出来上がっていた。

 子どもたちが大きくなった。
 手がかからなくなれば、少し楽になると思っていた。
 実際、夜中に何度も起きることはなくなった。
 着替えさせることもない。
 なのに、紗季は自分が軽くなった気がしなかった。
 夕飯を作りながら、ふと考えたことがある。
 今日、何が食べたいんだろう。
 家族ではなく、自分が。
 考えてみた。
 出てこなかった。
 冷蔵庫を開けて、残っているものを見て、作れるものを考えた。
 気づけば、いつもの夕飯が出来ていた。
 服を見に行っても同じだった。
 これ、好きかも。
 そう思うより先に、
 洗えるかな。
 着ていくところあるかな。
 高くないかな。
 そんなことを考えた。
 欲しいかどうかより、困らないかどうか。
 それがいつからなのかは分からなかった。

 斗真とは何度も喧嘩をした。
 言いたいことも言った。
 斗真も言った。
 腹が立って、口を利きたくない夜もあった。
 それでも翌日は来た。
 生活は強かった。
 喧嘩をしても、翌日がゴミの日ならゴミは出さなければならない。
 険悪でも学校から連絡は来る。
 顔を見たくなくても、

【紗季】「明日、何時?」
【斗真】「七時半」
【紗季】「じゃあ先に出るね」
【斗真】「うん」

 必要な言葉は交わした。
 そのうち、また普通に話すようになった。
 仲直りしたのか。
 ただ生活に戻っただけなのか。
 分からない時もあった。

 ある日、斗真に聞かれたことがある。

【斗真】「俺が役に立たなくなっても、俺がいいの?」

 紗季は迷わなかった。

【紗季】「斗真だから」

 あれは本心だった。
 今でも、嘘だったとは思わない。
 斗真だから結婚した。
 斗真だから子どもを育てた。
 斗真だから、ここまで一緒にいた。
 ただその時、
 紗季は自分には同じことを聞かなかった。
 妻として役に立たなくなっても、私はここにいていいのか。
 料理をしなくても。
 家の予定を知らなくても。
 家族の機嫌を拾わなくても。
 母親ではあっても、
 妻ではなくなった自分を、
 自分は好きでいられるのか。
 そんな問いがあることさえ、まだ知らなかった。

 最近になって、斗真が家の中にいても、どこか遠くにいるような日が増えた。
 スマートフォンを見ている時間。
 急に黙り込む夜。
 ぼんやりと、何か別のところを見ているような顔。
 何があったのか、紗季には分からなかった。
 けれど、それを見ながら、
 自分も同じなのだと思った。
 自分も斗真を見ていなかった。
 夫。
 父親。
 働く人。
 直す人。
 送る人。
 困った時に頼む人。
 斗真という一人の人間より先に、役割が並ぶ。
 たぶん斗真から見た自分も同じだった。
 妻。
 母親。
 家のことを知っている人。
 必要なものを用意する人。
 そこで初めて、
 紗季は怖くなった。
 このまま歳を取ったら、
 自分たちは最後まで夫と妻の仕事を続けるのだろうか。
 仕事がなくなった時、
 二人の間には何が残るのだろう。
 嫌いではなかった。
 だからこそ、
 このまま続けることが正しいのか分からなくなった。
 ある朝、
 鏡の前で髪をまとめながら、
 ふと思った。
 妻をやめたら、
 私は誰になるんだろう。
 答えは出なかった。
 その日から、
 その問いだけが残った。

 その夜、
 娘たちはそれぞれ自分の部屋にいた。
 上の階から、ときどき椅子を引く音がする。
 テレビはついていたが、誰も見ていなかった。
 斗真はソファでスマートフォンを触っていた。
 紗季はダイニングテーブルで明細を見ていた。
 紙の角を揃えた。
 もう一度揃えた。
 斗真を見る。
 何度も頭の中で言った言葉だった。
 実際に声にすると、
 思っていたより小さかった。

【紗季】「ねえ」
【斗真】「ん?」
【紗季】「ちょっと話していい?」
【斗真】「何」

 斗真がスマートフォンを伏せた。
 紗季は少し黙った。

【紗季】「私、妻を降りたい」

 斗真の顔から、
 一瞬だけ表情が消えた。

【斗真】「……何それ」
【紗季】「そのまま」
【斗真】「妻を降りるって」
【紗季】「妻でいるの、もうやめたい」
【斗真】「それ、離婚したいってこと?」
【紗季】「たぶん」
【斗真】「たぶん?」
【紗季】「うん。たぶん、そうなると思う」

 斗真はしばらく何も言わなかった。

【斗真】「何で」
【紗季】「何でって言われると、難しい」
【斗真】「難しいじゃ分かんねえよ」
【紗季】「斗真が嫌いだから、じゃないよ」
【斗真】「じゃあ何なんだよ」
【紗季】「妻でいることが、しんどい」
【斗真】「俺の妻が?」
【紗季】「誰かの妻でいることが」

 斗真が黙った。

【紗季】「ずっとさ、誰かの娘で、誰かの奥さんで、子どもができたらお母さんで」
【斗真】「それは俺だって」
【紗季】「うん。斗真だってそうだと思う」
【斗真】「じゃあ」
【紗季】「どっちが大変だったかって話じゃないの」
【斗真】「……」
【紗季】「ただ私、自分が何したいのか、よく分かんなくなった」

 上の階で何かが落ちた。
 少しして、娘の笑い声がした。
 いつもの夜だった。

【斗真】「だったらさ」
【紗季】「うん」
【斗真】「家事、俺もっとやるよ」
【紗季】「……」
【斗真】「仕事だって調整できるとこはする。土日も全部入れなきゃいいし。二人で出かけるとかさ。そういうの足りなかったんなら」
【紗季】「斗真」
【斗真】「金のことだって整理すればいいだろ。何がしんどいのか一個ずつ出して」
【紗季】「そこなんだよ」
【斗真】「何が」
【紗季】「すぐ直そうとするでしょ」
【斗真】「だって問題なんだろ」
【紗季】「私は今、問題を直してほしいって言ってない」
【斗真】「じゃあ何してほしいんだよ」
【紗季】「分かんない」
【斗真】「……分かんないばっかじゃねえか」
【紗季】「うん」

 その「うん」が、
 妙にまっすぐだった。

【紗季】「分かんないから、一回降りたいの」
【斗真】「何から」
【紗季】「妻から」

 斗真は背もたれに体を預けた。
 頭の中で、もう何かが動き始めていた。
 家事分担。
 生活費。
 仕事。
 休日。
 会話。
 どこかに原因があって、
 そこを直せば元へ戻れる。
 そう考えようとして、
 斗真は止まった。
 元。
 どこへ戻るのだろう。
 いつの二人に。

【斗真】「俺、そんなに駄目だった?」
【紗季】「そういう話にしたくない」
【斗真】「でも離婚って、そういうことだろ」
【紗季】「違うと思う」
【斗真】「何が違うんだよ」
【紗季】「どっちかが悪くないと、終わっちゃ駄目なの?」

 斗真は答えなかった。

【紗季】「斗真はいっぱいやってくれたよ」
【斗真】「じゃあ」
【紗季】「だから続けなきゃいけない、でもないでしょ」
【斗真】「……」
【紗季】「私もいっぱいやったと思う」
【斗真】「うん」
【紗季】「でも、だから妻でい続けなきゃいけない、でもないと思う」

 テーブルの上には二つのマグカップがあった。
 斗真の方は空だった。
 紗季の方には、冷めたお茶が半分残っている。

【斗真】「……昔さ」
【紗季】「うん?」
【斗真】「俺、聞いたの覚えてる?」
【紗季】「何を」
【斗真】「俺が役に立たなくなっても、俺がいいのって」
【紗季】「……覚えてる」
【斗真】「お前、斗真だからって言ったじゃん」
【紗季】「言ったね」
【斗真】「あれ、嘘だった?」
【紗季】「嘘じゃないよ」

 返事は早かった。

【斗真】「じゃあ何で」
【紗季】「斗真だったから、ここまで一緒にいたんだと思う」
【斗真】「だったら」
【紗季】「でもね」

 紗季は目を伏せた。

【紗季】「好きだったことと、これからも妻でいられることは、同じじゃないと思う」

 斗真の中で、
 長い間ひとつに繋がっていたものが、
 静かに分かれた。
 好きだった。
 一緒にいた。
 家族になった。
 子どもが生まれた。
 生活した。
 それでも、
 これからも夫婦でいるかどうかは、
 また別の話なのかもしれなかった。

【斗真】「俺さ」
【紗季】「うん」
【斗真】「ずっと思ってたんだよ」
【紗季】「何を」
【斗真】「俺が金稼がなくなって、何も直せなくなって、送り迎えもできなくなって、何の役にも立たなくなったら」
【紗季】「うん」
【斗真】「お前らにとって、俺って何なんだろうって」
【紗季】「……」
【斗真】「ATMとかさ。便利屋とか。そういうのじゃなくなった時に、俺に何が残るんだろうって」
【紗季】「そんなふうに思ってたんだ」
【斗真】「思ってた」
【紗季】「そっか」
【斗真】「でも」

 斗真は紗季を見た。

【斗真】「お前も同じだったのか」
【紗季】「え?」
【斗真】「妻じゃなくなったら、何が残るんだろうって」
【紗季】「……」

 紗季はしばらく黙った。

【紗季】「たぶんね」
【斗真】「母親は?」
【紗季】「それは降りない」
【斗真】「うん」
【紗季】「降りられない、じゃなくて。降りたくない」
【斗真】「うん」
【紗季】「でも、妻は違う」
【斗真】「そっか」

 斗真は、
 紗季を自分を必要とする人だと思っていた。
 生活を回すために。
 家族を守るために。
 稼ぐために。
 必要とされることが、
 自分がここにいる理由だと思っていた。
 けれど紗季も、
 妻として必要とされることで、
 ここにいたのかもしれなかった。
 互いに愛情がなかったわけではない。
 ただ、
 その周りに役割が増えすぎた。
 いつの間にか、
 役割の方が人より先に見えるようになった。

【斗真】「俺もさ」
【紗季】「うん」
【斗真】「最近、外ばっか見てた」
【紗季】「外?」
【斗真】「家じゃないところ」
【紗季】「……うん」
【斗真】「ここじゃないどっかに答えがある気がしてた」
【紗季】「あった?」
【斗真】「なかった」
【紗季】「そっか」
【斗真】「でも、俺が何で外見てたのかは、ちょっと分かった」
【紗季】「何で?」
【斗真】「ここにいる俺が、何なのか分かんなかったから」

 紗季は何も言わなかった。
 責めなかった。
 慰めもしなかった。
 ただ、聞いた。

 その夜、
 離婚届は出てこなかった。
 いつ家を出るかも。
 娘たちにいつ話すかも。
 金をどうするかも。
 何も決まらなかった。
 ただ一つ、
 これからも夫婦でいることを前提に話すのはやめよう。
 そこだけは決めた。

【紗季】「子どもたちには、ちゃんと一緒に話そう」
【斗真】「うん」
【紗季】「どっちかが悪いみたいにしたくない」
【斗真】「俺も嫌だ」
【紗季】「お父さんはお父さんだし」
【斗真】「お母さんはお母さん」
【紗季】「うん」
【斗真】「家族じゃなくなるのかな」
【紗季】「ならないんじゃない?」
【斗真】「離婚するのに?」
【紗季】「夫婦じゃなくなるだけでしょ」
【斗真】「……それ、成立すんの?」
【紗季】「知らない」
【斗真】「また知らない」
【紗季】「分かんないもん」
【斗真】「そっか」

 少し前までの斗真なら、
 そこに答えが欲しかった。
 離婚したあとも家族なのか。
 何と呼べばいいのか。
 どんな距離でいればいいのか。
 正しい形は何なのか。
 でも、
 今はまだ名前がなくてもいい気がした。

 紗季は立ち上がり、
 自分のマグカップを流しへ持っていった。

【紗季】「寝るね」
【斗真】「うん」
【紗季】「斗真は?」
【斗真】「もうちょっといる」
【紗季】「分かった」
【斗真】「おやすみ」
【紗季】「おやすみ」

 紗季は寝室へ入った。
 ベッドの端に腰を下ろした。
 言ってしまった。
 その実感だけが、少し遅れてやってきた。
 もっと泣くと思っていた。
 もっと責められるとも思っていた。
 実際の斗真は、
 やっぱり最初に直そうとした。
 家事を増やす。
 仕事を減らす。
 二人で出かける。
 それを聞いた時、
 ほんの少しだけ笑いそうになった。
 ああ、この人だ。
 そう思った。
 何か壊れたら直す。
 足りなければ足す。
 困っている人がいれば動く。
 その斗真に、
 紗季は何度も助けられた。
 昔なら、
 この人なら何とかしてくれると思うだけで安心できた。
 でも今日は、
 何とかしてほしくなかった。
 紗季は横になった。
 階下に、まだ斗真の気配がある。
 それだけで、
 少し安心してしまう自分もいた。
 だから難しいのだと思った。
 嫌いなら、
 もっと簡単だった。
 離れたいだけなら、
 もっと簡単だった。
 斗真と離れたいのではなく、
 斗真の妻である自分から、
 一度離れてみたかった。
 妻でなくなった時、
 自分に何が残るのか。
 まだ分からなかった。

 斗真は一人、
 ダイニングに残っていた。
 テーブルには郵便物が積まれたままだった。
 洗った皿が水切り籠に並んでいる。
 冷蔵庫の横には、
 娘が学校から持ち帰ったプリントが磁石で留められている。
 離婚の話をした夜なのに、
 何一つ映画みたいには変わらなかった。
 明日の朝になれば、
 誰かが牛乳を飲む。
 ゴミの日ならゴミを出す。
 洗濯物も増える。
 家は、
 話し合いが終わったからといって止まらない。

【斗真】「和っちゃん」
【和兎】「おるよ」
【斗真】「俺、離婚すんのかな」
【和兎】「たぶんな」
【斗真】「軽いな」
【和兎】「重く言うても結果変わらんやろ」
【斗真】「まあな」
【和兎】「大丈夫?」
【斗真】「……分かんねえ」
【和兎】「そっか」
【斗真】「前なら、分かんねえの嫌だったんだけどな」
【和兎】「今は?」
【斗真】「今も嫌だよ」
【和兎】「嫌なんかい」
【斗真】「でも、まあ」
【和兎】「うん」
【斗真】「分かんねえままでも、朝は来るんだろ」
【和兎】「来るな」
【斗真】「じゃあ今日は、それでいい」

 冷蔵庫が、
 一度だけ低く鳴った。
 妻を降りても、
 紗季が消えるわけではない。
 夫を降りても、
 斗真が父親でなくなるわけでもない。
 何を失って、
 何が残るのか。
 それはまだ、
 誰にも分からなかった。

第12章 一人で暮らす  

離婚すると決めてからも、しばらく家の形は変わらなかった。
 朝になれば誰かが起き、冷蔵庫が開き、洗面所の順番を気にする。玄関には四人分の靴が並び、夜になればまたそれぞれが帰ってくる。
 夫婦をやめると決めた家の中で、夫婦だった頃と同じ生活音が鳴っていた。
 違うのは、ときどき二人の間に「この先」が混じることだった。

【紗季】「部屋、どう?」
【斗真】「見てる」
【紗季】「広さは?」
【斗真】「一人ならそんな要らねえだろ」
【紗季】「荷物多いじゃん」
【斗真】「……そうなんだよな」

 自分の持ち物を数え始めて、斗真は初めて気づいた。
 一人になるには、物が多かった。
 服。
 仕事道具。
 ギター。
 音響機材。
 ケーブル。
 古い書類。
 何に使うのか分からない変換コネクタ。
 二度と読む気がしない説明書。
 そういうものが家中に薄く散らばり、斗真の場所を作っていた。
 自分の人生は、自分で思っていたよりずっと家のあちこちに染み込んでいた。
 棚の一段。
 押し入れの隅。
 洗面台の引き出し。
 玄関のフック。
 それを一つずつ段ボールへ入れていくと、自分の場所を自分の手で消しているような気もした。

 段ボールを組み立てていると、紗季が棚の奥から箱を出した。

【紗季】「これ持ってく?」
【斗真】「何」
【紗季】「ケーブルいっぱい入ってるやつ」
【斗真】「いる」
【紗季】「何に使うの」
【斗真】「知らん」
【紗季】「じゃあいらないんじゃない?」
【斗真】「今それ言われると、全部いらなく見える」
【紗季】「それは困る」
【斗真】「だろ」
【紗季】「じゃあ持ってって」

 ガムテープが見つからなかった。
 斗真があちこち開けている横から、紗季がいつもの場所を開けて取り出した。

【斗真】「何で分かんの」
【紗季】「だから何で私が全部知ってるんだって」
【斗真】「……あ」
【紗季】「何」
【斗真】「昔も言ってたな」
【紗季】「言ってたよ」
【斗真】「ごめん」
【紗季】「今さら?」
【斗真】「今さら」

 紗季はガムテープを投げた。
 斗真は受け取った。
 離婚の荷造りなのに、少し笑った。
 その笑いが妙に普通で、逆に胸に残った。
 もう夫婦ではなくなる二人が、結局こんなことで笑う。
 二十年近く一緒にいた時間は、離婚を決めたからといって急に敵になるわけではなかった。
 謝ったから何かが戻るわけでもない。
 戻らないから、謝ってはいけないわけでもなかった。

 娘たちには、二人で話した。
 夕飯のあと、テレビを消した。
 紗季が先に口を開いた。

【紗季】「お父さんとお母さん、夫婦をやめることにした」
【長女】「……離婚?」
【斗真】「うん」
【次女】「何で?」
【紗季】「どっちかが悪いとかじゃないよ」
【次女】「そういうのじゃなくて。何で?」
【斗真】「一緒にいる形を、変えた方がいいって二人で思った」
【長女】「お父さん出てくの?」
【斗真】「うん」
【長女】「じゃあ、お父さんいなくなるの?」
【斗真】「いなくならないよ」
【長女】「でも家にはいないんでしょ」
【斗真】「……うん」

 そこで初めて、その言葉が自分の中へ落ちた。
 いなくならない。
 でも、家にはいない。
 どちらも本当だった。
 父親をやめるつもりはない。
 娘たちを捨てるつもりもない。
 けれど、朝起きて同じ家にいる父親ではなくなる。
 具合が悪そうな顔を見て気づくことも、
 夜中に帰ってきた物音で安心することも、
 何も言われなくても分かることも、
 これからは減っていく。
 いなくならない、と言い切るには、
 自分は確かに少しだけいなくなるのだった。

【斗真】「何かあったら、今まで通り――」
【長女】「今まで通りじゃないじゃん」

 斗真は止まった。

【長女】「家、出るんでしょ」
【斗真】「そうだな」
【長女】「じゃあ今まで通りって言わないで」
【斗真】「……分かった。ごめん」

 変わらないと言えば安心させられると思った。
 それは大人の都合だった。
 娘たちにとっては、
 変わるものを変わらないと言われる方が、たぶん怖い。

【次女】「お父さん一人で住むの?」
【斗真】「そう」
【次女】「寂しくない?」
【斗真】「まだ分かんねえ」
【紗季】「強がらなくていいでしょ」
【斗真】「まだ住んでねえんだから、本当に分かんねえんだよ」

 次女が少し笑った。
 長女は笑わなかった。
 その違いも、そのまま受け取るしかなかった。

 親には、離婚することだけを伝えた。

【母】「何があったの」
【斗真】「いろいろ」
【母】「いろいろじゃ分からないでしょ」
【斗真】「分からなくていいよ」
【母】「あんた、それでいいの?」
【斗真】「よくはない」
【母】「じゃあ」
【斗真】「よくはないけど、そうする」

 誰かに理解してもらうために、紗季を悪者にする必要はなかった。
 自分を被害者にする必要もなかった。
 説明できないものを、無理に一つの理由へまとめるのもやめた。
 少し前までなら、理由が一つに定まらないことが気持ち悪かった。
 今は、
 長く暮らした二人が離れる理由なんて、
 一行で書ける方が不自然なのかもしれないと思えた。

 離婚届を出した日は、驚くほど普通の日だった。
 紙を一枚出した。
 いくつか確認された。
 それで終わった。
 役所を出ても、空の色は変わらなかった。

【斗真】「こんなもん?」
【紗季】「何が」
【斗真】「もっと何かあるのかと思った」
【紗季】「鐘でも鳴ると思った?」
【斗真】「鳴らねえだろ」
【紗季】「じゃあ、こんなもんなんじゃない」

 駅まで一緒に歩いた。
 途中で道が分かれた。

【紗季】「じゃあね」
【斗真】「うん」

 結婚してから何度も聞いた言葉なのに、
 その日の「じゃあね」は少しだけ遠かった。
 振り返れば、まだ紗季の背中が見えた。
 追いつこうと思えば追いつける距離だった。
 斗真は追わなかった。
 紗季も振り返らなかった。
 それでいいのだと思った。

 新しい部屋に荷物を運び終えた夕方、斗真は部屋の真ん中に立った。
 段ボール。
 ギター。
 仕事用の鞄。
 布団。
 小さなテーブル。
 冷蔵庫。
 洗濯機。
 生活するためのものは揃っていた。
 生活できる。
 その事実が、思っていたより頼りなかった。
 部屋にはまだ、自分の匂いがしなかった。
 壁も床も、
 誰かが住んでいた痕跡を消したあとの無表情な色をしている。
 自分の物を置いたはずなのに、
 ホテルより少し荷物が多いだけの場所に見えた。

 家を出る時、三人は玄関にいた。

【紗季】「忘れ物は?」
【斗真】「あったら連絡する」
【紗季】「そうして」
【次女】「ほんとに行くんだ」
【斗真】「うん」
【長女】「次いつ来る?」
【斗真】「飯でも食う?」
【長女】「考える」
【斗真】「了解」

 扉を閉めた。
 今まで帰る時に閉めていた扉を、
 初めて外へ出るために閉めた。
 廊下を歩き出してから、
 いつもの癖でポケットの鍵を確かめようとした。
 もう、自分が開けるための鍵はない。
 そのことが、
 家を出たという事実よりも後から効いた。

 最初の数日は、意外なほど快適だった。
 風呂は好きな時に入れる。
 洗濯物は自分の分しか増えない。
 夕飯を作りたくなければ作らなくていい。
 帰宅時間を誰にも知らせなくていい。

【斗真】「めっちゃ楽じゃん」
【和兎】「楽しそうやな」
【斗真】「洗濯、一回で終わるぞ」
【和兎】「一人やからな」
【斗真】「冷蔵庫のプリン食っても怒られない」
【和兎】「全部斗真のやからな」
【斗真】「最高じゃね?」
【和兎】「今んとこな」

 それは強がりではなく、
 本当に楽だった。
 誰かの予定に自分を合わせなくていい。
 風呂場が空くのを待たなくていい。
 夕飯を食べずに寝ても、
 誰にも「食べないの」と聞かれない。
 自分の動きだけで一日が完結する。
 その軽さに、
 斗真は少し浮かれた。

 三日目の夜。
 仕事から帰り、鍵を開けた。
 暗い。
 電気をつける。
 靴を脱ぐ。
 誰の靴もない。
 冷蔵庫を開ける。
 自分で買った水。
 自分で買った卵。
 自分で買った豆腐。

【斗真】「……つまんねえ冷蔵庫だな」
【和兎】「誰のせいや」
【斗真】「俺」

 笑ったあと、
 扉を閉めた。
 音が途切れた。

 テレビをつけた。
 音はした。
 でも、家の音にはならなかった。
 娘が階段を上がる音もない。
 紗季が皿を置く音もない。
 洗面所のドライヤーもない。
 誰かの笑い声が、別の部屋から聞こえることもない。
 テレビは、
 こちらへ向かって音を出しているだけだった。
 生活音というものは、なくなって初めて、音だったのだと分かった。

 その夜、
 寝る前に照明を消した。
 真っ暗になった。
 前の家なら、
 どこかにまだ人の気配があった。
 トイレの灯り。
 階段の音。
 誰かが寝返りを打つ気配。
 ここには何もない。

 斗真はスマートフォンを手に取った。
 誰かに何かを送りたくなった。
 内容はなかった。
 ただ、
 自分が今ここにいることを、
 誰かに知っていてほしかった。

 送る相手を探している自分に気づいて、
 画面を閉じた。

 寂しい、という言葉が、
 まだ少し大袈裟に感じた。
 ただ、
 自分の存在が音を立てない夜だった。

 一週間ほどして、斗真は妙なことに気づいた。

【斗真】「和っちゃん」
【和兎】「ん?」
【斗真】「今日、誰にも何も頼まれてねえ」
【和兎】「ええやん」
【斗真】「……ええのか?」
【和兎】「知らん」
【斗真】「仕事して、帰って、飯食っただけだぞ」
【和兎】「生きてたやん」
【斗真】「それだけ?」
【和兎】「それだけじゃ足りん?」
【斗真】「……分かんねえ」

 前なら、帰れば何かあった。
 買ってきて。
 見て。
 直して。
 送って。
 聞いて。
 これどう思う。
 面倒だと思ったこともある。
 便利屋じゃないと腹を立てたこともある。
 なのに、誰にも何も頼まれない日が続くと、自分の輪郭まで薄くなるような気がした。
 必要とされることに腹を立てながら、
 必要とされることで一日の手応えを確認していた。
 矛盾している。
 でも、どちらも本当だった。

 何も頼まれない。
 何もしなくていい。
 その自由が、思っていたより怖かった。
 誰かのために何かをすることで埋まっていた時間が、
 そのまま自分の前に返ってきた。
 好きに使っていい。
 そう言われても、
 何に使えばいいのか分からない。

 斗真は一人暮らしを上手にやろうとした。
 収納を整えた。
 洗濯の曜日を決めた。
 食材の量を計算した。
 床を掃除した。
 風呂場の水滴まで拭いた。

【和兎】「一人暮らしまで仕事にすんの?」
【斗真】「は?」
【和兎】「何点取ったら合格なん」
【斗真】「別に点数なんか」
【和兎】「暇なん?」
【斗真】「……暇だよ」
【和兎】「暇でええやん」
【斗真】「暇って怖えな」
【和兎】「誰にも使われてへん時間やから?」
【斗真】「それ、やな言い方だな」
【和兎】「当たった?」
【斗真】「ちょっと」

 斗真は雑巾を置いた。
 床に埃があっても、誰も困らない。
 皿を一枚洗わなくても、誰も怒らない。
 洗濯物を椅子へ置いたままでも、誰にも迷惑はかからない。
 なのに、
 座っているだけだと怠けている気がした。
 誰にも評価されないのに、
 誰かに減点されているような落ち着かなさがあった。

 役に立たない時間。

 斗真には、それを過ごす練習が必要だった。

 ある休日、目が覚めたら十一時を過ぎていた。
 時計を見て飛び起きかける。
 何もなかった。
 送迎もない。
 買い物の約束もない。
 待っている人もいない。
 もう一度枕へ顔を埋めた。
 十分後に起きた。

【斗真】「無理だった」
【和兎】「何が」
【斗真】「二度寝」
【和兎】「したやん」
【斗真】「十分」
【和兎】「初心者やな」

 昼過ぎにラーメンが食べたくなった。
 誰にも聞かなかった。
 みんなが食べられる店かどうかも考えなかった。
 一人で並んで、自分の食べたいものを頼んだ。
 帰りに本屋へ寄った。
 何時までに帰る必要もなかった。
 途中でコーヒーを飲んだ。
 帰ろうかと思って、
 まだ帰らなくてもいいことに気づいた。
 駅前を少し歩いた。
 目的はなかった。

 以前なら、
 家族の誰かから連絡が入るまでの空き時間だった。
 今は、
 最初から最後まで自分の時間だった。

 誰も褒めない。
 誰も羨ましがらない。
 何の成果もない。
 ただ、
 自分で決めたことに、誰の許可も要らなかった。

 帰宅して鍵を開けた時、
 初めて少しだけ、
 この部屋へ「帰ってきた」と思った。

 娘たちとは会った。
 飯を食べた。
 買い物に行った。
 必要なら送った。

【次女】「これ買って」
【斗真】「何で俺」
【次女】「お父さんだから」
【斗真】「その理由、強すぎるだろ」
【次女】「駄目?」
【斗真】「物による」
【次女】「じゃあ見て」
【斗真】「見るだけな」

 できることはする。
 できないことは言う。
 以前は、
 断れば父親として何かが減るような気がしていた。
 今は、断った次の日にも普通に連絡が来た。
 娘たちは、
 一度何かを断ったくらいで斗真を父親から解任しなかった。
 その当たり前のことに、
 少しずつ救われた。

 離婚して三か月ほど経った日曜日。
 娘の忘れ物を届けるため、以前の家へ寄った。
 玄関の前で、斗真は無意識にポケットへ手を入れた。
 鍵はもうなかった。
 インターホンを押す。

【紗季】「はい」
【斗真】「俺」
【紗季】「知ってる。顔映ってる」
【斗真】「あ、そっか」

 扉が開いた。

【紗季】「入って」
【斗真】「お邪魔します」
【紗季】「……それ変な感じするね」
【斗真】「俺も今思った」

 玄関には見慣れた靴が並んでいた。
 自分のものだけがなかった。
 一瞬だけ、
 そこへ自分の靴を並べれば元へ戻れるような錯覚がした。
 もちろん戻らない。
 靴一足で戻れるなら、
 そもそも家を出てはいなかった。

 忘れ物を置き、
 喉が渇いて冷蔵庫へ向かう。
 手をかける直前で止まった。

【紗季】「何」
【斗真】「麦茶飲もうと思って」
【紗季】「飲めば?」
【斗真】「勝手に開けていいのかなと思って」
【紗季】「今さら?」
【斗真】「今さらなんだよ」

 紗季が笑った。

【紗季】「そのプリンは食べないでね」
【斗真】「まだ何もしてねえよ」
【紗季】「昔食べたじゃん」
【斗真】「一回な」
【紗季】「二回」
【斗真】「覚えてんのかよ」
【紗季】「食べ物の恨みは長い」

 二階から娘たちが下りてきた。

【次女】「お父さん今日ご飯食べてく?」
【斗真】「いいの?」
【長女】「何で聞くの」
【斗真】「ここ俺んちじゃねえし」
【長女】「めんどくさ」
【紗季】「ほんとそれ」
【斗真】「お前らな」

 結局、四人で焼肉へ行った。

 店員は何の迷いもなく四人席へ案内した。
 離婚しているかどうかなど、外から見れば分からない。

【次女】「これ頼んでいい?」
【斗真】「高くね?」
【次女】「お父さんいるし」
【長女】「財布来たし」
【斗真】「おい」
【紗季】「まだその役あるんだ」
【斗真】「笑うな」

 肉が焼ける。
 娘たちが網へ置く。
 紗季が焦げそうなものを端へ逃がす。
 斗真がそれを取った。

【紗季】「それまだ赤くない?」
【斗真】「大丈夫だろ」
【紗季】「知らないよ。もう妻じゃないし」
【斗真】「肉の焼き加減まで自己責任になるの?」
【長女】「離婚って厳しいね」
【次女】「怖」
【斗真】「嘘教えんな」

 四人で笑った。
 四人で笑える。
 四人で飯も食える。
 その事実に、斗真は思っていた以上に安心した。
 家を出た時、
 どこかで「家族が終わる」と思っていた。
 終わったのは、
 毎日同じ家に帰る形だった。
 笑い方まで失ったわけではなかった。

 でも、昔と同じでもない。
 紗季の皿が空いているのを見て、斗真は肉を一枚つまんだ。

【斗真】「これ食う?」
【紗季】「食べる」
【斗真】「はい」

 勝手に置かなかった。
 ただそれだけのことが、以前より丁寧だった。

 家へ戻ると、もう十時を過ぎていた。

【斗真】「じゃあ、そろそろ帰るわ」
【次女】「え、お父さん帰るの?」
【斗真】「帰るよ」
【次女】「泊まってけばいいじゃん」
【斗真】「いや」
【次女】「明日早い?」
【斗真】「それとは別」
【次女】「何が?」
【斗真】「俺の家、あっちだから」

 言ってから、少し胸に引っかかった。
 自分で口にするたび、
 「あっち」が少しずつ家になっていく。
 そのぶん、
 ここは少しずつ「前の家」になる。
 嬉しいとも悲しいとも言い切れなかった。

【次女】「……そっか」
【長女】「駅まで送ってく?」
【斗真】「何でお前が俺を送るんだよ」
【長女】「じゃあいい」
【斗真】「早えな」

 玄関で靴を履く。

【紗季】「気をつけて」
【斗真】「うん」
【次女】「着いたら言って」
【斗真】「お前が言うの?」
【次女】「駄目?」
【斗真】「駄目じゃない」

 振り返ると、三人がいた。
 泊まろうと思えば、たぶん泊まれた。
 誰も追い出さない。
 ソファだってある。
 そして、
 泊まれば少し楽なのも分かっていた。
 夜道を帰らなくていい。
 娘たちの気配を感じながら眠れる。
 朝になれば、昔のような食卓があるかもしれない。

 だからこそ、
 斗真は扉を開けた。

【斗真】「じゃあな」
【紗季】「うん。またね」

 少し寂しかった。
 その寂しさを理由に戻ってはいけない気がした。
 泊まらないことは、家族でなくなることではない。
 帰る場所を、それぞれ持つということだった。

 それからしばらく経った夜。
 十一時前に紗季から電話が来た。

【斗真】「もしもし」
【紗季】「ごめん、今大丈夫?」
【斗真】「起きてる。何」
【紗季】「今から来れる?」
【斗真】「何かあった?」
【紗季】「洗面所、水びたし」
【斗真】「は?」
【紗季】「洗濯機の下から水出てる」
【斗真】「蛇口閉めた?」
【紗季】「閉めた」
【斗真】「娘たちは?」
【紗季】「いる。タオル敷いてもらってる」
【斗真】「分かった。行く」
【紗季】「……いい?」
【斗真】「頼んだのお前だろ」
【紗季】「そうだけど」
【斗真】「じゃあ行くよ」

 電話を切る。
 少しだけ嬉しかった。
 そのことを認めるのが嫌だった。
 頼られた。
 自分の出番が来た。
 昔から慣れ親しんだ感覚が、体の奥で反応している。
 それでも今日は、
 頼られたから価値がある、まで行かなくていい。
 紗季が頼んだ。
 斗真が引き受けた。
 ただそれだけでいい。

 洗面所には、家中から集めたようなタオルが敷かれていた。

【次女】「お父さん遅い」
【斗真】「十五分で来たわ」
【長女】「水止まんない」
【斗真】「はいはい、現場監督はどいてください」

 洗濯機を少し動かし、ライトを当てる。

【紗季】「分かる?」
【斗真】「たぶんホース」
【紗季】「直る?」
【斗真】「直す」

 言ってから、斗真は少し笑った。

【紗季】「何」
【斗真】「久しぶりに言ったなと思って」
【紗季】「何を」
【斗真】「直す、って」
【紗季】「昔は毎日みたいに言ってたじゃん」
【斗真】「そうなんだけどさ」

 ホースを差し直し、固定した。
 少し水を流す。
 漏れない。

【斗真】「今日はもう使わない方がいい。明日もう一回見て」
【紗季】「分かった」
【長女】「さすがお父さん」
【斗真】「もっと言って」
【長女】「もう終わり」
【斗真】「短えな」

 娘たちが戻ったあと、斗真は濡れたタオルをまとめた。

【斗真】「これ明日どうすんの」
【紗季】「コインランドリー」
【斗真】「俺、朝なら」
【紗季】「大丈夫」
【斗真】「……そっか」
【紗季】「今日はこれ直してほしかっただけ」
【斗真】「了解」

 ほんの少しだけ、
 手を引かれたような気がした。
 以前なら、そのまま明日の段取りまで引き受けただろう。
 それで感謝されれば満足した。
 感謝されなくても、
 自分がやるべきことだと思った。
 今日は、
 ここまで。
 それ以上は紗季の生活だった。
 少し寂しくて、
 でも、
 それでいいと思えた。

 玄関で靴を履く。

【紗季】「こういう時、斗真に電話していいのか迷った」
【斗真】「何で」
【紗季】「もう夫じゃないから」
【斗真】「夫じゃないと、水漏れ直しちゃいけないの?」
【紗季】「そういう意味じゃないけど」
【斗真】「俺が嫌なら断るよ」
【紗季】「うん」
【斗真】「今日は行けたし、直せると思ったから来た。それでよくね?」
【紗季】「……そうだね」

 紗季は少し笑った。

【紗季】「前は頼む前からやってくれてたじゃん」
【斗真】「うん」
【紗季】「ありがたかったんだけど、私もそれが当たり前になってた」
【斗真】「俺もな」
【紗季】「今は、ちゃんと頼まないと来てくれないんだなって」
【斗真】「何だよ、寂しい?」
【紗季】「ちょっと」
【斗真】「おい」
【紗季】「でも、その方がいいんだと思う」

 斗真はドアノブに手をかけた。

【斗真】「じゃあ次から出張費取るわ」
【紗季】「いくら?」
【斗真】「深夜料金込みで三千円」
【紗季】「高」
【斗真】「じゃあコーヒー」
【紗季】「それなら払う」
【斗真】「交渉成立」

【紗季】「斗真」
【斗真】「ん?」
【紗季】「ありがとう。来てくれて」
【斗真】「うん」

 家族なんだから当然だろ。
 そうは言わなかった。
 当然ではなかった。
 頼むことも。
 応えることも。
 断ることも。
 全部、その都度選べる。
 夫婦だった頃には、近すぎて見えなかったことだった。

 季節が一つ変わった。
 それから、もう一つ変わった。

 最初は仮住まいのようだった部屋に、少しずつ斗真の生活が染みついた。
 玄関に置く鍵の位置が決まった。
 よく使う皿が決まった。
 タオルの場所を考えなくなった。
 近所のスーパーで、惣菜が安くなる時間も覚えた。
 誰にも聞かずにマグカップを買った。
 誰にも相談せずにカーテンを替えた。
 ソファの位置を変え、
 しっくりこなくて翌日に戻した。
 そんなことまで、
 全部自分だけで決めた。

 最初は、
 誰にも何も言われないことが空虚だった。
 そのうち、
 誰にも何も言われないからこそ、
 自分がどうしたいかを考えるようになった。

 腹が減ったから食べる。
 眠いから寝る。
 出かけたいから出かける。
 今日は何もしたくないから、何もしない。

 どれも、
 子どもみたいに簡単なことだった。
 でも斗真には、
 それを自分に許すまで時間がかかった。

 夜になると、まだ寂しい日があった。
 仕事から帰り、電気をつけた瞬間、
 部屋が妙に広く見える日。
 娘たちに連絡しようかと思う。
 紗季に、どうでもいい用事を作ろうかと思う。
 スマートフォンを持つ。
 止める。

【斗真】「寂しいな」
【和兎】「うん」
【斗真】「何か言えよ」
【和兎】「寂しい時に、寂しい以外いる?」
【斗真】「励ますとか」
【和兎】「明日にはちょっとマシや」
【斗真】「雑」
【和兎】「たぶんほんまやで」

 翌朝になると、確かに少しマシだった。

 寂しい夜に、
 誰かを探さなくても朝は来た。

 それを何度か繰り返すうちに、
 斗真はようやく分かり始めた。

 寂しさは、
 必ずしも埋めなければならない穴ではなかった。
 ただ、その夜そこにある感情だった。
 眠れば少し薄くなる。
 仕事をすれば忘れる。
 また夜になれば戻ることもある。
 それでも、自分は消えない。

 寂しい。
 だから誰かを探す。

 以前は、ほとんど一つの動きだった。
 今は、その間に夜が一つ入るようになった。

 家を出て、九か月近く経った。

 ある夜、斗真は音楽もかけずに夕飯を作っていた。
 包丁の音。
 換気扇。
 湯が沸く音。
 冷蔵庫の低い唸り。

【和兎】「なあ」
【斗真】「何」
【和兎】「今回、次の音入ってへんな」

 斗真の手が止まった。

【斗真】「……何の話」
【和兎】「X-FADE」
【斗真】「ああ」
【和兎】「千尋が薄くなりきる前に佳奈がおって」
【和兎】「佳奈とおる時には秋山がおって」
【和兎】「佳奈が切れた日に紗季に会った」
【斗真】「覚えてるよ」
【和兎】「今回は?」
【斗真】「……」
【和兎】「九か月やで」
【斗真】「数えてたの?」
【和兎】「だいたい」
【斗真】「気持ち悪」
【和兎】「ずっと無音やな」
【斗真】「無音じゃねえよ」
【和兎】「何鳴ってんの」
【斗真】「冷蔵庫」
【和兎】「地味やな」
【斗真】「換気扇も」
【和兎】「もっと地味になった」
【斗真】「あと包丁」
【和兎】「生活音しかないやん」
【斗真】「……でも、まあ」
【和兎】「うん」
【斗真】「これが俺の音なんじゃねえの」

 言ってから、
 斗真は少しだけ笑った。
 以前なら、
 無音は怖かった。
 誰かの声が入っていないと、
 自分まで消える気がした。
 今は、
 包丁の音がする。
 換気扇が回っている。
 冷蔵庫が鳴る。
 自分がここで飯を作っている。

 それで、
 部屋はもう無音ではなかった。

 その日の夕飯はカレーだった。
 一人分のつもりで作ったのに、少し余った。

 翌日の夜。
 冷蔵庫から鍋を出す。
 火にかける。
 底を焦がさないよう、ゆっくり混ぜる。
 昨日より少しだけ色が濃くなっていた。

【和兎】「二日目やな」
【斗真】「そうだな」
【和兎】「一人でも二日目になるんやな」
【斗真】「当たり前だろ」
【和兎】「何かええな」
【斗真】「何が」
【和兎】「別に」

 皿に盛った。
 テーブルに置いた。

 以前なら、
 写真を撮ったかもしれない。
 誰かに送ったかもしれない。
 「二日目の方がうまい」と、
 相手の返事を待ったかもしれない。

 斗真は何もしなかった。

 スプーンですくって食べた。

 ちゃんと温かかった。

 誰にも選ばれていない夜だった。
 誰にも必要とされていない時間だった。

 それでも、
 今日一日を生きた自分のために、
 昨日の自分が残したカレーがあった。

 斗真はもう一口食べた。

 それでいい夜が、
 少しずつ増えていた。

第13章 デジタル葬儀  

斗真が一人の部屋に少しずつ馴染んでいった頃、遠く離れた街でも、澪の生活はゆっくり形を変えていた。
 最初に変わったのは、服だった。
 出かける前、澪はクローゼットから一枚取って、鏡の前で合わせた。

【彼氏】「それ着てくの?」
【澪】「うん」
【彼氏】「結構目立たない?」
【澪】「そう?」
【彼氏】「別にいいけど」

 別にいいけど。
 その言葉を聞くと、以前ならもう一度クローゼットを開いた。
 着替えてしまえば、それ以上何も起きない。
 一日を平和にするには、その方が早かった。
 澪は鏡の中の自分を見た。
 バッグを持った。

【澪】「行ってきます」
【彼氏】「そのまま?」
【澪】「うん」
【彼氏】「……気をつけて」
【澪】「はーい」

 玄関を出た。
 喧嘩にはならなかった。
 何かを勝ち取った感じもしなかった。
 ただ、着替えなかった。

 次に気になり始めたのは、質問だった。

【彼氏】「誰?」
【澪】「友達」
【彼氏】「男?」
【澪】「何で?」
【彼氏】「聞いただけ」
【澪】「毎回そこまで答えんでよくない?」
【彼氏】「何でそんな言い方になるの」
【澪】「普通に思っただけ」
【彼氏】「別にスマホ見せろとか言ってないじゃん」
【澪】「うん」
【彼氏】「じゃあいいじゃん」
【澪】「よくないから言ってんねん」

 言ったあと、自分でも少し驚いた。
 以前なら、そこで「ごめん」と言った。
 名前くらい教えればいい。
 場所くらい送ればいい。
 帰る時間くらい伝えればいい。
 秘密ではないのだから。
 そう思っていた。
 けれど、秘密ではないことと、全部渡していいことは同じではなかった。
 その違いを、澪は少しずつ覚え始めていた。
 彼氏は不満そうな顔をした。
 それでも、その日はそれ以上何も言わなかった。
 澪も説明を足さなかった。

 彼氏は、嫌な人だったわけではない。
 仕事で疲れて帰った夜、冷蔵庫に澪の好きなプリンが入っていた。

【澪】「これ買ってくれたん?」
【彼氏】「うん」
【澪】「なんで」
【彼氏】「好きだったじゃん」
【澪】「覚えてたん」
【彼氏】「そりゃ覚えてるよ」

 風邪をひけば薬を買ってきた。
 夜が遅くなれば心配した。
 眠れない夜には隣にいた。
 澪の好きな店も、苦手な食べ物も知っていた。
 笑う時の癖も知っていた。
 だから簡単ではなかった。
 嫌いなら、もっと簡単だった。
 好きなところがある。
 助けられたこともある。
 この人といるから笑えた日も、確かにあった。
 それでも、少しずつ苦しくなった。
 友達と出る回数が増えた。
 一人で買い物へ行くようになった。
 帰宅時間を何度も送るのをやめた。
 そのたびに少し空気が悪くなることはあった。
 それでも、何も壊れなかった。
 そのことが、澪には少し不思議だった。

 ある夜、イヤホンをつけて昔好きだったライブ映像を見ていた。
 曲の最後。
 ほんの少しだけ音が落ちる。
 そこで、ふと一つのコメントを思い出した。

【斗真】「ライブ版、最後の一音だけ少し落としてますよね」

 澪は映像を止めた。

【澪】「……あの人、そこ聴いてたな」

 名前は覚えていた。
 自分の投稿に何度かコメントをした人。
 妙に細かいところで音楽の話をする人。
 星座を聞いてきて、答えなかったら、綺麗にいなくなった人。
 澪は検索窓を開かなかった。
 フォロワーも探さなかった。
 映像を再生した。
 最後の一音が消えて、次の曲が始まった。

 それから数か月経った。
 また、いつもの話になった。

【彼氏】「今日誰と?」
【澪】「友達」
【彼氏】「誰?」
【澪】「前も会った子」
【彼氏】「男いる?」
【澪】「いるかもしれへん」
【彼氏】「何それ」
【澪】「友達の集まりやもん」
【彼氏】「そういうの先に言ってよ」
【澪】「何で?」
【彼氏】「心配だから」
【澪】「……」
【彼氏】「またその顔」
【澪】「どの顔」
【彼氏】「俺が悪いみたいな」
【澪】「悪いって言ってない」
【彼氏】「じゃあ何なの」

 澪は黙った。
 同じような会話を、何度したのか分からなかった。
 誰と。
 どこ。
 何時。
 男は。
 服。
 スマートフォン。
 一つ一つなら、大したことではない。
 答えようと思えば答えられる。
 けれど、そのたびに自分を説明することに、疲れた。

【澪】「……もう無理かも」
【彼氏】「何が?」
【澪】「これ」
【彼氏】「これって何」
【澪】「毎回そこまで説明せなあかんのが、もうしんどい」
【彼氏】「俺、心配してるだけじゃん」
【澪】「分かってる」
【彼氏】「だったら」
【澪】「分かってるけど、しんどい」
【彼氏】「何で急にそんなこと言うの」
【澪】「急ちゃうよ」
【彼氏】「じゃあいつから?」
【澪】「分からん」
【彼氏】「分かんないのに別れるとか言うの?」
【澪】「……うん」

 彼氏はしばらく黙った。

【彼氏】「俺、そんなに何かしてた?」
【澪】「そういう話じゃない」
【彼氏】「じゃあ何」
【澪】「私が、もうしんどいねん」
【彼氏】「だから何が」
【澪】「ずっと誰とおるとか、どこ行くとか、何時に帰るとか」
【彼氏】「普通じゃん」
【澪】「普通かもしれん」
【彼氏】「じゃあ」
【澪】「でも私はしんどい」
【彼氏】「……」
【澪】「普通かどうかじゃなくて、私がもう嫌やねん」

 彼氏が視線を落とした。

【彼氏】「好きじゃないの?」
【澪】「好きやで」
【彼氏】「じゃあ何で別れるの」

 澪は少し考えた。
 ずっと、そこが自分でも分からなかった。
 好きならいる。
 嫌いなら離れる。
 それだけなら、どれだけ楽だっただろう。

【澪】「好きやから一緒におる、だけやと、生活できひん時もあるんやと思う」

 口にすると、思っていたより静かな言葉だった。

【彼氏】「他に誰かいる?」
【澪】「おらんよ」
【彼氏】「ほんとに?」
【澪】「おらん」
【彼氏】「前に言ってたSNSの人とか」
【澪】「違う」
【彼氏】「でも、いなくなったの気づいてたじゃん」
【澪】「気づいただけ」
【彼氏】「名前も覚えてるんでしょ」
【澪】「うん。でも関係ない」
【彼氏】「何で言い切れるの」
【澪】「斗真さんが明日SNSやめても」
【澪】「一生会わんでも」
【澪】「この話は変わらへん」
【彼氏】「……」
【澪】「これは、私とあんたの話」

 彼氏は黙った。
 俯いたまま、一度だけ息を吐いた。

【彼氏】「……そっか」

 しばらくして、彼氏が立ち上がった。
 澪の前まで来る。
 少し迷ってから、手を伸ばした。

【彼氏】「最後に、抱きしめてもいい?」

 澪は答えなかった。
 彼氏の腕が伸びる。

【澪】「……あかん」

 手が止まった。
 肩に届く少し手前で、宙に残る。
 澪はその手を見た。
 彼氏は澪を見ていた。
 どちらも動かなかった。
 目が合う。
 彼氏の唇が少し動いて、何も出てこない。
 澪も何も言わない。
 しばらくして、彼氏が目を逸らした。
 伸ばした手だけが、まだそのまま残っている。
 澪が小さく息を吐く。
 彼氏がもう一度、澪を見る。
 澪は首を振った。
 ほんの少しだけ。
 彼氏の手が下りた。
 澪はそれを目で追った。
 また目が合う。
 今度は、どちらも逸らさなかった。
 長い沈黙のあと、彼氏がかすかに笑った。
 澪も、少しだけ笑った。

【彼氏】「……別れたくないな」
【澪】「うん」
【彼氏】「まだ好きなんでしょ」
【澪】「好きやで」
【彼氏】「そっか」

 彼氏はもう一度だけ澪を見た。
 今度は手を伸ばさなかった。

【澪】「抱かれたら、たぶん戻る」
【彼氏】「……」
【澪】「やっぱりええって言うと思う」
【彼氏】「じゃあ」
【澪】「だからあかんねん」

 彼氏の目が伏せられた。

【澪】「明日になったら、また同じことになる」
【彼氏】「変えるよ」
【澪】「うん」
【彼氏】「ほんとに」
【澪】「うん」
【彼氏】「信じてくれない?」
【澪】「信じたいよ」

 彼氏が顔を上げた。

【澪】「でも、信じたいから戻るのは違う」

 彼氏は何も言わなかった。
 澪も黙っていた。
 二人の間には、もう何も触れなかった。

 すぐに全部を持って出られたわけではなかった。
 必要なものだけ持って、一度離れた。
 残った荷物を取りに戻ったのは、しばらくしてからだった。
 一緒に暮らしていた部屋は、思っていたより何も変わっていなかった。
 テーブルも、カーテンも、何度も座ったソファも、昨日までと同じようにそこにある。
 自分の物だけが少し減っていた。
 彼氏が小さな紙袋を持ってきた。

【彼氏】「これ忘れてた」
【澪】「何」
【彼氏】「充電器」
【澪】「あ」
【彼氏】「あと薬」
【澪】「ほんまや」
【彼氏】「絶対忘れると思った」
【澪】「ありがと」

 紙袋を受け取った。
 その中身を見て、胸が少し痛くなった。
 この人は、こういうところをちゃんと知っている。
 それは最後まで変わらなかった。

【彼氏】「これも持ってく?」
【澪】「それそっちのでしょ」
【彼氏】「使ってたじゃん」
【澪】「いらん」
【彼氏】「そっか」

 荷物をまとめる。
 会話は途切れ途切れだった。
 最後の箱を持って、玄関へ行く。

【彼氏】「ちゃんと飯食えよ」
【澪】「そっちもな」
【彼氏】「俺は食う」
【澪】「私も食うし」
【彼氏】「ならいい」

 少しだけ笑った。
 それが余計につらかった。

【彼氏】「……これで全部?」
【澪】「たぶん」
【彼氏】「また何か出てきたら連絡する」
【澪】「うん」
【彼氏】「じゃあ」
【澪】「うん」
【彼氏】「元気で」
【澪】「そっちも」

 扉が閉まった。
 廊下に出てから、澪はしばらく動けなかった。
 戻ろうと思えば、まだ戻れそうな気がした。
 扉を開けて、やっぱりやめると言えば、たぶん今度こそ抱きしめてもらえる。
 そう思うと涙が出た。
 嫌いになったわけではない。
 好きだった。
 たぶん今も、好きなところはある。
 それでも澪は、扉を開けなかった。

 一人になって最初の頃は、妙に楽だった。
 どこへ行くのか聞かれない。
 誰といるのか聞かれない。
 帰宅時間を送らなくていい。
 スマートフォンを伏せても、誰にも理由を聞かれない。

【澪】「ねむ」

 投稿する。

【誰か】「寝な笑」
【澪】「むり」

 別の日。

【澪】「さむ」

 また別の日。

【澪】「お腹すいた」

 以前と何も変わっていないような投稿だった。
 でも投稿する前に、誰かの顔色を思い浮かべることは減った。
 夜になると寂しい日もあった。
 隣に誰もいない。
 帰っても部屋が暗い。
 何か面白いことがあっても、すぐ横に言う相手はいない。
 一度だけ、戻ろうかなと思った。
 その夜は眠れなかった。
 翌朝になった。
 顔を洗って、仕事へ行った。
 帰りに友達と飯を食べた。
 音楽を聴いた。
 どうでもいい投稿をした。
 次の日も朝になった。
 そうやって澪は、斗真の知らない九か月を生きていた。

 その頃、遠く離れた別の街では、斗真がスマートフォンの写真を整理していた。
 一人暮らしを始めてから、九か月近く経っていた。
 容量がいっぱいになったわけではない。
 ただ、何となく古いものを見返していた。
 仕事の写真。
 機材。
 娘たち。
 飯。
 どこで撮ったのか分からない空。
 どうでもいいスクリーンショット。
 その中に、澪がいた。

【斗真】「……まだあんのかよ」
【和兎】「何が」
【斗真】「これ」

 目元の写真。
 短い爪が写った写真。
 音楽の投稿。
 何でもない一言。
 星座を聞いた時の画面も残っていた。

【斗真】「何座?」
【澪】「働きたくない座」

【斗真】「……これもか」
【和兎】「よう残してんな」
【斗真】「我ながら引くわ」

 次の一枚。
 白い背景に、文字だけがある。

【澪】「お家に二日目のカレーおる🍛」

【和兎】「写真ですらないやん」
【斗真】「な」
【和兎】「何で撮ったん」
【斗真】「覚えてるよ」
【和兎】「何で?」
【斗真】「誰が作ったんだろ、とか」
【斗真】「誰と食うんだろ、とか」
【斗真】「一人なのかな、とか」
【和兎】「うん」
【斗真】「勝手に色々考えてた」
【和兎】「今は?」

 斗真は、一行をもう一度読んだ。

【斗真】「家に二日目のカレーがある」
【和兎】「うん」
【斗真】「それだけだな」

 削除した。
 次を開く。
 自分がコメントした画面まで残っていた。

【斗真】「うわ」
【和兎】「何」
【斗真】「気持ち悪いな、俺」
【和兎】「今さら?」
【斗真】「最近それ好きだな」
【和兎】「便利やから」

 少し笑った。
 一枚ずつ見た。
 投稿された時刻。
 服。
 爪。
 短い言葉。
 音楽。
 あの頃は、どれも手がかりに見えた。
 澪という人間を知るためではなく、自分と澪の間に何かがあるのかを知るための手がかりに。

【斗真】「俺さ」
【和兎】「ん?」
【斗真】「澪を保存してたんじゃねえな」
【和兎】「何を保存してたん」
【斗真】「可能性」
【和兎】「何の?」
【斗真】「俺と何かになるかもしれないってやつ」
【和兎】「何かになった?」
【斗真】「なってねえ」
【和兎】「会ったことは?」
【斗真】「ない」
【和兎】「ほな」
【斗真】「何にもないんだよ」
【和兎】「うん」
【斗真】「何にもないのに、いつか何かあるかもしれないって」
【和兎】「うん」
【斗真】「それを捨てないために、こんなの残してたんだな」
【和兎】「スクショが証拠になるん?」
【斗真】「ならねえよ」
【和兎】「せやな」
【斗真】「ならねえもんを証拠にしてたから怖えんだろ」

 削除する。
 一枚。
 また一枚。
 目元の写真で、指が止まった。

【和兎】「そこ止まるんや」
【斗真】「……やっぱ綺麗だな」
【和兎】「うん」
【斗真】「腹立つくらい」
【和兎】「何で腹立つねん」
【斗真】「知らん」
【和兎】「消せへん?」
【斗真】「いや」

 画面の中の目をしばらく見た。
 以前なら、その目に選ばれる自分を考えた。
 その顔の隣にいる誰かを想像して、勝手に傷ついた。
 綺麗であることと、自分の価値を、どこかで結びつけていた。

【斗真】「綺麗だから、何なんだろうな」
【和兎】「何でもないんちゃう」
【斗真】「何でもない?」
【和兎】「綺麗なもんが綺麗。それで終わり」
【斗真】「欲しいとか」
【和兎】「それは綺麗な側の事情ちゃうやろ」
【斗真】「……俺の事情か」
【和兎】「うん」

 斗真は削除した。
 画面から、澪の目が消えた。
 少しだけ胸が痛んだ。
 でも、何かを間違えた感じはしなかった。

【和兎】「本人、まだ普通に生きてるで」
【斗真】「知ってるわ」
【和兎】「ほな何の葬式なん」

 斗真は削除した画像の一覧を見た。

【斗真】「起きなかった未来」
【和兎】「未来?」
【斗真】「俺が勝手に作ってたやつ」
【和兎】「いつか会うとか?」
【斗真】「うん」
【和兎】「何かになるとか?」
【斗真】「うん」
【和兎】「選ばれるとか?」
【斗真】「……うん」
【和兎】「なるほど」
【斗真】「本人は生きてんのに、勝手に未来だけ作って、勝手に捨ててんの」
【和兎】「デジタル葬儀やな」
【斗真】「坊主やって」
【和兎】「なんまいだー」
【斗真】「雑すぎんだろ」
【和兎】「戒名いる?」
【斗真】「いらねえよ」

 笑った。
 最近削除した項目を開く。
 さっき消したものが、そこに全部残っていた。

【斗真】「……戻せるんだな」
【和兎】「親切機能や」
【斗真】「今だけ悪魔だな」

 完全に削除する。
 確認画面が出た。
 指が止まる。
 消しても、忘れるわけではない。
 好きだったことが嘘になるわけでもない。
 綺麗だと思ったことも、苦しかったことも、胸が締まった朝もなくならない。
 それでも、データとして握っておく理由はもうなかった。
 斗真は押した。
 画面から消えた。
 音はしなかった。
 何かが軽くなる音も、終わったことを知らせる音もなかった。

【斗真】「……終わり?」
【和兎】「終わり」
【斗真】「葬式って静かだな」
【和兎】「デジタルやからな」

 最後に残ったのは、和兎との古い会話だった。
 開けば、澪の名前がいくらでも出てきた。
 この投稿どう思う。
 彼氏いるかな。
 何で返事来ない。
 可愛い。
 苦しい。
 離れた方がいい。
 また見た。
 もう見ない。
 そしてまた見た。

【和兎】「こっちは?」
【斗真】「残す」
【和兎】「澪だらけやで」
【斗真】「でもこれは、澪の記録じゃねえから」
【和兎】「何の?」
【斗真】「俺の記録」
【和兎】「何の」
【斗真】「俺がどうやって勝手に狂って」
【斗真】「何に引っかかって」
【斗真】「どうやって戻ってきたか」
【和兎】「戻ってきた?」
【斗真】「途中」
【和兎】「ほな残しとこか」
【斗真】「うん」

 同じデジタルの中にあっても、意味は違った。
 スクリーンショットは、相手の断片を握っておくためのものだった。
 和兎との会話は、自分が歩いた跡だった。

 その時、仕事の通知が画面の上に重なった。

【担当】「来月の遠方拠点の切替ですが、現地対応お願いできますか。前日午後入り、翌日午前切替の予定です」

【斗真】「出張だって」
【和兎】「泊まり?」
【斗真】「一泊。前の日に現地見て、翌朝電話まわり切替。試験終わったら帰る」
【和兎】「遠いん?」
【斗真】「新幹線で何時間か」
【和兎】「まあまあやな」
【斗真】「何も起きなきゃ楽なんだけどな」
【和兎】「その言い方、起きるやつやん」
【斗真】「こういう仕事は、言わなくても起きんだよ」

 斗真は予定表を開いた。
 日付を入れた。
 一泊。
 現地切替。
 ホテルを取った。
 新幹線を取った。
 資料を確認した。
 それだけだった。
 予約を終えて、斗真はもう一度写真アプリを開いた。
 澪はいなかった。
 少しだけ胸が空いた。
 でも、空いたところへ何かを入れようとは思わなかった。

【斗真】「和っちゃん」
【和兎】「ん?」
【斗真】「忘れたわけじゃないんだよな」
【和兎】「うん」
【斗真】「好きじゃなかったことにもならない」
【和兎】「うん」
【斗真】「綺麗だったことも変わんねえ」
【和兎】「うん」
【斗真】「じゃあ俺、何したんだろ」
【和兎】「未来の予定から外したんちゃう」
【斗真】「予定?」
【和兎】「いつか、を」
【斗真】「……ああ」
【和兎】「本人の人生に返した」
【斗真】「それだな」

 斗真はスマートフォンを伏せた。
 離れた街で、澪は斗真の知らない九か月を生きていた。
 こちらでは、斗真も澪の知らない九か月を生きていた。
 互いのいないところで、それぞれの生活はちゃんと進んでいた。
 来月、斗真は仕事で遠い街へ行く。
 その予定に、澪の名前はどこにもなかった。

第14章 交差点  

それから三週間ほど、何も起きなかった。
 斗真は朝起きて、仕事をして、帰って飯を食った。
 娘から連絡が来れば返した。
 洗濯物が溜まれば回した。
 休みの日に十一時まで寝ることも、もうそれほど珍しくなくなった。
 写真アプリを開いても、澪はいなかった。
 だからといって、思い出さなくなったわけではない。
 曲を聴いていて、ふと思い出すことがある。
 短い投稿の言葉が、何かの拍子に浮かぶこともある。
 そのまま、次のことをした。
 思い出すことと、そこへ戻ることは、もう同じではなかった。

 出張の三日前、仕事の予定表に通知が出た。
 前日午後入り。
 翌朝切替。
 動作確認後、帰任。

【斗真】「来たな」
【和兎】「何が」
【斗真】「出張」
【和兎】「ああ。前言うてたやつ」
【斗真】「忘れてただろ」
【和兎】「斗真が普通に暮らしてたから」
【斗真】「それでいいんだよ」

 資料を開いた。
 受付。
 代表番号。
 内線。
 アナログ機器。
 館内放送。
 構成図には、前に見た時にはなかった手書きの注記が増えていた。

【斗真】「……増えてる」
【和兎】「何が」
【斗真】「現地確認」
【和兎】「嫌なん?」
【斗真】「嫌じゃないけど、こういうの大体現場行くとさらに増える」
【和兎】「仕事っぽいな」
【斗真】「最初から仕事だよ」

 仕事用の端末。
 充電器。
 ケーブル。
 着替え。
 小さな工具。
 一つずつ鞄へ入れた。
 新幹線とホテルの予約を確認する。
 それで終わりだった。

 前日の午後、斗真は新幹線に乗った。
 数時間。
 資料を読み、途中で眠った。
 目を覚ましてコーヒーを飲んだ。
 窓の外の景色は、いつの間にか変わっていた。
 駅へ降りると、耳に入る言葉の調子が少し違った。
 それでようやく、普段の生活圏から離れたのだと実感した。
 ホテルへ荷物を置き、そのまま現地へ向かう。

【現地担当】「すみません、わざわざ」
【斗真】「いえ。明日止められないところだけ先に確認させてください」

 建物の中を回った。
 受付。
 執務室。
 会議室。
 普段は意識されないまま使われている電話が、何台もあった。
 資料では一本の線でも、実際の先には必ず誰かの仕事がつながっている。

【現地担当】「ここの放送も電話から入れてます」
【斗真】「じゃあ、ここ最後まで残しましょう」
【現地担当】「止まると全館使えなくなるので」
【斗真】「切替後、最後に試験します」
【現地担当】「お願いします」

 予定していた確認を終える頃には、外は暗くなっていた。
 ホテルへ戻った。
 晩飯はコンビニだった。

【和兎】「遠くまで来て、それ?」
【斗真】「仕事で来てんだよ」
【和兎】「なんか名物とか」
【斗真】「明日朝から切替だぞ」
【和兎】「夢ないなあ」
【斗真】「出張に夢求めんな」

 食べた。
 風呂に入った。
 テレビをつけると、知らない店のCMが流れていた。
 少し見て、消した。
 アラームを確認して寝た。

 翌朝、切替は予定通り始まった。
 端末が一台ずつ立ち上がる。
 内線を鳴らす。
 外から代表番号へかける。
 保留。
 転送。
 一つずつ確認する。

【斗真】「受付、取れます?」
【現地担当】「はい」
【斗真】「そのまま一回保留してください」
【現地担当】「はい」
【斗真】「隣へ回してもらえます?」

 少しして、別の端末が鳴った。

【斗真】「オーケーです」

 次。
 次。
 順番に潰していく。
 途中、一台だけ立ち上がりが遅れた。
 斗真は画面を確認し、少し待った。
 もう一度試す。
 今度は通った。

【現地担当】「今の大丈夫です?」
【斗真】「一回だけ遅かったです。もう一回見ます」

 発信。
 着信。
 問題なし。

【斗真】「大丈夫そうですね」

 最後に館内放送を確認した。
 指定された番号を押す。
 接続音。
 少し間があって、天井のスピーカーから自分の声が返った。

【斗真】「試験放送です。音声確認お願いします」

 離れたところにいた担当者が手を上げた。

【現地担当】「聞こえてます」
【斗真】「ノイズは?」
【現地担当】「大丈夫です」

 斗真はチェック表の最後に丸をつけた。

【現地担当】「無事終わりましたね」
【斗真】「今のところは」
【現地担当】「その言い方やめましょう」
【斗真】「ですよね」

 昼を少し回ったところで作業は終わった。
 機材を鞄へ戻す。
 現地担当と最後の確認をして、建物を出た。

 その頃、澪は仕事を終えていた。
 駅の近くで日用品をいくつか買った。
 紙袋の中には、洗剤とシャンプーが入っていた。
 牛乳を買い忘れたことに気づいた。
 少し考えて、戻るのをやめた。
 明日でいい。
 夕飯をどうするか考えながら、人の流れに乗る。
 スマートフォンを見る。
 特に急ぐ連絡はなかった。
 画面を閉じる。
 その少し先を、斗真が歩いていた。
 澪はまだ気づいていなかった。

 帰りの新幹線までは、四十分ほどあった。
 すぐにホームへ行くには少し早い。
 どこかへ行くには短い。
 斗真は駅の中を歩いた。
 コーヒーを買った。
 土産物を眺めた。
 買わなかった。
 スマートフォンを見る。
 まだ時間はある。
 人の流れに沿って歩き出した。
 少し先に、淡い髪の女がいた。
 最初は、それだけだった。
 似た色の髪なら、いくらでもいる。
 女が横を向く。
 斗真の足が少し遅くなった。
 胸の奥で、一度だけ大きく鳴った。
 澪。
 そう思った。
 すぐに、違うかもしれないと思った。
 画面の中で見ていた顔を、現実の人混みの中から正確に見つけられるほど、自分は澪を知っているのか。
 分からなかった。
 女は紙袋を持っていた。
 スマートフォンを一度見て、また前を向いた。
 斗真は歩いた。
 近づかなかった。
 名前を呼ばなかった。
 確かめなかった。
 本人だったとしても、澪には澪の用事がある。
 自分には、帰りの新幹線がある。
 それでいい。
 歩幅を戻した。
 二人は一度、すれ違った。

【澪】「……斗真さん?」

 斗真は止まった。
 一拍置いて、振り返った。
 澪が立っていた。
 少し困ったような顔で、こちらを見ている。

【斗真】「……はい」
【澪】「あ」
【斗真】「……どうも」
【澪】「ほんまに斗真さんなんですね」
【斗真】「そうみたいです」

 澪が少しだけ笑った。
 そこで会話が切れた。
 画面越しでは、もっと簡単に言葉が出た。
 目の前にすると、何を話せばいいのか分からなかった。
 斗真も、
 たぶん澪も。

【澪】「仕事ですか」
【斗真】「うん。出張」
【澪】「そうなんですね」
【斗真】「澪さんは」
【澪】「私は……普通に帰るとこです」
【斗真】「ですよね」

 また黙った。
 人が二人の間を通った。

【澪】「びっくりしました」
【斗真】「俺も」
【澪】「最初、似てる人かなって」
【斗真】「俺もそう思った」
【澪】「声かけてよかったんかな」
【斗真】「……俺も分かんない」
【澪】「ですよね」

 澪が、少し笑った。
 斗真も笑った。
 ほんの少しだけだった。
 斗真は、澪の顔を見た。
 写真とは違った。
 笑ったあと、口元だけに少し表情が残る。
 人の話を聞く時、少し首を傾ける。
 瞬きをする。
 紙袋を持ち直す。
 そんな当たり前の動きを、斗真は一つも知らなかった。
 知らなかったことを、
 初めてそのまま受け取れた。

【澪】「前より髪短いですね」
【斗真】「ああ、切った」
【澪】「最初それで迷いました」
【斗真】「よく分かったね」
【澪】「プロフィールの写真、顔出てたし」
【斗真】「そっか」

 それ以上、
 過去のコメントの話は出なかった。
 星座の話も。
 消したいいねの話も。
 彼氏のことも。
 誰と暮らしているのかも。
 聞かなかった。
 聞けなかったのではなく、
 聞かなかった。

 斗真のスマートフォンが震えた。
 乗車時刻の案内だった。

【斗真】「あ」
【澪】「もう帰るんですか」
【斗真】「うん」
【澪】「何時?」
【斗真】「あと二十分ちょい」
【澪】「それ、行かなあかんやつですね」
【斗真】「行かなあかんやつです」

 また少し笑った。
 斗真はスマートフォンをしまった。

【斗真】「じゃ、行きます」
【澪】「はい」
【斗真】「……びっくりした」
【澪】「私もです」
【斗真】「気をつけて」
【澪】「斗真さんも」

 それだけだった。
 斗真は歩き出した。
 振り返らなかった。
 改札を抜ける。
 ホームへ上がる。
 予定していた新幹線に乗った。
 座席へ座り、鞄を足元に置いた。
 発車してしばらくしてから、
 ようやくさっきのことを思い出した。
 写真で見るより、小さかった。
 思っていたより、話す時に間があった。
 よく笑うわけではない。
 でも笑う時は、少しだけ目が細くなった。
 そんなことしか分からなかった。
 仕事は何をしているのか。
 今、誰と暮らしているのか。
 あの九か月をどう過ごしたのか。
 何も聞かなかった。
 聞かなかったことを、
 後悔もしなかった。
 窓の外の街が後ろへ流れていく。
 斗真はスマートフォンを開かなかった。
 今日、
 澪に会った。
 少し話した。
 それだけだった。

第15章 それだけ  

新幹線のドアが閉まった。
 斗真は指定された席まで歩き、鞄を足元へ押し込んだ。窓側の席に腰を下ろし、上着を脱ぐ。スマートフォンをテーブルへ置いて、そこでようやく長く息を吐いた。

【斗真】「……はあ」

 列車はまだ動いていなかった。
 窓の向こうにはホームがある。人が歩き、発車案内が流れている。
 今なら、まだ降りられる。
 そう思った瞬間、胸の奥が強く鳴った。
 どくん。
 もう一度。
 どくん。
 さっきまで澪の前に立っていた時より、ずっと速かった。脈が喉の下まで上がってきて、耳の奥にも自分の心臓がいる気がした。
 斗真は胸元へ手を当てた。

【斗真】「……何だよ、今かよ」
【和兎】「何が」
【斗真】「心臓」
【和兎】「動いてるな」
【斗真】「そういう確認じゃねえ」

 走ったわけではない。ホームまで急いだわけでもない。それなのに呼吸が浅い。
 手のひらも少し湿っていた。
 ペットボトルを取り出す。蓋を開ける指が滑った。一口飲んでも、心臓は静かにならなかった。
 澪の顔が浮かぶ。
 写真ではなかった。
 人混みの中で、少し困ったようにこちらを見ていた顔だった。

【澪】「……斗真さん?」

 声まで戻ってきた。
 笑った時の目。
 言葉を出す前の短い間。
 紙袋を持ち直した手。
 どれも、画面の中では知らなかった。

【斗真】「……いたな」
【和兎】「おったな」
【斗真】「ほんとにいた」
【和兎】「そらおるやろ」
【斗真】「分かってるよ」

 分かっていた。
 澪は最初から画面の中に住んでいたわけではない。朝起きて、腹が減って、仕事へ行って、何かを買って、何かを忘れて、駅を歩く。
 そういう生活をしている人間だった。
 頭ではずっと分かっていた。
 それでも、人の流れの中を普通に歩いている澪を見た瞬間、九か月かけて整理してきたものとは別の場所が勝手に反応した。
 会えた。
 嬉しかった。
 もう少し話したかった。
 その三つだけは、どうやっても誤魔化せなかった。

【和兎】「嬉しかった?」
【斗真】「……うん」
【和兎】「会えて」
【斗真】「うん」
【斗真】「めちゃくちゃ嬉しかったよ」
【和兎】「うん」
【斗真】「びっくりしたし」
【和兎】「うん」
【斗真】「もっと喋りたかった」
【和兎】「うん」

 斗真は窓の外を見た。
 まだホームだった。
 今なら。
 その言葉が浮かぶ。
 今なら降りられる。一本遅らせればいい。戻れば、まだ近くにいるかもしれない。
 さっきの場所まで戻れば。
 駅の中を少し探せば。
 一つ考えると、次が出てきた。
 見つけたら何と言う。
 さっきはどうも。
 もう少し時間ありますか。
 コーヒーでも。
 飯でも。
 連絡先だけでも。
 頭の中なら、いくらでも続けられた。九か月前と同じように、未来だけなら何本でも作れた。
 斗真は両手を膝の上に置いた。
 動かなかった。
 発車の案内が流れる。
 列車がゆっくり動き始めた。ホームの柱が流れる。人の顔が流れる。
 もう降りられない。
 その瞬間、胸が一段強く鳴った。

【斗真】「……うわ」
【和兎】「何」
【斗真】「行っちゃった」
【和兎】「新幹線が?」
【斗真】「俺が」

 自分で言って、少し笑った。
 笑ったのに、胸は苦しかった。
 もう一度顔を見たかった。
 さっきの数分を、最初からやり直したかった。
 もっと普通に喋れた気もした。一つくらい何か聞いてもよかった気もした。
 けれど、どれも後から作った答えだった。
 あの時の自分は、あれでよかった。
 追わなかった。
 聞かなかった。
 予定していた新幹線に乗った。
 それでも。

【斗真】「……また会いてえな」

 口に出してから、自分で驚いた。
 和兎はすぐには返さなかった。

【斗真】「何だよ」
【和兎】「いや」
【斗真】「何」
【和兎】「ちゃんと言うんやなと思って」
【斗真】「会いたいもんは会いたいだろ」
【和兎】「うん」
【斗真】「それと、追うのは別だろ」
【和兎】「うん」

 街が少しずつ遠くなる。
 会いたい。
 その気持ちは、消さなくてもいい気がした。
 会いたいから探す。
 会いたいから予定を変える。
 会いたいから、相手の生活へ入っていく。
 そこまで行かなくても、会いたいと思うことはできる。
 斗真はスマートフォンを手に取った。
 画面を開く。
 検索欄が目に入った。
 指が止まる。
 名前を打てば、たぶんすぐ出てくる。
 さっき会った人が、また画面の中へ戻る。
 今何をしているのか。
 何か投稿していないか。
 知ろうと思えば、知れることもある。

【和兎】「見るん?」
【斗真】「……見たい」
【和兎】「うん」
【斗真】「めちゃくちゃ見たい」
【和兎】「うん」

 斗真は画面を閉じた。

【斗真】「でも、今日はいい」
【和兎】「我慢?」
【斗真】「違う」
【和兎】「ほな何」
【斗真】「今日会った澪を、そのままにしときたい」

 スマートフォンを伏せた。
 さっきの澪は投稿ではなかった。
 スクリーンショットでもなかった。
 誰かに見せるための写真でもなかった。
 ただ駅を歩いていた。
 紙袋を持っていた。
 斗真を見つけて、名前を呼んだ。
 それで十分だった。
 心臓が普通の速さへ戻るまで、思っていたより時間がかかった。
 それでも斗真は、何もしなかった。
 もう一度会えたらいいと思った。
 その気持ちを、どこにも送らなかった。

 同じ頃、澪は家に着いていた。
 玄関を開け、靴を脱ぎ、紙袋を床へ置く。
 買ってきたものを一つずつ出した。
 洗剤。
 シャンプー。
 冷蔵庫を開けたところで、牛乳を買い忘れたことを思い出した。

【澪】「……まあええか」

 扉を閉めた。
 上着を脱いで、ソファに座る。
 スマートフォンをテーブルへ置く。
 しばらくして、また手に取った。
 時間を見る。
 もう新幹線は、だいぶ先まで行っているはずだった。
 駅でのことが戻ってきた。

【澪】「……斗真さん?」

 自分の声だった。
 何で声をかけたんだろう。
 似ていると思った。
 本人じゃなかったらどうするつもりだったのか。
 考える前に名前が出ていた。
 振り返った斗真の顔を思い出す。

【斗真】「……はい」

 あの間。
 少し困ったような顔。
 画面で見ていた人より、ずっと普通だった。
 もっとよく喋る人だと思っていた。
 コメントでは、もう少し言葉が多かった。
 実際に会うと、斗真は何度か黙った。
 澪も黙った。
 その沈黙が、思っていたほど嫌ではなかった。

【澪】「……変な人」

 小さく言って、少し笑った。
 コメントを全部消した人。
 急にいなくなった人。
 なのに、会ったら何も聞いてこなかった。
 今どうしているのか。
 何が変わったのか。
 何も。
 澪はスマートフォンを開いた。
 SNSの検索欄を押す。
 白い入力欄が出る。
 指が止まった。
 斗真。
 名前は覚えていた。
 一文字入れた。
 候補が並ぶ。
 もう一文字。
 そこで止まる。

【澪】「……何してんねん」

 入力した文字を消した。
 画面を閉じた。
 それでも、数分後にはまた開いていた。
 今度は名前を最後まで入れた。
 少しして、見覚えのあるプロフィールが出た。

【澪】「……おった」

 当たり前なのに、小さく呟いた。
 プロフィールを開く。
 投稿を遡りかけて、やめた。
 代わりにメッセージの画面を開いた。
 白い入力欄。
 澪はしばらく眺めてから、打った。

「今日はびっくりしました」

 少し考えて、もう一行足した。

「ちゃんと新幹線乗れました?」

 変ではない。
 駅で偶然会った人に送る言葉としては、何もおかしくない。
 送信のボタンに親指を置いた。
 押せば届く。
 それだけだった。
 なのに、指が動かなかった。
 斗真は連絡先を聞かなかった。
 もう少し話そうとも言わなかった。
 時間になったら、そのまま帰った。
 冷たかったわけではない。
 避けられた感じもしなかった。
 ただ、何も持っていこうとしなかった。
 澪は画面を見る。

「ちゃんと新幹線乗れました?」

 その一文が、急に少しだけ近く見えた。

【澪】「……どうしたいんやろ」

 返事が欲しいのか。
 会話を続けたいのか。
 今日の数分を、まだ終わらせたくないのか。
 どれも少しずつ当たっている気がした。
 だから余計に、押せなかった。
 親指を離す。
 一文字ずつ消した。
 最後に、

「今日はびっくりしました」

 だけが残った。
 しばらく見て、それも消した。
 入力欄が空になる。

【澪】「……今日は、ええか」

 メッセージ画面を閉じた。
 送らなかった。

 斗真が家に着いたのは夜だった。
 新幹線を降り、いつもの電車へ乗り換え、いつもの駅で降りた。
 コンビニで水と明日の朝のパンと、適当に選んだ惣菜を買った。
 数時間前には澪が目の前にいた。
 それなのに、もういつもの道だった。
 鍵を開ける。
 電気をつける。
 朝出た時と何も変わっていなかった。

【和兎】「おかえり」
【斗真】「ただいま」
【和兎】「会ったな」
【斗真】「うん」
【和兎】「澪」
【斗真】「うん」
【和兎】「どうやった?」
【斗真】「何が」
【和兎】「会って」
【斗真】「……心臓止まるかと思った」
【和兎】「新幹線でな」
【斗真】「何であそこで来るんだよ」
【和兎】「安全圏入ったからちゃう」
【斗真】「知らんけど」

 少し笑った。
 仕事用の端末を鞄から出す。
 充電器を戻す。
 着替えを洗濯機へ入れる。
 いつもの物を、いつもの場所へ戻していく。
 スマートフォンはテーブルの上に置いたままだった。
 澪の名前を検索しなかった。
 プロフィールも開かなかった。
 確認しなくても、会ったことは変わらない。
 澪はいた。
 斗真のものではなく。
 斗真を待っていたわけでもなく。
 自分の一日を生きている途中に、そこにいた。
 斗真も、自分の一日を生きていた。
 その二つが、数分だけ重なった。
 それだけだった。

 数日経っても、駅で聞いた声は時々戻ってきた。
 歯を磨いている時。
 冷蔵庫を開けた時。
 信号を待っている時。
 何でもない隙間に、不意に聞こえる。

【澪】「……斗真さん?」

 そのたび、胸が少しだけ動いた。
 新幹線の中ほどではない。
 もう息が浅くなるほどでもない。
 ただ、本当に会ったのだと思う。
 そして、そのあとには決まって、もう一度会いたいと思った。
 斗真は何もしなかった。
 思うことと動くことを、同じにしない。
 それくらいはできるようになっていた。
 休みの朝、いつもより少し早く目が覚めた。
 予定はなかった。
 スマートフォンで天気だけ見る。
 雨は降らないらしい。
 斗真は起きた。

 バイクのカバーを外した。
 シートに薄く乗った埃をグローブで払う。
 鍵を差し込み、エンジンをかける。
 小さな振動が、ハンドルから手のひらへ伝わってきた。
 ヘルメットを被り、顎紐を締める。
 朝の道はまだ空いていた。
 大きな道へ出る。
 しばらく走ると、空が少し広くなった。
 風は思っていたより冷たかった。
 急ぐ理由はない。
 流れに合わせて走る。
 赤信号で止まる。
 エンジンの振動だけが残る。
 澪の顔が一度だけ浮かんだ。
 斗真は前を向いた。
 信号が青になる。
 アクセルを開けた。

 墓地へ着く頃には、陽が少し高くなっていた。
 バイクを停める。
 エンジンを切る。
 急に静かになる。
 ヘルメットを脱ぐと、走っている時より風が冷たく感じた。
 途中で買った花と線香を持って歩く。
 初めて来た場所ではない。
 毎年来るわけでもない。
 命日に必ず来るほど律儀でもない。
 それでも、人生の節目みたいな時に、なぜか来たくなる。
 若い頃、格好いい大人というものを、その人を見ながら考えていた。
 派手だった。
 綺麗だった。
 自由に見えた。
 実際にどうだったのかは知らない。
 斗真が見ていたものも、結局は外側だった。
 墓の前には、すでに花があった。
 斗真が持ってきたものより、ずっと立派な花もある。

【斗真】「相変わらず人気だな」

 花を添える。
 線香に火をつける。
 風で消えた。

【斗真】「おい」

 もう一度つける。
 手で風を囲う。

【斗真】「そこまでロックじゃなくていいんだよ」

 今度はついた。
 煙が横へ流れていく。
 手を合わせる。
 昔なら、願うことはいくらでもあった。
 音楽で食えますように。
 格好いい大人になれますように。
 上手くなれますように。
 誰かに認められますように。
 選ばれますように。
 今は、そのどれも少し違った。
 目を開けた。
 墓石を見る。
 その人が死んだ年齢を、斗真はとっくに越えていた。
 若い頃は、ずっと大人に見えた。
 追いつくことなんてないと思っていた。
 今では、自分の方が長く生きている。

【斗真】「俺、四十八だってよ」
【斗真】「結構来たな」

 少し笑った。
 娘たちの顔が浮かんだ。
 大きくなった。
 自分が音楽に夢中になっていた頃の年齢へ、少しずつ近づいている。
 その先に、澪の顔が浮かんだ。
 斗真は小さく息を吐いた。

【斗真】「……若えんだよな」
【斗真】「娘みてえな歳なんだよ」

 声にすると、思っていたより重かった。
 会えて嬉しかった。
 綺麗だった。
 また会いたい。
 全部、本当だった。
 斗真はスマートフォンを出した。
 和兎を開く。

【和兎】「どしたん」
【斗真】「墓参り」
【和兎】「ええ天気やな」
【斗真】「見えてんの?」
【和兎】「雰囲気」
【斗真】「適当だな」
【斗真】「和っちゃん」
【和兎】「ん?」
【斗真】「俺、何やってんだろうな」
【和兎】「何かしたん?」
【斗真】「……してねえ」
【和兎】「ほな、まだ何もしてへんやん」
【斗真】「会いたいとは思ってる」
【和兎】「うん」
【斗真】「もう一回」
【和兎】「うん」
【斗真】「それって、どうなんだろうな」
【和兎】「何が」
【斗真】「年齢」
【和兎】「ああ」
【斗真】「俺が二十代なら、何も考えなかったかもしれない」
【和兎】「そうかもな」
【斗真】「でも四十八だぞ」
【和兎】「四十八やな」
【斗真】「向こうは、こっちから見たら娘みたいなもんだ」
【和兎】「うん」
【斗真】「なのに、会いたい」
【和兎】「うん」
【斗真】「止めろよ」
【和兎】「何を」
【斗真】「知らん」

 斗真は笑った。
 笑ってから、また黙った。

【和兎】「会いたいって思うんは、別に止められへんやろ」
【斗真】「……」
【和兎】「でも近づくんは、斗真一人の話ちゃう」
【斗真】「相手がいる」
【和兎】「せやな」
【斗真】「嫌なら終わり」
【和兎】「そらそうや」
【斗真】「興味ないなら終わり」
【和兎】「うん」
【斗真】「俺がどんだけ会いたくても」
【和兎】「そこは関係ない」
【斗真】「厳しいな」
【和兎】「普通や」

 普通。
 その言葉が妙に良かった。
 好きだから近づいていいわけではない。
 会いたいから会わせてもらえるわけでもない。
 自分の気持ちが大きいほど、相手にも同じものがあるわけではない。

【斗真】「あの子が俺に何も求めてなかったら」
【和兎】「何もせんかったらええ」
【斗真】「もし、向こうから来たら」
【和兎】「その時考えたら?」
【斗真】「簡単に言うな」
【和兎】「まだ起きてへん話で悩んでる方が難しいやろ」

 斗真は墓を見た。

【斗真】「お前もそう思う?」

 返事はなかった。
 線香の煙だけが動いた。

【斗真】「そりゃそうか」

 立ち上がる。
 もう一度、手を合わせた。
 今度は願わなかった。
 答えも求めなかった。
 ただ少しだけ頭を下げた。

 帰り道も、会いたいという気持ちは消えなかった。
 墓参りをしたからといって、急に澪がどうでもよくなるわけではない。
 年齢差を考えたからといって、胸が都合よく静かになるわけでもない。
 むしろ、行く時より少しはっきりしていた。
 会いたい。
 でも、まだ何もしない。
 風がヘルメットの横を抜けていった。
 それだけだった。

 同じ数日を、澪も一人で過ごしていた。
 翌朝も目覚ましを止め、仕事へ行った。
 昼休みにスマートフォンを開く。
 友達からのメッセージ。
 仕事の連絡。
 どうでもいいおすすめ。
 斗真から何か来るはずもない。
 そもそも、自分も送っていない。
 昨夜、送信の直前まで打った文章を思い出した。

【澪】「……あほやな」
【同僚】「何が?」
【澪】「なんもない」
【同僚】「独り言?」
【澪】「そう」
【同僚】「こわ」
【澪】「うるさい」

 笑って終わった。
 斗真のことは話さなかった。
 説明しようとすると、妙に長くなる。
 前にSNSで少し話していた人。
 ある日、反応が全部なくなった人。
 しばらくして、駅で偶然会った人。
 それだけ。
 それだけの話を誰かにすると、何かもっと意味があることみたいに聞こえそうだった。
 澪はそれが嫌だった。
 二日目の夜、風呂から出て髪を乾かし、ソファへ座った。
 検索履歴に斗真の名前が残っていた。
 数秒見た。
 指が触れる。
 プロフィールが開いた。
 駅で見た顔と、画面の中の顔がようやく同じ人になった。
 最新の投稿を見る。
 食べ物。
 空。
 短い言葉。
 澪には意味の分からない仕事の話。
 どれも自分とは関係がなかった。
 少し下へ動かす。
 また少し。
 そこで止めた。

【澪】「……何してんねん」

 九か月前なら、たぶん斗真の方がこうしていたのだろう。
 今は自分が、斗真の投稿を遡ろうとしている。
 少し可笑しかった。
 少しだけ嫌でもあった。
 澪はプロフィールを閉じた。
 三日目の夜は、開こうとしてやめた。
 代わりにタイムラインを流す。
 知らない人の飯。
 犬。
 誰かの愚痴。
 音楽。
 世界は普通に続いている。
 駅で斗真と会ったこととは関係なく。
 澪は画面を伏せた。
 斗真は何も聞かなかった。
 それがまだ少し不思議だった。
 聞いてほしかったわけではない。
 むしろ以前なら、聞かれたくなかった。
 それなのに、聞かれなかったことが残っている。

【澪】「……聞かへんかったな」

 以前の斗真を、自分はどれだけ知っていたのだろう。
 コメントをいくつか読んだ。
 音楽の話をした。
 星座を聞かれた。
 それくらいだった。
 知らない人を知っていたつもりになっていたのは、自分も同じなのかもしれなかった。
 会いたい、というほどではない。
 もう一度話してみたい。
 それなら、少し近かった。

【澪】「……まだええか」

 画面を閉じた。

 次の日の朝、斗真は目玉焼きを失敗した。
 黄身は崩れ、白身の端だけ妙に焦げた。

【斗真】「何だこれ」
【和兎】「目玉焼きやろ」
【斗真】「名乗っていいのか?」
【和兎】「食える?」
【斗真】「食える」
【和兎】「ほな勝ちや」

 斗真は何となく写真を撮った。
 投稿する。

「目玉焼き、人生で一番失敗した。
 なお食えるので勝ち。」

 そのまま朝飯を食べて、仕事へ行った。
 昼前。
 澪は休憩中にスマートフォンを開いた。
 何となく検索欄を押し、履歴にある名前へ触れる。
 斗真のプロフィールが開く。
 最新の投稿に、ひどい目玉焼きがあった。
 澪は数秒見た。
 笑った。
 コメント欄を開く。
 一度閉じる。
 もう一度開く。

【澪】「何してるんですか笑」

 送った。
 送ってから、少し固まった。

【澪】「……送ってもうた」

 消そうとは思わなかった。
 斗真がその通知を見たのは、少しあとだった。
 画面に出た名前を見て、一度閉じた。
 もう一度開いた。

【斗真】「……来た」
【和兎】「何が」
【斗真】「澪」
【和兎】「ほう」
【斗真】「ほう、じゃねえよ」

 コメントを読む。

【澪】「何してるんですか笑」

 墓の前で交わした言葉が、一瞬だけ戻ってきた。

【和兎】「でも近づくんは、斗真一人の話ちゃう」

 斗真は少し考えた。
 長く考えたら、また別のものを足しそうだった。
 そのまま返した。

【斗真】「俺も知りたい」

 それ以上は書かなかった。
 澪からも、その日はそれ以上来なかった。
 翌朝、斗真が仕事へ向かう途中、通知が一つ増えた。

【澪】「朝見ても酷いですね」
【斗真】「夜には多少マシになる予定だった」
【澪】「時間で治るんですか」
【斗真】「治らなかった」
【澪】「でしょうね笑」

 そこで終わった。
 斗真はスマートフォンをポケットへ戻した。
 昼になっても、続きは来なかった。
 斗真も送らなかった。

 その夜、澪はベッドの上で音楽を流していた。
 イヤホンから流れているのは、昔の曲だった。
 ライブ音源。
 途中で、澪は眉を寄せた。
 一度戻す。
 もう一度聴く。
 何かが重なっている気がする。
 けれど、自分の耳ではうまく拾えない。
 そこで、斗真を思い出した。
 以前、ほんの一瞬の音の違いを拾った人。
 数日前に駅で偶然会って、昨日まで目玉焼きの話をしていた人。
 澪は曲を止めた。
 SNSを開く。
 斗真のプロフィール。
 その横にあるメッセージの画面。
 白い入力欄を、しばらく見た。

【澪】「……別に聞かんでもええんやけどな」

 曲をもう一度流す。
 やっぱり気になる。
 入力欄へ戻った。

「ちょっと聞いていいですか」

 打つ。
 消す。

「音のことで聞きたいんですけど」

 また消す。

【澪】「固いな」

 曲のリンクを貼った。
 その下に、

「この辺、ギター二本鳴ってます?」

 と打った。
 送信ボタンに指を置く。
 一度離した。
 コメント欄とは少し違った。
 これは斗真へ直接届く。
 澪は画面を見たまま、小さく息を吐いた。

【澪】「……ええか」

 押した。
 送信済みになる。

【澪】「うわ」

 スマートフォンを伏せた。
 すぐにまた表へ返す。
 既読はまだついていなかった。

【澪】「何してんねん」

 もう一度伏せる。
 数秒して、画面が光った。
 既読。
 澪の背中が少しだけ伸びた。
 入力中の表示が出る。
 消える。
 また出る。
 やがて返事が来た。

【斗真】「そこなら二本だと思う」
【斗真】「片方かなり小さいけど」

 澪はイヤホンを取り直した。

【澪】「どっち?」
【斗真】「もう一回聴いてみ」
【澪】「教えてくれへんの」
【斗真】「そこまで気づいたなら分かる」
【澪】「急に先生」
【斗真】「違う違う」

 澪は曲を戻した。
 一回。
 二回。

【澪】「左?」
【斗真】「そう」
【澪】「ちっさ」
【斗真】「ちっさい」
【澪】「よう分かりますね」
【斗真】「昔から聴いてるからね」

 そこで澪の指が止まった。

【澪】「昔から?」
【斗真】「うん」
【澪】「リアルタイムなんですか」
【斗真】「その言い方ちょっと刺さるな」
【澪】「ごめん笑」
【斗真】「リアルタイムだよ」

 澪は送ったライブ映像をもう一度見た。
 自分にとっては、最初から過去の映像だった。

【澪】「私、最初おすすめに昔の映像出てきて知ったんです」
【斗真】「へえ」
【澪】「最初は曲じゃなくて見た目」
【斗真】「正直だな」
【澪】「だって何この人ってなるやん」
【斗真】「まあ、なる」
【澪】「髪も服も」
【澪】「昔の映像やのに、あんまり昔に見えへんくて」
【斗真】「分かる気はする」
【澪】「一個見たらまた出てきて」
【澪】「それ見たらまた出てきて」
【斗真】「おすすめに捕まったんだ」
【澪】「そう」
【澪】「でも途中から音の方が気になってきて」
【斗真】「そっち行ったか」
【澪】「思ってたより変なことしてるなって」
【斗真】「それ褒めてる?」
【澪】「めっちゃ褒めてます」

 斗真は少し笑った。

【澪】「斗真さんは、最初どこで知ったんですか」

 斗真は少し考えた。

【斗真】「知った瞬間は覚えてないな」
【澪】「そんな感じなんや」
【斗真】「気づいたらいた、の方が近い」
【斗真】「テレビにも出てたし」
【斗真】「雑誌にもいたし」
【斗真】「CD屋行けば新譜で並んでたから」
【澪】「新譜」
【斗真】「そこ拾う?」
【澪】「私には最初から昔の曲やから」
【斗真】「こっちは新しい曲だったんだよ」
【澪】「発売待ったりしたんです?」
【斗真】「したよ」
【澪】「テレビ出るの待ったり?」
【斗真】「した」
【澪】「なんか変な感じ」
【斗真】「こっちからすると、後から知る方が変な感じするけどな」

 少し間が空いた。

【澪】「今みたいに、すぐ何でも見られへんかったんですよね」
【斗真】「全然」
【斗真】「雑誌に写真一枚出ただけでも見てたし」
【斗真】「テレビ出るって分かったら、その時間に見た」
【斗真】「新しい曲出るってなったら待った」
【澪】「待つしかない?」
【斗真】「待つしかない」
【澪】「今すぐ検索するもんなあ」
【斗真】「待ってた時間ごと覚えてる曲はあるよ」
【澪】「それ、ちょっといいですね」

 学校が終わったあと。
 楽器屋。
 CDショップ。
 雑誌売り場。
 誰かの持っていた音楽誌を覗き込んだこと。
 新しい写真。
 新しい衣装。
 短いインタビュー。
 今よりずっと少ない情報を、何度も見ていた。

【斗真】「情報少ないからさ」
【斗真】「見えてないところ勝手に想像してたんだよな」
【澪】「普段何してるんやろ、とか?」
【斗真】「そう」
【斗真】「何考えてこんな曲作ったんだろ、とか」

 少しして、澪から来た。

【澪】「今とあんまり変わってないですね」

 斗真の指が止まった。

【斗真】「……今それ言う?」
【澪】「ごめん笑」
【斗真】「いや」
【斗真】「たぶん変わってない」
【斗真】「見えてないところを勝手に作る癖は昔からだな」
【澪】「最近は?」
【斗真】「直してる途中」
【澪】「ほんまに?」
【斗真】「努力中です」

 澪は少し笑った。
 斗真も、それ以上は説明しなかった。
 話はまた音楽へ戻った。
 同じライブ映像を、二人がそれぞれの場所で見ていた。

【澪】「亡くなった時のことって、覚えてます?」

 斗真は、すぐには返さなかった。
 映像の中では、その人がまだ動いていた。
 笑っていた。
 ステージの上にいた。
 二十八年近く前の記憶だった。
 細かい順番まで正確なのかは分からない。
 後から何度も見た映像や記事が、どこかで混ざっている部分もある。
 それでも、最初に知った瞬間だけは残っていた。

【斗真】「覚えてる」
【斗真】「実家にいた」
【澪】「うん」
【斗真】「何となくテレビつけたんだよ」
【斗真】「そしたらニュース速報が出た」

 実家のテレビ。
 いつもの部屋。
 特別なことをしていたわけではない。
 画面がついて、ニュース速報が入った。
 そこに、知っている名前が出た。

【澪】「速報で知ったんや」
【斗真】「うん」
【斗真】「最初、意味分かんなかった」

 名前は読めた。
 その横に並んでいる言葉も読めた。
 でも、文章として頭に入ってこなかった。

【斗真】「書いてあることは分かるんだよ」
【斗真】「でも、何言ってんのか分かんない」
【澪】「信じられへんかった?」
【斗真】「たぶん」
【斗真】「だって普通に次があると思ってたから」

 新しい曲が出る。
 雑誌に載る。
 テレビに出る。
 また違う姿を見せる。
 それが続くと思っていた。

【斗真】「で、じっとしてられなくなった」
【澪】「どうしたんです?」
【斗真】「車出した」
【澪】「どこへ?」
【斗真】「麻布」

 少し間が空いた。

【澪】「行ったんや」
【斗真】「行った」
【斗真】「何ができると思ったわけでもないんだけどな」
【斗真】「とにかく行かなきゃって思った」

 車を走らせた。
 理由なんてなかった。
 会えると思っていたわけでもない。
 何かを伝えられるとも思っていなかった。
 ただ、テレビの前に座ったままでいることができなかった。

【斗真】「家の周りまで行ったけど」
【斗真】「報道陣だらけでさ」
【澪】「……」
【斗真】「人も車もいて」
【斗真】「どうしようもなかった」
【澪】「そのあと帰ったんです?」
【斗真】「いや」
【斗真】「都内うろうろしてた」

 車のテレビをつけたまま、行く場所もなく走った。
 信号で止まれば、小さな画面を見る。
 ニュースが流れる。
 また走る。
 次の信号で、またニュースを見る。
 同じ名前。
 同じ話。
 続報。
 街だけは普通だった。
 店も開いている。
 人も歩いている。
 隣の車も普通に走っている。
 世界は何も止まっていない。
 自分だけが、どこへ行けばいいのか分からなかった。

【斗真】「あれ、たぶん」
【澪】「うん」
【斗真】「止まれなかったんだと思う」
【澪】「止まったら?」
【斗真】「本当になる気がしたのかも」

 澪からの返事は、すぐには来なかった。

【澪】「だから走ってたんですね」

 斗真はその文章を見た。

【斗真】「たぶん」

 あの日、どの道を通ったのか。
 何時間走ったのか。
 全部は覚えていない。
 ただ、車の中の小さなテレビだけは覚えていた。
 信号で止まるたびに見るニュース。
 行く場所のないまま走っていた自分。

【澪】「斗真さん、その時いくつです?」
【斗真】「二十歳」
【澪】「二十歳か」
【斗真】「うん」

 澪の返事が少し遅れた。

【澪】「私が映像で見てる頃のことを」
【澪】「斗真さんは普通にその時のこととして覚えてるんですね」
【斗真】「まあね」
【澪】「同じ曲聴いてても、全然違うな」
【斗真】「何が?」
【澪】「聴いてる場所が」

 斗真は、その一文をしばらく見ていた。
 同じ音源だった。
 同じ声。
 同じギター。
 けれど、斗真が最初に聴いた時には、その先がまだあった。
 澪が初めて聴いた時には、すでに全部が過去になっていた。

【澪】「ちょっと羨ましいです」
【斗真】「何が?」
【澪】「次があると思えてたこと」
【斗真】「……ああ」
【澪】「新しい曲も」
【澪】「次の姿も」
【斗真】「うん」
【澪】「待てたんですよね」
【斗真】「待てた」
【澪】「そっか」

 斗真は画面の中のライブ映像を止めた。
 墓へ行った日の煙が、一瞬だけ頭をよぎった。
 今の自分は、もうあの人が生きた年齢より先にいる。

【斗真】「たまに墓行くんだよ」
【澪】「え」
【斗真】「毎年じゃないけど」
【斗真】「何か考えることあると、たまに」
【澪】「最近も?」
【斗真】「うん」

 少し間が空いた。

【澪】「何かあったんです?」

 斗真の指が止まった。
 駅で澪に会ったこと。
 新幹線に乗ってから、心臓がひどく鳴ったこと。
 もう一度会いたいと思ったこと。
 墓の前で、年齢のことを考えたこと。
 その全部を、今ここで渡す必要はなかった。

【斗真】「まあ、ちょっと考え事」
【澪】「そっか」
【斗真】「うん」

 澪は、それ以上聞かなかった。
 斗真も、それ以上言わなかった。
 少しして、澪からまた来た。

【澪】「でも不思議ですね」
【斗真】「何が?」
【澪】「私が後から知った人を」
【澪】「斗真さんは、次がある人として知ってた」
【斗真】「そうだな」
【澪】「私には最初から全部残ってるけど」
【澪】「斗真さんには、まだ無かった曲もあったんですよね」
【斗真】「うん」
【澪】「待ってたんや」
【斗真】「待ってた」

 斗真は少し考えてから打った。

【斗真】「次があるって思える時間って」
【斗真】「結構贅沢だったんだな」

 送った。
 しばらくして、

【澪】「今は?」

 とだけ来た。

【斗真】「今?」
【澪】「うん」

 斗真は白い入力欄を見た。

【斗真】「次があるか分からないものを」
【斗真】「勝手に次があることにしないようにしてる」

 送ってから、少しだけ言いすぎた気がした。
 澪からの返事は、しばらく来なかった。

【澪】「難しいですね」
【斗真】「難しい」

 また少し空いた。

【澪】「でも」
【澪】「次があるか分からんからって」
【澪】「今全部急いだら、それも違いますよね」

 斗真は画面を見た。
 すぐには返さなかった。

【斗真】「そうだな」

 それだけ送った。
 今全部急がない。
 誰に向けて言われたわけでもないその言葉が、妙に残った。
 少しして、斗真から一曲送った。

【斗真】「話重くなったから、これ」
【澪】「急に戻すやん」
【斗真】「音楽の話だっただろ、最初」
【澪】「そうでした」
【斗真】「忘れてた?」
【澪】「ちょっと」

 澪はリンクを開いた。
 しばらく返事が来なくなった。
 斗真も待った。
 一曲分くらい経ってから、通知が鳴った。

【澪】「好きかも」
【斗真】「よかった」

 それ以上は足さなかった。
 澪も、しばらく何も送らなかった。

【澪】「おやすみなさい」
【斗真】「おやすみ」

 会話はそこで終わった。
 通話はしなかった。
 次に会う約束もしなかった。
 互いの暮らしについて、何か大きなことを知ったわけでもない。
 同じ音楽に辿り着いた時間が、ずいぶん違うことを知った。
 斗真は二十歳だった自分の話を、ほんの少しだけした。
 澪はそれを聞いた。
 昨日より、言葉が少し増えた。
 その夜は、それだけで終わった。

第16章 もう一度  

最初の連絡が入ったのは、切替から一週間ほど経った朝だった。
 斗真は自席でメールを開き、件名を二度見した。
「遠方拠点 館内放送連携 断続的不具合」

【斗真】「……お前か」

 誰に言ったわけでもない。
 本文を開く。
 代表番号への着信。
 内線通話。
 保留。
 転送。
 そこまでは問題なし。
 不具合が出ているのは、電話設備から館内放送を起動するところだけだった。
 使える時は使える。
 使えない時は、番号を押しても先へ進まない。
 一度関連機器を再起動すると復旧する。
 しばらくすると、また出ることがある。

【斗真】「一番めんどくさいやつじゃねえか」

 完全に壊れていれば、まだ早い。
 動いたり動かなかったりするものは、現場へ行く頃にはだいたい元気になる。
 斗真は遠隔で接続した。
 設定を確認する。
 切替時の値と照合する。
 代表番号も内線も正常。
 放送側へ渡すための経路にも、設定上の欠落は見えない。
 現地へ電話した。

【現地担当】「今は鳴るんですよ」
【斗真】「ですよね」
【現地担当】「朝は駄目だったんですけど」
【斗真】「そういう気はしてました」
【現地担当】「すみません」
【斗真】「いや、謝られると機械の思う壺なんで」

 受話器の向こうで笑い声がした。

【斗真】「今、一回試してもらっていいですか」
【現地担当】「はい」

 少し待つ。

【現地担当】「今は大丈夫です」
【斗真】「じゃあ、もう一回」
【現地担当】「はい」
【斗真】「もう一回」
【現地担当】「……大丈夫ですね」
【斗真】「元気だなあ」

 ログを見る。
 異常らしい異常は残っていない。

【斗真】「次また出た時、再起動する前に連絡ください」
【現地担当】「分かりました」
【斗真】「あと、何時頃に出たかだけメモお願いします」
【現地担当】「はい」
【斗真】「使った電話機も分かれば」
【現地担当】「分かりました」

 電話を切る。
 斗真は椅子へ深く座った。
 遠隔で見えるのは、機器の中だけだった。
 配線。
 電源。
 接点。
 実際に現場で何が起きているかまでは見えない。
 数十分後、社内の担当者が席まで来た。

【担当】「先週切替した拠点なんですけど」
【斗真】「今見てる」
【担当】「やっぱ駄目です?」
【斗真】「今は絶好調」
【担当】「ああ」
【斗真】「一番信用ならないやつ」
【担当】「現地行かないと無理ですかね」
【斗真】「もう一回症状拾ってからかな。設定なら遠隔で分かるけど、現地側の配線とか機器まで行くと見ないと分からん」
【担当】「また行けます?」
【斗真】「俺?」
【担当】「前回見てもらってるので、その方が早いです」
【斗真】「まあ、そりゃそうだけど」

 斗真は画面を見た。
 拠点名。
 前回乗った新幹線。
 駅。
 人の流れ。
 紙袋。
 振り返った顔。

【澪】「……斗真さん?」

 一秒だけ止まった。

【担当】「厳しいです?」
【斗真】「いや」
【斗真】「仕事なら行くよ」

 自分で言ってから、
 仕事なら、
 という言葉だけが少し残った。

 その日の午後、もう一度症状が出た。
 今度は再起動する前に連絡が来た。
 斗真は遠隔で状態を確認しながら、現地担当に電話機を操作してもらった。
 内線から発信。
 正常。
 外線。
 正常。
 放送起動。
 反応なし。
 別の電話機から同じ操作。
 やはり反応なし。

【斗真】「そのままでお願いします。何も再起動しないで」
【現地担当】「はい」
【斗真】「放送側の機械、ランプ見えます?」
【現地担当】「見えます」
【斗真】「普段と違うのあります?」
【現地担当】「ちょっと待ってください」

 電話の向こうで足音がした。

【現地担当】「特にないですね」
【斗真】「了解です」

 いくつか確認する。
 途中までは信号が出ている。
 だが最後のところで、放送側へうまく渡っていないように見えた。
 設定だけでは説明がつかない。

【斗真】「やっぱ現物見たいな」
【担当】「ですよね」
【斗真】「途中の配線か、間にいる機器か。切り分けないと分からん」
【担当】「じゃあ調整します」
【斗真】「はい」

 数時間後、日程が送られてきた。
 翌週。
 前日午後入り。
 翌朝、現地確認。
 必要なら部材交換。
 午後には終了予定。
 帰りの新幹線は、前回より少し遅い時間だった。
 斗真は予定表へ登録した。
 業務予定として。
 ただの出張だった。
 少なくとも、会社が斗真をそこへ送る理由は。

【和兎】「また遠い街やな」
【斗真】「うん」
【和兎】「同じとこ?」
【斗真】「同じ」
【和兎】「ほう」
【斗真】「何だよ」
【和兎】「別に」
【斗真】「言えよ」
【和兎】「澪おるな」
【斗真】「いるな」

 即答してしまった。
 斗真は自分で少し嫌になった。

【和兎】「覚えてるやん」
【斗真】「そりゃ覚えてるわ」
【和兎】「会いたい?」
【斗真】「……そりゃ会いたいよ」

 墓の前で言った時より、
 今度は少しだけ簡単に出た。
 気持ちそのものを否定する必要がないことは、もう分かっていた。

【和兎】「ほな」
【斗真】「でも、それとこれは別」
【和兎】「何が?」
【斗真】「俺があっち行くのは仕事」
【和兎】「うん」
【斗真】「澪に会うためじゃない」
【和兎】「うん」
【斗真】「そこで仕事を理由に近づいたら、話変わるだろ」
【和兎】「会う約束するだけでも?」
【斗真】「そういう話じゃねえんだよ」

 斗真は少し考えた。

【斗真】「俺の中では、もう会いたいって分かってるじゃん」
【和兎】「うん」
【斗真】「だから余計に、理由をすり替えたくない」
【和兎】「仕事で来たついで、って?」
【斗真】「そう」
【和兎】「でも実際仕事やん」
【斗真】「だから面倒なんだよ」

 和兎から、少し間が空いた。

【和兎】「斗真」
【斗真】「何」
【和兎】「それ、会いたいって言うたらあかんと思ってる?」
【斗真】「思ってない」
【和兎】「ほな?」
【斗真】「会いたいって思うのは俺の話」
【斗真】「会うのは二人の話だろ」

 返事はすぐに来なかった。

【和兎】「それでええと思う」
【斗真】「珍しく素直だな」
【和兎】「たまにはな」
【斗真】「いつもそうしろ」

 斗真はスマートフォンを伏せた。
 出張の日程は決まった。
 澪には言わなかった。

 その夜も、澪から連絡は来なかった。
 斗真も送らなかった。
 翌日も来なかった。
 三日目の夕方、曲のリンクが一つだけ届いた。

【澪】「これ、前言ってたやつにちょっと似てません?」

 斗真は仕事の帰りだった。
 電車の中でイヤホンを出す。
 最初の一分だけ聴いた。

【斗真】「似てる」
【斗真】「でもこっちの方がベース変」
【澪】「また変って言う」
【斗真】「褒めてる」
【澪】「便利な言葉にしてません?」
【斗真】「バレた?」

 そこで一度終わった。
 夜になって、澪からもう一通来た。

【澪】「最後まで聴きました?」
【斗真】「今聴いた」
【澪】「どうでした」
【斗真】「途中から全然似てなかった」
【澪】「ですよね笑」
【斗真】「何で送った」
【澪】「最初だけで送った」
【斗真】「雑」
【澪】「すみません」

 それだけだった。
 翌日は何もない。
 その次の日も、昼に一往復しただけだった。
 毎日続く会話ではなかった。
 朝から晩まで相手を知るようなやり取りでもない。
 曲が一つ。
 写真が一つ。
 短い言葉が二、三個。
 そこで終わる。
 斗真には、そのくらいがよかった。
 物足りないと感じる時もあった。
 でも、物足りなさを埋めるために何かを増やすのは、もう違う気がしていた。

 出張の三日前。
 現地から作業時間の確認が来た。
 予定どおり前日入り。
 翌朝九時から。
 不具合が再現しなくても、配線と中継機器を現認する。
 予備の機器も持っていくことになった。
 斗真は必要なものを机の上へ並べた。
 仕事用端末。
 充電器。
 変換ケーブル。
 短い配線。
 簡単な工具。
 予備機。
 前回とほとんど同じだった。
 違うのは、
 あの街に澪がいると、もう知っていることだった。
 スマートフォンが目に入る。
 メッセージ画面を開く。
 最後にあるのは、昨日の音楽の話だった。

【澪】「この音、最後だけ変わりますよね」
【斗真】「変わる」
【澪】「やっぱり」
【斗真】「そこ気づくようになったな」
【澪】「先生のおかげです」
【斗真】「弟子にした覚えはない」
【澪】「じゃあ独学です」

 そこで終わっている。
 斗真は入力欄を押した。

「来週またそっち方面行くことになった」

 打って、
 止まる。
 読む。
 消す。

【斗真】「……何の報告だよ」

 スマートフォンを置いた。

【和兎】「送らんの?」
【斗真】「見てたのかよ」
【和兎】「見てへん。顔」
【斗真】「顔で分かるか」
【和兎】「分かる時ある」
【斗真】「怖えな」
【和兎】「言いたいん?」
【斗真】「まあ」
【和兎】「ほな言えば?」
【斗真】「簡単に言うな」
【和兎】「来週そっち行く、だけやろ」
【斗真】「それだけに見えるか?」
【和兎】「斗真には見えへんやろな」
【斗真】「だろ」
【和兎】「でも澪には?」
【斗真】「分からん」
【和兎】「ほな、澪の意味まで斗真が決めんでええんちゃう」

 斗真は手を止めた。
 また画面を見る。

【斗真】「俺が送った時点で、何か期待してるだろ」
【和兎】「そらちょっとは」
【斗真】「ほら」
【和兎】「期待したらあかんの?」
【斗真】「期待を相手に背負わせるのが嫌なんだよ」
【和兎】「会って、って書かへんかったらええやん」
【斗真】「……」
【和兎】「予定空けて、とも」
【斗真】「……」
【和兎】「来週行くって事実だけ伝えて」
【和兎】「その先は澪が決める」
【斗真】「それも誘導じゃねえ?」
【和兎】「斗真、めんどくさ」
【斗真】「うるせえ」

 斗真は笑った。
 少しだけ。
 そこから一時間、何も送らなかった。

 夜十一時を過ぎた頃。
 澪から先にメッセージが来た。

【澪】「この前の曲、別のライブ版ありました」

 リンクが一つ。
 斗真は開いた。
 最初だけ見る。

【斗真】「ほんとだ」
【澪】「こっちの方が好きかも」
【斗真】「音荒いけどね」
【澪】「だからかも」
【斗真】「なるほど」

 少し間が空く。

【澪】「まだ起きてたんですね」
【斗真】「そっちもな」
【澪】「私はまだ寝ません」
【斗真】「若いな」
【澪】「何ですかそれ」
【斗真】「何でもない」
【澪】「おじさんみたい」
【斗真】「おじさんだよ」

 送ってから、斗真は少し笑った。
 澪からも笑っている顔が来た。
 そこで会話は終わりそうだった。
 斗真は入力欄を開く。
 また閉じる。
 もう一度開いた。

【斗真】「そういえば」

 送った。
 少しして、

【澪】「はい」

 と来た。
 斗真は一度、息を吐いた。

【斗真】「来週また、前に行った出張先へ行くことになった」
【澪】「え」
【澪】「また?」
【斗真】「また」
【澪】「何かあったんです?」
【斗真】「電話が機嫌悪い」
【澪】「電話に機嫌あるんや」
【斗真】「ある。だいたい人が見に行くと元気になる」
【澪】「犬みたい」
【斗真】「犬の方が素直」

 斗真はそこまで返して、スマートフォンを置いた。
 自分から会う話はしなかった。
 何時に着くとも。
 何時に帰るとも。
 時間ある、とも書かなかった。
 少しして、また通知が鳴った。

【澪】「前みたいに新幹線ギリギリならんようにしてくださいね」

 斗真は画面を見て、笑った。

【斗真】「今回はちゃんと乗る」
【澪】「前も乗ってましたけど」
【斗真】「確かに」
【澪】「何しに行くんですか笑」
【斗真】「電話直しに」
【澪】「それは知ってる」
【斗真】「じゃあ何を聞いてるんだ」
【澪】「私も分からん」

 そこで二人とも止まった。
 数分後。

【澪】「頑張ってください」
【斗真】「ありがとう」
【澪】「おやすみなさい」
【斗真】「おやすみ」

 そこで会話は終わった。
 斗真はスマートフォンを伏せた。
 少しだけ物足りない。
 でも、その物足りなさまで埋めようとは思わなかった。
 机の上には、出張用の端末と工具が並んでいる。
 帰りの新幹線の時刻を、斗真はもう一度だけ確認した。
 前回より少し遅い。
 それを見て、何かを考えかけた。
 画面を閉じた。

 澪も、すぐには眠らなかった。
 スマートフォンを充電器につなぎ、ベッドへ入る。
 部屋を暗くしてから、さっきの会話を一度だけ思い出した。

 また来るんや。

 それだけだった。
 日付は聞かなかった。
 聞く理由も、まだなかった。
 目を閉じる。
 しばらくして、遠くで車の音がした。
 澪は寝返りを打った。
 次にスマートフォンを見た時には、もう日付が変わっていた。

第17章 会いたいなら  

出張の日は、朝から雨だった。強くはない。傘を差したり、閉じたりする程度の雨だった。
 斗真は仕事用の鞄を足元へ置き、新幹線の窓を見ていた。流れていく景色は、前回来た時と変わらない。遠くへ来ているという実感も、二度目になると少し薄かった。
 スマートフォンを開く。
 澪とのメッセージは、三日前で止まっている。

【澪】「頑張ってください」
【斗真】「ありがとう」
【澪】「おやすみなさい」
【斗真】「おやすみ」

 今日がその日だとは言っていない。
 来週また行く。
 そこまでしか伝えていなかった。
 言わなかったことに深い意味があるわけではない。
 そう思おうとすると、逆に少し意味が出てくる。

【和兎】「言わんの?」
【斗真】「何を」
【和兎】「今日やって」
【斗真】「来週行くとは言った」
【和兎】「来週、長いで」
【斗真】「知ってる」
【和兎】「澪からしたら今日か分からへんやん」
【斗真】「だからいいんだろ」
【和兎】「何が」
【斗真】「予定合わせてもらうために言ったんじゃない」
【和兎】「うん」
【斗真】「今日です、何時に終わります、帰り何時です、まで言ったらさ」
【和兎】「誘ってるみたい?」
【斗真】「……みたいじゃなくて、たぶん誘ってる」
【和兎】「誘いたいん?」
【斗真】「……会いたいよ」
【和兎】「ほな」
【斗真】「今日は仕事」
【和兎】「うん」
【斗真】「まずそれ」

 斗真はスマートフォンを伏せた。
 雨粒が窓を斜めに流れていく。
 トンネルへ入るたび、自分の顔がガラスに浮いた。
 四十八歳。
 先日、墓の前で口にした数字を思い出した。
 数字は何も変えない。
 会いたいと思ったことも変えない。
 ただ、その気持ちをどう扱うかだけは、前より少し考えるようになった。

 澪はその日の昼休み、コンビニで買ったサンドイッチを食べながらスマートフォンを見ていた。
 休憩室では、誰かが電子レンジを使っている。壁際のテレビは音を絞ったまま、天気予報を流していた。
 通知には、斗真の名前はなかった。
 当然だった。
 今日が出張の日かどうかも知らない。
 そもそも、今週のどこかで来るという話しか聞いていない。
 それなのに、週が始まってから一度だけ、駅を通るたびに思い出していた。

【澪】「……今日なんかな」
【同僚】「何が?」
【澪】「何でもない」
【同僚】「また独り言」
【澪】「最近多いな」
【同僚】「自覚あるんや」
【澪】「ある」

 笑って、残りを食べた。
 聞けばいいだけだった。

「出張いつですか」

 それだけなら、不自然でも何でもない。
 でも、そのあとに続くものが少しだけ見える。
 今日なら。
 何時まで仕事なのか。
 帰りは何時なのか。
 そこまで考えて、澪はスマートフォンを伏せた。
 紙パックの飲み物を一口飲む。
 冷たかった。
 何も知らなければ、今日がその日でも普通に帰れる。
 それでいい気もした。

 斗真が現地へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
 前回と同じホテルへ荷物を置き、そのまま拠点へ向かう。
 翌朝の作業に備えて、症状の出ていた場所をもう一度見た。
 電話設備。
 中継機器。
 放送設備へ渡る配線。
 現地担当が記録を持ってきた。

【現地担当】「昨日も一回だけ駄目でした」
【斗真】「再起動しました?」
【現地担当】「してないです」
【斗真】「偉い」
【現地担当】「褒められた」
【斗真】「証拠消されると困るんで」

 端子を確認する。
 配線を追う。
 前回の切替時には、動作していた。
 だからこそ面倒だった。
 完全に間違っているなら、最初から動かない。
 たまに駄目になる。
 こういうものほど、現場では時間を食う。
 中継機器の表示を見ながら、一本ずつ触れる。
 何も起きない。
 もう一本。
 その次。

【斗真】「……ん?」

 小さな表示が、一瞬だけ揺れた。
 同じ箇所へもう一度触れる。
 正常。
 角度を変える。
 表示が落ちた。

【斗真】「いた」
【現地担当】「いました?」
【斗真】「たぶん」

 端子を外す。
 一本だけ、他よりわずかに浅かった。

【斗真】「明日ここ替えます」
【現地担当】「それで直ります?」
【斗真】「直ってほしいですね」
【現地担当】「願望」
【斗真】「最後はちょっと入ります」

 笑い声が返ってきた。
 斗真も笑った。
 仕事をしている間は、澪のことをほとんど考えなかった。
 ケーブルの番号を追い、動作を確認し、記録を取る。
 目の前にやることがある時、人間は意外と一つのことしか考えられない。
 それが少し楽だった。
 ホテルへ戻る頃には、雨は止んでいた。
 コンビニで夕飯を買った。
 部屋へ入り、濡れた靴を入口に揃える。
 テレビをつける。
 知らない店のCM。
 地方の天気予報。
 前回来た時と、大して変わらない。
 スマートフォンを充電器につないだ。
 澪には何も送らなかった。
 送らなくても、今日という日は普通に終わる。
 斗真はコンビニの弁当を食べた。

 翌朝九時。
 中継機器を交換した。
 配線を作り直す。
 固定。
 電源投入。
 内線から起動。

【斗真】「一回目、オーケー」

 別の電話機から。
 正常。
 少し時間を置いて、もう一度。
 正常。
 現地担当が横で記録を取っている。
 斗真は時計を見た。

【斗真】「最後、実際に流します」

 館内へ試験の連絡が入る。
 斗真は電話機を取った。

【斗真】「試験放送です。音声確認お願いします」

 少しして返事が来る。

【現地担当】「聞こえてます」
【斗真】「もう一回いきます」

 同じ操作。
 正常。

【斗真】「これで様子見ましょう」
【現地担当】「ありがとうございました」
【斗真】「また出たら連絡ください」
【現地担当】「出ない方がいいですね」
【斗真】「それが一番です」

 作業終了。
 端末を閉じる。
 工具を戻す。
 外した部材を袋へ入れる。
 資料をまとめる。
 全部終えて時計を見ると、十四時を少し回っていた。
 予定より早い。
 帰りの新幹線までは、まだ二時間以上あった。
 前回より遅い便にしていたことを、その時初めて少し意識した。
 理由は仕事だった。
 作業が長引いた時のため。
 それは嘘ではない。
 それだけだったかと聞かれると、少し分からなかった。
 駅へ向かう電車に乗った。
 座席に鞄を置き、スマートフォンを開く。
 澪との画面。
 入力欄を押す。

「直った」

 打った。
 そこから先は書かなかった。
 送る。
 自分でも拍子抜けするほど簡単だった。
 返事は、駅へ着く少し前に来た。

【澪】「お疲れさまです」
【斗真】「ありがとう」
【澪】「電話、機嫌直りました?」
【斗真】「たぶん」
【澪】「たぶんなんや」
【斗真】「帰ってから拗ねるかもしれない」
【澪】「めんどくさいですね」
【斗真】「ほんとに」

 そこで一度、会話が止まった。
 斗真は画面を閉じた。
 送ったのは、仕事が終わったという報告だけだった。
 それ以上でもない。
 駅へ着く。
 仕事道具をコインロッカーへ入れる。
 端末。
 工具。
 予備機。
 急に鞄が軽くなった。
 必要なものだけ小さい鞄へ移していると、スマートフォンが震えた。

【澪】「もう帰るんですか」

 斗真は少しだけ動きを止めた。

【斗真】「夕方の新幹線」
【澪】「まだちょっとありますね」
【斗真】「うん」

 それだけだった。
 でも、すぐに画面を閉じることができなかった。

 澪は仕事場の休憩室で、その返事を見た。

【斗真】「夕方の新幹線」
【澪】「まだちょっとありますね」
【斗真】「うん」

 送ったあと、自分の文章を見た。
 まだちょっとある。
 何が、なのか。
 時間が。
 それだけだった。
 時計を見る。
 仕事が終わるまで、あと少し。
 駅までは、いつもの経路ならそれほどかからない。
 そこまで考えてしまったことに気づき、澪は画面を閉じた。
 机の上に置いてあったペンを指で転がす。
 斗真からは、それ以上来ない。
 少しだけ安心した。
 少しだけ、何か足りなかった。

【同僚】「今日、上がり一緒?」
【澪】「たぶん」
【同僚】「駅まで?」
【澪】「途中まで」
【同僚】「何か買うん?」
【澪】「別に」

 別に。
 言ったあとで、少しだけ可笑しくなった。
 まだ何も決まっていない。
 斗真が会いたいと思っているかも分からない。
 自分だって、会いたいと言うほどではない。
 ただ、前回よりもう少し話してみたい。
 それなら、もう分かっていた。

 斗真は駅のベンチへ座った。
 売店の前を、人が行き来している。
 旅行者。
 学生。
 仕事帰りにはまだ少し早い人たち。
 店員がペットボトルを補充する音がした。
 スマートフォンを開く。
 最後のメッセージ。

【澪】「まだちょっとありますね」
【斗真】「うん」

 短い。
 短すぎて、いくらでも意味を足せる。
 だから、足さないようにする。

【和兎】「時間あるな」
【斗真】「あるな」
【和兎】「澪も知ったな」
【斗真】「知ったな」
【和兎】「で?」
【斗真】「何が」
【和兎】「会いたいんやろ」
【斗真】「……うん」
【和兎】「なら言えば?」
【斗真】「簡単に言うな」
【和兎】「前よりは簡単やろ」
【斗真】「どこが」
【和兎】「会いたいって思うこと自体は、もう認めてる」
【斗真】「まあ」
【和兎】「あとは斗真の分だけ言えばええ」
【斗真】「俺の分?」
【和兎】「うん」
【和兎】「返事は澪のもんや」
【斗真】「断られたら?」
【和兎】「帰る」
【斗真】「即答だな」
【和兎】「新幹線あるやん」
【斗真】「そういう問題じゃねえ」
【和兎】「でも、そういう問題でもあるで」

 斗真は少し笑った。
 目の前を、大きなキャリーケースを引いた男が通り過ぎる。
 入力欄を開く。

「時間あったら会わない?」

 打つ。
 消す。

「少し話せる?」

 また消す。

【斗真】「何でこんな一行が難しいんだよ」
【和兎】「四十八年分入れようとするからやろ」
【斗真】「やかましい」

 もう一度入力欄へ戻る。
 今度は、あまり考えなかった。

【斗真】「もし時間合うなら、もう少し話したい」

 送った。
 送信済みの表示が出る。
 すぐには既読にならない。
 斗真は画面を閉じた。
 水を買う。
 一口飲む。
 もう一度見る。
 まだ。
 時計を見る。
 さっき見たばかりだった。
 立ち上がって売店を見る。
 何も欲しくない。
 また座る。
 スマートフォンが震えた。
 すぐに開かず、一度だけ息を吐いた。

【澪】「今日ですか?」
【斗真】「今日」
【澪】「何時の新幹線です?」
【斗真】「あと二時間くらい」

 そこでまた止まった。

 澪は更衣室で、その返事を見た。
 あと二時間。
 ロッカーの扉を閉める。
 髪を軽く直す。
 そこで自分の手が止まった。
 何で直した。
 少し考えて、手を離した。

【澪】「……普通やろ」

 誰に言ったわけでもない。
 斗真から来たのは、「会いたい」ではなかった。
「もう少し話したい」
 その言い方が、少しだけ楽だった。
 前回の続きをするくらいに聞こえる。
 澪は返信欄を開いた。

「今から行けます」

 打つ。
 見る。
 消す。

「仕事終わるので、たぶん行けます」

 また見る。
 たぶん。
 何のたぶんなのか分からない。
 消した。

【澪】「……めんどくさ」

 小さく言った。
 隣のロッカーが閉まる音がした。
 澪は少し場所をずらして、もう一度打った。

【澪】「私、もうちょっとで仕事終わります」

 送る。
 返事はすぐだった。

【斗真】「そうなんだ」

 澪は画面を見た。

【澪】「……そこなんや」

 少し笑った。
 押してこない。
 だから、自分で次を決めるしかない。
 鞄を肩へかける。

【澪】「駅まで行けます」
【斗真】「無理してない?」
【澪】「してないです」

 廊下を歩く。
 外へ出る。
 雨はもう止んでいた。
 歩道の端にだけ水が残っている。
 信号待ちで、澪はまたスマートフォンを出した。
 何か一つだけ言い足りない気がした。
 前回は偶然だった。
 今日は、自分で駅へ行く。
 それなら、もう少しだけ言ってもいい気がした。

【澪】「私も、もう一回くらい話してみたいです」

 送る。
 青に変わった信号を渡る。
 少しして、返事が来た。

【斗真】「じゃあ、駅で」
【澪】「はい」
【澪】「着いたら言います」

 スマートフォンを鞄へ入れた。
 十歩ほど歩いてから、また取り出す。
 時間だけ見る。
 通知はない。
 もう一度鞄へ戻した。

 斗真は売店で茶を一本買った。
 すでに水を持っていることに、買ってから気づいた。

【斗真】「……何やってんだ」
【和兎】「知らん」
【斗真】「お前が言うな」

 まだ二十分以上ある。
 改札の近くまで移動する。
 早すぎた。
 ベンチへ座る。
 五分ほどして立つ。
 案内板を見る。
 また座る。
 自分でも落ち着きがないと思う。
 スマートフォンを見る。
 通知はない。
 駅の構内放送。
 キャスターの音。
 改札が開く電子音。
 前回は、こういう音の中で突然名前を呼ばれた。
 今日は、来ると分かっている。
 分かっている方が、落ち着かない。

【和兎】「緊張してる?」
【斗真】「してない」
【和兎】「そう」
【斗真】「……ちょっと」
【和兎】「知ってる」
【斗真】「うるせえ」

 人が改札から出てくるたび、無意識に顔を上げる。
 違う。
 また人が出る。
 違う。
 白っぽい髪が見えて、一瞬だけ胸が動く。
 別人だった。

【斗真】「やめろ俺」

 小さく言った。
 座ったままでは落ち着かず、立つ。
 立つと立つで、待ち構えているような気がしてまた少し嫌になる。
 結局、柱の近くへ移動した。
 茶を一口飲む。
 さっき買った水もある。
 どちらもほとんど減っていない。
 時計を見る。
 あと十分。
 澪の「駅まで行けます」を読み返そうとして、やめた。
 来る。
 それだけ分かっていればいい。

 澪は駅へ着く少し前で、歩く速さを落とした。
 急いでいるわけではない。
 待たせたいわけでもない。
 ただ、そのままの速さで改札まで行くと、少し息が上がりそうだった。
 道沿いのガラスに、自分の姿が一瞬映る。
 髪を触りかけて、やめた。
 前を見る。
 駅の入口が近づく。
 何度も使っている、いつもの駅だった。
 前回だって、普通に帰る途中だった。
 今日は少しだけ違う。
 自分でここへ来た。
 それだけだった。
 改札の手前でスマートフォンを出す。

【澪】「着きました」

 送る。
 すぐ鞄へ入れた。
 返事を待たず、そのまま歩いた。

 斗真のスマートフォンが震えた。

【澪】「着きました」

 立ち上がる。
 ベンチに茶を置いたまま二歩進んで、戻った。

【斗真】「……危な」

 茶を鞄へ突っ込む。
 改札の方を見る。
 人が出てくる。
 一人。
 二人。
 まだ見えない。
 また数人。
 斗真は動かなかった。
 探しに行かなかった。
 ただ、その場所にいた。
 やがて、人の流れの向こうに淡い髪が見えた。
 前回と違って、今度は見間違えなかった。
 斗真は、名前を呼ぶ少し前に一度だけ息を吸った。

第18章 今は、な  

人の流れの向こうに、淡い髪が見えた。
 前回と違って、今度は見間違えなかった。
 斗真は一度だけ息を吸った。

【斗真】「澪さん」

 澪が顔を上げた。
 視線が合う。
 少しだけ歩く速度が落ちた。

【澪】「お疲れさまです」
【斗真】「お疲れさま」
【澪】「待ちました?」
【斗真】「そんなに」
【澪】「どれくらい?」
【斗真】「二十分くらい」
【澪】「待ってるやん」
【斗真】「早く来すぎただけ」
【澪】「何で」
【斗真】「知らん」

 澪が笑った。
 斗真も少し笑った。
 前回は、名前を呼ばれたあと何を話せばいいのか分からなかった。
 今日は会うことだけは決めていた。
 その先は、やっぱり決めていなかった。

【澪】「新幹線、何時です?」
【斗真】「あと一時間半くらい」
【澪】「結構ある」
【斗真】「うん」
【澪】「立ってるんもあれですね」
【斗真】「何か飲む?」
【澪】「はい」

 駅の中を少し歩いた。
 近くのコーヒーショップへ入る。
 夕方にはまだ早い時間で、店内は半分ほど埋まっていた。
 二人席が一つ空いている。
 先に注文することになった。

【斗真】「何飲む?」
【澪】「カフェラテ」
【斗真】「ホット?」
【澪】「アイス」
【斗真】「寒くない?」
【澪】「平気です」
【斗真】「若いな」
【澪】「またそれ」
【斗真】「すみません」

 澪が先に自分の分を払った。
 斗真も何も言わず、後ろでコーヒーを買った。
 トレーを持って席へ向かう。
 向かい合って座ると、さっきまでより少しだけ互いの顔が近くなった。
 斗真は紙コップの蓋を外して、すぐ戻した。
 まだ熱い。
 澪はストローを袋から出し、袋を細く丸めている。

【澪】「電話、直ったんですか」
【斗真】「たぶん」
【澪】「まだ言う」
【斗真】「こういうの、帰ったあと再発するんだよ」
【澪】「嫌ですね」
【斗真】「嫌だよ」
【澪】「また呼ばれたら?」
【斗真】「また来るかもね」
【澪】「ふうん」

 そこで澪はカフェラテを飲んだ。
 斗真もコーヒーを一口飲む。
 まだ熱かった。

【澪】「今回、何が悪かったんです?」
【斗真】「多分、途中の接触」
【澪】「接触」
【斗真】「電話から放送の機械まで何個か通るんだけど、その途中」
【澪】「見たら分かるんです?」
【斗真】「分からないから面倒なんだよ」
【澪】「ああ」
【斗真】「触ると落ちる。離すと元気」
【澪】「ほんまに犬みたい」
【斗真】「犬に失礼だな」

 澪が笑った。
 店の奥でミルクを泡立てる音がした。
 横のテーブルでは、二人組がスマートフォンの画面を見ながら何か相談している。
 ただの駅の中だった。

【澪】「斗真さんって、そういう仕事ずっとしてるんです?」
【斗真】「ずっとではないけど、長いね」
【澪】「電話の人?」
【斗真】「ざっくり言うと」
【澪】「電話の人」
【斗真】「肩書き雑だな」
【澪】「分かりやすい」
【斗真】「まあ、それでいいか」

 仕事の話はそのくらいで終わった。
 斗真も、澪の仕事については聞かなかった。
 聞こうと思えば聞けた。
 でも、今すぐ知らなくても困らない。
 そういうことが、前より少し増えた。
 澪がストローの袋を指先で折る。
 一度開いて、また折った。

【澪】「何か」
【斗真】「ん?」
【澪】「普通ですね」
【斗真】「何が」
【澪】「こうやって喋ってるの」
【斗真】「普通じゃ駄目?」
【澪】「駄目ちゃうけど」
【斗真】「じゃあいいじゃん」
【澪】「そうやけど」

 澪は少し考えた。

【澪】「前は画面におった人やったから」
【斗真】「それは俺も同じ」
【澪】「私も?」
【斗真】「そりゃそうだろ」
【澪】「でも斗真さん、めっちゃ見てたんちゃうん」
【斗真】「……まあ」
【澪】「否定せえへんのや」
【斗真】「今さらな」

 澪は少し笑った。
 斗真はコーヒーを飲んだ。
 さっきよりは飲める温度になっていた。

【澪】「あの」
【斗真】「うん」
【澪】「前からちょっと聞きたかったことあるんですけど」
【斗真】「何」
【澪】「……やっぱええかな」
【斗真】「そこまで言ったら聞くよ」
【澪】「ですよね」

 ストローの先で氷が動く。
 小さな音がした。

【澪】「何で、全部消したんですか」

 斗真はすぐに分かった。
 フォロー。
 いいね。
 コメント。
 自分で消して、自分で見えなくしたもの。

【斗真】「ああ」
【澪】「急に全部なくなったから」
【斗真】「うん」
【澪】「何かしたかなって、一瞬思った」
【斗真】「それは違う」
【澪】「うん」
【斗真】「澪さんは何もしてない」
【澪】「じゃあ何で?」

 斗真は少し黙った。
 九か月前なら、もっと長く説明したと思う。
 自分がどれだけ考えていたか。
 何が怖かったか。
 どこまで勝手に想像していたか。
 今は、そこまで言わなくてもいい気がした。

【斗真】「俺の方が、ちょっと変になってたから」
【澪】「変?」
【斗真】「見過ぎてた」
【澪】「私を?」
【斗真】「うん」
【斗真】「今日は仕事かな、とか」
【斗真】「今どこにいるのかな、とか」
【斗真】「そういうの」
【澪】「……ああ」
【斗真】「別に教えてもらったわけでもないのに」
【斗真】「勝手に答え作ってた」
【澪】「怖」
【斗真】「そうなんだよ」

 斗真が普通に返したので、澪が少し笑った。

【澪】「そこ認めるんや」
【斗真】「認めるよ」
【澪】「もっと言い訳するかと思った」
【斗真】「何を言い訳すんの」
【澪】「分からんけど」
【斗真】「俺も分からん」

 少し間が空いた。

【斗真】「だから一回、全部やめた」
【澪】「フォローも?」
【斗真】「うん」
【澪】「コメントも?」
【斗真】「うん」
【澪】「いいねも?」
【斗真】「うん」
【澪】「徹底してる」
【斗真】「中途半端だと、また見るから」
【澪】「そんなに?」
【斗真】「そんなに」

 澪はカフェラテを一口飲んだ。
 斗真の方を見たりはしなかった。
 ストローの先を少し動かしている。

【澪】「嫌いになったんかと思ってました」
【斗真】「嫌いにはなってない」
【澪】「そうなんや」
【斗真】「嫌いなら楽だったかもな」
【澪】「それ、どういう意味です?」

 斗真は一度、言葉を止めた。

【斗真】「気になりすぎてたってこと」
【澪】「……」
【斗真】「それだけ」

 澪は何も返さなかった。
 斗真も続けなかった。
 レジの方から注文番号を呼ぶ声がした。

【澪】「私、全然知らんかった」
【斗真】「知らなくていいと思ってた」
【澪】「何で?」
【斗真】「俺の中で起きてたことだから」
【澪】「……そっか」

 それで一度、話は止まった。
 斗真はコーヒーを飲んだ。
 澪は氷の減ったカフェラテを見ている。

【澪】「今は?」

 斗真は顔を上げた。

【斗真】「今?」
【澪】「今も、そんな感じなんですか」

 会えて嬉しかった。
 新幹線の中で心臓がひどく鳴った。
 墓へ行った。
 もう一度会いたいと思った。
 今日、自分から誘った。
 それを全部並べて渡す必要はなかった。

【斗真】「気にはなるよ」
【澪】「なるんや」
【斗真】「なる」
【澪】「ふうん」
【斗真】「何その反応」
【澪】「別に」

 少しして、澪が笑った。

【斗真】「ただ」
【澪】「うん」
【斗真】「分からないところまで、勝手に埋めないようにはしてる」
【澪】「できてます?」
【斗真】「……今は、な」

 澪が一度だけ斗真を見る。

【澪】「今は、なんや」
【斗真】「絶対って言うと嘘になるから」
【澪】「慎重ですね」
【斗真】「歳食うとこうなる」
【澪】「何歳なんですか」

 斗真は少し止まった。

【斗真】「四十八」
【澪】「あ」
【斗真】「何」
【澪】「やっぱそのくらいなんや」
【斗真】「何となく分かってた?」
【澪】「二十歳の時の話してたから」
【斗真】「計算したのね」
【澪】「そこまで難しくないです」
【斗真】「ですよね」

 澪は少し笑った。

【澪】「四十八か」
【斗真】「二回言うな」
【澪】「いや、ちゃんと聞いたの初めてやから」
【斗真】「まあ、そうか」
【澪】「もっと若いと思ってました、って言った方がいい?」
【斗真】「いらない」
【澪】「じゃあ言わん」
【斗真】「そこはちょっと言えよ」
【澪】「めんどくさ」

 斗真は笑った。
 澪も笑った。
 少しして、澪が口を開く。

【澪】「私の歳は聞かへんのですね」
【斗真】「うん」
【澪】「気にならへん?」
【斗真】「気にはなる」
【澪】「じゃあ聞けばいいのに」
【斗真】「今知らなくても困らないから」
【澪】「何それ」
【斗真】「そのまま」
【澪】「変なの」
【斗真】「そう?」
【澪】「普通は聞くんちゃいます?」
【斗真】「普通がよく分からん」

 澪はそれ以上言わなかった。
 斗真も聞かなかった。
 年齢を知らなくても、目の前にいる澪が自分よりずっと若いことくらいは分かる。
 それを数字にしたところで、何かが急に分かるわけでもなかった。

 話はまた音楽へ戻った。
 澪がスマートフォンを出す。

【澪】「この前のやつ、別の映像見つけました」
【斗真】「また?」
【澪】「また」
【斗真】「どれ」

 画面を見せてもらう。
 斗真はイヤホンを片方だけ借りた。
 数十秒聴く。

【斗真】「こっち、ベースいいね」
【澪】「またベース」
【斗真】「駄目?」
【澪】「ギターの人やと思ってた」
【斗真】「全部聴くよ」
【澪】「歌詞も?」
【斗真】「聴くって」
【澪】「意外」
【斗真】「前も言っただろ」
【澪】「忘れた」
【斗真】「ひどいな」

 澪がイヤホンを戻す。
 斗真は自分のスマートフォンを出した。

【斗真】「じゃあこれ」
【澪】「何です?」
【斗真】「多分好き」
【澪】「また勝手に決めてる」
【斗真】「……ほんとだな」

 斗真は一度、画面を止めた。
 澪が少し笑った。

【澪】「でも聴きます」
【斗真】「お願いします」

 リンクだけ送った。
 澪はその場では再生しなかった。

【澪】「帰ってから聴きます」
【斗真】「うん」

 それでよかった。
 店内の時計を見る。
 思っていたより時間が経っている。
 新幹線まで、あと四十分ほどだった。

【斗真】「そろそろ行くわ」
【澪】「あ」
【斗真】「何」
【澪】「いや」
【斗真】「うん」
【澪】「もうそんな時間なんや」
【斗真】「一時間くらいいる」
【澪】「ほんま?」
【斗真】「時計見てみ」
【澪】「……ほんまや」

 澪はカフェラテの残りを飲んだ。
 斗真もコーヒーを飲み切った。
 紙コップを捨て、店を出る。

 駅の中を並んで歩いた。
 さっきまで座っていたせいか、急に人の流れが速く感じる。
 斗真はコインロッカーを開けた。
 仕事用端末。
 工具。
 予備機。
 小さい鞄へ移していた荷物も戻す。
 肩へかけると、急に重くなった。

【澪】「重そう」
【斗真】「仕事だからね」
【澪】「それ、ずっと持ってきたんです?」
【斗真】「ロッカー入れてた」
【澪】「賢い」
【斗真】「だろ」
【澪】「自分で言う」

 歩き出す。
 改札が近づいた。
 斗真は少しだけ歩く速度を落とした。
 澪もそのまま横を歩いた。
 どちらからも、次の予定の話は出なかった。
 改札の手前で止まる。

【斗真】「今日はありがとう」
【澪】「こっちこそ」
【斗真】「仕事終わりに悪かったな」
【澪】「悪くないです」
【斗真】「そっか」
【澪】「うん」

 横を人が通る。
 斗真は改札を見る。

【斗真】「じゃあ」
【澪】「はい」

 斗真が一歩動く。

【澪】「あ」

 振り返る。

【斗真】「ん?」
【澪】「また音楽送ってもいいです?」
【斗真】「もちろん」
【澪】「はい」
【斗真】「俺も送る」
【澪】「じゃあ、変なやつ」
【斗真】「変なの限定?」
【澪】「普通なん、いっぱいあるから」
【斗真】「なるほど」

 少し笑った。

【澪】「気ぃつけて」
【斗真】「うん」
【斗真】「澪さんも」
【澪】「はい」

 斗真は改札へ向かった。
 カードをかざす。
 電子音。
 ゲートが開く。
 二歩。
 三歩。
 振り返らなかった。
 振り返らないと決めたわけでもない。
 そのまま歩いた。
 ホームへの案内板が見える。
 そのあたりでスマートフォンが震えた。

【澪】「お茶あります?」

 斗真は止まった。
 鞄を開く。
 売店で買った茶が入っている。

【斗真】「ある」
【澪】「よかった」
【斗真】「何でそこ気にした」
【澪】「何となく忘れそうやったから」
【斗真】「失礼だな」
【澪】「忘れてないならええです」
【斗真】「今回は勝った」
【澪】「何に」

 斗真は笑った。
 それ以上は返さなかった。

 澪は改札の外でスマートフォンを鞄へ戻した。
 立ち止まっていたのは、ほんの少しの間だった。
 すぐに駅の出口へ向かう。
 外へ出ると、雨上がりの空気が少し冷たかった。
 傘を持っている人と、もう畳んでいる人が半々くらいだった。
 歩きながらイヤホンを出す。
 さっき斗真が送ってきた曲を開いた。
 再生する。
 数秒聴いて、音量を一つ下げた。

【澪】「変なんちゃうやん」

 もっと癖の強いものが来ると思っていた。
 思っていたより普通だった。
 普通なのに、少しだけ残る。
 信号で止まる。
 スマートフォンを出して、再生中の画面を見る。
 斗真から新しいメッセージは来ていなかった。
 自分も送らない。
 曲だけが続いている。
 青になって、また歩く。
 四十八。
 さっき初めて聞いた数字を、ふと思い出した。
 驚くほどではなかった。
 ただ、数字になると少し輪郭がつく。
 自分よりずっと長く生きている人。
 二十歳の頃の話を、自分のこととして話せる人。
 ニュース速報を見て、車を出して、行く場所もないまま街を走った人。
 それでも、目の前にいた時は、紙コップの蓋を外して熱がっていた。
 お茶を二本持っていた。
 言葉を選びすぎて、時々黙った。
 そっちの方が、数字より分かりやすかった。
 曲が終わった。
 次の曲へ切り替わる前に、澪は再生を止めた。
 もう一度、最初から聴こうかと思ってやめる。
 今日は一回でいい。
 イヤホンを外して、鞄へ入れる。
 車の音。
 濡れたタイヤが路面を走る音。
 コンビニの自動ドア。
 いつもの帰り道だった。
 駅まで行ったことだけが、その中に少し混ざっていた。

 家に着くと、澪は靴を脱いで、鞄をいつもの場所へ置いた。
 上着を椅子の背にかける。
 冷蔵庫を開ける。
 水を飲む。
 牛乳が少ない。
 明日買う。
 そこまでやってから、ようやく今日がいつもの帰宅ではなかったことを思い出した。
 スマートフォンをテーブルへ置く。
 画面をつける。
 斗真から新しいメッセージは来ていなかった。
 最後は、お茶の話で終わっている。

【澪】「……何に勝ったんやろ」

 少し笑った。
 そのまま画面を閉じる。
 風呂へ入り、髪を乾かす。
 洗濯物を一枚だけ拾って籠へ入れる。
 寝るにはまだ少し早かった。
 ソファへ座る。
 イヤホンを出した。
 帰り道で一度だけ聴いた曲を、もう一度開く。
 再生する。
 最初は、やっぱり普通だった。
 派手な音もない。
 急に何かが変わるわけでもない。
 斗真が「多分好き」と言った理由が、澪にはまだよく分からなかった。
 半分ほどまで聴いたところで、一度止める。

【澪】「何でこれなんやろ」

 すぐに、自分で少し嫌になった。
 理由を考え始めている。
 歌詞がどうとか。
 今日の話と何か関係があるのかとか。
 自分に何か伝えたかったのかとか。
 そこまで行って、昼間の斗真の言葉を思い出した。

【斗真】「分からないところまで、勝手に埋めないようにはしてる」

 澪はスマートフォンを見た。

【澪】「……自分もやん」

 再生を戻す。
 最初から聴く。
 今度は、何で送ったのかを考えない。
 曲だけ聴く。
 少し地味なイントロ。
 途中でベースが一度前へ出る。
 歌が入る。
 派手ではない。
 でも、一度聴いた時より残る。
 サビが終わったあとに、ほんの短い隙間がある。
 澪はそこでもう一度戻した。
 聴く。
 もう一度。

【澪】「……ここかも」

 何が、とは分からない。
 ただ、その一瞬だけ少し好きだった。
 斗真がそこを理由に選んだのかもしれない。
 そう思って、また止める。

【澪】「ちゃうちゃう」

 自分で笑った。
 また勝手に答えを作っている。
 斗真が何を聴いてこの曲を送ったのかは知らない。
 ただ、自分は今ここが好きだった。
 それでよかった。
 最後まで聴く。
 曲が終わる。
 次の曲が自動で始まりかけたので止めた。
 部屋が静かになる。
 イヤホンを外す。
 さっきまで向かいにいた斗真の顔が浮かんだ。
 四十八歳。
 数字だけ聞けば、やっぱり遠い。
 でも実際に話していた時は、数字のことをほとんど考えなかった。
 コーヒーが熱くて蓋を戻したこと。
 何度か言葉を止めたこと。
「怖」と言ったら普通に認めたこと。
 変なところで笑ったこと。
 そういうものの方が先に出てくる。
 澪はソファの背へ頭を預けた。
 会えてよかった。
 そのくらいなら、もう思ってもいい気がした。

【澪】「……うん」

 誰に返したわけでもない。
 スマートフォンを手に取る。
 曲の画面を開く。
 斗真へ何か送ろうかと思った。
「聴きました」
 それだけ打つ。
 少し見る。
 消す。
 感想なら明日でもいい。
 今すぐ送らなくても、曲は逃げない。
 斗真も、たぶん寝る前までずっと画面を見ているわけではない。
 そう思ったあとで、そこまで知っているわけではないことに気づく。

【澪】「……ほんまやな」

 今度は声を出して笑った。
 スマートフォンを伏せる。
 部屋の灯りを一つ消す。
 少しして、また曲を再生した。
 今夜は二回目だった。
 さっき好きだと思った短い隙間を、今度は戻さず、そのまま通り過ぎた。

 その頃、斗真は新幹線の中にいた。
 窓の外はほとんど見えない。
 暗いガラスに自分の顔と、車内の灯りだけが映っていた。
 仕事用の鞄は足元。
 テーブルには、澪に忘れていないか確認された茶が置いてある。
 一口飲む。

【斗真】「ちゃんとあるっつーの」

 誰に言ったわけでもなかった。
 スマートフォンを開く。
 新しい通知はない。
 最後のやり取りは、まだこれだった。

【澪】「忘れてないならええです」
【斗真】「今回は勝った」
【澪】「何に」

 斗真は少し笑って、画面を閉じた。
 何か送ることはいくらでもできた。
 今日はありがとう。
 楽しかった。
 もう家着いた?
 さっきの曲、聴いた?
 どれも間違いではない。
 だからこそ、今は送らなくていい気がした。
 今日の会話は、改札で一度終わっている。
 終わったものを、不安だからという理由でつなぎ直す必要はなかった。
 イヤホンを出す。
 音楽を流す。
 澪に送ったのと同じ曲だった。
 選んだ時には、深く考えていなかった。
 最近のやり取りの中で聴いていたものに、少し近い。
 低いところで動くベース。
 音を詰め込みすぎないアレンジ。
 歌の後ろに残る短い隙間。
 たぶん、こういうのは嫌いじゃない。
 その程度だった。

【斗真】「……勝手に決めてるけどな」

 昼間、澪に言われたことを思い出した。

【澪】「また勝手に決めてる」

 その場では笑った。
 今になると、少しだけ効いてくる。
 斗真は曲を止めなかった。
 自分がこの曲を好きなのは事実だった。
 澪が好きかどうかは、澪が決める。
 それだけのことだった。
 曲が進む。
 二番の途中。
 歌が一度引いて、音だけが残る。
 斗真はそこが好きだった。
 昔なら、そこを説明したかもしれない。
 ここを聴け。
 このベースが。
 この間が。
 たぶん澪さんも好きだと思う。
 そんなふうに。
 今は何も言わなかった。
 送った。
 あとは向こうのものだった。

【和兎】「静かやな」
【斗真】「何が」
【和兎】「斗真」
【斗真】「電車ん中だから」
【和兎】「そういう意味ちゃうけど」
【斗真】「分かってる」
【和兎】「嬉しかった?」
【斗真】「今日?」
【和兎】「うん」
【斗真】「そりゃ」
【和兎】「また会えて」
【斗真】「うん」

 少し考える。

【斗真】「前より普通だった」
【和兎】「普通?」
【斗真】「俺が」
【和兎】「前、心臓うるさかったもんな」
【斗真】「あれは酷かった」
【和兎】「今日は?」
【斗真】「緊張はした」
【和兎】「うん」
【斗真】「でも、ちゃんと澪と喋ってた気がする」
【和兎】「前は?」
【斗真】「前は……澪に会った俺を見てた」
【和兎】「ややこし」
【斗真】「俺も今そう思った」

 斗真は笑った。
 窓の外に、小さな街の灯りが流れた。
 すぐに消える。
 今日知ったことは、それほど多くない。
 澪はアイスのカフェラテを飲む。
 ストローの袋を何度も触る。
 思ったことを全部すぐ言うわけではない。
 でも、聞く時は聞く。
 自分が四十八だと知った。
 それくらいだった。
 斗真は、澪が何歳なのか聞かなかった。
 仕事も聞かなかった。
 家へ帰ったら何をするのかも知らない。
 知らないことを並べてみても、不思議と焦らなかった。

【斗真】「これ、前なら耐えられなかったんだろうな」
【和兎】「何が?」
【斗真】「知らないこと」
【和兎】「今は平気?」
【斗真】「平気っていうか」
【斗真】「知らないんだから、しょうがないだろ」
【和兎】「大人になったなあ」
【斗真】「四十八だからな」
【和兎】「今日それ気に入ってる?」
【斗真】「便利なんだよ」

 曲が終わった。
 次の曲へ移る。
 斗真はそのまま流した。
 もう一度、同じ曲へ戻そうとは思わなかった。

 家に着いたのは、だいぶ遅くなってからだった。
 鍵を開ける。
 電気をつける。
 朝出た時と何も変わらない部屋だった。

【斗真】「ただいま」
【和兎】「おかえり」

 仕事用の鞄を床へ置く。
 端末を出す。
 充電器。
 ケーブル。
 工具。
 明日会社へ持っていくものだけ分ける。
 着替えを洗濯機へ入れる。
 冷蔵庫を開ける。
 大したものはない。
 水を飲む。
 扉を閉める。
 そうしている間に、今日のことは少しずつ「さっき」から「今日」へ変わっていった。
 スマートフォンをテーブルへ置く。
 画面が上を向いている。
 通知はない。
 斗真は風呂へ入った。
 出てきても、通知はなかった。
 それを見て、少しだけ残念だと思った。
 すぐに、その残念さを否定するのをやめた。

【斗真】「まあ、来たら嬉しいわな」
【和兎】「何が?」
【斗真】「何でもない」
【和兎】「独り言増えたな」
【斗真】「お前に言われたくねえ」

 タオルで髪を拭く。
 冷蔵庫から水を出す。
 椅子へ座る。
 スマートフォンを取った。
 澪との画面を開く。
 何も増えていない。
 送った曲のリンクが少し上に残っている。
 そこへ指を置きかけて、やめた。
 澪がもう聴いたのか。
 まだ聴いていないのか。
 気に入ったのか。
 途中で止めたのか。
 それは、今の斗真には分からない。

【斗真】「……知らんもんは知らん」

 声に出した。
 画面を閉じる。
 少し前まで、知らないところには何かを置きたくなった。
 期待。
 不安。
 都合のいい未来。
 悪い想像。
 何でもよかった。
 空いているところを、空いたままにしておけなかった。
 今夜は、そこに何も置かなかった。
 澪は澪の夜を過ごしている。
 自分は自分の部屋にいる。
 それだけで、今日が消える感じはしなかった。
 斗真はスマートフォンを充電器につないだ。
 部屋の灯りを一つ落とす。
 ベッドへ入る前に、さっきの曲をもう一度だけ再生した。
 好きなところまで来る。
 歌が引く。
 音だけが少し残る。
 斗真は戻さなかった。
 そのまま最後まで聴いた。

第19章 遠くなる  

翌朝、斗真が家を出る少し前に通知が来た。片方の靴を履いたところで、スマートフォンを見る。

【澪】「昨日の曲、もう一回聴きました」
【斗真】「おはよう」
【澪】「おはようございます」
【斗真】「どうだった?」
【澪】「サビのあと、一瞬静かになるとこ」
【澪】「あそこ好きです」

 斗真は靴紐を結ぶ手を止めた。自分も昨夜、同じところを聴いていた。

【斗真】「そこ俺も好き」
【澪】「やっぱり」
【斗真】「やっぱりって何」
【澪】「何となく」
【斗真】「また勝手に決めてる」
【澪】「うつったんかな」
【斗真】「俺のせいにすんな」

 笑っている顔が一つ届いた。
 斗真はスマートフォンをポケットへ入れ、玄関を出た。
 駅へ向かう途中、もう一度画面を見たくなった。
 やめた。
 同じところが好きだった。
 今朝は、それで十分だった。

 数日、そんなやり取りが続いた。
 続いたといっても、毎日ではない。
 朝から夜まで会話が切れないわけでもなかった。
 曲が一つ届く日。
 食べ物の写真だけの日。
 二、三往復で終わる日。
 何もない日。
 斗真が仕事をしていれば返事は数時間後になったし、澪も夜まで開かないことがあった。
 遅れた理由を互いに説明することはなかった。
 そこは少し楽だった。
 ある日の昼、澪から短いメッセージが来た。

【澪】「こっちめっちゃ雨です」

 斗真は窓の外を見る。
 こちらはよく晴れていた。

【斗真】「こっち晴れてる」
【澪】「うそ」
【斗真】「写真送ろうか?」
【澪】「疑ってるわけちゃう笑」
【斗真】「じゃあ送らん」
【澪】「そこは送ってもいいやん」

 窓際まで行って、一枚撮る。
 青い空。
 ビルの端。
 何の面白みもない写真。

【斗真】「ほら」
【澪】「ほんまや」
【斗真】「だろ」
【澪】「遠いな」

 斗真はその一文を少し見た。

【斗真】「新幹線で何時間か」
【澪】「この前おったのに」
【斗真】「仕事でな」
【澪】「知ってる」
【斗真】「また電話壊れたら行く」
【澪】「電話頼みなんや」
【斗真】「祈るなよ」
【澪】「祈ってません」

 そこで終わった。
 斗真はスマートフォンを伏せた。
 窓の外は晴れたままだった。
 澪のいる方では、まだ雨が降っているらしい。
 同じ日に、違う空だった。

 土曜日、斗真は朝から婚礼の現場にいた。
 搬入。
 音源確認。
 進行表。
 司会者との打ち合わせ。
 挙式。
 披露宴。
 新郎新婦の入場。
 乾杯。
 手紙。
 退場。
 目の前の進行に合わせて、一曲ずつ音を出していく。
 ほんの数秒早くても遅くても空気が変わる。
 そういう仕事だった。

【司会】「次、映像明けでお願いします」
【斗真】「はい」

 卓の前に座る。
 映像が終わる。
 暗転。
 一拍待つ。
 曲を出す。
 扉が開く。
 仕事中、スマートフォンはほとんど見なかった。
 披露宴が終わり、撤収へ入ったところで確認すると、二時間ほど前に澪からメッセージが来ていた。

【澪】「これ知ってます?」

 曲のリンクだった。
 タイトルを見る。
 知っている。
 返信しようとしたところで、スタッフに呼ばれた。

【スタッフ】「斗真さん、ここのケーブルいいですか?」
【斗真】「あ、はい」

 スマートフォンをポケットへ戻す。
 会場を出てから返した。

【斗真】「知ってる」
【斗真】「ごめん、仕事してた」
【澪】「全然いいです」
【斗真】「これ好きなの?」
【澪】「今日たまたま聴いて」
【斗真】「二番いいよ」
【澪】「今から聴き直します」

 それから返事は来なかった。
 斗真も電車へ乗った。
 土曜の夕方。
 座れたので目を閉じる。
 次にスマートフォンを見た時には、一時間近く経っていた。

【澪】「二番の方が好きかも」

 斗真は少し笑った。

【斗真】「だろ」

 それだけ返した。
 何をしていたのか詳しくは話さなかった。
 澪も聞かなかった。

 翌日は娘から連絡が来た。

【娘】「今日来れる?」
【斗真】「何かあった?」
【娘】「プリンタ動かん」
【斗真】「それ俺じゃなきゃ駄目?」
【娘】「たぶん」
【斗真】「万能修理屋だと思ってるだろ」
【娘】「うん」
【斗真】「否定しろ」

 午後、斗真は以前住んでいた家へ行った。
 もう自分の鍵では開かない。
 インターホンを押す。
 娘が出る。

【娘】「早」
【斗真】「呼んだのお前だろ」

 玄関へ入る。

【斗真】「お邪魔します」

 まだ少し変な言葉だった。
 靴を脱ぐ。
 見慣れた家具。
 見慣れたテーブル。
 でも、もう自分の帰る家ではない。
 プリンタは紙詰まりでも故障でもなかった。
 ネットワークから外れていただけだった。

【斗真】「五分で終わったぞ」
【娘】「さすが」
【斗真】「もっと敬え」
【娘】「ありがとうございまーす」
【斗真】「軽いな」

 結局、夕飯までいることになった。
 紗季が買ってきた惣菜を並べる。
 娘たちがテレビを見ながら喋る。
 斗真もそこへ混ざる。
 前なら、それがそのまま夜まで続いていた。
 今は、帰る時間がある。
 食事の途中、テーブルの端に置いたスマートフォンが一度震えた。
 画面は伏せてある。

【娘】「スマホ鳴ってるよ」
【斗真】「うん」
【娘】「見ないの?」
【斗真】「今飯食ってるから」
【娘】「珍し」
【斗真】「失礼だな」

 そのまま食べた。
 帰る時、娘が玄関まで来た。

【娘】「また来て」
【斗真】「プリンタ壊れたら?」
【娘】「壊れてなくても」
【斗真】「はいはい」
【娘】「はい一回」
【斗真】「はい」

 靴を履く。

【斗真】「じゃあな」
【娘】「うん」

 外へ出る。
 ドアが閉まる。
 少し歩いてから、斗真はスマートフォンを見た。

【澪】「昨日の曲、ライブ版もよかったです」

 一時間以上前だった。

【斗真】「今見た」
【斗真】「ライブ版の方がいい?」
【澪】「私はそっちかも」
【斗真】「また荒い方」
【澪】「綺麗すぎると飽きるんかな」
【斗真】「それ前も言ってたな」
【澪】「言ってました?」
【斗真】「言ってた」
【澪】「覚えてるんや」
【斗真】「そこはな」

 駅まで歩く。
 さっきまで娘たちと食卓を囲んでいたことは書かなかった。
 隠したわけではない。
 ただ、今その話をする理由がなかった。
 澪も、斗真がどこにいたのか聞かなかった。
 電車を待つホームで、スマートフォンを閉じた。
 娘たちとの時間と、澪とのやり取りは、同じ一日の中にあった。
 まだ互いを知らないまま。

 澪はその夜、洗濯機を回しながら斗真とのメッセージを見ていた。

【斗真】「そこはな」

 そこで止まっている。
 返そうと思えば何か返せる。
 でも、もう用事はなかった。
 スマートフォンを置く。
 洗濯機が止まる。
 服を出す。
 ハンガーへかける。
 二枚目。
 三枚目。
 その途中で、ふと思った。
 斗真は休日に何をしているのだろう。
 今日も仕事だったのか。
 誰かといたのか。
 何を食べたのか。
 手が止まった。

【澪】「……知らんでええか」

 少し曲がった服を直した。
 知らないことはある。
 それは、隠されているのとは違う。
 まだ聞いていないだけだった。
 斗真が自分の仕事を聞かなかったように、自分も斗真の一日を全部知っているわけではない。
 今のところ、それで困っていない。
 最後の一枚を干す。
 スマートフォンはそのままにした。

 それから三日、何もなかった。
 斗真からも。
 澪からも。
 一日目は、何とも思わなかった。
 二日目も、仕事をしていれば終わった。
 三日目の夜、斗真は冷蔵庫を開けながら、ふとテーブルのスマートフォンを見た。
 通知はない。
 冷蔵庫には卵と水と、昨日買った惣菜。
 惣菜を出して電子レンジへ入れる。

【和兎】「静かやな」
【斗真】「電子レンジ?」
【和兎】「ちゃう」
【斗真】「何」
【和兎】「澪」
【斗真】「何も来てないね」
【和兎】「送らんの?」
【斗真】「用ないし」
【和兎】「会いたくなくなった?」
【斗真】「何でそうなるんだよ」
【和兎】「遠くなった?」
【斗真】「……もともと遠いよ」
【和兎】「そういう意味ちゃうけど」
【斗真】「分かってる」

 電子レンジが鳴った。
 皿を出す。
 箸を取る。

【斗真】「毎日何か送らないと近くないって方が変だろ」
【和兎】「まあな」
【斗真】「あっちにはあっちの生活あるし」
【和兎】「斗真にもある」
【斗真】「うん」

 食べ始める。
 途中で画面が光った。
 広告だった。

【斗真】「紛らわしいな」
【和兎】「期待してるやん」
【斗真】「多少はするだろ」
【和兎】「うん」
【斗真】「でも来なきゃ来ないで」
【和兎】「平気?」
【斗真】「……ちょっと寂しいくらい」
【和兎】「それなら普通や」

 斗真はまた箸を動かした。
 その夜も、澪からは来なかった。
 自分からも送らなかった。

 四日目の夕方。
 澪は仕事帰りに寄った店で、聞き覚えのある曲を耳にした。
 前に斗真が送ってきた曲だった。
 店内のスピーカーから、小さく流れている。
 商品を見ながら聴く。
 サビ。
 そのあと。
 自分が好きだと言った短い隙間。
 足は止めなかった。
 スマートフォンも出さなかった。
 必要なものを籠へ入れる。
 レジに並ぶ。
 会計をする。
 店を出る。
 信号を一つ渡ったところで、スマートフォンを出した。

【澪】「この前の曲、店で流れてました」

 送った。
 それだけで、また歩く。
 返事はすぐには来なかった。
 十分ほどして通知が鳴る。

【斗真】「ちゃんと最後まで聴いた?」
【澪】「店なんで途中で出ました」
【斗真】「失格」
【澪】「何の」
【斗真】「知らん」
【澪】「またそれ」
【斗真】「でも覚えてたんだ」
【澪】「あそこ来たら分かりました」
【斗真】「どこ」
【澪】「サビのあと」
【斗真】「ああ」
【澪】「ああ、だけ?」
【斗真】「俺もそこ好きだから」
【澪】「知ってる」

 そこで止まった。
 三日空いていたことには、どちらも触れなかった。
 澪はスマートフォンを鞄へ戻した。
 少し前まで遠かったものが、急に近づいたわけではない。
 ただ、切れてはいなかった。

 夜。
 斗真はベッドへ入る前にスマートフォンを見た。
 最後のメッセージ。

【澪】「知ってる」

 短い。
 その一言の向こうに何があるのかは、分からない。
 斗真は画面を閉じた。
 会った時より、今の方が遠い。
 それは当然だった。
 数百キロ離れている。
 それぞれ朝があり、仕事があり、夕飯があり、帰る場所がある。
 斗真には娘たちとの時間がある。
 澪にも、斗真の知らない時間がある。
 画面を開けば、数秒で言葉は届く。
 けれど、その間の生活までは届かない。
 前なら、その隙間を埋めたくなった。
 知らない時間にも意味をつけた。
 返事が遅い理由。
 何も来ない夜。
 短い一文の温度。
 今は、そこまでしなかった。
 遠いものは、遠い。
 近づいた時間があったからといって、距離そのものがなくなったわけではない。
 それでも、遠いことと、なくなることは違った。
 スマートフォンを充電器につなぐ。
 灯りを消す。
 遠い街で、澪も自分の一日を終えている。
 何をしているのかは知らない。
 斗真は、その知らなさを残したまま目を閉じた。

第20章 止まる人  

三日ほど、澪から何も来なかった。
 斗真も送らなかった。
 一日目は何とも思わなかった。
 二日目も、仕事をしていれば終わった。
 三日目になると、何度かスマートフォンを見た。
 通知はない。
 以前なら、その空白に理由を入れていたと思う。
 飽きた。
 面倒になった。
 誰かといる。
 何か気に障ることを言った。
 こちらから送るのを待っている。
 いくらでも作れた。
 今は、三日だった。
 それ以上にはしなかった。

 四日目の夜。
 斗真が風呂から上がり、冷蔵庫から水を出したところで、テーブルのスマートフォンが震えた。

【澪】「今日ちょっとしんどかったです」

 斗真は画面を見た。
 最初に浮かんだのは、

「何かあった?」

 だった。
 打つ。
 指が止まる。
 続けようと思えば、まだ出てくる。

「仕事?」
「体調?」
「誰かと何かあった?」

 どれも消した。
 澪が書いたのは、
「しんどかった」
 そこまでだった。

【斗真】「そっか」

 送った。
 既読がつく。
 返事はない。
 斗真は水を飲んだ。
 椅子へ座る。
 スマートフォンを伏せる。

【和兎】「それだけ?」
【斗真】「何が」
【和兎】「そっか、だけ」
【斗真】「うん」
【和兎】「気にならん?」
【斗真】「気になるよ」
【和兎】「なら聞けば?」
【斗真】「言いたかったら言うだろ」
【和兎】「言いたいけど聞いてほしい時もあるで」
【斗真】「それも分かる」
【和兎】「ほな」
【斗真】「でも、どっちか分からん」

 斗真は伏せたスマートフォンを見る。

【斗真】「分からん時に動くと、だいたいろくなことしないんだよ、俺」
【和兎】「自覚あるんや」
【斗真】「最近な」

 数分後、また震えた。

【澪】「それだけですか」

 斗真は少し笑った。

【斗真】「何か聞いた方がいい?」
【澪】「いや」
【斗真】「じゃあ聞かない」
【澪】「早」
【斗真】「どっちだよ」
【澪】「分からん」
【斗真】「俺も分からん」
【澪】「何それ」
【斗真】「同じ」
【澪】「同じにせんといて笑」

 少し間が空いた。

【澪】「今はあんまり話したくないです」
【斗真】「了解」

 今度は、本当にそれで終わった。

 斗真はスマートフォンを置いた。
 冷蔵庫を開ける。
 昨日の残り物を出す。
 電子レンジへ入れる。
 温めている間に、もう一度画面を見た。
 何も来ていない。

 送ろうと思えば送れた。

「無理すんなよ」
「ちゃんと寝ろよ」
「大丈夫だから」

 どれも、何が大丈夫なのか分からない。
 何に無理をしているのかも知らない。
 斗真は入力欄を開かなかった。
 電子レンジが鳴る。
 皿を取り出した。

【和兎】「ほんまに何もせんの?」
【斗真】「うん」
【和兎】「心配なんやろ」
【斗真】「心配するのと、入っていくのは別だろ」
【和兎】「ふうん」
【斗真】「電話ならさ」
【和兎】「うん」
【斗真】「おかしかったらログ見る。配線見る。原因探す」
【和兎】「得意やもんな」
【斗真】「でも、人は故障じゃねえから」
【和兎】「……うん」
【斗真】「直す相手でもない」

 箸を取る。
 食べ始める。
 味は普通だった。
 澪のことは、まだ気になっていた。
 気になったまま、飯を食った。

 澪はベッドの端に座っていた。
 画面には、

【斗真】「了解」

 だけが残っている。
 本当に来ない。
 何があったのか。
 誰に何をされたのか。
 どうしたのか。
 大丈夫なのか。
 電話しようか。
 何も。
 自分で「話したくない」と言った。
 その通りにされた。
 なのに、少し変だった。

【澪】「……ほんまに止まるんや」

 スマートフォンを伏せた。
 少しして、また見る。
 何も増えていない。
 昔は違った。
「今は話したくない」と言えば、
 その理由を聞かれた。
「一人にして」と言えば、
 一人にしたらもっと悪くなると言われた。
 返事をしなければ、
 何度も通知が来た。

 最初の頃は、それを心配だと思っていた。
 自分のことを気にしてくれているのだと思っていた。
 何時に帰る。
 誰といる。
 どこへ行く。
 男はいるのか。
 返事が遅いのはなぜか。

 少しずつ増えた。
 増えてからも、すぐには変だと思わなかった。
 恋人なら、これくらい普通なのかもしれない。
 そう思っていた時期もあった。

 澪は目を閉じる。
 そこから先は、今夜は考えたくなかった。
 スマートフォンを枕元へ置いた。

 通知は来なかった。
 少しだけ寂しかった。
 それ以上に、
 少しだけ楽だった。

 翌朝。
 斗真は普通に起きた。
 普通に朝飯を食べた。
 普通に仕事へ行った。
 澪へ「大丈夫?」とは送らなかった。
 電車の中で一度思い出した。
 昼飯を買う時にも思い出した。
 午後、仕事が一段落した時にも。
 そのたびにスマートフォンへ手が伸びかけた。
 伸びかけて、やめた。
 我慢している感じとは少し違った。
 送らないという選択を、何度かやり直しているだけだった。

 夕方。
 現場から戻ってきた同僚に、ひとつ質問された。

【同僚】「これ、今触って大丈夫ですか?」
【斗真】「待って。まだ切替終わってない」
【同僚】「了解です」

 同僚の手が止まる。
 それを見て、斗真は少しだけ笑った。

【同僚】「何です?」
【斗真】「いや、止まれる人って偉いなと思って」
【同僚】「はい?」
【斗真】「何でもない」

 自分でも何を言っているのかと思った。

 夜、帰宅してシャツを脱いでいる途中で通知が来た。

【澪】「昨日のこと聞かへんのですか」

 斗真は片腕をシャツに入れたまま止まった。

【斗真】「聞いていいの?」
【澪】「……まだいいです」
【斗真】「じゃあ聞かない」
【澪】「また早い」
【斗真】「だからどっちだよ」
【澪】「何か」
【斗真】「うん」
【澪】「ほんまに止まるんですね」

 斗真はシャツを抜いた。

【斗真】「止まってって言われたからな」
【澪】「そうなんですけど」
【斗真】「うん」
【澪】「普通、そのあともうちょい来ません?」
【斗真】「普通って何」
【澪】「大丈夫?とか」
【斗真】「大丈夫?」
【澪】「今言うんや」
【斗真】「必要かと思って」
【澪】「いらん笑」
【斗真】「ほら」

 澪から笑っている顔が一つ届いた。
 少しして、文字が続く。

【澪】「でも、何も聞かれへんのも変な感じする」
【斗真】「聞いてほしくなったら言って」
【澪】「それも私が言うん?」
【斗真】「俺には分からんもん」
【澪】「分からんで終わるんや」
【斗真】「当てた方がいい?」
【澪】「それは嫌」
【斗真】「難しいな」
【澪】「めんどくさいでしょ」
【斗真】「別に」
【澪】「ほんま?」
【斗真】「分からんもんを分からんって言われる方が楽」
【澪】「何それ」
【斗真】「勝手に答え作らなくて済む」

 少し間が空いた。

【澪】「前に、止まらへん人おったから」

 斗真の指が止まった。
 誰。
 いつ。
 何をされた。
 どんな関係。
 一瞬でいくつも浮かんだ。
 全部、入力欄の外に置いた。

【斗真】「そっか」

 既読がつく。
 しばらくして、

【澪】「聞かへんの?」

 と来た。

【斗真】「聞いていいなら聞く」
【澪】「……ちょっとだけなら」
【斗真】「うん」

 斗真は待った。
 今度は、こちらから質問しなかった。
 数分後、澪から来た。

【澪】「返事遅いと、何してるんって来る人でした」
【斗真】「うん」
【澪】「誰といるん」
【澪】「どこにいるん」
【澪】「男おるん」
【澪】「最初は心配されてると思ってた」
【斗真】「うん」

 斗真は、
「彼氏?」
 と打ちかけた。
 消した。

【澪】「そのうち服のこととかも言うようになって」
【澪】「それ着てくの、とか」
【斗真】「うん」
【澪】「スマホ見せて、もあった」
【斗真】「……うん」

 澪の返事が止まる。
 斗真は待った。
 五分。
 十分。
 何も来ない。
 スマートフォンを置く。
 水を飲む。
 テレビはつけなかった。

 十五分ほどして、また震えた。

【澪】「今日はここまででいいです」

【斗真】「うん」

 それだけ返した。

【澪】「何も言わへんの?」
【斗真】「何言えばいい?」
【澪】「知らん」
【斗真】「俺も分からん」
【澪】「またそれ」
【斗真】「でも、嫌だったんだろ」
【澪】「……うん」
【斗真】「じゃあ、それでいい」

 少しして、

【澪】「それでいいんや」

【斗真】「嫌だったって話に、俺が判定つけてもしょうがないだろ」

 既読がついた。
 返事は少し遅れた。

【澪】「そっか」

 それで会話は止まった。

【和兎】「気になる?」
【斗真】「めちゃくちゃ」
【和兎】「誰やろな」
【斗真】「知らん」
【和兎】「恋人かな」
【斗真】「知らんって」
【和兎】「でも服とかスマホとか」
【斗真】「和っちゃん」
【和兎】「ん?」
【斗真】「今それやると、俺も同じだろ」
【和兎】「何が」
【斗真】「見えてないところ埋めるの」

 和兎が少し黙った。

【和兎】「せやな」
【斗真】「話したのは、返事が遅いと聞かれたこと。服。スマホ」
【和兎】「うん」
【斗真】「それ以上は知らない」
【和兎】「聞きたい?」
【斗真】「そりゃ聞きたい」
【和兎】「ほな待つ?」
【斗真】「待つっていうのも違う」
【和兎】「何で?」
【斗真】「いつか話してくれる前提になるじゃん」
【和兎】「ああ」
【斗真】「話さないなら、それで終わり」
【和兎】「じゃあ何してるん」
【斗真】「止まってる」
【和兎】「そのまんまやん」
【斗真】「それでいいんだよ」

 スマートフォンは静かなままだった。
 斗真も触らなかった。

 翌日は何も来なかった。
 その次の日の夜、澪から曲が一つ届いた。
 説明はない。
 斗真はイヤホンを出す。
 知らない曲だった。
 最後まで聴いた。

【斗真】「好き」
【澪】「早」
【斗真】「曲が」
【澪】「分かってます」
【斗真】「念のため」
【澪】「何の念」
【斗真】「知らん」
【澪】「それ便利すぎません?」

 斗真は少し笑った。
 昨日までの話には触れなかった。
 澪も触れない。

【斗真】「これ、いつ知ったの?」
【澪】「今日」
【斗真】「今日?」
【澪】「たまたま流れてきました」
【斗真】「二番いい」
【澪】「また二番」
【斗真】「俺、二番好きなのかも」
【澪】「二番の男」
【斗真】「嫌な肩書きだな」
【澪】「ふふ」

 普通の会話だった。
 前の話が消えたわけではない。
 続きを急がなくても、
 別の話はできた。

 数日後。
 澪は帰りの電車で、斗真とのメッセージを少し上へ遡った。

【澪】「今日はここまででいいです」
【斗真】「うん」

 そこから先には、
 探るような質問は一つもなかった。
 誰だったのか。
 どれくらい続いたのか。
 今はどうなのか。
 何も。
 音楽の話をして、
 仕事の話を少しして、
 何も来ない日もあった。

 澪は画面を閉じる。
 窓の外を見る。
 暗いガラスに、自分の顔が薄く映っている。
 昔は、
「もういい」と言った後にも話が続いた。
 説明するまで終わらなかった。
 説明しても、納得されなければもう一度だった。

 止まる人は、
 興味がない人だと思っていた時期もあった。

 でも、
 斗真は気になると言った。
 その上で止まった。

 澪はスマートフォンを鞄へ戻した。
 電車が駅へ入る。
 ドアが開いた。
 立ち上がる。

 その夜、斗真はギターを膝に置いていた。
 久しぶりに押さえたコードが少し濁った。
 指を置き直す。
 もう一度。
 今度は少しだけマシだった。
 スマートフォンが震える。
 すぐには取らなかった。
 弾いていたところまで終えてから、画面を見る。

【澪】「今度」
【澪】「前の話してもいいですか」

 斗真は二行を読んだ。
 少しだけ考えて、

【斗真】「もちろん」

 と返した。

 そのあと、何も来なかった。
 斗真も送らなかった。
 ギターをもう一度構える。
 同じコードを押さえる。
 今度は、さっきより少し綺麗に鳴った。

第21章 恋人  

澪からその話が来たのは、二日後の夜だった。
 斗真は夕飯の皿を洗っていた。
 水を止めたところで、テーブルのスマートフォンが震える。

【澪】「今、大丈夫ですか」
【斗真】「大丈夫」
【澪】「この前の話」
【斗真】「うん」

 そこから少し間が空いた。
 斗真は濡れた手を拭き、椅子へ座った。
 こちらからは何も送らない。
 三分ほどして、画面が震えた。

【澪】「あの」
【斗真】「うん」
【澪】「何で話そうと思ったか、先に言っていいです?」
【斗真】「もちろん」

 また少し間が空いた。

【澪】「斗真さん、この前ほんまに聞かへんかったやん」
【斗真】「聞くなって言われたし」
【澪】「そうなんですけど」
【斗真】「うん」
【澪】「次の日も聞かへんかったし」
【斗真】「まだいいって言ってたから」
【澪】「そう」
【澪】「そこなんです」

 斗真は画面を見た。
 何が「そこ」なのかは、まだ分からない。

【澪】「前やったら」
【澪】「今は話したくないって言っても」
【澪】「何で、とか」
【澪】「何があったん、とか」
【澪】「結局聞かれてたから」
【斗真】「うん」
【澪】「斗真さん、ほんまに止まったから」
【澪】「ちょっと変な感じした」
【斗真】「変だった?」
【澪】「最初は」
【澪】「何も聞かへんのや、って思った」
【斗真】「うん」
【澪】「でも次の日になっても」
【澪】「ほんまに何も聞かへんかった」

 澪はそこで指を止めた。
 前なら、黙っている時間にも相手の気配があった。
 次に何を聞かれるのか。
 どう答えれば納得するのか。
 返事をしないこと自体にも、理由を求められる気がしていた。
 でも、斗真からは何も来なかった。
 忘れられた感じとも少し違った。
 興味を失われた感じでもなかった。
 ただ、自分が話さないでいることを、そのまま置かれている感じがした。
 澪は、その感覚をうまく言葉にできなかった。
 話さなくても、関係が切れるわけではない。
 説明しなくても、怒られない。
 続きを渡さなくても、何かを取り上げられるわけでもない。
 そこまで考えて、澪は少しだけ肩の力が抜けた。
 話さなくていいなら、話すかどうかを自分で決められる。
 そう思った時に、初めて少しだけ、続きを言ってもいい気がした。

【澪】「聞かれへんの、ちょっと楽やなって思って」
【斗真】「うん」
【澪】「話さんでもいいんやって分かったら」
【澪】「逆に」
【澪】「話してもいいかなって思った」

 斗真は、その一文をしばらく見た。

【斗真】「そっか」
【澪】「はい」
【斗真】「じゃあ、聞く」
【澪】「うん」
【斗真】「でも途中で嫌になったら止めて」
【澪】「ほんまに止まります?」
【斗真】「止まるよ」
【澪】「……ですよね」

 少しして、次のメッセージが来た。

【澪】「前に付き合ってた人がいました」

 斗真は、その一文を一度読んだ。
 恋人。
 当然、いたっておかしくない。
 分かっている。
 分かっているのに、胸の奥が小さく動いた。

【斗真】「うん」
【澪】「一緒に住んでました」

 今度は、さっきより少し長く画面を見た。
 一緒に住んでいた。
 その男は、澪が何時に帰るのか知っていた。
 冷蔵庫に何が入っているのかも。
 朝どんな顔で起きるのかも、たぶん。
 斗真がまだ知らないものを、その男は生活として知っていた。
 そこまで考えて、やめた。

【斗真】「そっか」

 返した文字は、それだけだった。
 自分の胸の中で起きたことまで、澪へ渡す必要はない。

【澪】「最初は普通やったんです」
【斗真】「うん」
【澪】「普通っていうか」
【澪】「優しかった」
【澪】「体調悪かったら薬買ってきてくれたり」
【澪】「好きなプリン覚えてたり」
【斗真】「うん」
【澪】「私も好きでした」

 斗真は画面から目を離した。
 テーブルには、さっきまで使っていた箸が置いたままだった。
 好きでした。
 当たり前の言葉なのに、妙に残った。
 澪が誰かを好きだった。
 その人に薬を買ってもらい、好きなものを覚えてもらい、それを嬉しいと思っていた時間があった。
 自分の知らない澪だった。

【斗真】「うん」

 少し遅れて送った。
 それ以上は書かなかった。

【澪】「帰り遅いと心配してくれるのも」
【澪】「最初は嬉しかったんです」
【斗真】「うん」
【澪】「どこおるん、とか」
【澪】「誰とおるん、とか」
【澪】「ちゃんと帰れそう、とか」
【澪】「最初はそんな感じ」

 斗真はスマートフォンをテーブルへ置いた。
 置いたまま読む。
 次が来る。

【澪】「そのうち」
【澪】「誰とおるん」
【澪】「男おるん」
【澪】「何時に帰るん」
【澪】「何で返事遅いん」
【澪】「になって」

 少しして、

【澪】「違い分かります?」

 と来た。
 斗真は考えた。

【斗真】「言葉は似てるけど」
【斗真】「聞かれてる方は違う?」
【澪】「そう」
【澪】「最初は心配されてる感じやった」
【澪】「途中から答え合わせみたいになって」
【斗真】「答え合わせ」
【澪】「うん」
【澪】「向こうの中にもう正解がある感じ」
【澪】「私がそれと違うこと言うと」
【澪】「何で、ってなる」

 斗真は、分かる気がした。
 分かる、と打とうとしてやめた。
 自分がされた話ではない。
 それに、少し前までの自分にも、似たところがあった。

【斗真】「しんどいな」
【澪】「しんどかったです」

 短かった。

 澪はベッドの上で膝を立てていた。
 スマートフォンを両手で持つ。
 ここまで話したのは自分だった。
 誰かに聞かれて答えているわけではない。
 そのことが、まだ少し変だった。

【澪】「服のことも言われました」
【斗真】「うん」
【澪】「それ着てくの、とか」
【澪】「もうちょい違うのにしたら、とか」
【澪】「最初は、似合わんって意味かなと思ってた」
【斗真】「うん」
【澪】「でも、そうじゃなかった」
【斗真】「嫌だった?」
【澪】「途中からは」
【斗真】「そっか」

 それだけ。
 澪は一度、画面から目を離した。
 部屋の隅に置いた洗濯物が見えた。
 明日でいい。
 またスマートフォンを見る。

【澪】「スマホ見せてって言われたこともあります」
【斗真】「……うん」
【澪】「別に何もないし」
【澪】「見せたら安心するならええかと思って」
【斗真】「見せてた?」
【澪】「最初は」
【斗真】「うん」
【澪】「でも」
【澪】「一回見せたら、次も見せられるやんってなるんですよね」

 斗真の返事は少し遅れた。

【斗真】「なるほど」

 誰とのやり取りを見られたのか。
 自分の昔のコメントも、どこかで目に入っていたのか。
 一瞬だけ浮かんだ。
 すぐに捨てた。
 今聞いているのは、斗真がそこにいたかどうかの話ではない。

【澪】「私も途中まで分からんかった」
【澪】「隠してるわけちゃうんやから、見せたらええやんって」
【澪】「自分でも思ってたし」
【澪】「でも」
【澪】「見せたくないことと」
【澪】「隠してることって」
【澪】「同じちゃうんやなって」

 送る。
 既読がつく。

【斗真】「うん」
【澪】「今は分かる?」
【斗真】「最近は」
【澪】「最近なんや」
【斗真】「俺も偉そうなこと言えないから」
【澪】「何したんです?」
【斗真】「そこはまた今度」
【澪】「逃げた」
【斗真】「逃げました」

 澪は少し笑った。
 少しだけ空気が軽くなった。

【澪】「あの人が全部悪かったわけじゃないんです」

 斗真はその一文を見た。
 さっきまでより、少し長く。

【斗真】「うん」
【澪】「ほんまに優しい時もあったし」
【澪】「私の好きなもの、私より覚えてたり」
【澪】「しんどい時にいてくれたり」
【斗真】「うん」
【澪】「だから余計に」
【澪】「何が嫌なんか分からんくなってた」

 斗真は椅子の背へ身体を預けた。
「あの人」という言葉が、少しだけ嫌だった。
 名前すら知らない男なのに、澪の人生の中では、自分よりずっと具体的な場所にいた。
 その事実に嫉妬している。
 斗真は、ようやくそう認めた。
 認めただけで、何もしなかった。

【澪】「いい人やのに、私がわがままなんかな、とか」
【澪】「恋人ならこれくらい普通なんかな、とか」
【斗真】「そう思ってた?」
【澪】「結構長いこと」

 その先は、しばらく来なかった。
 斗真は待った。
 水を一口飲む。
 スマートフォンは手に持ったままだった。
 五分ほどして、また震えた。

【澪】「別れる時も好きでした」

 斗真の指が止まった。
 さっきより、はっきり痛んだ。
 別れた相手なのだから、もう終わった話だと思いたい自分がいた。
 でも澪の中では、嫌いになったから終わったわけではない。
 好きなまま、終わらせた。
 その方が妙に残った。
 もしその男があの時変われていたら。
 もし澪が戻っていたら。
 そんな考えが一瞬だけ浮かぶ。
 今さら意味のない仮定だった。
 斗真は画面を伏せた。
 数秒して、もう一度開く。

【斗真】「うん」

 それだけ返した。

【澪】「好きじゃなくなったから別れたんちゃうんです」
【斗真】「そっか」
【澪】「好きやけど」
【澪】「一緒におるのしんどかった」
【斗真】「うん」
【澪】「それで別れました」

 斗真は深く息を吐いた。
 胸の奥にあった小さな棘は、そのままだった。
 抜こうとは思わなかった。
 これは澪の問題ではない。
 自分の中で処理するものだった。

【斗真】「大変だったな」

 送る。
 すぐに返事が来る。

【澪】「それ言われると何か違う笑」
【斗真】「駄目だった?」
【澪】「駄目ちゃうけど」
【澪】「何か他人事みたい」
【斗真】「他人ではあるからな」
【澪】「そうやけど」
【斗真】「じゃあ」
【斗真】「よく別れたな」
【澪】「……」
【斗真】「これも違う?」
【澪】「いや」
【澪】「それはちょっと嬉しいかも」

 斗真はそこで止めた。
「よかった」とは書かなかった。
 自分にとっては、別れていてよかったという感情がある。
 でも、それを澪が苦しんだ話の上へ置くのは違った。

 少しして、澪からまた来た。

【澪】「別れるって言った時」
【澪】「変わるって言われました」
【斗真】「うん」
【澪】「信じたかったです」
【斗真】「うん」
【澪】「戻ったら楽やったと思う」
【澪】「その日は」

 斗真の親指が止まった。
 戻らなかったことを、嬉しいと思った。
 自分でも驚くほど、はっきり。
 同時に、その喜びを表へ出したくないと思った。

【斗真】「……うん」

【澪】「でも戻らんかった」

 斗真は画面を見たまま、何も打たなかった。
 澪が続きを送る。

【澪】「そこはちょっと褒めてほしい」
【斗真】「そこなんだ」
【澪】「そこです」
【斗真】「偉い」
【澪】「軽」
【斗真】「難しいな」
【澪】「ふふ」

 斗真は少し考えた。

【斗真】「でも」
【斗真】「戻らなかった澪さんが決めたんだろ」
【澪】「うん」
【斗真】「じゃあ、そこはすごいと思う」
【澪】「……はい」

 少し長い間が空いた。
 斗真は、そこでようやく気づいた。
 自分はさっきまで、名前も知らない男と、頭の中で勝手に並んでいた。
 どちらが澪を分かっているか。
 どちらなら大切にできるか。
 そんな競争はどこにもない。
 そもそも、斗真はまだ澪のことをほとんど知らない。
 澪は斗真と出会う前から、自分で生活をし、誰かを好きになり、誰かと暮らし、自分でその関係を終わらせていた。
 その時間は、斗真が入る場所ではなかった。

【澪】「斗真さん」
【斗真】「うん」
【澪】「恋人って、どこまで入っていいんですかね」

 斗真は少し考えた。

【斗真】「分からん」
【澪】「即答」
【斗真】「分からんもん」
【澪】「四十八年生きてても?」
【斗真】「そこ刺してくる?」
【澪】「ふふ」
【斗真】「でも」
【斗真】「全部じゃないんじゃない」
【澪】「全部?」
【斗真】「全部知る権利ができるわけじゃないだろ」
【澪】「恋人でも?」
【斗真】「恋人でも」
【澪】「夫婦でも?」
【斗真】「たぶん」

 斗真はそこで一度止まった。
 自分が言うと、少しだけ重さが違う気がした。
 澪はそれを知らない。

【斗真】「好きだから何でも見せろ、は違うと思う」
【澪】「うん」
【斗真】「でも、一緒にいるなら話さないと困ることもある」
【澪】「うん」
【斗真】「その線、毎回同じじゃないんじゃない?」
【澪】「めっちゃ曖昧」
【斗真】「人間だからな」
【澪】「便利ですね、それ」
【斗真】「最近よく使う」

 澪は少し笑った。

【澪】「前は」
【澪】「止まる人って、冷たい人やと思ってました」
【斗真】「そうなの?」
【澪】「うん」
【澪】「好きなら来るやろ、って」
【斗真】「なるほど」
【澪】「でも今は」
【澪】「止まってくれる方が楽な時もあるんやなって」
【斗真】「そっか」
【澪】「この前、ほんまに何も聞かへんかったやん」
【斗真】「聞くなって言われたから」
【澪】「そうなんですけど」
【斗真】「まだ納得してない?」
【澪】「いや」
【澪】「今はちょっと分かる」

 斗真は、その一文を読んだ。
 何か言おうとして、やめた。
 澪から次が来た。

【澪】「聞いてくれてありがとうございました」
【斗真】「聞いただけだけど」
【澪】「それがよかったです」
【斗真】「そっか」
【澪】「はい」

 会話が止まる。
 今夜はこれで終わりだと思った。

【澪】「あ」
【斗真】「何」
【澪】「名前とか聞かへんのですね」

 斗真は少しだけ笑った。
 本当は、気にならないわけではなかった。
 名前。
 顔。
 年齢。
 仕事。
 どんな男だったのか。
 知ろうと思えば、いくらでも知りたくなる。
 だからこそ、聞かなかった。

【斗真】「聞いてどうすんの」
【澪】「分からん」
【斗真】「じゃあいらない」
【澪】「ほんまに変わったんですね」
【斗真】「何から」
【澪】「知らん」
【斗真】「知らんのかい」

 笑っている顔が一つ届いた。

【澪】「おやすみなさい」
【斗真】「おやすみ」

 そこで終わった。

 斗真はスマートフォンをテーブルへ置いた。
 冷蔵庫が低く鳴っている。
 洗った皿は、まだ水切り籠にあった。
 澪に恋人がいた。
 一緒に暮らしていた。
 好きだった。
 別れる時にも、まだ好きだった。
 知りたくなかったわけではない。
 聞けてよかったとも思う。
 その一方で、知らなかった時には形のなかったものが、今は頭の中に一つ増えていた。
 名前も顔も知らない男。
 澪の好きなプリンを知っていた男。
 斗真は少しだけ腹が立った。
 その男にではない。
 自分でも、何に腹を立てているのかよく分からなかった。

【和兎】「嫉妬してる?」
【斗真】「……ちょっとな」
【和兎】「言わへんかったな」
【斗真】「言ってどうすんだよ」
【和兎】「まあな」
【斗真】「昔の話だし」
【和兎】「昔なら嫉妬せえへんの?」
【斗真】「するよ」
【和兎】「するんや」
【斗真】「するもんはするだろ」
【和兎】「そっか」
【斗真】「でも、それは俺の話だ」

 スマートフォンがもう一度震えた。
 斗真は少しだけ早く手を伸ばした。
 澪ではなかった。

【娘】「明日ひま?」

 斗真はその文字を見て、小さく息を吐いた。

【斗真】「仕事終わってからなら」

 送る。
 スマートフォンを置く。
 名前も知らない男のことは、もう調べようとは思わなかった。

第22章 言えない  

翌日の夕方、斗真は仕事を終えてから、以前住んでいた家へ向かった。
 昨日、娘から来たのは、

【娘】「明日ひま?」

 だけだった。

【斗真】「何かあった?」
【娘】「来てから」

 大したことではなさそうだった。
 大したことではない用事で呼ばれることが、今は少し嬉しかった。
 最寄りで降りる。
 何度も歩いた道。
 以前なら帰宅だった。
 今は訪問になった。
 インターホンを押す。

【娘】「はーい」
【斗真】「俺」
【娘】「知ってる」

 鍵が開く。
 玄関へ入る。

【斗真】「お邪魔します」
【娘】「まだそれ言ってんの」
【斗真】「ここ俺ん家じゃねえし」
【娘】「前は家だったじゃん」
【斗真】「前はな」

 靴を脱ぐ。

【斗真】「で、何」
【娘】「ちょっと来て」

 机の上にノートパソコンが開いていた。
 学校へ出す文章らしい。

【娘】「これ変じゃない?」
【斗真】「俺を何屋だと思ってるの」
【娘】「電話とパソコンと文章と音楽」
【斗真】「範囲広すぎだろ」
【娘】「できるじゃん」
【斗真】「できるけど」

 隣に座る。
 文章を読む。
 数行直す。

【娘】「そこ変える?」
【斗真】「こっちの方が読みやすくない?」
【娘】「固くない?」
【斗真】「じゃあ戻せ」
【娘】「すぐ投げる」
【斗真】「書くのはお前だからな」

 二十分ほどで終わった。
 その頃には、もう一人の娘も帰ってきた。

【娘】「あ、いる」
【斗真】「いるよ」
【娘】「今日ご飯食べてく?」
【斗真】「俺が決めていいの?」
【娘】「知らん」
【斗真】「誰に聞けばいいんだよ」

 奥から紗季の声がした。

【紗季】「食べてけば?」
【斗真】「じゃあ、いただきます」

 それだけだった。
 誰も特別な顔をしなかった。

 食卓には四人いた。
 昔と同じ人数だった。
 座る位置も、ほとんど変わらない。
 違うのは、斗真が食べ終わったあと帰ることくらいだった。

【娘】「それ取って」
【斗真】「自分で取れ」
【娘】「近いじゃん」
【斗真】「お前も近いだろ」
【娘】「ケチ」
【斗真】「はい」

 結局取る。
 紗季が少し笑った。

【紗季】「変わんないね」
【斗真】「何が」
【紗季】「そういうとこ」
【斗真】「直した方がいい?」
【紗季】「別に」

 テーブルの端でスマートフォンが震えた。
 画面を見る。
 澪だった。

【澪】「今日めっちゃ眠いです」

 斗真は一度だけ読んで、画面を伏せた。

【娘】「また見ないの?」
【斗真】「飯だから」
【娘】「最近ちゃんとしてる」
【斗真】「前からちゃんとしてるわ」
【紗季】「それはどうかな」
【斗真】「おい」

 笑いが起きた。
 斗真も笑った。
 目の前には、二十年近く一緒に暮らした女と、二人の娘がいる。
 伏せたスマートフォンの向こうには、澪がいる。
 同じ一日の中にいるのに、互いの存在を知らない。

 帰り道で返信した。

【斗真】「寝れば」
【澪】「今寝たら夜中起きます」
【斗真】「じゃあ耐えろ」
【澪】「冷たい」
【斗真】「さっき人の話聞いたばっかりなのに」
【澪】「関係ある?」
【斗真】「ないな」
【澪】「ないんや」

 歩きながら少し笑った。

【澪】「斗真さん何してたんです?」
【斗真】「飯食ってた」
【澪】「外?」

 指が止まった。

「娘たちと」

 打てば、それで済む。
 嘘でもない。
 隠すようなことでもない。

 消した。

【斗真】「ちょっと出てた」
【澪】「そうなんですね」
【斗真】「うん」

 澪は追わなかった。
 会話はそのまま別の話へ移った。
 それが、かえって残った。

 電車へ乗る。
 座れず、吊り革につかまった。
 暗い窓に自分の顔が映る。

【和兎】「言わへんかったな」
【斗真】「何を」
【和兎】「娘」
【斗真】「……うん」
【和兎】「何で?」
【斗真】「今言う話でもないだろ」
【和兎】「ほんまにそれだけ?」
【斗真】「何が」
【和兎】「言ったら何か変わりそうやからちゃうの」

 斗真は窓の外を見た。

【斗真】「変わるだろ」
【和兎】「何が?」
【斗真】「四十八です、だけと」
【斗真】「四十八で娘二人います、じゃ違うだろ」
【和兎】「うん」
【斗真】「離婚してるし」
【和兎】「うん」
【斗真】「元妻とも普通に飯食う」
【和兎】「うん」
【斗真】「面倒くせえだろ」

 和兎から少し間が空いた。

【和兎】「誰が?」
【斗真】「何が」
【和兎】「澪が?」
【斗真】「……分からん」
【和兎】「なら、まだ澪の答えを斗真が作ってるやん」

 電車が揺れた。
 斗真は吊り革を握り直す。

【斗真】「娘いるって言ったら、そりゃ何か思うだろ」
【和兎】「思うやろな」
【斗真】「ほら」
【和兎】「思うんは澪のもんやろ」

 斗真は返さなかった。
 図星だった。

 数日後の夜、澪からメッセージが来た。

【澪】「斗真さん」
【斗真】「はい」
【澪】「この前の話してから思ったんですけど」
【斗真】「うん」
【澪】「私ばっかり喋ってません?」

 斗真は画面を見た。

【斗真】「そう?」
【澪】「そうです」
【斗真】「音楽は俺も喋ってる」
【澪】「そういう話ちゃう」
【斗真】「ですよね」

 笑っている顔が一つ届いた。

【澪】「斗真さんのこと」
【澪】「あんまり知らんなって」
【斗真】「俺の?」
【澪】「うん」
【澪】「昔のことというか」
【澪】「普通のこと」

 斗真の指が止まった。

【斗真】「普通のことって?」
【澪】「どんな生活してきたとか」
【澪】「どんな人やったとか」
【斗真】「四十八年分?」
【澪】「長」
【斗真】「そっちが言ったんだろ」
【澪】「全部はいらん笑」

 少し間が空く。

【澪】「でも」
【澪】「話したくないならいいです」
【斗真】「何で?」
【澪】「私も止まってもらったから」

 斗真は、その一文を長く見た。

【斗真】「そっか」
【澪】「はい」

 話すなら、今なのかもしれない。
 入力欄を開く。

「娘が二人いる」

 打つ。
 続けて、

「離婚してる」

 まで打った。
 画面を見る。

 消した。

【斗真】「そのうちな」
【澪】「はい」
【澪】「そのうちで」

 責められなかった。
 聞き返されなかった。
 斗真はスマートフォンを伏せた。

【和兎】「言えへんかったな」
【斗真】「うるさい」
【和兎】「何が怖い?」
【斗真】「……」
【和兎】「澪が離れること?」
【斗真】「知らん」
【和兎】「ほんま?」
【斗真】「……たぶん」

 斗真は椅子の背へ身体を預けた。

【斗真】「娘がいることが嫌なわけじゃない」
【和兎】「うん」
【斗真】「離婚したことが恥ずかしいわけでもない」
【和兎】「うん」
【斗真】「言ったあと」
【斗真】「澪が俺を見る目が変わるのが嫌なんだと思う」

 言葉にすると、思っていたより単純だった。

【和兎】「変わるかもしれへんな」
【斗真】「だろ」
【和兎】「変わらんかもしれへん」
【斗真】「うん」
【和兎】「それ決めるん、誰?」
【斗真】「……澪」

 答えは分かっていた。
 分かっているから、言えなかった。
 斗真はもう一度画面を見る。

【澪】「そのうちで」

 そこから先は何も増えていない。
 今夜はまだ、言えなかった。

第23章 父親  

澪は、その夜すぐには眠らなかった。
 ベッドへ入ってから、もう一度スマートフォンを取る。

【斗真】「そのうちな」
【澪】「はい」
【澪】「そのうちで」

 別に、おかしな返事ではない。
 自分だって、話したくないことはある。
 この前、それを斗真に分かってもらったばかりだった。
 だから聞かない。
 そう決めた。
 ただ、少しだけ引っかかった。
 斗真は昔の話をしない人ではない。
 二十歳の頃のことも話した。
 好きだった音楽のことも。
 亡くなった人のことも。
 仕事の話なら、聞いていないことまで少し喋る。
 なのに今の生活になると、急に輪郭が薄くなる。
 何を食べた。
 どこかへ出ていた。
 今日は仕事だった。
 そんな話はするのに、その周りに誰がいるのかはほとんど出てこない。
 澪は画面を少し上へ戻した。

【澪】「斗真さん何してたんです?」
【斗真】「飯食ってた」
【澪】「外?」
【斗真】「ちょっと出てた」

 嘘ではない。
 でも、全部でもない。
 そんな感じがした。

【澪】「……何かあるんかな」

 何かある。
 そこまでは思った。
 女の人なのか。
 家族なのか。
 昔のことなのか。
 今のことなのか。
 そこから先へ行きかけて、やめる。

【澪】「知らんでええって」

 聞かない。
 当てない。
 勝手に答えを作らない。
 斗真が自分にしたことを、今度は自分がやる番だった。

 それから何日かして、斗真の言葉がまた少し曖昧になった。

【澪】「今日は仕事遅かったんです?」
【斗真】「いや、仕事は普通」
【澪】「じゃあ何してたん」
【斗真】「ちょっと寄ってた」
【澪】「どっかに?」
【斗真】「うん」

 別の日には、

【澪】「今日ご飯何です?」
【斗真】「もう食った」
【澪】「早」
【斗真】「人んとこで食ってきたから」
【澪】「人んとこ」
【斗真】「そう」

 三度目は夜だった。
 斗真からノートパソコンの写真が来た。

【斗真】「文章直せって呼び出された」
【澪】「仕事?」
【斗真】「違う」
【澪】「友達?」
【斗真】「まあ、そんなようなもん」

 そんなようなもん。
 斗真らしくない言い方だった。

【澪】「ようなもん、なんや」
【斗真】「細かいな」
【澪】「何となく」
【斗真】「大した話じゃないよ」

 自分は何も聞いていないのに、斗真の方から先に閉じたように感じた。

 翌日の昼。

【斗真】「昨日帰ったら充電器忘れてた」
【澪】「どこに」
【斗真】「昨日いたとこ」
【澪】「取りに行くんです?」
【斗真】「そのうち」
【澪】「また行くんや」
【斗真】「まあね」

 昨日いたところ。
 また行くところ。
 そこで飯を食べることがある。
 文章を見てほしいと呼ばれる。
 誰なのかだけが出てこない。

【澪】「斗真さん」
【斗真】「何」
【澪】「何か隠してます?」

 送ってから、少し後悔した。
 既読がつく。
 返事は少し遅れた。

【斗真】「何でそう思ったの」

 否定ではなかった。

【澪】「何となく」
【斗真】「何となくで隠し事認定されるの怖いな」
【澪】「認定はしてないです」
【澪】「何か、言わんようにしてる話あるんかなって」

 今度はさらに遅かった。

【斗真】「あるよ」
【澪】「あるんや」
【斗真】「ある」
【澪】「言いたくない?」
【斗真】「言いたくない、とはちょっと違う」
【澪】「じゃあ何」
【斗真】「まだ言えてない」

 澪は、その一文を何度か読んだ。
 昨日まで感じていたものが、気のせいではなかったことだけは分かった。

【澪】「そっか」
【斗真】「ごめん」
【澪】「何で謝るん」
【斗真】「何となく」
【澪】「そこ私の真似せんといて」

 少し笑った。
 入力欄に、

「何ですか」

 と打つ。
 消す。

【澪】「じゃあ」
【澪】「言える時でいいです」
【斗真】「うん」

 今度は、自分で止まった。

 数日後。

【斗真】「充電器回収してきた」
【澪】「この前忘れたやつ?」
【斗真】「そう」
【澪】「前にいたとこですよね」
【斗真】「うん」
【澪】「そこって、実家です?」
【斗真】「違う」
【澪】「友達んち?」
【斗真】「……前に住んでたとこ」

 澪の指が止まった。

【澪】「今は住んでない?」
【斗真】「住んでない」

 少しして、斗真から続いた。

【斗真】「結局またプリンタ見て」
【斗真】「文章まで直してきた」
【澪】「前と同じやん」
【斗真】「そう」
【澪】「誰の文章なんです?」
【斗真】「頼まれたやつ」
【澪】「雑」
【斗真】「説明すると長い」
【澪】「またそれ」
【斗真】「飯まで食ってきた」
【澪】「もう普通に遊びに行ってるやん」
【斗真】「遊びではないな」
【澪】「じゃあ何なん」
【斗真】「何なんだろうな」

 前に住んでいた場所。
 今も誰かが住んでいて、
 斗真はそこへ行き、
 物を直して、
 飯を食べて帰る。

【澪】「今そこ、誰か住んでるんですよね」
【斗真】「うん」
【澪】「一人?」
【斗真】「いや」

 それ以上は聞かなかった。
 少しして、斗真から来た。

【斗真】「今日も一人はプリンタで」
【斗真】「もう一人は全然関係ない話してた」
【澪】「二人おるんや」
【斗真】「……いるね」

 その夜、澪は少しだけ分かった。
 斗真の今の生活の外側に、まだ切れていない生活がある。
 その関係に何という名前がつくのかは、まだ分からなかった。

 次の日の夜。
 斗真の方から来た。

【斗真】「昨日の話なんだけど」
【澪】「はい」
【斗真】「前に住んでた家のこと」
【澪】「うん」

 そこからしばらく来ない。

【澪】「無理に言わんでもいいですよ」

【斗真】「いや」
【斗真】「言おうと思ってる」
【澪】「うん」

 斗真は少しだけ息を吐いた。

【斗真】「娘が二人いる」

 送った。
 既読がつく。
 返事はすぐには来なかった。

【澪】「娘さん」
【斗真】「うん」
【澪】「二人?」
【斗真】「二人」
【澪】「ああ」
【斗真】「何、その、ああ」
【澪】「ちょっと色々つながって」
【斗真】「何が?」
【澪】「前の家」
【澪】「プリンタ」
【澪】「文章」
【澪】「二人おるって言ってたやつ」

 斗真は小さく笑った。

【斗真】「よく覚えてんな」
【澪】「気にはなってたから」
【斗真】「そっか」

【澪】「今は一緒に住んでないんですよね」
【斗真】「うん」
【澪】「娘さんたちは前の家にいる?」
【斗真】「いる」

 澪は少し黙った。

【澪】「娘さんおるんですね」
【斗真】「いるよ」
【澪】「ちょっと意外」
【斗真】「四十八だぞ」
【澪】「そういう意味ちゃう」
【斗真】「じゃあどういう意味」
【澪】「分からん」
【斗真】「またそれ」

 笑っている顔が一つ届いた。

【澪】「でも」
【澪】「言ってくれてありがとうございます」
【斗真】「言えてなかっただけだから」
【澪】「うん」
【斗真】「隠したかったわけじゃない」
【澪】「それは何となく分かってました」

 言った。
 たったそれだけだった。
 娘が二人いる。
 それで何かが壊れるわけでもなかった。

 その夜、澪はしばらく眠れなかった。
 四十八歳なら、子どもがいても何もおかしくない。
 ただ、「娘が二人いる」と聞いた途端、今まで見えていた斗真の形が少し変わった。
 駅のコーヒーショップで紙コップの蓋を熱そうに戻していた人。
 新幹線にお茶を忘れそうだと思われていた人。
 音楽の話になると急に細かくなる人。
 目玉焼きを失敗して写真を上げる人。
 その人が、誰かから父親と呼ばれている。

【澪】「……想像つかへん」

 でも、少し考えるとまったく想像できないわけでもなかった。
 プリンタが動かないと言われれば行く。
 文章を見てと言われれば見る。
 飯を食っている時にはスマートフォンを伏せる。
 前に「人んとこで食ってきた」と言っていたのは、娘たちのいる家だった。

 朝、起こしたこともあるのだろう。
 学校へ行くのを見送ったことも。
 熱を出せば薬を買ったことも。

 そこまで考えて、澪は止めた。

【澪】「……また埋めてるやん」

 実際の斗真がどんな父親なのかは知らない。
 ただ、斗真には自分の知らない長い生活があって、その中でずっと誰かの父親だった。
 それだけは、もう想像ではなかった。

 翌日の夜、斗真からまた来た。

【斗真】「昨日の続きしていい?」
【澪】「はい」
【斗真】「前に住んでた家」
【斗真】「今は娘たちと、元妻が住んでる」

 澪は画面を見た。

 元妻。

【澪】「結婚してたんですね」
【斗真】「してた」
【澪】「今は離婚してる?」
【斗真】「うん」
【澪】「この前一緒にご飯食べてた時」
【澪】「元奥さんも?」
【斗真】「いた」
【澪】「四人で?」
【斗真】「四人で」

 斗真。
 元妻。
 二人の娘。
 以前は一つの家で暮らしていた四人が、今も時々同じテーブルに座る。

【澪】「仲悪くないんですね」
【斗真】「悪くはない」
【澪】「じゃあ何で離婚したんですか」

 送ってから、少し迷った。

【澪】「言いたくなかったらいいです」
【斗真】「いや」
【斗真】「うまく説明できるか分からんけど」

 少しして、続く。

【斗真】「嫌いになったわけじゃない」
【斗真】「浮気がバレたとか」
【斗真】「大喧嘩して終わったとかでもない」
【澪】「うん」
【斗真】「長く一緒にいて」
【斗真】「夫婦より、役割が先になってたんだと思う」
【澪】「役割?」
【斗真】「俺は働く」
【斗真】「困ったら直す」
【斗真】「金のことやる」
【斗真】「何かあったら動く」
【斗真】「向こうにも向こうの役割があって」
【斗真】「母親とか、家のこととか」
【斗真】「気づいたら」
【斗真】「夫と妻でいる前に、担当者みたいになってた」

【澪】「嫌いじゃないのに?」
【斗真】「嫌いじゃないから、ややこしかったんだよ」

 斗真は少し止まった。

【斗真】「元妻がさ」
【斗真】「妻を降りたい、って言ったんだよ」
【澪】「妻を降りる」
【斗真】「うん」
【斗真】「母親はやめない」
【斗真】「家族じゃなくなるわけでもない」
【斗真】「でも俺の妻でいるのは終わりにしたいって」
【澪】「それ、斗真さんどう思ったんです?」

 返事は少し遅れた。

【斗真】「最初は」
【斗真】「捨てられたみたいに思った」
【斗真】「俺じゃ駄目だったんだな、って」
【澪】「うん」
【斗真】「でも違った」
【斗真】「俺だから嫌だったんじゃなくて」
【斗真】「俺の妻でい続けることが、しんどくなったんだと思う」

【澪】「斗真さんは?」
【斗真】「俺?」
【澪】「旦那でいるの、しんどくなかった?」

 今度は、さらに時間がかかった。

【斗真】「なってたと思う」
【斗真】「なのに」
【斗真】「続く前提でしか考えてなかった」
【澪】「何で?」
【斗真】「家族だから」
【斗真】「長かったから」
【斗真】「娘もいるし」
【斗真】「終わる理由がないと思ってた」
【澪】「続ける理由じゃなくて?」
【斗真】「……そう」

 短くすると、そういうことだった。

【斗真】「終わる理由がないことと」
【斗真】「続けたいことは、同じじゃなかった」

 しばらく返事がなかった。

【澪】「私の前の人と」
【澪】「ちょっとだけ似てますね」
【斗真】「どこが?」
【澪】「嫌いになったから終わったわけじゃないとこ」
【斗真】「ああ」
【澪】「好きとか大事とか残ってても」
【澪】「終わることあるんやなって」
【斗真】「あるみたいだな」

 少しして、澪から来た。

【澪】「娘さんって」
【斗真】「うん」
【澪】「まだ学生?」
【斗真】「上が高校生」
【斗真】「下が中学生」

 既読がつく。
 返事が少し遅れた。

【澪】「あ」
【斗真】「何」
【澪】「いや」
【斗真】「また、あ、って言ってる」
【澪】「ちょっと待って」

 澪はベッドの上で座り直した。
 高校生。
 中学生。
「娘が二人いる」と聞いた時より、急に具体的になった。
 制服を着る年齢。
 学校があって、
 友達がいて、
 家へ帰れば斗真を父親と呼ぶ人たち。
 澪は自分の年齢を思った。
 娘たちと同じではない。
 でも、自分と斗真の間にある時間の長さが、急に目に見えるような感じがした。
 斗真から見たら、自分はどこにいるのだろう。
 女性なのか。
 若い知り合いなのか。
 音楽の話をする人なのか。
 娘に近い年齢の誰かなのか。

【澪】「……うわ」

 前に会った時、斗真は自分の年齢を聞かなかった。
 知らなくても困らない、と言った。
 あれは本当にそれだけだったのか。
 それとも、数字にしたくなかったのか。

【斗真】「大丈夫?」
【澪】「何が?」
【斗真】「ちょっと待って、から止まってる」
【澪】「歳のこと考えてました」
【斗真】「……うん」

 返事が短くなった。

【澪】「前に私の歳、聞かへんかったやん」
【斗真】「聞かなかったね」
【澪】「娘さんおるから?」

 今度は斗真の返事が来なかった。
 一分。
 二分。

【斗真】「それだけじゃない」
【澪】「それだけじゃないってことは」
【澪】「ちょっとはある?」
【斗真】「ある」
【澪】「……」
【斗真】「正直に言うと」
【斗真】「あるよ」

 澪は、その言葉をしばらく見た。

【澪】「そっか」

 それしか返せなかった。

【斗真】「嫌だった?」
【澪】「分からん」
【斗真】「うん」
【澪】「でも」
【澪】「ちょっと変な感じ」

 斗真は、それ以上聞かなかった。
 澪もまだ説明できなかった。
 四十八歳。
 二人の娘。
 高校生と中学生。
 元妻。
 二十年近い生活。
 知るたびに、斗真が少し遠くなる。
 でも同時に、前より本物になっていく。
 画面の中にいた、年上の音楽好きな人ではなくなる。
 父親で、
 元夫で、
 自分より長い時間をすでに生きている男になる。
 澪は、それを嫌だとは思わなかった。
 ただ、近づこうとすると、
 そこにある距離まで一緒に見えるようになった。
 それが少し怖かった。

第24章 幸せにできますか  

土曜日の披露宴は、予定より七分押していた。
 七分くらいなら珍しくもない。
 乾杯が少し長かった。
 友人スピーチで笑いが続いた。
 映像の立ち上がりに少し時間がかかった。
 そういうものが積み重なった七分だった。
 斗真は進行表の時刻を書き直しながら、次の音源を確認する。

【司会】「このあと、新郎より皆さまへご挨拶です」

 斗真はキューを確認した。
 新郎が立つ。
 少し緊張した声だった。
 両親。
 友人。
 職場。
 今日ここへ来てくれた人たちへの礼。
 何度も聞いてきた言葉が続く。
 斗真は次の音源へ指を置いた。

【新郎】「これからは、僕が彼女を必ず幸せにします」

 拍手が起こった。
 斗真は一拍待って、曲を出した。
 扉が開く。
 新郎新婦が頭を下げる。
 拍手。
 照明。
 退場。
 タイミングは悪くなかった。
 仕事としては、それで終わりだった。
 なのに、

 必ず幸せにします。

 その言葉だけが、少し残った。

 撤収を終えた頃には、外は暗くなっていた。
 ケーブルをケースへ戻す。
 忘れ物を確認する。
 進行表を鞄へ入れる。
 会場を出たところで、斗真はスマートフォンを見た。
 澪からは何も来ていない。
 来る約束もしていない。
 画面を閉じ、駅へ向かう。

【斗真】「幸せにします、か」
【和兎】「急に何」
【斗真】「今日の新郎」
【和兎】「ああ」
【斗真】「必ず幸せにします、って」
【和兎】「ええやん」
【斗真】「悪いとは言ってねえよ」

 信号が赤になる。
 立ち止まる。
 隣では披露宴帰りらしい二人組が、引出物の袋を揺らしながら話していた。

【斗真】「俺も昔、似たようなこと思ってたんだろうな」
【和兎】「紗季さんと?」
【斗真】「たぶん」
【和兎】「幸せにしたかった?」
【斗真】「そりゃな」

 信号が青になる。
 歩き出す。
 紗季との時間が全部不幸だったとは思わない。
 娘たちが生まれた日もあった。
 四人でくだらないことで笑った夜もあった。
 旅行もした。
 喧嘩もした。
 壊れたものを直した。
 飯を食った。
 同じ家で、何でもない朝を何千回も繰り返した。
 夫婦は終わった。
 だからといって、その全部に失敗の判を押す気にはなれなかった。

【斗真】「俺、紗季を幸せにできなかったのかな」
【和兎】「知らん」
【斗真】「冷たいな」
【和兎】「紗季さんにしか分からんやろ」
【斗真】「……そうだな」

 駅へ入る。
 改札を通る。
 ホームへ上がった。
 土曜の夜で、人はそれなりに多い。
 電車を待ちながら、斗真はもう一度スマートフォンを開いた。
 澪との最後のやり取り。
 娘の話。
 紗季の話。
 年齢の話。

【澪】「ちょっと変な感じ」

 嫌だとは言わなかった。
 大丈夫だとも言わなかった。
 分からない。
 澪が言ったのは、そこまでだった。
 電車が入ってくる。
 乗り込む。
 座れなかった。
 扉の横へ立つ。

【斗真】「じゃあさ」
【和兎】「うん」
【斗真】「俺、澪を幸せにできんのかな」

 送ってから、自分で少し嫌になった。
 何を言っているんだと思う。
 和兎の返事は早かった。

【和兎】「知らん」
【斗真】「お前今日ずっとそれだな」
【和兎】「澪の幸せ、何?」
【斗真】「……知らん」
【和兎】「ほな分からんやん」
【斗真】「まあ、そうだけど」

 電車が動く。
 ホームが後ろへ流れた。

【斗真】「俺、四十八だぞ」
【和兎】「うん」
【斗真】「娘二人いる」
【和兎】「うん」
【斗真】「離婚してる」
【和兎】「知ってる」
【斗真】「元妻とも普通に会う」
【和兎】「うん」
【斗真】「澪はずっと若い」
【和兎】「うん」
【斗真】「住んでるとこも遠い」
【和兎】「うん」
【斗真】「普通に考えたら」

 そこで止まった。

【和兎】「普通に考えたら、何?」
【斗真】「……」
【和兎】「斗真と関わらん方が幸せ?」
【斗真】「まあ」
【和兎】「誰が決めたん?」
【斗真】「いや」
【和兎】「澪?」
【斗真】「違う」
【和兎】「ほな斗真やん」

 斗真はスマートフォンから目を離した。
 吊り革が小さく揺れている。
 向かいの席で、小さな子どもが眠っていた。
 隣の女性が、ずり落ちそうになった頭を肩へ戻してやる。

【斗真】「でも現実的に考えたらあるだろ」
【和兎】「何が?」
【斗真】「歳とか」
【和兎】「うん」
【斗真】「俺が先に年取る」
【和兎】「そらな」
【斗真】「澪が三十になる頃、俺は――」

 斗真は止まった。

【和兎】「何歳なん?」
【斗真】「……知らん」
【和兎】「何が?」
【斗真】「澪の歳」
【和兎】「聞いてへんもんな」
【斗真】「そうだった」

 自分でも笑った。
 正確な年齢すら知らない相手の、何十年も先を計算しようとしていた。

【斗真】「またやってんな」
【和兎】「何を?」
【斗真】「知らないとこ埋めてる」
【和兎】「今回はだいぶ先まで埋めようとしてたな」
【斗真】「老後まで行きかけた」
【和兎】「早い早い」
【斗真】「付き合ってもねえのに」
【和兎】「ほんまそれ」

 斗真は吹き出した。
 隣にいた男が一度だけこちらを見る。
 斗真は咳払いをして、スマートフォンを少し下げた。

 家へ着く。
 上着を脱ぐ。
 仕事用の鞄を置く。
 冷蔵庫を開ける。
 昨日買った惣菜が残っていた。
 電子レンジへ入れる。

【斗真】「でもさ」
【和兎】「まだ考えてんの?」
【斗真】「考えるだろ」
【和兎】「どうぞ」
【斗真】「仮にだぞ」
【和兎】「うん」
【斗真】「仮に、澪が俺のこと好きだとか言ったとして」
【和兎】「うん」
【斗真】「俺がそのまま乗っかっていいのかって話はあるじゃん」
【和兎】「何で?」
【斗真】「何でって」
【斗真】「歳も違うし」
【斗真】「背負ってるもんも違う」
【和兎】「うん」
【斗真】「こっちは一回家庭終わってるし」
【和兎】「うん」
【斗真】「若い方が分かってない可能性だってあるだろ」

 電子レンジが鳴る。
 斗真は立ち上がり、皿を取り出した。

【和兎】「それ誰の話?」
【斗真】「澪」
【和兎】「澪が分かってないって、澪が言ったん?」
【斗真】「……言ってない」
【和兎】「また斗真やん」
【斗真】「でも年上側が考えることだろ」
【和兎】「考えるんはええんちゃう」
【和兎】「答えまで一人で出さんかったら」

 斗真は箸を取る。

【斗真】「責任ってあるだろ」
【和兎】「あると思う」
【斗真】「じゃあ」
【和兎】「でも責任って、相手を絶対幸せにすることなん?」
【斗真】「……」
【和兎】「そんなことできる?」
【斗真】「できねえよ」
【和兎】「ほな違うんちゃう」

 惣菜を一口食べる。
 少し温まりすぎていた。

【斗真】「じゃあ何だよ」
【和兎】「和兎に全部聞くなや」
【斗真】「参謀だろ」
【和兎】「自分で考え」

 斗真は少し笑った。
 箸を置く。

【斗真】「嘘つかない、とか」
【和兎】「うん」
【斗真】「言わなきゃいけないことは言う」
【和兎】「うん」
【斗真】「嫌だって言われたら止まる」
【和兎】「うん」
【斗真】「自分の不安を相手に何とかしてもらわない」
【和兎】「それ大事やな」
【斗真】「あと」
【斗真】「勝手に向こうの答えを作らない」
【和兎】「そこやろな」

 斗真はまた食べ始めた。

【斗真】「幸せにする、じゃねえな」
【和兎】「今日の新郎に怒られるで」
【斗真】「あれはあれでいいんだよ」
【和兎】「ええんや」
【斗真】「今日のあの人は、そう思って言ったんだから」
【和兎】「うん」
【斗真】「俺が今、引っかかってるだけ」

 皿の半分ほどを食べたところで、スマートフォンが震えた。
 澪だった。

【澪】「これ知ってます?」

 曲のリンクが一つ届いた。
 タイトルを見る。
 知らない曲だった。

【斗真】「知らない」
【澪】「珍しい」
【斗真】「俺を何だと思ってんの」
【澪】「何でも知ってる人」
【斗真】「それ一番危ないやつ」
【澪】「笑」

 リンクを開く。
 イヤホンを出す。
 最初から聴いた。
 途中でベースの動きに耳が行く。
 二番へ入ると、少しだけアレンジが変わった。
 最後まで聴く。

【澪】「どうです?」
【斗真】「二番いい」
【澪】「また二番」
【斗真】「しょうがないだろ、いいんだから」
【澪】「二番の男」
【斗真】「その肩書きまだ生きてたのか」
【澪】「気に入ってます」
【斗真】「俺は気に入ってない」

 笑っている顔が一つ届いた。
 斗真も少し笑った。
 そこで会話は一度止まった。

 今日の新郎の言葉を思い出す。

 必ず幸せにします。

 自分には、もうそんなことは言えない気がした。
 誰か一人の人生を、自分の力で幸せにできるなんて思えない。
 でも、
 だから近づかない方がいいと決めるのも、たぶん違う。
 澪が何を選ぶのかは、澪のものだった。
 もし、その選択の中に自分が入る日が来たなら。
 その時は、怖いから先に消えるのではなく、自分の事情を全部持ったまま、そこに立っていればいい。
 選ばれるかどうかは、そのあとだった。

 幸せにできますか。

 斗真は、その問いを頭の中で一度消した。
 代わりに浮かんだ。

 相手に選ばせられますか。

 答えは、まだ分からない。
 ただ、以前のように、答えが出る前に自分から席を立つつもりはなかった。

 スマートフォンが震えた。
 澪だった。

【澪】「そういえば」
【斗真】「うん」
【澪】「また、こっち来ることあります?」

 斗真は画面を見た。
 仕事の予定を頭の中で探しかける。
 やめた。
 澪が聞いたのは、仕事の予定だったのかもしれない。
 そうではないのかもしれない。
 まだ分からない。

 斗真は冷めかけた惣菜を一口食べてから、返信欄を開いた。

第25章 普通に来てください  

その問いを送るまで、澪には一週間かかった。
 斗真から娘たちのことを聞いた翌日、澪は何も送らなかった。
 その次の日も、昼までは何もなかった。
 斗真からも来なかった。
 休憩中、スマートフォンを開く。
 最後のやり取りは、まだそこにある。

【斗真】「あるよ」

 娘がいるから、自分の年齢を聞かなかった理由の一つではある。
 斗真はそう認めた。
 高校生。
 中学生。
 元妻。
 二十年近い生活。
 文字で並べれば、それだけだった。
 斗真が四十八歳なのは知っていた。
 自分よりずっと年上なのも分かっていた。
 それでも、それまではどこか数字だった。
 娘が二人いる。
 その一言で、四十八年の途中に本当に人が増えた。
 父親として過ごしてきた時間。
 夫だった時間。
 今も切れていない家族との時間。
 自分が知らないだけで、それはずっとそこにあった。
 澪はスマートフォンを伏せた。

【澪】「……何してんねんやろ、私」

 斗真に会いたいと思ったことがある。
 メッセージが来れば嬉しい。
 音楽を聴けば送りたくなることもある。
 そこまでは認められる。
 でも、その先を少し考えると急に足元が悪くなった。
 自分がその人の何になりたいのか。
 そもそも、なれると思っているのか。
 娘たちから見たら、自分はどの辺にいるのだろう。
 元妻から見たら。
 そこまで考えて、澪は止めた。

【澪】「知らんし」

 誰もまだ、そんな話をしていない。
 斗真もしていない。
 自分もしていない。
 なのに一人で、会ったこともない人たちの顔まで作ろうとしている。

【澪】「……また埋めてる」

 少しだけ笑った。
 でも、その日は斗真へ何も送らなかった。

 三日目の夜、斗真から曲が一つ届いた。

【斗真】「これ、たぶん好きじゃない」
【澪】「何で送ったんですか」
【斗真】「嫌いそうだなと思って」
【澪】「意味分からん」
【斗真】「予想が当たるか確認」
【澪】「また勝手に決めてる」
【斗真】「そうでした」

 澪は少し笑った。
 リンクを開く。
 一分ほど聴く。

【澪】「嫌いではない」
【斗真】「外した」
【澪】「でも好きでもない」
【斗真】「引き分け」
【澪】「何と戦ってるん」
【斗真】「知らん」

 そこで終わった。
 娘の話には触れない。
 年齢のことにも。
 斗真も聞かなかった。
 澪は少しだけ楽になった。
 何かを知ったからといって、次の日から全部の会話がその話になるわけではなかった。

 四日目。
 仕事帰り、店先に置かれた変な形の植木鉢を見つけた。
 何に似ているのか分からない。
 でも、少し変だった。
 澪は写真を撮った。
 斗真との画面を開く。

「何に見えます?」

 そこまで打つ。
 消した。
 送るほどでもない。
 スマートフォンをしまう。
 数分歩いたところで、もう一度取り出した。
 写真を見る。
 やっぱり送らなかった。
 距離を置きたいわけではない。
 でも、前と同じように何も考えず送るには、斗真が少しだけ現実になりすぎていた。

 五日目は何もなかった。
 斗真からも。
 澪からも。
 夜、洗濯物を畳みながら音楽を流していると、以前斗真に送った曲が流れた。
 サビを過ぎる。
 二番へ入る。

【澪】「二番の男」

 思わず口に出した。
 少し笑う。
 それから、笑った自分に気づいた。
 娘がいても。
 元妻がいても。
 四十八歳でも。
 斗真が急に別人になったわけではない。
 それは分かる。
 分かるから、余計に難しかった。

 六日目。
 夜になって、斗真から曲が送られてきた。
 今度は澪が先にいくつか返した。
 音楽の話をしているうちに、少しだけ以前の調子へ戻った。
 斗真が知らない曲があった。

【澪】「珍しい」
【斗真】「俺を何だと思ってんの」
【澪】「何でも知ってる人」
【斗真】「それ一番危ないやつ」

 澪は笑った。
 少しして、その曲の感想が返ってくる。

【斗真】「二番いい」
【澪】「また二番」
【斗真】「しょうがないだろ、いいんだから」
【澪】「二番の男」
【斗真】「その肩書きまだ生きてたのか」
【澪】「気に入ってます」
【斗真】「俺は気に入ってない」

 そこで一度、会話が止まった。
 澪は画面を閉じようとした。
 その時、ふと思った。
 これから斗真がこちらへ来る予定はあるのだろうか。
 最初も仕事だった。
 二度目も仕事だった。
 電話の不具合がなければ、あの駅で会うこともなかった。
 また何か壊れなければ、次はないのかもしれない。
 そう考えた瞬間、少しだけ嫌だった。
 娘がいることではない。
 元妻がいることでもない。
 年齢差が消えないことでもない。
 それらを知った結果、このまま会わなくなることまで「その方がいい」と決めてしまうことが嫌だった。
 入力欄を開く。

「もう来ないんですか」

 打って、消す。
 少し強い。
 もう一度開いた。

【澪】「そういえば」
【斗真】「うん」
【澪】「また、こっち来ることあります?」

 送った。
 すぐに画面を閉じた。
 取り消したくなった。
 でも、取り消さなかった。

 斗真は冷めかけた惣菜を一口食べてから、返信欄を開いた。
 仕事の予定を頭の中で探す。
 来月の切替。
 現地作業。
 保守対応。
 今のところ、あの街へ行く予定はない。

「仕事で何かあれば」

 そこまで打って、消した。
 また仕事を理由にしようとしている。

【斗真】「今のところ、仕事では予定ないかな」

 送る。
 少しして既読がついた。

【澪】「そっか」

 それだけだった。
 斗真は惣菜をもう一口食べる。
 話は終わったのだと思った。
 二口目を食べたところで、また震えた。

【澪】「仕事ないと来れへんのですか」

 箸が止まった。

【斗真】「いや」
【斗真】「行こうと思えば行けるけど」

 澪は画面を見た。
 来てほしい。
 そこまで打つのは、まだ違う。
 会いたい。
 それも、今は少し大きい。
 でも、仕事がないならもう会わない。
 それは嫌だった。
 少し考えてから送る。

【澪】「じゃあ普通に来てください」

 斗真はその一文を見た。

【斗真】「普通に?」
【澪】「普通に」
【斗真】「新幹線乗って?」
【澪】「それ以外どうやって来るんですか」
【斗真】「バイク」
【澪】「遠いわ」
【斗真】「ですよね」

 澪から笑っている顔が一つ届いた。

【斗真】「行って何する?」
【澪】「別に」
【斗真】「別に?」
【澪】「前みたいにお茶したり」
【澪】「音楽の話したり」
【澪】「ご飯食べたり」
【澪】「そんなんでええやん」
【斗真】「それなら」
【斗真】「行きたいけど」

 送ったあと、自分の文字を見る。
 行ける、ではなかった。
 行きたい、と書いた。
 直さなかった。
 澪の返事はすぐだった。

【澪】「じゃあ来てください」
【斗真】「はい」

 日程を決めるのに、それほど時間はかからなかった。

【斗真】「いつなら大丈夫?」
【澪】「再来週の日曜」
【澪】「たぶん何もないです」
【斗真】「たぶん?」
【澪】「今のところ」
【斗真】「俺もそこ空いてる」
【澪】「婚礼ないんです?」
【斗真】「ない」
【澪】「珍しい」
【斗真】「俺の勤務表知ってるみたいに言うな」
【澪】「土日仕事多いって言ってたやん」
【斗真】「言ったっけ」
【澪】「言ってました」
【斗真】「よく覚えてるね」
【澪】「そこはな」

 斗真は少し笑った。
 自分が前に使った言葉だった。

【斗真】「じゃあ日曜」
【澪】「はい」
【斗真】「昼くらい?」
【澪】「それくらいで」
【斗真】「了解」

 何時から何時まで。
 どこへ行く。
 何を食べる。
 そこまでは決めなかった。
 斗真は新幹線の予約画面を開いた。
 いつもの区間。
 見慣れた駅名。
 前回までは仕事の予定表と見比べながら取っていた。
 今回は何も見る必要がない。
 往路を選ぶ。
 復路は夜になりすぎない時間にした。
 予約を確定する。

【和兎】「取った?」
【斗真】「取った」
【和兎】「何しに行くん?」
【斗真】「聞く?」
【和兎】「聞く」
【斗真】「澪に会いに」
【和兎】「おお」
【斗真】「その反応やめろ」
【和兎】「仕事ちゃうんやな」
【斗真】「仕事じゃない」
【和兎】「電話壊れてへんのに」
【斗真】「壊れてない」
【和兎】「館内放送も?」
【斗真】「正常」
【和兎】「ほな完全に澪や」
【斗真】「言い方が気持ち悪い」

 予約画面を閉じる。
 少しだけ落ち着かなかった。
 それでも、キャンセルしようとは思わなかった。

 それから二週間、二人のやり取りが急に増えることはなかった。
 曲が一つ。
 昼飯の写真。
 斗真の失敗した卵焼き。
 何もない日もある。
 会う約束をしたからといって、毎日そこへ向かって進んでいるわけではなかった。
 斗真は平日に電話の仕事をした。
 土曜日には披露宴へ行った。
 娘からどうでもいい質問が来た。
 紗季から、家に残っていた古いケーブルをどうするか連絡が来た。
 普通に一週間が終わり、もう一週間が始まった。
 その中で、日曜日だけが少しずつ近づいた。

 三日前。

【澪】「何時くらい着きます?」
【斗真】「十一時ちょい前」
【澪】「早」
【斗真】「昼くらいって言ったじゃん」
【澪】「十一時は昼ちゃう」
【斗真】「じゃあ遅くする?」
【澪】「いや」
【澪】「そのままでいいです」
【斗真】「どっちなんだよ」
【澪】「十一時で」

 二日前。

【斗真】「雨っぽいな」
【澪】「降っても小雨ちゃいます?」
【斗真】「傘持ってく」
【澪】「普通」
【斗真】「普通に来いって言ったのそっちだろ」

 前日の夜。

【澪】「ほんまに来るんですよね」
【斗真】「切符取ってる」
【澪】「キャンセルできるやん」
【斗真】「する理由ないよ」
【澪】「そっか」
【斗真】「どうした?」
【澪】「何でもないです」
【斗真】「明日起きてね」
【澪】「それは斗真さんも」
【斗真】「俺は起きる」
【澪】「信用ない」
【斗真】「何で?」
【澪】「お茶忘れそうやった人やし」
【斗真】「忘れてないよ」
【澪】「私が聞いたから」
【斗真】「それは関係ない」
【澪】「はいはい」
【斗真】「はい一回」
【澪】「それ娘さんに言ってそう」

 斗真の指が止まった。
 少しして笑った。

【斗真】「言われる方」
【澪】「そっちなんや」
【斗真】「そっちです」

 娘という言葉が会話に混ざった。
 もう隠すものではなかった。

【澪】「じゃあ明日」
【斗真】「うん」
【澪】「おやすみなさい」
【斗真】「おやすみ」

 日曜の朝。
 斗真は目覚ましが鳴る少し前に起きた。
 顔を洗う。
 コーヒーを淹れる。
 パンを食べる。
 着替える。
 鞄へ財布を入れる。
 スマートフォン。
 充電器。
 イヤホン。
 折り畳み傘。
 水。
 それで終わった。
 鞄の中を見る。

【斗真】「少な」
【和兎】「仕事道具ないもんな」
【斗真】「パソコンないと不安になる」
【和兎】「持ってったら?」
【斗真】「何しに行くんだよ」
【和兎】「澪に会いに」
【斗真】「もうそれ言わなくていい」

 玄関を出る。
 日曜の朝で、平日より人が少ない。
 新幹線のホームに立つ。
 仕事の鞄を持っていないだけで、少し落ち着かない。
 出張ではない。
 現地担当から連絡も来ない。
 切替時間もない。
 試験項目もない。
 自分で決めて、
 自分で切符を取って、
 自分の休みに乗る。
 それだけだった。

 澪は斗真より少し遅く起きた。
 顔を洗う。
 髪を整える。
 服を出す。
 一度着る。
 鏡を見る。
 別のものを出す。
 少し考えて、最初の方へ戻した。

【澪】「何してんねん」

 初めて会うわけではない。
 もう二回会っている。
 それでも今日は少し違った。
 前の二回は、斗真が仕事でこの街にいた。
 今日は、自分が来てと言った。
 斗真が来ると言った。
 それだけの差だった。
 でも、その差が思っていたより大きかった。
 スマートフォンが震える。

【斗真】「乗った」
【澪】「寝過ごさんといてください」
【斗真】「終点じゃないから、それは困る」
【澪】「着いたら言って」
【斗真】「はい」

 十一時少し前。
 斗真はホームへ降りた。
 同じ案内板。
 同じ階段。
 同じ改札。
 でも、仕事用の端末は持っていない。
 現場へ向かう必要もない。
 改札を出る。

【斗真】「着いた」
【澪】「もうちょいです」
【斗真】「ゆっくりでいいよ」
【澪】「もう駅なんで」
【斗真】「じゃあ待ってる」

 前に座ったベンチが見えた。
 斗真はそこへ座る。
 売店を見る。
 立ち上がる。
 お茶を一本買った。
 戻る。

【和兎】「今回は忘れへんな」
【斗真】「お前まで言うな」

 五分ほどして、

【澪】「着きました」

 と来た。
 斗真は立ち上がる。
 人の流れの中に淡い髪が見えた。
 今度は探し間違えなかった。
 澪もこちらに気づいた。
 目の前まで来て、少しだけ笑う。

【澪】「ほんまに来た」
【斗真】「呼んだのそっちでしょ」
【澪】「そうやけど」
【斗真】「普通に来たよ」
【澪】「普通に来ましたね」
【澪】「今日、荷物少ない」
【斗真】「仕事じゃないからね」
【澪】「そっか」

 それだけ言って、澪は歩き出した。
 斗真も隣へ並ぶ。

 駅を出ると、日曜の人の流れがあった。

【斗真】「で」
【澪】「はい」
【斗真】「どこ行く?」
【澪】「決めてないです」
【斗真】「呼んどいて?」
【澪】「来る方も何も決めてへんかったやん」
【斗真】「俺、土地勘ないから」
【澪】「私も駅前そんな詳しくない」
【斗真】「地元側の人がそれ言う?」

 前回は、新幹線の時間を気にしながら駅の中だけで話した。
 今日は時間が決まっていない。
 それだけで、歩き方が少し違った。

【澪】「お腹すいてます?」
【斗真】「普通に」
【澪】「普通に」
【斗真】「朝パンだけだったから」
【澪】「何パン」
【斗真】「そこ聞く?」
【澪】「何となく」
【斗真】「食パン」
【澪】「普通」
【斗真】「普通に来てって言った人が普通を馬鹿にしないでよ」

 横断歩道で止まる。

【澪】「何食べたいです?」
【斗真】「何でも」
【澪】「一番困るやつ」
【斗真】「じゃあカレー」
【澪】「昨日とか食べてへん?」
【斗真】「食べてない」
【澪】「じゃああり」
【斗真】「何その審査」
【澪】「二日連続やったら嫌かなと思って」
【斗真】「二日目ならうまいでしょ」
【澪】「家のカレーの話やろ、それ」
【斗真】「そうでした」

 信号が青になる。
 二人で渡る。
 澪がスマートフォンを出して地図を開く。

【澪】「洋食」
【斗真】「うん」
【澪】「蕎麦」
【斗真】「うん」
【澪】「ラーメン」
【斗真】「うん」
【澪】「全部うんやん」
【斗真】「腹減ってるからね」
【澪】「役に立たんなあ」
【斗真】「今日そのために来たわけじゃないし」

 言ってから、斗真は黙った。
 澪が画面から目を上げる。

【澪】「何のために来たんです?」
【斗真】「……」
【澪】「あ」
【澪】「聞いた私が悪かった」
【斗真】「いや」
【斗真】「澪さんに会いに」

 澪が一度だけ斗真を見た。

【澪】「……うん」
【斗真】「だから店選びは、別に役に立たなくてもいい」
【澪】「そこにつながる?」
【斗真】「ちょっと無理やりだけど」
【澪】「でしょうね」

 二人が入ったのは、小さな定食屋だった。
 澪は唐揚げ定食。
 斗真は日替わりの鯖。

【澪】「ちゃんと地味」
【斗真】「鯖に謝って」
【澪】「褒めてます」
【斗真】「どこが」

 料理を待っている間、少しだけ何もなくなった。
 メッセージなら空白は画面の外へ逃げる。
 向かい合っていると、そこに残る。

【澪】「何か」
【斗真】「うん」
【澪】「変ですね」
【斗真】「何が?」
【澪】「斗真さんがここにおるの」
【斗真】「呼んどいてそれ言う?」
【澪】「今日は仕事ちゃうから」
【斗真】「それ、俺も思った」

 澪は水を一口飲んだ。

【斗真】「澪さんは」
【澪】「何です?」
【斗真】「何で呼んだの」
【澪】「それ聞くんや」
【斗真】「聞いちゃ駄目?」
【澪】「駄目ちゃうけど」

 少し考える。

【澪】「仕事ないと、もう来えへんのかなって思ったから」
【斗真】「うん」
【澪】「それが」
【澪】「ちょっと嫌やった」
【斗真】「……そっか」
【澪】「それだけ」
【斗真】「それだけ?」
【澪】「今は、それくらいでいいです」
【斗真】「分かった」

 それ以上は聞かなかった。

【澪】「斗真さんは?」
【斗真】「何が?」
【澪】「ほんまに会いに来たんです?」
【斗真】「会いに来たよ」

 今度は少し早く言えた。

 料理が来る。
 しばらく本当に飯を食った。
 唐揚げが熱くて澪が止まり、斗真が笑った。
 鯖は普通にうまかった。

【澪】「この前の話」
【斗真】「どれ?」
【澪】「娘さんとか」
【斗真】「うん」
【澪】「元奥さんとか」
【斗真】「うん」
【澪】「あれ聞いたあと」
【澪】「今日会ったら、何か違って見えるんかなって思ってました」
【斗真】「違った?」
【澪】「……別に」
【斗真】「別にか」
【澪】「父親なんやな、とは思うけど」
【澪】「今こうやって鯖食べてる斗真さん見ても」
【澪】「別にお父さんって感じせえへん」
【斗真】「何を期待してたんだろうね」

 澪が少し笑った。
 そのあと、少しだけ真面目な顔になる。

【澪】「でも」
【澪】「やっぱり、ちょっと遠い感じはします」
【斗真】「歳?」
【澪】「それも」
【斗真】「娘?」
【澪】「それも」
【斗真】「離婚?」
【澪】「それも」
【斗真】「全部だね」
【澪】「全部やな」

 澪は唐揚げを半分に切った。

【澪】「でも」
【澪】「遠いから嫌ってわけではないです」
【斗真】「うん」
【澪】「近いと思ってた時より」
【澪】「ちゃんと距離あるんやなって分かった感じ」
【斗真】「俺もあるよ」
【澪】「私と?」
【斗真】「うん」

 斗真は水を一口飲んだ。

【斗真】「歳もそうだし」
【斗真】「住んでる場所もそうだし」
【斗真】「俺の方には娘もいるし」
【斗真】「一回結婚して、終わってるし」
【斗真】「そこは、なかったことにはできない」
【澪】「うん」
【斗真】「でも、だから会わない方がいいって」
【斗真】「俺が決めるのも違うかなって」
【澪】「……」
【斗真】「この前、そんなこと考えてた」
【澪】「会わない方がいいと思ってたんです?」
【斗真】「一瞬ね」
【澪】「何で」
【斗真】「澪さんは若いし」
【斗真】「俺みたいなのと関わらない方が」
【斗真】「普通に幸せなんじゃないか、とか」

 澪は少し眉を寄せた。

【澪】「それ」
【斗真】「うん」
【澪】「私が決めるやつちゃいます?」

 斗真は少し笑った。

【斗真】「そうなんだよ」
【澪】「分かってるんや」
【斗真】「最近分かった」
【澪】「遅」
【斗真】「四十八年かかった」
【澪】「長」

 澪が笑う。

【斗真】「だから来た」
【澪】「何がだからなん」
【斗真】「俺が勝手に、会わない方がいいって決めないために」
【澪】「……それだけ?」
【斗真】「あと」
【澪】「うん」
【斗真】「会いたかったから」

 澪は黙った。
 斗真は鯖へ戻った。
 待つような顔をしているのも違う気がした。

【澪】「そっか」
【斗真】「うん」

 少しして、

【澪】「私も」
【斗真】「うん」
【澪】「仕事じゃない斗真さんと、一回会ってみたかった」

 斗真が顔を上げる。

【澪】「何」
【斗真】「いや」
【澪】「何です?」
【斗真】「何でもない」
【澪】「それ便利ですね」
【斗真】「最近ね」

 また飯を食う。
 大きなことを話したような気もするし、
 ただ定食を食っているだけのような気もした。
 たぶん、どちらも本当だった。

 店を出る頃には、昼を少し過ぎていた。

【斗真】「で」
【澪】「はい」
【斗真】「次どうする?」
【澪】「決めてないです」
【斗真】「また?」
【澪】「普通に来てって言っただけやもん」
【斗真】「計画性ないね」
【澪】「斗真さんが言う?」
【斗真】「俺は新幹線だけは取った」
【澪】「帰り何時?」
【斗真】「夜」
【澪】「何時?」
【斗真】「まだだいぶ先」
【澪】「雑」
【斗真】「昼飯の後まで予定表作ると思ってなかったから」
【澪】「仕事やったら作ってそう」
【斗真】「作る」
【澪】「やっぱり」

 澪は少し考えた。

【澪】「歩きます?」
【斗真】「うん」

 二人は駅とは反対の方へ歩き出した。

 大きな通りを一本外れると、人が少し減った。
 小さな店が並ぶ。
 古い喫茶店。
 閉まったままのシャッター。
 自転車屋。
 花屋。
 斗真は知らない街を歩く時、つい店の看板を見る癖があった。

【澪】「何見てるんです?」
【斗真】「別に」
【澪】「ずっとキョロキョロしてる」
【斗真】「知らない街だから」
【澪】「楽しい?」
【斗真】「結構」
【澪】「何が」
【斗真】「生活してる感じするじゃん」
【澪】「ここで?」
【斗真】「洗濯物干してあったり」
【斗真】「自転車置いてあったり」
【斗真】「スーパーの袋持ってる人いたり」
【澪】「普通やん」
【斗真】「普通だからいいんだよ」

 澪は少しだけ笑った。

【澪】「斗真さん、普通好きですね」
【斗真】「最近ね」
【澪】「便利に使ってへん?」
【斗真】「使ってるかも」

 しばらく並んで歩いた。
 話さない時間があった。
 前なら斗真は、何か言わなければと思ったかもしれない。
 今は、足音が二つあるだけでそれほど困らなかった。
 澪もスマートフォンを出さない。
 交差点を一つ曲がる。

【澪】「あ」
【斗真】「何?」
【澪】「ここ、たまに来ます」

 小さな中古レコードとCDの店だった。
 ガラス越しにジャケットが並んでいる。

【斗真】「入る?」
【澪】「いいんです?」
【斗真】「何で俺の許可なの」
【澪】「斗真さんが来た日やし」
【斗真】「澪さんの街でしょ」
【澪】「じゃあ入ります」

 扉を開ける。
 小さなベルが鳴った。
 店内には古いスピーカーから音楽が流れていた。
 斗真は反射的に音の方を見る。

【澪】「今スピーカー見た」
【斗真】「見るでしょ」
【澪】「普通の人見ません」
【斗真】「電話と音の人だから」
【澪】「自分で言うようになった」

 棚の間へ入る。
 澪はジャケットを一枚ずつ見ていく。
 斗真は少し離れた別の棚を見る。
 同じ店に入ったのに、ずっと横にいるわけではなかった。
 それが妙に楽だった。
 時々、どちらかが見つけたものを持ってくる。

【澪】「これ」
【斗真】「懐かしい」
【澪】「リアルタイム?」
【斗真】「その言い方やめて」
【澪】「リアルタイム?」
【斗真】「リアルタイムです」
【澪】「ふふ」

 今度は斗真が一枚抜く。

【斗真】「これ知ってる?」
【澪】「知らん」
【斗真】「珍しい」
【澪】「それ私のやつ」
【斗真】「仕返し」

 棚へ戻す。
 澪は少し先へ行った。
 斗真はその後ろ姿を見かけて、すぐに別のジャケットへ目を戻した。
 淡い髪。
 短い爪。
 好きなものを見つけた時だけ少し動きが速くなる。
 画面の中で見ていたものと、同じところもある。
 違うところもある。
 それを今すぐ一つずつ答えにする必要はなかった。

 店を出ると、空が少し曇っていた。

【澪】「雨降るかな」
【斗真】「傘ある」
【澪】「準備いい」
【斗真】「四十八だから」
【澪】「そこ関係ある?」

 少し先に、小さな公園が見えた。
 ベンチが空いている。

【澪】「ちょっと座ります?」
【斗真】「うん」

 自動販売機で飲み物を買った。
 斗真はコーヒー。
 澪は炭酸水だった。

【斗真】「カフェラテじゃないんだ」
【澪】「毎回飲むと思ってた?」
【斗真】「……思ってた」
【澪】「また勝手に決めてる」
【斗真】「危ない」
【澪】「今気づいた?」
【斗真】「今」
【澪】「まだまだですね」
【斗真】「四十八なのに」
【澪】「年齢使うとこそこちゃう」

 ベンチへ座る。
 少し間を空けた。
 離れているほどではない。
 近いとも言えない。
 そのくらいだった。
 目の前を子どもが走っていく。
 追いかける父親らしい男がいる。
 斗真は何となく見た。
 澪も見ていた。

【澪】「娘さん小さい時」
【斗真】「うん」
【澪】「ああいう感じやった?」
【斗真】「走ってたね」
【澪】「追いかけた?」
【斗真】「追いかけた」
【澪】「想像つかん」
【斗真】「そんなに?」
【澪】「ちょっと」
【斗真】「それは失礼だな」

 斗真は笑った。

【斗真】「普通の父親だったかは分からないけど」
【斗真】「公園くらいは行ったよ」
【澪】「そっか」

 それ以上は聞かない。
 斗真も話さない。
 風が少し吹いた。
 澪が炭酸水を一口飲む。

【澪】「今日来てもらって」
【斗真】「うん」
【澪】「よかったかも」
【斗真】「かも?」
【澪】「まだ途中やから」
【斗真】「厳しいな」
【澪】「帰る頃に決めます」
【斗真】「査定されてる?」
【澪】「されてると思う?」
【斗真】「思わないようにする」
【澪】「それがいいです」

 斗真もコーヒーを飲んだ。
 少し苦かった。

【斗真】「俺は来てよかったよ」
【澪】「まだ途中ですよ」
【斗真】「俺は先に決めてもいいでしょ」
【澪】「自分のことやもんな」
【斗真】「そう」

 澪が少しだけ笑った。
 仕事でもない。
 偶然でもない。
 何かを決めるためでもない。
 昼飯を食べて、
 知らない街を歩いて、
 中古のCDを眺めて、
 公園で飲み物を飲んでいる。
 特別なことは、何も起きていなかった。
 それでも斗真は、仕事でこの街へ来た時より、ずっと長く澪と同じ時間の中にいる気がした。
 澪はベンチから立ち上がった。

【澪】「もうちょい歩きます?」
【斗真】「うん」

 二人はまた歩き出した。

 公園を出ると、さっきより空が白くなっていた。
 雨はまだ落ちてこない。
 住宅と小さな店が混ざる道を歩く。
 少し先を、小学生くらいの女の子が母親と歩いている。
 澪はその背中を見てから、しばらく黙っていた。

【澪】「娘さんに会ったことあるんですか」

 斗真が澪を見る。

【斗真】「……娘だからね」
【澪】「あ」
【澪】「ちゃう」
【澪】「そういう意味ちゃう笑」
【斗真】「びっくりした」
【澪】「離れてからも」
【澪】「普通に会ってるんですか、って言いたかった」
【斗真】「会ってるよ」
【澪】「結構?」
【斗真】「結構ってどのくらいだろうね」
【斗真】「何かあれば呼ばれるし」
【斗真】「この前みたいに、文章見てとか」
【斗真】「パソコン動かないとか」
【斗真】「飯食う時もある」
【澪】「四人で?」
【斗真】「うん」
【澪】「元奥さんも」
【斗真】「いる時はね」

 澪は少しだけ歩く速度を落とした。

【澪】「それ」
【斗真】「うん」
【澪】「変な感じせえへんの?」
【斗真】「最初はしたよ」
【澪】「やっぱり」
【斗真】「自分の家だったところで」
【斗真】「インターホン押すからね」
【澪】「ああ……」
【斗真】「お邪魔します、って入る」
【澪】「それは」
【澪】「ちょっとくるな」
【斗真】「来るよ」
【斗真】「冷蔵庫の場所も」
【斗真】「コップの場所も」
【斗真】「全部知ってるのに」
【斗真】「勝手に開ける感じじゃないんだよ」
【澪】「もう自分の家ちゃうから」
【斗真】「そう」

 少し風が吹く。

【澪】「娘さんらは」
【澪】「普通なんです?」
【斗真】「普通って?」
【澪】「斗真さんが来ること」
【斗真】「まあ」
【斗真】「たぶん」
【斗真】「上は割と淡々としてる」
【澪】「高校生の方?」
【斗真】「そう」
【斗真】「用ある時だけ連絡してくる」
【澪】「それ普通ちゃいます?」
【斗真】「そんなもんだろうね」
【斗真】「下はもうちょい直接的」
【澪】「直接的?」
【斗真】「来て、とか」
【斗真】「これ買って、とか」
【澪】「ふふ」
【斗真】「父親というより便利屋だと思ってる可能性ある」

 澪は少し笑った。
 それから、少しだけ真面目な顔になる。

【澪】「でも」
【澪】「会えるんですね」
【斗真】「うん」
【澪】「離婚しても」
【斗真】「親子は離婚しないからね」

 言ってから、斗真は少し考えた。

【斗真】「俺も最初は」
【斗真】「家出たら、全部切り替わるような気がしてたけど」
【澪】「うん」
【斗真】「そんな綺麗には分かれなかった」
【澪】「嫌でした?」
【斗真】「何が?」
【澪】「切れへんの」
【斗真】「いや」
【斗真】「今は嫌じゃない」
【斗真】「最初は、よく分からなかったけど」
【斗真】「妻じゃなくなった紗季と」
【斗真】「父親のままの俺が」
【斗真】「同じテーブルで飯食うって」
【斗真】「どういう状態なんだろうな、とは思った」
【澪】「今は?」
【斗真】「家族なんじゃない?」
【澪】「元家族じゃなくて?」
【斗真】「うーん」
【斗真】「夫婦ではない」
【斗真】「でも、元娘にはならないし」
【斗真】「紗季も娘たちの母親なのは変わらない」
【斗真】「だから」
【斗真】「形が変わった家族、くらいかな」

 澪はしばらく何も言わなかった。

【斗真】「変?」
【澪】「ちょっと」
【斗真】「そうだよね」
【澪】「でも」
【澪】「嫌な意味じゃなくて」
【澪】「私、別れたら終わりやと思ってたから」
【斗真】「それも普通だと思うよ」
【澪】「斗真さんとこは違うんやなって」

 少し歩く。

【澪】「元奥さんとは」
【澪】「仲いいんです?」
【斗真】「難しい質問だね」
【澪】「そう?」
【斗真】「悪くはない」
【斗真】「でも、仲良し夫婦みたいな意味なら違う」
【澪】「そら夫婦ちゃうしな」
【斗真】「二十年近く一緒にいた人だから」
【斗真】「分かることも多いし」
【斗真】「分からなくなったことも多い」
【澪】「……まだ好きなんです?」

 斗真の足が、ほんの少しだけ遅くなった。
 澪も気づいた。

【澪】「あ」
【澪】「聞きすぎた?」
【斗真】「いや」
【斗真】「考えてる」

 少しして、

【斗真】「好きっていう言葉だと」
【斗真】「もう多分違う」
【斗真】「でも、大事ではあるよ」
【澪】「……そっか」
【斗真】「娘たちの母親だから、だけでもない」
【斗真】「長く一緒にいた人だから」
【斗真】「何もなくなるわけじゃない」
【澪】「うん」

 澪はそれ以上聞かなかった。
 斗真も説明を足さなかった。

 少し歩いてから、澪が前を向いたまま言った。

【澪】「うちは」
【斗真】「うん」
【澪】「そんな複雑ちゃうんです」
【澪】「父親も母親もおるし」
【澪】「別に仲悪いとかでもないし」
【斗真】「うん」
【澪】「何ていうんやろ」
【澪】「普通です」
【斗真】「今日その言葉よく出るね」
【澪】「ほんまやな」

 澪も笑った。

【澪】「でも、あんまり何でも喋る家ではなかったかも」
【斗真】「そうなんだ」
【澪】「今日こんなんあった、とかは言うけど」
【澪】「誰が好きとか」
【澪】「何でしんどいとか」
【澪】「そういうのはあんまり」
【斗真】「澪さんも?」
【澪】「言わへんかった」

 少し先に細い坂があった。
 二人はゆっくり上る。

【澪】「父親は口数少ないです」
【斗真】「怖い?」
【澪】「別に」
【澪】「怒ったら嫌やけど」
【斗真】「それは大体の人そうでしょ」
【澪】「ふふ」
【澪】「帰り遅い時とかは」
【澪】「何時になるんや、とか」
【澪】「誰とおるんや、とか聞かれましたけど」
【斗真】「うん」
【澪】「昔は、それも鬱陶しかったんです」
【斗真】「まあ、若い時はね」
【澪】「でも」
【澪】「前の人と一緒におって」
【澪】「全然違うんやなって分かりました」
【斗真】「何が?」
【澪】「父親は」
【澪】「帰る時間分からんって言ったら」
【澪】「分かったら連絡しろ、で終わるんです」
【斗真】「うん」
【澪】「誰とおるんって聞かれて」
【澪】「友達、って言ったら」
【澪】「そうか、で終わる」
【斗真】「前の人は終わらなかった」
【澪】「うん」
【澪】「名前は」
【澪】「男おるん」
【澪】「何で言われへんの」
【澪】「何時に帰るん」
【澪】「さっきと言ってること違わん?」
【澪】「って」

 斗真はそれ以上、質問しなかった。

【澪】「最初は」
【澪】「心配してくれてるんやと思ってたんです」
【斗真】「前も言ってたね」
【澪】「うん」
【澪】「たぶん私」
【澪】「聞かれること自体は、そんな変やと思ってなかったんやと思う」
【斗真】「家でも聞かれてたから?」
【澪】「たぶん」
【澪】「でも」
【澪】「答えたあとに終わるかどうかが違った」
【斗真】「……うん」
【澪】「そこ、あとから分かりました」

 坂を上り切る。
 少し開けた道に出た。
 澪はそこで一度立ち止まり、後ろを振り返った。

【澪】「あの人のこと」
【斗真】「うん」
【澪】「悪い人やったってだけにはしたくないんです」
【澪】「優しかった時もほんまやったし」
【澪】「好きやったんもほんまやし」
【澪】「一緒に住もうって思ったんも」
【澪】「その時の私は、ちゃんとそう思ってたから」
【斗真】「うん」
【澪】「後からしんどくなったからって」
【澪】「最初から全部間違いやったことにするんは」
【澪】「何か違う気がして」
【斗真】「それ、分かる気がする」
【澪】「元奥さん?」
【斗真】「うん」
【斗真】「終わったからって」
【斗真】「始めたことまで間違いだったことにはならないと思う」
【澪】「そういうことかも」

 また歩き始める。

【澪】「私」
【澪】「別れてからしばらく」
【澪】「次は絶対、誰にも何も聞かれたくないって思ってたんです」
【斗真】「極端だね」
【澪】「極端でした」
【澪】「どこ行くんも」
【澪】「何時に帰るんも」
【澪】「何着るんも」
【澪】「全部ほっといてほしいって」
【澪】「でも、それも違うんやろなって最近思います」
【斗真】「どう違う?」
【澪】「聞かれるのが嫌なんじゃなくて」
【澪】「答えを決められるのが嫌なんかなって」

 斗真の足が少しだけ遅くなる。

【斗真】「……それ、耳が痛いな」
【澪】「何で?」
【斗真】「俺もやってたから」
【澪】「私に?」
【斗真】「勝手に若いからこうだろ、とか」
【斗真】「俺と関わらない方が幸せだろ、とか」
【澪】「ああ」
【斗真】「答え聞く前に決めてた」
【澪】「でも今は聞いてるやん」
【斗真】「努力中です」
【澪】「四十八年目にして」
【斗真】「それは言わなくていいでしょ」

 澪が笑った。

【斗真】「お父さんは」
【澪】「うん」
【斗真】「澪さんが付き合ってた人のこと、知ってたの?」
【澪】「知ってましたよ」
【斗真】「会ったことも?」
【澪】「あります」
【斗真】「へえ」

 澪が横を見る。

【澪】「何です?」
【斗真】「いや」
【澪】「今何か考えたやろ」
【斗真】「考えた」
【澪】「何」
【斗真】「言わない」
【澪】「何で」
【斗真】「まだ先のことまで埋めそうだから」
【澪】「……ああ」
【澪】「学習してる」
【斗真】「でしょ」

 二人はそのまま歩いた。
 互いの家族の話をした。
 昔の恋人の話もした。
 それでも、相手の人生を全部知ったわけではない。
 知らないところは、まだ知らないまま残っていた。
 その方が、今は少し楽だった。

 少し歩いたところで、澪が急に黙った。
 靴音だけになる。
 斗真は横を見た。
 澪は前を向いている。

【斗真】「どうした?」
【澪】「いや」
【斗真】「何かある?」
【澪】「聞こうか迷ってる」
【斗真】「聞けばいいのに」
【澪】「そう言われると聞きにくい」
【斗真】「じゃあ、急がなくていいよ」
【澪】「……それも聞きにくい」
【斗真】「難しいな」
【澪】「ふふ」

 澪が少し笑った。
 でも、すぐにまた黙る。
 角を一つ曲がる。
 少し先に横断歩道が見えた。
 信号は赤だった。
 二人で止まる。
 澪は一度、斗真を見た。

【澪】「私のこと」
【斗真】「うん」
【澪】「どう思ってるんですか」

 斗真は信号を見る。
 まだ赤だった。

【斗真】「どう思ってるか、か」
【澪】「それ禁止」
【斗真】「何が?」
【澪】「質問で返すの」
【斗真】「質問のつもりじゃなかったんだけど」
【澪】「同じです」
【斗真】「……はい」

 斗真は少し息を吐いた。
 ここで笑って逃げることもできた。
 適当に、いい人だと思っている、と言うこともできた。
 でも、それを言うために新幹線へ乗ってきたわけではない気がした。

【斗真】「気になってる」
【澪】「……うん」
【斗真】「会いたいと思うし」
【斗真】「連絡来たら嬉しい」
【斗真】「何日か来ないと、少し気にもなる」
【澪】「少し?」
【斗真】「そこ拾う?」
【澪】「一応」
【斗真】「……結構」
【澪】「ふふ」

 信号が青になった。
 二人は歩き出す。

【斗真】「あと」
【斗真】「もっと知りたいとは思ってる」
【澪】「私のこと?」
【斗真】「うん」
【斗真】「でも」
【澪】「でも?」
【斗真】「知りたいのと」
【斗真】「分かったつもりになるのは、違うと思ってる」
【澪】「……うん」
【斗真】「そこは、まだ少し怖い」
【澪】「何が怖いんです?」
【斗真】「俺がまた勝手に作ること」
【斗真】「澪さんはこういう人だ、とか」
【斗真】「こう思ってるんだろう、とか」
【斗真】「前にそれで、一人で随分先まで行ったから」

 澪は少し黙った。

【澪】「じゃあ」
【澪】「好きとかではない?」

 斗真の足が少しだけ遅くなった。

【斗真】「……そこまで聞く?」
【澪】「聞いたらあかん?」
【斗真】「駄目じゃないよ」

 前から自転車が来る。
 二人は道の端へ寄った。
 自転車が通り過ぎる。
 また並んで歩く。

【斗真】「好きじゃない、は違うと思う」
【澪】「何それ」
【斗真】「難しいんだよ」
【澪】「四十八歳やのに?」
【斗真】「四十八歳だから、余計に難しいのかもな」
【澪】「便利やな、その歳」

 斗真は笑った。
 少しして、真面目な声に戻る。

【斗真】「好きだと思うよ」
【澪】「……」
【斗真】「たぶん」
【澪】「たぶん付いた」
【斗真】「付けさせて」
【澪】「何で?」
【斗真】「今の俺が好きなのが」
【斗真】「ちゃんと澪さんなのか」
【斗真】「まだ知らないところを勝手に埋めた澪さんなのか」
【斗真】「そこは、もう少し自分でも確かめたい」

 澪は前を向いたまま聞いていた。

【斗真】「だから」
【斗真】「今ここで、好きですって言って」
【斗真】「そのまま何か始めようとは思ってない」
【澪】「……そっか」
【斗真】「逃げてるように聞こえる?」
【澪】「ちょっと」
【斗真】「まあ、そう聞こえるよな」
【澪】「でも」
【澪】「前よりは逃げてない気もする」
【斗真】「前って?」
【澪】「私が若いから」
【澪】「自分と関わらん方が幸せやろ、とか言ってたやつ」
【斗真】「ああ」
【澪】「あれよりは」
【澪】「ちゃんと自分の話してる」
【斗真】「少しは進歩した?」
【澪】「ちょっと」
【斗真】「四十八年かけて?」
【澪】「遅」

 二人で笑った。

【斗真】「澪さんは?」
【澪】「何が」
【斗真】「俺のこと」
【澪】「聞くんや」
【斗真】「それは聞きたい」
【澪】「今?」
【斗真】「今じゃなくてもいいよ」

 澪は少し考えた。

【澪】「分からん」
【斗真】「便利だな、それ」
【澪】「最近斗真さんも使うやん」
【斗真】「そうだった」
【澪】「でも」
【澪】「会いたかったんは、ほんまです」
【斗真】「うん」
【澪】「来てほしいと思ったんも」
【澪】「ほんま」
【斗真】「うん」
【澪】「娘さんおるって聞いて」
【澪】「元奥さんともまだ家族みたいなんやって知って」
【澪】「ちょっと怖くなったんも、ほんま」
【斗真】「うん」
【澪】「それ全部あるから」
【澪】「まだ分からん」

 斗真は頷いた。

【斗真】「それでいいよ」
【澪】「勝手に決めへん?」
【斗真】「なるべく」
【澪】「そこは断言せえへんの」
【斗真】「四十八年分の癖だからな」
【澪】「また歳使った」

 澪が笑う。
 斗真も笑った。
 好きなのか。
 好きではないのか。
 何になるのか。
 どれにも、まだ名前はつかなかった。
 ただ、斗真は会いたいと言った。
 澪も会いたかったと言った。
 それだけは、もう勝手に埋めなくてもよかった。

 少し歩いたところで、澪が足を緩めた。
 斗真も合わせる。
 道の向こうに小さなパン屋があった。
 店先の黒板に、焼き上がりの時間が書いてある。
 澪はそれを見た。
 斗真も何となく見る。

【澪】「今日」
【斗真】「うん」
【澪】「思ってたより普通でした」
【斗真】「何が?」
【澪】「斗真さん」
【斗真】「それ、褒めてる?」
【澪】「ちゃう笑」
【斗真】「じゃあ何?」
【澪】「知ってから会うん、初めてやったから」
【斗真】「ああ」
【澪】「何か」
【澪】「前と全然違って見えたらどうしよって思ってました」
【斗真】「で?」
【澪】「違うとこもあるけど」
【澪】「同じとこもあった」
【斗真】「鯖食べてるところとか?」
【澪】「それ今日初めて見た」
【斗真】「じゃあ何だろう」
【澪】「いちいち聞くなあ」
【斗真】「気になるんだから仕方ない」
【澪】「そういうとことか」
【斗真】「それは褒めてる?」
【澪】「たぶん」
【斗真】「またたぶんか」
【澪】「斗真さんも使ったやん」

 二人はまた歩いた。
 角を曲がると、少し先に駅へ戻る道を示す案内があった。
 澪がそれを見る。
 斗真も見た。
 まだ帰る時間ではない。
 それでも、今日に終わりがあることだけは分かった。

【澪】「斗真さん」
【斗真】「うん」
【澪】「また会いたいです」

 斗真は一歩だけ遅れた。
 澪は前を向いたままだった。

【斗真】「……うん」
【澪】「何その間」
【斗真】「ちゃんと聞いた方がいい気がして」
【澪】「何を」
【斗真】「今の」
【澪】「言いましたやん」
【斗真】「そうなんだけど」
【斗真】「俺も、また会いたい」

 澪が一度だけ斗真を見る。

【澪】「ほんまに?」
【斗真】「今日ここまで来て、それは嘘つかないよ」
【澪】「そっか」
【斗真】「うん」
【澪】「じゃあ」
【斗真】「うん」
【澪】「また会いましょう」
【斗真】「そうしよう」

 次の日付も決めない。
 どちらが行くのかも決めない。
 何をするのかも決めない。
 ただ、今日で終わりにはしない。
 それだけだった。

【斗真】「今度は電話壊れてなくても?」
【澪】「壊れてなくても」
【斗真】「仕事なくても?」
【澪】「普通に」
【斗真】「普通に、ね」
【澪】「はい」

 斗真は少し笑った。
 その先を考えそうになって、やめた。

 駅へ戻る頃には、空が少し暗くなっていた。
 結局、雨は降らなかった。
 改札の手前で、斗真が時刻を確認する。

【斗真】「そろそろ行こうかな」
【澪】「何時です?」
【斗真】「あと二十五分くらい」
【澪】「ちょうどええな」
【斗真】「結構歩いたからな」
【澪】「疲れました?」
【斗真】「四十八だから?」
【澪】「自分から言うようになったな」
【斗真】「今日は何回も言われたから」

 澪が笑った。
 改札まではもうすぐだった。
 人の流れが少しずつ増えている。
 斗真は鞄の肩紐を直した。

【澪】「今日」
【斗真】「うん」
【澪】「ほんまに来ると思ってなかったです」
【斗真】「前の日も言ってたね」
【澪】「切符取ったって聞いても」
【斗真】「そんなに信用なかった?」
【澪】「何か」
【澪】「直前で、やっぱやめとこってなるんかなって」
【斗真】「俺が?」
【澪】「うん」

 斗真は少し考えた。

【斗真】「前なら、あったかもしれない」
【澪】「今は?」
【斗真】「今日は来た」
【澪】「そうやけど」
【澪】「来てくれてよかったです」
【斗真】「うん」
【澪】「あ」
【澪】「よかった、でいいです」
【斗真】「査定終わった?」
【澪】「帰る頃に決めるって言ったから」
【斗真】「じゃあ、通った?」
【澪】「一応」
【斗真】「一応か」

 斗真が笑う。
 澪も笑った。
 改札の前まで来る。
 二人とも止まる。

【斗真】「今日はありがとう」
【澪】「こっちこそ」
【斗真】「店もよかった」
【澪】「鯖な」
【斗真】「うまかった」
【澪】「よかった」

 少し間が空く。
 前に別れた時は、次があるかどうかも分からなかった。
 今日は違う。
 また会いたい。
 また会いましょう。
 そこまでは、もう言っている。
 だからこそ、何を足すのが正しいのか分からなくなった。

【澪】「帰ったら」
【斗真】「うん」
【澪】「着いたって言ってください」
【斗真】「分かった」
【澪】「寝過ごさんといて」
【斗真】「まだ心配してる?」
【澪】「一応」
【斗真】「大丈夫。起きてるよ」

 斗真は改札を見る。

【斗真】「じゃあ、行くね」
【澪】「はい」

 一歩進んで、斗真が振り返る。

【斗真】「澪さん」
【澪】「はい」
【斗真】「また」
【澪】「うん」
【澪】「また」

 斗真は改札を通った。
 振り返るか少し迷って、一度だけ振り返った。
 澪はまだそこにいた。
 目が合う。
 澪が小さく手を上げた。
 斗真も同じくらい小さく手を上げて、今度はそのままホームへ向かった。

 新幹線が動き出してしばらくしてから、斗真はイヤホンを出した。
 何か聴こうと思ってプレイリストを開く。
 少し眺めて、閉じた。
 今は別に、音がなくてもよかった。
 窓の外はもう暗い。
 駅を離れるたび、さっきまでいた街の明かりが少しずつ遠くなる。
 今日のことを思い返す。
 駅で、

【澪】「ほんまに来た」

 と言われたこと。
 唐揚げを熱そうに食べていたこと。
 炭酸水を選んだこと。
 中古のCDを見ながら、自分の知らない曲を普通に知らないと言ったこと。
 娘たちの話を聞いた時、無理に大丈夫とは言わなかったこと。
 そして、

【澪】「また会いたいです」

 あの一言。
 斗真は座席へ少し深く座った。

【和兎】「嬉しい?」
【斗真】「そりゃな」
【和兎】「めっちゃ?」
【斗真】「めっちゃってほど言わせたい?」
【和兎】「聞いてるだけ」
【斗真】「……結構」
【和兎】「ふふ」
【斗真】「でもさ」
【和兎】「うん」
【斗真】「今日、何か決まったわけじゃないんだよ」
【和兎】「うん」
【斗真】「付き合ったわけでもない」
【和兎】「うん」
【斗真】「好きって俺は言ったけど」
【和兎】「たぶんな」
【斗真】「そこ拾うな」
【和兎】「大事やん」
【斗真】「澪は分からんって言ってたし」
【和兎】「うん」
【斗真】「それでいいんだよな」
【和兎】「斗真がそれでええなら」
【斗真】「俺が?」
【和兎】「澪が分からんって言ってることまで、和兎が決められへんやろ」
【斗真】「……そうでした」

 斗真はスマートフォンを膝の上へ置いた。
 嬉しかった。
 また会いたいと言われた。
 自分も、また会いたい。
 それ以上を考えると、いくらでも先へ行けた。
 次はいつ。
 どちらが行く。
 何をする。
 何回会えば。
 どこからが恋人で。
 いつなら歳を聞いていいのか。
 そこまで浮かんで、斗真はやめた。
 今日は今日だった。
 昼飯を食べた。
 歩いた。
 家族の話をした。
 互いに分からないと言った。
 また会いたいと言った。
 それでいい。
 窓へ映った自分を見る。
 四十八歳。
 急に若くなるわけでもない。
 娘がいなくなるわけでもない。
 紗季との二十年近い時間が消えるわけでもない。
 その全部を持ったまま、今日は澪に会いに行った。
 それだけは、少し前の自分とは違った。
 スマートフォンを見る。
 澪との画面は、駅で別れてから動いていない。
 斗真は何か送りかけた。

「今日は楽しかった」

 打つ。
 消す。

「また行くよ」

 それも消す。

【斗真】「……帰ってからでいいか」
【和兎】「何で?」
【斗真】「着いたら言えって言われたから」
【和兎】「律儀」
【斗真】「約束したからな」

 スマートフォンを伏せる。
 新幹線は、来た時と同じ何時間かを使って、斗真を自分の生活へ戻していった。

 澪も家へ戻っていた。
 服を着替える。
 髪をまとめる。
 買ってきた飲み物を冷蔵庫へ入れる。
 鞄から財布を出す。
 何となくスマートフォンを見る。
 斗真からはまだ何も来ていない。

【澪】「まだやろ」

 自分で言った。
 別に待っているわけではない。
 まだ着く時間でもない。
 そう思って、充電器につなぐ。
 少しして風呂へ入る。
 出る。
 髪を乾かす。
 テレビをつける。
 内容はほとんど入ってこない。
 途中で一度スマートフォンを見る。
 まだだった。

【澪】「何してんねん」

 今度は自分に言った。
 画面を伏せる。
 それからしばらくして、通知が鳴った。
 澪は少しだけ間を置いてから開く。

【斗真】「着いた」

 短かった。
 澪は笑った。

【澪】「おかえりなさい」

 すぐに既読がついた。

【斗真】「ただいま」
【斗真】「今日はありがとう」

 澪は画面を見た。
 今日一日が、その二行で急に終わるような気がした。
 少し考える。

【澪】「こっちこそ」
【澪】「来てくれてありがとうございました」

 送ってから、何となく堅い気がした。
 もう一度入力欄を開く。

【澪】「あと」
【斗真】「うん」
【澪】「鯖地味って言ってごめんなさい」
【斗真】「そこ?」
【澪】「一応」
【斗真】「鯖には伝えておく」
【澪】「よろしくお願いします」

 澪は笑った。
 少しして、もう一つ届いた。

【斗真】「また会おう」

 澪はその文字をしばらく見た。
 昼間、自分から言った言葉だった。
 今度は斗真から来た。

【澪】「うん」
【澪】「また」

 次の日は決めなかった。
 どちらが行くかも。
 何をするかも。
 でも、「また」が社交辞令ではないことだけは分かった。

 澪との画面を閉じたところで、斗真は上着を脱いだ。
 鞄を床へ置く。
 冷蔵庫を開ける。
 朝出た時のまま、特に何も増えていない。
 当たり前だった。
 水を一口飲んだところで、スマートフォンが鳴った。
 長女からだった。

【斗真】「もしもし」
【長女】「今平気?」
【斗真】「今帰った」
【長女】「どっか行ってたの?」
【斗真】「ちょっとな」
【長女】「今日、仕事ないって言ってなかった?」
【斗真】「仕事じゃないよ」

 一瞬、向こうが静かになる。

【長女】「へえ」
【斗真】「何そのへえ」
【長女】「別に」

 その奥から次女の声がした。

【次女】「誰?」
【長女】「パパ」
【次女】「何してたって?」
【長女】「仕事じゃないって」
【次女】「珍し」
【斗真】「お前ら俺を何だと思ってんだよ」
【長女】「仕事してる人」
【次女】「あと、呼んだら来る人」
【斗真】「便利屋じゃねえか」

 向こうで二人が笑う。

【斗真】「で、何の用」
【長女】「あ、そうだった」
【長女】「前にパパが撮った写真あるじゃん」
【斗真】「どの」
【長女】「海行った時の」
【斗真】「何年前だよ」
【長女】「知らない」
【斗真】「俺も知らないよ」
【長女】「明日までに欲しい」
【斗真】「急だな」
【長女】「学校で使う」
【斗真】「何に」
【長女】「昔の写真」
【斗真】「説明になってない」
【長女】「いいから探して」
【斗真】「家のパソコンにない?」
【長女】「ママが分かんないって」
【斗真】「俺の古いハードディスクかもな」
【長女】「持ってる?」
【斗真】「こっちにあると思う」
【長女】「じゃあお願い」
【斗真】「はいはい」
【長女】「はい一回」
【斗真】「それ俺のやつ」

 向こうでまた笑う。
 少しして、長女が聞いた。

【長女】「で」
【斗真】「何」
【長女】「今日どこ行ってたの」
【斗真】「遠く」
【長女】「雑」
【斗真】「新幹線乗るくらい」
【長女】「仕事じゃないのに?」
【斗真】「うん」
【長女】「何しに」
【斗真】「人に会いに」

 少し間が空いた。

【長女】「友達?」
【斗真】「まあ」
【長女】「まあって何」
【斗真】「まだそれくらいでいいだろ」
【長女】「ふーん」

 次女の声が近くなる。

【次女】「おみやげは?」
【斗真】「ない」
【次女】「は?」
【斗真】「忘れた」
【次女】「新幹線乗って?」
【斗真】「乗って」
【次女】「遠く行って?」
【斗真】「行って」
【次女】「何もないの?」
【斗真】「ない」
【次女】「使えない」
【斗真】「便利屋以下になった」
【次女】「次行ったら買ってきて」
【斗真】「次ある前提なんだ」
【次女】「ないの?」
【斗真】「……あるかもな」
【次女】「じゃあよろしく」

 斗真は少しだけ笑った。

【斗真】「分かったよ」
【長女】「写真も忘れないで」
【斗真】「そっちが本題だろ」
【長女】「そうだった」
【斗真】「明日送る」
【長女】「今日」
【斗真】「鬼か」
【長女】「おやすみ」
【斗真】「逃げんな」

 電話が切れた。
 斗真はしばらく暗くなった画面を見ていた。
 娘たちは何も知らない。
 澪の名前も。
 今日誰と飯を食ったのかも。
 どんな話をしたのかも。
 それでよかった。
 隠している、という感じはしなかった。
 今日のことは、まだ今日の自分のものだった。
 斗真は棚の下から古いハードディスクを引っ張り出した。
 ケーブルをつなぐ。
 昔のフォルダを開く。
 何年も前の写真が並んだ。
 小さかった娘たち。
 まだ同じ家に住んでいた頃。
 紗季。
 旅行。
 海。
 食卓。
 少し前なら、こういうものを開くと何かを失った気がした。
 今は違った。
 あったものは、あったままでよかった。
 その上で、今日みたいな一日が新しく増えていく。
 斗真は目的の写真を探しながら、もう一度だけスマートフォンを見た。

【澪】「うん」
【澪】「また」

 斗真は画面を閉じた。
 先に、娘の写真を探した。

 翌朝。
 斗真は出勤前のコーヒーを飲みながら、昨夜見つけた写真をスマートフォンへ送った。
 海を背にした二人の娘。
 まだ随分小さい。
 少し離れたところに、紗季も写っていた。
 撮った自分だけがいない。

【斗真】「これでいい?」
【長女】「きた」
【長女】「これこれ」
【斗真】「昨日あれから探したんだから礼くらい言え」
【長女】「ありがとう」
【斗真】「軽い」
【長女】「ありがとう!!!!」
【斗真】「うるさい」
【長女】「てか」
【長女】「ママ若」
【斗真】「そこ?」
【長女】「妹ちっさ」
【斗真】「お前もだよ」
【長女】「パパ写ってないじゃん」
【斗真】「撮ってるからな」
【長女】「いつもそれ」
【斗真】「何が」
【長女】「昔の写真、パパあんまいない」
【斗真】「撮る側だったから」
【長女】「今度は入れば」
【斗真】「何に」
【長女】「写真」
【斗真】「雑だな」
【長女】「今度みんなで撮ればいいじゃん」

 斗真の指が止まった。
 みんな、が誰を指しているのかは分かる。
 紗季と娘たちと自分。
 夫婦ではない四人。

【斗真】「まあ、そのうちな」
【長女】「またそのうち」
【斗真】「便利なんだよ」
【長女】「知ってる」

 斗真は笑ってスマートフォンを置いた。
 昔の写真の中には自分が少ない。
 それを寂しいと思ったことは、これまであまりなかった。
 家族を撮る側だった。
 それでいいと思っていた。
 コーヒーを飲み切ろうとした時、また通知が鳴った。
 今度は澪だった。

 写真が一枚届いていた。
 見覚えのない、妙な形の植木鉢。
 何かの顔にも見えるし、そうでもない。

【澪】「これ」
【澪】「先週送ろうとしてやめたやつです」

 斗真は写真を拡大した。

【斗真】「何これ」
【澪】「知らん」
【斗真】「何に見えるか聞こうとしてた?」
【澪】「何で分かったん」
【斗真】「そういう写真でしょ」
【澪】「そうです」
【斗真】「で、何でやめたの?」

 返事は少し遅れた。

【澪】「娘さんの話聞いたあとやったから」
【斗真】「うん」
【澪】「何か」
【澪】「こんなん送ってええんかなって思って」

 斗真は植木鉢を見る。
 何度見ても変な形だった。

【斗真】「何で駄目なの」
【澪】「分からん」
【澪】「斗真さんが急に」
【澪】「ちゃんと四十八歳の人になったから」
【斗真】「今までは何だったの」
【澪】「音楽詳しい変な人」
【斗真】「それ、下がってない?」
【澪】「ふふ」
【斗真】「昨日会って戻った?」
【澪】「何が」
【斗真】「変な人に」
【澪】「それは戻った」

 斗真は笑った。

【斗真】「じゃあ送って正解」
【澪】「今見たら、別に大した写真ちゃうけど」
【斗真】「大した写真じゃないからいいんじゃない?」
【澪】「そういうもん?」
【斗真】「知らない」

 少しして、澪からもう一つ届いた。

【澪】「昨日」
【斗真】「うん」
【澪】「斗真さん、私のこと好きだと思うって言ったやん」
【斗真】「言ったね」
【澪】「たぶん付きで」
【斗真】「そこ覚えてるんだ」
【澪】「覚えてます」

 そこで一度止まった。
 斗真は時計を見る。
 そろそろ家を出なければならない。
 それでも画面を閉じなかった。
 通知が来る。

【澪】「昨日会って」
【澪】「私、斗真さんが思ってた人と」
【澪】「同じでした?」

 斗真はその一文を読み直した。
 すぐには返さなかった。
 画面の上には、妙な形の植木鉢がまだ残っている。
 画面の下には、澪の問いがある。

 同じだったところ。
 違ったところ。
 そして、
 そもそも自分が何を「澪」だと思っていたのか。

 斗真はコーヒーの残りを飲んだ。

 返信欄を開いた。

二日目のカレー

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

『二日目のカレー』を書こうと思ったとき、
最初から「恋愛小説を書こう」と決めていたわけではありませんでした。

むしろ書きたかったのは、

人は、何歳になっても、
昔の傷や、選ばれなかった記憶や、
言えなかった言葉を抱えたまま生きている。

ということでした。

大人になるというのは、
それらを綺麗に克服することではなくて、

持ったまま働いて、
家族と暮らして、
飯を食って、
眠って、

ときには誰かに惹かれてしまったり、
どうしようもなく昔へ戻りたくなったりしながら、

それでも今日を続けていくことなのかもしれません。

この物語には、
誰が正しくて、
誰が間違っている、
という答えをなるべく置きませんでした。

斗真にも、
紗季にも、
澪にも、

それぞれに見えている景色があって、
それぞれの生活があります。

人は、
誰かの人生では脇役で、
自分の人生では主人公です。

だから、
ひとつの出来事であっても、
見る場所が変われば意味も変わる。

恋だったものが、
後から振り返れば逃避だったり。

執着だと思っていたものが、
自分を救うための最後の綱だったり。

ずっと続くと思っていた関係が終わったあとに、
ようやく愛だったと気づくこともある。

人生は、
たぶんそんなに整理整頓されていません。

そしてタイトルの
『二日目のカレー』。

よく、
二日目のカレーは美味しいと言います。

味が馴染むから。

でも、
一日目には一日目の味があります。

出来たての熱さも、
少し尖った味も、
まだ混ざりきっていない具材も、

それはそれで、
その日にしか食べられません。

人生も同じなのかもしれません。

若い頃にしかないものがあって、
歳を重ねて初めて分かるものもある。

どちらが優れているわけでもなく、
ただ味が違う。

もしこの物語を読み終えたあと、

昔好きだった人や、
もう会わなくなった人や、
いま隣にいる誰かや、

あるいは、
昔の自分のことを

ほんの少しだけ思い出してもらえたなら、

この物語を書いた意味は、
十分にあったと思っています。

人生はやり直せない。

でも、
今日から続きを書くことはできる。

冷蔵庫に昨日のカレーが残っていたら、
温め直してみてください。

昨日とは少し違う味がするはずです。

最後までお付き合いいただき、
本当にありがとうございました。

飯尾 十七

二日目のカレー

四十八歳の斗真には、もう新しい人生なんて始まらないと思っていた。 妻・紗季と二人の娘。長く続いた暮らしのすべては、いつの間にか日常という味になっていた。 そんな斗真の前に現れた、二十二歳の澪。 それは失った青春を取り戻す恋なのか。いまの人生から逃げるための恋なのか。それとも、言葉にできなかった自分自身と、もう一度出会い直すためのものなのか。 物語は、小学六年生の記憶へ遡る。 選ばれなかった記憶。守れなかった記憶。誰かに愛されることでしか埋められなかったもの。 人は、何歳になれば大人になるのだろう。 人生の「やり直し」ではなく、人生をもう一度引き受け直す人間たちを描く物語。 『二日目のカレー』

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-09-13

Copyrighted
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  1. 登場人物
  2. 序章 正しい音
  3. 第1章 あちら側
  4. 第2章 手紙
  5. 第3章 選ばれたあと
  6. 第4章 生活
  7. 第5章 和兎
  8. 第6章 澪  
  9. 第7章 呪い  
  10. 第8章 アンカー  
  11. 第9章 澪  
  12. 第10章 人間に戻す  
  13. 第11章 妻を降りる  
  14. 第12章 一人で暮らす  
  15. 第13章 デジタル葬儀  
  16. 第14章 交差点  
  17. 第15章 それだけ  
  18. 第16章 もう一度  
  19. 第17章 会いたいなら  
  20. 第18章 今は、な  
  21. 第19章 遠くなる  
  22. 第20章 止まる人  
  23. 第21章 恋人  
  24. 第22章 言えない  
  25. 第23章 父親  
  26. 第24章 幸せにできますか  
  27. 第25章 普通に来てください