坂の途中④
九話 春を待つ
九話 春を待つ
卒業式まで、もうあと少し。
自由登校になった教室は、空いている席が目立った。
教室では、生真面目に勉強している人もいれば、友達同士で雑談している人もいて、それぞれ自由に過ごしていた。
来ても来なくてもいい空気の中、それでも私は毎日学校へ来ていた。
家にいても暇だし、学校に来ていればそのうち将来のことも分かる気がしていた。
けど現実は、「進路決まってないまま卒業するの、浦部だけだぞ」って、山岡先生に溜め息を吐かれただけだった。
一限目が終わるチャイムが鳴る。
まだ学校に来て一時間しか経っていなかったけど、私は席を立った。
教室にいても仕方ない気がして、鞄を持って学校を出た。
ぶらぶらと坂を下る。
天気予報で小春日和になるって言っていた通り、日差しは柔らかくて暖かかった。
ふと、甘い匂いがした。
誰かのお家の庭から、沈丁花が顔をのぞかせていた。
鼻を近づけて、肺がいっぱいになるまで吸い込む。
去年の今頃は風が運んでくれた匂いなのに、今はもう横を通る時にしか分からなかった。
坂の途中、喫茶店の前を通る。
ガラス越しにマスターが新聞を読んでいるのが見えた。
なんとなく、そのまま私は入っていった。
カランコロンとベルが鳴ると、カウンターの中にいるマスターが新聞紙から顔を上げた。
私だと気づくと、眼鏡越しの目尻を下げた。
「いらっしゃい、ナギちゃん。学校は?」
「もう自由登校なんだよー」
私はそう言って、カウンター席に着いた。
日差しが入り込む店内は暖かく、店の真ん中に置いてあるストーブは切ってあった。
「もうすぐ卒業か。早いね」
新聞紙を折りたたんで、マスターが冷蔵庫を開けたので私は止めた。
「マスター、今日はジンジャーエールじゃなくって、コーヒーでもいい?」
もうジンジャーエールの声は聞こえなかった。
マスターは一瞬きょとんとしたけれど、すぐにそれは髭の森に隠れた。
「お客様のご要望なら、なんなりと」
そう冗談っぽく言って、コーヒーを淹れる準備を始めた。
アルコールランプの火が揺らめく。
サイフォンの水が少しずつ上へ昇っていって、コーヒーの粉と混ざった。
マスターがそれを丁寧にかき混ぜると、店内は一段とコーヒーの香りが強くなった。
「なんでマスターはサイフォンで淹れるの?」
カウンターの奥には、マスターがいつも磨いているガラスの道具たちが並んでいた。
他の喫茶店でも、家でも見たことがなかった。
「ハンドドリップも美味しいけどね。サイフォンは時間が掛かっていいでしょ?」
何がいいのか、よく分からなかった。
お店なら早く出した方がよさそうなのに。
私が首を傾げていると、マスターは少し笑った。
「待つ楽しみがあるってことだよ」
「そういうもの?」
「そうだよ」
マスターはそう言って、またコーヒーに向き合った。
店内には、私以外お客さんはいなくて、壁に掛けられた古い時計の秒針の音と、マスターのコーヒーを淹れる音だけだった。
「はい、お待たせ」
真っ黒なコーヒーが出された。
白いカップとソーサーには、細い茶色のラインが一本入っただけのシンプルな模様があった。
何も入れずに、一口飲んだ。
苦い。
そのあとに酸味が追いかけてきた。
やっぱり、ちょっと難しい。
「美味しい?」
「うーん……まだ私には早かったかも」
美味しいとも言えない私に、マスターは声を出して笑った。
「素直でよろしいね」
私はカウンターに置いてあるシュガーポットから角砂糖を二個入れて、ミルクもちょっぴり足した。
コーヒーを頼むのは、これが初めてじゃなかった。
マスターは覚えていないかもしれないけれど、中学生の時に一度だけ頼んだことがある。
両親のマネをして私もつられて頼んでみたけど、結局お父さんに飲んでもらったのを覚えている。
その時よりは今のほうが飲めていると思う。
「ナギちゃんは卒業後はどうするの?」
私は意味もなくカップを触った。
コーヒーがまだ半分入ったカップは温かかった。
「どうしようかな」
ちょっと投げやりに聞こえたかもしれない。
お父さんもお母さんも急かしはしなかった。
私が前みたいに転ばなくなったことを、二人はただ喜んでくれている。
何かを期待されるより先に、私はずっと見守られてきた。
小さい頃は、今よりもずっと変な子どもだったから、しょうがないって自分でも思う。
私は濁ってしまったコーヒーをもう一口飲んだ。
さっきよりずっと飲みやすい。
「そうかい」
マスターは静かに、サイフォンの手入れを始めた。
ゆっくり丁寧に磨くその手は、昔より皺が深くなっていた。
髭で覆われていてマスターはずっと変わらないように見えたけど、確かに歳を重ねていた。
いずれこの店を畳む日が来るのかも知れない。
勝手に考えて、喉が詰まった。
残りのコーヒーを飲み終えて、私は代金をカウンターに置いた。
「また、おいで」
マスターはいつもより優しい声で、お釣りを渡してくれた。
「うん、ご馳走でした」
行く場所は決まっていないけれど、私は歩き出した。
坂を下ってアーケード街へ行くと、妙に静かだった。
この時間は学校にも仕事にも行かなくていい、おじいちゃんやおばあちゃんの姿が多くて、アーケード街は余計にくたびれて見えた。
「ナギちゃん、こんにちは。もう学校は終わったん?」
店先で掃き掃除をしていた肉屋のおばちゃんに話しかけられた。
「こんにちは。そうそう、もう自由登校なんだよ」
「今はそんなのあるんけぇの、ええねー」
そう言っておばちゃんは、自分の昔話を始めた。
おばちゃんに捕まるといつも話が長いけれど、今の私にはちょうどよかった。
昔の商店街はもっと栄えてた、もっと若い人が多かったって、おばちゃんは同じ話を何度もした。
私が曖昧に笑いながら相槌を打っていると、目の端にコウちゃんが入ってきた。
駅の方から歩いてきたみたい。
私が軽く手を振ると、コウちゃんも手を挙げ返してくれた。
「あら、恒平くん。どっか行ってきたん?」
「こんちは。郵便局行ったんです」
「そうなん?そういやお母さんから聞いたんよ、町出るんやって?」
おばちゃんの勢いに押されながら、コウちゃんは素っ気なく答えた。
「そうっすね」
「そんなら、ナギちゃん寂しくなるね?」
おばちゃんの矛先が急に変わった。
私は笑ってごまかした。
困るといつも笑っちゃう。
そんな私に代わって、コウちゃんが答えた。
「そんな遠くないし、GWには帰りますよ」
「そのほうがええよ、お父さんもお母さんも寂しがるで」
おばちゃんの勢いは止まらず質問を次々にして、コウちゃんも無愛想に付き合っていた。
ちらっと、コウちゃんと視線が合った。
そろそろ潮時かな。
「お腹空いちゃった。おばちゃん、コロッケ食べたいなー。コウちゃんもなんか食べる?」
「じゃあメンチ」
白々しく助け舟を出すと、コウちゃんもすぐ乗ってきた。
私たちはそれぞれ、コロッケとメンチカツを買って、肉屋さんを後にする。
歩きながら、まだ温かいコロッケにがぶりつく。
揚げたてだったみたいで、ちょっと舌を火傷した。
少し先を行くコウちゃんは帰り道から逸れて、浜の方へ向かっていた。
何か考えてる時、コウちゃんはいつもそこに行く。
「郵便局って珍しいね?」
さっきの話を思い出しながら、私が訊くとコウちゃんは振り返った。
「寮の手続きとか、そんなの」
「そっか。学校、楽しいといいね?」
私の返事に、コウちゃんはちょっと笑った。
「楽しくなくても、行くよ」
きっぱりとした声だった。
浜へ着くと、二人並んで適当に防波堤に座った。
「航海士になったらどこまで行くの?」
「船に寄るだろ。国内だけのもあるし、海外行くやつもある」
「やっぱりコウちゃんは海外行くやつに乗るの?」
「出来たらな」
コウちゃんは海を見つめながら、訊いてきた。
「俺のことより、ナギはどうすんの?」
前にも訊かれた台詞。
でも、あの冬の始まりの時とは違う。
「全然、分かんないけど……町は出ないと思う」
なりたいものは分からないけど、自分が他の場所で暮らすのは想像がつかなかった。
私の暮らしには、海があって、坂道があって、シロさんがいて、町のみんながいた。
その中にはコウちゃんもいると思っていた。
凪いだ海を一艘の貨物船が通っていく。
いつか、コウちゃんもああいうのに乗るのかな。
ぼんやりと海を見ていたら、隣でメンチカツの包み紙をぐしゃっと丸める音がした。
「何視てんの?」
私の視線を追ってコウちゃんは訊いてきた。
「もう視えなくなったよ」
いつもの調子で言おうと思ったのに、ぶっきらぼうな言い方になっちゃった。
隣のコウちゃんは見たことない顔をしていた。
怒ってそうな、泣きそうな、なんとも言えない顔。
何かを言いかけて、口をぎゅっと結んだ。
代わりに何も言わないで、私の肩をいつもより強く小突いた。
それから二人で黙って海を眺めた。
こんなふうにいられる時間も、きっと減っていくんだよね。
これからだって、嫌になるぐらいお別ればっかり。
だったらせめて、覚えておきたかった。
この町に流れていた時間のことを。
吹いてくる潮風はどこか暖かった。
貨物船がどんどん遠ざかっていく。
白い航跡だけが、しばらく海の上に残っていた。
坂の途中④