坂の途中⑤

十話 坂の途中

 十話 坂の途中
 
 町は少しずつ変わっていく。
 ただ人と違って、老いていくわけではないらしい。

 東の空が薄く明けてきた。
 私は欠伸をひとつして、寝床を出た。
 
 まだ夜気の残る朝、錆びついた漁港へ向かった。
 朝方の海には春霞が掛かり、ぼんやりとしていた。
 いつもに比べ人がいないので、近くを歩くキジ猫に話しかけた。
 どうやら今日は船が出ていないらしい。
 たまにそんな日もあったな。
 当てが外れた私は、褪せたアーケード街を目指した。

 このアーケード街もだいぶ変わった。
 風呂屋だった場所は飯屋になり、銀行は観光客の案内所になっている。
 変わるものは、勝手に変わる。
 顔見知りもだいぶ減った。

 色とりどりの八百屋も花屋も通り過ぎて、一軒の惣菜屋の前で足を止めた。
 かつて通っていた惣菜屋も変わってしまった。
 代替わりをして息子が店主になってからは、一匹も魚を寄越さなくなった。
 私が店先を眺めていると、先代が奥から出てきた。
 杖をついて、足元がおぼつかない。
 「シロさんや、元気にしとるんか?」
 私は返事の代わりに尻尾をゆっくり振る。
 「ほれ、内緒じゃけぇの」
 先代は小魚を一つ差し出した。
 私はそれを受け取る。
 この時期は焼かない方が旨い。
 先代はよく分かっている。
 
 食べ終えた私は日当たりのいい路地で、ひと寝入りすることにした。

 突如、悲鳴のような歓声がすぐ傍を駆けていった。
 目を開けると、真新しいランドセルを背負った子供らが坂を走りながら下っていた。
 凝り固まった身体をほぐすよう、私は大きく伸びた。
 随分、寝てしまっていたようだ。
 当たっていたはずの日光は、私から遠ざかっていた。
 見上げればもう日が傾き始めていた。
 だいぶ寒さは和らいできたが、太陽が隠れるとやはりまだ冷える。
 ここから先は日が暮れるのが早い。
 暖を取るのに、思い当たる場所があった。
 私は重たい身体を起こし、坂を上っていった。
 
 坂の中腹にあるその店は、まだやっているようだった。
 私は扉を爪でガリガリ引っ掻き、合図を送る。
 すると中から、慌ててくる足音が近づいてきた。
 「寒かったね、シロさん」
 彼女は柔らかく笑って、私を店内へ招いた。
 私の頭を撫でるその手は、昔よりゆっくりと優しかった。
 
 香ばしい匂いと暖かい空気が、私を包む。
 私は彼女の脛に額をすりつけ、店へと入った。
 お気に入りの席は、空いていた。
 窓際のソファに私は座った。
 「どうぞ、シロさん」
 彼女は新しい水とおやつを置くと、店の中央にあるストーブに火をつけた。
 そして、かつて髭面の店主がいたカウンターの中へ入っていった。 
 髭面の店主が店を退いたのは、何度か前の春だった。
 そのあとを継ぐように、ナギがこの店に立っていた。
 
 ふとカウンターを見れば、新しい写真が増えていた。
 一夏を海坂で過ごしたあの女は、今でも季節ごとにこの店へ顔を出す。
 写真はそのたびに少しずつ増えていく。

 閉店間際の店には、私と彼女しかいなかった。
 ナギは先代が残したガラスの器を丁寧に磨いている。
 ストーブから伝わる熱で、うとうとしてきた。
 私は丸くなり、少し冷えた身体を暖めた。
 
 短い間だが、眠っていたようだ。
 結露で曇った窓の向こうには、まだ薄く日が残っていた。
 そろそろ店を閉める頃だろうか。 
 カウンターにいる彼女は、しきりに時計を気にしている。
 もう少しだけ、この店にいられそうだ。

 坂道に街灯が灯りだした頃、カランコロンと扉が開く音がした。
 彼女はへらっと笑いかけた。
 その笑い方は昔の面影を残していた。
 「おかえり、コウちゃん」
 「ただいま」
 松野の倅からは潮風の匂いがした。
 彼女はコーヒーを淹れはじめた。
 時折、二人の笑い声が重なった。
 外からは波の音が静かに続いている。
 私は再び、目を閉じた。

坂の途中⑤

坂の途中⑤

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-07-19

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