羊が一匹


黒い羊を飼うんだ、とマチはその日から檻を作り始めた。風呂場で見かけるようなすのこを床にして、ホームセンターで買ってきたベニヤ板で羊が逃げられないように周りを囲んでいく。食事とトイレ以外は黙々と作業を続け、2日間で不恰好な檻を完成させた。その間、慣れない工作で彼が怪我をしないか私は気が気でならなかったけれど、彼の目は濡れてギラギラと輝き、そこに入れることになっている羊を喰い殺しそうな勢いだった。完成した檻は、舌を垂らした大型の犬が一匹寝そべることができる程度の広さがあった。羊がすのこのささくれで怪我をしないように、床に裂いた布きれと使い古した毛布を敷いた。
「心地よさそうな檻じゃない。きっと気にいるわ。」
昼食のパスタを並べながら言うと、疲れて床に転がったマチは目だけで私を見た。
「ダメだよ。羊は柔らかい干し草と湿って温かな土の上に住んでるんだ。きっと最初は暴れるだろうな。誰だって偽物のわけのわからない箱庭に入れられたら恐いだろう。」
マチは自分が羊を飼う決意をしたくせにとても悲しい顔をした。私も斜めに打ちつけられている歪なベニヤ板の柵を見ると、羊が少し可哀想でもあった。

それでも彼は羊を飼う意思を変えようとはしなかった。私たちは昼食のペペロンチーノを腹に収めると車でペットショップを訪れた。店はアパレルショップみたいにショーウインドーがあってガラスを隔てた向こうには売れ残った子猫や子犬が仲良くじゃれあっている。子供や若いカップルが時折足を止めて「可愛い」だの「触りたい」だの勝手なことを言いながら、飽きるとさっさと通り過ぎていく。可愛いだけのアピールじゃもうダメなんだ。ガラスにぶつかってヒビが入った箇所に牙を剥くような凶暴さがなきゃ、誰もちゃんと向き合ってはくれないんだ。分かるかい?マチはガラス越しに目が合ったゴールデンレトリバーの子犬にそう呟き、私はいつか猫が飼いたいと思った。私たちは店に並ぶガラスケースの中を一つ一つ見てまわったが、亀やハムスターやモルモットはいても、羊はどこにもいなかった。私は珍しい虹色のカメレオンに餌の蝿を与えている店員に尋ねた。
「あの、私たち羊が飼いたいんですけど。」
店員は虫カゴの蓋を閉めて迷惑そうに私を見た。
「できれば毛が黒くてあんまり匂いが強くないやつがいいんですけど。」
あご髭を生やした若い店員は私とマチをじろじろ見て、「悪いけどここに羊は置いてませんよ。牧場にでも言ってみたら。」と素っ気なくカメレオンの入ったガラスケースの表面を指ではじいた。カメレオンはピクリとも動揺せず、ぐるぐる回る目で飛び回る蝿だけを追っていた。カメレオンが長い舌を出してペロリと蝿を呑み込むのを見たあとに私たちはそのペットショップを後にした。


私たちはその後、二つのペットショップと個人で経営している牧場を見てまわった。牧場は牛と鶏はいたものの羊の飼育はしておらず、私たちの羊探しは空振りに終わった。マチは落ち込んではいたが、最初の店のカメレオンが気に入ってまた見に行きたいと助手席で話していた。

家に帰ると牧場でもらったミルクと卵で、カルボナーラを作ってワインを開け、食事をした。身体を火照らせ、久しぶりに顔をほのかに赤くしたマチはついぞ手に入らなかった羊に乾杯をした。私は本当は、マチが欲しがっている羊など、どこにも存在しないことを知っていたが、羊を探すという目的でもかれが自発的に外に出たことが嬉しかった。

やがてマチは口数が少なくなって動きが鈍くなり、目がとろりと蕩けてきた。時計の針はまだ9時を差していたが、私はすかさず言った。
「眠い?」
「・・・・少し。」
「たくさん今日は動いたから疲れたのよ。もう寝るといいわ。ベッドに行きましょう。しばらく側にいてあげるから。」
今日は安定剤や睡眠薬を服用しなくても穏やかで自然な眠りが彼の手をとって導いているようだった。彼の眠りは貴重で気まぐれだ。シャツを着替えてベッドに入ったマチは、うとうとと瞼を重くしながら、床に放置している檻を指さした。
「もうあれ要らないや。僕のとこに来てくれた羊にはどうやら檻は要らないみたいだから。」
それだけ言ってマチは、すうすうと寝息をたて始めた。私は彼の瞼の下にある隈をなぞりながら、ため息をそっとついた。カーテンから零れる月光を浴びる檻の中はいつまでも空っぽのままそこにあった。その夜、夢の中で黒い羊が歪な柵の上を飛び越えていくのをみた。

羊が一匹

羊が一匹

夜の羊を飼育したい

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-07

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