文学なんかに救われたくない

  1
 言葉によってひとを救うというのは、ある一面からいえば、絶対に不可能なのではないかとぼくには訝られる。
 ここには、ひとの心と心は溶け合うことが不可能であるために、個々の存在存在はすべて不連続なそれであり、言葉だって個々の人間固有の意味だってあるからけっして混じりえない、そのような考えとの関連がある。それによって考察された”ひとを言葉で救う”という主題は、絶対的な不可能性を照りかえすそれとして、ぼくの眼前に、冷然硬質な硝子盤の様に燦爛と屹立しているのだ。
 言葉というものは、ひとの心のふかみに本当の意味での共通項としては存在しえない、ぼくにはそう想われる。
 たとえ言葉には国語辞典的な意味があっても、ある程度ひとの心にはおなじものがふかみにあったとしても、たかが言葉なんかで、ひとを救うことなどできやしない。”孤独”と云う言葉一つをとっても、どんなに多様な印象・連想・意味・付着した解釈があることだろう? そして、それぞれの人間特有のズレ・誤解、そういったものであってもやはり尊重されるべきなのである。ぼくは、「自分は本をたくさん読んでいるから、学があるから」といって他者の言葉を軽視する人間の知性を信用しきることはできない。ひとには皆そのひと固有の人生の文脈があり、その各々の生そのものに本来共通されるべき”概念”が個性に染まっているとも云える。であるからして、他者の言葉の使い方を嗤ってもいいという考え方を、ぼくはできれば是認したくない。
 ぼくは『硝子盤』というエッセイによって、一種或るひとたち──我の強く、他者との愛情的関係に飢え、当人にはどうにもならない事情による社会との相性のわるさを抱えているひとたち──を、自殺という行為から引き離そうとした。
 虚無と非情の重層した、「われわれの意欲を絶対に配慮せぬ冷然硬質の現実」という世界観への反逆のために、その風景を、幼少期の人間にとっての親や神のような美へと内面的・観念的なかたちで科学変化させていって、不良少年のそれのような肉食獣昇る野蛮な意欲でもって、良心、そして美と善への憧れをのみ抱き締めて、「これをもちつづけて、生き、切る」という悲願をもち、”硝子盤”──現実の理不尽、あるいは理不尽という絶対性をもった現実を投影された世界の観方。坂口安吾の云う「ふるさと」に影響された、かなりセカイ系的なそれ──へ躰を幾度もいくども叩きつけよ、現実へ参入せよ、そうすればその偏った世界観のようなものはいつやみずからと一義性のようなものを一刹那一刹那と云うかたちでみいだしえて、死の縁へ辷り堕ちようとする孤独の状態はやや癒え、このような闘争心と愛情への渇望のつよい我に産れついた人間は、一種爽やかにくるしみに充実しえるかもしれないという、わが個人的な詩的推論によってえた余りにあまりに観念的な生の詩的方法論をえがき、ぼくはそれを提出したのだった──とはいえ、坂口安吾等先人の知性の影響であるし、かれ等の強さ・深さにはとうてい及ばないから、「個人的な詩的推論」という自分の云い方にもぼく自身懐疑的だ──。
 ぼくは、ぼくを大切にしてくれるような愚かで憐れきわまるやさしいひとに、自殺してほしくなった。自殺してほしくなかった。自分の存在を否定しきって生を終えることを、してほしくなかった。これはぼくの良心によるものではない。やさしさである筈もない。独善的な淋しさゆえである。いなくなって欲しくなかった、殆どの感情がそれである筈なのだ。
 たしかにここに報告された歪な虚偽の生き方は、いったんはぼく自身を救ったのである。であるからぼくは、「これは他者を助けられるのでは?」という非常な浅はかさでこれを書き殴り、星空文庫というネットの宇宙の片隅へ、祈りとともに弓で吹き飛ばしたのだった。
 されどこのような文章をいま読めば──正直にいうと、ぼくはわが散文すべてにおなじ感情をもつのだが──吐き気がする。自己の美化、自己欺瞞、誤りの自己像への陶酔、誤りの優越感、愛とみまがわれる徹頭徹尾な独善、いつだってインチキの悪臭がする。
 ぼくはこれまで書き殴ってきた文章、当時のぼくごとズタズタに破いてやりたいし、もっと、もっと佳い文章を書いて、どうか誰かに届く言葉を残してみたい──不可能。
 飽くまで、推測の根拠──心というものは疎外状況を強いられている、その様な絶対的な宿命があるが故に。

  *

 太宰治ほどに傍迷惑で自己中心的な人間もそうはいないけれど、かれはこちらが泣きじゃくりたくなるような淋しき優しさを、重たく巨大に抱え込んでいた。
 同情心。
 嗚。そんなものであったかもしれない。これは人間を「外れ者」「外れていない、社会に含まれているまっとうで適切な者」と二分化する白黒思考や、「外れ者」とかれがかってにみなした者に対し自他の境界が引けないが故の感覚によって生まれる偏向的で寄りかかるような同情的な思考によるものではないかとぼくに疑われている。似たことを言っている作家や研究者たちもたしかにいて、ぼくは「ぼくの解釈」と「そう解釈をするぼく」に疑いをもちながらも、かれ等には権威があるが故におそるおそる賛同する態度を自己に許可している。
 けれども、ぼくは前述の言葉だけでかれの痛みを片づけて了うことを絶対にしたくないのだ。

 ある種の優しさの幾つかが欠落していたかれであるけれども、太宰治、いや、津島修治は、ある種の優しさが強すぎたのだと思う。
 太宰という人間がもっていた友人は、かれと同様に生きることがくるしいひとが多かったのだろうか。かれ、友人との飲みの帰りに家でむせび泣き、「やりきれねえ、やりきれねえ。あいつが辛そうだ」と呻いていたそうである。友人が戦争へ行く前、かれは銭湯で「生きて帰って来いよお」と泣きながら、友人の足の指の間まで丁寧に洗っていたそうである。
 ぼくは「芸術の為」とのたまい家庭をかえりみず不倫ばかりの津島さんが奥さんからなんだかんだ愛されていた理由は、こんなところにあったのではと思ったりもするのだ。太宰は不倫に不倫をかさねたが、ぼくの推測では、不倫したり芸術最優先の生活をしたりして、奥さん子供を傷つけて平然としていられる人間ではなかった(ぼくはそんな人間を、こんなにも好きになることはない)。
 平凡な、慎ましい家庭人としての一面をもっていたのが太宰治。否。津島修二であったと想う。
 ただ、文学の為、新しい道徳の為、芸術家らしく生活を台無しにし(かれが尊敬していたボオドレールの様な生き方をもしや模倣していたのかもしれないが、ふたりはひとのいたみへの感覚がちがいすぎる、ぼくはボオドレールという人間を、どうしても人間単位では好きにはなれない。酷いひとだと思う)、くるしみぬき、周囲へ”ごめん、ごめん”と内心で謝りつづけ、その自己の穢れ、──旧日本的な当時多数派のモラルから判断されたそれではなく──かれにより考えられた新しい道徳上の誤りを、つよすぎる自己意識、そして主流のそれにはなりえないモラルによるかれ固有の道徳裁判によって、注視しつづけた。その自意識のうごきを注視し、その自意識への批判をも注視し、みずからの狡さ、残酷さを注視しつづけた。
 なぜそうしてきたか?
 きっと、かれは、それらを治そうとしていたのだ。優しいひとに、なりたかったのだと思う。ひとを愛せる人間に憧れていて、その気持に従い、自分を変えたかったのだと思う。
 ぼくはこのような努力をしつづけた太宰治への、余りにあまりに思慮のない侮辱を耳にすると、特に著作を読んだことすらない人間の残酷な快楽に歪められた嘲笑の唇からそれが漏れると、劇しい情緒不安定を発揮、荒波のうねるようなくるおしい気持にもなって、憤怒か泣き崩れるかの二択を強いられ──本来の性格が気弱にできているから、結局は社会での居場所を確保したいから、いつだってその場を去りトイレかどこかで泣き崩れるほうをえらぶのだ。「あんなに頑張ったのに。ある意味でいえば一種の優しさが欠落した酷い人間であったけれども、ある意味でいえばすごく優しくてまじめなひとだったのに」、とぶつぶつ呟くのだ。
 ぼくのこんなところは、きっと、太宰にすごく似ていると想う。ぼくは自分のこういうところが太宰治に似ていると感じるがゆえに、自分に対して「ぼく、かわいいところもあるな」という自己愛的な感情をもっている。太宰の前で芥川龍之介を侮辱したら、きっと、かれはおなじような反応をすると想っている。

 太宰は自分と似た読者を励まし、どう転ぶかもわからぬ「救いの言葉」を呈し、おそらくや、それの虚偽と偽善を噛み締めながら死んだ。『人間失格』の主人公は、「自分は芸術をやりたかったのに、ひとへサーヴィスするだけの俗悪な絵しか描けなかった」というような内容の自嘲をしているけれども、これは晩年のかれの自己診断であったのかもしれない(されど太宰治は、けっして、断じて人間に失格してなどいないというのがぼくの考えだ)。
 ぼくは、「自分と似た読者を励ましたい、楽にしてやりたい」という平凡きわまる淋しい感情を、文学にそのまま持ち込んでは、いけないと思う。
 されどそれをして了った太宰治という作家の愛すべき人間らしさに、泣きつきたいような心情をもって了う。

 気づかれているとおもわれるが、「外れ者とそうではないひとを二分化してしまう白黒思考」「自他境界が引けていない感覚」というのは、まさに治そうとしてもなかなか治らないぼく自身の病的な人間観である。その双方を太宰治に投影しているというのが、先ほどの文章の特徴なのである。が、ぼくは太宰に対し「一面的にいうと、一種類の優しさがつよすぎる」という観方をしているが、ぼくは自分に優しさというものをまだ全く見つけられていない。

  *

 私たちは、生きていさえいればいいのよ。
    ──『ヴィヨンの妻』

 これは、時代のこぼしたニヒルの溜息であったのではないか。だが、これを読者へのメッセージと信じて現状を肯定し、現実と戦うことをやめた読者が、果して、のちにどんな生活を辿っただろうか。
 われわれは、生きていさえいればいいわけが、ないのだ。
 この“私たち”というのは、あるひとたち──読者に多いタイプ──を指していたかもしれない。なんらかの外部・内部の事情の綾織る不可視の条件が原因で、世間に馴染めない、愛情に飢えた、淋しがりやの種族を指していたのかもしれない。そのような種族がこの言葉をそのままに信じ、楽になっちまったら、ともすれば悪の影響をもたらされるように想う。
 前述したように、これは時代性を見抜いた一文であるとぼくは考えるけれども、太宰文学を読み耽るような人間が、これを自分へのメッセージととらえがちであるのは容易にかれにも想像がつくだろうから、半ばそんな意味もあったのかもしれない。
 あのひとは自分の文章が与える印象効果を狙い過ぎているし、過敏であるし、なにか自分のわるいところ、いや、どちらかといえば良いところを隠そうとしているように思われてぼくを苛々させるときもあるし、「この言葉が愛読者にどう受け取られ、作用するのか」というものを見抜く能力が卓越していた筈だ。ぼくには時々、それが鼻につく。

 生きていさえいればいいわけがないから、ぼくたちは悩む。死にたくなるほどに、善い人間になろうという願いをもって生きようとする。生きていさえいればいいと想えないから、あるひとびとは死者の自分を部屋の隅へ追いやって時々見遣りながら、死に物狂いで文学を読み、文章を書く。善への意志があるから、そう生きようとする。
 そうではないだろうか。
 太宰だって、きっとそうだ──そう、信じたい。
 そうじゃないと、ああいう小説を書かない、と、信じたい。
 されどぼくは──太宰治は、どうにかこうにかして、自分を救われない領域に置くことで、読者をどうにか救えないか、試行錯誤していた作家だったのではと検討しながら考えつづけている。

  *

 ぼくは、この「文学がひとを救いえるか」という一つの問題に、なんらかの結論を出す気はない。否。現在に限っては、現在のぼくには結論づけられないと結論することを、ここで宣言する。
 唯それだけが、ものを書き殴る無責任な我の強いひとの為せる、かずすくない誠実さと云えるのではないかと、ぼくは訝っているのだから。

 そして、この、文学と自己への懐疑のなかに自分を押し込めつづける裡で、どうにか、なんらかの一歩をすすめようとしている。

  2
 ところで、ぼくは十二歳から十四歳にかけて、中原中也と萩原朔太郎に命を救われた。自殺の危機を、のがれられたのだ。おなじ冷たさで、淋しさに疲弊し、死にたい気持に乾いていた手の甲に、そっと乗ってくれたのが、まさしくかれ等の詩であった。
 ぼくはここで、おそるおそる告白をする。
 ずっと、ずっとぼくが書こうとしている詩は、たかがこんなものである。「おなじだよ。淋しいよね」、そう言ってくれて、死にたい幾夜を紛らわせてくれる催眠剤。「うん、生きようか」とひっそりと伝えてくれる、劇薬。それに過ぎない。散文は、別。
 自殺からぼくをひきはなした、ありがたいことであった。 
 だが、それだけである。かれ等に安穏、幸福を齎してもらっただなんて、一瞬だっておもったことがない。
 ぼくはかれ等の影響で、淡く現実感のない実生活ではなく、それよりもよっぽど硬度の高い観念的生活のほうに住所を移した。そして、そのなかでのくるしみを愉しむようにもなった。ぼくはいまこれを反省し、できるかぎり世界へ意識をひらかせようとしているが、すくなくとも、これがきっかけでぼくはこれ迄生き抜くことができたようにもかんがえられる。しかし、あの時に死んでいた方が、いうまでもなく苦しみの総量は少なく、また外へ撒き散らす悪影響の総量だって少ない。だから生きるな、だなんて、ぼくは絶対に想わない。
 ぼくはひとを救えないし、救いたいとも想っていない(嘘)。ましてや、楽にしたいだなんて思ってもない(嘘)。こんな嘘をつく自分が、きもちわるい(本当)。
 唯、ぼくは自己を救われない立場へ沈めることでほかでもないぼく自身を救いつづけようとしているのだし、その結果生きて書いていて、それを、ぼくなんかの文章を読んでくれる方と、隣でお話するように淋しさと夢を共有したいのだ。もうすこし、もうすこしだけ、どこかで生きていてほしいと、目に涙を浮べながらおねがいしているだけなのである。
 そんなぼくが、もう、十年も書きつづけている言葉がある。いろいろなひとが書く言葉だ。

 救われたくない。
 救われないというのが、ぼくの救いだから。

 たとえば太宰治は、こんな風にかんがえたがる、惨めったらしいエゴイストだった筈だ。それなのに他者を励ました、そこには嘘がおおく含まれていた、そうおもう。ひとを楽にしたいけど、自分だけは不幸でいたいというのは、或る一面からみれば、ひとを騙しても平気だけど、世界一大切な自分に対してだけは誠実でいたいという、自己中心的な人間の発想ではないだろうか(これは自己投影。太宰の実際は、要検討)。
 ぼくは自己を苦しめているし、数少ない読者──存在ありがとう──に自己を苦しめる生き方に引き摺り込みかねない悪党の文章を書いてしまった。ぼく等をくるしめているものであり、そしてほかでもないぼく等が生存のためにいだいてきた「美辞麗句なインチキ」を剥ごうとして、まっさらな人間をえがこうとして、「それでもいい、俗悪でもいい、人間は、それはそれで愛らしい、生きていていい、生きよう」という主張を繰り返し繰り返しやろうとし、肯定に肯定を重ねようとし、最後の最後に救いを描写しようとし、毎度毎度失敗しては執筆後の自己否定にいそしみ、会社で体調不良になるくらいまでそれを引きずり、「あ」と真夜中に鳴る鶏鳴への反応のような不穏さで想いついたように「生きなきゃ(書かなきゃ)」「書かなきゃ(生きなきゃ)」と意欲し、それまでの自己否定が素材の自嘲にはじまる文章をまた書き始め、書き終えて自己否定し、それをやめられる気が、まったくしない。
 しばしば聞く言説。
 そういう人間は、作家になる才能がある。
 嘘です。
 作家になれないのに、もはや才能があるかどうかを気にすることすらやめちまって、嫌でも書くことをやめられない人間が過去にも今にもたくさんいて、あまたの作品が土に還ってきたという、「事実」がある。この事実は、ぼくにはなんだかいとおしい。世界が、無明というかたちできらきらと映るときがある。だから、ぼくは書くことをやめない。
 そして、文章を書く意欲の中に他者への気持なんか見つからず、「誰か、心の深い領域で解り合ってください」という、一点の、いい年齢をした男性がいえば「不気味だ」と多数のひとに感じさせるであろうが人間らしくもあるようにもおもえるエゴイズムしか見つかっていない。それの自覚と、自覚しているというアピールにみられるエゴイズムの自覚がある。
 けれども、ぼくの文章のそういった悪性が、読んでくれる方を騙したくない誠実さなんだとおもえないし(ぼくは現実の本質というものを、まだ、殆ど知らない筈だ。現実はリフジン、浅薄な世界観だ)、ほんとうは、ぼくは、文学なんかやめちまって、つよくてやさしいひとになって、好きな人ができたら結婚をして、大切にし合い添い遂げられるような、幸福を蒔ける平凡人になりたいのだ。だってぼくからいわせれば、そういうひとたちが、いっとう素敵だ。
 大衆、という言葉がある。
 大衆を軽蔑する気持は、愚かなそれだとおもう。大衆という概念は、たしかに一種その意味と適切な関係を結んでいる。それぞれの時代・国家・集団に、そういうタイプは一面的にいえばいると言えないだろうか。いろいろな観点があるから「この観点では、このひとは大衆と云えないことはなく、この観点では大衆とは云えない」のようなものでもあるとかんがえるけれども、ある一つの観点から見たとき、その言葉は、たしかに意味をなして立ち上がるとぼくはかんがえる。たとえば、音楽の特定のジャンルのマニアからすれば「大衆に人気のある音楽」というものはきっとあるし、その概念を用いれば、マニア同士で会話もしやすい筈。そういう文脈であったら、軽蔑心なくともこの言葉はつかいやすいものだ。
 それでは、ぼくにとっての、「道徳的」な観点ではかった際の「大衆」の話をしよう、ぼくの認知のゆがみはかなりある、むしろぼくのかんがえる大衆とは少数のひとたちに入るのかもしれないが、しかし、どうか聴いてください。
 ぼくの人間観からすれば、大衆というからには、良心的であるに決まっている。だって良心はとても平凡で、ある意味では古代ギリシャからほとんど変わっていないものでしょう? 大衆は、生活をちからいっぱいに生活している。世の中をまわしているのはかれ等であるし、無頼派のような主流になりえないラディカルな考えや言動で他者を混乱させないし、「こんな風に優しくしたい」という気持と、「こんな風に優しくされたい」が結ぶように綾織る関係をふわりと築くことができて、社会というものを成立させている。
 幸福を撒く、そういういい方をぼくはしたい。
 ぼくは、社会に適合している人間は悪人だと呻く人間は、すでに、すこしばかりは悪党だとおもう。余計なことをせず、現実を生活しているのは、十分立派なことです。
 されどぼくは、そうなるのが不可能な人間にだけ、ずっと語りかけてきたつもりなのだ。
 どうせ救われないのなら、くるしみを火にして、躰を花にして、かならずや「あなた」の道徳観念を抱いて、その時代の社会のモラルと対応し、自分の貞節を守り磨こうとしながら「社会・他者」を両方大切にするという矛盾の火にくるしみながら、「俺は現実の内でこう生きたい」と、現実に”撃ちこみ”にいったほうが爽快だ、なぞと、眸に残酷な火を浮べ、やつれた人相で、うそぶいた。のち、悔恨した。特別な美しさも特別な醜さも自分にはない、自分はほかの人間と同じなのだという領域に迄堕ちていったほうが、自分の生に納得がいく、なぞと、泣き腫らした眼で、”格好をつけた”。
 ぼくは、卑怯が、イヤだ。
 “撃ちこみ”、”格好をつける”、武家を誇る家系に生れたぼくが、敢えて憎んできた自覚のある、武士道的・任侠的な言葉で語った。
 ぼくは、卑怯がキライだ。自己欺瞞や妥協、美しく偽装された美しくないもの、そんな卑怯が、イヤなんだ。みずからの卑怯だけは、憎み抜きたい。剥ぎつづけ、剥きつづけ、残りのものはすべてのひとに共通項としてあるんだという夢をいだいて、ぼくだって他の人間と同じなのだと実感をして、その共通項をみつけたら、泣きじゃくりながらその光を愛し抱きしめ、それを全肯定したい。人間が生きる姿は素敵だ、そう実感したい。できることならそれの善性を信じ、それを詩に歌い、ネットの片隅でもいいから遺したい。そして、中也と朔太郎がぼくに与えてくれた詩的作用のようなものを、他者へあけわたしてみたい。まるで子供が綺麗な石ころを、大好きな他者へ、そっと笑顔で手渡すようなきがるさで。
 無名の歌、匿名の歌、無個性の歌。ぼくは、ずっとこれをめざしているつもりだ。
 死にたい人間が生きようとする点の連続連続は、祈りである。祈りとは、いつだって肯定への悲願である。ぼくたちは生きるにあたいする、そう信じるための祈りである。それを信じようとするための祈り、それが、昨日も今日も明日も自殺しないということだ。死ぬことを折り、生きることを肯定する。つまりは、ぼくらにとっては生きることそのものが祈りなのだ。
 ぼくは『硝子盤』で自分の右翼的な欲心のはらむ偽善への破壊活動をおこなったつもりだが、おそらくや、骨の髄まで、武士道的な美に炎ゆる右翼的な血が流れている。ぼくは、ぼくの命なんかよりも美しい領域に、「わたし」の躰を投げ棄ててみたい。俺は俺なんていらない、そううそぶいて、幾夜幾夜を茫然と過ごして、嗚。
 ところで我に問うが、ぼくの躰を投げ遣ってやりたい美しい領域とは、なんぞや。
 現実。
 理想。
 これ等は、ぼくにとって、おなじものだ。
 双方はボオドレールいわく、一女神の双頭にすぎぬのだから。

文学なんかに救われたくない

読んでくれてありがとうございました。生き抜こうね。

文学なんかに救われたくない

エッセイ 文学観・太宰治観

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青春
  • 成人向け
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2026-08-03

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