海が遠のいていく
海が近いアパートを借りることにした。僕の視覚障害が進んでしまって、もう今の仕事は続けられないだろうと思い、自分から退職を申し出た。周りは僕のために手を尽くし、なんとかできそうな仕事を探してくれたが、もう僕にはその気力は残っていなかった。昔から一人になりたかった。だからそれに逆らう理由はなかった。最後に送別会を開いてくれて、涙する人や、心配してくれる人がいたが、僕は泣かなかった。ぼんやりとした照明と、歓談する声が愛おしかった。だけど僕はそれ以上にここから出たかった。ここは僕の居場所じゃなかった。それがわかっただけでもよかったと思った。語気が強くて、なんとなく苦手だった人が荷物まとめるのを手伝ってくれて、その人としばらく話したりもした。笑うとこんな顔なんだとふいに面白くなった。早く上がって、一人で乗るエレベーターはやけに静かだった。自分の横に進んでいた人生に、一つ縦線が引かれたイメージがした。ビルを出て感じる風は少し冷たかった。
引っ越しの準備は、会社の先輩が手伝ってくれた。まだかろうじて見えているが、少しずつ視界は狭まっていった。ふとした拍子で置いた家具にぶつかってしまうことが多くなり、その度に先輩が近づいてきて支えてくれた。先輩の気配はまだわかった。それが僕の心の拠り所だった。「結構部屋できてきたよ」と先輩の柔らかい声で、なんとなく今の部屋のレイアウトを想像した。思い描いてた生活に少しずつ近づいている。ベットに腰をかけると、新品のマットレスの弾力が心地よかった。遠くで海のさざめきが聞こえた。人間が話すみたいに、海は多くのことを語ってるように揺らめいている。「じゃあ行くね」と先輩が玄関まで向かう足音がした。「君に何かしてあげられたらよかったんだけど」と最後に気まずそうに笑いながら先輩は言って、部屋を出て行った。誰もいなくなったのを確認して、ベッドに横たわった。ようやく一人になれた、なってしまったとふつふつと実感が湧いて、なんだか悲しかった。こういう時に泣きたいなと思った。5時のチャイムが鳴って辺りが暗くなっていく中、僕だけが取り残された気がした。
ゴミ出しに行くとき以外に外に出ることはほとんどなかった。食材や日用品は通販で買うようにしてたし、家にいる方が人に会わずに済むから楽だった。何のゴミを出す日かは全部覚えていたから、ほとんど機械的な作業になっていた。ドアを開けると、磯の少しクセのある香りが鼻をくすぐった。前よりおぼつかない足取りでゴミ置き場に向かう。何人か朝の挨拶をしてくれる人がいたが聞こえないふりをした。ゴミ出しを終えると、僕は決まって海の方へ出かけた。砂浜はほとんどなく、頑丈な岩がごつごつ浮き出ているだけの寂しい海だった。足場が悪くとても歩けたものじゃなかったので、僕は堤防の上から海を見渡す。視界が日に日に霞んでいく中で、雲と海が一体になるところを僕はずっと眺めていた。一つの線を境目に、水と大気がゆらゆら揺れる様を見つめていると不思議と心が落ち着いた。海はどこへ行って、ここに帰ってくるんだろうかと途方もないことに思いを馳せた。しばらくして気が済むと、僕は海をあとにした。一人の生活はつらくなかった。ただ自分が生きてるのか死んでるのか、よくわからなくなっていた。先輩の連絡先を開いて、少しだけでも話そうかと考えた。この期に及んで誰かに頼ろうとしている自分が馬鹿らしくて、乾いた笑い声が漏れた。スマホをバッグにしまい、家までの道のりを再び歩き始めた。嘘みたいに曇ってる空が、やけに静かだった。
昨日届いた桃を剥きながら、いつまで僕は生きるんだろうかと考えてみた。いずれ目が完全に見えなくなるかもしれない。年金だけじゃ生活は回らないし、貯蓄も少しずつなくなっていく。勢い余って、包丁を親指の腹にちょっと当ててしまった。水道で軽く血を流して、しばらくしたらまた作業に戻った。自分のことを大事にするというのが、上手くできなくなってるなと思った。より聴覚が鋭くなったせいか、海のさざめきがよりくっきり聞こえる。子供が笑い合っている声と混ざり合って、それは音楽みたいに頭の中で反響していた。切った桃は、熟しすぎてほとんど崩れかかっていた。口に入れると甘すぎて、苦味さえあるほどだった。子供の声が徐々に遠くなっていっている。静かな部屋で、フォークが皿に当たる音と、スマホの通知音が鳴り響いている。家族からの連絡はどうでもよかったし、職場の人からのもなるべく答えたくなかった。優しさとか、気遣いとか、そういうものからなるべく離れたかった。本当は人に会いたいと思うのは簡単だった。でも会ったところで、僕には先がないから、相手も僕も虚しくなるだけというのはわかっていた。甘ったるい桃を食べ切って、部屋に寝そべると、僕はそのまま眠ってしまった。心というものがなかったらどんなに楽だろうと、意識が沈んでいく中でふと思った。
子供の頃、父方の祖父と祖母と一緒によく旅行に行った。祖母はいつも決まっておにぎりを握ってきてくれて、行きの車でそれをみんなで食べた。湿った海苔と温かいご飯を噛むと、中から鮮やかなピンク色の鮭が出てきて、程よい塩味が口の中に広がった。決まって、鎌倉の海に近い宿をとった。当時の僕にとっては、砂浜の歩きにくさと、水のしょっぱい味と、時折見つける貝殻が海だった。商店街を歩いて、なんの効果があるかわからない綺麗な石を買い与えてもらったりもした。外は蒸し暑く、日照りは容赦なく強かったが、無邪気だった子供の僕には関係なかった。宿に帰ってくると、二階の隅にあるゲームセンターで遊び、疲れたら部屋の中でくつろいだ。何もかもが、その頃は輝きを持っていたように思えた。
後から、母が祖母から執拗にいじめられていたことを知った。寝室で、母親が泣きながら携帯を握り、ただはい、はい、と頷いているのを、僕は扉の向こう側からそっと眺めることしかできなかった。
土砂降りの雨の音で目が覚めた。窓を叩く水滴の数々がカーテンのように連なって滴り落ちている。まだ深夜だというのは身体で分かった。さっきまで見ていた夢が心の中に重く残っていた。もう僕はどこにも行けずに、この薄暗く温もりがない世界で死んでいくんだと思った。気づいたら寝着のままで家を飛び出していた。今までの勘を頼りに海への道をひたすらに走った。容赦なく降りしきる雨が肌を刺して、自分を責めているようでなおさら惨めになった。途中でクラクションが鳴って怯みそうになったが足は急ぐことをやめなかった。いつもの磯の香りがする海の近くまでやってきたのがわかると、僕は突っ立ったまま豪雨が激しく海にぶつかる音に耳を澄ませていた。今、海に飛び込んでしまったらどんなに気持ちいいだろうと思った。あらゆる水と一体になり、生命の源へ帰っていけると考えると、胸が高鳴るのを抑えられなかった。「久しぶり」どこからか声が聞こえた。不思議と聞き馴染みがあるような気がした。「君みたいな人はたまに来るんだ」なんとなくわかったような気がした。僕はここに行き着く人間のうちの一人でしかない。「そっちで言い残したことはないかい?」誰かの顔が頭をよぎったように感じたが、今となればもう関係のないことだった。気づいたら僕は海に向かって歩いていた。堤防を越え、砂浜を進み、足に海水が浸っていくのを感じた。徐々に歩いてる地面が深くなっていき、やがて足が離れると、僕は潮の流れに身を任せた。仰向けになると、おびただしい量の雨粒が僕の身体を打ちつけた。このまま水に溶けて、消えてなくなりたいと思った。浮遊している心地よさで眠くなってくると、僕は目を閉じた。ふと、最後の声が鼓膜を叩いた。「またね。もう会えないと思うけど」
目が覚めると自室のベッドだった。昨日の雨が嘘みたいに静まり返っている。誰かの手が自分の身体を覆っていた。ふと振り返ると、先輩が寝息を立てて眠っていた。こちらに気づくと、先輩も目を開けて眠りから覚めたようだった。「よかった、無事で」先輩はそう言うと起き上がって、荷物を持つと玄関までそのまま歩いて行った。先輩の後ろ姿さえよくわからない程に視力は下がっていた。
「行かないでください」
本当に行ってほしくないのかわからなかったけど、僕は言った。
「ここには居れない。私にはまだやることがあるから」
先輩がドアを開く音がした。止められないのはわかってたし、もう僕からも言うことは何もなかった。
「またね」
そう言って先輩は外へ出て行った。遠くで海が鳴っている。ほとんど見えなくなった目をつむると、より周りの音が鮮明に聞こえた。僕はずっとここで生きていくのだろうと思った。
海が遠のいていく