詩集 修羅と名も無い僧 九章

九章

 泣き疲れて、インクも枯れ果てたこの胸に、
 今もなお鋭いペン先が、叫びたがる。
「白湯を持ってきたよ、一緒に分け合おう」
 色、味、余計な物は無い、その一杯の温もりが、
 青白く強張った私の、救いだった。
 貴方が手渡す光だけ、この夜に輝く。
 神奈川で、共に見上げた明星を、思い出した。

 大雨が降った後の、隣の空き地を見下ろした。
 舗装の欠けた地面に、汚れと水が溜まっている。
「欠けている未熟な心に、咎と学びが集積する」
 ああ、もしかしたら、私はこれで良かったのか。
 迷い、倒れて、這いつくばってでも、
 前に進めていたから、良かったんだ。

 緩やかな坂道を、一歩ずつ下りて行った。
 始めの内は、楽しかった。
 しかし、次第に空は暗くなり、苦しくなった。
 私は考え込んだ。
「空が明るかったのは何故。苦しみが最小だったのは何故」
 大切な事を思い出したから、この坂道を上がっていくんだ。

「大丈夫だよ、ゆっくり休んで、またお話ししよう」
 貴方が私に、思いやりを込めて伝えてくれた。
 懐かしい。昨年の冬、貴方の魂が砕けた時にも、
 私から同じ言葉を、何度も伝えた。
 互いを想い愛する心は、私の手元や足元を照らす。
 小さな神様、暗雲を裂く一条の輝きが、私にも見えました。

 私の砕け散った心の断片を、ひとつも残さず拾い集める。
 この荒原には、力尽きた人が大勢いて、哀れだ。
 そうだ、私の砕けた心をお布施しようじゃないか。
 手渡す度に、私は段々と動きが鈍くなる。
「良かった、何も間違っていなかった、全ては未来だ」
 少しずつ、神様の声が近くなる。光が見えてくる。

 苦しくても、間違いではなかった。
 人を助けようと、迷いも駆け引きも無く、助けてきた。
 この器から掴んだ善意を、相手の器に注いできた。
 この心を仇で返されても、何が問題なのだろうか。
 与えた善意が、受け取られた善意が、いつの日か、
 また廻って、誰かを助けるのだろう。それで良いではないか。

 小さな神様。私には、この想念の痛みが愛おしい。
 貴方なら解かってくれる筈です。決して、強がりではないと。
 かつての私は書きました。
「苦しみは赤子、育てれば大人になる」
 親子が共に成長する姿を知る者ならば、答えに気づく筈です。
 幼かった千辛万苦が、私に親孝行をしてくれたのです。

 記憶は即座に想念へと働きかけるだろう。
 良い思い出は善心を作る、悪い思い出は悪心を作る。
 人は、その様な迷信を鵜呑みにしていないだろうか。
 少なくとも、私は部分的に信じていた。
 記憶が悪い、記憶の中の相手が憎い、と想っていた。
 けれど、それこそ自らが生んだ、悪心ではないだろうか。

 修羅は、弥蘭陀王問経を読み続けていました。
 ある朝、彼は狂ったかのように、里端より叫びました。
「俺は存在しているぞ、俺はここに在るぞ」
 その叫びが、まるで無かったかの様に、野山に消えました。
 すると、修羅は嬉しそうに、豪快に笑いました。
「なあんだ、俺は真如の一部じゃないか」

 仏師様に、三年前からの悩みを打ち明けた。
「この青い泥は、いつか消えて無くなりますか」
「君は、学び舎があった方が、豊かだとは思わんかね」
 成程、これは愚問だった。
「この青い泥は、いつか報われますか」
「君は、卒業式で泣いている人を、見た事がないのかね」
 成程、これも愚問だった。

 ただ静かに、研ぎ澄ました自戒の心が、
 貴方の魂を穿ち、辛苦と共に省みるのだろう。
 皆に嫌な思いをさせたくない、純朴な心の表側に、
 精一杯元気に振舞おうと、好意を表す姿が、震えている。
 私が触れた肩も、首の入れ墨も、その微笑の返事でさえ、
 一切合切、哀しく映るのは、叫びだろうか。

 穏やかな心で、朝からお粥を作る。
 コンロの火が温かくて、胸の内が休まる。
 働きに行く貴方を見送り、私も努める。
 今やこのペン先は、昇華のみの道具ではない。
 道は長い。けれど、悲しみも喜びも、分かち合える。
 なればこそ、この生きる力を、正して使いたい。
 
 彼らの苦しみは、こうだ。
 他責から生んだ苦しみを、他者に絞めさせる不道徳。
 他責により継続する苦しみを、他者への憎悪で麻痺させる。
 私の苦しみは、こうだ。
 自ら招いた苦しみを、自戒の園へ放ち、神仏に返す。
 赦す努めを継続した月日が、無上の救いと成り訪れる。

 物乞いが僧に説きました。
「私は多くを持たないけれど、心の苦しみも少ないですよ」
 僧は、彼に握り飯を分け与えました。
「ひとつの喜びや情けを受け取ると、感動も大きいです」
 物質や学問に満たされて、今もなお欠けているこの心。
 僧は、未熟な己に泣きました。

 青鬼と物乞いが、ひとつの樹の下で雨宿りをしていた。
 二人は雨に濡れて、寒さに震えている。
「青鬼さん、良ければ、抱きしめ合って暖を取りましょう」
「俺は鬼だ。人に見られたら、お前が馬鹿にされる」
 物乞いは微笑んで否定した。
「人が馬鹿にしても、私達は何も間違っていません」

 二人の夢のために、伴侶が毎日頑張っている。
 私も夢とその先の為に、ペンを走らせる。
 苦しみや悲しみ、艱難辛苦がインクに成ってくれる。
 歪んだ想念を正そうと努める度に、ペン先が鋭く成る。
 この暮らしの中に、我々だけに実る喜びがある。
 その種を、二人が拓いた荒原に植えて、守るのだ。

 自らの怒りや憎悪、苦しみと向き合う事を、
 決して、疎かにはしたくなかった。
 自身が修羅である事実を忘れ、集団の中に夢を見たが、
 今では葛藤を乗り越え、同時に見えた現実もある。
 倫理を学び守る事、赦すため努める事、成長を志す事。
 これらを皆が皆、当たり前としている訳ではなかった。

 明けの明星が美しいのは、ひとつの強い輝きを放つから。
 数多の星に酔いしれるのは、あまりに輝きが多すぎるから。
 光は、人を惑わす魔性の顔さえ持つ。
 欲するほどに、己の眼を濁らせる事に、気づいた。
 光は、ひとつだからこそ清く、温かい。
 孤忠の一身に降り注ぐ、一条の救いだ。

「人を助ける事が咎ならば」
 言葉の続きを飲み込む。私は悔しい程に納得していた。
 嗚呼、懐かしい。昔の知人も、私に教えてくれていた。
「善意は虚無だよ」
 あの春の私ならば、この捨て台詞に立ち向かっただろう。
 自堕落に、楽に腐り果てる道を選ぼうか。
 けれど、それは決して正道ではない。

 間違える事が、数多の星の様に、うんざりとある。
 虚言の歌声が、静かに近づいて、私の首を絞める。
 机に置かれたままの本を手に取った。
 原始仏教の心を説いた、五十年前の書だった。
 父が私にくれた物だ。
 中道があり、日々の暮らしに八つ存在する。
 八正道が、懐かしい救い主の名に想えた。

 蕩けた後の止まり木も、溺れた後の波止場でさえも、
 全てを包括してくれていた。その意義を求めぬままに。
 止まり木は、自らを斧で叩き割った。
 波止場は、荒れ狂う津波を抱擁して、崩れ去った。
 だが、これは誠実な幸せへの一歩なんだ。
 余分な苦しみを手放し、明け方の東へ歩くため整える。

 貴方が私のアパートに、一週間のお泊りをしてくれた時。
 何よりも、夜が楽しかった。
 二人で電子タバコを吹かして、日本語ラップを聴いた。
 就寝時には布団を奪い合って、疲れるまで遊んだ。
 一緒に天井を見上げて、手を握り合いながら、
 互いの夢を語り合う。幸せな事に、同じ夢を持っていた。

 闘う者が、戦友のために駆けつける。
 彼らは、侮辱の声には振り向きもしない。
 一心不乱に生きる、一身に宿した夢と志。
 道を違える事もある。暗闇に留まり、過ちに染まる。
 だが、闘う者は、戦友を見捨てはしない。
「お前が熱意を取り戻すまで、この闇を祓おう」
 恐れるな、友よ、恐れるな。

 夢が可哀そうだから、私は止まらない事にした。
 止まったって、時間や命は過ぎ去っていく。
 この様な浪費の為に、夢が涙していては、拭う手が無い。
 安い悦びと、侮蔑の裏返しの温情では、何も成せない。
 真に傷を縫い合わせるのは、勇気だ。
 誠実に生きる術は、志に立ち上がる、一瞬の覚悟だ。

「私の麻痺した左手でも、お揃いの指輪を着けてくれるか」
 私の問いは本気だった。祈る様に慈悲を求めた。
 貴方も本気で応じてくれた。当たり前だよ、と笑ってくれた。
「君と命を共にしたい。二人で、一緒に生きよう」
 私は果報者だ。だからこそ、貴方の事も幸せにするのだ。

 勇猛果敢に生きてみせたい。
 誰に、という訳ではなく、ただ蛮勇なまでに、生きたい。
 詩を書き始めた、あの春に、私の手で報いたい。
 散々叫んだ、あの真っ暗な防波堤に恩返しがしたい。
 見守ってくれた十一面観音と、不動明王に、償いたい。
 何より、苦楽を共にしてきた貴方と、心穏やかに暮らしたい。

 明け方に聴く、君の寝息が穏やかだ。
 暮れ方に笑う、君の無邪気が好きだ。
 二人で眺めた入り日の海。
 一緒に見上げた、明けの星。
 共に分かち合った世界は、優しく美しい。
 君と二人きりで、苦難に打ち耐えてきた。
 全てを手放し、全てを受け取ってきた。
 嬉し涙に頬を濡らして、生きている。
 今年の春に、また会おう。

詩集 修羅と名も無い僧 九章

詩集 修羅と名も無い僧 九章

  • 自由詩
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2026-09-08

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