日常と異常の境界
日常と異常の境界 日曜日
日曜日
春も本格的に過ぎ去り、雨のにおいをまとった風が、僕の髪をなでていく。
小さな木造の駅舎から出ると、町にも、湿気が地を這うように漂っていて、空気は重たかった。不快感と夜の静けさで、人々は沈黙し、町全体が沈んでいた。
電車のなかで見えていたスーパーマーケットやファストフードも、ミニチュアのように両側を山並みで挟まれたこの町へ近づくにつれ、消えていった。
二年と少し前まで暮らしていた東京の空は、高層ビルに囲まれて狭く感じられた。しかし、この町は建築物が少ないために、空が広い。
さほど広くない川に、まばらに広がる民家。道の両脇には水田が連なっている。水田と水田の間を進む道を、できるだけゆっくりと自宅まで歩いていく。途中、坂を登らなければならない。
バスも午後六時に終わる小さな町のなかの雨夜(あまよ)で、大学三年生の僕は、バイトから帰る途中だった。
『何でお前がいると、あのクレーマーが来るんだよ。リサイクルショップに未使用の品なんてねぇのに……ああ、イライラする! 他のお客さんの対応が進まねぇじゃねぇか』
僕がいるときに限って、特定のクレーマーがやってきてはレジで無駄話を延々と続け、営業の邪魔をする。結果、他のお客さんの対応が進まず、売り上げにも影響が出た。僕がシフトに入ると、クレーマーが来るという統計データのもと、バイト時間が減っていく。
まるで、僕の行動を先読みしているかのように、その人は僕がいるときにしか店に来ない。
僕がシフトに入っているときは必ず現れ、レジで『節電意識があるのはいいことだけどねぇ。でもせめて、店内の電気くらいはつけたらどうなの? どうせ休憩室では、無駄に電気使ってるんでしょ?』と。それなら、まだいい方だ。
以前は『お客様、商品棚に缶を置くのは、他のお客様に迷惑がかかり、商品の衣類にも零れかねないので、やめて頂くようお願いできますか?』と、僕が注意したことがあった。
『へぇ、この店は客にたてつくんだ。どういう教育方針してるのかねぇ。だってそうでしょ? 私達は客で、客は神様なのよ? それとも、私は客じゃないって言うの? 全く、これだから今どきの若者は……』
急な勾配の坂を見上げると、無意識に溜め息が零れる。
どうして、僕なのだろうか。
一時停止させていた足を、再び働かせる。
バイト疲れもあるのだろうか、まるで登山している気持ちになってくる。
その途中、ハミングが神社から流れてきた。
一人で歩いているためか、世界で僕だけが、雨夜のなかで響く微(かす)かな音を、つかまえることができた。そう思えた。
どこか懐かしい。誰が、歌っているのだろうか。
木々に囲まれた石造りの階段を上がっていく。そして見えてきた神社は、まるでこれから神聖な儀式が行われるかのように、大きな拝殿が本殿を守るように身構えていた。
鳥居をくぐって、真っ暗な境内を細めた目で見つめる。神様の正面玄関を注視していると、木々や葉が強風に吹かれて不気味に歪む。そして枯れ葉が雨に打たれながらも、まるで強い意思を持っているかのように、渦を描き舞い上がる。
本当に、ここに来ていいのだろうか? 過去の僕が、今の僕に問いかける。
でも、どうしてこれほどまでに線の細いメロディが、雨にも風にも負けずに流れてくることができるのか。
錯覚のたぐいかもしれないが、僕を、さがしているようにも思えてくる。
矛盾したミニチュア世界の中で、一歩いっぽ、歌の在処(ありか)まで進む。そうしていくうちに、不思議と恐怖は消え、疑問だけが残った。
この町の神社の裏側は、日光浴目的で、鎮守の森を切り開いた公園がある――町の者は皆、森公園とか植物園と呼んでいる。
流れてくるメロディを辿って森公園へ入っていくと、一人の少女が絞め殺しの木として有名なアコウの木の下にいた。ひょろりとした細い木だ。
種子は鳥類によって散布され、樹木の上に運ばれ着手すると、アコウの枝は上から降りてきて、網の目のように親樹を覆う。最後は降ろした枝で絡みつき、枯らすことから絞め殺しの木と呼ばれる。
昔は御神木とされていた大木に、根付いてしまった絞め殺しの木。御神木だった大木は、じわじわとなぶり殺しにされているようで、殺されるのも時間の問題のようだ。
その大木の下にいる少女。彼女が歌いながら踊っているからだろうか。雨に打たれながらのその踊りは、決して綺麗なものではなかった。森全体の土はぬかるんでいて、雨を縫うように強い風が流れている。それでも彼女の踊りは、この舞台にとてもよく合っていると、そう思えた。植物達の呼吸や、雨の日独特の臭いを帯びた空気が、彼女の踊りに合わせているようだった。
ふと、彼女は足を止めて、僕の方に顔を向けた。
瞬間に雨があがる。雲が流れていく。鋭い月の斜光が雲を突き破り、きらめき、そして彼女を照らしだす。
いきなり目の前に現れる、くっきりとした綺麗な瞳、絵筆で描き流されたような目の輪郭、撫で肩までの柔らかそうな髪が、世界の裏側にある神秘やその秘密のパーツのように思えた。
どこかの学校の制服を着た彼女は、僕の方を向いて言う。「やっと見つけた。あのときと同じように、やっぱり暗い眼が危(あや)ういね」と、シルクのようになめらかで、ささやくような声音で。
鋭い月明かりで照らされた雫がキラキラと輝き、彼女の髪が一層美しく見える。
どこかで会っただろうか?
風邪、ひくよ? としか、今の僕には言えなかった。
彼女は黙ったまま、身体もこちらへ向けた。
しばらく、緊張が沈黙を呼び、呼ばれた沈黙が緊張を生む。
僕がその場を離れようかどうか、迷い始めた瞬間に「付き合ってくれなきゃ、殺してやるから」と、細い視線で睨まれた。
雲がまた月を隠す。ひやりとした夜風が、鋭利な刃物のように僕の背中を突き刺し、身体が震えた。
月曜日
月曜日
梅雨の暇(いとま)というものは、世代に関係なく心が晴れて軽くなるものだが、特に、大学構内は麗らかな陽気に包まれて、色とりどりの春服をまとった学生達で賑わっていた。
「この町の伝承だな」と、和人(かずと)は陽だまりのテラスで言う。
え? と、僕は目の前の席にいる人物に顔を戻した。
和人というのは、ゼミの唯一の友達で、彼も例外なく、黒の薄い長袖とブルージーンズという格好で、自分なりの春を表現している。
「そんなもの、あったか?」
目の前の銀縁眼鏡をかけ、鋭利な顔立ちをしている友達は、わざとらしく呆れ顔をつくった。
「おまえ、知らないのかよ。地元住民なのに」
それから、ティーカップを置き皿ごと持ち上げ、ダージリンをひと口飲んだ。
僕にはもう、中学のころの記憶はない。この町から出ていったころから、記憶が朝霧のように不安定で、不確かなものになったのだ。そして、東京で無為な日々を重ねていくうちに、記憶はより頼りないものとなり、やがて全てが消えた。
「その子を視た奴は呪われるって」
「呪われる?」
神仏なんてもの、僕は絶対に信じていないし、認めてもいない。どちらかと言えば、悪意を持てることが可能な人間というものが、僕は怖い。
「ああ、そうだ。俺なんて、子供のころ木登りしてたら落っこちて、悲惨だったぜ」
僕の思考を、遮(さえぎ)るように和人は続けた。
「そうなんだ」と、返しながら転落くらいで、と僕は思った。
東京で生活していた頃の話だ。
新百合ケ丘駅ホームの階段を降り、各駅停車に乗った。降車駅は登戸で、電車が向ケ丘遊園駅から発車するタイミングに、僕は出口となるドア近くまで移動した。
その時だ。
僕の腹部に、肘を突き付ける女がいた。身長は150センチ半ばで、カジュアルな仕事服を着た二十歳くらいの人だ。
「こいつ、何で隣に来るんだよ」と、言いたげで、つり革に伸びている僕の腕や、その肩に、肘を何度もグイグイと押しやってきた。
僕はむかついて、同じ行為で仕返す。すると「やめてください」と、痴漢に遭ったような表情と声色で、女は言った。
「あんただけじゃないからね、ラッシュの電車が辛いのは」震える声で、僕は静かに言う。
女は、信じられないものを見たように、目を見開いて言った。
「どうしてさっき、移動しなかったんですかぁ? 奥に行けばいいじゃないですか」
「は? 意味わかんねぇ」嘲笑しながら僕が言うと、
「気持ち悪い」女はまた、痴漢されたような不機嫌さで、僕の顔――特に分厚い唇をジッと見て、侮辱した。
キショイ、キモイ……、人の身体的特徴を悪く言うことは、性根が腐った最低の人間がやることだ。
「安心して、登戸で降りるので」僕は無視することに決め、前を向く。
だが、平静に努めるも、腸は煮えくり返っていた。
また、「気持ち悪い」という言葉が聞こえた。その言葉はもう、うんざりだ。
女は舌打ちをしながら、僕がつかまっているつり革を、私に寄越せと、奪おうとした。余計なトラブルの回避のため、しかたなくつり革をゆずる。
「力ないんですね」女は嘲笑した。
どこかで、「アイツ、ダッセー」と、男子高校生くらいの声がした。
トラブル拡大の回避、喧嘩の回避。それがダサいと、言うのだろうか。
そもそも、それほど混雑はしていない。乗車客の何人かは、新聞を小さく折り畳んで読んでいた。読書している人や、英語、その他資格のテキストに集中している人もいる。
人が下手に出ていれば付け上る、無能な社会不適合者が調子乗るな! と、心の中で叫ぶ。
目的地の登戸駅で下車すると、僕より後から降りた支離滅裂な女は、僕を追い越して、周囲の人にぶつかりながら、逃げるように早足で歩いていった。
途中、「お前、何キレてんの?」と、歩く速度に合わせている男性に言われていた。
どうしてだろう。自分の醜悪さや腐った性根といったものが、電車の中で露見されるだけなのに、と僕は思い、それから、もしかして頭の病気ではないだろうかと、疑問にも思った。
もしそうだとすると、事情を理解してあげられないわけでもないが、僕にだってそんな余裕はない。
高校生活最初の夏休み。家庭の事情により、アルバイト初日から、一方的に突っかかれて逆ギレされ、本当に頭にきた。しかも不運なことに、一連の出来事の一部を見ていたアルバイトがいたようで、話を聞いた店長から、バイトを断られた。
そのアルバイトは、僕のクラスメイトで、当時、僕が付き合っていた女子のことで妬んでいる生徒だ。
思い出しただけで、クソむかついてくる……。
イライラしながら帰宅し、洗面所の鏡に映った自分に問いかけた。
どうして、僕だけが……、と。
だが、鏡の中の僕を見ていると、そういう対象に選ばれる理由を理解できてしまう自分にも、いつの間にか腹を立てていた。
幼さが残る優しそうな顔は、付け入る隙を相手に与えてしまい、僕は騙され、裏切られる。
だから、僕はもう一つ理解した。
東京は、暴力と穢れが満ちている日本の、縮図だ――。
星を観賞するためにある夜も濁っていて、高層ビルに囲まれて狭く感じられる。
ただ、『彼女』だけは、いつも言っていた。
『東京は、便利で住み心地が良いよ。夜中の安心するデパートやコンビニ、カフェレストランとか。きっと、馴染む日が来るよ、絶対。それまで、私が守るから』
今ごろ、僕のいない東京で、どのような生活をしているのだろうか。
「……の不注意だよ」
和人の言葉をほとんど聞かずに、僕は好きだった女性のことを記憶から検索し、ブラジルサントスのコーヒーを喉に通した。
和人がバイトの時間となったので、僕も学生食堂を出て、様々な学生達が持つ自由を横目で見やる。その過程で、学園祭の告知がされている掲示板が、視線に引っ掛かった。みんなが浮足立つのは、学園祭のせいでもある。
別に僕だけが不幸とか、不自由だとか言うつもりはない。ただ、なぜ僕が世界に選ばれているかのように、親切から遠ざけられているのだろうと、そう思っているだけだ。
一つ息を吐き、歩を進めた。学生食堂から大学を周回するような並木道を歩くと、数種類の図書館が見えてきた。
脳科学部の僕は、民俗学の図書館は初めてだ。失った中学三年間の記憶を取り戻すために入学した。その三年間は、僕にとって大切な何かがあると、なぜか感じているからだ。
図書館の入り口で学生証を端末機にかざし、ゲートを通る。真っ白で無機的な空間が真っ直ぐに伸び、奥には同じ白色のエレベーターがある。エレベーターに乗って三階で降りた。そしてこの町の歴史に関する文献を漁っていく。だが、伝承まで載っている文献は、たったの一冊しか見つからなかった。
そこから得られた情報は、
『人を呪わば穴二つ。しかし呪いを喰う者あり。その者は世界のカケラとして存在し、人々を救いへ導くが、その代償は高くつく。
永遠という責めを負う。
その者を失望させれば世界に〝記録〟が消去される。
世界に嫌われるようなことがあれば、そのものがどのような姿形であれ、不幸が大なり小なり影となり、忍び込む。やがてそのものの周囲へ広がり、全体が蝕まれていく。
呪いを喰う者に寿命が生じてしまう。
呪いを喰う者の限界を超える救いを求めれば、ともども不幸になる』
だった。
何かが胸の奥で、記憶をひっかけるような感覚がやってくる。まるでさざ波のように、失ったものが近寄ってくるようにも思えた。だが、自分の記憶を検索しようにも、夜に見る夢を思い出すかのごとく霧散し、掴みとれなくなってしまった。
僕は文献を閉じ、テーブルへ乱雑に放り投げた。
たったこれだけの情報では、どうしようもない。この町の伝承がどんなものなのかはっきりと分かれば、僕の失われた記憶の糸をたぐることができるかもしれないという、期待もあったのに。
東京にいた三年間、僕は失った何かを思い出すために、暗い気持ちの迷宮から脱するために、精神科に通院していた。
同行者は、必ず僕の隣で高校生活を楽しんでいた女の子だった。制服を着ているときでも、それ以外のときでも彼女はほぼ必ず僕の隣にいた。学校の教室、病院の待合室、病院の近くにあるカフェレストラン。
下校中にコンビニへ寄って、屋根のあるバス停でジュースを飲んだりアイスを食べたり……。
いったい、僕のどこを気にいったのか。最後まで教えてはくれなかったけれども、彼女は僕の記憶のなかに居続けようとしていた。
しかし、どんなに彼女が頑張ろうとも、自室の扉を閉めてコンビニ弁当をあけるたびに、その日の彼女の笑顔が眩しく見え、心苦しい。
そして独りの夜は長く感じられ、それがますます僕を不安定にさせ、日々の記憶を不確実なものにさせていた。
いったい、いつの間に僕の記憶は、こんなに重たいものを背負ってしまったのか。どうして、僕を生き急がせるのだろうか。
主治医の話によれば、記憶は外部とのコミュニケーションで成り立つとされている。刻印・貯蔵・再生・再考の四つがサイクルを成して、三種類の言語を期間記憶に閉じ込めている。そして長い期間に降り積もった記憶が、人生の結果であり、個とその過去を形成すると言っていた。
すなわち、
刻印:目や鼻と耳、口や指先などといった様々な器官から入ってくる外部の情報を、それぞれの器官の神経が電子記号に変換し、回路を辿って脳に書き込むこと。
貯蔵:脳に刻印された情報をプールすること。
再生:貯蔵された情報をロードすること。
再考:再生された過去と、今ある現実を照らし合わせて相違を考察し、新たな情報として脳に刻印すること。
これらに、日常的に使う言語と、理科学系の文明的言語、文化的・宗教的言語の三つの言語が収められていくらしい。そして期間というものがある。瞬間的な直前の記憶、数時間から数日前の記憶、週・月・年以前の記憶だ。
僕にはどうしてか、中学三年間の記憶だけがぽっかりと穴を開けられたように、抜けている。心に染みる言葉もなければ音もなく、救いがあったのかどうかも思い出せない。日々の揺れ動く感情の濁流に流され、消されたのだろうか。とにかく、中学三年間の記憶が、今の僕の現在にはついてこなかったのだ。
日々の揺れ動く感情。不安定な記憶力について、主治医に相談したことは何度もあった。しかし原因は見つからず、結論としては、帰郷してみてはどうかという判断にいたったのだ。
正直、この町へ帰りたくはなかった。東京でいつも視ていた夢の舞台だから。
二つの、ヒトの形をした黒いシルエットに殺される夢。黒い一組の手が口から体内へ忍び込み、残ったもう一組の手は僕の首を絞める。そして内蔵をぐちゃぐちゃにかき混ぜられる夢。いっそのこと、体内の臓器全てを口から吐き出して楽になりたい。しかし口には手が突っ込まれていて、喉も絞められて塞がれているために、吐き出せない。臓器という嘔吐物が喉を通ろうとしては逆流し、再び嘔吐感に苦しむ夢。
舞台は、この町の病院だ。消毒液の臭いが漂う白いベッドの上には少女がいる。少女の顔には白い布が被せられていて、いつものように顔は見えない。
目を覚ましたときには、背後から黒いシルエットが迫ってきているのではないかと、ゾッと寒気がして嘔吐していた。吐き終えたあとでも、身体の中身をかき混ぜられるような感触は、全身にはっきりと残っている。
同級生の彼女が、制服を着ているとき以外に僕の隣にいると、ますます夢の苦しさが勢いを増す。
あとどれだけ苦しめば、僕は解放されるのか――
帰郷してからは視ることはなくなったが、その夢の恐怖だけは、今も頭のなかで鮮鋭に活き続けている。
心が不安定になる予感がし、瞼を閉じて落ち着かせようとする。しばらくそうしていると、知らない番号から電話がかかってきた。
昨日の女の子と意味不明な伝承。心臓を鷲掴みにされるような緊張感に襲われながら電話に出てみると『××株式会社の採用担当です。美坂優雅(みさかゆうや)さんの番号でよろしいでしょうか』と、説明会に参加した外資系企業からだった。外資系企業は、早いところはすでに選考が開始されている。
今の就職事情は最悪で、卒業生達もまだ就職活動を続けている。約千社受けて全滅が今の普通だ。
その一方で、企業側は即戦力になる優秀な若手の取り合いを始め、早めに唾を付けておくようになっていた。金にならない木は早々に切り捨て、その分、金になる木の芽になりそうな、ほんのわずかな学生の確保に努めている。
「はい、美坂です。お世話になっております」
数年前までの就職氷河期では、学生はとにかく仕事を求めた。企業はリストラと学生の受け入れ拒否に徹底した。結果、人材不足がますます加速し、路頭に迷う家庭が増え、日本経済に大きな打撃を与えた。加えて税金問題や政府のバラ巻き政策、後手に回った震災の救済措置。そのいくつもの教訓を得ての、企業側が出す、内定ルール違反ぎりぎりの策であった。
『面接の日時を決定したいと思い、お電話させていただきました。今、よろしいでしょうか?』
僕は、嬉しさを隠しきれずに「はい、大丈夫です!」と、場所もわきまえずに大きくて張りのある声で答えた。図書館の静寂が破られる。周囲の学生が僕を睨む。敵意と憎悪。「何であんな奴が」と、視線で語られているようにも思えた。
しかし、それは彼らの単なる嫉妬で僕にはどうでもいいことだ。できる人が悪いのではなく、できない人の方が悪いのだ。だから、どう思われようとも、もう恐れることなど何もない。
システム手帳をリュックから取り出してスケジュールを確認した。
僕は初めて自分だけの力で、幸せというものを手に入れられる位置に立てたのだ。受験と違ってお金はほとんどかからない。
すぐに面接の日時が決定した。来週の木曜日だ。
日常と異常の境界