負け犬のバラッド
「もう無理、付き合いきれない」
涙ながらに、婚約者である花井香苗は、そう言った。千賀蒼の頬を平手打ちしながら。
どうして。
そう蒼が口にする前に、香苗は空になっている薬瓶を蒼に投げつけた。
落ちて、割れた。
「蒼のオーバードーズに付き合うのも、それに作曲家になるって夢を見ている姿も、もうたくさん」
でも。
そう蒼が口にする前に、立っていた香苗は泣き崩れた。
「私だってしんどいよ。辛いよ。でも、蒼はそう言わせてくれなかったじゃん」
嗚咽を漏らしながら、続ける。
「いつも自分の方が辛いって顔して。私に見向きもしなかった」
蒼は、呆然と立ち尽くす。
「未来が、見えないの。蒼といても、幸せになる未来が見えない」
蒼の視界も、ぼやけた。
「退去費用は私が出すから、もう私を自由にさせて」
そう言って香苗はゆらりと立ち上がる。札束をダイニングテーブルに叩きつけると、そのまま出ていった。
蒼は、それを見つめるしかできずにいた。
数日後。家具は、全部売り払った。部屋は空っぽになった。
香苗。
蒼は、何もない部屋で、ただ茫然と座っていた。手元に残ったのは、ギターとスマートフォンと、わずかな市販薬。
香苗に、メッセージを送るが、返信は無かった。
香苗。
何も考えたくなかった。手の内にある、市販薬を一瓶飲み干した。
視界が歪む。思考も歪む。蒼は、その場に寝転がる。充電がわずかなスマートフォンを、眺めた。
写真フォルダの中には、香苗と蒼の写真がたくさん入っていた。どれも、笑顔だ。
作曲した曲をまとめたフォルダに触れる。その中の一つ、「叶う」とタイトルをつけられた曲を再生する。
香苗へ向けた曲。サイケデリックな曲が多い中、バラード調に仕上げられている。ギター一本で弾き語りをしているそれは、涙腺を刺激するには十分過ぎた。
「香苗」
嘔気とともに、最愛の彼女の名を吐き出した。
苦しくて、仕方がなかった。
僕は、どうすればよかったのだろう? どうしたら、大切に思っていることを伝えられたであろう? どうすれば離れていくことを阻止できたのであろう?
疑問が渦巻く。それが、嘔吐反射を刺激する。
反芻する思考は、薬によって強制的に止められようとしている。
いっそこのまま。
このまま、いなくなれれば楽なのに。
そう思いながら、部屋の真ん中で意識を手放した。スマートフォンの充電は、とうに切れていた。
蒼と香苗は、高校時代からの付き合いだった。
高校二年生の春。音楽の授業でギターを弾いていた時。蒼は幼少からギターに触れていたため、授業を難なくこなしていた。その横の席でもたついていたのが、香苗だった。
「これ、こうすると弾きやすいよ」
おせっかいにも、蒼は香苗にそう声をかける。
「ありがとう、本当だ」
それが、香苗と蒼の出会いだった。
世話焼きで優しい蒼。自分のしたいことがはっきりしている香苗。二人は、家の方向が一緒だったこともあり、二人で下校するようになった。
時には、香苗の提案で寄り道をして帰る。肉まんを、半分にして食べる。温かいお汁粉も飲んだ。
二人の距離は、確実に縮まっていく。それは、恋心と呼べる何かに、発展していく。
「ねえ、蒼」
雪のちらつく下校道。香苗は不意に蒼の名前を呼ぶ。
「なに?」
蒼は振り向く。いつもと変わらない笑顔。
「好き、って言ったらどうする?」
と、香苗。
「え、それは嬉しいなあ」
蒼は呑気にそう言うものだから、思わず香苗は蒼の背中を叩く。
「違うの、そうじゃなくて」
蒼は本気で察していないようだ。ますます、香苗は自分が恥ずかしくなっていく。
「恋愛として、好き、なの。付き合ってほしい」
香苗は俯きがちに言う。それでようやく、蒼もその気持ちに気づいて、俯く。
「え、それ、僕も同じ、かも」
と、どもりながら蒼は言うものだから、香苗はもう一度蒼の背中を叩いた。
「気づくの遅すぎ」
香苗の紅潮した顔を見た。
「でも、ありがとう。これからも、よろしくね」
蒼も、紅潮した顔を上げる。目線が交わる。うまく合わせることが、できずにいた。
二人は、別々の大学に進学した。それでも、時間を見つけては会えるようにしていた。
「就職したら、一緒に暮らしたいね」
と、デート先のカフェで香苗は言った。
「そうだね」
蒼も、コーヒーを飲みながら、そう言う。
二人の時間は、ゆっくり、かつ着実に進んでいく。互いに、留年せずに、就職へと駒を進めていく。
蒼は営業職、香苗は事務職に就く。それと同時に、二人は共同生活を開始する。
生活リズムは同じ。同じ時間に家を出て、同じ時間に帰る。一緒に食事をとり、一緒に寝る。
その生活が、愛おしくて仕方がなかった。
冬。一段と寒さが身に染みた。
蒼は、ベッドから出られなくなった。
「蒼、仕事行かないの?」
最近、蒼の元気がなくなっていたのは、香苗も気が付いていた。
「今日は無理かも」
蒼は、業績が振るわなくなっていて、上司から詰められることもあると話していた。
「そっか。私、行くから、ご飯は食べてね」
香苗はそう言うと、家を後にした。
カーテンを開けるのが、怖かった。ベッドから出るのも、怖かった。いつの間に、こんなに臆病になってしまったのだろう。布団をかぶって、蒼は自問自答する。
上司からの叱責が。仲間の冷たい目線が。思い出したくもないのに、記憶の蓋は、開かれてしまう。
その日、香苗は一四時に帰宅した。
「香苗?」
ベッドルームを開いた香苗は、蒼の布団を奪った。
「このままじゃ、蒼、駄目になる。病院に行こう」
そう言って、香苗は強引に蒼の手をひいた。
冬の澄み切った空気を切って、香苗は歩く。スウェット姿の蒼は、それに着いていった。
何時間も待つ病院。一〇分の診察。休職を言い渡された。
「蒼、ゆっくり休んでね。私が支えるから」
香苗は、蒼の手を握ると、そう言った。
彼女に支えられるなんて。卑下した気持ちで、その温かい手を感じていた。
仕事に行き、帰ると家事をする。そんな香苗が聖人に見えた。
対して、僕は。
何もできず、食事の時だけベッドから出る自分が、情けなくてたまらなかった。
香苗は、文句ひとつ言わずに、鬱々とした蒼に付き合う。
早く良くなりたくて、インターネットで抑鬱の治し方について調べた。
インターネットには様々なことが書かれており、オーバードーズを知ってしまう。
前借でも、元気になれるのなら。藁にも縋る思いだった。
咳止め、風邪薬、市販の鎮静剤。何でもやった。気持ちが楽になるだけで、元気にはならなかった。それでも、オーバードーズをしている時だけはベッドから出て、ギターを触ることができた。
当然、香苗にオーバードーズをしていることは目撃されてしまう。
「やめてよ、身体に悪いでしょ?」
と、叱責されても、やめることはできなくなっていった。
家に引きこもっているうちに、外界は春になっているようだ。
咳止めを過剰摂取して、ふらつきながらリビングへ出てくる。その時。
脳内への雷鳴。それは突然。高揚。
「蒼、起きたんだね。なんか食べる?」
時間は一八時を回っていた。香苗がこの時間にいるということは、今日は土日のどちらかだ。
「香苗、僕、仕事を辞めようと思う」
「なに、突然」
突如とした蒼の宣言に、香苗の声がひっくり返る。
「作曲家になる。今でも、ギターなら触れるし」
「は?」
香澄は、唖然としてそれしか声が出ない。
「だから、仕事をやめる。僕ならできるよ」
昨日までの陰鬱さは影を潜め、まっすぐに、狂った瞳をする蒼。
蒼はその日のうちに退職届を書き、郵送をした。
最近では、スマートフォン一つでも、作曲ができるアプリがある。
それに熱中しているかと思えば、一週間後には床に伏せる生活。
気が違っている。香苗は、それを怪訝な目で見ていた。
受診も辞めようとするものだから、香苗は蒼を引きずってでも病院へ連れて行った。
抗うつ剤が、無くなった。気分安定剤を、増やされた。
オーバードーズを繰り返すため、週に一度の通院になった。
気分の乱高下も、繰り返す。
「香苗、今日も曲を作ったよ」
そう言って聞かされるサイケデリックトランスは、気味の悪いものだった。そういう時は大概、咳止めを過剰摂取して、視線が合わない。
そうかと思えば、数日寝込んで起きてこず、食事を摂らない日だってあった。
私がしっかりしないと。香苗は、そう思って通院の付き添い、食事、散歩だって提案した。うまくいかないことの方が、多かった。
二三歳になる夏の頃。
香苗は、金銭だけ叩きつけると、蒼の元から去っていった。
蒼は、実家に帰った。悲しかった。悔しかった。自分がおかしいのだと、再確認させられる。
友達も、いなくなった。彼女も、いなくなった。両親からも、白い眼を向けられる。
狂ってしまった。咳止めは、やめられなかった。
唯一のよりどころは、スマートフォンの中。SNSで闘病している仲間たちだった。
ただ傷を舐めあうだけではない。正面から病気と向き合う人もいた。
「自己の気持ちを整理するだけなら、チャットAIも良いと思うよ」
と、闘病を行う仲間から聞いて、アプリをダウンロードした。
AIは、知識と共感をくれる。なぜ自分は、気分の乱高下を繰り返すのだろう。どうすれば、オーバードーズが辞められるのだろう。
この自分という生き物を整理したい。
そう思って、AIと話した。
まずは、自分自身ありのままを受け止め、客観視すること。
そんなことを、AIは言っていた。
優しいことは、時に自己抑制になってしまうことがある。
そんなことも、言っていた。
作曲家になるという誇大妄想も、ベッドから出られないという抑鬱も、全て症状であること。
そう教えてくれた。
同時に、まだ疼く、香苗への想いも整理する。
香苗がいないと生きていけない。それがすでに依存であることに気が付いた。
もう会えない。けれど、香苗に万が一会えた時に、こんな自分でいいのか? もう一度振り向かせることができる人に、なりたい。それが、香苗でなくてもいい。誰かを失望させる人から、脱却したい。
そう、強く思った。
春。あの日と同じ季節がやってきた。
蒼は、コンビニでアルバイトを始める。まだ、顔の知っている人に会うことは憚られたため、深夜のアルバイトにした。
その加減で、オーバードーズをする暇がなくなった。したいとも、思えなくなった。
ギターを触ることは、嫌いにはなれずにいた。作曲も、細々と続けていた。
最近は、ポップスをメインに、弾き語り調の曲を作ることが多くなった。
失ったものは戻ってこない。でも、失ったものを想うことはできる。
バイト前の夕方。蒼はギターに触れていた。
曲にしよう、この思いを。香苗に向けた曲を作ろう。
そして、それでこの思いは終わりにしよう。未練の無いように、作ろう。
ふとそう思うと、自然とメロディーが頭に沸いてくる。コードを、当てはめていく。
あの時の曲と同じ、バラード調の音色が響く。
そうだ、それに僕自身の気持ちも乗せて。
誰かの耳に残る、そんな何かを。
もう届かない、あの人のために。これから届く、誰かのために。
外の風に、桜の花びらが舞った。
負け犬のバラッド。誰かに届くことを願って、一人部屋の中でギターを鳴らしていた。
負け犬のバラッド
この小説は、闘病仲間であり良き友人の作曲家から着想して書きました。
どうか彼に幸あらんことを。