産湯の森

産湯の森


産湯の森 目次

一部
プロローグ
鹿野香村
片目村
水溜りの夢
義眼

二部
北欧の森
八條天神社
産湯の森
絵本「目取虫」
おわりに


プロローグ 

 信州の山奥、鹿野(かの)香(か)村に片目の村の話が伝わっている。
 昔のそのまた昔、鹿野香村よりさらに山奥に一つの部落があった。その部落は森と小さなせせらぎに挟まれた地にあり、静かなたたずまいの大きな森には茸や木の実が豊かだった。
 その村の人たちは男も女も片目しかなかった。ところが片目の男らは狩りがうまいし、片目の女は森で熟した茸を採り、畑では立派な作物を実らせていた。
 森の中にはさまざまな動物たちがおり、争いもなく静かに暮らしていたが、その動物たちも生まれながらにして片目だったという。
 村の男たちは森からでてきた片目の獣を捕まえ毛皮をとり、女が茸や木の実、それに畑の野菜とともに、栄養満点の料理を作った。動物たちの脂は火を灯すだけではなく、皮膚を守る薬としてからだに塗った。
 片目村の西のはずれには大きな滝があり、その滝つぼでは魚たちがゆったりと泳ぎ、部落の脇を流れる川には蟹や海老、それにぴちぴち跳ねる小魚がたくさんいた。こうした森や川からの恵で生活はとても豊かであったという。
 それだけではない、森には片目村の人にとってなくてはならないものがあった。それは尊い水溜りである。片目村の人々は子供が産まれると、父親がすぐさま赤子を抱き抱え、森の中の水溜りをさがす。水溜りはいつも同じところにあるわけではない。男親は生まれたての赤子を抱えて森の中を走る。
 清く澄んだ水溜りを見つけると、水面に赤子の顔を近づけ、顔を洗い、水に浸して体を洗った。冷たい産湯である。森の水は子どもたちのからだを大人になるまで守り続けてくれる。そう信じられていた。水溜りのできるその森は産湯の森と呼ばれていた。
 父親は赤子を水に浸すと、いそいで家にもどり、寝ている母親の胸の上におく。そのとき、赤子はいきなり片目を開け、母親の乳に吸い付く。ただ、右か左かどちらかの眼球がなく、目の中はがらんどうだった。村の人たちにとって、それが当たり前のこととして、驚くことではなかったのである。
 片目がなくとも生活に不自由さを感じることは一生涯全くないのである。
 しかし、この部落にはこんな掟があった。左目のない者は右目のない者と、右目のない者は左目のない者と夫婦になり、添い遂げなければならない。夫婦で二つの目があれば助け合ってよい家庭が築けると信じられていた。
 そういった掟があるが、不平を言う者は誰もおらず、日本の国でもまれに見る平和な村であったそうだ。広がった自由を満喫している今の世の男と女ならば、そのような掟があると、右目のない女が右目のない男に恋をしたら不幸だというだろう。ところが、どうしたことか、その部落の男も女も、右目のない者は、左目のない者にのみ心を引かれ、左目のない者は右目のない者を好きになった。例外はなかったという。頭も体もそのようにできていたというしかない。
 何十年に一人ほど両目のある赤子が生まれることがあったそうだ。その子どもは男でも女でも部落の長となる。長は村の者たちを導き、より豊かな生活をおくるように采配をふるう重責をおう。男の長は何人もの女を娶ることができた。女の長はたくさんの夫をもち、たくさんの子供を産むことに専念する。女が長のときは、夫たちが村のことを手分けして行ったという。長が両目を持っていても、生まれる子どもは必ず片目であった。
 両目の子は必ず片目の両親から生まれた。その子は十五になると新たな長になり、長だった両目の者は森の管理者となり一生を終えるという。もし両目のある者が絶えたときは長とよばれる者はいなくなるが、みなが寄り添って物事を決め、平穏な生活が続いたそうだ。
 その部落がいつできていつまであったか、はっきりとはわかっていない。その村の言い伝えが残る一番近いとされる鹿野香村でさえ、山をいくつも越えていかなければならないほど離れている。書き残された資料は全くない。
 鹿野香村にはその村の話を年寄りから聞いたという老婆がいた。伝承研究者が老婆からその話を聞きとり歴史研究誌に載せた。
 その老婆が「片目村」と呼んでいたことから、その村または部落を片目村としたが、そこの片目の住人が自分たちの住んでいるところを、なんと呼んでいたのかは明らかではない。研究者はそう結んでいた。
 鹿野香村の片目村を知る老婆はシゲさんと言った

鹿野香村

 目元(めもと)心一(しんいち)は奇妙な場所を特集していた旅の雑誌で片目村のことを読んだ。彼は東京のとある医大の学生である。眼科医になりたいと思っていたこともあり、片目村のことが頭に残った。旅の雑誌はつきあっている神野(かんの)水子(みこ)が貸してくれたものだ。
 心一は医学部五年生になり講義の聴講に加え、いくつもの診療科をまわる臨床実習を受ける忙しい毎日を過ごしていた。八月になり大学は夏休みではあるが、ある期間は臨床実習にも参加しなければならない。それでも自分の時間をとることができることから、近くの山にでも行こうかと考えていた。
 八女の実家の母親からは夏休みにはいつ帰るのかと連絡が来る。心一の家は先祖代々医者であり、彼は昭和初期に建てられた目元医院の病棟で生まれた。父はからだの仕組みのことをよく話してくれた。その中で「目玉は脳が突き出したものなんだよ」という言葉が頭に残り、医者になれとは一言も言われなかったのだが、眼医者になろうと、自分から医学部を目指し、東京の医大に合格したのだ。
 心一は八女の古い街は好きである。八女は卑弥呼が伊都の国から流れきて発展させた町と聞いている。その後豪族により町は栄えた。八女の豪族の古墳群は有名である。
 心一はいずれ実家に帰ることにもなるであろうし、東京にいる間に関東の登っていない山に行きたいと考えた。旅好きの水子が日本にいれば一緒に行ったのだろうが、原生動物研究者である彼女は北欧に一月ほどの短期研究に出かけていていない。
 山には長い間いく機会がなくからだがなまっている。どこに行こうかと考えたとき、心一は信州山奥の片目村のことを思い出したわけである。あまり高い山の村ではなさそうで、久しぶりな心一には手ごろだろう。もう一度旅雑誌をひっくり返し、片目村の記事を読み返した。
 片目村は鹿野香村からかなり歩くようだが、その場所についての詳しい記述はなかった。鹿野香村にいってしまえば道はわかるだろう。長野の鹿野香村は白馬の見える標高500メートルほどの山間の村だ。いいところに違いない。心一は計画をすすめた。
 鹿野香村はJR大糸線の駅からバスで一時間ほどいったところにあった。新宿からその駅に行くには特急を利用しても五時間ほどである。ただ駅から香野香村に行くバスは一時間に一本しかなく、全くない時間帯もある。かなり不便なところのようだ。
 雑誌に載っていたシゲさんというおばあさんはもういないかもしれないが、誰かに話を聞くことはできるだろう。片目村そのものにいけなくても、鹿野香村だけでも楽しいにちがいない。心一は山にでかける準備を始めた。使えなくなった山登りの道具を買いに行ったり、切符をとったり、準備に2日もかかってしまった。幸いなことにしばらくよい天気が続きそうだ。
 その日、朝早くマンションを出て新宿駅に行った。新宿発松本行きの特急は満席だ。松本で大糸線に乗りかえ駅につくと昼近くになった。バス停で時刻表を見ると、一時間ほど待たなければならなかったが、その間に駅前の食堂で食事をとった。
 バスに乗ったのは心一をいれてたったの五人。バスは山の中腹の道をすすんでいき、ときどき白馬の山の頂が見えた。終点の香野香村役場前近くになるにつれ、道沿いに商店などが見られるようになった。一時間かかった。買い物帰りらしい地元の人の後についてバスを降りた。思ったより広いバス広場だった。周りを見回すと山に囲まれている。
 さてどこに行ったらいいか、リュックを背負って登山の格好をした心一が辺りを見回していると、最後に降りてきた運転手が声をかけた。
 「どこにいきなさるんで」
 「あの、片目村に行くつもりです」
 「片目村っていうの知らんな」
 「香野香村から山を歩いて3‐4時間と本に書いてあったものですから」
 「それでそこに宿があるんかね」
 運転手は首をひねっている。
 「香野香村に戻って泊まろうと思っているのですが」
 「ここに宿はないよ、駅に戻らなきゃならんね、駅に行くバスは4時が最後だ」
 「ありがとうございます、この辺のことはどこで聞いたらいいでしょう」
 「役場にいきなよ」
 運転手はバス停向かいの小さな建物を指差した。
 心一はお礼を言い、香野香村村役と墨書きの板が吊るしてある木造の駅舎のような役場にはいった。低いカウンター越しに中を見ると、いくつかの机の前で仕事をしている人たちがいる。
 受付にいた赤ら顔の女性が何も言わすに心一を見た。
 「片目村にについて知りたいのですが」
 心一が言うと、その女性は何も言わすに席を立ち、奥の副村長という札の立っている机に行った。男性が顔を上げた。
 女性の話を聞いた男性は立ち上がると心一のところにやってきた。
 「片目村にいくつもりですかね」
 「ええ、旅の雑誌にシゲおばあさんのことが書いてあったのできました、この村の人ですよね」
 「おおそうですよ、シゲさんとは懐かしい、確かに片目村のことをよく話しておりましたな、もう何年も前に亡くなっておりますよ」
 これは困ったどうしようかと思っていると、副村長さんは、
 「片目村は昔話のようなもので、あったかどうかわからんですが、言い伝えを調べている人がおるんで、ちょっとまってくださりゃ呼びますが」と言った。
 心一はよろしくお願いしますと頭を下げた。
 「近くに住んどる画家さんですよ、小学校の先生だった人、すぐ来ますんで向こうの部屋でまってくださいや」
 テレビの置いてある部屋を指で指した。集会室と看板がある。
 「増田さんに電話して」
 副村長さんは受付の女性に言って自分の席に戻った。
 しばらくして集会室に入ってきたのは小柄な白髪のおじさんだった。心一は立ち上がって、東京の医大生で将来眼科医を希望していることから、片目村に興味を持ったことを言った。
 「あ、医学部の学生さんですか、増田源之臣といいます、小学校の絵の教師をしていましたが、やめてからボランティアで村史の編纂にたずさわっております」
 腰を低くした。
 「医学部の学生さんは忙しいでしょうに、でもよく興味を持ってくださった、伝説ですがね」と笑顔になった。
 増田さんは村の小学校に四十年勤めている間に、シゲさんから片目村の話を何度か聞いたという。
 「片目村は木が所々に生えているただの草っぱらでしてな、ただ滝もあり、川もあり、脇の森はとても綺麗で絵になるところです。片目村の場所には村落あったところという看板がたっておりました、シゲさんが鹿野香村の昔の村長に建てさせたものです、だが片目村とは書かれていませんで、シゲさんがそう言っていただけです」
 副村長さんもそのようなことを言っていた。
 「だが、本当に人が住んでいたことは確かなようですが、その場所は村と言えるほど広くはなく、集落とか部落といったものだったのでしょう、片目の人というのもシゲさんの話でしかありませんよ、その村を本気で研究している人はいないですよ、ただあそこには縄文時代の遺跡がありますからな、それは調査されました」
 源之臣さん自身は遠いので片目村があったというところには数えるほどしか行ったことはないということだった。ただ天気がよければとても綺麗なところで、山の好きな人にはいいところだという。
 「私はここで育ったのですけど、小学校の教員になって数年ほど他の学校に勤めたあと香野香村の小学校教員になり戻りました。
 この村は茸に恵まれておりましてな、子供の頃は両親とともに秋になると茸採りにいきましたな、学校の子どもたちとも一緒に茸採りをしたものですけど、近くの山に行く程度でした。シゲばあさんの言う森にはいい茸がたくさん出るけど遠いので、地元の人もなかなか行きませんでしたな。
 でもこんなことがあったんですよ、ここに赴任して一月ほどたった日曜日のことでした、私もまだ二十代の頃で、片目村の話しも知りませんでした。茸採りのためにいつもより張り切って遠出したのです。一人でいくつか山を越して、小さな川を渡って広々としたところにでました。そこまで行ったのは初めてでした。見ると反対側にきれいな森が見えたのでいきました。森の中にはよく育った茸がたくさん生えていて、そりゃあ夢中になって採っていたんです。するといきなり熊があらわれたんです。驚いたどころじゃなくて、その場にへたりこんでしまいました。それがかえってよかったんだろうね、熊は私の頭に鼻をつけてふすふす匂いをかぐと、長い舌を出して、頭の毛をなめて、じろりと私を見たんですわ、口は生臭くて、厚ぼったい舌はなんだか暖かい肉の塊のようで気持ちがいいものじゃない。目をつむってぐーっとがまんしていました。薄目を開けたら熊の顔がすぐそばにあり、なんと熊の左目がなかった。
 右目だけで私を見ながら、首を振ると、ゆっくり回れ右をして離れていきました、私の手足は冷たくなっていましたわ、熊がいなくなってもなかなか立ち上がれませんでしたな。後で知ったのですが、そこがシゲさんのいう片目村の産湯の森だったのです。
 あくる日、役場で熊にであったことを話していたら、シゲさんがたまたま来てまして、それを聞いて、片目村はまだ生きているのう、と言ったんです。シゲばあさんは村で一番長寿の人で、よく知られていた人でした。誰にでも話しかけるおばあさんで、どこで出あったんかと聞いてきて、それから話をするようになりました。私も村の歴史には興味を持っていたものですから、よく話すようになり、シゲさんは私に会うたびに片目村はいい村だと言っていましたよ。
 熊は片目だったこと、あった場所は森の中と詳しく話すと、片目村の森で生まれた動物はみんな片目なんだ、人を襲ったりはしない、と言っていました。その森は茸もよく生えるし、木の実も豊富で、動物たちは片目村の人に尽くすために生きておったんじゃ、とも言っていました。
 シゲばあさんは、『水溜りがあったじゃろ』、と私にききましたが、そのときは見ませんでしたな、それが片目村の産湯がわりの水溜りで、その森を産湯の森というんじゃと言ってました」
 「今でもその森はあるのですか」
 「ああ、ありますよ、大きな森で、原始林ですからな、片目村のあったところを含めて自然保護区になっています、人の手はあまりはいっておらんです」
 「片目村や産湯の森まで歩くことは大変ですか」
 「ちょっと遠いが行けないことはないですよ、若い人なら三時間も歩けばつきますよ、山道で山に慣れていないと大変かもしれませんが」
 「片目村から他のところに抜けることはできますか」
 「それはできんね、またここに戻るしかありません」
 「そこで野宿やキャンプはできませんか」
 「キャンプは禁止されているし、野宿など勧めませんな、なにがでるかわからんで、奇妙なところといううわさがありますし」
 「そうですか、お話しありがとうございました、4時のバスで駅にもどります」
 「どうです、あたしの家でよければ、おとめできますよ、猫との一人暮らしなもので、食事はいつもので、たいしたものできないけど」
 話をしていたら、もう四時近い。源之臣さんの申し出はとてもありがたい。
 「いいですか」
 「どうぞどうぞ、空いている部屋がありますので」
 そう言って増田さんは立ち上がった。
 心一は副村長さんや受付の女性にお礼をいって役場をでた。
 この村は村役場のある商店地域を中心として、家々が山のすそに点在する典型的な山岳農村社会といった感じだ。
 彼は自転車を押しながら村のことを話してくれた。
 香野香村はその昔、自然と美人の産地で人気のあったところだという。今は若者が都会に行ったっきり戻ってこないと残念そうに話した。よくある過疎化のすすむ村のようだ。小学校など一クラスしかなくなったという。
 「きれいな空気しか自慢するものがないから、しょうがないですな」
 彼は笑った。
 「このあたりにも山にもかかわらず縄文時代のあとがいくつもあるのですよ、後世になってからも人が住んでいたようです、戦国時代だと思いますが、急に村が発展しています、山裾が大きく削られ土地が平らにされて畑がつくられたようです、住人たちの家や炭焼き窯の跡がたくさんあります。どうしてそんなに急に人や家が増えたのかわかっていません、何か特産物があったのか、何かで潤っていた村のようです。私も調べているのですが書いたものが残っていませんでね、今の香野香村はさらにその後にできた村ですよ、わしの家の隣の神社なんかはずい分古い、一時誰もいなかったようだが、戦後、富山のほうから若い神主が来ました、もう爺さんだがよく話します、神社の歴史などの書付は、神社にも本庁にもないということでした、普通は神社には書いたものが残っているはずですけどね、奇妙な神社です。あまりにもこの村のことを書いたものがない、不思議です。それに片目村などという奇妙な村の入口でもあるわけですし」
 そのような話をしているうちに増田さんの家についた。役場から十分ほどだっただろう。
 増田さんの家は瓦葺きの古い二階家で、昔の馬小屋が車庫になっていた。ハイエースが停めてある。
 増田さんが玄関を開けると、大きな黒虎の猫が玄関先まででてきていた。
 「むぐ」
 黒猫は心一を見上げると、奇妙な鳴き声をあげた。
 心一が黒猫の頭をなでると、フニャッとした顔をした。そのとき黒猫の片目が悪いことに気付いた。
 増田さんが玄関に入ると、さらに黒っぽい猫が二匹たたきにおりてきた。二匹とも目が片方つぶれている。
 「目を悪くしたんですね」
 「そうなんですよ、こいつら兄弟ですけど、隣の神社の前に捨てられていました、拾ったときには三匹とも片方がつぶれてました。カラスにでもつつかれたのでしょう」
 「お世話になります」
 家にあがると、猫たちも飛び上がってついてきた。
 「二階にどうぞ、昔の子どもの部屋ですけど」
 そういって増田さんは階段を登り、二階の一部屋に案内してくれた。
 「食事の用意ができたら呼びますから、ちょっと休んでいてください、窓から山々が綺麗に見えますよ、今日は夕焼けかもしれない」
 増田さんは窓を開けて一階にもどった。
 心一は荷物を置き、窓から外を見た。白馬連峰の峰が見え、空がうっすらと赤く染まり始めたている。ふと振り向くと、三匹の猫も二階にあがってきていた。
 猫たちも空を見ている。心一が一匹の頭をなでると心一を見つめごろごろいいはじめた。他の二匹もなでてやった。みんなごろごろいい始めた。ごろごろいう喉の音ががらんどうの片目の中で響いているように大きくなっていく。しばらく猫をいじっていると、
 「食事ができました、どうぞ、猫がお好きなんですね」
 増田さんがあがってきた。
 「さ、下に行きましょう」
 一緒に下の部屋に行くと、テーブルにはいくつもの皿が並べられている。短い間にこんなにたくさんよく作ったものだ。
 「いつも作りおきしてます、山のものばかりです、口に合うかどうかわからんですが、どうぞ」
 心一は「すごいごちそう」と席についた。
 茸のはいった味噌汁、ご飯に、厚いステーキ、茸をいためたもの、梅干、茸のぬかづけ、が並んでいた。缶ビールも用意されていた。
 「今作ったのはこの鹿のステーキだけです、さっといためただけですよ」
 鹿か、食べたことがない。
 「明日、車で登り口まで送ってあげますわ、ここから車で十五分ほどのところです、そこから片目村の森のあたりまで三時間、いや若い人なら二時間半も歩けば着くでしょう、朝七時頃にでれば十時につきますね」
 そういいながらご飯をよそってくれた。
 心一は鹿の肉を口にいれた。意外と柔らかい。
 「初めて鹿を食べました」
 「そうですか、よく捕れるんですよ、特産品にしようと町役場では考えてます」
 増田さんは食事をしながら片目村のことを話してくれた。
 「山をいくつか越えなければなりませんが、地図をあげますから、それを見ながらいけば迷子にはならんでしょう。携帯は通じません、産湯の森の中は、迷子になりやすいけど、明るいので歩きやすいと思いますよ、ともかく綺麗です、産湯の水溜りを見つけられるかどうかわかりませんがね、コンパスはもってますか」
 心一はうなずいた。
 「目元さんはどのくらい森を歩きますか、もどったときに登り口まで車で迎えに行きますよ、もう一泊してもかまいませんし、駅に行くバスは一日に七本しかなくて」
 「もう一泊お願いして、いいですか」
 心一はどこかでもう一泊するつもりだったので嬉しい申し出だった。
 「どうぞ、どうぞ、子供たちは一年に一度来るかこないかでして、お客さんは嬉しいことです」
 「ありがとうございます」
 「山をいくつか越え、神川という小さな川をわたって、片目村にはいると、西端に神山という石山が見えます。そこの滝は小さいけど綺麗で、滝つぼもそれはいい池になっています。神池といいます。産湯の森が片目村に入ると南のほうに見えます。神山と反対の東側を見ると二つの木に覆われた山が見えます。二つはそっくりで双子山と呼ばれています。
 「片目村は西の神山、東の双子山、南の神川,北の産湯の森に囲まれているわけですね」
 「そのとおりなんですよ、さすがにお医者さんの卵です、おぼえが早いですね」
 「とすると、片目村のあるところは紡錘型をしているのですか」
 「いえ、森を含めて四角っぽいのです、五キロ四方の大地です、ただ南側三分の二ほどは森で占められます」
 「森の反対側はどうなっているのですか」
 「とても高い山になります、森との間に谷川があるのですが、それも神川です」
 「神川と言うのは神山のところで二つに分かれるわけですか」
 「そうなんです、神川は不思議な川で、片目村と森を挟んで流れ、双子山の東で合流してまた一本の神川になります」
 「片目村と森は神川にはさまれているということですね」
 「そうなんです、神川は希に見るきれいな水といわれていて、命を運ぶ川などとも言われていたようです」
 心一が行こうとしているところは、ずいぶん綺麗なところのようだ。楽しみだ。
 「片目村は今では草原になっていて、木々がまばらにはえています、草に覆われていますが掘れば村落の跡があります。私が行ったときは草ぼうぼうでした」
 「香野香村からですと、いくつかの山を越して、神川にでるわけですね」
 「そうです、神川は浅くて石づたいに渡れるほど小さな川です、片目村と森は、日当たりはいいし、しかも肥沃な土地だったので、農耕にはもってこいのところです、縄文人まで住んでいたのですから、ずいぶん山奥なのに人の住みやすいところだったのだと思いますよ。
 そのあたりは自然保護の観点からなかなか調査の許可がおりなかったけど、一度だけある研究者が国の許可をとって、森のきわにある縄文人の遺跡を調べたことがありました。縄文人の住居跡や墓が見つかりました。台地のほうの、いうなれば片目村のあたりの住居跡なども少し調べたようです。現代人がすんでいたことは明らかになりました」
 「縄文時代にもお墓をつくったのですね」
 「縄文人は住居の脇に、死んだ人を、体を伸ばしたままか、屈伸した形で穴に埋めたと本にはかいてありますね」
 「片目村に墓はあったのでしょうか」
 「それが、住居跡から鉄製の生活用品、鍋や窯ですが、それらの道具は室町から戦国時代のものだろうということでした。ところが墓はなく、そこに住んでいた人の骨は見つかっていません」
 「死んだ人はどうしたのでしょうね」
 「わかりません、調査は縄文人に関わることが中心でしたので、台地の現代人のほうの解析はしなかったようです、縄文人に関してはドルメンという考古学の雑誌にのっていました」
 「信州大学が調査をおこなったのですか」
 「いいや、東北医科大学ですよ、関わっていたのは医学部の解剖学教室にいた人類学の先生でしたな、縄文土器の専門家でした」
 「片目村の人はどういう人だったのでしょうね」
 「香野香村あたりから追い出された人たちが、そこに住んでいた可能性もありますね、ただそう言った資料はありません」
 「増田さんの祖先も香野香村の人だったのですか」
 「ええ古くからの家です、おやじは役場つとめでした、じいさまは村長までやったんですが、農業も手広くやってました、もっと前にさかのぼると、農業をやる傍ら薬をつくっていましたな、薬師です、このあたりには医者などいなかったようで、村民に頼られていたようです、ただうちにもそういった昔のことを書いたものが残っていないのですよ、ちょっと不思議です」
 「役場には村の歴史を書いたものなどあるのでしょうか」
 増田さんは首を横に振った。
 「新しいところはありますが、古い時代のものは、あってもみな口伝えが書かれているだけで、当時のことが書かれたものは残っていませんな、あってもいいはずなのですけどね、」
 「増田さんは小学校の先生になって、香野香村にはもどってくるつもりだったのですか」
 「ええそのつもりでした。絵が好きだったので、美大にはいって、小学校の先生の資格もとったわけです、香野香村は山の景色はとてもよくて、茸もあるし、生き物は豊富で、絵の材料がたくさんありますからね」
 「本当に綺麗なところですね、バスを降りたら、山に囲まれていた」
 「そうでしょう、だけど、小学校も人数が少なくなって何とかしなければなりません、中学校はとうとうなくなっちまって、町の駅の近くの中学校と統合しちまいましてね、それで、何とか人に住んでもらいたくて、退職してから村の歴史を調べ、スケッチしたものといっしょに村の広報に載せているわけです、いつか絵本も描いて、この村の綺麗なことをみなに知ってもらいたいです、目元さんも医者になって、ここで病院建ててくださいよ」
 心一は軽くうなずいて笑った。
 いい人にであえてよかった。
 食事のあと、風呂につかって、久しぶりに畳の部屋の布団の上で横になった。
 明日はリュックを担いで山歩きである。

片目村

 朝、驚くほど急に目があき、天井の板目模様が脳にはいってきた。マンションにいるときと違う。ぐっすり眠れたあとの気持ちのよい目覚めである。大きな黒虎の猫が脇にきていた。心一は猫の頭をなぜて飛び起きると、服に着替えて洗面所に行った。まだ五時半である。いつもなら眠くて仕方のない時間だ。
 源之臣さんはもう起きていて、食事の用意ができていた。
 「眠れましたか、ゆっくり食べて、お腹の調子を整えてから、山歩きした方がいいですよ」
 「はい、ほんとうによく眠れました、東京では朝はなかなか起きることができないのに、空気がいいのですね」
 心一は顔を洗って、キッチンの椅子に腰掛けた。
 テーブルには、目玉焼きと焼き海苔、あじの干物、梅干しがおいてあった。久しぶりにこういった朝食を食べる。
 「どうぞ、食べてください」
 増田さんもテーブルについた。
 「いつもパンなので、お米の朝食は久しぶりです、味噌汁もおいしいです」
 増田さんは「私は毎日これですから、感激もありませんが」と笑った。
 「食べたら、ゆっくりして六時半頃でましょう、握り飯を作っておくから、昼に食べてください」
 「すみません、なにからなにまで」
 「いえ、ほんとうなら、私もいきたいのですけどね、お話を聞いていると、山にはなれていらっしゃるようだし、むしろ足手まといになっちまう」
 彼は左足がちょっと痛いらしい。
 食事を終え、縁側でそばに寄ってきた黒猫のない方の目を見ていると、「そろそろいきましょう」と増田さんが声をかけた。
 リュックに作ってもらった握り飯をいれ背負うと、サングラスをかけ、源之臣さんのハイエースの助手席にこしかけた。
 村の中を通る国道から脇に入り、林の間の一本道をすすみ、片目村に向かう山道の入口についた。
 入口といっても、なにがあるわけではなく、山の木々の間のちょっと下草がまばらになっている程度のところである。そこから山の中にかろうじて道とわかる筋が上のほうに向かっている。
 これから上ろうという林の中をのぞいた。涼しい風が顔に当たる。
 「マップは林野庁が出しているものだから、これに沿っていけば安心ですよ、ただ、片目村の森の中は全く描かれていませんので、磁石で方角を確認しながら進んでください」
 昨日、片目村に行く地図のコピーをもらい、歩き方はだいたい聞いている。ただ、片目村という地名はない。森の脇の大地だ。源之臣さんが丸をつけてくれている。
 「それじゃ、五時頃にはここに戻ります」
 今七時だから、十時間後ということになる。
 「ええ、気をつけていってください。早く帰ってきたとき、ここは携帯が使えないので県道にでれば大丈夫ですから、連絡ください」
 「はい。今回は片目村の様子を見て森をすこし歩いてきます。産湯の水溜りが見つからなくてもいいと思っています」
 「それがいいと思いますよ、綺麗な茸などを楽しんでください、もう一度マップで説明しておきましょう」
 増田さんは親切にもまたマップを広げた。
 「今ここです、赤い線をおっていくと、この山をこえて、ちょっと下ると、また登りになって、一つの山の稜線にでます、そのままずーっといくと、大きな山の中腹の道になりますから、ぐるっと回って、反対側に行くことになり、そこから次の山に行きます。この山、神(じん)南(なん)山といいます。その山の中腹をぐるっと回っておりれば、片目村の南側を流れる神川になります。そこをわたれば、片目村の中程になります。森が見えますから、森に行ってしまえばあとはわかりやすい。
 森に沿って西に行けば神山のふもとの神池にいけます、綺麗ですよ、片目村の人にとって大事な水源だし憩いの場所でもあったと思います。もし時間があったら行ってみるといいと思います、あのあたりでは一番綺麗なところですな。
 森に向かって歩く途中に看板があるとおもいます。何せ行ったのはずいぶん前で、その当時ですら字が消えかかっていましたから、残っているかどうか」
 ずいぶん丁寧に話をしてくれたので、心一の頭にはっきりとした片目村の地図が描けた。
 「森の中にはいるときには、必ずコンパスを使ってください。方位をはっきりさせておかないと、迷う危険性はあります、幸い今日は天気がいいし、森の中は明るいとおもいますよ」
 「どうもすみません、時間通りにもどります、行ってきます」
 増田さんに礼を言うと心一は山の中に向かった。
 真夏だが、このあたりは直射日光さえあびなければ、風も涼しいし歩きやすい。少し伸びた草が登山靴に当たる。リュックが肩に少しばかり食い込むのが気になるが、本格的な山登りと違って持ってきたものは少ないので軽いはずだ。それでもからだの重さを感じているのは久しぶりのせいだ。授業ばかりだったので、かなり足腰は弱っている。臨床実習では教授の後をついて、病棟を回ることぐらいしかしていない、専門書で病名とその対処の仕方を予習復習すること、たまには同級生と飲んだりすることもあるが、運動不足は確かである。テニス好きな奴らは、臨床実習中でも、休みがあればからだを動かしている。ゴルフやテニスなど社交が伴う活動は得意でなかった。
 歩き始めて三十分もすると昔の感覚がもどってきた。自分のペースで、周りを楽しみながら登ることができるようになった。林の中は薄日が差し込み、空気も気持ちよく感じられる。森林浴の効能が実感である。
 山の稜線にでて、次の大きな山の中腹を歩いていると、木々の間から見渡せる、低い山々の連なりの濃い緑が目に沁みる。立ち止まって眺めたが、目が緑色に変わっているのではないかと思われるほど強烈だ。
 しばらく行くと、隣の山の中腹になった。木々が重なり合うようになり、遠くの山が見えなくなった。同じような木に囲まれて、同じところを歩いているのではないかと変な錯覚に陥りそうだ。時々きこえる鳥の鳴き声で救われる思いだ。
 黙々と歩いていると、自分の来たところがわからなくなり、心一は磁石で方向を確かめ、地図を確認し前にすすんだ。源之臣さんは迷うことはないと言っていたが自信がない。歩き始めてもう二時間ほどになる。
 林の中の道がやっと下に向かうようになった。大きく広がった森が木々の間から遠くに見える。それが産湯の森のようだ。下に小さな川も見える。神川だ。やっとついた。初めてのところは遠く感じるものだ。
 川岸まで降りたとき、新一は何か、都会とはもちろん違うが、鹿野香村とも違った空気の匂いをかいだ。オゾンか、いや今まで感じたことのない匂いだ。どこか新鮮でもあるが、カビのような古い匂いも混じっている。
 降りたところの木に赤い麻紐を結んだ。帰る時の目印である。川の水の量は確かに少ない。水の中に入ってわたっても足首の上ほどだろう。心一は足元をぬらさないように大きめの石の上をわたった。
 川を渡りきって北を見ると森が連なっているのが見える。西の方をみると、黒っぽい山が見える。神山だろう。東には二つの緑に覆われている山がとなりあっている。双子山だ。位置関係は東西の山がはっきりしているのでわかりやすい。
 まず森の袂までいってみることにした。
 片目村のあったところは、草の丈はさほどなく楽に歩ける。大きく育った相当古い木がまばらに生えている。住人が植えたものなのだろうか。
 一本の古木の脇に朽ちた看板がたっている。文字はほとんど読めない。それが片目村の看板のようだ。
 心一はそこから真北に向かって森を目指した。二十分も歩いただろうか、森のきわに到着した。木々が東西に長く連なっているのは壮観である。
 森の中を覗くと、何かがわさわさと動くような気配が感じられた。ふっと風が顔に当たる。片目村の草原とは違った匂いがする。動物的な匂いというのだろうか。足元の羊歯が揺れた。トカゲがちょろっと逃げた。
 森の中の木々は太く高くそそりたっているが、陽の光りが差し込んでいて明るい。コンパスを見て、看板の真北に当たるところの一本の木に赤い紐をくくった。
 時計を見ると、思ったより早くついた。森に入る前に片目村を歩いてみよう。神山を見ながら、西に向かって歩き始めた。神池を見みたい。四,五十分かかるだろうと増田さんが言っていたが、自分なら三十分かからないだろう。足に山歩きの感覚がもどってきている。
 草を踏みしめていくとバッタが飛び跳ねる。草に覆われてはいるが盛り上がった場所がいくつもある。住居のあとだろうか。池に近づくと、そういう場所がふえてきた。神池の近くに多くの人々が暮らしていたのだろう。
 池に着くと、前面に姿のいい石の山、神山がくっきりとそそりたち、土手の上にあがると神池の水面が青く広がっている。ずいぶん広い。しばらく動けないほど感動した。さらに、石にあたりながら白いしぶきをあげて落ちる神滝は、逆に竜が石山を昇っていくような錯覚をおこす。土手には背の高い大きな茸が列を作っている。心一も知っている唐傘茸だ。
 池を覗いてみると青緑の水底が見える。魚たちが悠々と泳いでいる。手でつかまえられそうだ。増田さんが言っていたとおり、この池を見にくるだけでも山を越えてくる価値がある。
 時計を見た。十二時までにはかなり間がある。いつもより早い朝ごはんだったこともあり、もらったおにぎりが頭をよぎった。ここで食べるのは最高だろう。
 土手の上に腰をおろした。池の水面に手がとどく。手を水の中にのばして水をすくい、口に含んだ。旨い水だ。名前を知らない緑色の魚が水の底から勢いよく上がってきた。見ていると水面に口を開け、ぱくっと音を立て空気を飲んだ。そして心一を見た。おや、片目がない。そう感じたときには尾ひれを動かして水底に向かう後姿しか見えなかった。水底では仲間の緑色の魚が鱗を光らせて泳ぎまわっている。
 真っ青の雲のない空を見ると、鷹だろうかずいぶん高いところで舞っている。
 増田さんの作ってくれたおにぎりを取り出した。おかかと茸の佃煮、梅と紫蘇、それに塩昆布、東京のコンビニおにぎりとは違う。うまい。心一は一気に食べてしまった。しばらく土手に腰掛け風にふかれる。時計を見ると十二時になる。これから、紐をつけた木のところまでもどり、森にはいって一時間ほど歩こう。それから香野香村にもどると四時半。調度いいだろう、そう思って立ち上がった。
 池に来たときより早く赤い紐をつけたところに戻ることができた。
 森の中を見た。日の光りが木々の間を照らし、下草が緑色に光っている。森が早く入れといっているようだ。一歩中に入ると、木々がゆさゆさと揺れ、ふっと冷たい風が目にあたった。自分の足音がさくっと聞こえる。羊歯が揺れる。心一はコンパスを確かめ北に向かった。
 大きな木々の間に、ところどころにひょろんとした生えて間もない若木が揺れている。風が止んでいるのに揺れている。立ち止まってみていたら、若木の幹に半透明のものが張り付いて震えている。なんだろうと近寄っていくと、ずるーっと根元にずり落ちると、羊歯が覆う草の中に消えていった。なんだったのだろう。奇妙な生き物だ。
 心一はまた歩き始めた。足下の羊歯にまじって真っ赤な茸が目に入った。心一も知っている紅天狗茸だ。増田さんは茸が豊富な森といっていたが、思っていたより少ない。時期が早いのかもしれない。
 この森は日が当たっていても、かなり気温が低い。だいぶ歩いたのに汗をかかない。木の枝の上で何かが動いた。見上げると茶色の動物がちろっと見えた。栗鼠のようだ。サークルでよく行った夏の山歩きと何かが違うと感じていたが、それがなにかわかった。飛んでいる虫が少ない。こういった森に入ると蜘蛛の巣がズボンに絡まったり、アブが飛んできたり、蚊が付きまとったり、うるさいものだ。だがこの森はいたって気持ちよく歩けている。
 苔に覆われた岩がころがっている。その上に半透明のゼラチンのような塊がへばりついている。森に入ったところの若木についていたものと同じだ。
 何だろう、近づいたところ、半透明のものはずるっと岩からおち、羊歯の中にはっていった。こんどは急いで石の脇の羊歯を掻き分けてみたが、そいつはいなくなっていた。生き物であることは確かだが、何の種類なのだろう。想像がつかない。
 森の奥に向かってかなり歩いたが、水溜りなど全くない。それからしばらくいくと一段高くなっているところにでた。その手前に草に囲まれた小さな湿地を見つけた。だが水はたまっていないかった。
 湿地を迂回して足がかりのあるところから段差を乗り越えた。歩いて行くと下り坂になった。木陰から遠くに山の中腹が見える。そのままいくと森の北を流れるもう一つの神川におりて行くことになりそうだ。時計を見た、そろそろ引き返したほうがよさそうだ。心一はそこから戻ることにした。
 段差のあるところまで戻り下を見ると、来たときに見た小さな湿地帯より東よりに草が茂っているところがある。光が反射している。水溜りなのかもしれない。心一は下に飛び降りて草叢に向かった。
 そこには羊歯に覆い隠されるようにして小さな水溜りがあった。これが産湯の水溜りだ。見つけた。伝説にせよ水溜りにあえたのは嬉しい。心一はかがんで水溜りを覗いた。水は綺麗に澄んでいて、水底に緑色の藻がゆらゆらゆらめいている。底に手が届きそうだ。深くない。サングラスをはずし、リュックを背負ったまましゃがんだ。動いている生き物はみえない。藻があるのだから微生物はいるはずだ。目を凝らして水面を見る。水面は鏡のように木々を映し出している。自分の顔も映っている。ポチャッと音がして心一の眼の前の水面に小さな水しぶきがあがった。上から何かが落ちてきたようだ。
 落ちてきたものが水に沈んでいくのが見える。何かの実のようで丸いものだ。心一は頭上を見た。張り出した木の枝などはない。青空が見える。どこから落ちてきたのだろう。
 目を水の中にもどすと、そのとたん日が陰った。あたりが薄暗くなった。水面は落ちたものでかき乱され底が濁っている。
 心一は腕時計を見た。文字盤が暗い。目を近づけると針がとまっている。電池は変えたばかりなのにどうしたのだろう。
 水の中をもう一度覗いた。
 水の中に小さな生き物がうようよと動きはじめている。水の中に落ちてきた木の実で騒ぎ出したのだろう。小さな小さなプランクトン類だ。水子の専門分野だ。
 赤っぽい虫がくねくね動いている。濁りが半分ほどとれてきた。水の底に落ちた丸い実が土に半分埋もれているのが見える。その実の周りから白い粉がわき出してくる。土の中にいた連中だろう。粉粒が膨らんで大きくなっていく。土の上を粉粒が動き出し、水溜りの縁のほうに上ってくる。ミジンコか。
 水溜まりの周りにめをやると、赤や黄色の茸が羊歯の間から頭をもたげている。さっきはこんなに茸が生えていなかった。白い茸が顔を出した。しゃがんでいる後ろを振り向いてみると、周りに大きな茸がならんでいる。いつの間に生えたのだろう。名前を知っているのは少ないが天狗茸はわかる。小さな落葉茸もたくさんでている。
 甲虫類が茸の間を歩きまわっている。山にはいるとよく見る風景だ。心一はトンボや蝶の名前は子供のころ追いかけまわしたことから少しは知っているが、甲虫類の名前はコガネムシ、カブトムシやカミキリムシ程度しかわからない。
 黒っぽい虫が水の中に飛び込んだ。落ちたのではないようで、そのまま水の中を泳いで、水底の落ちた実にとりついた。ちょっちょと集まって動いていたミジンコが散り散りになった。思い出した。こいつはミズスマシだ。ミズスマシなら水の中もお得意だ。
 見ていると、また何か飛び込んだ。小さな蛙だ。ミズスマシのいる水底の実に向かって泳いでいく。
 心一は池から顔を上げると、池の反対側の大きな羊歯の間に白いものがいるのに気がついた。ウサギじゃないか。ウサギは前に飛び出すと、池の縁にやってきて心一を見た。心一はウサギを怖がらせないように動きを止めた。
 片目が赤くてもう一つの目が黒いウサギだ。いや、そうじゃない。心一はウサギの顔をよく見た。片目が空で黒っぽく見えたのだ。
 そう思ったとき、白兎が池に飛び込んだ。何だと見ていると、水の中にもぐっていく。ウサギは泳ぎながら縮んでいくと、蛙より小さくなり、ミズスマシほどになっていた。蛙も縮んでいく。小さくなったウサギがミズスマシの背中につかまった。蛙もつかまった。するとミズスマシとともに小さくなり、ミジンコたちの中に入って、水の中を上へ下へと動き出した。
 水溜りの縁に集まっていた白い粒が大きくなりながら、草原に上がってきた。平べったい半透明の生き物だ。手のひらほどの大きさになった。そうだ、アメーバに似ている。森に入ったときに、若木についていたやつだ。岩にもついていた。心一は立ち上がった。足元に這い上がろうとしたやつを蹴っ飛ばした。アメーバはどんどん大きくなっていく。
 逃げなくては、そう思ったとき、耳の脇に暖かい息を感じ、驚いて振り返った。後ろに鹿がきている。鹿だけではない、狸や狐、鼬もいる。猪までいる。どの動物も片目がない。心一を見ている。逃げられない。水たまりの中に逃げようか。そのとき動物たちが一斉に歩き出した、動物たちは立ったまま呆然としている心一の脇から、勢いよく小さな池に飛び込んだ。動物たちは一瞬にして小さく縮み、水の中を泳いで水底に向かった。水底にある丸い実がくるっと動くと心一のほうを向いた。
 目玉だ、まさか。
 心一は縁から水の中に落ちそうになって足を踏ん張った。サングラスをかけた。あたりが薄暗くなった。池の水は澄んでおり、底に落ちた丸い実が泥の中に埋もれているのがよく見えた。
 心一は森にいることも忘れぼーっとして水底をみつめていた。
 冷たい風が頬に当たった。はっとした心一は、もう一度水溜りを見た。もうアメーバも動物たちも消えていた。
 無意識のうちに森の入り口のほうに足が動いていた。今見ていたことを思い出しながら、次第に状況がのみこめてきた。これが白昼夢というものなのだ。現実的な心一にとって、このような状態になるのははじめてである。腕時計を見た。今は動いている。時間はそれほどたっていない。あきらかに自分の脳が作りあげた幻想であることが理解できた。心一は気持ちを引き締めた。
 森の出口に向かって歩いた。ずいぶん茸が目につく。森にはいったときには少ないと思ったほどだが、いまは茸を踏まないようにするのに気を使うほどだ。赤白黄色、茶色の茸の頭が日の光りでかがやいている。木々には鳥がいる。だがどうしてか鳴き声は聞こえない。この森は静かな森だ。
 羊歯や下草を踏みながら歩いていくと、心一の気分がもとにもどってきた。森の出口がみえるころには片目村に向かった朝の気分になっていた。
 産湯の森は不思議なところだ。古い神社の境内にはいったときのように時間が停滞し、日の光りが木々の間をただよい顔のまわりにまとわりつき、白昼夢まで呼び起こす。
 結びつけた赤い紐がついている木が目にはいった。
 心一は森からでた。なんだかまぶしい。西のほうに石の山が見える。東には緑に覆われた双子山だ。正面北のほうには、片目村に降りてきた神南山が見える。どうやら頭はしっかりしてきた。
 空を見上げると雲一つない。今日は一日いい天気だった。
 看板のある大木に向かって歩いた。看板はすぐにみつかった。看板のところを通り神川も朝きたところとほぼ同じところにでることができた。川をわたると神南山のおりたところの木の赤い紐もすぐわかった。
 神南山を見上げると、かなり高い山だったことを改めて感じた。あとはもくもくと歩き山を越した。時計を見るとまだ3時だ、5時までに戻ればいいので時間に余裕がある。ほどなく車で送ってもらったあたりに出ることができた。4時半である。予定より三十分も早かった。
 道脇の切り株に腰をおろした。気持ちのいい風が吹いてくる。東京では蒸し暑い盛りだ。久しぶりの山歩きだったので足が張っている。足をもみながら森の中の産湯の水溜りで見た片目の動物たちの幻影を思い出していた。人間は環境の変化で精神活動が変調するということは精神医学や心理学でいやというほど聞かされてきた、他人事のように感じていたのだがそれが自分の身にも起きた。いい経験だったのかもしれない。
 薄暗くなってきた。時計を見る。五時を過ぎている。増田さんがまだ来ない。おかしいと周りを見ていると。下の方から歩いてくる増田さんが見えた。車が縁故でもしたのだろうか。
 彼は心一を見ると手を挙げた。
 「そこに出たのですか」
 心一は彼の言っていることがわからなかったが手を振った。
 「四時半ごろには戻りました」
 「もう五時半過ぎていますよ」
 どういうことだろう。
 「車は下にあります」
 えっと思って心一は増田さんを見た。
 増田さんが「目元さん、かなり上のところに出たんですよ」と言った。最後に出るところを違えていたようだ。
 「あ、そうでしたか、すみません」
 「いえいえ、よくあることです、森はどうでした」
 「ええ、綺麗な森でした。産湯の水溜りを見つけました。そこでしばらくぼーっとしていました」
 心一は写真を一枚も撮らなかったことに気がついた。山歩きの時には必ず写真を撮る。あとで見てその場のことを思い出すのは楽しいものだ。歩くことに神経を使ったせいだろう、もったいないことをした。
 「産湯の水溜りを見つけたのはよかったですね」
 「綺麗な水溜りでした。だけど、特にかわったところはありませんでした」
 片目の動物たちの幻影をみたことは言わなかった。
 「茸がたくさん生えていたでしょう、いい茸の採れる森だから」
 「ええ、森にはいったときに気づきませんでしたが、産湯の水溜りのあたりにはたくさん生えていました」
 「そうでしょう」
 増田さんの車は五分ほど下ったところの林の前にあった。
 増田さんが運転席の扉を開けてくれた。
 「すみません」
 心一は助手席に乗った。
 バックミラーに自分の顔が写った。ちょっと薄暗い。サングラスをはずすと自分の顔がうつった。
 心の中であっと叫んだ。
 右目ががらんどうだ。
 顔を乗り出しミラーを自分の方に向けた。片目がない。やはり水溜りをのぞいたとき落ちたのか。
 「どうしました」
 増田さんが反対側の運転席を開けて乗ってきた。
 心一はあわててサングラスをかけ直し、
 「目に虫が入ったものですから、バックミラー動かしてしまいました、すみません」
 心一はいいつくろって、ミラーをもとにもどし、
 「久しぶりの山歩きで楽しかったです、いただいたおむすび、神池のほとりで食べました、おいしかった」と言いたした。
 「それはよかったです、あの場所は観光資源にならないかって、村長は言っているのですけど、遠くてね」
 「登山道を整備すれば、行きにくいところではないですよ」
 「産湯の水溜りはどのくらいでしたか」
 「そんなに大きくなかったですね、2メートルくらい、水が透き通っていて、プランクトンがたくさんいました」
 池の底の土の中に埋もれた目を思い出していた。幻想ではなかったのか、もしかすると、あれは自分の眼か。
 「あの森は意外と明るくてね、動物も多いんですよ」
 「ええ、ウサギがいました」
 「そうでしたか」
 増田さんは車を出した。
 窓から外を見ると、山々が夕日に照らされ、朝とは違った姿を見せている。
 「片目村あたりは、寒いくらいじゃなかったですか」
 「はい、だけど歩いた後だったので、涼しくて気持ちがいいくらいでした」
 「片目村の看板は残っていましたか」
 「ええ、だいぶ朽ちていましたけどありました、増田さんに丁寧に説明していただいたのでいい目安になりました、でも久しぶりの山登りで磁石がないと方角を見失いそうになりました」
 増田さんの家についた。
 「車を車庫に入れますので、上にあがっていてください、風呂も沸いています」
 そう言われて心一は車からおりた。
 鍵をかけてない玄関から心一が中にはいると三匹の猫がよってきた。三匹そろって心一を見上げたが、気がせいていた心一は猫を素通りして、洗面所にかけこんだ。サングラスをはずし鏡を見た。右目をあけると瞼が持ち上がり中が見えた。ぽかっと暗くなにもなかった。痛くもかゆくもない。
 人差し指を右の眼に入れて内側をさわった。柔らかい皮膚に覆われている。元々何もなかったような感じだ。
 増田さんが玄関にはいった音がした。
 心一はあわててザックの救急袋から眼帯をとりだした。医者の卵である心一は、山に行くときには、自分なりに救急ものをいれていた。山に行って虫が目に飛び込んだことがあって、そのときは虫の出す分泌物で目が飛び出すほど痛かった。それいらい眼帯もそなえている。
 増田さんが洗面所にきた。
 心一はうがいをすると、増田さんに場所をあけた。増田さんは心一を見て、
 「目にはいった虫が悪さしましたか」と手を洗いながら言った。
 「ええ、虫はすぐに取れたのですけど、今になって痛くなったものですから」
 「目薬ありますよ」
 「ありがとうございます、もっている目薬を差しました」
 増田さんは手をぬぐうと、
 「風呂わかしてありますから、つかってください、その間に食事の支度しておきますから」と台所にいった。
 「すみません」
 心一は二階にあがった。部屋でまた瞼の下に指を入れてみる。指先が顔の皮膚より柔らかな目の中に触れた。ぬるっとはしていないが、この柔らかさは、頬の内側を口の中から触った感触だ。目の中が指で触れられているのを感じている。初めての奇妙な感覚だ。
 だが片目であるのに周りを見ても二つの目で見ていたときとかわりがない。脳が経験をもとに情報の補償をしてしまっている。
 着替えをもって下に降りると、増田さんが「山歩きで疲れたでしょう、風呂の後のビールはうまいですよ」と台所から声をかけてくれた。
 「はい、お風呂おかりします」
 脱衣場の鏡で再び顔を映した。目を開けると右の瞼も持ち上がり、目の穴の中が見える。白ぽい皮膚粘膜のようなものに覆われている。指を入れると、触った感触が脳に伝わってくる。
 なにが起きたのか、医学を学んでいる心一には理解ができなかった。目が落ちるなどということは考えられない。
 風呂場に入り体を流し、木の桶の風呂につかった。子供のころ九州の実家にもこのような木の風呂があった。実家の医院はそのままだが閉めてある。父は新コロナにかかり死んでしまった。今は母と兄が住んでいて、県立病院勤めの兄がいずれ開業するだろう。
 風呂から出て、居間に行くと、「ビールどうぞ、風呂上りに」と、缶ビールが用意されていた。電気ガマからいい香りがしてくる。
 「はい、ありがとうございます」
 椅子にすわると、缶ビールのプルトップを引き一気に飲んだ。心一は酒に強い。
 うまい、だけど目のことがひっかかっていた。
 テーブルの上には、茸の煮物や野菜の炒め物、からつきピーナッツなどが並べてある。
 「茸いただきます」
 これまたおいしい。
 「わたしもね、この年になっても毎日ビールをかかさないんですよ、一日山を歩くと若くても疲れますよ、それじゃ」
 増田さんも椅子にすわって缶ビールを飲んだ。片目を意識しながら心一も喉に流し込んだ。目のことは憂鬱だがビールは旨かった。
 「おいしいです」
 「このビール、地ビールなんですよ、町の方では若い連中が地ビール屋を始めましてね、町おこしの一環でしょうね、といってもこのあたりまで影響はないですな、われわれでなにか考えなくちゃいけないんだが、何せ若者がいなくてね、片目村は客の呼び込みの目玉にはならんでしょうし」
 「茸狩りなんかいいんじゃじゃないですか」
 「茸がいいのはうちだけじゃないですからな、信州を走るJRの沿線のどこもが山と茸ですからね」
 「片目村の神滝と神池、気持ちのいいところでした」
 「そうでしょう、でも三時間歩かなければならんので」
 猫たちがそばによってきた。増田さんが茸の煮物をはしで摘まんで新聞の広告ビラの上に載せた。
 茸なんか食うのかなと見ていると、三匹の猫たちはくちゃくちゃとかんでいる。茸が好きなようだ。外国の猫がパンを食べているのをテレビで見たことがある。生まれた場所により猫の好みがちがうのは、人たちが食べるものに影響されているからだろう。
 「産湯の森の茸はずいぶん綺麗で、大きいのも多かったです」
 「あそこの茸はこのあたりと比べても大きさが違う、香野香村の茸だって、他のところより大きくて立派といわれているんですけどね、今日、役場の人が茸をくれまして、炊き込みごはんにしました。今頃は採れないコウタケという茸で、炊き込むといい香りがしますよ」
 さっきからなにの匂いかと思っていたものだ。増田さんがよそってくれた。
 「初めて食べる茸ご飯です、おいしいですね」
 「もらったコウタケはちょうどいい状態でしたからな、ちょっと古くなると堅くなっちまうんです」
 心一は気になっていたことを聞いた。
 「シゲさんは片目村に行ったことがあるのでしょうか」
 「シゲさんがあるとき急に片目村のことを言い出したそうなんです、まださほど年をとってない頃のことらしいんで、詳しいことは知らないんですけどね、おやじなんかは、シゲさんがあの森に行ってからああなったって言ってるんですね」
 「どういうことなんでしょう」
 増田さんは猫の頭をなでながら考えていたが、思い切った様子で言った。
 「産湯の森にいっておかしくなったんじゃないかって、シゲさんの連れ合いも言っていたそうです、茸取りに言っただけのようですけどね、でも子どもをきちんと育て上げたし、おかしな人ではなかったですよ、いろいろ話を聞きましたからね、ちゃんと道理は通っていましたよ」
 心一にはどういうことかわからなかった。
 「目元さんは元気に帰ってきたことだし、お話してもいいのでしょう、実はシゲさんはなくなったのじゃないんです、いなくなったのです、どこに行ったのかわかりません、片目村のことを研究者に話をしたりしてから数年後でしたでしょうかね、さらにだいぶたって家族から死亡証明書の要請があって、亡くなったことになっています。そういうことを知っている人もあまりいなくなりました」
 心一は森での出来事を思い出していた。
 「明日、何時頃お帰りになりますか」
 「午前中の電車に乗りたいと思っています、まだ切符は買っていませんが」
 「松本十二時頃の新宿行き特急がありますよ」
 「それに間に合うようにでます」
 「でしたら、9時のバスがいいでしょう、大糸線の駅に十時発の電車がありますよ、今日は疲れたでしょう先に休んでください」
 増田さんは食事が終わると、これから市役所のパンフレットの仕事をしてから風呂にはいるということだった。  
 心一は二階にもどり布団にはいった。今になって足が少しほてっている。指を右目に入れた。目がなくなったのは本当のことなんだ。不安な気持ちになったが疲れが勝っていた。すぐに眠ってしまった。

水溜りの夢

 三匹の片目の猫に連れられて産湯の水溜りにいくと、熊や鹿、栗鼠や鼬、狸たちが、水の中をのぞいている。
 なに見てんだい、と声をかけて水の中をみると、人間の目玉がふらふらと底に沈んでいく。
 俺の目じゃないか。心一は水の底に手を伸ばした。
 源五郎が目玉をつかもうとしている。
 「だめだ、それは俺のだよ」
 心一は池の中に入って自分の目玉を捕まえようとした。そのとたんすべって、上を向いたまま水の中に沈んでいった。
 からだをひっくり返し、下を向いて足をばたばたさせて追いかけると、目玉はくねって逃げるように底に沈んでいく。
 見上げると動物たちの顔がのぞいている。
 心一の目玉は水底の泥の上で、今にも泥の中にもぐりこむところだ。手を伸ばして掴もうとしたら、池の底がどんどん深くなっていく。目玉が水中に取り残され、ふわりふわりと揺れながら落ちていく。捕まえなければ。
 藻が絡みつかいてきた。からだじゅうに絡まり、心一は緑色になって目玉を追って手足をばたつかせた。
 戻ってくれえ、落ちていく自分の目玉をおった。池の底に小さな黒い穴が見える。ふと気がつくと、うじゃうじゃと浮遊生物が自分の周りに集まってきた。プランクトンたちは手や足、顔にまでぶつかってくる。ミジンコの一つ目が自分を見ている。ツボワムシが周りの毛を動かし、くるくる回りながらぶつかってくる。
 赤い目をした緑虫が目の前をよこぎった。
 落ちていく自分の片目がくるっと上をむいて自分を見た。
 バイバイ、目玉の声だ。
 池の底の黒い穴に俺の片目が吸い込まれていく。心一もプランクトンたちを掻き分けていった。思いっきり足をけって頭から黒い穴にもぐった。一瞬何も見えなくなったが、真っ黒なトンネルの中にいることがわかった。前のほうに心一の片目がゆらゆら揺れて漂っている。
 心一は寄ってくる原生動物や節足動物をかきわけ目玉を追いかける。目玉はくるくる回りながら光りはじめた。追いかけやすい。
 穴が広くなってきた。周りにいるツボワムシが心一の空いている片目の中に入ろうとする。だめだよ、手で押して遠ざけた。大きなミジンコが心一の足をつかまえた。離してくれよ、足をばたばたさせると、ミジンコはひょいと心一の足の裏を押した。おかげでからだが前に進み、自分の目玉が近づいてきた。
 穴が少しずつ広くなっていく。プランクトンたちは余裕ができてふわふわ漂いはじめた。
 先に赤い光が見える。
 出口のようだ。
 目玉が出口から出ていくのがみえた。
 心一はカエル泳ぎで出口まで進むと、外は明るい水のなかだった。アオミドロの塊が下のほうで揺れている。ツリガネムシの大群がアオミドロにくっついて、伸びたり縮んだりしている。目玉は水の底に沈んでいく。底では大きなミドリムシが赤い点を点滅させ、目玉を待っている。心一は追いつこうと手足をばたつかせた。
 とうとう心一の目玉はミドリムシのからだに吸い込まれた。目玉の入ったところに大きな穴が開いている。心一はそこからミドリムシの体のなかに飛び込んだ。
 ミドリムシのからだの中では葉緑体が浮いて緑色に光っている。
 中に入った片目がくるくる回りながらミドリムシの赤い点、眼点にぶつかった。赤い眼点が泳いでいく心一のほうにはじきとばされてきた。あっと、思ったときには、ぽっかり穴になった心一の片目の中にミドリムシの眼点が飛び込んできた。
 そのとたん、心一は池の中の動物たちの話し声が聞こえるようになった。
 「いい目になったね」
 ツボワムシが俺の片目をもったミドリムシに言っている。
 「いいだろう」
 「俺も欲しいなそんな目玉」
 朝の光がさしてきた。
 プランクトンたちが心一に向かって言った。
 「おはよう」
 心一は窓のカーテンからもれる光で目をさました。
 増田さんの家にいることを思い出した。右目の中に指を入れた。奥まで指が入った。本当に片目を落としたのだ。時計を見るともう七時をすぎている。
 心一は起きあがると、服に着替え眼帯をかけ、洗面道具をとりだした。下におりると、増田さんは猫たちとテレビを見ていた。
 「おはようございます」
 「あ、おはようございます、昨日は疲れたでしょうな、先に食べちまいました、すぐ用意しますから」
 「すみません」
 「昨日は満月だったようで、猫たちが一晩中どこかで遊んでおりましてね、朝帰ってきたんですわ」
 三匹の片目の猫たちが、心一にくっついて洗面所までやってきた。足下で心一を見上げた。顔を洗うのに眼帯をはずしたら、猫たちはそれを見て、三匹そろって洗面所から出て行ってしまった。片目がないことを確認したのか、心一はおかしな気分になって顔を洗った。
 「食事どうぞ、昨日と同じですみません」
 増田さんの声が聞こえる。急いで眼帯をつけ、居間に行くと三匹の猫は心一が座る座布団の周りにあつまっていた。
 「猫たちは目元さんが気にいっちまったようですな」
 増田さんが笑っている。
 「よく眠れましたか、疲れすぎると、眠れないことがありますけど」
 「いえ、よく寝ました、気持ちよく起きました」
 「目はいかがです」
 「まだごろごろする感じです、帰ったらすぐ見てもらいます」
 「それがいいですね、バスは九時八分ですから、ゆっくり召し上がって下さい」
 テーブルの上には白いご飯にのりと目玉焼きがあった。
 食事をすませ、帰り支度をした心一は宿泊の代金払おうとしたのだが、子供以外の人が家に泊まったのは何年ぶりになるかわからない、嬉しかったと言って受け取ろうとはしなかった。
 玄関に三匹の猫が見送りにでてきた。心一は三匹の猫が笑ったように見えた。
 「帰ったら、連絡します、お世話になりました」
 増田さんはバス停まで見送ってくれた。
 バスがでると、増田さんは香野香村役場に入っていった。
 「あの医学生は片目村から無事もどったのかね」
 副村長さんが増田さんに聞いた。
 「虫が入ったって、右眼に眼帯していたよ」
 「観光客がもっと来てくれればいいんだけんどね、シゲさんが片目村の伝説を言いふらしたから気味悪がってこないんじゃないか心配でね」
 「いや、逆に今の若い人は面白いとくるかもしれんですよ、目元さんみたいに」
 受付の女性はそういった。
 「いい青年だったな」
 「森も喜んだろうな」
 「森にいい人がきてくれないとこまるからな」
 「うん、産湯の水溜りのことを絵本にしようかと思っているんだ」
 「そりゃあいい、子どものときに見た絵本は、大人になってまで覚えているもんだからな、是非いい本描いてくださいね」
 副村長さんの声に送られて、増田さんは役場から家にもどっていった。

 電車の乗り換えもすべてうまくいき、心一は明るいうちにマンションについた。
 洗面所に行くと自分の顔を鏡にうつした。瞬きはいつものように両目同時におこる。だが右目はがらんどうだ。触れても痛くもなんともない。夢ではない。現実だ。昨日おこったことなのだ。
 心一は増田さんに電話を入れた。無事に家に戻ったことをお礼とともに伝えた。後で手紙を書くと言って電話をきった。住所は聞いてある。
 片目になったこと、どのように母と兄に知らせたらいいのだろうか。

義眼

 片目を失ったが結局医者にいかなかった。医者になろうとしている心一は眼の構造はよく知っている。常識からすると目が落ちるなどということはあり得ないことのはずだ。医者に説明するのも面倒だ。
 夏休みでも出席しなければならない臨床実習では、級友たちと顔を合わせると、山登りをして木の枝で右目をだめにしたと言った。同情こそしてくれたが、それ以上の詮索はうけなかった。
 産湯の森の水溜りをみつけたとき、茸が生えはじめ、まわりにいろいろな動物がきた幻影を見た。その続きを鹿野香村の増田さんの家でその夜に夢として見た。
 東京に戻ってきても毎日のように続きの夢をみる。夢に産湯の森の水溜りのところまで必ず三匹の黒猫と行く。水の中をのぞき、水の底にたまった枯れ葉の上にうごめいている生き物たちを見る。毎日あらわれる生き物が違った。次第に名前のわからない生き物になっていった。それは小さな小さな生き物たちで、丸い玉の周りを囲んで踊っていた。丸い玉は明らかに自分が落とした目玉だ。それを拾おうと水の中に入れた手を伸ばす、だがとどかない。すると必ず動物がやってくる。一昨日は穴熊だったが、一昨日はヒグマだった。どの動物も片目である。
 動物は心一のそばにくると、心一の残っている一つの目をくれという。いやだというと、からだがぐらぐらとゆれて水たまりの縁から落ちる寸前で目が覚める。
 自分の空っぽの目の瞼をめくってみると、穴を覆う粘膜は白い膜で、指で触るとしっとりと湿っている。夢のあとは少しばかり熱くなっている。
 目が覚めてからは夢のことは忘れ、忙しい医学生としての努力を惜しまずにやっていた。片目村に行く前よりも頭の中は充実していた。
 片目になっても不自由を感じない。しかし、希望していた眼科医には向かないのではないかという悩みが生じている。内科医になって、兄貴の心矢が継ぐことになる実家の医院を支えていくのもいいなどと考えるようになった。
 心一は消極的になっている自分が気になり、大学の眼科の教授に意見を求めることにした。
 水子が短期留学から帰ってきてどう言うかは全く気にしていなかった。彼女は何も言わないだろう。
 水子との出会いは去年、水子の大学の大学祭にいったときである。医大の友人にさそわれてでかけた。大学祭の立て看板に友人の好きな歌手の来場ポスターがあった。彼は聞きに行くとイベント会場に向かった。心一は友人とわかれ、生物系の発表会のポスターを見て、一人でその会場にいった。部屋の中はいくつかのブースに分かれ、研究成果の掲示や、標本の展示などがあった。原生動物ブースで、小学生に水溜りからとってきたアメーバやゾウリムシを顕微鏡で見せている女の子がいた。白衣を着たすっぴんのその子は小学生に熱心に説明をしていた。二人で同時にのぞけるディスカッション顕微鏡をつかっている。
 彼は冷かしで小学生の後にならび、自分の番がきたので顕微鏡を覗いた。彼女は彼のほうを見もしないで、「ほらほら、これがゾウリムシ、しょこしょはやいでしょ、こっちの動かないのはアメーバよ」と言って一人で笑っている。心一はなんだかほっと暖かくなった。
 「これはなに」
 心一が勝手に視野の中の矢印を動かして他の虫をさした。ディスカッション顕微鏡は両側から二人でのぞくことができ、光の矢印がでる。医学部では数人の学生がのぞくことのできる大きなマルティディスカッション顕微鏡を使うのでなれている。教員が数人の学生全員に見ているものを同時に説明することができる。
 「ツリガネムシよ」
 あれっと思った彼女が顔をあげて、「やだ、大人の人」と笑顔になった。
 心一が「原生動物の研究しているの」ときくと「ええ、どこの学部の人」と、彼女が聞き返した。心一は自分の大学の名前を言った。彼女は、
 「医大の人だったんだ、わたしそこおちたんだ」と笑った。
 彼女は「そろそろ、お休みにしよう」と周りに客がいないのを見て顕微鏡の電源をおとした。
 「生物学は僕もやりたいところだったな」
 「私は医学でも生物学でもどちらでもよかったけど、今は生物でよかったと思っている。だって医学部は人間が中心でしょ」
 生物を知るための細菌学や寄生虫学があるが、確かに人間のためになるような研究をすすめる。
 「この子等、水の中にたくさんいて、動きがそれはおもしろいのよ」
 原生動物たちをこの子等といっている。
 「どこかで、お茶のもうか、俺、目元心一」
 「いいわよ、私、神野水子」
 心一からさそって学園祭のコーヒーショップにいった。
 「へえ、お父さん神主さんなの」
 「うん、富山の山奥よ、神社に池があって、春になるとオタマジャクシやヤゴが池の中でうろうろして、夏になると糸トンボや蝶が飛ぶの。中学生のとき買ってもらった顕微鏡で池の水を見たら、ちっこい奴らがうじゃうじゃいるじゃない、それからのお付き合い」
 「そうなんだ、僕も海でプランクトンネットを引いたことがあるよ」
 一年の時、夏の研修会が海で行われ、生物学の先生に指導されて朝早く海にでたことがあった。
 「どうしてお医者さんになろうと思ったの」
 「うちが医者だし、人のからだには興味があったから」
 「お医者さんの家かあ、家はどこなの」
 「九州の八女」
 それがきっかけで、付き合うようになった。彼女は四年生で、同じ年の正直なよい子である。医学部は忙しいことを知っており、せっついて会おうとはしなかった。彼女も修士課程に受かっていて。卒業論文の作成で忙しく、どちらにもいいペースで付き合っていた。
 修士課程に入った水子は、今年、北欧の湖水の原生動物を調べるために、ベルゲン大学に短期留学している。そこを起点にしたノルウェー、フィンランド、スエーデンでの調査である。心一が毎日見る産湯の水たまりのプランクトンの夢は水子に会いたいとおもっているからかもしれない。
 あいつが帰ってくる前に義眼をいれよう。それを含めて眼科の教授に相談したほうがいいだろう。
 夏休みでも大学病院は休みなくやっている。病棟では教授の回診もあるし、週一度は教授が担当する外来がある。
 教授の診察日に見てもらえることになったのは八月半ばのことである。その前に検査室で、眼の詳細な検査を受けた。残っている右目は視力1・5としごく正常で、レントゲンの結果を自分でも見たが、なくなった右の眼窩そのものにはどこも悪いところがなかった。
 結果をもって診察室に入った。教授は五十になったばかりの若い人だ。眼の手術では日本で五指にはいるほど著名な先生だ。ともかく手術は的確ではやい。一方で説明は丁寧で、温厚な先生だと患者の人気は高い。
 「木の枝で目をだめにしたっていう話だね、ちょっとみせて」
 教授は心一の瞼を持ち上げ表情を変えた。
 「君、木の枝でついたのではないね、いつどうして眼をなくしたんだ」
 この教授には偽りをいっても通じないと覚悟を決めて、本当のことを話した。
 「夏にいった信州の山奥で、池の水をのぞいたときにこうなったというわけかい、眼が落ちたと思っているわけだね」
 教授は明らかに疑っていた。
 「眼窩の表面が粘膜で覆われているけど、こうなるには時間が必要だな、数ヶ月、いやもっとかかるだろうし、それよりも、眼窩の奥の視神経の通り道までふさがれてしまっている、こんなふうに粘膜上皮組織が覆うということがあるんだな、はじめてみたよ、どこかの眼科で処置をしたんじゃないのかい」
 心一は本当のことをいったのだが、わかってもらえないのはしかたないと思っていた。
 「すみません、はい、家の近くの眼科で摘出手術をしました、一年経ちます、それで、義眼をつくりたいのでご相談したくて」と少しばかり嘘を言った。
 「そうだろうね、でも一年間、大変だったのじゃないかい、それにしてもきれいに回復している、見てもらった医者は義眼をすすめなかったのかい」
 「勧められました、でも田舎なので、東京の方がいいと思いました、それで今年中にと思って、先生に見ていただきました」
 何とかごまかした。
 「義眼をつくりたいのと、もう一つあります、眼科にすすみたかったのですが、どの領域の医者になるのがいいか先生とお話がしたかったのです」
 「そうだったのか、義眼はいいところを紹介できるよ、片目だからどの医者になりにくいということはないよ、本人次第だ、医者はどの領域にしても眼を使うよ、患者の状態をみぬくのは片目だとできないということはないよ、カルテを見ると、君は左が利き目のようだしね」
 教授はそう言ってくれた。
 その数日後、心一は母親に片目を悪くして、教授に見てもらったことを言った。だけど問題ないこともいった。来年の国家試験のこともあるので、今年は帰らないと言った。
 それから半月後、義眼ができあがった。病院出入りの一つの店で、最近の写真を元に作ってもらった。鏡を見た心一は自分の顔に違和感がなく安堵した。義眼の店の技術者は「目元さんの右目の瞼が、義眼にしてもほとんど変わりがなく動いてますね、いいですね」とほめられた。
 義眼は丸いガラスでできているものではない。眼の球体を構成している主なものは硝子体という生体組織であり、それがあったところに、シリコンやヒドロキシアパタイトなどでできている義眼台というものを入れる。その表面に、いわゆる瞳や白目の部分のある義眼をつける。それが個人の目となる。だから義眼はコンタクトレンズの厚いようなもので、義眼台の表面にくっつけたようなものと考えればいいわけだ。
 面倒なのは、義眼を毎日はずして洗わなければならない。手先を消毒して行わなければならないのはもちろんだが、はずした義眼をコンタクトレンズ用の洗浄液で洗う。その後水洗いをしてはめ込む。寝るときも入れたままである。はじめは下を向いたとき落さないかと心配になったが、そういうことはなかった。しかし、いつでも眼帯をもっていて、不意の出来事に備えている。そういった厄介なことはあるにせよ、心一はすぐにその生活になれた。
 不思議なことに、心一は片目になっても遠近感に今までと違いを感じなかった。元来の勘の良さ、言い換えれば脳の機能がいいのだろう。義眼をいれたあと、いつのまにか産湯の池の夢をみなくなった。
 義眼にもなれた九月の半ばにショートメールがはいった。九月二十八日に帰国、今ベルゲン、とあった。水子からだ。





北欧の森

 水子は帰国して数日後に心一のマンションにきた。
 心一がドアを開けると、水子はただいまと少し陽に焼けた顔に笑窪を寄せて心一を見た。一瞬、あれ、と言う顔をした。
 「右目どうしたの」
 義眼は動かない。
 「ごめん」
 心一は水子の手を取るとソファーまで引っ張っていった。
 水子が心一の目を見つめている。人差し指を伸ばすと心一の右目の瞼の上に軽くふれた。
 「硬い、義眼?」
 水子は心一の目を見つめたままだ。
 心一はうなずいた。
 「よくわかったね」
 こんなに早く気づかれるとは思っていなかった。
 「怪我したの」
 心一は鹿野香村に行ったこと、片目村のこと、産湯の森の水溜りのこと、幻影を見たことすべて話した。水子の肩が緩やかになった。
 「眼が落ちるなんてことあるかしら」
 そう言いながら今度は心一の右の瞼を指で持ち上げ、人差し指の先で柔らかく義眼に触れた。
 「冷たくないのね」
 「体温で温まってるんだよ、いや心が暖かいからな」
 水子が笑顔になった。
 「一隻眼ね」
 「なに、それ」
 「独眼、真実を見抜く目よ」
 そうか、心一はうなずいた。やっぱり水子はかわらない。
 「うちの神社は医薬神社の系列で、富山の人たちが、病気回復や健康のためにお参りにくるよ、八條天神社、お父さん薬剤師の資格も持っているから、漢方だけどほしい人には作ってあげてる、目にもいいのよ、きてみない」
 「そうなんだ、俺もおまいりにいったほうがいいな」
 「うん、いらっしゃいよ」
 「そうするよ、研究の方はどうだった」
 「楽しかった、研究者たちがみんないい人、原生動物もみんないい子、知らない子がたくさんいた」
 「よかったな、俺も北欧には行ってみたいな」
 「心一がお医者さんになったらね」
 「そうだな、あと一年がんばるさ」
 「ベルゲンで変なもの買ってきちゃった、心ちゃん気にするかな」
 「なんだい」
 「ノルウェーはトロールの国なの、至る所でトロール人形売っているの、おみやげにいくつも買ってきたんだけど、心ちゃんには特に大きいの買っちゃった、私が一番気に入った奴」
 「それで何で俺が気にするんだ、熊のようなやつか」
 彼女は笑って首を横に振った。
 「まあ、心ちゃん大丈夫だよね」
 バックから袋を取り出すと、中身を心一の方に突き出した。
 大きなトロール人形だ。鼻がつんと高くて、髪がぼさぼさで、しかも、
 「目玉一つか」
 「そう、北欧の森にはこういう子たちが住んでるの」
 心一が人形の鼻の先を指でつついた。
 「医者の国家試験、眼が悪くても受けられるでしょ、片目で一生懸命見た方が、患者さんの病気がよく見えるよ」
 心一はうなずいてまた笑った。心一は眼を落としてから産湯の森の夢をよく見るようになったことを話した。
 「夢の中でそばによってくる動物がみんな片目なんだ」
 水子が真剣な顔になった。
 「水の中の小さな子供たち、ミジンコたちやミドリムシ、ツボワムシ、あの子たち、みんな目が一つだったり、光しか感じない目だったりするのよ、だから、二つ目を持っていると一つほしがるのよ」
 水子らしい。
 「子供の頃から、うちの神社の池のミジンコたちと話をしていたら、ミドリムシとツボワムシが特にほしがっているって言ってたわ」
 空想力が豊かだ。水子は文学部で小説でも書いていたほうがよかったんじゃないか、と言いそうになったがやめた。こういう子の方が科学者としてはいいのかもしれない。
 「やっぱり、水子の神社に、早くいった方がいいかもしれないね」
 「うん、もうすぐ北欧のみやげをとどけるつもり、いっしょにいく」
 「連休なら一緒にいけるけどね」
 10月13日の月曜日はスポーツの日で三連休だ。
 「これから北欧のデーターをまとめるの、ノルウェーの人たちとやりとりしなければいけないわ、それまでにその仕事片付けるから」
 「どうやっていく」
 「北陸新幹線で富山から高山本線だけど、富山飛行場から近いわよ」
 「飛行機、金がかかるな」
 「格安とれば電車とあまりかわんないよ」
 「でも電車がいいな」
 その日、おおよその計画を立ててしまった。


八條天神社

 十月の連休になった。十時過ぎ、東京駅で待ち合わせた心一と水子は北陸新幹線ハクタカの指定車両に乗った。富山には二時間半でつく。水子と一緒の遠出は初めてである。
 水子は両親に片目を悪くした医大生と一緒に帰ることを伝えた。ボーイフレンドだということも、彼の眼の祈願をしたいことも言った。
 心一にとって富山は初めてである。山登りのサークルで信州や甲州はなじみが深いが北陸の方に行く機会がなかった。金沢なども行ってみたいところでもある。
 「お弁当買っておいたわよ」
 荷物を棚の上に載せながら、紙の手提げを足下においた。
 「サンキュウ、切符はいくらだった、後で払うよ」
 今回の旅行は水子に乗車券などをすべて任せてしまった。
 「新幹線も格安早割チケットを買ったわよ、一人往復で13000円」
 水子の八條天神社は富山から高山本線に乗り換えて、楡原駅からタクシーで海とは反対のほうに行く。
 「ずいぶん安いんだ、後で精算するね、お賽銭もたくさんいれるよ」
 「お賽銭は5円でいいわよ、うちの神社は不便なところにあるのに人気があるの、神通峡や有峰湖などの観光地が近いので、ついでに車で神社による人も多いのよ、病がよく治るって噂がたってるの」
 「それじゃなおさらたくさん入れなくちゃ」
 「神さまはお賽銭に関係なくみんなをよくしてくれるものよ」
 「水子の八條天神社はどんな病気にも効くのか」 
 「もちろんよ、上野に五條天神社があるけど、その系列、五條天神社は小彦名(すくなびこなの)命(みこと)と大己(おおな)貴(むちの)命(みこと)を祀ってるわね、うちの神社はさらに、もう三人神様がいるわ、国(くに)常(のそこ)立(た)尊(ち)、須佐之男(すさのおの)命(みこと)、天児(あまのこ)屋根(やねの)命(みこと)、この神様たち目鼻耳に関係があるみたい」
 「そういえば、水子は風邪もあまりひかないね」
 「うん、水の中の子たちが細菌やウイルスに近づくなって言ってくれてるのよ」
 水子は笑った。
 富山駅で高山本線に乗り換えた。一時間に一本しかないのだが接続がよかった。高山本線は富山から山の方にいき岐阜の飛騨までいく。楡原はそのあたりとしては大きな町である。
 三十分ほど電車に揺られ楡原駅の山の上のほうにあるホームに降り立った二人は、屋根付き階段を下り、下の駅舎に向かった。
 「かわいい駅舎だな」心一がつぶやいた。
 「最近こんな簡易駅ができたのよ、昔の古びた駅もよかったわ」
 タクシー乗り場には二台タクシーが待っていた。
 水子の八條天神社は割山森林公園の天湖森にいく道の途中にあった。
 神社に登る石段の下でタクシーを降りると神社の屋根が見える。
 二人で石段を登っていくと、本殿が見えてきた。さほど大きくはないが、歴史を感じさせる落ち着いたたたずまいの建物だ。境内はとても広い、高い樹木にかこまれた、手入れのよく行き届いた気持ちのいい場所である。
 心一は産湯の森の匂いをかいだ。あのときの光と匂いだ。産湯の森も神の宿るところなのだ。
 境内の神社の脇にかなり大きな池がある。
 「いいところだね」
 「うん、ここで育ったのよ」
 住まいは神社の脇にあった。
 水子がただいまと玄関を開けると、中から「お帰り」と声が聞こえ、玄関には背の高いジーパン姿の髭をきれいに生やした父親が立っていた。心一も185センチと背は低くない。同じくらいありそうだ。年を考えると相当背が高い。奥から母親があわてて出てきた。どちらかというと小柄だ。父親は神野亮、母親は星美ときいている。二人とも笑顔で心一をみた。
 「水子がお世話になっています」
 両親が心一に向かっておじぎをした。
 「はじめまして、目元心一です、よろしくお願いします」
 玄関からあがると、「こっちよ」水子に案内されて部屋にはいった。床の間には大きな万年茸が飾られている。
 父親が座布団をすすめてくれた。
 「水子からきいています、医学部五年となるとお忙しいでしょう」
 「ええ、臨床の実習があって、でもやっと医者の雰囲気がわかってきました」
 「なにのお医者さんになるのですか」
 「眼科に入りたかったのですけど、片目になってしまったので、実家の医院を手伝うことになると思いますし、日本人には患者の多い、腎臓内科医になるのもいいと思っているところです」
 「目のことは水子から電話で聞いています、木の枝で目をついたということで、大変でしたね」
 「はい、信州の鹿野香村から、片目村というところにいったときです、片目の一族が住んでいたという伝説の場所です、産湯の森という綺麗な森の中で目を怪我しました」
 「おや、鹿野香村」
 神野亮は知っているという顔をした。
 そこに水子が母親とお茶を運んできた。母親が
 いい日にいらっしゃった、今日は大開運日ですよ」
 母親は色白で大きな眼をしたどちらかと言うと小柄な女性だ。
 お茶を心一の前においた。
 「あら、そうなの」水子が聞き返した。
 「そうですよ、天赦(てんしゃ)日(にち)と一粒万倍日が重なった日ですよ」
 「なんなの、それ」
 「天赦日はすべての罪を許してもらえる日、一粒万倍日とは一粒のモミが何万倍にもなって帰ってくる日よ」
 「いや、母さんがこのごろ占星術にこりはじめましてね、まあ、ぼけ防止にはいいと思って、勝手にやらせています」
 父親が笑って説明を加えた。よく笑う両親だ。ふたりとも穏やかで暖かそうだ。心一はちょっと気がゆるんだ。それよりも鹿野香村をなぜ知っているんだろう。
 「鹿野香村には行かれたことがあるのですか」
 「うちの祖先が鹿野香村のでなのよ」
 母親が言った。それにはびっくりした。
 「え、私、母さん祖先は長野のアルプスのふもととしか聞いてない」
 水子も驚いている。
 「そうだね、おまえは生物に夢中で、この神社の由来だって興味を持っていなかったよ」
 父親にそういわれて水子はうなずいた。
 「祖先の方は鹿野香村の神主さんだったのですか」
 心一は香野香村のことを知りたかった。
 「ちがうの、ここに移ってきてから神主になったようよ、この神社はとても古いもので、何度も建て替えています、明治の終わりごろのもの、百年すぎているわね」
 「片目村のことはよくご存じなわけですね」
 「いいえ知らないわ、鹿野香村にもまだいったことがありませんの」
 母親の星美は首を横に振った。
 それからは父親の亮が話しはじめた。
 「私は富山の街中で育ちましたが、薬大をでてから、東京の大学病院の薬局で働いていました、しばらくして父親の知り合いで、薬局をやっていた人が亡くなって、奥さんが薬剤師を捜しているので、戻ってこないかって父にいわれましてね、それで将来はその薬局をつぐつもりで富山に戻りました、だけど、ほら、大きなチェーン薬局が近くにできて、あがったりだったんです。
 そのころですね、薬局の奥さんが、知り合いの娘さんとの縁談を私にもってきましてね、それがこいつなんです、神社の娘、私らの結婚がきまって薬屋は廃業しました。薬屋の奥さんの私に対する心配りだったのだと思います。
 私は婿になったのはいいが、神社のことはなにも知らなかったんです、家内は父親の神主の手伝いで、巫女さんをやってました。
 私の父親は土木事務所に勤めていて、この神社の信者でもありましたし、私には兄が二人いましたので、婿に行くことは大賛成でした。
 結婚してこの神社にきてから、家内の両親に神官学校にいくようにすすめられました、神官の養成所というところが全国にいくつかあります、京都の養成所を選びました。そこで家内としばらく暮らしました。費用は両親が持ってくれましたが、私も京都の薬のチェーン店でアルバイトをしました。家内の両親がしばらく二人で暮らすように計らってくれたのだと思っています。水子はそこでできた娘でした」
 「京都はよかったわよ、いろんなところ見て回った、今でも一年に一度は遊びに行きます」
 水子の母親は今でも京都にあこがれているようだ。
 「神主さんになるのは大変なのでしょうね」
 「神職コースのある大学にはいるか、神職養成所にいくか、いくつか選択できます、私は父親のはからいで神職養成所に2年いきました」
 「お父さんは、明階なの、神職としては上から二番目よ」
 父親は「ははは、あまり意味ないよ」と笑って話を続けた。
 「それで神職を得てもどってから、この神社について知ろうと思って神社内にあった書物を調べたのです、そうしたら香野香村について書いたものを見つけたのです。その書付はとても古く、この神社の歴史を知ろうと思って読み解きました。日吉神主の人や大学の歴史の教授に教わりながら読みました」
 「それに片目村のことが書いてあるのですか」
 「いや、片目村という言葉は出てきませんね、心一さんが目を悪くしたという産湯の森だと思われる森のことはかなり詳しくのっていました」
 「鹿野香村の歴史書ということですか」
 「そうです、私もまだいったことはないのですが、香野香村は江戸時代よりもっと昔、室町の後、戦乱の世の中でそれなりの役割を持った人間が集まっていたところのようです、特に選りすぐりの薬師たちがあつまって薬を作っていたとありました、毒です、戦などに使うためだったのでしょう、あとでその書もおみせしますよ」
 「水子、心一さんを泊まるお部屋にお連れしてちょうだい、ゆっくりしてください、夕食ができたらお呼びしますから」
 母親に促されて、水子に案内されて泊まる部屋にいった。神社の行事の時に係りの人などが泊まる部屋がいくつもあって空いている。その一つの部屋があてがわれた。風呂場にも近い。
 「驚いたわね、心一さんが目をなくしたところと、うちの神社が関係していたのね」
 「うん、驚いた、向こうで世話になった増田さんの話だと、鹿野香村のことも書いたものが残っていないようだったけど、富山の奥で出会うとは思っていなかったな、しかも水子の家で」
 「ほんとう、不思議ね、だけどね、富山のこのあたり、岐阜にも近いけど、大きな山を越せば信州にも近いのよ、だから信州の鹿野香村から富山に人が移ってきてもおかしくないのよ」
 「逆もあるかもしれないね、富山は薬の町だから、最初にここの人が鹿野香村に移ったのかもしれないよ」
 「そうね、心一さん、先にお風呂はいったら、私お母さんの手伝いするから、明日の朝、境内の池をみせるわね」
 「うん、それじゃそうする」
 心一は水子に教わって風呂場に行った。
 昔ながらの五右衛門風呂だった。風呂から出ると夕食の支度がととのっていた。テーブルには魚料理と茸料理が並んでいる。
 「富山の港の方にいる信者さんが届けてくれたんだって海のものを」
 ホタル烏賊と魚の煮付けがあった。
 「ノドグロよ、おいしいのよ」
 心一も知っていた。
 父親が「風呂上がりに、ビールどうです」とすすめてきた。「これも富山の地ビールでして」
 ぐっとのんだ。
 「おいしいですね」
 「この茸は周りでとれたものですよ、うまいですよ」
 ホイル焼きのきのこや煮付けがあった。鹿野香村でも増田さんの家で茸をずいぶん食べた。鹿野香村には海がないが山のものはこことよく似ている。
 「水子にはうちで巫女さんになってもらうつもりでしたけどね、ミジンコの博士をめざすとは思っていませんでしたな」
 神主の父親は笑った。その顔はまんざらでもなさそうだ。
 「ミジンコじゃなくて、専門は原生動物よ」
 「水子は巫女の感覚をもっているんだよ」
 「巫女の感覚って何なの」
 「神を感じることができるようだからな、水の中の生き物と話ができるのはそのせいだよ」
 父親に言われて、水子はビールを一気に飲み干した。水子も酒は強い。母親の星美は飲めないようだ。
 「香野香村にいった富山の薬師の連中は、元々すんでいた村人を指図し、毒の草を畑に植えさせ、毒をつくらせていたのです。毒は京の都からも買い手がくるほどよく利くものだったようです。公家たちの陰謀にもちいられたのでしょう、それがだんだんと戦の道具になります。戦国時代に突入してからは、吹き矢や矢の先に塗り、相手を苦しませて殺す道具になり、武将の館でも公家と同じように、毒のもてなしで人を殺していました。
 香野香村はある意味では潤っていたのです。薬師たちは新しい毒をみつけるため、山でめずらしい毒茸をさがし、毒の改良を行いました。毒ばかりでなく、眠り薬、堕胎の薬、病気にさせてしまう薬、様々なものを作っていたようです。もちろん毒を消す薬もつくっていました。解毒剤です。
 新しい薬ができると、村人たちで試したのです、村人はモルモットにされたのです。知らない間に毒の薬を飲まされ、解毒剤の効き具合などを調べたり、病にさせられ熱がでた者に、試したい解熱剤を与えたりしていたわけです。そういった毒の中には、目が溶けてしまうものがあり、その利き具合を調べたことも書かれていました。ためされ、からだが不具になった村人は村から追い出されました。中には森に捨てられたとも書かれています、この神社に拾われた家内の祖先は、そういった境遇から逃げ出した人だったようです」
 心一ははっと思った。
 「そういった村人が、逃げ出して、山を越えた産湯の森の近くに片目村をつくったのかもしれない」
 「そうかもしれません、生き延びた村人たちが、生活のできる場所を見つけたわけですね」
 「僕がいったところは、滝もあり、大きな滝壺にはきれいな水があって、魚も泳いでいました、産湯の森には、茸もたくさんある、住みやすいところだったかもしれません、あんな山奥に縄文人のすんでいた跡があるのですから」
 「そうですか、縄文時代に人がいたということはすみやすかったのでしょうね」
 父親がうなずいた。
 心一には山奥に人々が部落を作ったわけがわかったような気がした。
 夕食後、戦国時代の鹿野香村のことを記した古文書をみせてもらった。三冊もあった。開いても心一には読みとれなかった。
 「私の祖先は、ひどい目に遭わされた鹿野香村の村人の一人だったのよ、何人かで山を越えて逃げてきての、ここまでこられたのは一人か二人、それが、この神社に拾われたわけ、その一人が神社の娘と一緒になり、字を覚え、神の道に入り、神社をついだのだとおもっているわ」
 母親の星野が言った。父親もうなずいている。
 「これらの本はその神主だった家内の祖先が書いたものだと思っています」
 水子も驚いた顔をした。
 「水子にも話していない、もし巫女さんになっていたら話していただろうね」
 父親はそう言った。
 「鹿野香村に昔からすんでいた人も犠牲者だったわけですね、片目村をつくった人たちは片目ではなくて、体に障害を持った人たちだったわけですね」
 「そうだねえ、彼らが自分の村をなんと呼んでいたかわからないけどね、片目村というのは、鹿野香村の当時の連中がつけたのかもしれませんね、自分たちでそんな名前を付けるわけがない」
 「その人たちはあの豊かな森を大事にしたのでしょうね、行ってみたいな」
 水子は森の産湯の水溜りのプランクトンたちに会いたいのだろう。
 「そうだと思う、きれいな森だった、水の中もきれいだし」
 「春になったら、産湯の森の水の中の小さな子たちを観察したいな、北欧の森の水の中の生き物と比較すると面白いかもしれないじゃない」
 「うん、いくとしたら、三月じゃまだ雪があるだろうから、四月かな」
 「でも来年心一さんは国家試験の準備ね」
 「四月じゃまだ大丈夫だよ」
 「私らも言ってみたいとは思いますが、行くのは大変なんでしょ」
 「そうですね、鹿野香村には駅からバスが一時間に一本ほどしかないし、香野香村から片目村のあったところまでは、かなりの山道を三時間ほど歩かなければなりません」
 母親はそれを聞いて、「私はだめ、水子行ってらっしゃい、話を聞きかせて」
 「いっといでよ」
 父親も水子に片目村に行くことをすすめた。

 明くる朝、水子とともに神社の池をのぞいた。
 かなり大きな池のほとりに生えている草に赤とんぼが止まっている。アメンボが水面でぽっかり浮いていたが、二人が見るとすいーと離れていった。
 「ほら、ミジンコが動いている」
 よく見ればミジンコばかりではなく、粉のようなものが水底近くで動いている。顕微鏡で見ればプランクトンの仲間のだろう。産湯の水溜りで見た光景だ。
 「プランクトンってなんだか知っているでしょ」
 水子に聞かれて心一はうなずいた。浮遊生物ということで、水の中で浮いて生活をしている生き物すべてをくくる言葉だ。ミジンコは甲殻類でカニエビのなかま。カニやエビの卵からかえった子供たちもプランクトンだ。ミドリムシは原生動物、魚の卵からかえったばかりの子供だってプランクトンだ、あの大きなクラゲもマンボウだって、海の中を浮遊している生き物だからプランクトンだ。水の中で差別なく生きている。
 「あのアオミドロだってプランクトンよ、植物プランクトン」
 「そうか、植物でもプランクトンなんだ」
 「水の中ではみんな楽しそうに生きている」
 自分の片目は産湯の森の水溜りでプランクトンの仲間になったのだ。
 八條天神社の境内を歩いていたら、産湯の森を歩いている気分になった。
 「産湯の森ってこんな感じだったな」
 「私もはやく行って見たいな」
 連休を八條天神社ですごした二人は夜遅く東京に着いた。

 その後、二人は学業と研究に追われ、あっという間に次の年になってしまった。
 心一は鹿野香村の増田さんに、春になったら彼女と一緒にいくことを賀状に書いた。増田さんのスマホのショートメールには、四月では高い山には雪がまだ残っていて、産湯の森のあたりも寒いだろうが、初春のきれいな頃だとあった。


産湯の森

 心一は五年のおわりに大学で行われる試験にパスし、医師の国家試験を受ける資格をもらった。それにより無事医大六年生になった。国家試験の最終準備も怠りなく始めた。
 「心ちゃんやっぱり眼科はあきらめたの」
 「うん内科系か小児科だよ、九州で兄貴を手伝おうかと思ったけど、いつか独立してもいいな」
 「内科って一番大変なところだとおもうな、でも心ちゃん勘がいいから向いてるかもね」
 「兄貴も内科だからね」
 「片目村には行くでしょ」 
 「もちろん、増田さんも来てくれって言っているんだ、だけど、鹿野香村は宿がないんだよ」
 「電車の駅の近くにはあるでしょ」
 「あるけど、村に行くバスが少なくて、朝早くにはないんだ、片目村の森には朝早く行ったほうがいいから、鹿野香村で一泊するのがいいんだけどね」
 「駅のホテルに泊まって、朝早くに山の入口までタクシーで行けばいいわよ、帰りも迎えにきてもらえばいいじゃない」
 「うんそうしよう、帰りは増田さんにたのむよ、駅前に一つ旅館があるよ」
 「私が予約入れておくね」
 予定通り四月の連休に鹿野香村にいくことにした。
 心一は増田さんに水子と片目村に行くことを伝え、朝早く登り口まで直接タクシーで行って、帰りに鹿野香村に寄りたいので、迎えに来てほしいことを電話で言った。増田さんはたいそう喜んで迎えにきてくれることになった。

 その日、二人そろって東京をでて予定通り宿で一泊した。
 翌朝、タクシーで片目村へ向かった。心一はタクシーの中で増田さんにもらった地図を広げ、片目村までの道筋を水子に説明した。水子も自分の信越地方の地図を広げた。
 「あら、やっぱりうちは近いわね」
 心一も水子の地図を見た。広範囲の地図だから全体を見ることができる。
 「ほら、ここがうちのあるとこよ」
 水子が指差したところは確かに片目村のあるところから地図上では近い。だが、いくつもの険しい山があることから行き来はたやすいことではない。
 「お母さんの祖先はやっぱり片目村からきたのかもしれないわね」
 「そうだね、香野香村から片目村に逃げて、それから山を越してきたのかもね」
 タクシーが片目村に向かう場所についた。バスよりずっと早い。去年増田さんがハイエースで送ってくれたところだ。あのときは久しぶりの山登りで少し緊張していた。今回は水子が一緒だ。片目になったが気持ちが楽だ。しかも今回も天気に恵まれた。
 「産湯の水溜りには心ちゃんの落ちた目玉まだあるかな」
 心一は笑った。
 去年通ったところなので心一には見覚えのる景色で歩くのは楽だった。水子は本人が言うとおり足は相当強そうだ。周りの景色を見ながら心一の前をさっさと歩く。
 「山歩き強いんだね」
 「原生動物を採るために山にもよくいくのよ、北欧じゃ氷の湖をソリ引いて一キロくらい歩いて、穴を開けて底の水と泥を取ったり、重労働してきたんだから」
 「急がなくていいよ」
 「大丈夫よ、産湯の水溜りに早く行きたいもん」
 二つの山を通り最後の神南山から神川の川岸におりた。水子が一緒でも二時間ちょっとでついた。赤い紐のついた木をみつけた。
 「ほら、去年きたときにも、ここに降りたんだ」
 「この赤いひも、心チャンがつけたんだ、帰りにはずさなかったの」
 「うん、はずしたほうがいいんだけど、頭がぼーっとなっていたんだな、忘れてたんだ」
 心一は水子の手を引いて石づたいに神川をわたった。
 「ここが片目村のあったところね」
 去年きた真夏と違って草の丈は短く見通しがいい。水子が遠くを指差した。
 「あれが産湯の森ね」
 産湯の森が去年より明るく黄緑色に輝いて見える。
 「きれいなところね、このあたりだけ高い山に囲まれていて、守られているみたい、片目村って本当に住みやすそうね、川もきれい」 
 片目村は回りから見ると低い台地だが、標高六百メートルほどの高さになる。
 「ここに住んでいると、産湯の森の中が避難場所ね」
 確かに大雨でこの谷川の水があふれたようなときには、森の中に逃げ込んだのかもしれない。大雪のときもそうだ。
 出雲大社は、その昔、大社の後の山そのものが信仰の対象だったと聞いたことがある。昔の人たちは山ばかりでなく海だったり、石だったり、自然にあるものが神の宿るものだった。この森も神がいる場所、森そのものが神だったのかもしれない。
 部落跡の看板まできた。
 「帰りも看板が目印だよ」
 産湯の森につくと赤い紐を巻いた木を水子がみつけた。
 「ここにもとり忘れたのがあるよ、ここから入ったんだね」
 心一は去年歩いたところを思い出していた。北に歩いていき段差のあるところの手前で産湯の水溜りをみつけた。そこまで迷わずにいくことができそうだ。
 「きれいな森ね」
 森の中に光が射し込み明るい。淡い緑の中に新しく芽吹いた羊歯がゼンマイのように茶色くまるまって顔を出している。茸も生えている
 「なんだか、香りがほかのところと違うわ」
 水子は心一が感じたことと同じことを言った。
 「産湯の水溜りまでどのくらい」
 「歩いて三十分はかからない、二十分くらいかな」
 「心ちゃんの目玉きっとあるよ」
 彼女は心一の前をきょろきょろしながら歩いていく。
 大きな木の上には栗鼠か鳥がいるようだ、ときどきかさかさと枝が動く。
 「春なのにいろんな茸があるわね」
 富山の神社の境内にも茸はたくさん生えるが、春は網傘茸くらいである。
 「私の知らない茸がいっぱいね」
 しばらく歩くと草に囲まれた湿地があった。一段高くなっている場所の手前だ。産湯の水溜りのあったところのようだ。去年見たものより広いようだが水はなかった。
 「これだと思うけど水が溜まってないね」
 「この泥の中に心ちゃんの片目が埋まっているかもね」
 水子はかがんで腕を伸ばし人差し指を泥にさしこんだ。
 「土がずいぶん湿っているわ」
 水子が指を抜くと、その穴から水が噴き出してきた。
 「あれ、水がでてきた」
 透き通った水が湧き出て泥底を覆っていく。みる間に水溜りができた。
 陽の光がいきなり射してきた。
 「わたし水溜りつくちゃった、これも産湯の水溜りかなあ」
 水溜りの底の泥から粉がわきでてきた。動いている。
 「イタチ虫かしら」
 心一も目をこらした。
 「なにイタチ虫って、原生動物なの」
 「ううん、れっきとした多細胞生物、どこにでもいるのよ、だけどこんなに急にあらわれるなんてすごい」
 アオミドロも湧き出した、そこからもう少し大きい白い粒が水の中に散った。上にいったり下にいったりしはじめた。
 「ミジンコよ、ずいぶんたくさんね、どんな生き物がわきだしたのか顕微鏡で見てみたいな、後で水をとっていこう、原生動物がうようよいるはずよ」
 原生動物、そうか、一つの細胞でできた生き物だ。
 「ミドリムシ、ゾウリムシ、アメーバ、ボルボックス、いっぱいいるはずよ」
 池の中には緑色のものが浮いてきた。
 「心チャンの目玉がでてこないかな」
 水子は水の底を見つめている。
 「まさか、もう溶けちゃっただろう」
 底の泥から大きな空気の泡が一つ吹き出した。大きくなって水面にくるとぱちんと消えた。
 「あ、なにあれ」
 水子が指さした。泡がでたあとの泥の表面に丸いものが現れた。
 心一の左目が引きつれた。そんなことあるはずがない。
 「お、俺の目みたいだ」
 池の底の目が水子を見た。
 「本当よ、心ちゃんの目よ、私を見てる」
 目がきょろっと動いた。
 そのとき、上からポチャンとなにかが水面に落ちた。それはゆらゆらと水底にしずみ、心一の目玉によりそうように土の中にうもれた。
 心一はぎくっとした。あのときのようだ。
 二つの目が水子をみている。
 「目が増えた」
 水子が顔を心一のほうにむけた。
 左目がぽっかりと黒い穴になっていた。
 「やっぱり、水子、水子の左目」
 水子は立ち上がって目を触った。
 「私の左目が落ちたのね」
 水子の左目はがらんどうだった。
 水底の心一の片目と水子の片目の周りからぶくぶくと泡が出てきて水中に浮かび、水面でプチプチと破裂した。そのあとからたくさんの目玉が泥の中から顔を出した。水底一面目玉で覆いつされた。
 目玉たちは、ぐるっと動いて、二人を見た。
 「片目村の人たちの目だ、生まれたとき産湯の水溜りに落ちた片目だ、産湯に浸かった時、赤子は片目をとられたんだ、人間は死をむかえるが、産湯の中で目は生き続けているんだ」
 「私たちの目も生き続けるのね」
 心一は今起きていることの意味が次第にわかってきた。
 森の木々が枝をさわさわと蠢いた。二人の周りの空気が動いた。
 水底の目玉たちの間から白い粉が湧き出し水面が真っ白になった。水面から白い粉が大きくなって這い出してきた。半透明のゼリーのような生き物だ。この間と同じだ。大きくなって足元のほうにやってくる。
 「アメーバよ、こんなに大きいアメーバ、どうしたの」
 水子が残っている片目で賢明に見ようとした。
 霧が水面からわきあがった。霧粒は次第にふくらみ、二人の目にも見えるようになった。
 「ミドリムシ、どんどん大きくなっていく」
 二人と同じほどの大きさになったミドリムシが森の中を飛び回りはじめた。ツボワムシもあらわれた。木の幹にツリガネムシが巻きつき、ツリガネを伸ばしたり縮めたりしている。羊歯の根元には大きなアメーバがゆっくりゆっくり這っている。ボルボックスが木々の間をくるくる回って動き回っている。
 「森が水の中に沈んだみたい、原生動物たちが大きくなっていく、わたしたちどうなるの」
 「この森は我々の世界とは違う」
 水子がうなずいた。木に取り付いていたツリガネムシが長く延びて、水子の残っている片目に吸い付いた。別のツリガネムシが心一の片目に取り付いた。
 ツリガネムシは思い切り縮んだ。
 二人の残っていた目がころんと落ちた。
 二匹のツボワムシが急いでやってくると、その目玉を吸い込んだ。くるくる回りながら、目ができたツボワムシは森の上へ上へとあがっていく。
 森の中を浮遊しているミドリムシは森の緑を吸い込んでどんどん膨らみ、森の中いっぱいになった。
 「目が見えないわ」
 水子が叫んで心一の腕にしがみついた。
 「大丈夫だよ、森がしたことだ、僕も見えない」
 木の枝に鞭毛を巻きつけている一匹のミドリムシの眼点が真っ赤に光らせて、二人を見ている。
 心一は森に全てをゆだねようと思った。
 ミジンコたちがこれから起きることを期待して、木の枝に腰掛け二人を眺めている。ボルボックスは羊歯の間をころころ転がっている。
 森の中を漂っていた巨大なミドリムシが勢いよく鞭毛をまわした。
 シューッと音を立て、水溜りの縁にくると二人を飲み込んだ。
 そのとたん、二人は周りが見えるようになった。
 「水の中にいるわ」
 「向こうに赤い光りが見える」
 「ミドリムシの中にいるみたい」
 水子にはわかった。
 二人は手をつないで赤い光りに向かって歩こうとした。そのとき、いきなり水が回りだした。心一は水子の手を放さないように強く握った。
 二人の着ていたものが剥ぎ取られていく。
 激しい渦巻きが終わると、二人は肌になにもつけていなかった。
 裸の男と女がミドリムシの中で浮いている。
 ミドリムシがぽいと二人の着ていたものを吐き出した。
 草の上の心一と水子のリュックの脇に着ているものが落ちた。
 土の中から黒い甲虫が湧き出てきた。二人の着ていたもの、もっていたものにたかると、音を立てて食べはじめた。森の中にシャリシャリと響いた。音がやむと、二人のものはなにもなくなっていた。
 風が出てきた。森の中にいたミドリムシやツボワムシが産湯の水溜りに飛び込んだ。森の中で遊んでいたプランクトンたち、原生動物たちは水溜りの中にもどって粉になった。
 二人が中にいるミドリムシも水溜りの中で泳ぎ始めた。
 産湯の森の木々を風と青空が包み、茸が揺れ、もとの森へと戻った。
 ミドリムシたちは水溜りの底の目玉の上を泳ぎまわった。
 「私たち、ミドリムシの中で生きている」
 心一と水子はよりそって抱合した。
 そのままミドリムシの赤い眼点に近づいた。
 二人はお互いの足をからませ、手を伸ばして眼点を両手で包み込んだ。
 赤い点に裸の人間の男と女がからみついた。
 「眼点てかわいいわね」
 「これから進化するんだ」
 「水の中なのにどうして私たち話ができるの」
 水子は心一を見た。目がないのに心一の顔が見える。心一が言った。
 「我々の宇宙ってなにという質問と同じだね、科学でわかるものだろうか」
 ミドリムシは動きを止め鞭毛を振るわせた。
 二人にはその気持ちがわかった。ミドリムシは喜んでいる。
 ミドリムシの赤い眼点は光りを感じるだけのものではなくなった。周りの仲間やプランクトンたちの形を見ることができるようになった。
 ミドリムシは隣にいるミドリムシを見て微笑んだ。笑うことを覚えた。
 ミドリムシの眼点の周りを囲んでいる心一と水子は自分たちの役割を理解した。
 自分たちはやがてミドリムシの脳となる。男と女をもった脳となる運命だ。形は人間の男と女のままで脳になる。
 原生動物のミドリムシは両性の新たな高等生物になる第一歩を歩み始めたのである。その昔、海の中の一つの細胞が人間にまでなったように。

 水底の心一と水子の片目は片目村の人たちの目とともにミドリムシの変化を見ていた。目玉たちはいつかこの新しい生き物が人間と取ってかわるのを見ることができるのである。
 ゾウリムシが忙しそうに動いている。ボルボックスが回りながら飛んで行った。アメーバがゆったりと心一と水子の片目の前を這っていった。原生動物たちはいつか自分たちもミドリムシのように新しい生き物になりたいと願う。
 春の日差しは暖かい。
 日が差してくると、目玉たちは水溜りの中を漂うプランクトンとなる。
 浮遊目。
 夜になると片目たちは水底の泥の中に埋もれていく。
 雨の降らない日が続き、産湯の水溜りが干上がると、片目たちは水溜りができるまで泥の底から出てこられない。だが今の時期、当分水が枯れることはないだろう。明日はまた産湯の水底から、片目村の人たちの目玉とともに、森の中を眺めることができる。
 そして、もし人がきて水溜りをのぞいたら、片目が水の中に落ちるように、その人の顔を見つめ続けるのだ。
 笑うことを覚えたミドリムシが分裂した。
 眼点に取り付いていた心一と水子も二つに分裂していた。
 こうしてミドリムシは増えていく。どのような動物になっていくのだろう。
 産湯の森は新たな生き物を生み出す神の森であった。



絵本「目取虫、めどりむし」

 あの日、鹿野香村では増田源之臣が二人からの連絡をまっていた。
 もしかすると戻ってこない。もし戻ってきたら、初めて描いた絵本をプレゼントしようと思っていた。自分の思う産湯の森の話だ。

 ある森の奥に、小さな水溜りがあった。この森の木は古くて、自然と生えてきてそのままのものだ。原始林である。何千年、何万年も生きている。
 いろいろな木があったが、多くはドングリの木だ。ドングリの木に囲まれて、水たまりがある。雨水や草の葉から露がおちて、水たまりが作られたんだ。
 水は池の底から少しずつ地面にしみこんでいく。だから、水たまりは消えたり現れたりしている。
 時々栗鼠や鹿や狐が水を飲みにくる。鳥はしょっちゅう水浴びにくる。
 もう千年も前になるが、動物たちが水を飲みに来なくなったことがある。
 鹿が水溜りにきて、水を飲もうとして水面を見たら、片目がなくなってしまったからだ。そんなことが何度も続いた。片目になった鹿や猪、梟や鷹、栗鼠や鼠。それでも片目があるので、動物たちは自分の一生を全うした。
 それはもう大昔の話だ。
 人間が森にやってきて、水たまりをのぞいたときも同じだ。片目がなくなってしまった。人々は天の意志だと思った。子供が産まれると必ず水溜りの水を浴びさせた。水溜りが乾いていると、近くを流れる神川の水を運んできていれ、生まれたての赤子を洗った。人々は産湯の池と呼んだ。
 水の中にはいろいろな小さな生命がいた。ミドリムシは赤い目で泳ぎ回り、ツボワムシはくるくると踊っていた。
 ついついミドリムシは、ツボワムシの口の中に飛び込んだ。動き回りすぎたミドリムシは、疲れていたのか寝てしまった。動かないのは生まれて始めてである。目が覚めると、ツボワムシの中に溶け込んでいた。ツボワムシはかわいいミドリムシと一緒になって喜んでいた。ツボミドリになったよと、くるくると舞った。
 ツボワムシはミドリムシの目にあこがれていたのだ。ミドリムシの赤い目がツボミドリの目になった。ほかのミドリムシもまねをしてツボワムシの中に飛び込んだ。たくさんのツボミドリが生まれた。
 ある時、水面から人間が水の中を覗いた。あんな大きな目がほしいな、一匹のツボミドリがそう思った。
 ちょうだい、ツボミドリが言ったら、赤い目の中に人間の片目がはいっていた。そのとき、世の中がこういう風に見えるんだと、ツボミドリは感激し、メドリムシ、目取虫になった。
 人の目をもった目取虫は卵をうんだ。孵化した目取虫は親と同じ人間の目を持っていた。ほかの赤い小さな目のツボミドリも目がほしかった。水面に顔を映した動物や人の片目をもらって目取虫になった。こうしていろいろな目を持った目取虫が増えた。他の虫たちも目がほしくなって、水面に映った目をもらった。
 今でもミドリムシはツボワムシの中に入ってツボミドリになり、水面に映る動物たちの片目をもらっている。メドリムシになるのだ。
 この水たまりを人間たちは産湯の池と呼んでいる。ここのミドリムシとツボワムシはとても相性がよく、種を越えた気持ちの広い生き物だった。いずれ、鼻や耳をほしがるツボミドリも出てくるかもしれない。
 産湯の森は今も生きている。   完


おわりに

 この話は2025年8月8日に、知多の一粒書房から自費出版した「産湯の森」を書き直したものです。
 この本には「目取虫」と題した絵物語が付随しています。

                               

産湯の森

私家版「産湯の森、124p、2025年8月8日、絵本:目取虫、メドリムシ、付属、一粒書房」を改変

産湯の森

一人の医学部男生とプランクトン研究者の卵の女性の物語

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2026-08-14

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND