ある一年のこと
とても小さな部屋に住んでいた一年がある。
とても昔のようにも思えるし、ついこの間のようにも思える。私がその部屋に住んでいたのは二年程前のことだ。ちょうどそれくらいのことを人はとても昔に思ったり、ついこの間のように思ったりしている気がする。
二年前の私は二十八歳だった。
二十八にもなれば飼っていた犬の一匹や二匹、同級生の一人や二人は死ぬ。友達の一人や二人は子供を産むし、ニキビの跡は消えずに残る。親はいつか死ぬんだと確信するし、自分もいつか死ぬんだと知っていたのに知らなかったみたいに知るし、真冬の手はしわしわだし、本気で死のうと一回くらいは思ったことがあるし、軽く死のうと二十回目くらいに思う。
世の中の二十八歳の人と私にあるずれがどれ程のものなのか分からないけれど、私はそういう感じの二十八歳だった。死ぬことも生きることもめちゃくちゃ怖かった。そんなことを思う人間の脳みそを心底呪った。クラゲになりたいと本気で思った。溶けるみたいな死に方に憧れていた。
「まあ、帰って寝るだけなら問題ない部屋ですよ」
空っぽの小さな部屋を見回して、不動産屋の男は言った。むっくりとした男が部屋の真ん中に立っているだけなのに小さな部屋はもう腹八分目みたいな顔をしていた。
「そうですよね」
私は斜めに傾いた天井を見上げながら返事をした。
この部屋の天井が傾いているということは、上の部屋の床が傾いているということだろうか? 端っこの一番低いところに芋虫状になって眠るその日暮らしの人の姿が頭に浮かんだ。
「朝起きるとさ、大体こうなってるね」と、その日暮らしの人は当たり前みたいな顔で言った。
「何か気になるところあります?」
営業的なスマイルを向けて、男が聞いてくる。
「ちょっと狭いですけど、まあ仕事から帰って寝るだけなんで大丈夫ですかね」
つるつるした床で一回転しながら私は答えた。
本当のことを言うと、帰って寝るだけの部屋にするつもりはなかった。一か月後には仕事を辞めることが決まっていたし、その後のことは何も考えていなかった。
「じゃあ決まりということで。良かったです、気に入っていただけて」
ぎりぎり労働者だった私は無事に入居審査を通過し、家賃二万九千円の部屋に住めることになった。
部屋は四階建てのマンションの一階、一〇二号室だった。
マンションの名前は『HELLO,HOUSE』。
こんにちは、家。なかなか素敵な名前だ。
Y字路の中心、ちょうど「V」の尖がった部分に『HELLO,HOUSE』はあった。「V」の字の右側の斜めのところに沿って各部屋の窓があって、横を通る車が至近距離で見えた。
大通りから一本入ったY字路だったため交通量はそんなに多くなかった。しかし残念なことに、歩いて一分の距離に電車の駅があった。ローカル電車の無人駅を利用する客は少なかったが、さすがに夕方の五時頃になると学生や会社員の賑やかな話し声や足音が聞こえてきた。
女の子数人が『翼をください』を歌いながら駅に向かっていたときは、人間の願いはいくつになっても変わらないのかもしれないとしみじみ思ったりした。何かになりたいなんて嘘で、結局みんな大空を飛びたいだけなのだ。
「昨日ある女の子に出会ったんだけどさ、ちょっと恋かもしれない」
「ちょっと恋って何だよ」
男の子二人の会話が聞こえてくる。
「その子さ、ミニストップでアルバイトしてたことがあるって言うんだ。だから俺さ、『じゃあソフトクリームとか作ってたんだ』って笑って返したの」
「ああ、ミニストップってソフトクリームあるもんな。パフェとかもうまいよな」
「そうそう。やっぱミニストップと言えばソフトクリームだよな。食べたことないけど」
「俺もないかも。それでどうなったのさ」
「どうもなってないんだけどさ、その子と別れて道歩いてたらふと思ったんだ。その子が作るソフトクリームはどんな形をしててどんな味がするんだろうなあって。コーンの上のぐるぐるはどのくらいの高さで、いくつぐるぐるがあって、ミルク味の濃い味か、それともさっぱりしたタイプのどっちだろうなあって。そういえばチョコとバニラの半分ずつのもあるなあ、とか。そんなこと考えてたらさ、なんかちょっと悲しくなってきたわけ」
「悲しくなったの? 何で」
「俺はそのソフトクリームを想像するだけで食べることはできないから。この先永遠に俺はその頃の彼女には会えなくて、その頃に作られていた彼女のソフトクリームを食べることはできない。そんなことに気づいてしまったら悲しくなった。もしもタイムマシンがあったらさ、たぶん俺はその子のソフトクリームを食べにミニストップに行くと思うよ。その子がミニストップでアルバイトしてたときにタイムスリップして、俺を知らない彼女に、彼女を知ってる俺がソフトクリームを注文するよ」
「たった一度しかタイムマシンが使えなくても?」
「たった一度かあ。まあでもそうするよ。結局それくらいのことに使うのが一番幸せなタイムマシンの使い方じゃない?」
「まあ確かに。未来を変えすぎちゃいけないって言うしな。それくらいなら未来は変わらないか」
「これ、ちょっと恋じゃないか?」
「うん。ちょっと恋かも」
夕方の五時に、私は正しいタイムマシンの使い方と、ちょっと恋の話を聞いた。
『HELLO,HOUSE』の前を通って無人駅に向かう顔の見えない人々。私は小さな部屋の窓際に寝転がって、ときどき彼らの音に耳をすませた。
踏切の音に重なる誰かの早足、よく晴れた日の鼻歌、傘に落ちる雨の音、郵便屋さんがポストに手紙を入れる音、「今から電車に乗るね」、誰かのどこかに付いた鈴の音、犬の鼻息、真夜中のラブソング、当たりつきの自販機が当たった音、「バイバイ」、買い物袋のかさかさ、空き缶が転がる音、「もしもし」。
一〇二号室には、五・五畳のとてもきれいなフローリングの床があった。二万九千円の家賃にしてはとても丁寧なワックスがけだった。木目がぴかぴかしていた。そしてその床は計算がとても難しそうな台形の形をしていた。つまり私は台形の中で暮らしていたということだ。
窓がある方の壁は、何度も言うがY字路の道に沿って斜めだった。その向かいの小さなキッチンと、玄関と呼ぶのも腹立たしいくらい小さな玄関がある方の壁も斜めだった。残った二つの辺もたぶん真っすぐではなかったと思う。いや、本当は真っすぐだったのかもしれない。台形の中に住んでいたからなのか、その残った長さの違う二つの辺がどこまで伸びても交わらない平行線だとはどうしても思えなかった。「平行」という言葉を忘れるくらい、その頃の私は平行に飢えていた。もしかしたら斜めに立って斜めに歩いていた可能性もある。首だって一日中かしげたままで、世界のすべてを不思議そうな顔で見つめていたかもしれない。
あともう一つ。台形の床に正方形のラグを敷くと、とてつもなく気持ち悪い感じになる。慣れるまで胸がざわざわする。
小さなキッチンにはガラス扉の小さな食器入れが備え付けてあった。お気に入りのマグカップ一つとお皿二つを入れるともう何も入りそうになかった。
小さな玄関には水色の靴箱があった。まだ部屋に何もなかった頃、その水色の靴箱だけに色があった。カーテンのない窓から差す光の黄色とその水色が、とても合っていた。
靴箱の上には少しのスペースがあったから、死んでしまった白い犬の写真を飾った。散歩から帰りたくなくて道の真ん中で不機嫌そうに座り込んでいる写真だ。私が小さな部屋に帰る度、不機嫌そうな顔の白い犬が迎えてくれることになった。
小さな部屋に一通りの家具を設置し終えると、私のセンスが良いのもあってか、なかなか素敵な部屋に仕上がった。唯一後悔したのはリサイクルショップで買った折りたたみベッドの寝心地が最悪だったことくらいだ。毎朝腰の痛みと共に目が覚めた。
一つくらい新しいものをと思って買ったのは、クリーム色の折りたたみ自転車だった。
今思えばこの頃の私は、小さな部屋で小さなものたちと折りたためるものたちに囲まれて生きていた。
住み始めて一カ月が経った頃、私は予定通り仕事を辞めた。
定年退職したサラリーマンのおじさん達がそうするように、私はとりあえず近くの公園を散歩した。
とても大きな公園だった。広い芝生広場を中心に、アスレチック系の遊具が集められた場所や、たくさんの花が植えられた大きな花壇、知らない人の銅像、大きな屋根と木のテーブルがある休憩所、説明のない変な形のモニュメントなんかまであった。
天気の良い日はその公園に行って図書館で借りた本を読んだ。
芝生の広場が見渡せるベンチでは小学生たちの鬼ごっこを観戦することができた。小学生三十人くらいの鬼ごっこの途中から、後からやってきた高校生五人組の鬼ごっこが始まったときはとてもびっくりした。鬼の小学生もあたふたしていた。
変な形のモニュメントの前のベンチで読書したときは全く本に集中できなかった。
その変なモニュメントは巨大な四角い壁の形をしていて、その真ん中には巨大なペンギンが描かれていた。そしてそのペンギンの足元には人間らしきものが描かれているのだけど、そこに描かれた人間に顔はなく、ただの一本の線でできていた。公園に置くモニュメントにしては少し難解すぎる気がした。
その絵が恐ろしかったことも本に集中できなかった一因ではあるのだけど、一番の要因は別にあった。壁を挟んだ向こう側に、ボールを投げている少年がいたのだ。少年はモニュメント相手に一人壁打ちをしているらしく、一定のリズムでこちら側にボールが放たれていた。音からして明らかに野球のボールだった。あの当たると痛そうな硬くて白いボールだ。壁はかなり高かったけれど、もしもその壁を越えてこちら側にやってきて、そして私の頭に当たったとしたらとても痛いだろう。頭の中で想像していると、隣の空いたベンチの方にボールが転がってきた。ボールはやはり野球のボールで、走ってきた少年の手にはグローブが履められていた。野球部というわけではないのか、パーカーにジーンズ姿だった。
少年はきょとんとした顔で私を一瞥し、すぐに戻って行った。その後も少年は壁にボールを投げ続けたけれど、少年の顔を見てからは不思議と安心して本が読めた。
伸びきった芝で覆われた小さな丘の前にもベンチがあった。とにかくその大きな公園にはたくさんのベンチがあった。
その小さな丘の前のベンチに座ったときは、さすがに静かに読書できると思った。そんな丘には誰も見向きしないだろうと高を括っていたのだ。
暫くして、芝刈り機の激しい音が響き始めた。そよ風に乗って芝のにおいも漂ってくる。切り口から放たれるそのにおいは芝の血液のにおいなのかもしれない。作業服を着た少し腰の曲がったお爺さんは見事な手さばきで芝を刈っていた。そしてそのお爺さんを見つめる作業服を着た青年が二人、丘の傍に並んで立っていた。帽子を深く被り、気だるそうにただ立っている。
僕たちは何でこんなところにいるのだろう? そんな顔をしていた。
「こっちゃ来い」
芝刈り機を止めて、お爺さんが二人を呼びつけた。
「袋持って、拾って。さっさと」
自分が刈った芝を指さしながらお爺さんが言う。怒っているみたいに見えたけれど、たぶん通常運転だ。青年二人は足早にトラックに走って行き、お米が入っていたような大きな紙袋を持って戻ってきた。一人が袋を持ち、一人が刈られた芝を抱えてそこに入れた。お爺さんは残った芝をまた刈り始めていた。
帰る頃にはとてもきれいなこんもりとした芝の丘が出来上がっていた。
小さな部屋で迎える冬はとても寒かった。
窓からの冷気と床の冷たさで私の体は芯から冷え切った。寒いということの悲しさとどうしようもなさを知った冬だった。あんなにも春が恋しかった冬はない。
電気代を節約するため、私は近くの商業ビルに通うことにした。折りたたみ自転車に乗って約十分。いくつかのローカル線が乗り入れするターミナル駅に直結した商業ビルだった。
11階まであり、塾やオフィス、ヨガスタジオなんかも入っている複合的なビルだったが、日曜になっても人がまばらにしかいなかった。
閉店した店の空っぽの商品棚がそのままにしてあったりしたし、空間を埋めるためだけの色褪せたガチャガチャが各階のどこかしらにあった。クッション素材の長い椅子がたくさんあって、見たことのない飲料が並ぶ自販機があった。開店している店に立つ店員は心配になるほど暇そうだった。全滅したと思っていた雑貨屋があった。地域の写真倶楽部の人たちの平凡な写真が飾ってあった。自転車置き場が駐車場くらい広かった。
そのビルの7階に私は毎日のように通った。
エレベーターもあったのだけど、いつもエスカレーターを使って7階まで行った。そのビルのエスカレーターは建物の端っこにあって、外からビルを見ると、正面の透明なガラス窓からエスカレーターの全貌が見えた。
1階から7階まで巨大なガラス窓に沿って動く階段を、私は毎日時間をかけて上った。ちゃんと止まったまま上った。動く階段を更に歩いて上るなんてことは一度もしなかった。その頃の私に急ぐ理由なんて何一つなく、時間なんてあるのかないのか分からなかった。ただ、とても好きだった。上に行くに連れて低くなっていく街の景色を見るのが好きだった。
元々その7階に何の施設があったのかは分からないけれど、その頃の7階には会議用の机と椅子がとても広い間隔を空けて並べてあった。本当に何も置く物がなくなったとき、人はどこかから会議用の机と椅子を持ってきて置くのかもしれない。長い机の真ん中に一脚の椅子。それが大体二十セットくらいはあったと思う。
勉強する高校生が半数を占め、あとは新聞を広げる老人が二人くらいと、長い机に缶コーヒー一本だけを置いて携帯を触るサラリーマンが一人くらいいた。席が全て埋まっていることは一度もなかった。暖かくて、人が少なくて、静かで、長い机と大きめの椅子がある。おまけに地上から高い。私にとってとてもありがたい場所だった。借りてきた本を受験生くらい真剣に読むことができた。ノートを出してメモまでしたくらいだ。別にメモする必要なんてどこにもないのに。
そのときのメモが今でも残っている。
『亡命とは不在。自分の意志ではなく、全く別の現実、別の時間、別の生を生きるよう強いられること。内省の旅。亡命とは、個人をあらゆる角度から根底から揺るがす恐ろしい暴力』
私は隙間だらけのビルの7階で一体何をしていたのだろう?
何の本を読んで、何を考え、何が心に引っかかってこんなことをメモしたのだろうか?
今でもこのメモを見る度に不思議に思う。
7階の次によく行ったのが11階だった。
11階は案内版の言葉を借りれば『イベントスペース』だった。ちなみに7階も『イベントスペース』。8階が『KUMON』で、9階と10階は『オフィス』とだけ書かれていた。1階から6階には閉店した店と営業中の店の名前がランダムに並んである。いくつかの店名の下には修正テープが貼られていて、誰かがきちんと修正していた跡があった。しかしその修正もいつの日か誰かが諦めてしまったときで止まっているみたいだった。もうこの先、案内板が修正されることは二度とないような気がした。
11階のイベントスペースは7階のイベントスペースよりは真面目に稼働していた。
よく行われていたのは近くの小学校や中学校の生徒たちが描いた絵や作文の展示会だ。「海にゴミを捨てないで」という言葉と共に魚が泣いている絵が描かれているものなんかは何度も目にした。正月には書初めが飾られた。『明るい未来』という黒い文字で埋めつくされているのを目にしたときは急いで部屋に帰った。いじめについての作文を読んで回ったときは少し元気をなくした。保育所に通う子供たちのぐちゃぐちゃとした絵が並んでいたときは結局これが正解だよなと思った。
灯台の写真だけを集めた写真展が行われていたこともある。日本で初めて作られたという灯台の写真の傍には模型まであった。木でできた灯台には瓦でできた屋根が付いていて、中で火を焚いていたそうだ。夜の船から見る灯台の小さな光を想像して、少しロマンチックな気持ちになった。
私がそこで見た最後の展示は、夢の展示だった。眠っているときに見る方の夢。
イベントスペースには藍色のボードが並べられ、四百字詰めの原稿用紙がずらりと貼り付けてあった。絵はなく、文字だけで夢が綴られていた。
原稿用紙にはタイトルも名前も書かれておらず、一行目から本文が始まっていた。とても短い文章から、とても長い文章まで様々だった。人の夢の話なんか知っても面白くないだろうと思いながらも、時間の概念を忘れかけていたその頃の私は食い入るようにその文字を目で追った。
炊飯器の穴から出てきた湯気が形をもちはじめる夢。森の中にある地下倉庫で大きな氷を守る夢。耳あてを作る職人になってたくさんの人の耳を観察する夢。欲しい本を探して本屋を巡るのだけど、どれだけ探しても見つからない夢。
夢の話には展開もオチも何もなかった。テーマも意味もたぶんない。それが夜に見る夢の面白さであり、つまらなさでもある。
中には夢かどうかさえ怪しいものもあった。眠る前にとてつもなくカレーライスが食べたくなって明日は絶対にカレーライスを食べようと思って眠ったのだけど、いざ朝になると全くカレーライスが食べたくなくなっていた。そんなことが丁寧な文章で書かれていた。この人はちゃんと夢と現実の区別がついているのか心配になった。
一つ、心に残っている文章がある。
『その人は、夢でも優しかった。
小指が、ねじれてくだけてちぎれていった。
薬指はいつの間にか木でできていて、それもだんだん細くなってポキっと折れた。
中指も、少しずつねじれ始めている。
私の前に、いつも優しくしてくれる人が座っていた。
ねじれてくだけてちぎれていく私の手の上に、その人はそっと自分の手を重ねる。
その人の指は全部木でできていた。
いつも優しくしてくれる人は、夢でも優しかった。』
夢の展示を最後に、11階は閉鎖された。
エスカレーターは何故か11階まで動いていて、上ってみると大きなパーテーションが設置してあり奥には行けなくなっていた。A4用紙の紙がぽつんと貼られていて、数カ月後に仏壇屋がオープンすると楽しげな字体で書かれてあった。少しだけ腹立たしい気持ちになったのはたぶん11階のイベントスペースのことを好きになっていたからだと思う。
仕方ないのでそのまま下りのエスカレーターに乗ろうと反対側に向かった。途中に会議用の椅子が三つだけ並んでいた。椅子はガラス窓に向かって置かれていて、街の景色が見渡せるようになっていた。
私は高い場所に行くと必ず建物の屋上に目が行ってしまう。その椅子に座ってみると、周囲のビルやマンションの屋上がとても鮮明に見えた。今まで見下ろした屋上の中で一番しっくりくる距離間だった。高いところにいる私は、少しだけ低いところにいる屋上たちを見つめた。
黒ずんだコンクリート、破れかぶれのソファとくすんだガラスの机、隅に積み上げられた古い型の電化製品、大家族くらいたくさん干された洗濯物、エッチなホテルの可愛い看板、とても小さい鉄の扉、手摺にもたれて道路を見ている人、一か所に群がる鳩。
高いところから見る屋上は私の心をいつも穏やかにする。
部屋を出る少し前の夜、マンションの自転車置き場で一匹の猫を見た。
窓の外からよく猫の声がしていたから、近くに野良猫がいることは知っていた。初めて見る猫の姿は想像していたよりも可愛げがなかった。痩せた黒猫だった。
正直猫は少し苦手だ。犬しか飼ったことがないし、小さい頃にとてつもなく懐いてきた野良猫がいて、その執拗なアプローチに恐怖を覚えた記憶が残っていた。私はどこまでも追いかけてくる猫を可愛いと思えない子供だった。
自転車置き場にいた黒猫は子供の頃に出会った猫とは違った。私の方には見向きもせず、体を倒して固そうなコンクリートの地面に顔を擦り付けていた。そのまま夜のコンクリートに溶けていってしまいそうだった。私は猫との距離を保ったまま、地面に座った。そしてそのまま仰向けに寝転がった。
月が真上にあった。黒猫が溶けてしまっていないか確認すると、まださっきと同じ動きをしていた。
猫は空を見上げることがあるのだろうか?
私が小さな部屋を出て行ったのは暑い夏の日だった。
小さな部屋の夏の床はとても冷たくて気持ちいい。
Tシャツに半ズボンの私は窓際の床に座って耳をすませる。どこかから、電話の鳴る音が聞こえてくる。
「もしもし」
私がつぶやくと、電話が鳴り止んだ。
ある一年のこと