映画『春樹』『ルオムの黄昏』レビュー
一
今年10月に閉館することが発表されたシネスイッチ銀座で上映中のチャン・リュル監督の姉妹作、『春樹』『ルオムの黄昏』を観てきました。
スタンドアローンの作品として『春樹』が撮られた後、休暇で立ち寄ったルオムの街並みからインスピレーションを得た監督が同じキャストで『ルオムの黄昏』の制作を開始。時代に取り残される人間の姿=『春樹』に、中国の歴史を色濃く残す古鎮=『ルオムの黄昏』を重ね合わせることで中国という国の時空間を映し撮ろうとする意欲作です。
四川省成都の出身でありながら、成都の方言を少しも話せない春樹が俳優を止めて地元に帰り、再会した先生とその息子との間で揺れ動きながら第二の人生を模索する『春樹』は、認知症を患い、寂れた映画スタジオを徘徊する先生がシンボルとなってストーリーが展開します。
標準語を話せなきゃ一流の俳優にはなれないという信念を持っていた先生は、生徒の中でたった一人、完璧な標準語を話す春樹に目をかけていました。それを誇りに思っていた春樹は、けれど、俳優としては目が出なかった。三十代を迎えてビッグチャンスを掴む目前までいきますが、リアル志向の監督の方針と衝突。出身地の方言が話せないということでキャスティングから外されてしまいます。
俳優業の看板を下ろし、打ちひしがれたまま故郷に戻って先生に会うも、彼女は曖昧模糊な世界に住んでいて、意思疎通が難しい。はっきりとした意志を見せたら見せたで、口にするのは「あの頃」のことばかり。春樹からすれば、彼女が掲げる標準語のせいで自分のキャリアが終わった。そう感じる部分も少なくないのですから内心、複雑で仕方ない。しかも先生が、今はもう使われていない映画スタジオ内を彷徨くのを習慣にしてるという話を息子から聞くと、居ても立っても居られずに後をつけて、自分も彷徨うになる。
先生自身、上海の出身で、言葉づかいも含めて俳優としての自分を鍛え上げた人だったのですが、そのために息子を置き去りにした過去がありました。息子である彼は、だから、彼女を憎んでいる。妹と一緒に介護を続けてはいますが、地元上海で板金工として積み上げていたキャリアを失ってまで、自分を捨てた人間の面倒をみなければいけない現実に歯噛みする毎日を送っています。そんな時に春樹の来訪はありました。かつての先生であり、母親である人物の近くにあって穏やかならざる感情を抱く者同士、あまりにも似ている二人です。何も起きない、なんてことがまずあり得ない。
「あの子には近付かないで。あの子は敗者よ」
「あの子は止めときなさい。考えすぎる男はダメよ」
息子に対しては先生として、教え子に対しては母親として忠告するこれらの言葉は、けれど二人のどちらにも届くことがなく、第二の人生に向けた選択は行われます。訪れた先で憧憬を形にしたような街並みを目にし、また妊婦の身に宿る美しさを謳った詩を耳にして、変わらないものを信じた恋人同士はそうして再び、人生を後悔する。
時代遅れだとバカにしたのに。二度と振り回されたくないって、その腕を強く払ったというのに。
最先端の発展を目指す社会は、それを繰り返さざるを得ない点でリピートされる音階に類似する。ピアノの前で春樹が何度も行き来する鍵盤の音色(ドレミファソラシド)は、産まれてくる子に向けて聴かす子守唄のようでいて、残酷な教えのようにも映ります。
流行の浮き沈みに左右される価値観に縋って、私たちは、いったいどこへ辿り着けるというのだろうか。ドローン撮影の手法で捉えられる中国の都市風景に圧倒されて、思わず飲み込んでしまう疑問ないし不安はこうして無事『ルオムの黄昏』へと引き継がれ、深化していきます。
二
歴史的な建造物が数多く並ぶ古鎮、羅目鎮(ルオム)を舞台にした『ルオムの黄昏』は喪失を大きなテーマとします。
例えば、主人公の白(バイ。以下、単に「バイ」と記す)にとって羅目鎮は恋人であった王(ワン。以下、単に「ワン」と記す)が最後の便りを寄越して行方不明になった場所です。そのワンを捜すための手掛かりを得るため、羅目鎮を訪れたバイが宿の亭主である劉(リウ。以下、単に「リウ」と記す)と出会う。彼女にはかつて結婚相手との別れ際に強姦された過去があるのですが、そんな彼女には二十年間、恋心を向けてくれる黄(ファン。以下、単に「ファン」と記す)がいました。ある日、リウは彼から遂にプロポーズされるも、その数日後にファンは羅目鎮を去ってしまいます。プロポーズを断られた訳でなかったのに、あるいは断られもしなったから故郷を後にしたのか。いずれにしても羅目鎮の地で唐突に生まれたファンの不在は、否応なくワンの現在を彷彿とさせ、すれ違うべき運命をも暗示してみせます。
それからもう一つ、見過ごせない喪失として夢と現実の境界線があります。
バイがかつて北京でダンサーをしていた時、彼女の友人が目の前で飛び降り自殺をしました。
その直前に髪をポニーテールにまとめ上げ、バイに向かって「私、まだダンサーに見える?」と彼女が言い残したことから、舞団内の激しい競争が原因だったのでないかと推測できるのですが、バイにとってはそれどころの話じゃありません。ショッキングな死を目の当たりにしたことで精神を病んだ彼女は酒を浴びるように飲み毎日を過ごし、アルコール中毒になってしまいました。
更生施設に入っても入退院を繰り返し、快癒とはいかなかったバイは今も禁断症状に苛まれ、羅目鎮でも幻聴をよく耳にします。街中を歩いていると、昔と同じようにワンが楽し気に道案内をしてくれる。かと思えば、列車が線路の上を勢いよく走り抜ける音がして、その場に立ち尽くしてしまう。正気じゃいられない。
それでも羅目鎮を離れられないバイは、かつて恋人がそうしたように、その地で過ごす時間を積み上げていきます。顔馴染みも増えて、散策している途中でお饅頭を貰ったり、近所の人たちのスマホに残っている写真データを見せてもらったり、噂話を聞いたりして、彼の痕跡をゆっくりと辿るバイの精神は安定さを取り戻していくように映ります。けれど、待ち望んでいたはずの「その時」が訪れた瞬間、彼女の全ては壊れてしまう。
バイが知らなかったワンの真実の一つに、彼が詩人であった(らしい)というものがあります。自分と同じアルコール中毒の患者であった彼が、自分とは違い、治療に成功した後で行き着いた羅目鎮。そこで暮らしていた詩人が、街の歴史を一色に染めた夕暮れ時を撮った写真に言葉を添えて、私の元に送ってきた。そこに込められた意味は、タイトルにもある「黄昏」が、本邦では逢魔時として彼岸と此岸の境を曖昧にするものとして伝えられていることを思うとより一層深くなります。
悠久の時を生きる。その究極の形として君臨する不在は、しかしながら心底恐ろしいものです。一度でもその敷居を跨げば、二度と戻ってこれない。それを察したからバイはラストカットで、リウに向かって、あの台詞を必死に吐いたのだと思います。
未来に向かっていたのが『春樹』の時間軸なら、『ルオムの黄昏』のそれは果てしない過去へと遡ろうとする。そのどちらにも属せない寄る辺のなさこそ「現在」を正しく表現する。こう考えると、姉妹作と位置付けられた二作品が描くものは、社会経済の構造の違いなどを軽々と超えて私たち観客の胸に強く響きます。チャン・リュル監督の生い立ちや経歴なども参照すると、幹の太い問題意識も透けて見えるようです。
ジャーナリスティックであり、かつアーティスティックでもある非常に優れた映画なので多くの方に観て欲しい。冒頭で記したようにシネスイッチ銀座で絶賛、上映中です。興味がある方は是非。
映画『春樹』『ルオムの黄昏』レビュー