電話を耳にあてながら、私はいつの間にか空になったティッシュ箱を見ている。母の声はいつになく力強い。
「それで、申し訳ないんだけどその子はお断りしちゃったの」
「すごいね。始めたばかりなのに、そんなに人が集まるなんて」
「私も実際信じられない。こんなことって初めてなの。その子の親御さんにもなんて言おうかって迷ってて」
 徐々に熱が入り口調が早くなっている。もう頃合いだなと考えていると、それでねと母が言った。
「今の仕事は順調なの?」
「順調」
「そうなの。それじゃあね」突然電話を切った。それは常套手段だった。
 時計は10時を回っている。今動けばあと少し何かできる。動かなければこれで終わり。夜遅く仕事に出る隣人が扉を閉める音がした。
 二年前保育士を辞めてから、周囲の人々は私に対して緊張しているみたいだ。腫れ物に触れるようなものでもない。ただ以前はそこにあった安心が失われてしまったような気がする。あなたは保育士になればいいと私に言ったのは祖母だった。それ以来自分のなるべき姿について深く考えることはなかった。なぜだろう。
 ペンと紙を取り出して白い空白を見つめた。母は先月硬筆の教室を開いた。「こうひつ」という音がどんな意味とも結び付かず混乱しているところ、「鉛筆」と母は言い換えた。あなたも習わせていたんだよ、と言った。私が硬筆を習っていた? 
 
 私が結婚した人のことを何と呼べばいいのかわからない。私たちは家族であるが、それもよくわからない。「理解が追いつかない」という言葉が嫌いだ。何か重要な事実を歪めているような気配がする。その人は、夜中外に出ていることが多い。一度、その間に何をしているのかを聞いた。「自分にとって必要な時間を過ごしている」とその人は言った。
 白を見つめていても埒が開かず、そこに四角のマスを書いてみた。そうするとそこで何かが生起しそうな手応えを覚えた。遠くで足音がなる感覚。芝生をスニーカーで踏むような微かさ。微妙なニュアンスは、言葉にした瞬間消える。不可逆なことだ。間違えて明日のニュースが今日報道されたら、忘れてくださいとは誰も言えない。
 昔の私ならそこに「希望」と書いたかもしれない。いや、「未来」と書いたかもしれないし「翼」と書いたかもしれない。一度父に、「お父さんへ」と書いた手紙を渡した。「これは俺のことか」と聞き返された。最近そのことを父に話したら、そんなことを言うはずがない、と返ってきた。私だってそう思う。私をこの世界に産み落とすまでは母でも父でもなかった人々のことを私は両親と呼ぶ。
 ペン先を紙に当てそこに「血」と書いた。今の仕事はもう時期辞めるつもりだ。ただ今はその時期ではないだけ。
 

 
 
 

 
 

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-07-20

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