詩集 修羅と名も無い僧 八章
八章
赦してはならないという執念。
赦さなくてはならないという執念。
どちらも妄執であり、苦しい事に違いは無い。
どちらが善い苦しみか。
私には今一度、考える時間が与えられている。
しかし、迷う事は、無いのだ。
悩んでいるうちは、覚悟も決められない、浅い理解だ。
深く理解してくれる者は、単純明快な答えを持つ。
目元を拭い、何度でも読み返した、短い文を。
「一緒に生きよう、貴方と一緒にいたい」
嗚呼、一言だけで、万物を良しとせよ。
この一言だけで、千辛万苦を、良しとせよ。
怒りひとつを抱えて、このまま青い泥に身を投げたい。
醜く歪んだ種子として、誓願も立てられぬまま沈みたい。
上も下も解らぬ、されど微かな光だけを辿る。
やっとの想いで、一切の他を赦せる自身を想像する。
誰にも見向きもされない、凡の一輪で良い。
この怒りさえ、静まれば、良い。
自己保存や、自我我欲といった考え方では、いけない。
記憶ひとつと向き合う事さえ、儘ならないではないか。
心底より起こる憤怒に対し「それは悲しみ」と告げる。
事実、怒りは悲しみである。幸せを砕く物である。
私が感情を正当化の道具にしている内は、
決して、私の地獄は終わらないのだ。
畑を耕せば、雑草が生える。
種を蒔けば、鳥獣に食われてしまう。
水を撒こうにも、川の流れが痩せる。
得ようにも、何ひとつ得られぬ。
けれど、明け方にも、暮れ方にも、
あの明星ひとつが、あまりに美しい。
南の夜の街に消えていく、お前は、生きているか。
私は息も絶え絶えに、記憶という化け物と、
殴って蹴っての喧嘩を繰り返しているよ、飽きもせず。
けれど、化け物なりに道理の通ったやつでね、
面白い事に、神様と時間を掛けて話をすると、
この化け物とも、和解できるのだ、不思議にも。
何としても、赦したい。
この努めを笑う者達が、幾千幾万といようともだ。
その様な烏合の衆は、始めから相手にしていない。
考えてもみてほしい。怒りは、己の胸中に在る。
赦す本願も、この胸の内に在る。
赦しは良心への孤高な忠義である。
他者と私との間に、何も起きてなどいないのだ。
貴方がいつも身に着けている、その腕時計にさえも、
妬いてしまうのは、愚かなのだろうか。
私と貴方が手を繋げる時間は、ほんの一瞬なのに。
愛執の念に駆られた私は、とても悪い事を思いついた。
そうだ、私が、貴方に腕時計を贈れば良いのだ。
愛は、私を狡猾で幸せな人間に、変えちまった。
苦しい蛹が、痛みや屈辱に必死に耐えて、
蝶の姿と成り、里端に舞いつつ、独りの時間を得る。
美しい赤翡翠が、暖かな野山を求めて遠路を飛び、
子を育むと、発つ鳥、残る鳥の惜別が繰り返される。
幼少の頃は世の物事を何も知らずにいたが、
今でも、蝶と赤翡翠の確たる違いなど、判らない。
鉄条網の向こう側、神様はさぞかし寂しいだろう。
溶け落ちた橙色に、私が真っ赤な紅を織り交ぜよう。
空に深い孤独と、静かに笑う、泣き顔が描かれた。
遂に虜囚の身と成り、神様の隣で手記を綴る。
「神様、見てください、貴方の似顔絵、描いたのです」
頭を撫でて下さる、温かくも震える手で。
悲しみの日に悲哀の詩、喜びの日に歓喜の詩。
それが当たり前の作法であると、思い込んでいた。
愚直なままでは、想いを馳せる自発性が失われる。
幸せにも苦しみにも一切の差異が無い、壁を越えるのだ。
花開く蕾に悲しみを説くのではない。
その房の嘆きを、聴くのだ。心底から汲み取るのだ。
虎の面を被った修羅が、いよいよ野蛮に笑った。
これで良いのだ、と諦めるように笑った。
双眸に光るのは、涙だろうか、夜露だろうか。
怒りも憎悪も等しく悲しみ。
彼にとってはどちらも誇り。妄執的正義の証。
その誉れに焼かれて、今なお苦しみ、笑っている。
渚に座り込む青鬼に、名も無い僧が声を掛ける。
「この潮騒はお前さんの泣き声なのだな」
頬を濡らす鬼の目は静かに笑っていた。
「お坊さん、俺はこれで、幸せなんです」
僧と青鬼は、二人でひとつの握り飯を分け合った。
「お坊さん、この飯、塩が強くないですかい」
僧も鬼も、ただ笑った。
被る編み笠に纏う袈裟。悪夢を振り返る明けの空。
私が見上げた地平線の上に、有難くも輝く星が在る。
見下ろした世界には、いつでも花が咲くけれど、
その根は互いの首を絞めて、常に不気味に笑っている。
青い泥に身を落とし、根ざし、芽生える蓮ならば、
優しく佇み、謙虚に咲くだけである。
真の喜びだなんて、俗な事は語りたくないが、
誠実な喜びというものは、あると考えている。
もしも、一身を投じてまで、他者の幸せを願えたならば、
その祝福された心境は、既に低俗とは無縁である。
己の身可愛さに、その様に念じている者同士で、
互いに汚泥を飲ませる事は、悲しみである。
尊敬に値しない者から離れる度に、自らの事も省みる。
本性を見るまでは、可愛さの一言で言い表せても、
一度剥いだ化けの皮、相手の醜い想念が見える。
私自身はどうだろうか。この面の下には何がある。
朱に染まった分だけ赤く、知らぬふりをしている。
恥とは、この事実に気づかぬ事である。
感情と報復心とを切り離す過程を怠り、
赦す心を学ばずに、受動的姿勢で赦した気になれば、
それは見えない炎に焼かれ続ける、苦しみだろう。
燻ぶる身は中道や中庸の考えから遠い。
実際は、獰猛な偽我と、真情との区別がつかない。
昇華の末に価値ある筈の欲心でさえも、なお鋭い。
「与えられない分を、私も与えないようにしよう」
意地で心に誓った分だけ、胸中は暗く、惨めになる。
「己が持てる最善を与えよう」
特別ではない、日頃の普遍的な指針は視野を照らす。
幾年が過ぎて、悲しいと想えたことは、
彼らの時計が止まったままだという事実だ。
怒りに囚われていた時期は、私も記憶に楔を打った。
いつまでも時間が動かず、朝を迎えても変わらなかった。
赦す努力は、私の時間を前方へと進めた。
言葉を失う彼らの顔だけが、遥か後方に在る。
体たらく、恥さらす、夢の間、現実
胸に抱いた鉛筆、今はただ尖らす
野に咲く、踏み鳴らす、砕け散ったすりガラス
有難いと追いかける、導きの八咫烏
山岳は動かず、人々は揺れてる
星空は輝く、高く広く喜ぶ
涙滴、溢れかえる、重ね合う尊徳
零れ落ちる道徳、彼らだから放り出す
明け方の防波堤に深々と頭を下げた。
散々叫んでいた夜半の空も、今は明るく潮が香る。
ヘッドライトが輝いていた対岸は、何者でもない。
暗い海原も、今は金銀の陽光を弾く希望の原。
私は地獄に落ちました、願った古い幸せは手放した。
貴方は私の背を抱いた。立ち止まり、幸せを迎えた。
凡夫として生まれて、衆生の中に埋もれて、
無数に在る種子として、青い泥に飛び込んでいる。
救われる約束がある中で、哀しくも気付く事は難しい。
だが、この泥中での苦しみにも必ずや意味がある。
生きる事は、価値を問うまでも無い賛美である。
淡い蓮華の美しさが、一切の救済ではないか。
ぼろを着ても心は錦と人は云う。
開き直るための言葉ではない。
心に錦を羽織れるだけの、生き様があってこそ、
着込んだぼろが、清貧と成り、輝くのだ。
里端にて、乳飲み子の面倒を見る母達を見ろ。
山裾で気合いの声を張り上げ、汗を流す父達を見ろ。
着飾る者や、醜い者など、一人もいない。
修羅は憂いの深い顔で、涙しながら、寺の掃除をしていた。
落ち葉の数々を、自らの怒りに重ねていた。
「ああ、良かった。俺の怒りも、これ程に軽いのだ」
枯れ葉を集めて、小さな山にして、燃した。
「ああ、良かった。俺の怒りは、燃え尽きるのだ」
修羅は嬉し泣きをしながら、合掌した。
街路灯の下で、ぼんやりと照らされ、鋭く穿たれる。
夜の街を、東にも西にも歩けず、一匹の蛍に成る。
山に残った陽光の香りを、心細く追いかけて、
誰かいないのか、と声を上げる。
見下ろした街の輝きが、孤独を生み出していた。
自ら光り闇に佇む、銀の琴をかき鳴らしながら。
飢えた狼の群れの中に、独りの僧がいた。
彼は怯えてなどいない。一身をお布施する覚悟でいる。
だが、生涯を御仏に捧げてきた彼が喰われる事を、
夜半の月に照らし出された、白虎が赦さなかったのだ。
人に優しく成ろうという決意は、恐怖だった。
多くの敵意や反撃の意志を放棄するに等しい。
持ち得る限りの良心を働かせる必要があった。
善意につけ込み、開き直り裏切られる事もある。
自ら与えた分より、自らが奪われる分が多い事もある。
それでも、優しい人に成りたい。この心は恥ではない。
悪魔は都合の良い時にだけ、倫理を言葉にする。
しかし、魔は人間を堕落させることが目的であり、
魔の語る人間の在り方は、全て罠である。
日頃の行いの中に組み込まれてこそ、人の道理だ。
その場で人間を騙す道具として使い捨てられた倫理が、
必ずや、その悪魔の首を絞めて、因果を以て裁く。
不動明王の縄により、仏法に傾聴する事を覚えて、
三毒を克服するために、剣を有難く見上げる。
ガルダの炎よ、我が身を焼き尽くしてくれ。
二度と、悪魔に噛みつかれる事が無いように。
燃えた後の灰の中に、ひとつの種子があれば、
明王に帰依するため、迷わず青い泥に投げ入れてほしい。
母象が、神様の樹の前に、亡くした息子の遺骨を運ぶ。
ひとつひとつを鼻で掴み、丁寧に並べていく。
人間達の銃で撃たれた子の苦痛を想うと、
哀しみに震えながら、ぼろぼろと泣き始めた。
「お母さん、ありがとう。僕は神様の家に帰ります」
空に聴く我が子の声に、母象は、大きく鳴いた。
生きる事は、言語に成らない賛美である。
苦しみの連続、喜びの一瞬、普遍の恒久。全てが賜り物だ。
母に産んでもらえた瞬間の、産声は哀しみだろうか。
「生まれ落ちた」ことへの嘆きだろうか。
否、馬鹿な事を言ってはならぬ。
生まれ出でて知る、一切の苦楽は、心の動きである。
即ち喜びだ。
誰もが歩いた、あの岩道を、満身創痍で駆け抜けろ。
お前の弱音が、お前自身を嘲笑っている。
負ける心積もりが無いなら、全身を赤く染めて突っ走れ。
お前だけが疾風と成り、大地の極みに至るのだ。
皆が皆、弱音を吐き、敗れていく。
岩肌の上に気高く在る、お前自身を誇れ。
あの冬、お前の魂が砕け落ちてしまった時、
三週間、夜を徹して、欠片を拾い集めた事を覚えている。
迷いは無かった、恐れも無かった、ただ愛し続けた。
言葉に終わらず、行動で証明し続けた。
繋ぎ合わせた欠片が、お前の魂の形を成した時、
嬉し涙に頬を濡らして、私は眠ったのだ。
静かな入り日の街に、心を棄てて、項垂れていたい。
胸の内の洞に、インクが満ち足りるならば、
この一身をペン先の代わりにして、幸せを綴りたい。
自身のためではない。皆の分だけで、良い。
手放すように、紅い祝福を書き続ける。
ペンが折れてインクも枯れたら、私は人間に成れる。
オオカムロは、その立派な翼に力を込めて、挑んだ。
生命の限りを尽くし、言葉を失い、危うく命も失いかけた。
闘いを終えたオオカムロは、抜け殻のようだった。
しかし、オオカムロの魂は愛を覚えていた。
何も語らず、皆にパンと水を分け与えた。
家無き者には、自らの翼で、雨宿りをさせた。
私が最も恐れている事は、悪魔に屈する事よりも、
その考えに賛同し、悪魔に与する事である。
屈服する事はあれど、心服する事が無ければ、
救いが絶える道理は無く、必ずや再起の朝は来る。
邪な者達と欲心を同じくして、肩を組んで笑えば、
東に背を向けながら、果ての無い闇夜を歩くと良い。
貴方から受け取った何もかもを、
磨いて、井戸の水で清めて、
願わくば、二人で分かち合おう。
そのためにも、私も行に努めよう。
会える日以外に眼差しが重ならずとも、
貴方が輝く丘を見つめているならば、
その横顔を愛おしく想いながら、
私も肩を並べて、同じ夢に臨もうではないか。
猛々しく、この胸に真っ赤な力が、満ち足りて、
私は生きるために躍進を始めるのだ。
朝を臨み、晴天の下に錫杖を持ち、先行く彼に追いつく。
「待たせてすまない、さあ、行こう」
泥に伏して耐えた分だけ、生きた心地が授けられる。
履き潰した草鞋の数だけ、二人で受け取る喜びがある。
お前達、決して、オオカムロを馬鹿にしてはいけないよ。
彼は皆を守るために悪魔と闘い、言葉を失った。
けれど、彼は自身の羽を集めて、鳥獣達の寝床を造り、
渇く者、飢える者のために、全てを与えている。
真に愛の深いオオカムロは、それでいて威張らないのだから。
羽化の時を待つ蛹。頭上を飛び交う赤翡翠。
あれは、誠実な命に違いない。
倒れる隣人を見かけたら、何も求めずに抱き起す人々。
あれは、誠実な命に違いない。
親友を亡くし、冥福を祈る彼の姿。
今でも卑怯者だと思っているよ、お前の事を。
だが、きっとお前も、誠実な命に違いない。
人を信じる喜びとは、相手に裏切られない事ではない。
誰かを信じる事が出来た、この事実が幸せなのだ。
胸襟を開いて語り合う事は、難しい。
剥き出しにした己の心を、相手に触れさせる事は怖い。
だが、人間という生き物は、信じる事が可能である。
だからこそ常に、希望があるのではないか。
御仏の姿が、見えた気がした。
あれは星か。それとも蛍か。
人の心は地獄を生むが、浄土にも成り得る。
あれは鬼の慟哭か。それとも静かな読経か。
無量の想いに泣き暮れて、瞼に浮かんだ輝き。
あれはいつの日か、父母に抱かれた家の日向か。
悪鬼羅刹に生まれ落ちた彼は、常に飢えていた。
彼は断じて悪道を歩まなかった故、人を喰らわなかったのだ。
やがて、骨と皮だけになった彼は、白虎に頼んだ。
「護法善神よ、私を仏道へと招いてください」
白虎は彼を飲み込み、より高く、清く、輪廻までを護った。
倫理の光、月に弾かれて、夜半を照らす。
道に迷う私の頭上に降り注ぎ、明け方まで共にある。
倫理の光、陽光の王を連れて、地を照らす。
無明の最中に苦楽を棄てると、暮れ方まで共にある。
皆が皆、目を逸らして、唾棄する倫理の光。
インクとペン先を以て、貴方に報いよう。
十九の夏を思い出す。
父を泣かせた年だ。
相対評価を一切気にしない筈の、貴方でさえも、
青春の全てを失った私の姿に、悲しんだ。
けれど、けれどね、お父さん。
私は貴方の御蔭で、二度も三度も、命を得たのだ。
私は貴方と共に、あの夜に叫んだ。
「ありがとう」と、涙ながらに叫んだ。
人の苦しみを喜び、不気味に笑い、鬼に成るよりも、
相手の苦しみを理解しようと、苦悩する方が幸せだ。
人間は苦楽の壁を越えて、真の喜びを見出す生命だ。
人の幸せを妬み、暗い隅にて腐り果てるよりも、
相手の喜びを賛美して、善哉、善哉と微笑みたい。
人間は喜びを増幅できる生命である。
「死を恐れるな」
師匠、あなたが何故、この言葉を教えたのか。
やっとの想いで、この私にも理解できた。
死は必ず、一度は訪れる。
生きる道の中に度々、必死な努力をしなければ、
最後の最期に、悔いが残るのだ。
死を恐れず、全てを手放し、全てを得て、皆に与える。
即ち、この命を使い切る事だ。
陽に焼けた青いカーテンを泳ぎ切ろうと、
真に小さな、やもりの子供が勇気を振り絞る。
思わず「頑張れ」と呟いたこの心は、
本当は、私自身に「もっと頑張れ」と言いたいのだ。
青鬼は、名も無い僧に語った。
「俺は蜜が嫌いです」
「何故かね」
青鬼は、憂い顔で応じた。
「蜜に汚れた手足や口は、扉、道、心を穢します」
僧は、青鬼の好きな物を訊いた。
「俺は反省が好きです」
「何故かね」
青鬼は、微笑んで応じた。
「反省をした手足や口は、扉、道、心を正します」
母は遠方の夫を想いながら、一人で二人の子を育てていた。
父は、生霊として姿を現すほど、家族の皆を想っていた。
乳飲み子だった妹はとても忍耐強く、良く笑った。
おむつ替え以外の全ての世話をしていた私は、学んでいた。
家族のために苦労できる。嗚呼、アガペはここから始まる。
五つ年下の妹にも寂しい心があった。
父のいない生活に、夜泣きをする事も多かった。
「パパ、どこにいるの」
そうだね、パパはもう少しで帰ってくるね。
「うそ、うそ、パパいない」
私は、自らの胸に湧く孤独に、ナイフを突きつけた。
「俺は兄だ。父恋しくとも、幼い兄弟の前では泣くな」
自由に至る道を歩くため、私の魂に不自由の字を書こう。
何が不自由なのか、己が把握せずに、自由が解かりますか。
今、この一身が満たされている部分、そうでない部分を、
正確に知らずして、何を磨き、何を得ると言うのだろう。
「仲が良い事と、都合が良い事は違う」
この教訓が、私の眼を変えてしまった。
皆、仲が良くて、けれど、蓋を開ければ都合が良い。
本当は赤の他人で、気が付けば、散っていく。
幾千人の往来を生む街道に、笑みも無ければ声も無い。
強く欲するあまりに、奪う心へと豹変する姿で、溢れている。
苦楽には一切の差異が無い、と確信していながら、
目先の苦しみに、項垂れる真夜中。
この辛苦に対し、理性を働かせて、幸いと歌った。
しかし、肉体船と船頭である想念は切り離せない。
自ら歌った幸いが、より一層、己の首を絞めている。
この暗闇に対し、胸に悪心を宿して照らす事は欺瞞だ。
誰かが歯を食いしばって、涙を飲んで、耐えれば良い。
そうしたら、誰も傷を負わず、咎に気づかず、笑える。
ただ独り、胸に修羅を宿して、一切合切を赦すために、
倫理を知らぬ者達の快楽の為に、耐え忍ぶ日々がある。
神様、私に幸せはあります。喜びを手放す幸せだけが。
自らの胸ぐらを掴むほどの気概が無ければならない。
怒りや憎悪に立ち向かうのは、何もこれが初めてじゃない。
三年前から日々繰り返してきた、心の行いではないか。
結論を急ぎ、慌てて倫理を手放す事よりも、
それでも道徳が素晴らしいのだ、と耐え忍べ。
船頭が天文を読まずして、誰が為の星か。
私は、他者が憎いのではない。
他者に向けている憎しみを、是としているこの心が赦せない。
咎は他に非ず。道を踏み外したのは他に非ず。私だ。
自らの心を正すための苦しみこそが、
真の意味での、自己愛であると、確信している。
この道を歩まずして、私は決して、人間には成らない。
だが、お前達の事は、気に入らない。
人に道徳を注いでも、当然ながら裏切られる事はある。
それはある種の自然な、人間だと言える。
人を赦す努力の為に、自らに道徳を注げば、裏切りは無い。
それでこそ誠実な、果報者ではないか
倫理に固執してきた私だった。
それ故に、大勢の人々に憤りを覚える事もあった。
けれど、主題を間違えてはならぬ。
人が倫理を守るかどうか、ではない。
私が倫理を裏切るか、裏切らないかという、選択だ。
良心の声に従う度に、引き裂かれる苦しみもあった。
その痛みが、前進を促してくれた。
神様や仏様が、私の善心を掴む。
悪魔や魔王が、私の悪心を掴む。
こちらに来なさい、と各々が力を加えた瞬間に、
私は一身を砕かれ、魂は真っ二つに裂かれてしまった。
そこに、編み笠を被り、袈裟を纏った修行僧が、
私に良心をお布施してくれて、今の姿形に至る。
暮れ方の優しさが、明け方の清らかさが、痛みだった。
「大丈夫、元気だよ、耐えられる」と部屋に居た。
やっとの想いで、外へ飛び出したら、哀しみが溢れる。
私は、何時、何処へ、向かえば良いのだろうか。
生きるための術と喜びを両手で抱えているから、
この涙を拭う事も叶わないと言うのに。
助けた人からは、必ず裏切られてきた。
その法則性を解っていながら、助けてきた。
これからも、変わらず、裏切られると想う。
神様、私が物質的な損得を全て捨てたら、
貴方だけが、最後の最期に抱きしめてくれる。
この強がりを信じ切って頼れるほど、私は強くない。
仏に祈った言葉が、そのまま手紙に成って、
私の手元に帰ってくる。この悪夢はいつ終わる。
私の胸の内に、十八日の記憶と楔が打ち込まれている。
どす黒い血が流れて、想念が染まる。
自ら背負った咎と因果に気づかざるを得なかった。
あの日、君が流したインクも、これ程に黒かったのか。
では、父よ、私も人間性を棄てたらどうなるだろうか。
皆と同じように振舞えば、楽に成り、悪行に慣れるだろうか。
道徳は私に無量の想いを貸し与えた。
倫理そのものではなく、倫理が生んだものに救われた。
けれど、相対評価的に倫理無き者達は、
より多くを、私から奪おうと言うのだ。
眼に焼き付いた、胸を焦がした、甘美な監獄。
蜜に汚れた手足と口が、甘い弱音と道理を吐き出す。
「私が沈黙に頬を濡らせば、この悪夢は終わるのか」
私は虎の毛皮を被った修羅に戻りたい。
けれど、この虎の心は泣いている。
「苦しくとも、人間に成れ、人間で在れ」と叫んでいる。
詩集 修羅と名も無い僧 八章