アイドル
なんて美しいんだろう可愛いんだろう、私がもしお金持ちだったら、抱えきれない程の花束を送ってあげたい。いや、楽屋を真っ赤な薔薇で埋め尽くしてあげたい。足の踏み場もないくらい。息もできないくらいの香りでその鼻をくすぐってあげたい。
しかしそれができないのは、私がお金持ちでないからというより、彼女がすでに何十年も前に引退してしまっているから。
悔しい事に、私は当時、彼女のことを知らなかった。
そもそも私は、音楽を聴かない。アイドルだけでなく、ロックもクラシックも知らない。私にとって音楽とは、映画を観ている時やコンビニに入った時に流れてくるもので、自分から求めるものではない。
しかし、息子と一緒にテレビを見ていた時のことだ。(息子は私と違って、音楽が好きだ。ギターに凝ってロックバンドをやっている)。歌番組だった。息子が好きなバンドが出演するので観たいと言われ、付き合っていたのだ。見ているうちに懐かしのメロディーみたいなコーナーになった。今どきこんな格好でうろついていたら通報されるのではないかという人たちが、次々出てくる。
「お父さんの小さい頃じゃない?」
「そうだな」
「この人たち、知ってる?」
「聞いたことある気はするけど、知らないな」
「やっぱり」
そんな会話をしていたら、彼女が歌い始めた。
心に染みた。
声にやさしく包まれるようだった。他の出演者とは全く違い、彼女だけが時間を飛び越え、現代に生で、いや目の前で歌っているかのようだった。この感覚、いままでの人生で一番近いものを挙げるなら、かつて妻に抱いていた感情、恋だ。彼女がカメラに視線を向けた一瞬で、私は恋に落ちたのだ。
それから毎日彼女の歌を聴いた。動画を観て、気に入ったシーンをスクショした。
「ここまで美しいと、神様の失敗作と言えるよね。神様が完璧を人間に許すはずがないもの」
のろけると、妻は何も言わなかった。
仕事中でも彼女の声が頭の中をリピートしているし、さらに言えば、彼女の歌を聴いていない時間が無駄に思えて来て、早く家に帰りたい一心で仕事の効率は飛躍的に向上、残業も減った。そして空いた時間で、動画のスクショだ。
今まで縁のなかったスピーカーも買った。CDやレコードも集めて、私は遅れて来た青春を謳歌していた。
そんなある日のことだ。買って来たCDの歌詞カードに挟まっているものに気が付いた。コンサートチケットだった。
胸が躍った。
当時のチケットなど、なかなか手に入るものではない。思わぬおまけがついて来たと喜んで見てみると、日付が今年だ。今度の土曜だ。改めて見ても、デザインはいかにも当時のもので、紙の質感も古い。なのにコンサートの日付は次の土曜になっている。
「想いが通じたのかな」と思った。何十年も前の映像を夜な夜なスクショに撮っている私を哀れに思し召して、神様が一夜だけ時間の流れを変えてくれたのだろうか。私自身の脳内が毎日時間を逆行しているのだから、あり得ないことではない。
それからの一週間、待ち遠しかった。息子に話すと、
「どう考えても前の持ち主のいたずらでしょ。行くのやめたら?」
と言われた。
「常識的で正しい判断だけど、それでは時を超えることはできない」
「時、超えるの?」
「時を駆けるとも言うかな」
「お母さん、お父さんちょっとやばいよ」
妻はゾウムシでも見るような目で私を見て、買い物でもするのか家を出て行った。それから戻って来なかったので、妻が下らない小説を置いていた本棚に彼女の写真集を入れた。
当日、私は赤い薔薇の花束を持って会場に向かった。小さなライブハウスだった。大きなドームで米粒のような彼女を見るのかと思っていたが、これなら表情までつぶさに観られる。もしかすると、最前列かもしれない。笑いかけられたり、目が合ったりするかもしれない。においまで届くかもしれない。私は意気揚々と地下への階段を降りた。
そこでふと思ったのは、花束をどうすればいいのかということだ。まさか直接渡せるわけではあるまい。入口でスタッフに手渡し、楽屋に運んでもらうものだと思っていたのだが、誰もいない。仕方なしに大きな花束を抱えたまま、防音扉を開けた。中は静まり返っていて、数人の男女がいる。もしかすると、来るのが早すぎたのかもしれない。
薄暗い室内で、若い子たちのふざけあうような声が聞こえる。持ったままの花束が邪魔だが、開演前にグッズを買っておこうと私は周りを見まわした。
ふと、若い男の子と目があって驚いた。なんと、息子だった。恥ずかしそうに笑っている。あんな偉そうな事を言いながら、息子もファンになっていたのだ。私の流す音楽を聴いているうちに好きになったのだろうか。いや、もしかすると私に衝撃が走ったあの日、息子も同じ体験をしたのかもしれない。だって、一緒にテレビを見ていたのだ。
私は、おそらくここ数年見せた事のないような笑顔で息子に近づいた。
「こいつ?」
声を発したのは、息子ではなかった。
「うん」
コンサート会場には不似合いな気乗りしない声で、息子が答えた。なんだ、友達か。いや、ロックバンドの仲間かもしれない。彼女のステージを参考にするつもりなのだろう。熱心でいい事だ。
振り返ってみると、不良っぽい男の子だった。
「お金、持ってきてんでしょ?」
仲間の父親への第一声とは思えない不躾な態度だ。昔のロック少年は態度が悪かったが、今でもそうなのだろうか。私は暴走族とロックバンドをやっていたクラスメイトを思い出した。後輩の態度が生意気だとかいう理由で殴ってあばら骨を折ったが、当の自分は教師に生意気な態度をとっていた。
不快だったのと恐かったので、私は息子の方を見た。
「親父、だめだよ」
相変わらず気乗りしない声だった。私が思ったのは、「この子は家ではお父さんと呼ぶくせに、友達の前では親父なんだな」ということだった。
「いい年こいてアイドルに夢中になってさ。家族がバラバラだよ」
息子はちらと仲間の方を見た。
「そうですよ、お父さん。俺達は息子さんに言われて、お父さんを叱りにわざわざ来たんですから」
「そんなことより、コンサートは」
不良少年の威圧的な態度に耐えかねて、私は無理に話題を変えようとした。
「嘘に決まってんでしょ、あんたバカ?」
不良は摘まんだチケットをひらひらさせた。
「こんなん、コンビニのコピー機でいくらでも作れるでしょ」
「ホントに信じるなんて、バカじゃねえの」
女の子の声がした。息子は恥ずかしそうにうつむいていた。
「俺も友達の父親なんて殴りたくないからさ、小遣いだけおいて、奥さんに謝りに行きなよ」
不良が手のひらを差し出した。私は息子を見た。恥ずかしいのか申し訳ないのか、息子はまだうつむいている。
そしてわきを見ると、いつの間にか若い子に囲まれていた。どうやらこの子たちは彼女のファンではなく、私にカツアゲするために集まっていたようだ。確かに防音扉で仕切られたライブハウスは、カツアゲにぴったりだ。
私は、花束をかばうように上体をかがめた。若者たちはにやにやしながら近づいてくる。しかし、私は財布を出さなかった。恐くて動けなかったのと、息子が私に暴力をふるうはずがないと信じて、いや、信じるというよりタカをくくっていたからだ。
息子がちらと私を見た。
強い哀願だった。心の底から、私が財布を置いていなくなってくれるのを願っているのが分かった。それは、父親の傷つくところを見たくないという優しさであり、目の前で暴力が振るわれるのを見たくないという多少利己的な博愛心であり、自分に飛び火するのを恐れる完全に利己的な防衛本能だった。
息子もこの子たちにたかられているのだ。
しかしそこまで分かっていながら、私は財布を出さなかった。一つには、今さら父親の威厳を示そうとしたのだったが、はっきり言おう。私は、この期に及んでまだコンサートの開催を信じており、グッズを買うお金がなくなるのが惜しかった。この機会を逃したら、次はいつになるか分からないのだ。目の前のガキ共が生まれるずっと前から、彼女はコンサートをしていない。
どのような表情をしたらいいのか分からないので薄笑いを浮かべると、不良少年のパンチが炸裂した。口の中が切れて、血の味がした。
「おい」
言われて息子も私を殴った。重かった。私はその場にうずくまった。
しばらく殴る蹴るの暴行を受けて財布を取られて、ようやく彼らは出て行った。花束もめちゃめちゃにされて、血と一緒に真っ赤な花びらが飛び散っていた。暗い室内に赤い影が浮かんでいるのを、私は他人事のように眺めた。そして花束を抱いたまま、カバンを漁った。四角い固い感触にほっとする。
イヤホンを伸ばし、耳にはめる。彼女の声が、痛みも屈辱も和らげてくれる。
そして見上げたステージには、舞う花びらのように輝くスポットライトを浴びた、彼女の姿があった。私に微笑みかけてくれる。
アイドル
「殉教」というタイトルも考えましたが、いかめしすぎるのでやめました。ちなみに私の好きなアイドルはWinkです。