百合の君(122)
「殿ーっ、とのーっ! 上様が、上様の軍が!」
伝令が泡を吹きながら駆け寄って、というより転げ寄ってきたとき、木怒山は事態を全く理解していなかった。
「援軍にいらしてくれたか、かたじけない」
自分なら、我が子をこの手にかけたいとは思わない。家臣がやってくれるのなら、それに任せてしまうだろう。やはりあの方と私は根本的に違っている。そう思った。
「なにを呑気な! 上様は我が方に矢を向けているのです!」
そういうことか! 喜林が天下を取った後、邪魔になるのはこの私だ。強くなり過ぎた木怒山を出海と争わせ、双方この場で叩くつもりだ!
出海を攻撃したのは自分の勝手なのに、木怒山はそう合点した。もはや陰謀が習慣となってしまっているのだ。
こうなったら!
木怒山は自ら最前線に出張った。逃げる敵兵を追うその姿は、若い頃の喜林義郎、いや蟻螂にそっくりだった。木怒山は、鷹のように谷を飛び越え、友の仇を襲った若武者を目の前に見た。毒を制するには、毒を以てする他ない。
戦いに夢中の総大将に気付いてもらうため、木怒山は叫んでひれ伏した。膝と手のひらに、何十年かぶりの雪の冷たさを感じる。
「天蔵様!」
遊んでいたところを呼び止められた少年のように、襤褸をまとった大将は振り返った。
「なんだー?」
「お父上ご乱心でございます! お父上が、我が方に攻撃しているとのこと!」
天蔵の目が全く揺るがないので、木怒山はさらに続けた。「我が方にですぞ、喜林のために戦う我らに!」
「それは面白そうだなー」
この傭兵上りが考えていることは、あの赤目の山猿より分からない。木怒山は自分がいま拭っているのが汗なのか涙なのか分からなかった。下半身が冷えたのか、小便もしたくなった。
「出海珊瑚は弱すぎるからなー、喜林の父様なら楽しそうだー」
天蔵は馬首をめぐらした。「じゃあ、行ってくるぞー」
駆けだす天蔵をぼんやりと見送り、木怒山は、これは案外いい展開なのかもしれないと思った。もし天蔵が喜林義郎を討ち取れば、喜林は養子である天蔵のもの。そしていま、天蔵の保護者をしているのは自分だ。出海珊瑚は間もなく討ち死にか自刃。
とっくに諦めていた天下が、勝手に向こうからやってきた。木怒山は思わず笑った。諦めたからと言って、欲しくないわけではない。
もうまるっきり観客になって、木怒山は天蔵の背に向かって叫んだ。
「天蔵様ー、ご武運をー」
まさか聞こえたわけではあるまいが、天蔵は刀を高く挙げて応えた。その後ろ姿は、水墨画のように質素でありながら、吹き付ける雪を溶かさんとする闘志にあふれていた。
「あの若さは・・・」
私が失ってしまったものだ、と続けようとして木怒山はやめた。最初から自分は持っていなかったのかもしれないと思い直したからだ。
百合の君(122)