四十六円の猫

読んでくださる方に感謝します。

 今年で四十五歳である。体の内側は、至る所に癌が転移し、なぜまだ体が動いているのかわからないほどだった。だが、体を動かすたびに、まるで自転車のペダルが湿気や雨水で徐々に錆びついていくように、私の体もまた、錆びついていく。
 私は錆びついた体を動かすたびに、「ああ、なぜこんなことに」と口から言葉が漏れ出そうになる。だが、いまさらそんなことを言っても、どうにかなるわけじゃない。
 どうせ死ぬならと思い、先月、奮発して買った茶色一色の安楽椅子を、私の部屋の窓際に置いた。その安楽椅子に腰を掛け、最近買ったミステリー小説を読む。これから死に向かっていることを忘れれば、私にとって最高の一日になっていた。
「誰だ?」
 今日も今日とて、安楽椅子に腰を掛け、昨日買ったミステリー小説を読もうとしたところ、誰かがインターホンを押した。すでに安楽椅子に座ったところなので、居留守を使ってやろうかと思ったが、何度も何度もインターホンが鳴るので、怒りが湧いてきた。
「誰だ、まったく」
 ゆっくりと安楽椅子から立ち上がり、窓際に横たわらせていたステッキを右手で持ち、コツコツと音を立てながら、ドアの方まで歩いていく。
「はいはい、出るよ」
 チェーンロックを外し、ドアノブをひねる。
「やあ!」
 ドアを開け、目の前に現れたのは、最近引っ越してきた前園さんだった。私と前園さんは同じく小説オタクであり、同じ図書館に通っていたこともあってか、すぐに仲良くなった。
「なんだ、君か」
「どうしたんだ? また癌の進行が早まったのか?」
「君には関係ない」
 私は目をそらし、すぐさまドアを閉めようとした。だが、ドアの隙間に前園さんの右足のつま先が挟まれた。
「まあ、待ってくれ、君に話があるんだ」
「何の話だ?」
「実は君に買ってほしいものがあってね」
 ドアを閉める力を緩めると、前園さんは左手に持っていた猫用キャリーを私に見せつける。見せつけてきた猫用キャリーから顔をのぞかせていたのは、やはり猫であった。
「買い取ってほしいものは、猫かね?」
「ああ、この猫、実は幸運の猫なんだ」
「ほう、ならば君にも幸運が来たのかね?」
「ああ、最近お小遣いが上がったんだ」
「そうか、私には妻もいないし、もう死んでしまうから意味はないな」
「まあまあ、そう言わないでくれ」
「それより、なぜ猫を私に買い取ってもらおうと?」
「ん? ああ、妻が猫アレルギーになってしまってね」
「なるほど」
 しかし、猫か。
 猫の種類は黒三毛だろう。名づけるとしたら安直に『黒』か。だが、
「断る」
「理由を聞いても?」
「猫は高いし、餌代もかかる」
「じゃあ、四十六円でどうかな?」
「なぜ四十五円ではないのだ?」
「いや~、最近お小遣いがピンチでね。あと四十六円あったら、新しい小説が帰るんだけど・・・」
 右手で頭の後ろを触り、横目で私を見る前園さんの考えはよくわかった。どうにも引き下がってくれないと思い、渋々了承することにした。
「わかった、財布を取ってくる」

   ◇

「しかし、汚いな」
 自分の部屋を見渡す。キッチンとダイニングテーブルは埃を被っており、床も汚い。
 猫用キャリーをダイニングテーブルに置き、まずは掃除から始めた。
 私の家に掃除機はなく、俗にいうコロコロしかなかった。「ニャー」という鳴き声。
 残念ながらキャットフードはなく、冷蔵庫には牛乳しかない。私は冷蔵庫から牛乳と食器棚から皿を取り出して、皿に牛乳を入れ、猫用キャリーから猫を出した。
 黒三毛の『黒』は少し、前の右足をあげ、机から下に降りようとしなかった。
 私は持っていた牛乳入りの皿を『黒』の隣に置いた。「ニャー」という鳴き声と共に、小さな舌を出した『黒』は、牛乳をすくい上げた。「うまいか」と私は一言つぶやいた。「さて」と私は呟き、床に転がしていたコロコロを拾い上げ、一直線に動かした。

 床の掃除は終わり、少し休もうと窓際に置いていた安楽椅子に座ろうとした。窓際に近づくと、窓全体に雨だれとふちには多少のカビがこびりついていた。男とは難儀なものであり、一度掃除を始めると、最後までやりきるという自己責任が植えつけられる。それは私も同じであり、キッチン棚から雑巾を取り出して、水で濡らし、雑巾で窓を拭き始めた。「ニャー」という鳴き声が聞こえ、私は後ろを振り返る。私は『黒』が、またご飯をねだってきたのかと思った。だが、『黒』は机の上におらず。
 「ニャー」という鳴き声と共に、横顔を何かが通っていった気がした。窓の外側を拭くために、窓を開けていた私はすぐに窓に乗り出し、真下を見た。猫は高いところから落ちても平気だというが、本当のことだったらしい。宙で舞っていた猫の体が地面に落ちるまでの何センチすれすれで、四足歩行の体制で綺麗に着地していた。二階から見ていた私も綺麗なフォームだなと思った。「ニャー」と鳴く『黒』は、壁を飛び越えどこかに行ってしまった。それを見た私はなぜか呆れていた。猫の好奇心と行動力に驚きを通り越して呆れたのか、そんな猫がいるのに窓を開けてしまった私自身に呆れているのか。


   ◇


 一週間が経った。しかし、まだ『黒』は帰ってこない。もうすでにこの街にはいないのだろうとかと思った。前園さんにはどう説明しようかと、弁明書を頭の中で書いた。いまも、私は窓際に置いてある安楽椅子に腰を掛け、目をつぶりながら考えていた。たしか猫は、飼い主の目の付かないところで死ぬと聞いたことがある。前園さんからもらった時は、猫の歳までは聞いてなかったから、もう『黒』は年寄りだったのだろうか。
 私は安楽椅子に座りながら顔を窓に向けた。見てみれば、窓はまた汚れていた。最近掃除したのに、汚れていることを不快に思った私は、キッチン棚から雑巾を取り出し、水で濡らし、窓を拭いた。
 ふと、窓を開けた。窓からのりだし、下を見た。買った猫が、こんな逃げ方をするのに、私はひそかに傷ついていた。
 心地よい風が顔に当たる。「ニャー」という鳴き声を聞いた。私は振り返り、机の上にいた『黒』を見た。なるほど、心地よい風と共に帰ってきたのか。私は安楽椅子から立ち上がり、『黒』に近づき、「おかえり」と低い声で言った。ふと私は、『黒』が口にくわえていた万年筆を私は親指と人差し指でつまんで、『黒』の口から離した。「おお、これは」と私は瞠目した。万年筆には私のイニシャルが刻まれていた。これは私が一年前になくした物。
 私は私の部屋にある小さな書斎のドアを開き、書斎にある小さな机の引き出しの中に入っていた原稿用紙四百枚を、自分の目の前まで持ってきた。
「もう一度書こう」
 私は、この癌と万年筆をなくした喪失感で気力を失っていた。だが、『黒』が万年筆を探し、私に持ってきてくれたおかげで、小説を書くという願望と気力を思い出した。


   ◇


 私は今日も今日とて、窓際に置いた安楽椅子に腰を掛け、窓から差し込む暖かな光に当たり、浸っていた。『黒』は今日も今日とて、窓から出て行き、何か私に特別な贈り物を持ってきてくれる。前園さんが言っていた幸運の猫というのは本当だったらしいと今思う。
 だが、その贈り物も受け取れそうにない。私はかすかな息苦しさと共に、目を閉じた。

 四十六歳で、私自身の生涯は安楽椅子に座ったまま、安らかに終えることとなった。

四十六円の猫

四十六円の猫

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-07-25

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