百合の君(121)
珊瑚は守隆の手を借りて、死装束に着替えた。座ると、三宝に置かれた短刀も、介錯に立つ守隆も、ずっと以前、珊瑚が生まれるよりも前から、ずっとそのままでそこにあるかのように、ゆるぎなく、静かに並んでいる。
息をつく。ああそうだ、これはあの時と同じだ、と珊瑚は思った。あの戦は、私を殺すためのものだったのだろう。百鳥望を追って、かえって逆襲を受けたあの戦。私が死にかけていたとき、父上(出海浪親)は白浜と一緒に本陣でそれを見ていたはずだ。
あの時の父上の願いの成就としてこの光景があり、そして今、私の首を待っているのは、生みの親たる喜林義郎だ。
二人の父を持ち、二人の父に捨てられた私は、何を頼って生きればよかったのだろう。悔いしか残らぬ人生だったが、また同じことを繰り返すのなら、やり直したいとも思わない。
大きな音が城内に響いた。そこでは時間が止まっていると思ったのは、珊瑚の錯覚だった。もう猶予はない。
守隆に視線を送る。頷く。三宝の上の刀は、簡単に手が届いた。 珊瑚は鞘から濡れたように光るその刀を抜いた。それは外の雪のように美しかったので、 珊瑚は最期に慰めを得た。刃を返し、自らに向ける。
「これは、喜林様の軍でふか?」
藪から声が聞こえた時、義郎はまだ自分が幻の中にいるのかと思った。振り返ってみると、雪山には似つかわしくない襤褸をまとった男が立っている。義郎が刀に手を伸ばすと同時、兵たちが男を囲んだ。
「木怒山の討伐に向かわれるのでほう」
しかし、男はたじろがなかった。しかも、その声には聞き覚えがある。
「このままでは、間に合いまふぇん」
「あの時の、小僧か・・・?」
出海と別所の戦のあと、捕虜となっていた少年だ。ただ穂乃に見せびらかすためだけに、煤又原城に連れて来た。長いこと乞食でもしていたのだろう、汚れが染みついている。
「その節は、お世話になりまひた」
男は礼儀正しく頭を下げる。
「世話などしていない」義郎は改めて男を見た。「して、お前を信じる理由は?」
男はためらった。その身なりと躊躇は全く不似合いだった。この男は、どこかで本来進むべき道から外れてしまったのだろう、と義郎は思った。そして、それは自分も同じだと思い直した。忘れもしない荒和二年の十二月三日、出海浪親が穂乃をさらっていなければ、こうはならなかった。
「木怒山は」
男が話し始めたので、義郎はそれ以上の追憶を免れた。
「木怒山は、父の仇なのでふ。わたひの父は、百鳥望といって、喜林様にお仕えひていまひたが、木怒山に殺はれてひまいまひた。わたひは父のことが好きではなかった。ひかひ、親を殺はれて、黙っていることなんてできまふぇん」
運命のいたずらに、義郎は笑い出しそうになった。あの望が命がけで探していた息子が、あの時の餓鬼だったとは。
「そうか、お前が園か・・・」
そういえば、天蔵が探しているという友も、同一人物だったはずだ。
「大事にされているのだな、みながお前を探していた」
「全然知りまふぇんでひた」
園は、汚い顔に白い眼を大きくさせて驚いていた。
「わたひは、天蔵がうらやまひかった。清い心を持ち、好いた女子にも好かれ、武にも優れ・・・。わたひは、天蔵になりたかった」
「天蔵は、お前の事を慕っていたようだが」
また少しの間があった。
「わたひは、自分のことひか考えていまふぇんでひた。父の心も、天蔵の心も、考えたことがなかった。わたひは、百合の君に申ひ上げまひた。戦場で英雄になれる男なら、村でとっくに英雄になっていると。ひかひ、ほれでは足りない。愛はれていることを知り、ほれでもなお身を捧げることのできる人が、英雄と呼ばれるに値ふるのでふ。ほうでなければ、ただ孤独な鬼がいるだけでふ」
園の言葉は、義郎の心に突き刺さった。貫通しても抜けない、長い長い矢のようだった。が、新たな迷いを義郎は嫌った。義郎は矢を無視した。いずれにせよ、やることは同じなのだ。木怒山を滅ぼす。
「急ごう」
園は静かにうなづいた。影が這うように、園は走り出した。その体臭は、通り過ぎた幻のように、いつまでもその存在を誇示していた。
百合の君(121)