Kentucky Home
未来から一人の少女が現れる。彼女の目的とは・・
第1話 My Old Kentucky Home
「それってさ、フライドチキンのCMの歌じゃない?」
彼女がその曲を弾き語り終えたのと同時に、彼のソワソワ感はピークになった。
どう感想を述べて良いのか判らずに、苦し紛れに突っ込んで聞いたのがこれだった。おまけに、こうでも言わないとこの気持ちの高ぶりようを隠し切れなかったのである。
ブルーバースト調のエレアコを持つ少女の名はアンジェル・スチュワート。
名前と金髪碧眼の見た目は思いきり欧米人なのだが、生まれも育ちも日本である。
もちろん日本語はペラペラのネイティブスピーカー。その見た目とのギャップもあって、初見は誰でも違和感をおぼえるほどであった。
ちなみに父親はアメリカ人、母親はフランス人という血統。日本語ほどではないにせよ、一応英語とフランス語は話せるそうだ。
彼もなるほど、さっきの歌も日本人が英語の歌詞を歌っているときの発音、といったところであった。
「違うわよ、この歌はもともと”My Old Kentucky Home”って曲で、古いアメリカの歌なのよ」
彼女の白い指先は、また曲のイントロを奏で始めた。
「マイオールド?・・へぇ、全然知らなかった」
愁馬はアンジェルの歌声をハミングでしか聞いたことがなかった。そのためいまの彼女の歌は上手さもさることながら、声質がこんなに澄んでいるものだったんだと彼は再認識したところだった。
気持ちの高ぶりとさらに、愁馬は窓全開のベランダから外に歌声やギターの音が漏れ出してやしないかとソワソワと落ち着かずにいた。
彼が家族と住む団地の十二階はパノラマ展望なのが自慢だが、やはり上下左右の部屋には気を遣うものだ。
いまは夏休みの真っ只中である。
蒸し暑い部屋に扇風機しかない部屋なので、居間に通じる襖も開けっぱのままになっている。その居間でほうでは、こちらに聞き耳を立てている母と姉の存在が気になって愁馬は気が気じゃなかった。
彼は耳の後ろから汗が流れるのをこそばゆく感じていたが、汗をぬぐう行為でさえも彼女の前では気恥ずかしくていちいちためらってしまっていた。
「この歌、結構古い歌なのよ。確か一八五〇年?・・あれ、何年だったっけ?」
アンジェルは答えを探すように天井を見上げた。
愁馬もつられて天井を見上げてしまったが、こんなんだったら電灯の傘のホコリもちゃんと掃除しておくべきだったと後悔した。
ふと見ると、どうやら彼女も首筋あたりから汗をかいている。
金糸のような髪が汗で濡れて栗色に変わっていた。しかし汗臭さやべたつき感はうかがえない。つやを帯びて首元にゆるく絡みついているふうだった。白い首の皮ふは薄く、紅潮してほんのりと桃皮がかっていた。紫色をした静脈が透けて見てとれる。
この前アンジェルが私は汗っかきだからと話していたのは本当らしかった。
彼女の衣服に意識をして見ると、そら色で和柄の入ったアッパッパの模様が変わっていた。
さっき彼女が玄関に入ったときに母親が、
「あら!アッパッパなんて懐かしいの着てるわね!私も若いころによく着ていたわ。楽だし涼しいのよねぇ」
などと余計なことを言うものだから、なぜ古い時代の服を金髪碧眼の中学生が着ているのかと色んな意味で愁馬は関心を持っていた。
さっきアンジェルの背中には紺色の日本列島のような汗の形があったが、いまではユーラシア大陸ほどの大きさまで広がっている。腰のほうに視線を落とせばオーストラリア大陸も現れている、といった汗のしみ出し具合だ。
アンジェルが自称汗っかきを主張するのはごもっともと再び得心した。
彼女はイントロの終わりから歌へ入ることはせず、愁馬の部屋にはアンジェルのギターの音色がそのままBGMになっている。
「あ、一八五〇年?・・だとすると日本は幕末で、『ひとはござしき』だから、アメリカからペリーが来るころだよね」
愁馬は見栄を張って少しだけ持っている知識を絞り出してみた。
すると彼女はパッと演奏するのをやめて愁馬に向かって右手の人差し指をピッと出した。
「あ、そうそう!それくらいかも!一八五二年とか、三年とか、そのくらいの気がする」
この瞬間、愁馬はアンジェルと思い切り目が合ってしまった。
彼女の瞳の真ん中には黒く丸い小島ような瞳孔があって、それをとり囲むような角膜は蒼玉色の海が広がっているように見えた。蒼玉色の海は透明感があるというよりも潤って波打ちしているようにも見える。
やや視線を落とすと、スッと通った細い鼻柱から頬にかけて、少量ではあるが若々しい色のそばかすが微かに散らばっている。
彼女の青い瞳とそばかすが眼前でくっきりと見えるということは、以前に外で会っていたときよりも、いまのほうが彼女との距離が一番近いということになる。
愁馬はそうやって自覚してしまうと、ますます緊張感に拍車がかかってしまい照れくさいのやら恥ずかしいのやらで、暑さと関係なくても全身からまた汗がドッと吹き出してくるのだった。
たまらずTシャツの胸元を指でつまんでパタパタやりながら、
「そんな昔にこんな曲があったんだ。アメリカって相当進んでたんだね」と、やっと、ようやく、やれやれといった具合で話を次に進めることができた。
「そりゃそうだよ。そのころのニューヨークには大きなビルとかたくさん建ってたんだから。でも当時の日本ってまだ木造の低層住宅がほとんどだったんでしょ?」
「お待たせしました~」
愁馬からすれば、誰も待ってなんかいないよと言いたくなるタイミングで母親が部屋に入って来た。母親はスイカが皿に乗ったお盆を手にしていた。
「わぁスイカ!私、スイカ大好きなんですよ」
「あらホント?まだあるからたくさん食べてってね」
「ちょっと母ちゃん、なんかその・・メロンとかなかったの?」
「メロン?メロンなんて病人が食べるもんじゃん。そんなたいそうなものうちにありっこないでしょうよ」
「・・病人がメロン?一体どんな偏見なんだよ」
愁馬のこの文句に言い返そうと母親が口を開く前に、
「私、本当にスイカが好きなの。日本の夏にはやっぱりスイカがピッタリだもん」
見た目がまるで欧米人が言うセリフにはとても聞こえなかった。
「そうよねぇ。ったくあんたなんかよりよっぽど彼女のほうが日本の心が判ってるじゃない」
「か、彼女じゃないよ!」
愁馬の大きな声にアンジェルは目をまん丸くした。
「そういう彼女って意味じゃないでしょ!直ぐひねくれた解釈するんだから」
ね、と母はアンジェルに首をかしげておどけた。
「どうぞごゆっくり~」
わざとらしく息子をからかうように甲高い声を出して母はようやく部屋から出ていってくれた。と言っても部屋を出たら直ぐにリビングなので、愁馬の気分が落ち着かないことに少しも変わりはない。
うっとうしい母の背中からアンジェルへ視線を戻すと、アンジェルはギターを脇に置いて、くし形切りにされたスイカを美味しそうにシャクシャクと食べていた。
金髪碧眼の少女が団地の畳の上であぐらをかいてスイカを食べている。
彼の日常には起こりえなかった非現実的な光景だった。
スイカのしずくが彼女の水色のスカート部分に落ちた。
「あっ」と声を出してしまったのは悠馬のほうだった。
アンジェルはお盆にあったおしぼりでスカートの内側に手を入れてトントンと染みを叩いて、
「平気、これ安もんだし洗えばとれるよ」と笑った。
アッパッパのすそからのぞく白く肉付きの良い脚に、ついつい目を奪われてしまう愁馬だったが、染み抜きをして伏し目がちになっているアンジェルのまつ毛もまた栗色だということにドキッとした。
アンジェルは染み抜きついでに自分の手もぬぐって、それからギターを持ち直すとまたさっきの曲を続きから奏で始めた。
「それでね、この歌はね、ケンタッキー州の州歌にもなってんのよ」
「・・州歌?」
「そう、その州を象徴する歌。それにね、毎年ケンタッキーダービーの直前に、みんなで大合唱するのよ。そりゃもうすごい迫力なんだから」
「ケンタッキーダービー?」
「うん。競馬の大きいレース。すんごい人が集まるんだよ。コンサートとか野球とかサッカーの試合なんてもんじゃなくて。それにみんなとてもオシャレしてね」
「へぇ、知らなかった。おれはてっきりフライドチキンの曲とばっかり思ってたからさ」
アンジェルはアハハと白い歯を見せた。
それから自分の伴奏に途中から歌声を乗せだした。
団地の十二階のベランダから彼女の歌声とギターの音色があふれ出している。
ベランダの外には放射線状の開放感しかなかった。
真っ青な夏の空にある太陽は、一番高い位置でギラギラしていた。
遠くにある副都心のビル群に、はるか遠くに見える東京の赤いシンボルタワーは、熱射の影響かゆらゆらと歪んで見えた。
足元には愁馬の卒業した小学校、その隣にはいま通っている中学校が縦列に並んでいる。
彼女のおかげで羽が生えたような自分の心持ちをよそに、彼の目下には夏休みの最中にもかかわらず校庭で部活にいそしんでいる生徒らがかえって気の毒に映っていた。
これがアンジェルが初めて愁馬の家に来たときの出来事になるが、彼らの出会いというのは実に古典的な形だったのである。
第2話 桜の下のハンカチ
愁馬とアンジェル、彼らの出会いというのは下駄のはな緒ではないが、実に古典的なものだった。
この一季前の春のことである。彼らの住む街には大きな都立公園があり、春になれば外周を桜が彩って見事だった。
当時中学三年生になり立ての愁馬はギターケースを肩に掛け、桜の花びらが舞い落ちる外周路を歩いていた。
都立公園と大型の商業施設の間には歩道橋大橋がかかっている。その辺りに差し掛かると、ハラリと一枚、桜の花びらとは別に彼の足元に滑り降りてきたのは、薄紫色をしたハンカチであった。
愁馬はどこから降ってきたものかと空を見上げた。
すると歩道橋大橋を歩く外国人らしき金髪女性の姿が欄干越しに見えた。
このときの愁馬が思ったことは、あの外国人の女の人がハンカチを落としてしまったのだろう、そんな安易な考えだった。だがこのまま無視してハンカチを見捨てるのも後味が悪い。仕方なしに愁馬はハンカチを拾ってほこりをはらうと、わきの歩道橋大橋の階段を一段飛ばしで駆け上がり、橋の真ん中あたりで彼女に追いついた。
下から見たときに覚えていた金髪女性の真後ろについたとき、後ろ姿ではあったが、愁馬は自分と同じように彼女もギターケースを肩にしていることに視線が向いた。
「あの、これ、落としましたよ」
どうせ日本語なんか通じないとタカを括っていたので適当にモゴモゴ言っただけのつもりが、彼女は愁馬が思うよりも反応が早く、パッと彼のほうに振り返った。
青い目をした少女に、愁馬は面を食らって棒立ちしてしまった。
「え?・・それ私のじゃないけど」
さらに予想外に、普通に日本語を話したことにまたもや面を食らって次の言葉が続いて出てこない。
アンジェルも愁馬との共通点に気が付いたようで、
「あれ?きみもギターやってるの?」と頬が少し緩んだ。
「・・いや、ま、まぁ真似事の範囲だけど」
動揺している愁馬は会話を取り繕うのがやっとだ。
「私も。ふ~ん、なんの音楽やってんの?」
「えっ・・えっと、ロック」
「ロック?どんなロック?」
こう聞き返すとアンジェルは持っていたギターケースを橋の欄干に立てかけた。
愁馬は話が長くなりそうな予感がして、ますます胸が高鳴ってくる。
一呼吸おいてから「まぁハードロックとか、かな」と返せば、「私も好き。私の周りってロックが好きな人って皆無なのよね。だからまったく会話が合わなくてさぁ」と反応よく直ぐに切り返してくる。
彼女は腕を組んで橋の欄干に背中をもたれかけた。
愁馬はアンジェルの方が自分よりも少し背が高いことに気が付いた。一六五センチの自分よりも彼女はもう少し大きく感じた。
途端に、周囲を歩く人たち全員に注目されているような、自分たちふたりが一体どんなふうに周囲の人たちの目に映っているのか自意識過剰になってきた。
愁馬は恥ずかしくなってたまらない気分になると、脇から汗が一筋流れてくるのを脇腹に感じた。
黙ってしまった愁馬にアンジェルは「・・バンドとかやってんの?」と言ったあと、彼女はハッとして急にピンと胸を張って起立姿勢になった。
「遅ればせながら、私の名前はアンジェル・スチュワート。えーと・・うら若き十五歳。彩葉(いろは)区立、彩葉第一中学校の三年生です」と腰を折って丁寧に頭を下げた。
アンジェルがいきなりかしこまって自己紹介を始めたものだから、逆に愁馬は身じろぎできなくなって固まってしまった。
アンジェルは「うら若き」と冗談をかましたつもりだった。しかしそんな冗談も通じず、ぎこちない動きの愁馬が面白かったのか、アンジェルは「フフ、きみは?」と首をかしげて彼の返答の催促をした。
その仕草さえもいちいち彼をドキドキさせた。
愁馬はゴクリと唾を飲んでから、
「お、おれは佐伯愁馬(さえき しゅうま)。同じく十五歳で、第四中の・・彩葉第四中学校の三年生」と、突っぱねるように言うのがやっとだった。
「わ!タメなんだね!それもご近所じゃない!」
彼女は構うことなくどんどん距離感を詰めてくる。
「そ、そうだね。おれは、ほらそこの団地。そこの十二階の・・」と自分の住処の方角を、ぶっきらぼうに指で差すのがやっとだった。
「へぇ、そうなんだぁ。十二階か・・眺め良い?」
「まぁ、ベランダからは、なかなか・・かな」
愁馬はようやく少しだけ余裕が出てきたのか気持ちがほぐれてきた。
アンジェルは「ふうん」とだけ言ったあと、しばらく愁馬の顔をジッと黙ってうかがっていた。
愁馬はアンジェルの青い瞳を直視することができず、あえて目を逸らそうとした。
「で、きみのほうは?」
アンジェルは含み笑って、少し呆れるように聞いてきた。しかし愁馬はなんのことを聞かれているのか直ぐに理解できずにいて目を白黒させて戸惑った。
「だ・か・ら、きみはバンドとかやってるの?」
ようやく話題が少し前に戻ったことを察した愁馬は、
「あぁ、ごめん。・・いや、誘われてはいるけど、まだ」
「え、なんで?なんでバンド組まないの?」
「ちょっと・・コピーするバンドがちょっと違くてさ。おれは、やるんだったらハードロックとかが良くって・・」
「あ~判る。私もバンド組んでないのは音楽性の違いだもん。生意気って言われちゃうけど」アンジェルは口元を手で隠してアハハと笑った。
「別にどんな音楽でもいいんだけどさ。それにできればコピーではなくて、バンドやるならオリジナルでやりたくて」愁馬はようやく自分の本音を吐露できた。
「え!オリジナルの曲を作ってんの?・・聞きたいなぁ」
アンジェルは蒼玉色の海面をキラキラさせながら、急になにかを思い出したかのように自分のギターケースを持ち上げた。
「私さぁ、これから区民センターで練習するんだけど、どう?一緒に行く?」
「え?・・そこ、おれも行く予定だったんだけど」
「うっそ!じゃあ決まりじゃん!」
アンジェルが愁馬を誘ったのには理由があった。自分も作曲をしていたからである。誰に聞かせるわけでもない自己満足で曲を作っていた。彼女も愁馬と同じように、それぞれの共通点に感動しているところだった。
だがこの時点での愁馬とアンジェルとでは、それぞれ違うところで熱が上がっているふうではあるが、のちのちふたを開けて見ると、このときの双方の心持ちは似たり寄ったりだったようだ。
歩道橋大橋の先にある大型商業施設の脇には区民センターがあり、その中の共同体育館の倉庫内の一角に貸スタジオがある。
貸スタジオといっても本格的なものではなく、四畳半ほどの狭い部屋にマイクスタンドとスピーカー、ドラムセットにギターとベースのアンプが一機ずつギュウギュウに詰め込んである。
それなりの防音構造にはなっているが普通に音漏れは激しい簡素な作りだった。そんな部屋がふたつばかりあって、中学生のお小遣いでも安価に借りられるなんちゃってスタジオといった感じである。
しかし残念ながらこの日は満室で、空きが出るまでの時間も判らず仕舞いだった。
「う~ん、残念ね」
「そうだね」
「ま、部屋数が少ないからさ、よくあることっちゃそうなのよね」
アンジェルはこう言ったが、愁馬の本音は空くのを待ってでも彼女とスタジオに入りたいという気構えだった。
愁馬は一目見ただけで女性にこんなにドキドキしたのは久しぶりであった。
現在進行形の初恋もかすんでしまうほどだった。
つまり、もう少し彼女と一緒にいたい心境なのだろう。
その心境を半分として区切っても、もう半分は純粋に彼女がどんなギターを弾くのかと興味深いものもあった。
「きみって、ケータイとか持ってんの?」
アンジェルは手を耳にあてがうような素振りを見せた。
「いや、うちは厳しいからまだダメなんだ」
「あ、うちと一緒。小学生のときは中学生になったら。中学生になったら高校に入ったらねって、ずっと先延ばしされっぱなしなの」
こういうときってむかしの人たちはどうやって次に会う約束を取りつけていたのだろうか。愁馬は真剣に悩んでいた。
「きみ、来週の今日の予定は?」とアンジェルは言った。
そうだ、簡単なことだったと愁馬は自分に呆れた。
「あ、ああ大丈夫。場所はここで良いのかな?」
「うん、そだね。十五時ジャストね」
愁馬はこの彼女の返事でさっきまでの憂慮がふと消えた。
この機を逃すともう彼女と会えなくなるような気がしていたからだ。
「あ、ところでこのハンカチはどうしよう。本当の持ち主は・・」
こう言った愁馬の手からサッとアンジェルはハンカチを奪った。
アンジェルは一瞬、このハンカチから香ってくる匂いが気になって、細い鼻柱をひくつかせていた。
「あ、これ、この先に交番があるから私から届けておくわね」
「え、あ・・いいの?ありがとう」と愁馬が礼を言い終わる前に、アンジェルは「じゃあね」とだけ言って背を向けてサッサと行ってしまった。
愁馬とアンジェルの初対面はこんなところで、最後は実にあっさりしたものだった。
そして約束通り、一週間後に再会することになる。
第3話 桜色のアッパッパ
再会は約束通り、一週間後の区民センターの前だった。
愁馬の家からは徒歩十分たらずの距離にもかかわらず、彼は三十分も前に現場に着いていた。
春先であったが、この日は妙に蒸し暑い日であった。
デートというデートは未経験な愁馬にとって、生まれて初めての女性との待ち合わせである。何回も深呼吸をしても緊張感が和らぐことはなかった。
ややあって、商業施設の前を行きかう人たちの波間から、明らかにひときわ目立つ金髪の少女の姿が見えてきた。
アンジェルは桜色のギンガムチェック柄をしたアッパッパと麦わら素材のサンダル姿にギターケースを担いでいた。
すでに首筋には薄っすらと光るものが見えた。汗だと判るが、汗の光ですら肌にラメが入ったようにつややかな光沢を与えている。
愁馬はアンジェルと初めて出会った先週、彼女がどんな格好をしていたのか思い出せずにいた。もしかしたら、先週も同じようなアッパッパだったような気もする。
逆にアンジェルは愁馬が散髪に行ったこと、靴が新調されていることに気付いていたが、それはあえて黙っていた。
「こんにちは。今日はスタジオに入れると良いね」
「うん」と答えた愁馬はどういうわけか、さっきまでの緊張感が解けていることに気がついた。
今回はスタジオに入ることができた。
おのおのはギターをケースから取り出すと、相手がどんなギターを使っているかなど彼らはまったく興味を示さずに直ぐに本題に入った。
「どっちが先にお披露目する?シュウは先攻と後攻、どっちが良い?」
いきなり「シュウ」と呼ばれた愁馬はドキンとしたが、普段から周りからそう呼ばれ慣れている節が彼にはあるので、それ以上うろたえずに済んだ。
「じゃあここはじゃんけんで」
「フフ、OK」
勝負は一発でアンジェルが勝った。
「私が勝ったから私からね」
愁馬はてっきり負けたほうから演奏をする罰ゲーム方式と思い込んでいたので拍子抜けしそうになった。
このときのアンジェルはやけに積極的だった。彼女は一切心臆することなくギターを構え、チューニングを合わせたりアンプを調整して音色を調えていた。音合わせをしているギターのピッキングの仕方だけで相当手慣れている予感がした。
「とりあえず最初は得意なフレーズから弾くね。で、そのあとからアンジェル・スチュワートのオリジナル曲をお披露目しようと思います」
こう言うと、愁馬が返事をする前に、突如ハードロックの速弾きを始めた。
愁馬は驚くと同時に気が付いたことがあった。
アンジェルは上背があるため、ギターの大きさに対して体格のほうが勝っている。
弾き手が小柄で背が低かったり華奢だったりすると、ギターのサイズによっては身体に対してギター本体が大きく見えてしまう。
それに指板の太さに対しても手の小ささが不釣り合いに見えるだけでなく、指捌きがパタパタとオーバーに小忙しく見えてしまう傾向がある。
しかしアンジェルは手も大きく、指も長いのかピタリと安定して指板におさまっており、その白く細長い指先が滑らかに指板を駆けずり回っていた。
つまり、成人がギターを構えているのと同じでまったく違和感がない。
アンジェルは愁馬が想像していたよりもかなり上手だった。
むしろギターをやっている男友達の誰よりも上手だった。
桜色のアッパッパを着ていても、演奏をしている姿が見事なまでにハマっており、迫力すら感じるほどであった。
こうなると一気に愁馬にプレッシャーがかかってくる。アンジェルは速弾きを終えると、今度は落ち着いた感じのメロディに入った。歌詞はまだできていなかったのか、歌メロの部分はハミングで表現をしていた。ハミングとギターだけであったが、しっかりとしたポップロックのナンバーだった。
愁馬はアンジェルの音楽に触発されていた。なにか今すぐにでも新しい曲を作り出したい欲求に駆り立てられており、それほど彼女の演奏は彼に刺激を与えたのである。
三分程度の曲が終わると、アンジェルは苦笑いしながら、
「なんか弾くのはハードロックとかメタルが好きなんだけど、歌うのはポップなのが好みなんだよね」と独り言のようにギターに向かって呟いていた。
「速弾きすごいな。中三でそんだけ弾けるってさ」
「握力はあんのよ。むかしからバレーボールやってるからね」
「バレーボール?今もバレー部なの?」
「うんそう。でももう時期に引退だけどね」
「バレー部ってさ、ギター弾くのに突き指とか危ないんじゃ・・」
「そうよ。でも、艱難汝を玉にすって言うじゃない?」
「かんなん?・・ってなに?」
「苦難を乗り越えないと人は大成しないっていうことわざ。痛くっても我慢しいしいよ」
痛そうな顔をしながらアンジェルは右手をヒラヒラとさせた。
「かんなんナントカなんて、ふだん使わないよ」
「そう?」
彼女は見た目は外国人なのに、たまに日本人より日本人らしいことを言う。
「だからバレーは夏にスパッと辞めるの。それからはやっと本命のギター一本よ」
「直ぐにでも辞めればいいのに。そんな才能あるんだから」
「才能なんて言うのよしてよ・・でもね、バレーからだって得るものあるんだよ。協調性とか諦めない忍耐力。ま、おかげさまで、ぶっとい太ももと汗っかきがコンプレックスになっちゃったけどね」
アンジェルは大きなおしりもコンプレックスになっていることは省いた。
そう言われてしまうと愁馬はついつい視線を下のほうに向けてしまったが、体型が読めないアッパッパ姿では「そんなことないよ」とも言えないし、どこか下品な印象を相手に与えかねないと思って言うのをやめた。
そしてまた愁馬は再び思い返してみたが、アンジェルと初めて会ったときの彼女の服装を未だに思い出せずにいた。
「このあとはやりづらいなぁ。これなら先攻のほうが良かったよ」
愁馬は話題を変える意味も含め、自身のギターを調整しながらこう言った。
アンジェルは黙って笑みを浮かべながら腕組みして立っていた。
「じゃ、おれは今のところの自信作で・・”SEVEN DAYS”って曲を」
アンジェルは曲名を聞くと「おっ」という顔をした。
もうそのような本格的なオリジナル曲を持っている愁馬に感心した。
愁馬は自信作と言ったが、この曲は近しい友達にだけ披露したことがあった。中学生が作詞作曲をすれば、どんな駄作であっても友達ならばある程度の高評価は与えてくれる。最悪アンジェルから酷評されたとしても、最低限の心のダメージで済むと踏んでの披露だった。
”SEVEN DAYS”という曲は彼が一年くらい前の中学二年だったころに作った作品であり、ハイテンポで激しめのロックナンバーといった曲調である。
中学生時での楽曲なので、まだまだ粗削りの完成度の低い作品であった。
佐伯愁馬の作詞作曲を含めた音楽作りの特徴とは、愛や孤独、焦燥感などの心の衝動をストレートに表現をしたり、未練や執着も隠すことなく感情をむき出しにする作風が多くなってゆく。
詞と楽曲との一体感の生み出しかたは、音の響きを重視しつつ、かつ語感に重きを置いた歌詞を選んで楽曲を組み立てていく手法である。
それは今後、長きにわたるミュージシャン活動においても変わることのない、彼の音楽作りの不変の中枢となっている。
もちろんこのとき彼はまだ未熟な中学生なわけで、まだ音楽人と呼ぶにはほど遠い青二才であった。
「あのさ、この曲の途中のところの・・」
愁馬の演奏が終わるとアンジェルは”SEVEN DAYS”の一部分をこう変化させてみたらどうかとアイディアを出してきた。
愁馬は自身が生み出したこの楽曲に、潔癖とまではいかないが人の手を加えさせたくない抵抗感があった。しかしアンジェルの提案がするりと飲み込めるものだったのもあり、すんなりと受け入れて”SEVEN DAYS”を編曲することにした。
そしてこの曲は数年後、さらに進化を遂げて世に輩出することになるのだ。
第4話 SEVEN DAYS
愁馬の曲である”SEVEN DAYS”を友達三名に披露したのは彼がアンジェルと出会う前、中学二年生の終わりころだった。
たかが中学生が作った曲である。
ベースは自分で弾いたものと打ち込みのドラムを一緒に録音したものを流し、ギターを手に弾きながら歌った。
恥を捨てきれずに照れながら歌ったものだから、途中で音程をはずしたり、声がうわずったりしながらだった。変声期の途中もあり、このときの彼の歌声は声の低い女性の声質、といったところだった。
愁馬の演奏を聞いていた三人は、冒頭はお遊戯を鑑賞しているような、見ているこっちも恥ずかしくなるような気分で聞いていた。
イントロから始まってAメロに入ると、愁馬の歌声ってこんな感じなんだと思ったところがそれぞれの印象だった。
しかしBメロに入ると、おのおのの聞く耳に徐々に変化が起こり始める。
やがてサビに入ると、三人の中には鳥肌を立てたものもいた。
終盤にくると三人は彼に音楽の才能があるということを確信させられた。
それが佐伯愁馬が最初に完成させた”SEVEN DAYS”という楽曲である。
「いまの曲って本当にシュウが作ったんだよね?すごいじゃない」
三上千景(みかみ ちかげ)は中学一年生のときのクラスメイトで、愁馬が心を寄せている初恋相手の女の子。入学早々に愁馬の一目惚れであった。小学校は別々だったので中学に入ってから知り合った人物になる。
お勉強もそこそこできて、バスケットボール部では健康的に汗を流す。涙袋がふっくらしていて顔は優しそうな印象だが、しっかりと一本スジが通っている女の子だった。
一年生の後半期、ふたりで学級委員を任された。行事の準備で夕方までふたりで残って作業をしていた。愁馬は告白をするチャンスと思った。ただ彼女はクラスメイトの相原に想いを寄せていた。千景は小学生のころから相原に惹かれていたらしい。愁馬はそれを噂で聞いていたので想いを押しとどめていた。
もとより、当時の彼には彼女に告白する勇気も度胸もなかった訳だが。
「いやいや、これはプロになるべきっしょ!」
「そんな簡単になれる訳ないじゃん。こんな曲で」
「謙遜すんなって。おれはいいセン行ってると思うけどな」
愁馬とやり取りをするのは、シロこと代田裕也(しろた ゆうや)といって、彼も一年生のときに一緒のクラスメイト。卒業した小学校も住む団地も愁馬と同じだった。
「私もいいと思うけどさ、これって誰に向けて作った曲なの?これってさ、もう告白じゃん、こ・く・は・く!」
こう聞き出そうとしている市原咲子(いちはら さきこ)は仲良しグループで唯一、愁馬とは中学の三年間が同じクラスメイトだった人物だ。素直で良い性格なのだが、いまのように余計な詮索が多い。わざと人をおちょくってくるタチである。
ちなみにお披露目会場は、共働き家族の咲子の家であり、発起人ももちろん彼女本人であった。
「だ、だれもかれもないよ!歌詞なんだから、歌詞!」
「あらそう?私はただ名曲ってさ、歌詞と曲がすんなり入って来るっていうじゃない?”君の心に届く距離まで僕の想いが近づけますように”って詞がさ、やけにスッと心に入って来ちゃったんだよねぇ」
名曲と褒めてくれるのはありがたいが、歌詞を面と向かって褒められるのはなんだかこそばゆい。それにうすら笑いしながら横目でチラチラ三上を見るのをやめてくれ!と愁馬は心で叫んでいた。
咲子は愁馬の気持ちをずいぶん前から見透かしている。咲子はお節介焼きのタチもあるので、愁馬の気持ちはなんとなく千景にも伝わってしまっていたらしい。
千景は話題の焦点をわざと逸らすように言った。
「わ、私はさ、サビの最後の”Seven Days”のあとの”Seven Ways”ってコーラスが入るるところが好きかも。ライブとかでお客さんと掛け合いみたいにしたら楽しそうじゃない?」
「な、なるほどね、それいいかも!」と愁馬もわざとらしく乗っかった。
シロが「Seven Waysって?」と咲子に聞く。
「まんまで言えば、七つの方法・・かな」
「シュウ、どんな意味なん?」
「おいおい、だから人の詞をいちいち掘り下げてくんなって」
「ああ判った!私、判っちゃった!相手を振り向かせるための七つの作戦!みたいなことなんじゃない?」
咲子の推理はズバリ図星すぎたので愁馬は判りやすく絶句してしまった。
千景もなんだかきまりが悪そうに口を真一文字にして目を泳がせていた。
この四名は一年生では同じクラスだった。どうしてこの四人が仲良しグループになったのかは定かではない。ところが二年生のクラス替えで愁馬と咲子のふたり以外はバラバラになってしまったのである。
中学二年に上がったばかりの愁馬にとって、二年生は実に面白くない学年だった。
咲子がいるにしても、なにせ想いを寄せる千景も親友の代田もいない。勉強は退屈でつまらない。青春を打ち込める部活動も帰宅部ということもあって、だんだん学校は休みがちになっていた。
ある日のこと。
この日も学校は仮病で休んでいたが、どうしても欲しい本があって仕方なく出かけた。
下校時間にさしかかっていたので学校の近くは通りたくなかった。そこで少し遠回りにはなるが、小さな公園を抜けていくことにした。浮かない気持ちと同様に空も曇天模様である。
公園には東屋があり、中には人の気配を感じた。特別に意識はしなかったのだが、目の前に差し掛かると、視線が自然と東屋に引き込まれた。
東屋には制服姿の千景と相原がふたり並んで座っていた。
愁馬は私服だったので、かぶっていた帽子を目深にした。気づかれていたのかは判らなかった。急に胸のあたりがズキズキと痛み出してきて、痛みが腰のほうにまで響いてくるほどだった。気が動転していた。学校をサボっていることがバレたかも知れない気まずさではなく、見たくなかったふたりの姿を目の当たりにしたことが苦しかった。
結局、本は買わずに、普段は使わない変な道を通ってそのまま家に帰った。
愁馬は次の日も学校を休んだ。ますます学校を休みがちになっていった。
「あんた朝は具合が悪くなるクセに夕方ころには元気じゃない。お父さんに言ってしかってもらうわよ!」
母親におどされると愁馬は気落ちするばかりだった。
そんな最悪のタイミングでギターと出会う。
小学生のころから好きだったロックバンドに憧れて、真似事から楽器を始めてみた。
愁馬は一気に音楽に没頭しだした。溜まっているうっぷんを発散するかのように音楽にのめり込んでいった。学校を休んでいる背徳感があるなかでも作詞作曲を始めてみた。
そんなタイミングで生まれたのが”SEVEN DAYS”である。
愁馬はこの曲に関しては少し手ごたえを感じていた。
当初は鼻歌程度のものだったが、それにギターの音を乗せてみたらそこから案外うまく作れた。それまでは曲作りに挑戦しても、どこかで聞いたことがあるようで似たり寄ったりな曲ができてパッとしなかったが、ようやく自己流で完成したと言えるものだった。
一曲だけでも完成すると、なんだか自分が救われたような気がした。
ある日そんな話を代田にしたところ、そこから咲子へ伝わって、このお披露目会が開かれたわけである。
「みんなコピーの練習をしてるときにオリジナル曲って、シュウはすごいよね」
気のある千景にこう言われるとくすぐったくて照れくさいが、浮かない学生生活を送っている身としての心境はどうも複雑だった。
咲子の言うように、この曲の半分は千景のために作った曲である。
ため、と言うとおもっ苦しいが、歌というものはどうしても自分の感情が反映されやすい。だからこそ聞き手からも共感を得られるわけになるのだが。
相原を想う千景に対して・・それもあったが、恋敵の相原にも見せつけてやりたいという負けん気根性のようなモノもこの曲には含まれていた。
千景も馬鹿ではないのでそれを薄々感じ取っている。この歌は自分に向けられた楽曲であると。彼女は彼女で幼少からの恋心を大切に保管していたのだが、そこに少しだけ愁馬が割り込みはじめていることに噓はなかった。
つまるところ”SEVEN DAYS”は、愁馬と千景にとって思い入れが強い一曲になるのと同時に、彼らの運命を左右させる分岐点にもなる楽曲でもあった。
三年生になるとこの仲良し四人組は再び揃って同じクラスメイトになる。
第5話 過去へ向かう理由
「TA・・つまりタイマーアンカーの理論と使用方法はもう大丈夫だな。・・じゃあ次はタイムパラドックスについて解説をしようか」
「あ、先生、そんなところでもう大丈夫ですよ。むかしの映画とかマンガで私、勉強済みだもん」
「お、おいおい。これだからきみは。映画とかマンガとはわけが違うんだぞ」
「え?」
「映画やマンガ、あれは作りものだ。だがきみがこれからする経験というのは、本当に現実に目の前で起こる、体験することになるんだ。知っておかないとあとで後悔することになるぞ。向こうに着いてからは私もいない。誰も頼れる存在なんていないんだからな。バカをみるのはきみ本人なんだぞ」
ふたりの会話の雲行きが怪しくなってきたのを察知した森島は、ふたりの間を取り成そうとした。
「そうだよ千里ちゃん。ただの旅行に行くんじゃないんだから。どんなことが起こるか全てを想定しておかないと」
「でも、だってこのタブレットひとつで戻って来られるんでしょう?さっき先生が実験してたじゃない。危なくなったら直ぐに飛んで帰ってくるわよ」
惣田は大きなため息をついてから「こりゃダメだ」と漏らした。
「は?なにがです?」
「こんなバカを過去に飛ばすことなんてできんということだ」
カチンときた千里は食ってかかった。
「あの!さっきからバカバカって人のこと・・」
「ああバカだ。きみのようなバカが未来人と判ったら、さぞかし若かりし諸先輩方は嘆き悲しむだろうな」
そう嫌味を言うと惣田は奥の実験室へ引きこもってしまった。
惣田の言い分に納得がいかず、キーキーと腹を立てている千里を森島はなだめになだめつつ、気分転換の意味のつもりで仕方なしに惣田の家を出た。
大きな川沿いの土手にあがったとき、千里は憤りをはき出した。
「さっきの先生の言葉ってさ、思いっきり矛盾してると思わない?だってさ、私が過去に行ったらさ、私が未来から来たっていうのは絶対に秘密なわけでしょ?バラしちゃったら大変なんでしょ?そんなことくらい私だって知ってるわよ。だから私が未来人と判ったらって言葉、どう考えてもおかしいわよね?私から言うわけないじゃん!私が未来人なんて知られるわけないんだから!」
「う~ん、たぶん先生が言うからには、千里ちゃんのことだから、バレるようなことになってしまうのでは、ってことを想定しての話なんじゃないの?」
「はぁ?ちょっと森島くん!きみもそうやって私がバカをやるって思ってんの?信じらんないんだけど!」
千里は森島と歩みを併せることをやめて、ひとりサッサと早歩きで歩を進めてしまった。
「あっ、いや、そういう意味で僕は言ったんじゃなくて・・」
あとを追う森島は、千里がこれでタイムスリップを諦めてくれれば良いのにと思っていた。彼は千里が過去に行くことが単純に心配になっていた。
しかし千里に惣田国倫(そうだ くにとも)という科学者を紹介してしまったのは自分の責任であるからして大いに戸惑ってもいた。
そもそも惣田を紹介したのでさえ、千里へ対しての単なる得点稼ぎのつもりだったのだ。
まさかここまで話が具体的に動き出すなど、彼は思ってもみなかったからだ。
ちょうど半年あたり前の話である。
「え!あのアンジェル・スチュワートと会ったの?スゲー!」
「うん、ちょっとだけね。お父さんの故郷のアメリカへ行くんだって。歌、やめちゃうみたいなんだよね。なんかもったいないよね。あんなに才能ある人なのにさ」
クラスメイトの佐伯千里(さえき ちさと)と森島直武(もりしま なおたけ)、浦河遥(うらかわ はるか)の三人は下校途中の土手の上だった。
「ねぇ千里、アンジェルとどんな話したのよ」
「うん、パパが入院したときメッセージを送ってくれたからさ、そのお礼のメールをしたら、わざわざパパの事務所まで来てくれたの。なんか背の高いキレイな人が来たなぁと思ったら、あのアンジェルであたしゃビックリよ!」
「いやいや、だから、どんな話をしたのって聞いてるんだけど」
未来の世界では佐伯愁馬は稀代のヒットメーカーになっていた。
作詞作曲家として数々のアーティストをプロデュースし、次々とヒット曲を量産していった。
映画の音楽にも携わり賞を獲ったこともある。それは彼が二十代初頭から三十代後半にかけての出来事である。
その間、中学校の同級生だった三上千景と結婚し、一人娘となる千里が誕生した。
が、彼の人生は、音楽で得た地位と名声がピークに達したときから、坂道を転げ落ちるように徐々に苦難の連続へと流れ込んでいく。
湧水のようにあふれ出ていた水が枯渇したかように、まったく詞も書けず、曲が作れなくなってしまったのが三十代終わりのことだった。しかし、これまでの作詞作曲で得た印税だとかを合わせるとその資産は莫大なものであり、残りの人生を悠々と余生として送っていくのになんら不自由はなかった。
そんな人生の岐路にさしかかったとき、最愛の千景が四十の若さで急性心不全で亡くなってしまうのである。
千景は中学生で知り合った初恋の人。人生の半分以上を彼女と過ごしてきた愁馬は失意のどん底に叩き落されてしまった。
地位も名声も、これまでに得た財産も、彼にとってはなんの意味をなすものではなくなってしまったのである。
そんなときだった。アンジェルが愁馬に楽曲の提供を求めたのである。
アンジェルは十代後半にシンガーソングライター、歌手、モデルとしてデビューし、一気に音楽シーンの先頭に躍り出る活躍をみせる。
見た目の美貌もさることながら、欧米人の外見のくせに日本人よりも日本人らしい気質。そしてなにより持って生まれたクリスタルボイス。
出す曲出す曲がヒット曲のオンパレードだった。
人気絶頂の二十代後半のときに日本人の俳優と結婚したが、そこが転機でもあり、転落の始まりだった。
夫の不倫が発覚し、結婚生活は短いまま終わる。
芸能界は人気商売というところがあり、ある程度の年齢に至り、かつ結婚してしまったアンジェルの人気には大きな陰りが生じてしまっていた。
それと同時に、彼女自身も才能の限界を感じとってしまっていた。
千里はアンジェルからこんな話を聞いたらしい。
「私、むかしから佐伯さんに強い嫉妬心があったのよ。佐伯さんがプロデュースするアーティストが出てくるたんびに怖くて仕方なかったの。きっと彼の音楽の才能に強い憧れもあったのかもね」
第6話 もしも、あの頃に
「え?うちの父にですか?憧れですか?」
「うん、そうなの」
「でもアンジェルさんだって、あんなに良い曲をたくさん作って。変な話、ふたりはあの時代の音楽シーンを引っ張っていたって・・」
「う~ん、でもそんなもんなのよ。隣の芝生は青く見えるじゃないけど、同じ土俵に立っていながら私には持ってないセンスだったり、こんなアレンジ私にはできないなぁとか、あんな曲を私も歌ってみたいなぁとかね・・」
「あ、それで父にあの曲の依頼を?」
「そうよ。私、これを最後の歌にしたいから曲を作って欲しいって彼に頼んだの。以前に何度か雑誌の対談とかでお互い面識はあったからさ。恥を忍んで勇気を出してあなたのお父さんに頼んだわけよ」
アンジェルは少し笑った。テレビなどで見るよりも、目尻の笑いじわだったりが青い瞳の周りに目立っていて、年齢よりも老けて疲れてみえた。
「それで父は、なんて答えたんですか?」
「最後?じゃあおれもその曲を最後にでもするかなって。案外あっさり承諾してくれたの」
千里はやや間をおいて、
「ああ、それで本当に最期になっちゃったんだなぁ・・」と独り言のように呟いた。「私もまさか最後っていう意味が、あの最期って意味だったなんて・・」
アンジェル・スチュワート作詞、佐伯愁馬作曲の”明日色の月”という曲は大ヒットすることになる。
世間では世紀の化学反応だとまで言われた。
しかしアンジェルは自身の引き際を考えていた。つまりアーティストとしての引退である。
同じく愁馬も引き際を考えていた。ただ愁馬の場合は、人生の引き際のほうであった。
彼はアンジェルに曲を提供したあと、自ら命を絶とうとした。
一命はとりとめたが現在も意識不明の状態が続いている。
妻の千景への後追い自殺と大衆は騒いだ。音楽業界にとっても大きな損失と言われていたが、身近で見ていた千里はそうは思わなかった。
「母が亡くなったあとの父はおかしくなってました。あるときなんか、リビングでお酒を飲んで・・あ、お酒は前から飲んではいましたけどね。・・そう、お酒飲んでるんだなって思って後ろから見たら、母の骨壺をテーブルに置いて、蓋が開いてたんです。え?って思ってのぞいたら、父は母の骨をかじりながらお酒を飲んでたんですよ。ビックリして、何してんの!って直ぐに止めました。・・父は自身の才能に限界を感じていて、ずっと苦しんでたみたいです。疲れ切っていたんです。私なんかからすれば、もう一生遊んで暮らせるだけのお金を持ってんだから、サッサとやめてのんびり暮らせば良いのにってずっと思って見てました。私なら絶対にそうするのにって。でもそういう問題ではなかったみたいなんです。そのタイミングで母が亡くなってしまったので、余計に耐えられなかったのかも知れないです」
「・・あなた、いま独りで大丈夫なの?」
「ぜんぜん大丈夫ではないですけど、ジジとバ・・祖父も祖母も近くにいてくれてますし。父と母には色んなものを残してもらいましたし、父もいつか目を覚ますかも知れないですから・・」
やや間をおいて、ハッとした千里はパンッと手を打った。
「とりあえず!・・ちゃんと高校には進学するつもりですよ。母は絶対に大学まで行かせる気満々でしたから、そこは守らないと化けて出そう怖くって」
アンジェルと千里は一緒にクスクスとだけ笑った。
そのあと、アンジェルは軽いため息をひとつついた。
「私は父親がいるアメリカへ行こうと思うの。もう日本は卒業かなぁ」
「アンジェルさんと父の曲、他にももっと聞いてみたかったです」
「当の本人の私もそう思ったわよ。もっと早く手を組んでやってみたかった・・ん?」
アンジェルはなにかを考えながら天井を見上げた。
つられて千里も天井を見上げてしまったが、電灯以外なにもなかった。
「あ、そういえばね、私と佐伯さんって地元が近かったのよ」
「え、彩葉ですか?」
「そうなの。私は中学へ上がる前までは都心部で暮らしていたんだけど、親の仕事の都合で彩葉区の彩葉へ引越したの」
「え、でも中学は違ったんですよね?」
「そう。私は第一中で、彼は確か、第四中・・だったかな?」
「えぇ!ニアミスしてたんだ!高校はどこだったんですか?」
「私は翠嶺高等学院だよ」
「うわっ!めちゃくちゃ頭の良い人が入る高校じゃないですか!あぁ、うちの父じゃ逆立ちしてもそんな高校入れなかったろうなぁ。そっか、高校も違ってたんだ・・でももし知り合ってたらどうなったんだろう」
「最近になって本当にそう思うときがあるのよね。私も中学ではもう音楽を始めてたし、もし彼と知り合って一緒に音楽をやってたらって。ニアミスって言ったらそうそう。都立公園の近くに商業施設があって、その対面に区民センターがあったの。その中に簡素で安いスタジオがあって、聞いたら中学生のとき私も彼もそこ使ってたのよね」
「あ、そこのスタジオの話、父から聞いたことあります。もしかしたら一緒のとき会ってたのかも知れないですよね」
「そうかもね。その話を彼にしたらとっても懐かしそうにしてたわ」
「パパは都立公園に続く歩道橋でよく煙突・・清掃工場の煙突を眺めるのが好きだったって言ってましたよ」
「え?私もだった。たまに通りすがりに欄干でひと息ついたりして・・」
アンジェルは話途中でうわの空な表情になった。
「?・・どうしました?」
「ううん。もしかしたら本当に、同じタイミングであのあたりで彼とすれ違っていたのかもね」
「・・」
千里も黙ってしまった。
「だとすると運命の神様も意地悪だなぁ。彼と音楽をやってたらなって、もっと思っちゃうかも。あーあ、あのころに戻って私に教えてあげたい。佐伯さんそこにいるよって」
「・・父は確か、むかしからバンドをやりたかったって言ってました。本当はボーカルとギターをやりたかったって。でもメンバーになかなか恵まれなくって、結局プロデュース業になったって」
「そうそう、私にもこぼしてたわ。本当はバンドで挑戦したかったみたいなのよね。バンドやってるアーティストがめちゃくちゃ羨ましいって」
「へぇ~、そんな話を。でもうちの父は表舞台でド派手にバーンとかますような性格してないと思いますよ」
「え?そうかしら?」
「はい。内気だし慎重派だし、コツコツと作詞作曲して曲を量産しているイメージしか私は湧きませんよ」
「そうかなぁ。なにかきっかけがあったら判らなかったんじゃないかしら。デモ音源の彼の仮歌、すごく素敵な声だったもの」
「なるほどね、確かにあの佐伯愁馬とアンジェル・スチュワートがバンドを組んでたらどんなんだったろうなぁ」
「ね、だって”明日色の月”ってすごい良い曲だったもんね。千里もそう思ったでしょ?」
だよね!そうだよね!と盛り上がる森島と浦河を尻目に、千里自身もそう思って想像を膨らませていた。
もしも父親の愁馬とアンジェルがバンドを組んでいたら。
どんなグループで、どんな曲ができて、どれだけの人気を博したのだろうかと想像していた。
母を亡くし、父が再起不能になってから数か月の間、千里が無理に明るく振る舞っているのを見るのが森島はつらかった。
そんなときだった。
惣田から時間旅行は理屈では可能である、まだ実験段階だが夢のような話ではないと聞いたのを思い出した。
ただ単純に千里を励ます意味で森島は、過去に行って佐伯愁馬とアンジェル・スチュワートを出合わせてみたらどれだけの名曲が生まれたんだろうね、などと絵空事のような話を振ってみた。
そして惣田から言われた”理屈では時間旅行は可能なんだ”という話も付け加えたのだった。
すると千里は、「え!?それホント!?先生んとこ行って詳しく聞いてみようよ!」と乗り気になり出した。
千里がそのとき見せた満面の笑みはかなり久しぶりだったので森島は嬉しくなってしまった。
そしてふたりで惣田の家に向かったわけだが、そこで惣田が開発したタイマーアンカーの存在を知らされることになる。
第7話 タイマーアンカー
「ああ、だから理屈では可能だ」
「え!?じゃあ先生のシステムで過去に行けるってこと?」
「その先生ってのはやめろと言ってるだろう。私はきみらの学校の先生じゃないんだからな」
「タイマーアンカー?」
「そうだ、そう名付けた。これからは省略してTA(ティーエー)と言うぞ。簡単に言えば、画像をこの端末に取り込んでTAに読み込ませる。さらに今度は移動させる対象物を端末で撮って、TAを使って画像を合成させる。そしてTAを起動させれば対象物を過去に飛ばすことができるんだ」
タイマーアンカーは惣田が開発したタブレット端末である。
「言っていることもよく判りませんし、私はにわかには信じられませんね~」
ふざけたように腕をぶらぶらさせて千里はおどける。
「ふん。論より証拠。じゃあ実際に見せようか・・ただし」
「ただし?」
「これを口外した時点で、きみらを歴史上から抹殺するからな」
惣田の声のトーンが普段と違ったため千里と森島は同時にゴクリと唾を飲んだ。
「ま、まさか先生、僕ら子供のころからの付き合いじゃないですか。僕らにそんな怖いことを?」
「抹殺というと物騒な表現になるが、そんな恐ろしいことがこのTAでは簡単にできてしまう可能性がある。それこそきみらは幼少からの付き合いだ。最低限の信頼はしている。だからせいぜい心しておいてもらいたい」
惣田国倫は年齢不詳で、ほとんど白髪頭だが見た目ではだいたい四十代後半といったところ。噂では若い時分、海外の在学中だった大学で、なにかの研究に没頭するあまり、五日五晩飲まず食わずで倒れたことがあるらしい。
研究狂で家の中でも常に白衣姿である。おまけに隻眼で左目だけ色が入った眼鏡をかけている。
素性は一切謎ではあるが、先祖代々から受け継いだ財産が相当あるらしく、広い敷地にかなり古い作りの日本家屋に住んでいる。
しかし古い作りに見えているのは外観だけで、内装は大規模改造されていて最先端の設備が整っている。
人付き合いはなく犬猫すらいない。
いまは海外で暮らしているという惣田の両親がいた時代から仕えている小野アキという家政婦がひとり住み込みで彼の身の回りの世話をしている。
幼馴染の森島と千里が惣田とどう知り合ったか。そのきっかけは不明だが、幼少期から彼らが惣田邸の常連でよく出入りしているらしい。
「さあ始めようか。では、きみらのスマートフォンで良い。その辺で写真を一枚撮ってTAに転送してくれないか」
森島は実験室の片隅をパシャリとやって惣田の持つTAに転送した。
「この画像は十三時二十一分に撮られたものだから、時間が経つほど徐々に過去の画像になっていく。では次だ。千里くん、きみの腕時計を貸してくれ」
「え・・あの、これ中学に入るときに親からもらった大切な時計なんだけど」
「大丈夫だ。保証する」
科学者の保証ほど当てにならないものはないと千里は嫌々だったが致し方なしに手渡した。
千里の時計をテーブルに置いた。それをまた森島が画像を撮ってTAに送信する。
「千里くんの時計をTAで読み取って時計だけをトリミングする。それを合成したのがこの画像になる」
惣田がタブレットを彼らに見せた。
さっき撮影した実験室の片隅の画像に、千里の時計が重なって合成されている。
「あとは簡単だ。TAを起動させるぞ。なにも身構える必要はないぞ。映画みたいに派手に光ったりデカい音が鳴ったりしないのも、このTAの利点のひとつだからな」
惣田が持つタブレットのTAを起動させた。
テーブルにあった千里の時計はフッと消えたと思ったら、実験室の片隅にフッと現れた。
ほんの一瞬のことである。
『あ!!』
千里と森島は同時に声を出した。
千里は時計を手に取ってしげしげと見た。
「どこも異常ないみたい。すごい、瞬間移動しちゃった」
「いや、瞬間移動したのは空間だけではない。時計の時間を確認してみたかい?」
森島も横から首を伸ばすように千里の手元の時計を覗き込んだ。
『ああ!!』
またふたりで、今度はもう一段階上の声をあげた。
「そう。部屋の撮影をしたのは十三時二十一分だったな。いまの時刻は十三時二十六分。つまり、この時計は五分間だけ時間を遡ったことになる」
「あれ?でも千里ちゃんの時計は十三時二十四分ですよ」
森島が不思議がっている。
「それは千里くんの時計を撮影した時刻で、二次元レベルでは時が止まっているからだ」
『???』
ふたりの目は点となっている。
「簡単に言えば十三時二十四分に撮影した時計を、十三時二十一分の世界に移動させたというわけだ。判るかい?」
「ん、んん?・・ってことは数分前から千里ちゃんの時計はそこにあったってことですか?」
森島の疑問に、惣田は「上々だ」と言いたそうな顔をした。
「OK、それに関してはまたあとで説明するとしよう。いまはTAの性能についてだ。ここまでは判ってもらえたかな?」
「わ、私はまだなんとなくしか判っていないけど、じゃあTAを使えば時間を自由に行き来できるってわけ?」
「残念ながら自由に、ではないんだ。マンガのタイムパトロールのように行ったり来たりはできない。TAは過去に物体を飛ばすことはできるが、現在から未来には行くことができないんだ」
「画像を撮った時間と空間が座標みたいな感じに・・タイマーアンカーって画像にイカリを下ろすっていう意味ですか?」
「ほとんど正解だ。難しい話になるので割愛するが、厳密に言えば光に記憶されている時空の情報を抽出している、ということになる」
「わぁ無理。私には難しそうだわ」
「ってことは画像さえあればどこの場所や時代にも飛んで行けるってことですか!?」
「理屈ではそうなるな」
「そっか!いまの画像さえ持っていれば、うんと過去に戻っても、またこの時代に帰ってくることも可能ってことか!」
「そういうことも可能だ」
「と、とんでもない発明じゃないですか!しかも映画とかマンガみたいなタイムマシンじゃなくて、このタブレット端末だけ時間旅行なんて!先生はずっとこれを研究していたんですか?」
「いや、そういうわけでもないんだがね・・」
少し考えるような顔をした惣田だったが、
「で、森島くんから聞いたが、今度は千里くんがいう目論見ってやつを私に聞かせてもらおうか」
「え、目論見ですか?まあ目論見ってほど大袈裟なものじゃないんですけど、ただ単純に、父とアンジェルさんが出会って音楽を作っていたらどんな未来になっていたのかなって。ただそんな世界を見てみたい。過去に戻れるならって。ただそれだけなんですけどね」
あっけらかんと楽天的に話す千里に対して、惣田が目つきを変えたことを千里も森島も気が付いていなかった。
第8話 太古からの光
「ではその、千里くんが行ってみたいとされる年代はどのあたりなんだ?」
「う~ん、そうですね。父が中学生のころにアンジェルさんも近くに住んでいたみたいなので、そのころに行ってバンドを組ませてみたいから、今から・・二十五年くらい前ですかね」
千里は半分以上は冗談話のつもりでいたので、こう言ったあと可笑しくなって自分から吹き出してゲラゲラと笑ってしまった。もちろん森島も心境は同じだったので彼も千里と一緒になってゲラゲラ笑っていた。
ところがである。
惣田はピクリと右側の眉を動かすと、
「うん。よし、良いだろう。実際に実現させるかは別として、計画だけでも立ててみようじゃないか」
『え!?』
千里と森島はまたまた声を揃えた。
「実のところ、このTAを使って私はすでに時間旅行を成立させているんだよ」
「えぇ!?」直ぐに食いついたのはもちろん森島のほうである。
「せ、先生はどの時代に行ったんですか!?あ、ちょっと待ってくださいね、写真が残っている時代だとすると、幕末とかですか?池田屋事件を見てきたとか・・」
「ハハ、確かに実際の幕末の日本も興味はあるな。だがもっと大むかしだ。エジプト、ギザのピラミッド建設だ。四五〇〇年以上も前だな」
「え!ピラミッドの建設を見てきたんですか!?あれってどうやって建ててたんですか?僕はどうしても異星人が関与してるんじゃないかって・・」
「うん、なるほどな。しかしあれは我々が受けてきた歴史の授業で聞いていたのとではだいぶ違ってはいたがね」
「ね、ねぇ!ちょっと待って!」
惣田と森島の談義に水を差したのは千里だった。
「あれあれ?先生はさっきTAって、写真とか画像の光データがどうとか言ってましたよね?でもそれを言うならどうやって四五〇〇年以上も前の画像を手に入れたんですか?そんな前の写真なんて残っているわけないじゃないですか!」
千里は半分バカにしながらおちょくるような言い方をした。
「そうくると思っていたよ。まぁそれくらいじゃないとTAの性能を深く理解するに至らないからな。森島くんは判るかい?私がどうやって四五〇〇年前に行けた理由が」
森島はう~んと唸って考え込んでしまった。
「千里くんもよく考えてみたらどうだ。世の中にはネット検索をしたりAIに聞いても解決しないことなんて腐るほどあるんだ。自ら考える力を放棄してはならないよ」
こう言われると天邪鬼な千里は面倒くさくなって余計に考えたくなくなる。
一応ちょっとだけ考えているフリをして森島の閃きを横目で待った。
「あるだろう。きみらも見ようと思えば毎晩見られる、太古からの数多な光のパレードが」
「光のパレード?・・あ!」
森島は閃いた。
「そうか!・・星!星ですね!」
「ご名答。考えてみたことがあるか?我々の住む地球からは、大宇宙に点在する無限の星々の光を拝むことができる。満天の星空のことを、星空がふりそそぐと表現するだろう?まさにそれなんだ。我々の地球には常に太古からの光がふりそそいでいるんだ」
話について行けずにボーっと聞いていた千里は、
「星の光がなんで四五〇〇年前と関係するんですか?」と言葉にするのが精一杯だった。
「千里ちゃん、僕らが見ている星の光って、いま現在のリアルタイムの光じゃないんだよ。太陽の光だって地球に届くまで八分ちょっとかかるんだ。地球から遠ければ遠いほど、その星の光が届くのには時間がかかるだろう?」
「はぁ・・」
「はくちょう座の方向にある星の光を抽出すると、およそ四五〇〇年前の光ということが判る。それをTAに読み込ませて、あとは地上の座標を指定すれば年代と場所の設定は完了になる」
「なるほど!そういうことか!・・で、先生、ピラミッドってどうやって建設してたんですか?」
「写真とか動画は撮ってきたんですよね?」
ふたりからの質問を、わざとらしく少し時間をおいて惣田は考える素振りをみせた。
「本来ならば過去の物体を現代に持ち帰るなど絶対にあってはならないこと。私も科学者のはしくれだから判っている。が、しかし、一枚だけ画像を撮ってきてしまった。どうやらタイムワープをして気分が高揚してしまったらしい。それと同時に急に恐ろしくなってしまった。まったく見知らぬ場所にやって来てしまった恐怖に急に襲われて、一刻も早く現代に戻りたくなってしまったんだ」
「もうっ!そんな話どうでもいいから早く写真見せてくださいよ!」
「うんうん」
「お、おいおいあのなぁ、きみらさぁ、もう少し人の話は最後まで聞くもんだぞ」
初めてのタイムワープのエピソードの披露で感慨に浸りたかった惣田だったが、お年頃の若人の興味はそこになかった。
呆れ果てた様子で、仕方なしに惣田は自身のスマートフォンを千里と森島に放り出した。
そこには太古のピラミッドの画像が映し出されていた。
「あ、あれ。これって僕らが知ってるピラミッドと違う感じが・・」
「白っぽくって表面もツルツルしてるわね」
「うん、それにもう完成してるんじゃないですか?」
「ああそうだ。私も完成していたのは驚いた。ピラミッドは我々の知る歴史よりももっと早くに完成していたということになる」
「表面もこんなにピカピカしてたんですね」と千里。
「それは想定していた範囲だ。いまでも最上部に名残りがあるだろ。それよりよく周りを見てみたまえよ」
千里と森島はスマートフォンを食い入るように見た。
「これ、要所要所に立ってる変な格好してる人って誰なのかしら?」
「先生、これって・・」
「そうなんだ。さて、こいつらは何者なんだろうね。人間であることくらいは判るが、明らかに現地の人間ではなさそうだし、我々が歴史を学んだうちの中に、この類の人種は見たことも聞いたこともない。未知なる人類がいたんだ」
千里と森島は押し黙ったままその画像を見ているしかなかった。
「彼らはピラミッドを監視しているようにも見えた。それと、頻繫に上空を見上げては聞いたことのない言語であれこれしゃべりあっていた。段々と気味が悪くなってきてね。これで私がサッサと帰ってきてしまった理由も判りそうなもんだろ?」
惣田が言うと即座に千里は、
「いや、私ならもう少しとどまると思うけどな。もう少し探検してみちゃうと思う。だって気になるじゃん。せっかく来たんだし」と半分冷やかしのように言った。
惣田は右肩をガクッとさせて千里を横目でにらんだ。
「先生。歴史って、僕らが思っているよりもっと奇妙で複雑なのかもしれませんね。でも僕も行って探検してみたかったなぁ」
森島の言葉に惣田は腕組みをし、ふてくされながらこう言った。
「ああ、そうかもな!・・なんならふたりとも飛ばしてやろうか」
『やった!お願いします!』
千里と森島が声を揃えた。
「バカ!冗談に決まってるだろ!安全がまったく担保されないんだからな!」
「ですよねぇ。ちょっとだけでもいいからパパとママが若いころの時代に行ってみたかったなぁ」
「さっきの話、本気で思っているのか?佐伯愁馬とアンジェル・スチュワートを若き日に遭遇させる。本気でやってみようと思っているのか?」
千里はやや考えているふうだったが、
「もうママもいないし、パパもあんなになっちゃったし・・そんなことだって考えたくもなりますよ」
それを聞いた惣田は沈思黙考に入っていった。「ではその、千里くんが行ってみたいとされる年代はどのあたりなんだ?」
「う~ん、そうですね。父が中学生のころにアンジェルさんも近くに住んでいたみたいなので、そのころに行ってバンドを組ませてみたいから、今から・・二十五年くらい前ですかね」
千里は半分以上は冗談話のつもりでいたので、こう言ったあと可笑しくなって自分から吹き出してゲラゲラと笑ってしまった。もちろん森島も心境は同じだったので彼も千里と一緒になってゲラゲラ笑っていた。
ところがである。
惣田はピクリと右側の眉を動かすと、
「うん。よし、良いだろう。実際に実現させるかは別として、計画だけでも立ててみようじゃないか」
『え!?』
千里と森島はまたまた声を揃えた。
「実のところ、このTAを使って私はすでに時間旅行を成立させているんだよ」
「えぇ!?」直ぐに食いついたのはもちろん森島のほうである。
「せ、先生はどの時代に行ったんですか!?あ、ちょっと待ってくださいね、写真が残っている時代だとすると、幕末とかですか?池田屋事件を見てきたとか・・」
「ハハ、確かに実際の幕末の日本も興味はあるな。だがもっと大むかしだ。エジプト、ギザのピラミッド建設だ。四五〇〇年以上も前だな」
「え!ピラミッドの建設を見てきたんですか!?あれってどうやって建ててたんですか?僕はどうしても異星人が関与してるんじゃないかって・・」
「うん、なるほどな。しかしあれは我々が受けてきた歴史の授業で聞いていたのとではだいぶ違ってはいたがね」
「ね、ねぇ!ちょっと待って!」
惣田と森島の談義に水を差したのは千里だった。
「あれあれ?先生はさっきTAって、写真とか画像の光データがどうとか言ってましたよね?でもそれを言うならどうやって四五〇〇年以上も前の画像を手に入れたんですか?そんな前の写真なんて残っているわけないじゃないですか!」
千里は半分バカにしながらおちょくるような言い方をした。
「そうくると思っていたよ。まぁそれくらいじゃないとTAの性能を深く理解するに至らないからな。森島くんは判るかい?私がどうやって四五〇〇年前に行けた理由が」
森島はう~んと唸って考え込んでしまった。
「千里くんもよく考えてみたらどうだ。世の中にはネット検索をしたりAIに聞いても解決しないことなんて腐るほどあるんだ。自ら考える力を放棄してはならないよ」
こう言われると天邪鬼な千里は面倒くさくなって余計に考えたくなくなる。
一応ちょっとだけ考えているフリをして森島の閃きを横目で待った。
「あるだろう。きみらも見ようと思えば毎晩見られる、太古からの数多な光のパレードが」
「光のパレード?・・あ!」
森島は閃いた。
「そうか!・・星!星ですね!」
「ご名答。考えてみたことがあるか?我々の住む地球からは、大宇宙に点在する無限の星々の光を拝むことができる。満天の星空のことを、星空がふりそそぐと表現するだろう?まさにそれなんだ。我々の地球には常に太古からの光がふりそそいでいるんだ」
話について行けずにボーっと聞いていた千里は、
「星の光がなんで四五〇〇年前と関係するんですか?」と言葉にするのが精一杯だった。
「千里ちゃん、僕らが見ている星の光って、いま現在のリアルタイムの光じゃないんだよ。太陽の光だって地球に届くまで八分ちょっとかかるんだ。地球から遠ければ遠いほど、その星の光が届くのには時間がかかるだろう?」
「はぁ・・」
「はくちょう座の方向にある星の光を抽出すると、およそ四五〇〇年前の光ということが判る。それをTAに読み込ませて、あとは地上の座標を指定すれば年代と場所の設定は完了になる」
「なるほど!そういうことか!・・で、先生、ピラミッドってどうやって建設してたんですか?」
「写真とか動画は撮ってきたんですよね?」
ふたりからの質問を、わざとらしく少し時間をおいて惣田は考える素振りをみせた。
「本来ならば過去の物体を現代に持ち帰るなど絶対にあってはならないこと。私も科学者のはしくれだから判っている。が、しかし、一枚だけ画像を撮ってきてしまった。どうやらタイムワープをして気分が高揚してしまったらしい。それと同時に急に恐ろしくなってしまった。まったく見知らぬ場所にやって来てしまった恐怖に急に襲われて、一刻も早く現代に戻りたくなってしまったんだ」
「もうっ!そんな話どうでもいいから早く写真見せてくださいよ!」
「うんうん」
「お、おいおいあのなぁ、きみらさぁ、もう少し人の話は最後まで聞くもんだぞ」
初めてのタイムワープのエピソードの披露で感慨に浸りたかった惣田だったが、お年頃の若人の興味はそこになかった。
呆れ果てた様子で、仕方なしに惣田は自身のスマートフォンを千里と森島に放り出した。
そこには太古のピラミッドの画像が映し出されていた。
「あ、あれ。これって僕らが知ってるピラミッドと違う感じが・・」
「白っぽくって表面もツルツルしてるわね」
「うん、それにもう完成してるんじゃないですか?」
「ああそうだ。私も完成していたのは驚いた。ピラミッドは我々の知る歴史よりももっと早くに完成していたということになる」
「表面もこんなにピカピカしてたんですね」と千里。
「それは想定していた範囲だ。いまでも最上部に名残りがあるだろ。それよりよく周りを見てみたまえよ」
千里と森島はスマートフォンを食い入るように見た。
「これ、要所要所に立ってる変な格好してる人って誰なのかしら?」
「先生、これって・・」
「そうなんだ。さて、こいつらは何者なんだろうね。人間であることくらいは判るが、明らかに現地の人間ではなさそうだし、我々が歴史を学んだうちの中に、この類の人種は見たことも聞いたこともない。未知なる人類がいたんだ」
千里と森島は押し黙ったままその画像を見ているしかなかった。
「彼らはピラミッドを監視しているようにも見えた。それと、頻繫に上空を見上げては聞いたことのない言語であれこれしゃべりあっていた。段々と気味が悪くなってきてね。これで私がサッサと帰ってきてしまった理由も判りそうなもんだろ?」
惣田が言うと即座に千里は、
「いや、私ならもう少しとどまると思うけどな。もう少し探検してみちゃうと思う。だって気になるじゃん。せっかく来たんだし」と半分冷やかしのように言った。
惣田は右肩をガクッとさせて千里を横目でにらんだ。
「先生。歴史って、僕らが思っているよりもっと奇妙で複雑なのかもしれませんね。でも僕も行って探検してみたかったなぁ」
森島の言葉に惣田は腕組みをし、ふてくされながらこう言った。
「ああ、そうかもな!・・なんならふたりとも飛ばしてやろうか」
『やった!お願いします!』
千里と森島が声を揃えた。
「バカ!冗談に決まってるだろ!安全がまったく担保されないんだからな!」
「ですよねぇ。ちょっとだけでもいいからパパとママが若いころの時代に行ってみたかったなぁ」
「さっきの話、本気で思っているのか?佐伯愁馬とアンジェル・スチュワートを若き日に遭遇させる。本気でやってみようと思っているのか?」
千里はやや考えているふうだったが、
「もうママもいないし、パパもあんなになっちゃったし・・そんなことだって考えたくもなりますよ」
それを聞いた惣田は沈思黙考に入っていった。
第9話 大きな歯車
「アンジェルは高校ってどこ行くつもりなの?」
「う~ん。まだ迷い中・・かな」
愁馬の家でお互いにギターをシャカシャカやりながらの会話である。
アンジェルが初めて愁馬の家に来た夏休みのあの日以降、だいたい二、三週に一回のペースで彼の家でこうやって会っていた。
その際、お互いに作ってみた詞や曲をちょっとでも良いので持ち寄って披露する、そんな約束を決めていた。
どうして愁馬の自宅で会うようになったのか。
区民センターの安スタジオでの待ち合わせも何度かあったが、タイミング悪く愁馬の同級生の三名とかち合わせてしまったことがある。
当時、バンドをやっているのは少し悪っぽい生徒ばかりだったが、その代表例が彼ら三人だった。
愁馬はどちらかというと音楽とかバンドをやるようなタイプには見えないし、勉強や運動などでも一目置かれる存在でもなかったので、ちょっとナメられて見られるほうの存在だった。
「なんでお前が外人の女の子と一緒にスタジオにいるんだよ」
「おれらのバンドの誘いを断っといて女と練習か?」
「おいおいその子紹介しろよ、一緒に練習しようぜ」
「そもそもお前らどんな関係なんだよ。その前に佐伯、お前って英語話せたっけ?」
三人は勝手なことを言ってゲラゲラと笑っている。血気盛んで怖いもの知らず、色恋沙汰に敏感なお年頃ばかりなので、こんな具合に絡まれてしまうのである。
愁馬は彼らとは学校での付き合いもあるので、むげに突っぱねることも断ることもできず、ただたじろいでいた。
するとアンジェルはスタスタと、よその方角へ歩いて行ってしまう。
アンジェルと初めて出会ったときの別れ際と同じだった。彼女は黙ってスタスタと歩いてゆく。
オロオロしながらも愁馬は彼女のあとを追った。
遠く後ろのほうから同級生らが愁馬をからかう笑い声が小さく聞えた。
ようやく愁馬はアンジェルに追いついた。
「ねぇ。シュウの家でよくない?シュウの家、これから行っちゃダメ?」
「いや、まぁ大丈夫だけど。でもおれ、久しぶりにアンプ通してガンガン弾きたかったなぁ」
「こればっかりはしょうがないわよ。それにあんな邪魔が入ったら満足に練習だってできっこないもん」
こう言うとアンジェルは急にクスクスと笑って、
「それよりシュウ、明日学校に行ったら私のことでからかわれちゃうかもねー」
アンジェルはいたずらっぽく白い歯を出して見せた。
愁馬もそれを考えていた。明日はきっと大袈裟に「あいつは外人の女と付き合っている」とか噂されるのだろうと思うと、愁馬はいまから学校に行きたくなくなってげんなりした。
それにそんな噂が流れてしまったら、きっと千景の耳にも入ってしまう。
千景はどう思うのだろう。
いやいや、彼女は相原という想いを寄せている同級生がいる。
でもお節介屋の咲子のせいで、愁馬の気持ちが少なからず千景に知れているもの確かである。
もしかしたら千景は嫉妬してくれるのではないか。
いやまて、嫉妬してくれるのかと考えてしまった時点で、愁馬は相原に強い嫉妬心と対抗心を持っていることを認めてしまうことになる。
そして千景にも嫉妬させて、やり返したいという敵意の返報性の原理なるものが働いていることの証明にもなってしまう。
愁馬は千景に嫉妬させてやりたいという気持ちと、変に誤解されたくないという心境の間でせめぎ合いをしていた。
しかし実際は翌日に学校へ行っても同じクラスの咲子でさえ、誰からもそんな浮いた話を振られることは不思議となく、前日の心配は杞憂に終わった。
「で、シュウのほうは決まってんの?」
「う~ん、おれの場合は選べるほどの学力がないからなぁ。・・アンジェルの迷い中ってどことどこの高校のこと?」
「翠嶺高等学院か、桜が丘北高校」
「え!すいれい!?・・あの翠嶺って、めちゃくちゃ頭の良い高校じゃん!すっげぇ、勉強もできるのかぁ・・あれ?でも桜北高と迷うってさ、あそこもまあまあ頭が良い高校だけど、翠嶺とだいぶ差がなかったっけ?」
アンジェルは軽くため息をついた。
「父さんが翠嶺以外は認めてくれないの。語弊があるかもだけど、私一応、翠嶺が受かるだけの勉強はしているから」
「お父さんってアメリカ人の?厳しい人なんだな・・アンジェルは桜北高に行きたいの?」
「うん。あそこさ、軽音部があるんだけど、他の高校よりも設備が超充実してるんだよね。演劇部とかモデル部とかもあって、芸能や音楽関係に通じる部活がすっごい整備されてるの」
「へぇ、そうだったんだ。うちから結構近い高校だけど、全然知らなかったな」
「近い!そう、もちろんそれもあるよね。チャリ通できるの楽だから」
「あーあ、でもおれの学力じゃダメだなぁ。先生からは、ひなた台高校が関の山だって言われたばっかだし」
「ハハ、まだ入試まで数か月も時間があるじゃない」
「・・え?」
アンジェルは少しだけ愁馬に身を寄せた。
「シュウは高校生になったらバンドを組みたいんでしょ?私もそこは同意見なんだよ。高校に入ったらさ、私たち一緒にバンドやってみない?」
愁馬はなんとなくそうなったら楽しいだろうなと想像したことはあったが、具体的にそうなると真剣に考えたことはなかった。
アンジェルと同じ高校でバンドを組む。
愁馬は胸が躍った。
彼の中で、大きな歯車が動き出した感じがした。
愁馬の学力はさっき自分でも認めていたように、平均よりもやや下程度である。
「え?あんた、一体どういう風の吹き回し?大丈夫?熱でもあるんじゃない?」
愁馬の母がそう言うのにも無理もない。彼は人生で初めて「塾に通わせて欲しい」と親に懇願したわけである。
動機はもちろんアンジェルの存在にほかない。
彼女と一緒の高校に通い、一緒にバンドを組むという明確になった目標に突き動かされていた。
これはこれまで消極的にのらりくらりと生きてきた十数年の彼の人生でまたとない大きな決断だった。
しかし最大の難関は彼の学力であり、簡単にクリアできる壁ではない。
そしてもう一方、アンジェルのほうも、こちらもなかなか一筋縄ではいかなかったのである。
第10話 親子ゲンカ
アンジェルの父、ローマン・スチュワートはアメリカの超がつく名門大学を卒業しており、世界で貿易会社をいくつか経営している超がつくエリート人間だ。
ローマンは日本びいきな人物である。細かい理由は定かではないが、母方の祖母が戦争のときに日本人に救われたとか。それがなかったらローマンはこの世に存在しえなかった、という理由からきているらしかった。
祖母との縁が深かった日本に、ローマンは若いころ来たことがある。
祖母を救った日本人の息子と会うことができ、日本人が持つ礼儀正しさ、思いやりの心、情け深さにひどく感銘を受けたそうだ。
将来、自分が世帯を持つときは日本に住むとそのときから決めていた。
妻のイザベルと出会ったときも、結婚の条件に日本に住むことを許して欲しいということが含まれていたらしい。
海外出張が多い彼なのだが、ローマン一家は基本日本に住居を構えている。
アンジェルの母イザベルはフランス人である。イザベル自身は日本とは縁もゆかりもなかったが、夫のポリシーを尊重して異国の地でアンジェルを産んで育てることになる。
そんなローマンとイザベル夫婦からしたらまさに青天の霹靂だった。
容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能に育て上げた自慢の一人娘が、まさかミュージシャンになりたいなどと言い出すとは夢にも思っていなかったのである。
夕食の途中で口論が始まってしまった。
「何度もその話を持ち出すんじゃないよ。いいか、私が言った通りに翠嶺高等学院に入るんだ。その桜・・なんとかという二流だか三流だか知らん高校に入るなど私は一切許可はしないからな」
「二流だか三流って・・二流でも三流でもないよ!その学校に通っている生徒や先生に失礼じゃない!どうして父さんは直ぐ学歴で判断するのよ!なんで行きたい高校に行かせてくれないのよ!」
イザベルが間に入る。
「アンジェル、お父さんの言いたい気持ちも判るでしょ?それに、そのバンド活動っていうのも、別に翠嶺に入ってからだってできるんじゃないの?」
「翠嶺には軽音部なんかないの!っていうか母さんも判ってないよ!あの高校のほうが私がやりたいことに集中できる環境が全部整ってるんだから!」
「ああ判った。よし判った。じゃあ翠嶺高等学院に、その、なんだ、お前の入りたい軽音楽部というやつを作らせれば良いわけだな?だったら私から学長に掛け合ってみようじゃないか」
アンジェルは眉間にしわを寄せて険しい顔つきになって大きくため息をついた。
「またそうやって権力で・・なんでそうなるのよ」
「権力じゃない!コネクションがあるんだ!だから協力してやると言っているんだ!」
「コネがあるならなおさら嫌よ!余計なお世話!ありがた迷惑!」
「いいから!いまお前は私の言う通りにしておいたほうが良いんだ」
ややあってアンジェルは「だから言う通りにしたじゃない・・」とボソッとふてくれてたように言った。そして、
「バレーボールやったじゃない!父さんがやりたかったバレーボールを小学生からずっと私やってあげたじゃない!」
「やってあげた?な、なんだと!なんだその言いぐさは!バレーボールは自分が好きで続けてきたんじゃなかったのか!?」
「もちろん途中から好きになっていたけど、中学に入ったらギターやりたいから辞めさせてって言ったじゃん!でも許してくれないから我慢してさ・・」
「両立できるならと約束してギターだって許可したじゃないか!道具だって揃えてやったじゃないか!それの一体なにが悪いんだ!」
「無理してバレーやってたところもあったことくらい理解してよね!」
「そもそも私は無理強いなどした覚えはない!」
アンジェルは鼻息をフンフンさせながら、
「小さいころに父さんはバレーボールをやりたかったんだよね?でもジジとババから勉強しろの一点張りだったから諦めたって。それで私にバレーボールをやらせてたんでしょ?押し付けたんでしょ?」とあごを上げた。
「ん、なんだ?お前はまるで私のためにバレーボールをやっていたって口ぶりじゃないか?」
「そうじゃないの?ねえ母さん、私にそう言ってバレーボール教室に通わせたんだよね?小学校も中学校も私をバレーボール部に入部させたじゃない?私は本当はギターやりたかったのにさ」
イザベルは、きまりの悪そうな顔をしていた。
「イザベル、本当なのか?」
イザベルは目を白黒させているだけで黙っている。
「楽器をやりたいのに、指先の怪我が付き物のスポーツを私はずっとやらされてたんだよ?太ももだって、こんなにぶっとくなっちゃってさ!ギタリストだったらスリムのほうがカッコイイに決まってるのに!おまけに女のくせに汗っかきにもなっちゃってさ!私は夢とは別に、私の体質を犠牲にしたんだよ!」
「おいおい。そ、それはお前、バレーとなんの関係がある!なにが体質を犠牲にだ!私もこんなデカイ体型だし立派な汗っかきだ!そんなもんは遺伝に決まってる!遺伝だよ!遺伝!」
アンジェルはもうウンザリとばかりに箸をビタンとテーブルに叩きつけた。
「あーあ!私はいつになったら自由になれるのかしら!いっそのことジジとババがいるフランクフォートにでも行っちゃっおうかな!」
嫌味ったらしい捨て台詞を吐いてアンジェルは席を外してしまった。
フランクフォートとはアメリカのケンタッキー州の州都で、アンジェルの祖父母、ウィリアムとマーガレットが暮らしている。つまりローマンの故郷である。
イザベルはアンジェルのあとを追おうと立ち上がった。
「やめとけ!いまはなにを言っても通じんだろ!ほっとけばいい!」
そう言うとローマンはどんぶり茶碗の白飯をガツガツとかきこんだ。
自室のアンジェルは浮かない顔をして意味もなくギターをかき鳴らしていた。
ため息ばかりでイライラがおさまる気配がない。
すると無性に愁馬に会いたくなっていた。
このときはまだアンジェルは愁馬のことを恋しがっていたわけではなかった。
ただ最近愁馬といると、自らが持つ夢を現実に引き上げてくれそうな、昇っていくような高揚感をいつも与えてくれた。
それを改めて実感したかったのと同時に、自分の乱れた心の荒波をいち早く彼に静めてもらいたい。
そんな、愁馬に頼りたい気持ちでいっぱいになっていた。
第11話 芽生えた嫉妬心
秋が深まるころのある日、咲子の家でいつもの仲良し四人グループの集まりがあった。
「え!?シュウも桜北高を受けんの!?」
咲子は変なニヤつきを隠しきれず、口の端をひくつかせていた。
「あ、ああそうだけど・・いや、もちろん成績は判ってるよ。だから塾だって通い始めてさ」
「えぇ~!うっそ!勉強嫌いのシュウが塾!?」
シロも大袈裟に驚いている。さらに咲子も追い打ちをかけた。
「どういう風の吹き回しよ!」
「母親みたいなこと言うなよな」
盛り上がっている三人の会話に、千景だけが入って来なかった。
そこを見過ごさず咲子が振る。
「千景~、良かったじゃない。シュウと高校まで一緒になるかもじゃん」
「えぇ!?」
愁馬は思わず声に出してしまった。
千景が会話に入って来なかった理由は、千景も桜が丘北高校の進学を希望していたからである。
愁馬はそれをまったく知らなかった。
千景は愁馬の進学先を聞いて率直に嬉しかった。愁馬の好意は中学一年生からどことなく感じていたわけで、自身の相原への恋心とは別に、愁馬を意識していたことに噓はなく、そんな彼が自分の進学希望の高校を選んでくれたことを内心では喜んでいた。が、この場では素直に表情として出すことができなかった。
なにか言わないと・・千景は遠慮がちに口を開いた。
「あの・・シュウはアレでしょ?やっぱり高校でも音楽がやりたいからでしょ?あそこ軽音楽部あるもんね?」
千景のこの問いに、咲子は即座に反応して愁馬の方へ顔を向けた。もちろん表情はいやらしいくらいニヤニヤしている。それを悟った愁馬はうっとうしそうに咲子を睨んだ。
「もちろん。そう、ほら、その軽音部のさ、設備がすごい整っているって話を聞いてさ。それに芸能系?・・そこに力を入れてる学風だって知ったからさ」
歯切れは悪かったが、アンジェルの受け売りを使った。
「へぇ~そうなんだ・・あれ?シュウそんな情報、誰から聞いたの?」
つまらないところに気が働くのが咲子である。
「だ、誰とかじゃなくって。調べたんだよ、自分でさぁ」
「ふ~ん、そんなことにしておくか」
「なんだよそれ。それよかシロ、お前はどこ受けんだよ」
愁馬は話題を逸らした。
「つばめ台高校だよ」
すると咲子が右手をシュタッと真上に挙げた。
「あら奇遇!私も!」
「え?お前らいつからそんな関係になってたんだよ!」
愁馬はなんとか逆襲したかった。
「お、おいおい!違わい違わい!」
「なんだよ違わいって」
愁馬と代田のかけあいに咲子が調子づく。
「あらぁ、いつからだと思う?」
「おい市原!変なこと言うなよ、思いきり誤解されてんだろ!」
そんな三人のガヤガヤを眺めていた千景であったが、彼女は彼女で愁馬のことばかりを見つめている自分にハッとして視線をはずした。
それと同時に、少し前に行った京都奈良の修学旅行のことを思い出していた。
男子三人、女子三人で一組を作ってのグループ行動だった。
男子グループと女子グループの組み合わせは、旅行前にクジ引きで決められていた。
もちろん愁馬は、千景と咲子がいる三人組と一緒になりたかったが、クジ運悪くその望みは叶わなかった。
千景はというと、やはり第一希望は想いを寄せる相原のいる三人組だったが、そこは運良く千景は希望通り彼のいるグループと一緒になれたのである。
嬉しい気持ち半分、なぜか千景は大満足はしていなかった。
もし愁馬と一緒だったらどうなったのかな、という思いが少なからずどこかにあったからだ。
千景は愁馬が残念がっているのではないか、そんな思い上がりに似た心情が胸中に残っていて、そんなことを考えているズルい自分に少し嫌気がさした。
そのまま修学旅行に入り清水寺を巡っていたときである。
たまたま愁馬率いるグループを遠目で発見した千景は、つい愁馬を目で追ってしまっていた。それに気が付いた相原は、
「お、佐伯と代田たちじゃん」
「え?・・あ、ホントだね」
と、千景はとぼけたつもりだったが相原は見透かしていた。
仲良しグループ四人組の存在もさることながら、いつぞやの公園の東屋で千景と一緒だったとき、愁馬らしき人物が目の前を横切ってから、千景の様子がおかしくなったことも彼はしっかりと覚えていた。
千景の心の中に愁馬が食い込んでいることに、相原は気付いていたのである。
「あ、そういやあいつ、佐伯だけど、なんか別中の金髪の子と付き合ってるらしいよ」
それを聞いて明らかに目の色を変えてしまった千景に、相原は面白くなりいたずらをしつこく続けた。
「金髪っていっても不良とかじゃなくて、外人の女の子らしくってさ。もう家に入れたりとかしてるらしいぜ」
千景はそれを聞いてからしばらく間をおいて、
「・・ふうん、そうなんだ」と聞こえないくらい小さな返事をした。
「アイツあんなんだけどさ、意外とマセてんだな佐伯って。アイツやるよな~」
「・・あ、相原、あっち行ってみようよ、清水の舞台!」
話を切るように千景は相原の手を引いて移動した。
こんなことを思い出していた千景は、愁馬が桜が丘北高校に進路を切り替えて猛勉強しているのは、その金髪の女の子が関係しているのだろうかと想像していた。
千景の中で、相原の言ったそれと合点したのと同時に、生まれて初めて自分に湧いて出たモヤモヤとした感情が、千景の気持ちを暗いところに落としていた。
第12話 故郷の歌
「アンジェル、母さんよ」
少し間をおいてからアンジェルはドアを開け、イザベルを部屋の中へ入れた。
「本気なのね、ギター」
「うん、そうよ」
アンジェルはベッドの上にあぐらをかいて、ギターをももに乗せている。
「確かに、なんだかサマになってきたわね」
「よしてよ、からかうの」
「からかう気なんてないわよ。娘がやりたいことを応援するのが親の役目でしょ」
「だったら父さんだって同じよね?」
「そうね。でも父親と母親では考えかたが違ってくるところもあるのよ」
イザベルはアンジェルの勉強机の椅子に座った。
「母さん、私は小さいころから勉強とバレーボールは言われた通りにやってきたつもり。だから高校に入ったら、そろそろ自分が本気で打ち込みたいことに全力をそそぎこみたいの。なのになんで父さんはまだ勉強勉強って」
「母さんもね、勉強はしておいて絶対に損はないと思うの。だからその点ではお父さんに賛成」
アンジェルは大きくため息をついた。
「あぁ、あなた忘れてしまってない?どうしてバレーボールを始めたのか、そのきっかけ」
「え、だから父さんと母さんに勧められたからじゃないの?」
「・・やっぱりね。まだあなた小さかったから」
「違うの?」
「まだ小さいころにね、公園でね、あなたお父さんとボール遊びをしていたの。お父さんも小さいときからバレーボールやってたでしょ。だからスパイクの真似事をして見せたのよ。そしたらあなた、大きな目をもっと大きく見開いて手をたたいて大喜びして。もっともっとっておねだりするもんだから、お父さんも調子づい続けてたの。そしたら古傷のひざをまたやっちゃったの。その場で痛くなって動けなくなって・・」
そこまで聞くと、アンジェルはなんとなくその光景がうすぼんやりとまぶたの裏側からにじんでくるのが判った。
「お父さんはご両親からなにも勉強勉強って言われてバレーボールをやめたわけじゃなかったのよ。ひざを大ケガして諦めたの」
「あ・・」
アンジェルの記憶がよみがえった。
「そう、病院の待合室でお父さんはそれをあなたに言うと、あなたが・・」
「そのぶん私がバレーボール頑張るから父さん応援してくれる?って私言ったかも」
「その翌日でしょ。あなた、自分でバレーボール教室に行くって通い始めたの」
「あれ~、そうだったかな」
アンジェルは天井を見上げた。
「お父さんこそね、小さいころからバレーボール一筋で勉強なんてそっちのけ。高校を卒業したら大学か社会人でバレーボールをやっていくつもりだったのね。でも高校生終盤でひざを壊しちゃって再起不能よ。バレーボールに人生を賭けてきて、バレーボールの夢をケガで絶たれてしまうと、あとなんにも自分には残ってなかったんだって。まだ勉強さえしておけばって、よっぽど後悔したみたい。で、そこからが本当に大変だったって」
「え、それで大学出てここまで大きな会社作ったの?」
「そうよ、もちろん寝ずに勉強を頑張ったって言ってたわ。失った時間を取り返すのって大変なんだから」
アンジェルはギターを持ったまま、なにか思いにふけっていた。
「人生を切り開くのは並大抵ではないことでしょ。自分の力なんてわずかこれっぽっち。だからといって他人なんて一切手を貸してなんかくれない。人は自分の損得で動くものだから・・」
アンジェルは手の中にあるギターの指板を見ていたが、母の言葉がどこかしらにしみていた。これから歌とギターでやっていく自分の覚悟と父の話が少し重なって思えた。
「あ、そうそう。お父さん、ずいぶん長いこと故郷へ帰っていないわよねぇ」
「・・え、ああ言われてみれば」
「本当は年に一回は帰りたいらしいのよ。向こうのご両親もいい年齢にもなってきたし。でもいまは忙しいから心配だけど仕事に全力投球なんだって。まぁ弟さんが向こうにいるしね。私は別に日本を拠点にしなくても良いと思うけど。でもお父さんはお父さんで日本に縁を感じているんでしょうから、色んな考えがあるんでしょ・・ああそうよ!だからね、あなたあれ、”My Old Kentucky Home”をお父さんに聞かせてみたら?」
「え?なんで?」
「なんで?・・あなたねぇ、これから歌とギターでやっていくつもりなんでしょ?その前にお父さんに高校進学を説得させないといけないんでしょ?一度くらいお父さんの前で演奏でもして、自分のことを売り込みなさいよ」
「あ・・」
「あ・・じゃなくて!自分の父親ひとりに売り込めなくって、あなたの歌なんて世間様の誰が聞いてくれるのよ。なにが歌とギターでやっていきたいよ。笑いごとで済ませたいの?」
アンジェルは横っ面をひっぱたかれた気がした。母の言うその通りであった。
思えばいつぞやの夏休み、祖父母の住むフランクフォートへ行ったとき、祖父のウィリアムがギターで弾き語って聞かせてくれた曲が”My Old Kentucky Home”である。
アンジェルが音楽を始める原点でもあり、ローマンにも親しみのある曲でもあった。
「あれ?でもなんで母さん私が”My Old Kentucky Home”を歌ってるの知ってるの?・・っていうか母さん?こっそり私の部屋に聞き耳立てて中の様子をうかがうクセ、いい加減やめてくれない?」
「あら、ひとが盗み聞きしてるみたいに言って失礼ね。言いがかりもいいとこよ。通りすがりに懐かしい歌が聞こえてきたからフラフラっと寄っただけよ」
「盗み聞きって自分で言ってるじゃない。そもそもフランス人の母さんが懐かしがる歌じゃないもん、まったく」
それからややあってからのことである。
ローマンが出張先から戻ってきた晩のこと。父娘はあのケンカからろくすっぽ会話もなかったので食卓の雰囲気も冷めていた。
食事を済ましたアンジェルは席を外して自室に戻ったが、今度はギターを一本持ってまた直ぐにリビングに戻ってきた。
ローマンは一体なにが始まる?といった表情で新聞を持ったままキョトンとしていた。
イザベルは食器を片付けるフリをしてキッチンへ下がっていた。
父さん、この曲を聞いてください。アンジェルはそんなクサい言い回しをするのもきまりが悪いので端折った。
いきなり”My Old Kentucky Home”のイントロから演奏を始めた。
「Oh, the sun shines bright in the old Kentucky home・・・」
アンジェルが歌い出した途端に、ローマンはまばたきも忘れてしまった。
自分の娘がこんな美声の持ち主だったとは思いもよらなかったのである。
もちろんまだ中学生の初々しさ、青臭い未熟さも残されてはいたが、ままごと程度と見くびっていたアンジェルの歌が、まさかここまでのものだったとは考えてもいなかった。
それどころか、我が故郷の州歌が懐かしく心にじんわりと響いていた。
自分の幼いころのこと。
少年時代の思い出から、思春期に初恋に破れたこと。
バレーボールに熱中していた青春。大ケガと悩んだ末の挫折。
両親をおいて故郷を離れるときの母親の寂しそうな顔。
その頬につたっていた涙の痕。
ローマンの脳裏にはアンジェルの歌声に呼び起こされたかのごとく、まるで無声映画のように故郷の出来事がグルグルと頭の中を駆け巡っていた。
音楽というのはこういうものだったのか。
ずいぶんと会っていない両親に、無性に会いたくなってきた。
鼻の奥がツーンと痛くなってくる。
おまけに古傷の左ひざまでチクチク痛み出してきた。
左足をさすりながら、両親は無事に暮らしているのか、元気にしているのか、病気になったりしていないものかと急に不安になってくる。
無性に故郷に帰りたくなってきた。
これも音楽の効果なのだろうか。
涙が溢れてきてどうしようもなくなっていた。
純粋にアンジェルの歌にも感動をしていた。
ローマンは成長した娘の歌声に感動しているのか、自分の故郷が懐かしくなっているのか、ホームシックになって両親に会いたくて泣いているのか、なにがなんだか判らないが、とにかく涙が止まらなくなっていた。
ただひとつ、これだけは言えた。ローマンはバレーボールでひざを壊したこと、夢を諦めたことを後悔したことはない。
夢を諦め、進むべく道を変更しなければ、妻のイザベルには出会えなかったのである。
となると、いま自分のために故郷の歌を歌ってくれているこの目の前の愛おしい娘は当然この世に存在しえなかったのである。
このひざが壊れたおかげで・・。
左ひざをさすりながら、ローマンは改めて思っていた。
そう、彼の宝物は目の前にあるのだ。
そんな父親の表情が視界に入ったアンジェルの目からも、自然と涙が流れていたが、歌には影響していなかった。
キッチンにいたイザベルは、娘の歌声の優美さに感動したのと同時に、震えながら鼻をすすっている夫の背中から彼のいまの感情を汲み取って、彼女もまた涙をこらえることができずにいた。
Kentucky Home