雑文
人に優しくするべきだった。そうすればもっと生きやすいはずだった。中学時代の初期あたりから、自分の人生はどうしようもなくおかしかった。欲望に囚われており、すべてを歪んだレンズで見るように私の精神鍛錬は始まっていた。憎しみがまず初めにあり、何があっても自己を自己に対しても他人に対しても素直に開示してはいけないという、厳しい戒律のもとで生きていた。この戒律が破られてはいけなかった。私の中で完結している世界があり、それは外側の世界に引けを取らぬほどの壮大さと緻密さを兼ね備えているようであった。私は外の世界だけでなく、自分の世界についても知る必要があった。むしろ自分の世界の秘密を解明したいからこそ、外の世界も知ろうとしたのかもしれない。自己が安定していれば、人はそれほど勤勉にも貪欲にも怠惰にもならないだろう。何かしら内的世界に大きな欠陥を抱えていると、極端に行動的になったり、非行動的になったりするものだ。こんなことは心理学や精神分析学の初歩みたいなものだろう。
このような分析癖がよくない。こうして、いつも自己を分析してわかったような態度を取ってみせる。だが、その態度を除外して、自己の素性をさらそうとは決してしない。そんなことは耐えられないからだ。こんなことも、何度も書いていることだね。くだらないとは思わないのか。まずは、人と会って話してみることだ。そうすることで、勝手に内側から変わっていく。その理屈はわかるのだが、やはりどうしても変わらないものもあるようだ。つまり、自己に対して執拗に嘘をつこうとするもう一つの自己がいるということだ。常に自己を欺いて、面子を保とうとして、誰も彼も欺こうとして、いいカッコをしようとして、とにかく他人からの自己からの評価ばかり気にして右往左往して、そうしてそんなすべての仕草もひっくるめて静観した気になったりして、いつまでも自己から抜け出そうとする喜劇を延々と続けようとする。その劇がないと生きられないのだ。いつも同じところに帰着するね。本当に自己に素直になる勇気がないのだよね。要するに勇気の問題だ。知性はまったく関係ない。自己を引き受けることができないだけの話だ。自信の臆病さを、なんとかして隠し通そうとする。それを認めないと何も始まらない。何も変われない。結局、人前で恥ずかしい思いをしたり、自身の努力を全面的に否定されたりしないと人は変われないようだ。やりたくない仕事をがんばるのが、多くの人にとっては一番いいのかもしれない。と言いつつ、もう働きたくないのだけれど。
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