短編

ミント

幼少期の頃、母に連れられて参加したママ友の井戸端会議。
幼稚園の近くにあるカフェで色鮮やかなケーキと紅茶の甘い香りが漂う店内で流れるジャズの有線放送は、幼かった僕には退屈なものでしかない。僕の耳には音楽とも捉えられないアレンジを加えた音と、姦しい母親たちの甲高い笑い声が聞こえていた。
若い二十代後半の母親たちは旦那の愚痴やこのグループにはいない他の人の悪口をただぼやいている。
その中で僕の母親は、珍しく三十代だった。特別不細工でもないが、華がないのは誰から見ても分かる。周りの若い母親たちは、柄物や如何にもブランド臭のする服装で濃いメイクをして身なりを整えているが、僕の母親は灰色のパーカにジーンズというラフな格好して薄化粧だった。それが周りと浮いて見えて幼心ながら自分の母親には劣等感を感じていた。
母親たちが愚痴を言い合うそのテーブルから、離れた所にある小さな家庭用の滑り台があるスペースには僕や他の母親たちの子供が集まって遊んでいた。母さんは若い母親たちの愚痴を固い笑顔で聞いている。引き攣っているその笑顔の真意を当時の僕には知る由もなく、きゃっきゃとはしゃぐ子供の声を背に僕は見ていることしか出来なかった。
すると、
「望くん」
ぼんやりとしていた意識は、その呼び声で現実に戻る。声が聞こえた方に目を見れば、同じ幼稚園に通う友達のAがいた。園児の割には恰幅のいい体格で幼稚園の悪餓鬼たちからも一目置かれる存在だ。
「なに?Aくん」
聞き返しながら、手に持っていたウルトラマンの人形と店側が用意しているテディベアのぬいぐるみと意味もなく戦わせてみたりして遊びに没頭した。
Aは、無垢な笑みを浮かべては、「どうして、望くんのお母さんはあんなにおばさんなの?」と幼心にはきつい質問をしてくる。
しかし常日頃から、純粋が生み出す自覚のない悪意は僕に刃を向けては心を傷つけてきた。流石にそう何度も同じ問いをされては、対象法も心得なければおかしいだろう。
「お母さんは、Aくんのお母さんよりも『オトナ』なんだ」それが、僕の決まり文句になりつつあった。
大人がどんなものか分からない。少なくとも、僕は母さんが『おばさん』であることを自覚していた。でも、どうしておばさんなのか、それを聞かれた時は正しい答えが分からない。ただ分かった事と言えば、正解だろうが不正解だろうが何かを答えれば相手が納得する。そして、相手が何かを次に何を発するかも、読めてしまった。
「ふーん、そうなんだ」
あっさりしているが、ほら、もうその先からは何も聞いてこやしない。「うん、そうだよ」と僕は確定付けるように答えて。
すると、向こうの方から、
「皆、ケーキが来たよー」
一人の若い母親が、僕ら子供たちに集合をかけてきた。
さっきまで遊びに没頭していた子供たちはきゃっきゃと声をあげて、テーブル集まっていく。僕は母さんのことがまだ頭から離れなかったが、ケーキという魅惑に釣られてゆっくりとだったが、そこに足を運んだ。
園児には高すぎるテーブルを覗けば、幼い僕には神々しく輝くケーキが見えた。それを恍惚した表情で見ていると、ふいに温かな視線を感じて、そちらを見上げれば薄化粧の顔をやんわりとした笑顔で見つめる母さんと目があった。
不覚にもそれに安堵してしまった僕がいて、照れ隠しからか剥れた顔になってしまう。目の前にあったショートケーキを手に取り、席につけば、膝の上に置き、フォークがないことに気づいて顔をあげると、「はい」と柔らかな声と共にフォークが差し出された。
僕の一歩先を読んでしまうのが、母さんだった。
「自分でとれたよ…」と拗ねたような声で呟けば、それをまた可愛げのある仕草のように母さんは笑う。僕は、更にフグみたいに無愛想そうな表情で顔をそらせば、膝の上のショートケーキを見つめる。すると生クリームの雪原に、苺以外のものがあった。
緑の小さな葉っぱだ。
四つ葉のクローバーのようであったが、サイズはそれより遥かに小さい。葉っぱの形も不揃いだ。
ずっと怪しむように凝視し、ひたすらコイツの正体を見破ろうと奮闘するが、何かは分からない。
それを端から見ていた母さんが、「ああ…」と声を漏らし、
「ミントね」
「みん…と?」
聞きなれない単語に、思わず聞き返してしまった。母さんは、そのミントを指先で摘み上げると、
「これは、すごーくすうってするから、お母さんが食べるね」
母さんにとっては、息子を気づかったんだろう。しかし、当時の僕としては子供扱いされているようで気に食わなかった。
「いい、ぼくがたべる」子供なりの虚勢と、食べてみたいという好奇心からそんなことを口走った。
「そう?すぐ吐き出してちゃうわよ?」
「いいから、それ、ちょうだい」
「これは、『オトナが食べるもの』なのに?」
その言葉が、更に僕の好奇心を駆り立てた。『オトナが食べるもの』、どんな味がしてどんな匂いがするのか。
それよりも、それを食べたら大人になれるんじゃないのかとそんなファンタジックな妄想を膨らませていくと、たまらなくミントが食べたくなった。
隙をついて母さんからミントを取れば、荒く取り上げてしまったからか少しくしゃっとなってしまったが、手の平にある謎の葉っぱは、大人には見えないキラキラした粒子をまとっているように僕の目には見える。
生唾を飲み込んで、意を決してそれを口に運べば、
それを一噛みした時、僕は後悔した。


壮絶な薄荷の味は、当時の僕には強すぎた。
一噛みした瞬間、一拍間を空けて、僕はその喉奥まで爽快になってしまったような感覚に堪えられず吐き出して、不甲斐ないことに泣いてしまったのだ。紅茶やジュースをどれだけ飲んでもそのすうっとする。それがたまらなく辛かった。
店側にもママ友にも迷惑になると踏んだ母さんは、苦笑しながら僕を連れてそこを後にした。
その時には、すっかり外はオレンジ色の夕日に優しく包まれていた。ぐすぐすと鼻を啜りあげながら、母さんに手を引かれて歩く帰路。母さんはお遊戯会で覚えた『きらきら星』を陽気に口ずさみながら、ただ微笑んでいる。
そんな母さんを、じっと見ていると、その視線に気づいた母さんが「ん?どうしたの?」と優しく聞いてきて、僕は慌てて首を横にぶんぶんと振った。
母さんは、それ以上何も聞いてこなくなり、「そっか」と朗らかに笑む。
しばらく沈黙が続いていると、
「望、よかったね!」
「え…な、なにが?」
急に満面の笑みを見せて、そんなことを言ってきた。突拍子もない言葉だったので、戸惑いを隠せず聞き返すと、
「だって、ミントの葉っぱ、食べたんだよ?」
「うん…でも、はいちゃったもん…」
何が良かったのか分からなくて、ただ俯いたまま答えると、母さんはゆっくりと立ち止まって。
それから、僕と視線を合わせるように屈みこむと、
「でも、口に入れただけ、凄いじゃない。これで、望も大人の仲間入りね」
あやすように僕の頭を撫でて、落ち込んだ僕の心に安心をもたらした。僕は、「うんっ」と単純明快に無垢な笑顔を見せて返事をする。
「よしっ、それじゃあお家まで競争だー!」
息子より元気のいい母さんは、僕の手を握ったまま小走りで駆けていく。僕が転ばないように歩調を合わせるのなんて、お手の物だろう。
夕日に溶け込むように、僕ら親子は道をただ走っていた。


昼下がりの日差しは、あの時の夕日と同じくらい優しかった。
休日のリビングは、今朝の慌ただしさから一変して少し落ち着きを取り戻している。
ベランダの窓を少し開けて、そこから入り込むそよ風が心地よかった。
その近くで、僕は一冊のアルバムを見ていた。眺めているページには、あの時の井戸端会議の集合写真が貼ってある。
確か店に入って直ぐに撮った記念の写真だった。その写真には幼かった僕を膝の上に乗せて溌剌とした笑顔の母さんがいる。僕はと言えば、少し無愛想だ。少なくとも今の方が、作り笑いは上手に出来るだろう。
僕のことだ、母さんの膝に乗っけられていることを子供扱いと思ったんだ。それが読めてしまって、何だか可笑しくて少し笑ってしまった。
「お兄ちゃーん、そろそろ行くよー」
「ああ、すぐ行くよ」
リビングを覗きにきた妹の声を聞いて、ぱたんとアルバムを閉じた。
テーブルの椅子に置いていた鞄を手に持ち、そのまま玄関へと向かう。
玄関では既に制服姿の妹がローファーを履き終わっており、僕を待っていた。僕は玄関にあった革靴を履きながら、
「あれ、父さんは?」
「先に行ったみたいだよ?叔父さんとかに挨拶とかしなきゃいけないしね」
「そっか…」と革靴を履き終えると、ゆっくりと立ち上がって爪先をこんこんと地面に軽く当てて調整する。
「じゃあ、行くか」と準備が整い、玄関を開けようとした瞬間、「お兄ちゃんっ、ちょい待って」と妹が腕を掴んで再び家の中に引きずり込むと、
「ネクタイ、曲がってるよ」
「ああ…ごめん、」
言いながらネクタイを整えて、「オッケー?」と妹に聞くと、彼女は母さんとよく似た明るい笑顔で大きく頭上で丸を作った。どうやら決まっているらしい。
僕と妹は、そろそろ始まるであろう母の七回忌に向かうため、家を出た。


「なんだ?それ」
閑静な住宅街を歩きながら、妹に目を向けるとどうやらガムを噛んでいる。
仕事の行きしなにコンビニによく立ち寄るが見かけないパッケージだったので、つい聞いてみる。
「お兄ちゃんは、きっと食べれないよ」と妹は悪戯っぽい笑顔を見せて、兄を小馬鹿にした。
僕が食べれない…、なるほど、そういうことかと妙に納得してしまう。
しかし、あれから何年経ったことだろうか。あれ以来、ミントの葉っぱもミント系のガムや飴玉も食べなくなった。
そろそろ克服する時なのかもしれない。
「なぁ、一枚くれないか?」
僕の意外な発言に、妹は驚いて目を丸くした。
そりゃそうだろうな。ミント系のお菓子なんて見せただけでも拒絶反応を示すような兄を、今まで幾度となく見てきたんだ。
しかし、妹は直ぐに笑って、「どうぞ」とガムを一枚くれた。
お礼を言うように軽く会釈して、僕は銀紙を剥がしていく。空と同じくらいの薄い水色は、一瞬、ソーダ味のガムのように見えなくもない。
しばらく凝視して、一気にガムを口に入れた。
何回か噛んで、僕は確信した。


もうしばらく、『オトナ』にはなれない、と。

そんな僕は、今年十九歳になるーー。

短編

短編

ある日、家の中を掃除していたら出てきた一冊のアルバム。 彼は、それをゆっくりとめくり、懐かしき母との思い出を振り返っていた。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-07

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