東山界隈 ―ビヨンドレイニー―
短歌にかんしては許可を得ました
つもりです。
美しい短歌
素敵です。
得ているつもりですが
短歌中川さん
ありがとうございます
レインブーツ
カタツムリみたいだと思った。
会社へ行っても、家へ帰っても、背中に家を背負ったまま歩いている。
重い。
殻の中には、終わった恋も、失敗した仕事も、送れなかったメッセージも詰まっている。
全部、乾かない。
六月の京都。
傘を差して鴨川を歩いていると、小学生の列が向こうからやってきた。
黄色いレインブーツ。
青いレインコート。
先生が何か言う前に、一人が水たまりへ飛び込む。
ばしゃん。
もう一人。
また一人。
笑い声が、雨より先に弾けた。
私は思わず顔をしかめる。
そんなことをしたら濡れるじゃない。
そう思った瞬間、自分がおかしくて笑った。
雨の日に。
濡れることを心配している。
子どもたちは虹を見ていない。
虹の中にいた。
跳ね上がる水しぶきは、まるで誰かが世界を祝福しているみたいだった。
祝の雨。
その言葉が、どこからともなく浮かんだ。
私はいつからだろう。
雨を避けることばかり覚えて、
雨を浴びることを忘れてしまったのは。
カタツムリみたいに全部が駄目になったと思っていた。
でも違った。
駄目になったのは私じゃない。
空を見上げなくなっただけだった。
雨は、今日も誰かを祝っている。
私の番は、まだ来ていない。
そう思っていた。
すると、頬に落ちた一粒だけが少し温かかった。
祝われる順番なんて、最初からなかったのかもしれない。雨は誰かを選ばない。
私は傘を少し閉じて、ゆっくり歩き出した。
高架下
高架下へ駆け込む。
雨脚だけが、急に速くなる。
車が頭上を走るたび、コンクリートが低く唸る。
知らない町の匂いを吸った。
濡れたアスファルト。 排気ガス。 誰かの夕飯。
雨に冷やされた鉄。
私たちは同じ柱にもたれて、何も話さない。
アイツは、ときどき私を見る。
たぶん、私がアイツのカウンターなんだろう。
私といると、少しだけ自分を疑える。
でもさ、おっぱい見るなよ。
台無しじゃん。
私のカウンターは、アイツじゃない。
私を揺らすのは、もっと遠くから来る雨だったり、知らない町の匂いだったり、 まだ出会っていない誰かだったりする。
信号が青に変わる。
雨は少しだけ弱くなった。
「行くか」
アイツが先に歩き出す。
ちょっとカッコいいのがムカつく。
私は一拍遅れて、高架下を出た。
同じ雨に濡れながら、 もう、見ている景色は違っていた。
ヘリングガーデン
「先生、雨ですよ。」
返事はない。
窓の外では、中庭のハナミズキが風に揺れている。
私は車椅子を押して、ガーデンテラスまで出た。
施設の職員は、この庭をイングリッシュガーデンと呼ぶ。
でも私の中では違う。
ヘリングガーデン。
白い花びらが風向きひとつで群れを変える。まるで銀色の魚が海の底で一斉に向きを変えるようだった。
高校二年の春。
私は先生が好きだった。
好きと言っても、触れたいとか、付き合いたいとか、そんな言葉では収まりきらない。
黒板に字を書く横顔。
チョークの粉で白くなった指。
「本は答えじゃない。人に会うための橋だ。」
そんな一言を、二十年以上忘れられなかった。
卒業式の日も、何も言えなかった。
言わなくてよかったと思っていた。
先生は先生のままでいてくれれば、それでよかったから。
「寒くないですか。」
膝掛けを少しだけ引き上げる。
先生は私を見た。
いや、私を見たのではない。
私の向こう側を見ていた。
名前も。
学校も。
黒板も。
たぶん、もうない。
それでも私は週に一度、この庭へ先生を連れてくる。
雨の匂いがすると、昔の先生が少しだけ帰ってくる気がするから。
ぽつり、と最初の雨粒が手の甲に落ちた。
先生の視線が、ゆっくり空へ向く。
そして、かすれた声がした。
「……夏、来るな。」
それだけだった。
たったそれだけ。
私は笑ってしまった。
泣きながら笑った。
あの日、授業で季節の短歌を読んでいた先生の声と、少しだけ同じ響きだったから。
ガーデンに雨待つ君の純白の裾がたなびき夏くるを知る。
誰にも見せたことのない一首を、私は心の中だけでそっと唱えた。
先生はもう意味なんてわからないだろう。
それでも構わない。
人は忘れる。
でも、誰かが覚えている限り、その人の時間は完全には終わらない。
雨脚が少しだけ強くなる。
白い花びらが風に流され、群れになって揺れた。
だから私は、大丈夫です。
さくらもよう
娘は、新しい傘を手に入れてからというもの、雨の日を待つようになった。
桜色だった。
小さな花びらが散るような模様で、店で見つけた瞬間から離そうとしなかった。
俺に似て頑固。
「新学期までしまっておこう。」
そう言っても、何度も袋から出しては開き、部屋の中でくるくる回していた。
雨の朝。
ランドセルを背負った娘は玄関を飛び出す。
傘を開いた瞬間、春が一輪咲いたようだった。
「いってきます!」
その声が角を曲がるまで見送る。
あんなに小さかったのにな。
少し前まで、私の指を握ってさ、おっかなびっくり歩いていたのに。
気づけば、雨の日の歩き方まで一人前になっている。
会社へ向かう途中、信号待ちで子どもたちの列とすれ違った。
桜色の傘が一つ。
くるり。
いや。
グルン、と一回転した。
娘だった。
友だちと笑いながら、世界に何の遠慮もなく傘を回している。
思わず笑ってしまう。
危ないぞ、と注意するべきなのかもしれない。
でも、その一回転には、今日という日を全部好きになってしまう力があった。
私と目が合った。
娘は少し照れくさそうに笑って、また友だちの方を向いて歩いていく。
友だちの前では、父親なんて背景でいい。
そのほうが格好いい年頃なのだ。
私は足を止め、背中が見えなくなるまで見送った。
じゃーね。
心の中で、一首だけ浮かぶ。
新学期 さくらもようの傘をふり 名も知らぬ子は笑みをこぼしつ
死骸譚
八戸には、私の死骸がある。
誰も通報しない。
もう四十年以上、駅前を歩いているからだ。
十七歳の私。
父に怒鳴られ、雪を蹴り、コンビニの前で煙も吸えない煙草をくわえていた私が、まだそこにいる。
新幹線で帰省すると、必ず会う。
駅のガラスに映る。
港へ向かう坂道に立っている。
横断歩道の向こうで、誰かを待っている。
誰も気づかない。
死骸は動かないものだと思っているからだ。
違う。
人間は、生きたまま死骸を残していく。
就職した日。
結婚した日。
子どもが生まれた日。
京都へ引っ越した日。
そのたびに一人ずつ死んで、置いてきた。
だから故郷は墓場によく似ている。
会いたい人より、会えない自分のほうが多い。
冬の海へ行く。
風が強い。
カモメは笑っているみたいに鳴く。
煙草に火をつける。
吸い差しで北を指してみる。
北は、もうこれ以上ないくらい北だった。
私は笑う。
「元気か。」
死骸は返事をしない。
当然だ。
返事をするのは、まだ生きている者の役目だから。
列車の発車ベルが鳴る。
振り返らない。
あの町には、私の骨も肉も埋まっていない。
埋まっているのは、捨てきれなかった季節だけだ。
新幹線がゆっくり動き出す。
ホームの向こうで、十七歳の私はポケットに手を入れたまま立っていた。
追いかけても来ない。
あいつは八戸から出られない。
私は八戸へ戻れない。
その距離だけが、生きてきた時間だった。
マントファスマ
京都では、人は歩いているのではない。
思い出されながら歩いている。
四条大橋を渡るたび、私は少しずつ人間ではなくなる。
最初は背筋だった。
次に首が伸びた。
信号待ちで肩が軽くなり、祇園白川へ入るころには、膝の関節が一つ増えたような気がする。
カマキリとも、バッタとも違う。
祈るように前脚を畳みながら、何かに呼ばれると跳んでしまう、生き物。
カカトを見つけるためだけに進化した虫だ。
雨が柳を濡らしている。
軒先から落ちる雫が、石畳の上で静かに砕ける。
「そうやね。」
不意に声がした。
振り返る。
誰もいない。
京都では、声は人の口から出ない。
壁が覚えている。
正面橋が覚えている。
だから、忘れたつもりの囁きだけが、街角で私を待っている。
顔は思い出せない。
目も。
髪も。
笑った口元も。
なのに、その人と話していた私だけは、妙にはっきりしている。
恋をしていたのではない。
私は、あの囁き方に生かされていたのだ。
そのことに気づいた瞬間、身体がふっと軽くなった。
まただ。
肘が逆向きに折れそうになる。
胸の奥で、見えない羽が乾いた音を立てる。
カマキリバッタになる。
人間なら立ち止まる場所で、私は跳ぶ。
人間なら諦める距離を、私は飛び越える。
夕暮れの鴨川で、風が一度だけ草を揺らした。
その揺れ方が、あまりにもあの人に似ていて、私は笑ってしまった。
ああ。
シートン動物記
あの日、私はショウリョウバッタの大腿をもいで食べた。
確かに海老みたいだった。
そんなことを一生忘れない。
お父さん。
年末。
桐箱のおがくずへ指を差し込む。
白い木屑が爪のあいだからさらさら落ちる。
一尾つまみ上げる。
頭から半分に折る。
「上物だ。」
それだけ。
口の中で、夏が音を立てて砕ける。
私は父の真似をしたかった。
父みたいな人になりたかった。
だから食べた。
美味しかった。
それが一番、嫌だった。
帰り道、バッタが跳ねるたびに、太腿ばかり見ていた。
あそこだけ、食べ物だった。
それ以外は虫だった。
家に帰ると、シートン動物記が机の上にあった。
動物は美しく描かれていた。
狼王ロボ
何も食べなかった。
本の中の世界は、ずっと優しかった。
なのに私の夏は、おがくずの匂いしかしない。
乾いた匂い。
桐箱の匂い。
父の指の匂い。
セイラーピアニッシモの乾いた匂い。
あの匂いだけが、大人になっても腐らない。
腹足は足なのだろうか。
それとも、内臓が世界へ触れるために裏返ったものなのだろうか。
そんなことを考えるようになったのは、きっとあの日からだ。
父はもう覚えていないと思う。
「上物だ。」
たぶん、その一言も。
忘れた人と、忘れられなかった人。
親子って、だいたいそういうものなのかもしれない。
私はロボになりたい。
父みたいなロボになりたい。
キルクルス ブルーバード
「認識を歪ませる薬は危険です。」
YouTubeが言う。
私は片方脳頷きながらコンビニへ入る。
入口には酒。
奥にはストロング。
レジ横には糖分とカフェイン。
眠れない人にはエナジードリンク。
眠りたい人にはアルコール。
疲れた人には甘いもの。
痩せたい人にはゼロカロリー。
少しだけレギュレーションを編集してくれる。
羽ばたけない負け犬の。
「違法薬物は人生を壊します。」
その横で、缶ビールは二本買うとさ。
なんだろう、三本目がうまい。
ってバガヤロウ!
なんて親切なんだろう。
認識を歪ませるものは、特別な裏路地にはない。
ポイントカードが使える。
レシートも出る。
駐車場も広い。
二十四タイム営業。
昨日の揚げ物の世界カンが延長して。
今日は大丈夫な感じだったのに。
仕方がない。
世界は正気を売っているのではない。
自分に都合のいい現実を、一口サイズに小分けして売っている。
私は財布を閉じる。
今日は買わない。
外へ出ると雨だった。
傘を差す。
雨粒は、認識なんて歪ませなかった。
ただ、世界が最初から少し滲んでいたことを思い出させるだけだ。
ボツボツは身体感覚
マーグメル
祭りってぇのは、不思議なもんだ。
神さんを迎えるなんざ建前で、本当は人間が、人間を見失いに行く日なんじゃねぇか。
浴衣なんてもんァ着ちまえば、背筋が勝手に伸びる。
帯ァ苦しい。
下駄ァ痛ぇ。
なのに皆、妙に嬉しそうな面ァして歩いてやがる。
おかしな話だ。
「いてぇ。」
「だから言ったろ。」
「うるせぇ。」
三人で笑う。
笑った拍子に人波へ呑まれる。
四条ぁ海だ。
鴨川なんざ川だが、この日の四条は海になる。
人が寄せて、人が返す。
あっしらぁ舟でも漁師でもねぇ。
流木みてぇに、ぷかぷか流されるだけよ。
屋台の煙が鼻をくすぐる。
醤油だ。
焦げたイカだ。
甘ったるい綿飴だ。
腹ァ減ってんだか、胸が鳴ってんだかわからねぇ。
鉾が見える。
高ぇな。
何百年も、こんな騒ぎを見物してきた顔して立ってやがる。
人間なんざ、ひと夏ごとに入れ替わるってぇのによ。
祭りが済みゃ、地下へ潜る。
さっきまでの喧騒が嘘みてぇに消えちまう。
「撮るか。」
「ああ。」
改札の前で足ァ止める。
山鉾ァ写らねぇ。
八坂さんも写らねぇ。
写るのァ、浴衣を着た三人だけだ。
カシャリ。
たったそれだけ。
たったそれだけなのに、
あの一枚ァ、どこの国でもねぇ場所を写しちまった。
夢ってぇほど大げさじゃねぇ。
現ァ抜かすほど若くもねぇ。
けどよ。
あの一瞬だけぁ、確かにここじゃねぇどこかへ流れ着いてた。
帰りゃまた仕事だ。
浴衣ァ畳む。
下駄の傷ァ治る。
祭りなんざ、何事もなかったように終いになる。
それでも時々、写真を見る。
「ああ、あの日ァあったな。」
それだけでさ。
ののさんとの出会いがしら
朝の京都は、夜より静かに嘘をつく。
「今日も頑張りましょう」
駅の電光掲示板より先に、その言葉が街に表示されている気がする。
私は会社へ向かう足を止めた。
行きたくない。
理由はいくらでもある。
理由なんて一つもない。
その両方が本当だった。
鴨川まで歩いた。
橋の欄干にもたれていると、後ろから声がした。
「今日は歩く速度が遅いですね」
振り向くと、ののさんだった。
白いシャツ。
紙袋。
相変わらず、昨日までこの世界にいなかったみたいな顔をしている。
「会社ですか」
「そうです」
「行きたくない?」
「ええ」
ののさんは頷いた。
慰めない。
励まさない。
説教もしない。
ただ川を見ていた。
しばらくして言った。
「川は毎日流れます」
「はい」
「でも、水は毎日違います」
私は黙っていた。
「人も同じですよ」
「昨日と同じ会社へ行くようで、昨日と同じ自分は行けません」
風が吹いた。
柳が少し揺れた。
遠くで観光船がゆっくり進んでいく。
「だから、今日は今日のあなたが行けばいいんです」
「昨日みたいに頑張れなくても?」
「昨日は昨日の担当です」
その言葉で、少し笑ってしまった。
「担当制なんですね」
「ええ。案外、世界は分業ですよ」
ののさんは紙袋から缶コーヒーを一本取り出した。
「甘いですよ」
「今日は甘いほうがいいです」
缶はよく冷えていた。
手の熱を吸い取っていく。
「ところで」
「はい」
「もし本当に限界の日は、休んでください」
「……」
「頑張ることと、壊れることは違います」
私は缶を開けた。
小さな音が、朝の空気に溶けた。
時計を見る。
まだ間に合う時間だった。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
振り返ると、ののさんはもういなかった。
いや。
最初から、いたのかどうかも分からない。
ただ、甘い缶コーヒーだけが手の中に残っていた。
今日は、それで十分だった。
ヴァサゴ 2172
二一七二年。
人類は肉体だけでは生き延びられなくなった。
最後の避難先は、膨大な演算資源で維持されるデジタルスペース。
そこへ移住するには、一枚のアクセス権が必要だった。
しかし、その権利は一般には発行されない。
理由は単純だ。
汚れるのを恐れていたから。
未来を。
秩序を。
理想郷を。
人間で汚すことを。
インド亜大陸西方、マクラン海岸に築かれた国家アシアナ。
世界物流の心臓部となった巨大運河を擁し、二百年もの繁栄を誇る国家。
その繁栄は、一人の女から始まった。
議会は笑い、軍は反対し、宗教は異端と断じた。
それでも彼女は海を切り裂き、世界を変える運河を完成させた。
歴史は彼女を英雄ではなく、
マッド・オーバー・ハイプリエステス
――狂った大巫女――
と記録した。
二百年後。
物流はAIが管理し、飢えはなく、戦争さえ最適化された。
退屈なディール前の殴り合い。
豊かさは極まり、人々は生きる理由を失う。
余った知性は互いを裁き、
余った正義は互いを傷つけ、
爛熟したエネルギーは行き場を失い、噛み付いていた。
柔らかい肉に、柔らかい魂に。
私は、デジタルスペースへのアクセス権を発行できる数少ない管理官である。
耳元には、誰にも聞こえない声が響く。
ヴァサゴだ。
裏返るゴエティア。
パラノイアが相転移して元の形がわからない。
幻覚なのか。
それとも未来そのものなのか。
ヴァサゴはただ問い続ける。
「お前は出来るだろ?」
「なぜ、やらない?」
私は恐れる。
一枚のアクセス権で、国家を裏切ることになる。
秩序を壊すことになる。
歴史に犯罪者として名を残すことになる。
彼はその声を振り払うように、妻のもとへ帰る。
「私は、おかしくなる。」
妻は静かに首を振る。
「あなたがおかしくなるんじゃない。」
「世界が、正気を失っているだけ。」
震えながら言う。
「私は未来を汚すかもしれない。」
妻は彼の手を握る。
「あなたが、それをやるなら。」
「私は今夜、あなたの味方でいる。」
その瞬間、凍りついていた血液が流れ始める。
寒気。
鼓動。
恐怖。
そして決意。
あぁ、それならばダンスをレディ。
アクセス権を発行する。
一人のためではない。
未来そのもののために。
運河を造った狂人が世界の海をつないだ様にさ。
ビヨンドレイニー
雨は、止むために降るんじゃない。
そう思うようになったのは、京都へ来てからだった。
四条大橋を渡る。
傘は差している。
でも、靴の中は少し濡れている。
それでいい。
完璧に濡れない人生なんて、どこにもない。
鴨川は何も言わない。
昨日泣いた人間も、今日笑った人間も、 同じ水面を覗き込んで帰っていく。
公平だ。
だから私は、この街が好きだ。
あぁ本当に好きだよ。
愛している。
好き。
木屋町へ曲がる。
雨粒が提灯を滲ませる。
赤も、青も、白も、境界がほどけて、街全体が水彩画みたいになる。
酒場の扉が開く。
「いらっしゃい。」
その一言だけで、人間に戻れる夜がある。
私はグラスを受け取る。
冷えた白ワイン。
安いやつでいい。
高い酒は履歴書を読もうとする。
安い酒は、今日だけを信じてくれる。
カウンターの隅では、誰かが恋を終わらせていた。
入口では、誰かが恋を始めていた。
その真ん中で、店主は黙ってグラスを磨いている。
京都は、誰かのフィナーレと、誰かのプロローグを、同じ夜に並べるのが上手い。
雨脚が少し強くなる。
誰も慌てない。
この街では、雨は災難じゃない。
記憶をゆっくり現像するための時間だ。
西雨が街灯を映している。
空と地面の区別がつかない。
私は笑う。
きっと人生も同じだ。
上を向いて歩いているのか。
下を向いて歩いているのか。
案外、誰にもわからない。
それでも歩く。
雨の中を。
ね。
三日月
会社を休んだ。
世界は私がいなくても始業していた。
悔しいとも違う。
安心とも違う。
ただ、私だけが時間から降ろされた。
雨が降る。
七月の京都とは思えないほど涼しい。
こんな日に、私を私にしないのは暴力だよ。
傘を差してセブン-イレブンへ行く。
店に入ると、冷房が少しだけ現実を薄くした。
竹輪を一袋。
ライターを一本。
レジへ置く。
外を見る。
「本降りかね。」
私が言う。
レジの姉さんは笑って、
「ですね。」
と言った。
それだけだった。
なるほど。
人間って、案外それだけでいいのかもしれない。
店を出る。
河原へ歩く。
ライターを鳴らす。
竹輪を少し炙る。
焦げる。
少し焦げすぎる。
一口かじる。
うまい。
あーはいはい。
そういうことね。
人生って、案外こんな味だった。
格好いい日は、ちゃんと生きなければならない。
ちゃんと働いて。
ちゃんと笑って。
ちゃんと未来を信じる。
今日は違う。
スーパーかっこ悪いを嗜む日だ。
雨は降り続く。
鴨川は何も言わない。
竹輪は少しずつ短くなる。
私は少しずつ人間へ戻る。
何とかなる。
何とかならない日もある。
でも今日は、何とか何とか。
ライターを閉じる。
細い煙が雨に溶ける。
大げさなものじゃない。
七月の京都で雨に打たれて、
竹輪をかじって、
知らない誰かと
「本降りかね。」
「ですね。」
そんな言葉を交わせる。
今日の私は、それだけで存在していた。
アルペジオ死にたい。
死にたいアルペジオ。
ラッセン
ラッセンを好きだと言うのは、うちの学科では、デッサンが下手だと告白するより少し恥ずかしかった。
「ラッセンみたい」
講評でそれを言われたら、その作品はもう助からない。
彩度が高すぎる。
説明しすぎている。
感動を先回りしている。
余白がない。
批評性がない。
私たちは「伝わるデザイン」を学びながら、一目で伝わるものを軽蔑していた。
8月28日。
岡崎に海が来た。
京都市勧業館みやこめっせ。
第1展示場B面。
入場無料。
予約特典あり。
極彩色のシースケープ。
極上の可愛さのドルフィン。
極限の生命美のアニマル。
「極」が三つあった。
コピーの授業なら、一つに絞ってください、と赤字を入れられる。
地上へ出れば、京セラ美術館がある。
少し南へ歩けば、国立近代美術館がある。
美術史は地上に展示され、
ラッセンの海は地下のB面で販売されていた。
しかも、その日。
京セラ美術館では、歌川国芳展をやっていた。
江戸エンタメの最高峰。
浮世絵スーパークリエイター。
こちらにも「最高」があった。
ゼミのグループチャットにURLを貼られる。
《国芳のあとラッセン行く? 教材として笑》
私は笑っている猫のスタンプを返した。
それから一人で来場予約をした。
午前中、私は学生証を見せて国芳展に入った。
猫がいた。
役者がいた。
武者がいた。
骸骨がいて、人の顔をした寄せ絵があって、画面からはみ出しそうな鯨がいた。
《宮本武蔵と巨鯨》。
鯨は大きすぎた。
余白は、ほとんどなかった。
見る者を驚かせる気に満ちていた。
感動を先回りしていた。
それでも、その作品は百年以上、助かり続けていた。
やりすぎは「奇想」と呼ばれていた。
一世紀半は、
やりすぎを奇想に変えるのに、
十分な時間らしかった。
国芳は、江戸っ子を喜ばせるため、エンターテインメントに徹した。
そこが偉いのだと、解説には書いてあった。
ラッセンも、たぶん同じ方向を見ていた。
ただ、まだ歴史になっていなかった。
国芳には「奇想」という額縁がついていた。
ラッセンには、まだ値札しかついていなかった。
私は《宮本武蔵と巨鯨》をもう一度見た。
鯨はガラスの向こうで、
美術になったことなど知らない顔をしていた。
本館北回廊一階に国芳の巨鯨を残し、
私は地下の海へ降りた。
母の部屋には、昔、ラッセンの海があった。
絵ではない。
千ピースのジグソーパズルだった。
母が三週間かけて組み立てた。
右下の黒い岩だけ、一ピース足りなかった。
それでも母は額に入れた。
小学生の私は、その海の奥に道があると思っていた。
波を越えれば、紫色の山まで歩いていけると思っていた。
十八歳になった私は言った。
「これ、もう外したら。人が来たら恥ずかしいし」
次に帰ったとき、壁は白くなっていた。
会場の受付で、白い手袋をした女性に聞かれた。
「ラッセン、お好きですか?」
「いいえ」
私はすぐに答えた。
本当は、好きなのか嫌いなのか、もうわからなかった。
わからないと答えるには、右下の欠けた一ピースから説明しなければならなかった。
「いいえ」なら、一秒で済んだ。
プラチナ
月曜日と水曜日と金曜日、私はスタバに寄ってから出勤する。
早番の日だ。
京都駅からホテルまで歩く途中にある店で、新作のフラペチーノを買う。
桃なら桃。苺なら苺。さつま芋なら芋。
季節は、だいたい先にスターバックスへ来る。
飲み終わっても、カップは捨てない。
透明な蓋の内側にクリームが残っていても、ストローが少し潰れていても、更衣室まで持っていく。
制服に着替える直前まで、私はスターバックスのカップを持って出勤する女だった。
そこまでがワンセットだった。
「先輩、新作飲んだんですか?」
ロッカーの前で、後輩が聞く。
二十三歳。入社二年目。私のことを、まだ迷いなくお姉さんだと思っている。
「飲んだ」
「どうでした?」
「桃。すごく桃」
「紅茶も入ってるやつですよね」
「ベルガモットは途中で退散したよ」
後輩は笑った。
私はカップを捨てて、制服に着替えた。
三十二歳。
そんな感じ。
役職はない。でも新人よりは何でも知っている。
マネージャーより先に気づくこともある。 誰かが休めば、その穴に入る。
誰かが泣けば、見なかったことにしてコーヒーを渡す。
お姉さん、と呼ばれるには少し疲れていて、おばさん、と呼ばれるにはまだ準備ができていない。
そういう年齢だった。
八月、休憩室でサマーソニックの映像を見た。
ステージの前で、何万人もの人が手を上げていた。
その中央で、山口一郎が歌っていた。
大学生の頃から好きだった。
好きだけれど、ライブへ行くほどではないと言い続けてきた。
正確には、一人で行くほどではない。
炎天下に耐えるほどではない。
トイレに並ぶほどではない。 知らない人の汗に挟まれるほどではない。
好きには、いろいろ言い訳が必要だった。
画面の下に、来年の開催予定が出た。
大阪。
万博記念公園。
通常チケット、一万九千円。
プラチナチケット、三万一千円。
専用観覧エリア。
専用ラウンジ。
専用トイレ。
専用クローク。
グッズ売場ファストレーン。
「玉座じゃん」
私は声に出していた。
「何がですか?」
後輩が隣から画面を覗いた。
「プラチナ」
「高っ」
「でも近い」
「先輩、行くんですか?」
「五万円かかる」
チケット。往復のバス。飲食。Tシャツ。
一日のために五万円。
払えない金額ではなかった。
払えないわけではない金額というものが、いちばん高い。
その夜、計算した。
スターバックス、一回だいたい六百円。
月、水、金。
週に千八百円。
三十週で、五万四千円。
私は電卓の画面をしばらく見ていた。
翌朝は月曜日だった。
いつもの店の前まで来た。
ガラスの向こうに、新作のポスターがあった。
シャインマスカット色のソースが、白いクリームの上から流れていた。
おいしそうだった。
私は自動ドアの前を通り過ぎた。
六百円ぶん、来年の夏が近づいた。
更衣室へ入ると、後輩が私の右手を見た。
「先輩、今日スタバないんですか?」
「ない」
「え、ダイエット?」
「サマソニ」
後輩は少し黙った。
「意味わかんないです」
「これを三十週間やめると、プラチナになるの」
「金属に?」
「人間が」
それから私は、月曜日と水曜日と金曜日にスターバックスを素通りした。
店を避けることはしなかった。
わざと同じ道を歩いた。
栗。 林檎。チョコレート。桜。苺。
季節がポスターになって、私の横を通り過ぎた。
飲みたい日もあった。
ホテルへ着く前に、もう帰りたい朝もあった。
以前の私は、六百円でその朝を起動していた。
甘いものを持って歩く。
カップを見た後輩が話しかける。
新作の味を、少し意地悪に説明する。
その小さな手順で、働ける私になっていた。
カップがなくなると、右手が軽かった。
軽すぎて、何者でもないような気がした。
「先輩、今日で何スタバですか?」
ある水曜日、後輩が聞いた。
「四十三」
「二万五千八百円」
「計算早いね」
「経理なもんで」
「もう普通のチケット買えますね」
「私はプラチナになるの」
「欲深い」
「三十二歳だからね」
「関係あります?」
「ある。若さで補えないものは、金で補うのさ」
後輩は笑った。
私は笑わなかった。
半分は本気だった。
プラチナは、スペイン語で「小さな銀」という意味らしい。
銀に混じって出てくる、加工しにくい白い金属。
最初は価値のないものとして捨てられていた。
銀もどき。出来損ない。取るに足らないもの。
私みたい。
それが後になって、銀よりも希少で、熱にも錆にも強いことがわかった。
私じゃねぇな。
価値は、発見される順番を選べない。
月水金の六百円も、たぶん同じだった。
一杯ぶんなら、何にもならない。
けれど私は、小さな銀を集めた。
紙のカップを持った私も、嫌いではなかった。
流行りの味を知っていて、後輩に少し笑われて、更衣室まで元気そうに歩く私。
でも、それだけが私ではなかった。
チケットの発売日。
私は休憩室でスマートフォンを握っていた。
画面が何度も止まった。
残りわずか。
プラチナチケット、三万一千円。
購入する。
指が少し震えた。
決済完了。
「取れた」
後輩が身を乗り出した。
山菜うどんと、大盛りふりかけご飯。
若いなあ。
可愛い。
「プラチナですか!?」
「プラチナ」
「おめでとうございます、先輩」
その言い方が、昇進祝いみたいだった。
八月。
新大阪からシャトルバスに乗った。
窓の外を、朝の大阪が流れていった。
万博記念公園に着くと、空はもう暑かった。
リストバンド交換所で、係員が私の左手首にプラチナのバンドを巻いた。
紙より少し丈夫なだけの、安っぽい素材だった。
それでも私は、しばらく手首を見ていた。
専用ゲートを通る。
柵の内側へ入る。
ステージが近かった。
近すぎて、笑ってしまった。
一般エリアの人たちは、まだ遠くで場所を探していた。
私は専用ラウンジで薄いジントニックを飲み、ほとんど並ばずにトイレへ入り、クロークに荷物を預けた。
玉座だった。
王冠はなかった。
代わりに、紙のリストバンドがあった。
サカナクションがステージに現れた。
本当にいた。
画面の中ではなく、同じ暑さの中にいた。
私は後輩に写真を送った。
ステージではない。
左手首だけを撮った。
すぐに既読がついた。
《先輩、それ何スタバですか?》
私は数えた。
月曜日。水曜日。金曜日。
桃。栗。桜。苺。
カップを持たずに更衣室へ入った朝。
何者でもないように感じた右手。
その全部が、いま左手首に巻かれていた。
《九十二杯》
送信した。
ステージで音が鳴った。
私はスマートフォンを鞄にしまった。
右手を上げた。
何も持っていない手だった。
左手も上げた。
プラチナが、夏の夜を反射した。
レンズフレア
「大丈夫」
って、なんなん。
いや、意味はわかるよ。
日本語だし。こっちも一応、高校は出てるし。
でもさ。
「大丈夫」って、音として短すぎるんだよね。
だい、じょう、ぶ。
最後の「ぶ」が弱い人は、ほぼ二音で終わる。
大丈夫。
それだけ。
なのに、言い方ひとつで意味がクソほど増える。
ほんとに平気な大丈夫。
心配しないでの大丈夫。
ほっといての大丈夫。
もう聞くなの大丈夫。
あんたには関係ないの大丈夫。
あと、たぶん。
気づいてほしいときの、大丈夫。
音が多い。
ジョッキを置く音。
製氷機が氷を吐く音。
ハンディの送信音。
八人席の笑い声。
誰かの、すみませーん。
店長の、生ふたつ。
全部が壁と天井に当たって、ぐちゃぐちゃになって返ってくる。
私は、PAになりたかった。
ウケるでしょ。
毎晩「喜んでー」とか言ってる女が、卓の前に座って、演者の音を客席へ届けたかった。
専門にも行った。
クソ真面目に勉強した。
音には、直接届く音と、反射して届く音がある。
マイクの位置が数センチ違うだけで、拾う音は変わる。
客が入れば、箱の響きも変わる。
誰もいない客席と、満席の客席では、同じ音を出しても同じには聞こえない。
人間が、音を吸うから。
それ、ちょっといいなと思ってた。
人がいると、響きすぎない。
「三番、ポテトまだ?」
店長が言った。
はいはい。
冷凍庫からナチュラルカットポテトを出して、フライヤーに落とす。
油が一気に騒ぎだす。
こういう音も、嫌いじゃない。
歓声みたいじゃん。
さっきまで凍ってたくせに、急に世界の中心みたいな音を出す。
数分したら静かになるのに。
これやりたいな。
トングですくって、バットに上げる。
風呂上がりのナチュラルカットポテトは、浮かれてる。
私にはわかる。
皮つきのまま油から上がって、まだパチパチ言ってる。
塩なんか振られてさ。
テカテカして。
見るからにご機嫌。
でもさ。
ご機嫌なふりして泣いてる。
あー、もったいない。
そんなにうまく光れたら、誰も泣いてるって気づかないじゃん。
「ポテト」
後ろから声がした。
良い響き、みんな好き。
振り向かなくてもわかる。
あいつだった。
専門のとき、一個上だった人。
今は近くのライブハウスで音響をやっている。
たまに仕事終わりに来る。
たまにっていうか、木曜。
毎週木曜日。
私はシフト表を見る前に、木曜日だけわかる。
別に待ってないけど。
「いま出る」
「大丈夫?」
「何が」
「いや、なんか」
それを言った本人は、たぶん深い意味なんかなかった。
「無いんだよ、これが本当に」
客席から厨房をのぞき込んで、私の顔を見て、少し眉を下げただけ。
マジでそれだけ。
「大丈夫」
私は言った。
あいつも言った。
「そっか。大丈夫ならいいけど」
大丈夫が二つ重なった。
最悪。
ハウリング。
あいつの大丈夫は、どの大丈夫だったんだろう。
ほんとに平気だと思った大丈夫。
これ以上聞かないための大丈夫。
心配してるよの大丈夫。
それとも、私が何か言うのを待っていた大丈夫。
人の声って、フェーダー一本じゃどうにもならない。
下げれば消えるわけじゃない。
ミュートしても、頭の中では鳴ってる。
私はポテトを紙を敷いた籠に盛った。
ケチャップを添える。
それだけで急に、誰かを喜ばせるものみたいな顔になる。
ほらよ。
フライドポテトだよ。
「熱いから気をつけて」
「ありがと」
あいつは一本つまんで、すぐ口に入れた。
「熱っ」
「だから言ったじゃん」
「でも、揚げたてが一番うまいし」
笑ってる。
私も笑った。
死ねよ私。
店の照明が、あいつの肩の向こうでにじんでいた。
昔、授業で聞いたことがある。
強い光がレンズに入ると、内部で反射する。
輪っかとか、筋とか、虹色の丸とか。
光源にはない形が、撮った写真には残る。
なんだっけ。
光の形じゃない。
見る側の機材が勝手に作った形。
だから、本当はノイズ。
失敗。
でも映画とかライブ映像では、わざと入れることもある。
綺麗だから。
本物っぽいから。
あいつの「大丈夫」に見えたものも、全部、私のレンズが作ったのかもしれない。
心配。
未練。
期待。
まだ間に合うかも、みたいなやつ。
そんなもの、あいつは一個も置いてないのかもしれない。
ただの照明。
ただの油。
ただの、大丈夫。
「来月さ」
あいつが言った。
「うん」
「うちの箱、人足りなくなるんだけど」
店内の音が、一瞬だけ遠くなった。
ジョッキ。
製氷機がらがら。
笑い声。
ハンディ。
フライヤー。
全部鳴っているのに、そこだけ穴が開いたみたいだった。
「バイトからだけど、来る?」
「私、もう二年も卓触ってないよ」
「大丈夫」
また、それ。
なんなん。
今度はどの大丈夫なん。
腕のこと。
仕事のこと。
二年間のこと。
それとも、私のこと。
聞けばいいのに。
PAになりたかったのか。
まだなりたいのか。
あいつに会いたいのか。
でもさ。
そんなの、音にしたら形になっちゃうじゃん。
形になったら、もう、なかったことにできないじゃん。
「考えとく」
私は言った。
クソださい。
あいつは一本残っていたポテトを食べて、笑った。
「うん。大丈夫」
閉店後、客席の照明を落とした。
BGMを切る。
無音。
には、ならない。
冷蔵庫は鳴ってる。
換気扇も鳴ってる。
製氷機の奥で、氷がひとつ崩れた。
音は、消えない。
聞こえなくなったあとも、どこかで反射している。
グラスを拭きながら、黒くなった窓に映る自分を見た。
髪適当。
アイラインもちょっと落ちてる。
でも、笑っていた。
ご機嫌なふりして泣いてる。
あー、もったいない。
こんなに泣いてんのに、誰にも見えない。
いや。
一人だけ、見えたのかもしれない。
知らんけど。
強い光があったのか。
私のレンズが汚れていただけなのか。
そんなの、もうどうでもよかった。
映っちゃったものって、なかったことにはできなくない?
私はフライヤーの火を落とした。
油の表面で、最後の光が揺れた。
短歌
七条滑らか流れ
正面パーマネント
チリチリのチリチリ
化石あばき
アクリラブル
六年前にも、二人で来た。
あの日は雨だった。
濡れた傘を細長い袋へ押し込みながら、あなたは笑っていた。
うまく入らない、と。
そんなことがおかしかった。
世界はまだ、私たちを傷つけるためにはできていなかった。
巨大な水槽の前で、ジンベエを見上げた。
魚は水の中にいるのに、空を飛んでいるようだった。
私たちは陸にいるのに、ゆっくり沈んでいくようだった。
間にあるのは、ガラスではない。
アクリルだと、あなたが教えてくれた。
何枚もの透明な板を重ね、熱と圧力をかけ、一枚の厚い壁にする。
「割れないの?」
「簡単にはね」
あなたは、そう言った。
簡単には。
その言葉を、私は長いあいだ信じていた。
今日も、ジンベエザメは泳いでいた。
六年前と同じ個体かどうか、私にはわからない。
同じに見えるものが同じであるとは限らない。
違ってしまったものが、すべて嘘だったとも限らない。
あなたの隣には、もう私ではない人がいる。
写真で見た。
よく笑う人だった。
あなたも笑っていた。
私といた頃より幸せそうだ、とは思わなかった。
馬鹿みたい。
不幸そうだ、とも思わなかった。
ただ、あなたは次の筏を見つけたのだと思った。
六年か。
長かったのかもしれない。
短かったのかもしれない。
海の底には時計がない。
沈んでいる者だけが、時間を数える。
「しょうがないね」
水槽に向かって言った。
声は透明な壁に当たり、こちら側へ戻ってきた。
向こうには届かない。
魚たちは何も知らずに泳いでいる。
マンタレイの白い腹が頭上を通った。
小さな魚の群れが、一つの生き物のように折れ曲がった。
美しかった。
美しいものは、なんだっけ。
こちらがどれだけ失っても、少しも曇らない。
私は壁に手を置いた。
ザラザラだ。
冷たくはなかった。
ガラスではないから。
割れもしない。
こちらと向こうを隔てながら、何もないような顔をしている。
ギヤマン。
古い人は、透明なものをそう呼んだ。
光を通し、景色を通し、触れられそうな錯覚だけを通すもの。
けれど、これはアクリルだ。
人が海を閉じ込めるためにつくった、厚くて、やさしくて、壊れにくい透明。
アクリラブル・ギヤマン。
お前みたい。
愛せるほど美しく、
愛したままでは越えられない。
ジンベエザメが、ゆっくりこちらへ近づいてきた。
大きい、恐い。
そして私の手のひらを通り抜けるように旋回し、青の奥へ消えた。
追わなかった。
出口の表示に従って歩いた。
海遊館の外は、もう晴れていた。
傘は持ってこなかった。
もう、うまく袋へ入らないものを、
二人で笑う必要もなかった。
ごめんなさい、ごめんなさい。
バベルリバイバル
母の作ったおにぎりは、今日も少し湿っていた。
海苔はご飯の水分を吸って、弁当箱の蓋に貼りついている。
剥がそうとすると、黒い膜が途中で破れた。
台所には食品成形機がある。
米の密度、塩分、海苔の湿度まで指定できる。握りたての状態を六時間維持する保全モードもついている。
それでも母は手で握る。
「こっちのほうがおいしいから」
科学的根拠はない。
母の手の常在菌が腸内環境へ好影響を与えるという論文はあるらしいが、母はたぶん読んでいない。
二時間目は社会だった。
「今日は《バベルリバイバル》について勉強します」
先生が言うと、教室の照明が少し暗くなった。
正面の壁に、二百年前の地球が浮かび上がる。
今より国境が多い。
赤や青や黄色の線で、地表が細かく切り分けられていた。
「二〇四八年、人類は《バベルルネッサンス計画》を開始しました」
空中に古い映像が現れた。
拍手する人々。
握手する各国の代表。
同時翻訳された言葉が、それぞれの耳へ、それぞれの母語で流れている。
世界中の国や企業が、一つの巨大なソフトウェアを分担して作る計画だった。
ある地域は医療。
ある地域は物流。
ある地域は認証。
ある地域は気象予測。
設計する国と、検証する国と、監査する国は別々だった。
言葉の違いはAIが埋めた。
法律の違いも、商習慣の違いも、価値観の違いも、すべて共通仕様へ変換された。
「当時の人々は、これによって戦争がなくなると考えました」
教師が人体の図を表示した。
心臓に東アジア。
肺に欧州。
肝臓に南アジア。
眼球に北米。
血管に、海底通信網。
「一つの国を攻撃すれば、自国の産業も停止する。彼らは相互依存が抑止力になると考えたのです」
窓際の男子が手を挙げた。
「実際、戦争は減ったんですよね」
「減りました」
「じゃあ、成功じゃないですか」
教師は人体図を消さなかった。
「彼らは仲良くなったのでしょうか」
誰も答えなかった。
「違います。仲良くする必要がなくなったのです」
言葉を知らなくてもよかった。
相手の顔を見なくてもよかった。
何を食べ、誰を愛し、何を恐れているのか知らなくても、正しい形式へ変換してくれた。
相手を理解しなくても、愛さなくても…理解したのと同じ成果物が出力された。
世界は一つになった。
正確には、
一つになったように、見えた。
「二〇五六年、北方認証セルが停止しました」
地球上から、一つの光が消えた。
停止の理由は教科書にも書かれていない。
経済制裁への報復。
国内の政変。
単純な障害。
意図的な攻撃。
今も結論は出ていない。
でもみんな知ってる。
ただ一つの認証セルが止まり、病院は患者を患者として認識できなくなった。
物流車は荷物の所有者を確認できず、道路脇で停止した。
冷蔵倉庫は扉を開ける権限を失った。
発電所は交換部品を受け取れなかった。
爆弾は一つも落ちなかった。
建物も壊れなかった。
それでも、たくさんの人が死んだ。
「これを《第一次同期停止》と呼びます」
教師が言った。
「テストに出ますか」
誰かが尋ねた。
「出ます!」
教室中で記憶補助端末が起動した。
第一次同期停止。二〇五六年。
その二つが関連語として保存される。
休み時間になった。
私は弁当箱を開けた。
湿った海苔が、三つのおにぎりを黒く包んでいた。
隣の席の子が言った。
「それ、手で作ったやつ?」
「うん」
「衛生的じゃないね」
「母さん、こういうの好きだから」
一口かじる。
少し塩辛かった。
右側はしょっぱく、左側にはほとんど味がない。食品成形機なら起こらない偏りだった。
正面の壁には、授業の消し忘れで、二百年前の停止都市がまだ映っている。
信号の消えた交差点。
動かない配送車。
開かない自動扉。
その歩道を、一人の女が走っていた。
古い映像なので顔は分からない。
女は胸に何かを抱えている。
教師用資料には、「食料を運ぶ市民」とだけ説明が出ていた。
映像が拡大された。
女が抱えていたのは、小さな弁当箱だった。
どこへ運んでいたのだろう。
子どもへ。
夫へ。
病院にいる母親へ。
それは記録されていない。
弁当箱の中身も分からない。
けれど私は、おにぎりだったと思う。
食品認証が止まり、物流が止まり、世界中の言葉が互いへ届かなくなった日。
誰かが米を炊いた。
塩をつけた手で握った。
海苔を巻いた。
たぶん、目的地へ着くころには湿っていた。
私は残りのおにぎりを食べた。
世界は二百年かけて、壊れた塔を低く作り直した。
一つの機能が止まっても、別の機能が代わる。
誰も世界の心臓にはならない。
誰も世界の背景にはならない。
それが、あの日以降に人類が学んだことだと、教科書には書いてある。
母のおにぎりには、予備系統がない。
母が作らなければ、同じものは二度と出力されない。
形も、塩加減も、海苔の破れ方も違う。
不完全で、交換できない。
だから私は、少し急いで食べた。
午後になれば、もっと湿ってしまうから。
グランド・オダリスク
僕は東山の朝日を見る。
あれは美しいから。
東向きの窓を少しだけ開けると、夜の冷たさがまだ外に残っていた。
予報では、日の出の時刻はもう過ぎている。
けれど、この部屋に朝が来るのは少し遅い。
東山があるからだ。
太陽はもう昇っている。
ただ、稜線の向こうに隠れている。
存在しているものと、ここまで届いたものは、同じではない。
遠くでカブの音がした。
新聞配達かもしれない。
牛乳配達だったらいいと思った。
冷蔵庫が低く唸っている。
浴槽へ湯を落とす。
白い湯気が鏡を曇らせ、僕が迷い込んだこの部屋を少しずつ隠していく。
姉さんの部屋は静かだった。
昨夜も、男が来た。
靴を脱ぐ音がして、低い声がした。
少しして、姉さんが笑った。僕の知らない笑い方だった。
壁は薄くない。
それでも、眠ろうとすればするほど、聞こえなくていいものまで聞こえてきた。
僕は台所で、残っていたケンタッキーのクリスピーを食べた。
冷えて硬くなった衣が、噛むたび口の中の水分を奪った。
水を飲んでも、喉の奥に何かが残った。
チチも、よく姉さんの部屋で眠っていた。
姉さんの腹に頭をのせ、身体を長く伸ばしていた。
僕が撫でようとすると薄く目を開けたが、嫌がりもしなければ、喜びもしなかった。
ただ、ここにいてもいい、とは思っていた。
ある冬の朝、チチはいなくなった。
窓は閉まっていた。
玄関も閉まっていた。
僕たちは押入れの奥や洗濯機の裏、蛇腹の浴槽蓋の上まで何度も探した。
名前を呼ぶたび、返事のない部屋だけが少しずつ狭くなった。
姉さんは泣かなかった。
その夜、姉さんは僕の足元に座った。何も言わず、床に膝を抱えていた。
やめてくれ、と思った。
それから姉さんは、よく僕の隣にいるようになった。
夜中に目を覚ますと、布団の端で丸くなっていることもあった。
頭を撫でると、黙って目を閉じた。
姉さんは、いなくなった猫のすべての代わりをしていた。
浴槽に湯が溜まる音を聞きながら、僕は窓の外を見た。
東山の稜線が、ゆっくりと白んでいく。
一つの山ではない。
いくつもの山が重なり、なだらかに持ち上がっては沈み、遠くでもう一度起き上がっている。
その形が、横たわる姉さんの身体に見えた。
背中。
腰。
腿。
ありえないほど長く引き延ばされた、裸の姉さん。
僕はすぐに目を逸らした。
けれど、もう遅かった。
見てはいけないものだった。
一度そう見えたものは、山には戻らなかった。
裸のまま横たわっていた。
空はまだ冷たい蒼で。
薄金の光が山の向こうから滲み、瓦の端に触れ、アンテナを細く光らせる。
遠くの川面には、一筋の金糸が置かれていた。
町の屋根が、順番に赦されていく。
何も知らない朝だった。
誰が誰を買ったのか。
誰が壁の向こうで息を殺していたのか。
誰が姉さんを、山の形にしてしまったのか。
僕かもしれない。
そんなことを一つも知らずに、世界は美しくなっていく。
美しい。
美しい。
だから、どうにもできない。
姉さんの部屋のふすまが開いた。
男が出てきて、僕を見ると少しだけ頭を下げた。
悪人ではない。
普通の顔をした男だった。
黒い薄い靴下を履いていた。
玄関の鍵が閉まったあと、姉さんが台所へ来た。裸足のまま水を飲み、コップを洗って伏せた。
冷蔵庫を開けながら、姉さんが聞いた。
「ケンタッキー食べた?」
僕は頷いた。
「何を」
「クリスピー」
「それだけ?」
もう一度、頷いた。
姉さんは何も言わず、卵を割った。
フライパンへ落ちた白身が音を立てる。塩を振り、焼けた卵を皿へ移して、僕の前に置いた。
「食べなよ」
「姉さんは」
「眠る」
「そう」
姉さんは僕の頭に手を置いた。
猫を撫でるように一度だけ動かし、それから自分の部屋へ戻った。
玉焼きを食べた。
黄身はまだ柔らかく、舌の上で崩れた。塩気がした。温かかった。
噛んで、飲み込む。
卵は胃へ落ち、やがて血に回る。冷えていた指先が、少しずつ温かくなっていく。
悔しい。
姉さんが焼いた卵が、僕の血になる。
昨夜のクリスピーも、水も、朝の光も、見てしまった山の形も、身体の中へ入ってくる。
入ってきたものは、もう外へ出せない。
姉さんの部屋から物音が消えた。眠ったのだと思う。
そのとき、窓から朝日が差し込んだ。
予報より遅れて。
東山を越えて。
斜めの光が浴室の湯気を照らし、部屋の中に長い裸体をつくった。
なぜ毎朝、こんなに美しいのだろう。
それは、姉さんが眠りについたからだ。
オランピア
花束で、夫の顔が見えなかった。
白い百合と薄桃色の薔薇が、透明なフィルムの中に詰め込まれていた。
金色のリボンなんかさ!何だろう、ついている。
「退院決定おめでとう」
花の向こうから、夫が言った。
「ありがとう」
私は受け取り、病室の白いベッドへ置いた。
花束が大きすぎて、目が見えなくなった。
不要不急のアソビレンタル。
的みたいな感じ。
夫は私の荷物をまとめ始めた。
洗面道具を袋に入れ、充電器をコンセントから抜き、畳んであったタオルを鞄へ押し込んだ。
何がどこにあるのか、私よりよく知っていた。
毎日来てくれた。
仕事を早く切り上げ、洗濯物を持ち帰り、翌日には乾いた下着を持ってきた。冷蔵庫の水も、切らさなかった。
優しい人だった。
手術の前には、一度だけ泣いた。
私より先に泣いた。
「大丈夫だから」
私は夫の肩を叩いた。
何が大丈夫なのか、二人とも知らなかった。
手術は予定どおり終わった。
右の乳房がなくなった。
リンパ節への転移はなかった。傷の経過もいい。
追加の手術も必要ない。
医師は何度も、よかったですね、と言った。
私も、よかったです、と答えた。
だから今日は退院する。
夫が持ってきたブラウスに着替えようとすると、夫は窓の外を向いた。
「カーテン、閉めようか」
「いい」
「看護師さん呼ぶ?」
「一人で着られる」
私は病衣の紐を解いた。
布が肩から落ちた。
窓ガラスに、夫の顔が映っていた。
夫は外を見ていた。
病院の駐車場。
向かいの薬局。
夏の白い空。
煙草吸いたいんだね。
わかるよ子猫ちゃん。
何でもよかったのだと思う。
私でなければ。
下着をつけた。
右側には、入れるものがなかった。布が余り、薄くへこんだ。
ブラウスへ腕を通す。
傷が引きつった。
「痛い?」
夫が背中を向けたまま聞いた。
「少し」
「手伝おうか」
「見ないで」
黙った。
私は一つ目のボタンを留めた。
二つ目はうまく入らなかった。指先に力が入らない。穴の手前で、ボタンが何度も滑った。
振り返った。
私の顔を見た。
それから視線を下げそうになって、止めた。
「貸して」
夫は私の前に立ち、二つ目のボタンを留めた。
三つ目。
四つ目。
傷はブラウスの下へ隠れていった。
「もういい」
私は言った。
夫は手を離した。
「全部閉めたら、見えないでしょう」
夫は答えなかった。
私は留めたボタンを外した。
四つ目。
三つ目。
二つ目。
「何してるの」
「見て」
夫の目が動いた。
私の顔から、開いたブラウスへ。
傷を見た。
右の胸を横切る一本の線。途中で少し盛り上がり、脇の近くで沈んでいる。周りの皮膚はまだ黄色く、端だけが赤かった。
夫は息を吸った。
私は夫を見ていた。
夫は目を逸らさなかった。
「どう?」
自分でも、何を聞いたのかわからなかった。
きれいか。
醜いか。
かわいそうか。
まだ妻に見えるか。
夫はしばらく考えた。
「痛そう」
「痛かった」
「怖い?」
「少し」
夫は頷いた。
「俺も、少し怖い」
「そう」
それでよかった。
大丈夫だと言われたくなかった。
何も変わらないと言われたくなかった。
きれいだとも、気にならないとも、言われたくなかった。
変わったものを、変わっていないことにされたくなかった。
夫はもう一度、傷を見た。
今度は先ほどより長く見た。
それから、私の顔へ戻った。
「ボタン、留めようか」
「うん」
夫が一つずつ留めた。
急がなかった。
私はそのあいだ、夫の顔を見ていた。
夫も、ときどき私を見た。
最後のボタンを留めると、ブラウスの左右が少しずれた。
夫が直そうとした。
「そのままでいい」
「ずれてるよ」
「今日は、これでいい」
白いベッドの上には、夫の持ってきた不細工な花束があった。
葬式かよ(笑)
百合の蕾はまだ閉じていた。
夫が花束を抱え、私は鞄を持った。
「重くない?」
胸の前で抱えると、ブラウスも、右の胸も、手術の傷も、全部隠れた。
夫の顔も見えなくなった。
私は花束を少し横へずらした。
夫がいた。
夫も私を見ていた。
私は目を逸らさなかった。
マハ
服を着た私を、彼は知らなかった。
日曜日の午後、駅前のスーパーで見かけた。
彼は妻らしい女と歩いていた。
買い物籠を持ち、その隣で小学生くらいの女の子が、箱入りの菓子を何度も籠へ入れようとしている。
「一個だけって言ったでしょう」
女が言った。
彼は笑っていた。
店では見たことのない笑い方だった。
私は少し離れた棚で、豆腐を選んでいた。
喪服みたいな感じ、黒いワンピース。
踵の低い靴。
髪は後ろで束ねている。
化粧は薄かった。
彼は月に二度ほど、私を指名する。
本当の名前に一文字足しただけなので、呼ばれても驚かない。
彼は私の身体を知っていた。
左の胸が右より少し小さいことも、帝王切開の痕があることも、腰の近くに三つ並んだ黒子があることも知っていた。
それなのに、服を着た私を見ても、彼は気づかなかった。
すぐ横を通った。
目も合った。
私は彼を見た。
彼も私を見た。
けれど、知らない女を見る目だった。
私は豆腐を籠へ入れた。
彼の娘が菓子を一つ棚へ戻した。
妻が彼に何か言った。
彼は頷き、三人でレジのほうへ歩いていった。
呼び止めようとは思わなかった。
呼び止めて、どうするのだろう。
いつもありがとうございます。
次回のご予約もお待ちしております。
そんなことを、豆腐売場で言うわけにはいかない。
翌週、彼は店へ来た。
白いシャツを脱ぎ、ズボンを畳み、腕時計をテーブルへ置いた。
結婚指輪は外さなかった。
「この前さ」
彼が言った。
「駅前にいなかった?」
「いたよ」
「やっぱり」
「気づいてたの?」
「似てる人だと思った。でも、違うかなって」
「目、合ったよ」
「そうだっけ」
「奥さんと娘さんもいた」
彼の手が止まった。
私はベッドの端に座っていた。
服はもう着ていなかった。
彼は私を見た。
今度は、よく知っている女を見る目だった。
「声かけなくてよかった」
「うん」
「こういう仕事、長いの?」
「どうだろう」
「旦那さんは知ってる?」
「どうだろう」
彼はときどき、私のことを知りたがった。
どこに住んでいるのか。
何歳なのか。
休みの日は何をしているのか。
好きな男はいるのか。
私は答えたり、答えなかったりした。
答えたことが本当だった日もある。
嘘だった日もある。
本当だったことが、次に会うまでに嘘になることもあった。
「外で見ると、別人だね」
彼が言った。
「服を着てたから?」
「それもあるけど。雰囲気が全然違った」
「どっちが本当だと思う?」
彼は笑った。
「こっちじゃない?」
「裸だから?」
「だって、何も隠してないでしょう」
私は自分の身体を見た。
胸。
腹。
帝王切開の痕。
腰に並んだ三つの黒子。
彼はそれを全部知っている。
けれど、私が昨日食べたものを知らない。
娘が何歳になったのかも知らない。
豆腐を絹ごしにするか木綿にするか、棚の前で三分迷ったことも知らない。
私が何を隠し、何を隠していないのかも知らない。
彼の妻は、服を着た彼を知っている。
私は、裸の彼を知っている。
どちらが本当の彼なのだろう。
たぶん、どちらも本当だった。
どちらも、全部ではないだけで。
「名前、何だっけ」
彼が聞いた。
「マヤ」
「本当の名前」
私は彼を見た。
彼も私を見ていた。
毎月二度、私を裸にする男が、初めて私の名前を尋ねていた。
「マヤでいいよ」
「それ、店の名前でしょう」
「ここではね」
「本当は?」
「服を着ているときも、マヤかもしれないよ」
「どういうこと?」
彼は答えがあると思っていた。
裸なら本当。
服を着れば嘘。
仕事なら偽物。
家庭なら本物。
知れば近づき、触れれば分かる。
私はベッドへ横になった。
両腕を頭の後ろへ置いた。
彼を正面から見た。
「私は私」
「それじゃ、分からないよ」
「うん」
私は笑った。
「分からなくていいよ」
彼は私を見ていた。
私は目を逸らさなかった。
その日、彼はいつもより早く帰った。
服を着て、腕時計をつけ、結婚指輪の位置を直した。
ドアを出る前に、もう一度こちらを振り返った。
私はガウンを羽織っていた。
彼は少し迷ってから言った。
「また来るね、マヤちゃん」
「うん」
ドアが閉まった。
鏡の前で、私は服を着た。
下着。
黒いワンピース。
髪を後ろで束ね、口紅を拭いた。
鏡の中に、彼の知らない女がいた。
彼の知っている身体に、彼の知らない服を着ていた。
裸の私も、服を着た私も、鏡の中からこちらを見ていた。
どちらが本当なのか。
私はもう、考えなかった。
ドクロマーク
二〇三八年六月。
関東では、雨雲が暴れている。
ニュースは、線状降水帯という言葉を使わなくなった。
線ではなく、面になったからだ。
京都はまだ降っていない。
東山の上に黒い雲が溜まり、鴨川の風が湿っている。
雨雲レーダーは、あと十三分で降り始めると予測していた。
十三分あれば、会社まで着く。
人間の機嫌は読めるようになったのに、空の機嫌だけは相変わらず予報だった。
七条大橋を渡る。
すれ違う人の肩口に、細いバーが浮かんでいる。
緑。
緑。
黄色。
赤。
正式名称は、身体活動継続可能性指数。
心拍変動、呼吸、体温、瞳孔、発汗、歩幅、睡眠、血糖、声帯の震え。街頭カメラとスマートコンタクトが拾った情報を統合し、その人があとどれだけ普段どおりに振る舞えるかを算出する。
健康を示すものではない。
残量だ。
導入された当初、人間をパラメータにするな、という批判が起きた。
当然だった。
本人さえ言葉にしていない疲労や緊張が、体力バーとして他人の視界へ表示された。
だが、三年で浸透した。
マスカラや白髪染めより役に立ったからだ。
笑顔を作っても、昨夜泣いたことまでは隠せない。
髪を黒くしても、三日眠っていないことは隠せない。
駅員に怒鳴る前に、相手のバーが赤いと分かった。
部下へ仕事を頼む前に、残量が一目盛りしかないと分かった。
人類は優しくなったわけではない。
失敗する前に、相手の残量を確認するようになっただけだった。
会社の裏口で、若い警備員が俺を呼び止めた。
「大田さん」
「おはよう」
彼のバーは緑だった。
メンズメイク二十三歳。睡眠七時間十二分。心拍正常。精神的負荷、軽微。
若いというだけで、装備品が一つ多いように見える。
「それ何ですか」
彼は俺の顔ではなく、右肩のあたりを見ていた。
「どれ」
「体力バーの横」
俺のバーは黄色だった。
その横に、小さな白いドクロが浮かんでいる。
「ああ。あるある」
「あるあるじゃないですよ!」
彼は自分の端末でヘルプを開いた。
《継続性負荷》
休息のみでは回復しない身体的、または精神的負荷が存在する場合に表示されます。原因となる病名、生活歴、服薬情報は本人以外には開示されません。
「病院、行きました?」
「行った」
「薬は?」
「飲んだ漢方」
「休みました?」
「六年くらい?」
彼が黙った。
正確には、休んではいない。
働いていた。
発注した。
検品した。
価格改定の一覧を作った。
帰宅して酒を飲み、東向きの窓から、朝が東山を越えてくるのを見た。
それを六年やった。
自分の表示を開く。
《継続性負荷:六年三か月》
《原因:複合》
《解除条件:算出不能》
非表示にもできた。
「察する」は強制ではない。
ただし非表示にすると、肩口に灰色の空欄が浮かぶ。人は空欄を見ると、数字より悪いものを想像する。
だから、誰も消さなかった。
「ずっとついてるんですか」
「たぶんかな」
「嫌じゃないですか」
雨雲レーダーが震えた。
降雨開始まで、あと三分。
関東では、妻の住む町に避難指示が出ている。
メッセージを開く。
《大丈夫?》
そこまで入力して、閉じた。
送らなくても、向こうには向こうの体力バーがある。
俺が見られないだけだ。
「大田さん」
若い警備員が、まだドクロを見ている。
俺は背筋を伸ばした。
そんなに珍しいか?
みんなついてるじゃん。
心拍が上がり、体力バーが一目盛り減った。
白いドクロだけが、さっきより明るくなった。
「カッコいいだろ?」
彼が笑った。
俺も笑った。
会社へ入った瞬間、京都にも雨が降り始めた。
その椅子を燃やせ!
師匠が垢抜けた。
許せなかった。
画面の中には、チリの海岸があった。空は青く、砂漠は金色で、風に揺れる洗濯物まで美しかった。
カメラが滑らかに動いた。
滑らかに動くな。
師匠のカメラは、何かにぶつかるべきだった。スタッフの肩でも、電源コードでも、思想でもいい。
『リアリティのダンス』。
六十五インチのテレビに、老いた師匠の記憶が映っている。父親はスターリンに似ていた。母親は、すべての台詞を歌っていた。
そこはよかった。
母親が普通に喋り始めたら、私はテレビを壊すつもりだった。
師匠。
お前は、なんもねぇ、だろ。
金がない。技術がない。常識がない。
あるのは、世界をいったん壊して、自分の手で組み直さずにはいられない、迷惑な意志だけだったはずだ。
『ファンドとリス』を撮ったとき、お前は道を知らなかった。だから二人は、どこにも着かなかった。
『エル・トポ』を撮ったとき、お前は宗教を知らなかった。だから全部の宗教を、一度に信じた。
だから特典映像でタオイズムとかドヤ顔で言い出した。
『ホーリー・マウンテン』を撮ったとき、お前は映画を知らなかった。だから最後にカメラを引いて、映画そのものを消した。
知らないくせに、全部やる。
それがお前だった。
なのに、何だ。この構図は。この配色は。 この「巨匠の晩年を祝福します」とでも言いたげな光は。
誰かが吹き込んだ。
若い助監督だ。
黒いTシャツを着て、細い眼鏡をかけた若い助監督が、撮影前の師匠に近づいたのだ。
「先生、ここは逆光を生かしましょう」
師匠は首を傾げた。
「ギャッコウ?」
「はい。人物の輪郭に光が回って、記憶のような質感になります」
「キオク……」
聞くな、師匠。
「それから、ここはワンカットで見せたほうが、観客の没入感が——」
殺せ。
昔のお前なら、そいつを裸にして山羊の乳を浴びせ、胸にアイゼルネユングフラウと書いて砂漠へ放り出していた。
なぜ頷いた。
なぜモニターを覗いて、
「美しい」
などと言った。
師匠。お前は、美しくなるために生き延びたんじゃないだろう。
美しいものを見た人間が、二度と「美しい」という言葉を使えなくなるようなものを作るために、生き延びたんじゃないのか。
私は缶チューハイを開けた。
映画はまだ続いていた。
少年が海辺に立っている。母親の歌声が流れる。赤、青、黄色 強い色が、画面の中で互いに譲らない。
少しだけ安心した。
垢抜けたとはいえ、まだ配色に話し合いの文化がない。
師匠は生きている。
私はテレビの前で胡坐をかき、二本目を開けた。
やがて、老いた師匠本人が画面に現れた。 少年だった自分の肩に手を置き、抱きしめた。
そういうことを、するようになったのか。
昔のお前なら、少年時代の自分を穴へ埋め、その上に金色の便器を置いたはずだ。
抱きしめるな。
許すな。
救済するな。
お前が救われたら、私たちはどうすればいい。
私はずっと、救われないものを作品にすれば、生きていけると思っていた。お前がそうしていたからだ。
醜いものは、醜いまま並べれば儀式になる。悲しいものは、金粉を塗れば神話になる。人生に意味がなくても、裸の人間を七人ほど円形に座らせれば、意味がありそうに見える。
それでいいと教えたのは、お前だ。
なのに師匠は、自分の過去へ戻り、父親を許し、少年だった自分を抱きしめた。
ずるいと思った。
映画が終わった。
画面が暗くなり、そこに私が映った。
四十六歳。明日も早い。
なんもねぇ。
黒い画面の中の私に、師匠の黒い帽子を重ねた。
「助監督に何を吹き込まれた」
師匠は答えなかった。
代わりに私が答えた。
もう救われてもいい。
たぶん、そう吹き込まれたのだ。
ちくしょう。
技術が師匠のために椅子を用意した。巨匠が晩年に座るための、美しく、座り心地のいい椅子。
師匠はそこへ腰を下ろした。 過去を許し、父親を許し、自分を許した。
立て、師匠。
まだ終わっていない。
その椅子を燃やせ。
私は空になった缶を、テーブルの中央に置いた。その横へ煙草と、読みかけの本と、妻から来なかったメッセージを並べた。
祭壇に見えなくもなかった。
イーゼンハイム祭壇画より汚くて好きだ。
私は手を合わせた。
師匠。お前を許さない。
垢抜けたことも。美しい映画を撮ったことも。自分を救ったことも。
絶対に許さない。
だから、もう一度観る。
バーニングシップ・フラクタル
キャプテンが髪を切った。
許せなかった。
写真が送られてきたのは、火曜日の夜だった。
誕生日だったらしい。 居酒屋のテーブルにヨコワと唐揚げと、半分ほど残ったレモンサワーが並んでいる。
その中央で、キャプテンが笑っていた。
髪が短い。
短いだけじゃない。横がきれいに刈られている。襟足がない。眉毛まで、左右で話し合いが済んでいる。
何より、女がいた。
キャプテンの隣に女がいた。
美人ではなかった。
そこに少し安心した自分を、私は軽蔑した。
丸い頬をしていた。 笑うと目が細くなる。たぶん職場では、誰かが休むとシフトを代わってくれるような人だ。
写真だけで勝手なことを考えた。
でも、たぶん当たっている。
キャプテンが、あんな顔で笑っているからだ。
昔のキャプテンは臭かった。
ヤバいぐらい臭かった。
何日、タンパク質の摂理を無視して、他人の嫌悪感をリサイクルしたら、あんなふうになれるんだろうと思っていた。
夏は特にすごかった。
キャプテンが部屋へ入ってくると、少し遅れてキャプテンがもう一人入ってきた。
匂いだけのキャプテン。
本人が帰ったあともしばらく残った。
私たちはそれを質量のある残像と呼んだ。
「換気扇つけろ!」
誰かが叫ぶ。
「俺を希釈するな!」
キャプテンが叫び返す。
笑った。
楽しかった。
本当に楽しかった。
私たちはモテなかった。
驚くほどモテなかった。
ただ、キャプテンのそばにいると、それは敗北ではなくなった。
私たちは一味だった。
世間という大陸から少し離れたところを、勝手な海賊旗を掲げて航海していた。
キャプテンは黒髭だった。
髪に導火線こそ仕込んでいなかったが、似たようなものだった。
嫌悪を向けられるたびに燃えた。
臭い。
燃料。
キモい。
燃料。
人としては無理。
上等な燃料。
普通の人間なら傷になるものを、キャプテンは船底へ運んだ。
そこで劣等感が働いていた。
誰にも見えないところで、汗だくになって石炭を焚べていた。
もっとやれ。
もっと嫌われろ。
もっと遠くへ行け。
あの頃のキャプテンは、それを自由と呼んでいた。
私も真似をした。
服なんてどうでもよかった。髪は伸びたら切った。女と話して失敗すると、その夜は一味のところへ戻った。
「今日も駄目でした」
「よし!」
なぜか褒められた。
「一歩も前進してねえな!」
乾杯した。
それでよかった。
陸でどれだけ軽く見られても、船に戻れば笑えた。
私はあのアラクレの一味だった。
それだけで、ずいぶん長いことやってこられた。
今日呼び出され、木屋町でキャプテンに会った。
いい匂いがした。
「なんですか?それ。」
「え?」
「匂い」
キャプテンは自分の襟元を嗅いだ。
「ああ。柔軟剤じゃね?」
柔軟剤。
私はその言葉を頭の中で三回転がした。
キャプテンと柔軟剤。
交わってはいけない二つの文明だった。
「髪も切りました?」
「切ったよ」
「どこで」
「美容院」
知っている。
見ればわかる。
それでも聞かずにはいられなかった。
「美容院、行くんすね」
「行くだろ」
行かねえよ。
お前は行かなかった。
満を持して千円札を握って、十分後には坊っちゃん刈りで床屋から出てくる男だった。
左右の長さが違っても、
「人間の頭蓋骨が左右対称じゃねえんだから妥当だろ」
と言っていた。
私はそれを思想だと思っていた。
「お前も行けば?」
キャプテンが言った。
嫌な予感がした。
「俺の担当紹介するぜ」
担当。
その二文字で船に穴が開いた。
「担当?」
「うん。めっちゃ上手いよ。お前、横もうちょい軽くしたほうがいいって」
やめろ。
「免許あるから眉毛もやってくれるし」
やめろ。
「あとお前、化粧水つけてる?」
砲撃だった。
船腹が裂けた。
海水が入ってきた。
「彼女に言われたんすか」
キャプテンが少し黙った。
それから笑った。
その笑い方が普通だった。
「いや。あいつ、そういうことあんまり言わないよ」
それが一番嫌だった。
「じゃあ、なんで」
「なんでって」
キャプテンは少し考えた。
「なんとなく」
なんとなく。
女に命令されたわけじゃない。
矯正されたわけでもない。
臭いと言われたから風呂に入ったわけじゃない。
キャプテンは自由に髪を切った。
自分で服を選んだ。
自分で柔軟剤を買った。
誰かに愛されるために変わったんじゃない。
誰かの隣にいるうちに、自分を雑に扱う理由が少しずつなくなった。
たぶん、そういうことだった。
それは困る。
ものすごく困る。
悪い女ならよかった。
キャプテンを捕まえて、髪を切らせて、服を買わせて、私たちから奪った女なら、いくらでも嫌えた。
でも写真の女は、笑うと目が細くなる。
たぶんキャプテンが昔どれだけ臭かったか聞かされても、
「えー、最悪」
と言って笑うのかもね。
それで終わる。
過去を治療しない。
分析もしない。
ただ、隣にいる。
それだけでキャプテンの船底から、少しずつ人がいなくなった。
劣等感が、働かなくてよくなった。
「お前もさ」
キャプテンが言った。
「もうちょっと自分のこと大事にしていいんじゃねえの」
私は笑った。
笑うしかなかった。
キャプテン。
それを言うのか。
お前が。
私たちは、お前の船に乗ったんだ。
自分を大事にできなかった人間が、自分を大事にできないまま生きる方法を教えてくれる船だと思ったから乗ったんだ。
傷を治すんじゃない。
金色に塗る。
臭いならもっと臭くなる。
嫌われたら、その嫌悪を回収して船底へ運ぶ。
劣等感に働かせる。
そうすれば船は進む。
そう教えたのは、お前じゃないか。
違う。
キャプテンはそんなこと、一度も教えていない。
私たちが勝手に見ていた。
勝手に憧れた。
乗船券なんてなかった。
誓約書もない。
俺のようになれ、とも言われていない。
ただキャプテンが燃えていた。
私たちはその火を見て、自分にも火をつけた。
それだけだった。
昔、キャプテンがバーニングシップ・フラクタルを見せてくれたことがある。
複素平面の中で、同じ計算を繰り返す。
反復。
反復。
反復。
すると、そこに燃える船が現れる。
誰も船なんて描いていないのに。
「カッコいいだろ」
キャプテンは言った。
カッコよかった。
私は画面を拡大した。
船の中に、また船がいた。
さらに拡大した。
またいた。
あの頃は、それが面白かった。
今は少し怖い。
キャプテンが立ち上がった。
「じゃ、俺行くわ」
「今日、会うんすか」
「うん」
「写真の人?」
「そう」
キャプテンが照れた。
やめてくれ。
「キャプテン!」
久しぶりにそう呼んだ。
本人は振り返って笑った。
「何だよ、それ。懐かしいな」
懐かしい。
その一言で、全部過去になった。
船も。
旗も。
質量のある残像も。
陸で軽く見られても笑っていられた夜も。
キャプテンは店を出ていった。
背中が普通だった。
清潔な襟足だった。
私は一人で残った。
あの女はキャプテンの船を沈めたんじゃない。
たぶん港を作った。
いや。
港を作ったつもりすらないのだろう。
そこにいただけだ。
キャプテンが勝手に帰るようになった。
それが一番いい。
だから一番腹が立つ。
キャプテンに彼女ができたら、私たちのモテなさは、ただのモテなさじゃないですか。
言えなかった。
そんなことを言われても困るだろう。
キャプテンは何も裏切っていない。
髪を切った。
風呂に入った。
誰かを好きになった。
自分を少し大事にするようになった。
それだけだ。
よかったじゃないか。
本当に。
よかった。
ちくしょう。
店を出ると、ガラスに自分が映った。
髪が伸びていた。
襟足が跳ねている。
スマホを出した。
キャプテンとのトーク画面を開く。
――俺の担当紹介するぜ。
指を置いた。
返事はしなかった。
まだできなかった。
楽しかった。
本当に楽しかった。
間違った船だったのかもしれない。
でも、あの船で見た景色まで間違いだったことにはできない。
海はもうなかった。
キャプテンも降りた。
それでも私の中には、あの燃える船と同じ形をした、小さな船がまだ浮かんでいる。
船底では、
劣等感がまだ働いていた。
愛嬌ある感じに努力すれば良かったのかな。
短歌2
霧散した
君はムクドリあらずやツバメ
補正ありざま
飯炊き風景
V
午前三時十四分。
これを読んでいる人がいたら、先に言っておきます。
私は正常です。
少なくとも、ヴィーナスの腹を開くまでは正常でした。
きっかけは戦争映画だった。
二本観た。
どちらも人間が壊れる映画だった。血が出る。肉が裂ける。死ぬ。
だから同じだと思っていた。
違った。
ぜんぜん違った。
一本は、内臓でヴィーナスを作っていた。
もう一本は、ヴィーナスの内臓を見せていた。
わかる?
わからなくてもいい。私も昨日まではわからなかった。
最初のものを、
Venus ex Visceribus
と呼ぶことにした。
内臓から生まれたヴィーナス。
VeV。
汚いものを集める。血。肉。泥。恐怖。 絶望。
それを積む。
積む。
まだ積む。
すると、どういうわけか最後に美しいものが立っている。
人間は捨てたものじゃない。愛はある。 善はある。信仰はある。
おかしい。
材料は全部、内臓だったはずなのに。
ヴィーナスができている。
これがVeV。
問題はもう一つだ。
Viscera Veneris
ヴィーナスの内臓。
VV。
こっちは逆。
最初からヴィーナスがいる。
祖国。正義。勇気。友情。犠牲。家族。 英雄。
美しい。
みんな美しいと言っている。
だから腹を開く。
すると入っている。
恐怖。偶然。肉。排泄物。命令。数字。 誰かが決めた作戦。帰りたいという気持ち。
ヴィーナスにも内臓があった。
当たり前だ。
当たり前なのに、
私たちは見ない。
だからVVは嫌われる。
「そんなもの見せる必要がありますか」
ある。
だって入ってるから。
VeVは、醜いものから美しいものを作る。
VVは、美しいものの中にある醜いものを取り出す。
矢印にすると簡単。
VeV:Viscera → Venus
VV:Venus → Viscera
ここまで書いたところで、私は少し怖くなった。
映画だけじゃない。
恋愛にもある。
家族にもある。
会社にもある。
宗教にもある。
国家にもある。
たぶん、思い出にもある。
思い出はだいたいVVに弱い。
綺麗にして保存したものほど、腹を開けたときに臭う。
逆に、最悪だった日のことを何年も覚えていて、ある朝突然、
あれは愛だったのかもしれない、
と思うことがある。
それはVeVだ。
つまり私たちは毎日、
内臓からヴィーナスを作ったり、
ヴィーナスから内臓を取り出したりしている。
気づいていないだけ。
だから、もしあなたが何かを書いていて、
残酷な場面を入れたくなったら、
一度だけ考えてほしい。
血の量じゃない。
首が何本飛ぶかでもない。
あなたはいま、
内臓でヴィーナスを作っているのか。
それとも、
ヴィーナスの腹を開いているのか。
VeVか。
VVか。
私はもう寝ます。
朝になったら、この文章は消すかもしれない。
最後にひとつだけ。
ヴィーナス像には腕がない。
誰が切った?
いや。
これは関係ない。
忘れてください。
焔天西山
父が工場を辞めた。
正確には、今日で最後だった。
六時を過ぎても機械は動いていた。
白菜を切る音。
水を落とす音。
真空包装機が袋から空気を抜く音。
父がいなくなっても、明日も同じ音がする。
父がそうした。
昔、この店には西村さんという職人がいた。
父より二十ほど年上だった。
千枚漬を任せたら、この人より上はいない、と祖父が言っていたらしい。
蕪を持っただけで水分が分かった。
塩を掴んで、手を開く。
量らない。
「今日は、こんなもんや」
それで味が決まった。
冬に死んだ。
父が三十二のときだった。
葬式から帰ってきた父は、次の日から西村さんのノートを探した。
なかった。
レシピはあった。
蕪何キロ。
塩何グラム。
昆布何グラム。
それだけだった。
昨日まで店にあった味が、人間一人焼いたらなくなった。
父は、それが許せなかったらしい。
そこから父は変になった。
気温を記録した。
湿度を記録した。
蕪の産地、重量、直径、糖度、入荷時刻、洗浄開始時刻、塩分濃度、漬け込み時間。
雨が降ったか。
前の日は晴れていたか。
誰が作業したか。
何時に味見したか。
売れたか。
残ったか。
客から何を言われたか。
記録した。
とにかく記録した。
そのころはパソコンなんて店になかったから、大学ノートだった。
何十冊にもなった。
その後、父は全部パソコンに入れた。
工場の事務所には、今でもそのデータベースがある。
一九九八年十一月十八日。
聖護院かぶら。
最低気温六・二度。
前日雨。
入荷時糖度四・八。
そんなものまで残っている。
誰が見るんだ、と僕は何度も思った。
父は見ていた。
父は木樽を捨てた。
ステンレス槽を入れた。
温度計を入れた。
塩を量った。
時間を決めた。
作業を分解した。
「職人を育てるのに十年かかるんやったら、十年待ってる間、誰が給料払うねん」
父が一度だけ言ったことがある。
味を守る、と父は言わなかった。
社員を食わせる。
父がよく言ったのは、それだった。
誰か一人が風邪を引いても作れる。
辞めても作れる。
死んでも作れる。
新人でも、決められた手順を守れば、昨日とほぼ同じものができる。
京都駅に置かれた。
百貨店にも入った。
東京へも送るようになった。
夏でも冬でも同じ味になった。
祖父は最後まで気に入らなかったらしい。
僕も好きではなかった。
漬物が工業製品になったと思った。
父は否定しなかった。
「そうや」
それだけだった。
今日、最後のロットを父が見ていた。
白衣のポケットに手を入れ、温度表示を見ている。
十五・〇度。
「これ、明日から誰が見ます?」
若い社員が聞いた。
「誰でもええ」
父が答えた。
「異常出たらマニュアルにある。なかったら記録残しといて」
「社長に連絡は」
「いらん」
父は少し考えて、
「もう社長ちゃうし」
と言った。
若い社員が笑った。
父も少し笑った。
僕は搬入口の陰から見ていた。
最後の日くらい行ってやれ、と母に言われたから来ただけだった。
父には声をかけなかった。
六時二十三分。
父は事務所のパソコンを落とした。
データベースは落とさなかった。
サーバーの小さなランプだけが点滅していた。
父が三十二の冬から集めたもの。
死んだ職人。
辞めた職人。
暑かった夏。
雪の少なかった冬。
出来の悪かった蕪。
売れなかった商品。
返品。
失敗。
成功。
腐敗。
全部、行になっていた。
父自身も、その中にいた。
工場を出るとき、父は白衣を脱いだ。
紺色のシャツ。
灰色のズボン。
急に年寄りに見えた。
西の空が燃えていた。
京都の夏の夕方は長い。
西山の上に橙色が溜まり、その上に薄い紫があった。
父は門へ向かった。
誰も止めなかった。
それが少し寂しくて、
少し立派だった。
父は振り返らなかった。
門をくぐるとき、ほんの少し頭を下げた。
そのとき、父のうなじが見えた。
白かった。
ずっと見ていたはずなのに、
父のうなじを見たのは初めてのような気がした。
父は西へ歩いていった。
工場では機械が動いていた。
コンベアが流れる。
冷却機が唸る。
十五・〇度。
父は止めなかった。
止めたら、父の負けだったのだと思う。
自分がいなくても動くものを、
三十年以上かけて作った。
だから、
いなくなった。
西山の上で空が燃えていた。
父は小さくなった。
負けた人のようにも見えた。
けれど、駅前の角を曲がる直前、
少しだけ顔を上げた。
たぶん、もう腹が減っていたのだと思う。
輝天東山
米だけを食べた。
朝の五時四十分。
炊飯器を開けると、湯気が顔にかかった。
茶碗によそって、何も載せずに食べた。
あきたこまちだった。
二キロ。
高かった。
昨日、スーパーで一度棚に戻した。
五キロはいらない。
二キロでも高い。
カゴに入れて、豆腐と牛乳を取って、もう一度米売場まで戻って棚に置いた。
惣菜を見た。
半額の焼きそば麺があった。
それでいいような気がした。
三分くらいうろうろして、また米を取りに戻った。
去年から、こんなことになった。
米はあるものだと思っていた。
水道をひねれば水が出る。
スイッチを押せば電気がつく。
飯時になれば、白い飯がある。
値段はあったはずなのに、
値段のないものみたいだった。
もう一口食べた。
甘い。
昨日はコシヒカリだった。
その前はササニシキ。
つや姫。
ひとめぼれ。
二週間、米ばかり食べている。
漬物屋なのに。
冷蔵庫から千枚漬を出した。
父の工場のものだった。
薄い一枚を持ち上げると、向こうが透けた。
食べる。
うまい。
昆布も甘みも酸味も、ちゃんといる。
米を食べる。
もう一枚。
米。
箸が止まった。
「強いな」
声に出た。
千枚漬がうますぎる。
あきたこまちがいなくなる。
昨日のコシヒカリでは、そう思わなかった。
同じ漬物なのに。
父なら何と言うだろう。
たぶん何も言わない。
父は昨日、会社を辞めた。
三十年以上いた。
熟練の職人が死んだ冬から、父は何でも記録するようになった。
気温。
湿度。
塩分。
糖度。
重量。
産地。
漬け込み時間。
歩留まり。
廃棄率。
雨が降ったか。
誰が作業したか。
何時に味を見たか。
気持ち悪いくらい残っている。
父は職人の勘を信用しなかった。
正確には、
職人が死なないことを信用しなかった。
だから仕組みにした。
木樽をステンレスに替えた。
温度を管理した。
工程を分けた。
誰かが風邪を引いても作れる。
辞めても作れる。
死んでも作れる。
「社員を食わせなあかん」
父はよく言った。
僕はその言葉が嫌いだった。
家ではほとんど飯を食わなかったくせに、と思っていた。
祇園で老舗的なから外れた店でさ。
みっともない鶏冠ひけらかす感じで消えた。
父は僕の好きな漬物を知らない。
たぶん今も知らない。
僕も、
父の好きな漬物を知らない。
千枚漬を冷蔵庫へ戻した。
代わりに胡瓜を出した。
昨日、自分で漬けた。
まだ青臭い。
塩も弱い。
薄く切った。
胡瓜。
米。
胡瓜。
米。
さっきより、
飯がうまかった。
不思議だった。
漬物は明らかに千枚漬の方がうまい。
なのに、
飯はこっちの方がうまい。
もう一口食べた。
それで、少し分かった。
父はずっと、
漬物をうまくしようとしていた。
僕もそうだった。
京都で一番うまい千枚漬。
京都で一番うまいすぐき。
品評会。
百貨店。
雑誌。
星。
そういうもの。
でも、
漬物だけ食べて帰る人なんて、
そんなにいない。
窓の外が白くなっていた。
東山はまだ黒い。
太陽は見えない。
光だけが先に来ていた。
僕は父のデータベースを開いた。
一九九八年十一月十八日。
聖護院かぶら。
最低気温六・二度。
前日雨。
入荷時糖度四・八。
こんなものが何万行もある。
変態だと思う。
死んだ職人の手まで、
表計算に入れようとした男だ。
検索窓に、
あきたこまち
と入れた。
ゼロ件。
コシヒカリ。
ゼロ件。
ササニシキ。
ゼロ件。
当たり前だった。
父は漬物のことばかり見ていた。
その向こうにある茶碗を、
一度も記録していない。
僕は新しい表を作った。
最初の行に、
あきたこまち。
その隣に、
炊きたて。
その隣に、
胡瓜浅漬け。
薄塩。
そこまで打って、
評価という列を作った。
五段階にしようと思った。
やめた。
消した。
まだ分からない。
分からないものを、
分かったことにする必要はない。
ただ残しておけばいい。
そこだけは、
父と同じだった。
外が明るくなった。
東山の稜線に光が当たった。
黒かった山に、
少しずつ色が戻ってくる。
僕は胡瓜を食べた。
それから白飯を食べた。
もう一口。
もう一口。
漬物の味は、
さっきより分からなくなった。
米の甘さだけが残った。
それでいいと思った。
父は社員を食わせた。
僕は、
飯を食わせてみようと思う。
足元が冷たかった。
見れば、靴下を履いていなかった。
作業着の裾から、
くるぶしが出ている。
大層なことを考えているくせに、
寒かった。
靴下を取りに立った。
東山は、
もう明るかった。
とりのべ
腕を掻いていた。
話をしながら、左の肘の内側を右手で掻いていた。白い爪が何度も同じ場所へ戻る。赤くなっていた。皮膚は薄く剥けて、ところどころ光っていた。アトピーかな、と思った。美しいのに、と思った。その「のに」が嫌だった。
朝、スズキを一本返品した。鮮度は悪くなかった。目は澄んでいたし、腹にも張りがあった。ただ、鱗が剥がれていた。銀色の表面を誰かの手で掻きむしったみたいに、そこだけ白く傷んでいた。お客様に出すものなので。電話口でそう言った。交換します。ありがとうございます。それで終わった。
午後、君が腕を掻いていた。掻く。止める。また掻く。私はスズキを思い出した。こんな魚なら返品する。そう思った。人間に対して考えたことを、魚に戻して考えた。それでも駄目だった。
舐めたら治るだろうか。そこまで考えて、気持ち悪くなった。自分の唾液を過信していた。傷を舐める犬を見たことがある。子どものころは私もやった。転んで膝から血が出ると、唾をつけた。治ると思っていた。世界には、自分から出たもので治せる傷があると思っていた。
笑った。腕は赤かった。
鳥のことを考えた。鳥は飛ぶ。羽ばたくから飛ぶのではない。空気があるから飛ぶ。見えない密度があって、温度があって、地面が熱を持って、上へ行く空気と下へ行く空気がある。鳥はそれを読む。目で読むのか。羽で読むのか。骨で読むのか。知らない。たぶん内臓のどこかに、ドクロの形をした小さな器官がある。名前はない。空気が薄くなると黒くなる。身体が傷むと点滅する。それでも翼を開けと命令する。機能的なバックグラウンドに、生きろ、と殴り書きする。
血を吐きながら飛ぶ鳥を想像した。血は風に散る。鳥は落ちない。痛々しいとは思わなかった。美しいとも思わなかった。飛んでいる。それだけだった。
翌朝、交換のスズキが届いた。綺麗だった。鱗が揃っていた。私は受け取った。問題ありません。
少し離れたところで、また腕を掻いていた。私は見ないことにした。
窓の外を見た。
もちろん、コンドルなんて飛んでいなかった。
クロヱさん
アメリカ出張も四日目になると、ホテルの部屋の空調の音までが、自分を責めているように聞こえてくる。
昼間は工場視察とミーティング。
ミシガン。工場の街。
誰が言い出したか「リベットタウン」と呼ばれているこの町には、巨大なサイロと赤い煉瓦の建物が点々と並んでいる。
昨日は同僚のジェフの実家へ招かれた。
父親のデイビッドが焼いたベイビーバックリブを食べた。
大きな黒いスモーカー。
甘い木の煙。
父親のまわりではしゃぐ娘たち。
あの煙の中に、私は利根川を見た。
父さんと釣った鯉。
出刃が骨に当たる音。
母さんの作った鯉揚げ。
外国まで来て、ずいぶん遠いところへ来たと思っていたのに、煙一本で故郷へ連れ戻された。
そういうことがある。
そして今日。
仕事は思いのほか早く終わった。
ホテルへ戻ろうとしていると、現地スタッフのクロヱさんが言った。
「Walmart行く?」
「行きます」
即答した。
アメリカまで来てウォルマートへ行かないのは、京都まで来て寺をひとつも見ないような気がしたからだ。
そのことを言うと、
「全然違うと思う」
と言われた。
もっともである。
クロヱさんは Chloe と書く。
本人もクロエと発音する。
それを私は、どういうわけかクロヱさんと呼んでいる。
なぜ「エ」ではなく「ヱ」なのかと問われても困る。
なんとなく、ヱなのである。
町を離れるにつれて、建物と建物の間が広くなった。
空が大きくなった。
日本では空というものは、屋根や電線や山の間から見るものだと思っていた。
この国では、土地のほうが空に遠慮しているように見える。
やがてウォルマートが見えた。
大きな建物であった。
しかし、私が最初に驚いたのは建物ではない。
駐車場である。
白い線が幾筋も幾筋も引かれ、その間に自動車が並んでいる。
遠くの車は、もう車というより色のついた小石のように見えた。
「クロヱさん」
「なに?」
「ここで野球できますね」
「しないよ」
クロヱさんは車を停めた。
入口まで歩く。
歩いている人間はたくさんいた。
しかし、みな車から降りて店までの短い距離を歩いているだけだった。
歩いてここへ来た人間は、一人もいないように見えた。
そのことを少し考えた。
しかし自動ドアが開いたので、考えるのをやめた。
野菜があった。
ものすごくあった。
キャベツ。
ブロッコリー。
玉葱。
人参。
馬鈴薯。
葱。
名前のわからない葉っぱ。
名前を知っているが、英語では言えない葉っぱ。
果物もあった。
林檎が積まれ、オレンジが積まれ、葡萄が積まれている。
私は少し傷ついた。
アメリカという国について、何か大きな思い違いをしていたらしい。
「クロヱさん」
「なに?」
「ぼく、アメリカに謝らないといけないかもしれません」
クロヱさんはブロッコリーを持ったまま私を見た。
「何したの?」
「野菜がないと思っていました」
「あるよ」
「ありますね」
クロヱさんはブロッコリーの茎を眺め、一度戻し、隣のものを取った。
私は勝手に心配していたアメリカ人のビタミンについて考えた。
たぶん大丈夫だった。
「フードデザートって言うでしょう」
「ああ」
「だから、もっとこう……」
私は両手を広げた。
荒野。
乾いた大地。
転がる枯れ草。
その中央に冷凍ピザ。
そういう風景を表現したつもりだった。
クロヱさんは私の手を見た。
「ここまで来られれば、あるよ」
ブロッコリーがカートに入った。
ここまで来られれば。
私は後ろを振り返った。
自動ドアの向こうには、さっきの巨大な駐車場がある。
その向こうには道路。
さらにその向こうにも道路。
ここへ来る途中、歩いている人をほとんど見なかった。
なるほどと思った。
砂漠に水がないのではない。
オアシスまでが遠いのだ。
私は少し感動した。
「クロヱさん、つまりこれは都市構造と所得、それに交通手段が――」
「マスタード買うよ」
話は終わった。
マスタードがあった。
ものすごくあった。
黄色かった。
棚が黄色いのではない。
商品が黄色いのである。
上から下までマスタードだった。
右を見てもマスタード。
左を見てもマスタード。
黄色という色に、これほど抽象化された圧迫感を覚えたのは初めてだった。
「クロヱさん」
「なに?」
「これは逆に何なんですか」
「マスタード」
「それは見ればわかります」
イエローマスタード。
ハニーマスタード。
ディジョン。
スパイシー。
粒入り。
オーガニック。
聞いたことのあるものと、聞いたことのないもの。
人間には、これほど細かくマスタードを選び分ける必要があるのだろうか。
資本主義が最終的に辿り着く色が黄色だとは思わなかった。
「こんなに必要ですかね」
「好きなの選べば?」
自由。
いきなり自由を渡された。
私は自由に弱い。
三分ほど悩んだ末、一番やさしそうに見える黄色いやつをカートへ入れた。
クロヱさんが訊いた。
「それホテルで何に使うの?」
私は黙った。
マスタードを棚へ戻した。
自由には責任が伴った。
少し行くと、箱に入ったマッシュポテトがあった。
水を加えれば出来上がるらしい。
箱を手に取った。
軽い。
あまりにも軽い。
馬鈴薯というものは土の中から掘り出すものである。
土のついた馬鈴薯には重さがある。
それが乾かされ、粉になり、箱へ入り、こんなに軽くなっている。
「クロヱさん」
「なに?」
「これは本当にじゃがいもですか」
「そうだよ」
「一度じゃがいもだったものですよね」
「今もじゃがいもだよ」
信用できなかった。
私はクロヱさんではなく、箱を見た。
箱には何の後ろめたさもないようであった。
しかも一種類ではない。
Four Cheese。
Roasted Garlic。
Loaded Baked。
Buttery Homestyle。
人類は馬鈴薯から土を取り去り、水を取り去り、重さまで取り去ったあとで、今度はいろいろな味を与えていた。
「これは食品の脱身体化というか――」
「便利だよ」
「はい!」
文明についての考察は、それで終わった。
製菓材料の売場も凄かった。
スプリンクルだけで何種類あるのかわからない。
赤。
青。
緑。
星。
花。
ハート。
銀色の玉。
虹色の棒。
目玉まであった。
私は目玉の瓶を手に取った。
食べ物に目玉をつける必要があるのだろうか。
じっと見ていると、目玉もこちらを見ているような気がしてきた。
「クロヱさん」
「誕生日とかに使うよ」
まだ何も言っていなかった。
私は瓶を戻した。
歩いているうちに、不思議な気持ちになった。
何でもある。
野菜もある。
肉もある。
魚もある。
牛乳もある。
パンもある。
粉になった馬鈴薯もある。
数え切れないほどのマスタードもある。
ケーキに目玉をつける自由まである。
私はアメリカという国を、もっと不自由な場所だと思っていた。
巨大企業が人間の食欲を管理し、誰もが同じ冷凍食品を電子レンジへ入れる。
そんな少しディストピアめいた景色を、知らぬ間に想像していた。
違った。
少なくとも、この店には何でもあった。
むしろ、ありすぎた。
選べる。
選べすぎる。
物が多いということと、豊かであるということは同じだろうか。
選べるということと、自由であるということも、果たして同じなのだろうか。
私はカートを押すクロヱさんの背中を見ながら考えた。
選択とは。
豊かさとは。
自由とは。
「クロヱさん……ぼく、思うんですよね……」
「これ、Dadが好きだった」
クロヱさんが一本のバーベキューソースを持ち上げた。
そこで思考が止まった。
「お父さん?」
「うん。リブ焼くとき、これ使ってた」
茶色いソースだった。
どこにでもありそうなプラスチックのボトルだった。
私はそれを見た。
すると、煙の匂いがした気がした。
昨日の夕暮れ。
リベットタウン。
デイビッドの黒いスモーカー。
蓋が開いた瞬間にあふれた、甘い木の煙。
その奥から現れたベイビーバックリブ。
脂が夕日に光っていた。
さっきまでスマートフォンを見ていた娘たちが、父親のところへ駆け寄った。
Dad!!
Oh my god, Dad!!
デイビッドは照れたように鼻を鳴らした。
その背中を見たとき、私は利根川を思い出した。
父さんと並んで釣りをした。
竿先を見た。
泥の匂いがした。
鯉が釣れた。
家へ持ち帰った。
父さんが鱗を剥いだ。
ガリッ。
ガリッ。
出刃が骨に当たった。
ゴリッ。
ゴリリッ。
母さんが鯉揚げの餡掛けを作った。
母さんと妹はあまり好きではなかった。
私と父さんだけが、
うまい。
おう、うまい。
そう言って食べた。
不思議なものである。
人は遠い外国へ来て、故郷からもっとも遠ざかったように思う時に、かえって故郷のすぐそばまで帰ることがある。
「クロヱさん」
「なに?」
「それ、買いましょう」
「買うよ」
「そうですか」
「何?」
「いえ」
クロヱさんはBBQソースをカートに入れた。
ごとん。
ただ、それだけのことであった。
買物を済ませて外へ出ると、日はすっかり暮れていた。
巨大な駐車場に、巨大な照明が並んでいる。
昼間あれほど大きく見えた空は黒くなり、その下に自動車ばかりが光っていた。
クロヱさんが立ち止まった。
右を見る。
左を見る。
また右を見る。
「どうしました?」
「車どこ停めたっけ」
二人で駐車場を見渡した。
同じような車。
同じような白線。
同じような照明。
何でもある国であった。
野菜もある。
マスタードもある。
粉になった馬鈴薯もある。
食べられる目玉もある。
遠い国の父親を、自分の父親に重ねることのできる煙まである。
車だけがなかった。
「クロヱさん」
「なに」
「ぼく、思うんですよね……」
「思わなくていいから探して」
「はい」
私は車を探した。
クシャナ
会社が潰れることを、私たちは金曜日の午後三時十七分に知った。
メールだった。
件名は、
「事業所統廃合に関する重要なお知らせ」
だった。
PDFが二枚ついていた。
原材料価格の高騰。物流費の上昇。人件費。経営資源の選択と集中。
そういう言葉が並んでいた。
二枚目に、私たちの営業所の名前があった。
京都南営業所。
九月三十日をもって閉鎖。
今日が九月三十日だった。
「今日やん」
誰かが言った。
二人ほど笑った。
笑うしかなかった。
私は営業所長だった。
四十三歳。
部下は二十一人。
いや。
午後三時十七分までは、部下だった二十一人。
本社から電話がかかってきた。
常務だった。
「君には昨日伝えた通りだ」
「はい」
「十月一日付で本社営業推進室。席も用意してある」
「はい」
「今日中に大阪へ戻れ」
窓の外を見た。
倉庫でフォークリフトが動いていた。
バックします。
バックします。
機械の女の声が聞こえる。
「営業所の連中には総務から説明する。君が背負う話じゃない」
「分かりました」
私は電話を切った。
私だけは、会社に残れる。
それを社員には言っていなかった。
午後四時十二分。
最後の納品ができないことが分かった。
滋賀県の老人ホームだった。
冷凍食品。調味料。紙おむつ。洗剤。
明日の朝に使うものだった。
商品はある。
トラックもある。
運転手もいる。
でも伝票が出ない。
本社が、京都南営業所の販売コードを止めていた。
「仕事早いなあ」
経理の佐伯さんが言った。
五十八歳。
勤続三十二年。
「こういうときだけね」
私が言うと、佐伯さんは笑った。
午後五時。
全員を集めた。
「今日はもう帰ってください」
誰も動かなかった。
「今日までの給与は出ます。明日以降については総務から連絡があります。再就職についても――」
「所長」
倉庫の森田が手を上げた。
「老人ホーム、どうするんです?」
「本社に引き継ぎます」
「明日の朝ですよ」
「仕方ないよ」
「仕方ないですか」
森田はそれ以上言わなかった。
三年前、森田はフォークリフトで商品を壊したことがある。
百二十万円分だった。
本社は森田に始末書を書かせ、倉庫から外そうとした。
私は大阪まで行った。
会議室で二時間、部長と喧嘩した。
管理責任は私にあります、と言った。
森田は倉庫に残った。
別に恩を売ったつもりはなかった。
その方が正しいと思っただけだ。
「とにかく帰って」
私は言った。
「もう、会社のために頑張らなくていいから」
午後六時二十分。
私は営業所を出た。
京都駅へ向かった。
大阪の本社へ戻るつもりだった。
新幹線のホームまで行った。
電車が来た。
ドアが開いた。
乗れなかった。
社員証を机に忘れた。
本当に、それだけだった。
営業所に戻ったのは午後七時三十八分だった。
まだ電気がついていた。
「何してんの」
誰も帰っていなかった。
営業の西村が電話していた。
「お願いします。明日付で構いません。とにかく今日、荷物だけ出させてください」
佐伯さんはコピー機の前にいた。
森田は商品をパレットに積んでいた。
二十三歳の吉岡がコンビニ袋からおにぎりを出していた。
二十一個あった。
「帰れって言ったよね」
私は言った。
佐伯さんが顔を上げた。
「所長こそ大阪行ったんじゃないんですか」
「社員証忘れた」
「そうですか」
「そうです」
「じゃあ、それ持って帰ってください」
腹が立った。
「会社、もう終わったんだよ!」
誰も返事をしなかった。
「明日から給料出ないんだよ!」
森田が言った。
「今日は出るんですよね」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題です?」
答えられなかった。
佐伯さんがプリンターから紙を取った。
「納品書、Excelで作ります」
「正式な伝票じゃないよ」
「知ってます」
「監査で怒られるよ」
「会社ないのに?」
私は笑ってしまった。
佐伯さんも笑った。
私は彼女にも、一度だけ怒鳴ったことがある。
彼女のミスではなかった。
本社が経理処理の遅れを彼女の責任にしようとしたときだった。
電話口で、
「三十二年働いた人間を、数字一個で切るな!」
と言った。
あとで常務から、言葉遣いを注意された。
そんなことも、もう忘れていた。
午後九時十五分。
私は言った。
「みんな、本当に帰っていいんだよ」
吉岡がおにぎりを食べながら言った。
「所長」
「なに」
「去年、僕が得意先でやらかしたとき、所長、帰りました?」
覚えていた。
吉岡が発注数を一桁間違えた夜だ。
二人で得意先へ謝りに行って、倉庫へ戻ったのは午前一時だった。
「あれは仕事だから」
「今日も仕事ですよ」
「会社ないんだよ」
「まだ今日です」
誰かが笑った。
そのとき、やっと分かった。
この人たちは、
会社のために残っているんじゃない。
午後十一時四十分。
運送会社から電話があった。
トラックを一台だけ出せるという。
ただし、午前二時までに積み込み。
「間に合う?」
私が聞いた。
森田が時計を見た。
「誰に聞いてるんです?」
それから倉庫が動き始めた。
フォークリフト。
ハンドリフト。
プリンター。
ガムテープ。
電話。
電卓。
油性ペン。
誰も命令していなかった。
私は伝票を揃えた。
佐伯さんがチェックした。
西村が得意先へ電話した。
森田が荷物を積んだ。
吉岡が走った。
「走るな!」
私は怒鳴った。
「転ぶよ!」
「すみません!」
会社はもうなくなるのに、
私は労災の心配をしていた。
午前二時五十二分。
積み込みが終わった。
予定より遅れたが、
運転手は待っていてくれた。
「これ、受領印どうするんです?」
運転手が聞いた。
佐伯さんが言った。
「もらってきて」
「会社、なくなりますよね」
「だから何」
運転手は少し考えた。
「了解」
シャッターを開けた。
夜の冷たい空気が入ってきた。
トラックのエンジンがかかった。
誰も拍手しなかった。
万歳もしなかった。
記念写真も撮らなかった。
森田は煙草を吸っていた。
佐伯さんは椅子に座って靴を脱いでいた。
吉岡は最後のおにぎりを食べていた。
私は赤いテールランプを見ていた。
トラックが角を曲がった。
見えなくなった。
「所長」
佐伯さんが言った。
「はい」
「新幹線、もうないですよ」
「知ってます」
「本社、どうするんです?」
「明日行く」
「そうですか」
少し黙ってから、私は言った。
「ごめんね」
誰もこちらを見なかった。
「私、会社を守れなかった」
佐伯さんが靴下のまま、床に足をつけた。
「誰も会社なんか守ってませんよ」
私は彼女を見た。
佐伯さんは言った。
「所長を一人で残したくなかっただけです」
森田が煙草を消した。
「それに」
「なに」
「老人ホーム、困るでしょ」
それで終わった。
会社は予定通り潰れた。
奇跡は起きなかった。
銀行は助けてくれなかった。
別の会社が買収してくれることもなかった。
本社の偉い人が突然改心することもなかった。
二十一人は、ばらばらになった。
森田は運送会社へ行った。
佐伯さんは半年ほど失業保険をもらって、近所のスーパーで経理を始めた。
吉岡は東京へ行った。
私は本社に残った。
三年後、辞めた。
ずっと後になって、
私はあるラテン語を知った。
CANTUS AMORIS PROCEDENS
前へ進む、愛の歌。
大袈裟だと思った。
あの夜、
誰も愛なんて口にしなかった。
忠誠なんて言葉も使わなかった。
会社を愛している人間なんて、
たぶん一人もいなかった。
ただ、
自分を見捨てなかった人を、
最後の日に見捨てなかった。
それだけだった。
午前二時五十二分。
会社は終わった。
それでも、
最後のトラックは前へ進んだ。
クロトワ
若けりゃ口説いてた。
いや、口説いてねえな。
午前一時十七分。
所長が倉庫の真ん中で怒鳴っている。
「吉岡! 走るなって言ってるでしょ!」
「すみません!」
「森田さんも、それ一人で持たない!」
「はいはい」
「はいは一回!」
へいへい。
相変わらず威勢がいいことで。
会社はあと数時間でお陀仏だってのに、うちの大将ときたら労災の心配をしてやがる。
俺は笑った。
「西村さん」
「へい」
「何がおかしいんですか」
おっと。
見つかった。
「いや、別に」
「先方どうなった?」
「明日付なら受けてくれるってさ」
「運送会社は?」
「一台」
「じゃあ森田さんに――」
「あのさ、所長」
「なに」
「俺ら、明日から社員じゃねえんだろ」
「だから帰れって言ってるの」
「だったら命令すんなよ」
所長が黙った。
おお、怖え。
その顔はよせ。
会社より先に俺がなくなる。
午後三時十七分。
メールが来た。
件名は、
「事業所統廃合に関する重要なお知らせ」
京都南営業所は、本日九月三十日をもって閉鎖します。
ご理解賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
何を理解しろってんだ。
こちとら朝から普通に働いてたんだぞ。
電話して、見積書作って、在庫見て、昼飯食って、三時十七分になったら突然、
あなた方の職場は本日で終了です。
だとさ。
会社ってのはてぇしたもんだ。
人間二十一人を、メール一通で過去形にできる。
問題になったのは、滋賀の老人ホームへの納品だった。
冷凍食品。
調味料。
紙おむつ。
洗剤。
明日の朝には要る。
ところが営業所コードが止められた。
売上が立たない。
伝票が出ない。
システム上、俺たちはもう存在しなかった。
四時十二分。
所長は本社に電話した。
五時になった。
まだ電話していた。
それから俺たちを集めた。
「今日はもう帰ってください」
誰も動かなかった。
森田が聞いた。
「老人ホーム、どうするんです」
「本社に引き継ぎます」
本社は電話に出なかった。
六時二十分。
所長だけ営業所を出た。
大阪本社へ向かった。
あの人だけは会社に残る。
営業推進室。
明日の椅子がある。
そりゃ結構なことじゃねえか。
俺たちにはない。
だから俺も帰ろうと思った。
森田が帰らない。
佐伯さんも帰らない。
俺もなんとなく電話を一本かけた。
そうこうしているうちに吉岡が消えた。
こいつは賢い。
一番若いんだから、さっさと帰りゃいい。
十分ほどして戻ってきた。
コンビニ袋を提げていた。
おにぎりが二十一個入っていた。
馬鹿じゃねえのか。
明日から無職だぞ。
二十一個も買ってどうする。
一個もらった。
鮭だった。
うまかった。
俺は得意先へ電話した。
「すんません。ちょいと面倒なことになりましてね」
面倒どころじゃない。
会社がなくなる。
でも、そんなこたあ先方には関係ない。
会社が潰れたからって、じいさんもばあさんも腹が減らなくなるわけじゃねえ。
午後七時三十八分。
入口のドアが開いた。
所長だった。
「何してんの」
第一声がそれだ。
こっちの台詞だよ。
佐伯さんが聞いた。
「大阪行ったんじゃないんですか」
「社員証忘れた」
本当かよ。
いや。
この人なら本当だ。
英雄ってのは、もっと立派な理由で帰ってくるんだろう。
仲間を見捨てられなかった、とか。
俺にはお前たちが必要だ、とか。
うちの大将は社員証を忘れて帰ってきた。
そして俺たちを見つけて、
怒った。
「帰れって言ったよね」
怖え怖え。
帰りゃよかった。
本当に。
三年前、森田が百二十万円の商品を壊した。
本社は倉庫から外せと言った。
所長は大阪まで行って喧嘩した。
二年前、佐伯さんの経理処理が問題になった。
所長は電話口で言った。
「三十二年働いた人間を、数字一個で切るな!」
去年、吉岡が発注数を一桁間違えた。
所長は夜中まで一緒に得意先を回った。
俺のときは何だったかな。
忘れた。
たぶん大したことじゃない。
この人は、そういうことを覚えていない。
だから困る。
恩を売ってくれりゃ、返しやすいんだ。
「あのとき助けてやっただろ」
そう言ってくれりゃ、
「へい、ありがとうございました」
で帳尻が合う。
ところが言わねえ。
だから帳簿が閉じない。
午後十一時四十分。
運送会社から電話が来た。
トラックを一台だけ出せる。
ただし、午前二時までに積み込み。
「間に合う?」
所長が聞いた。
森田が時計を見た。
「誰に聞いてるんです?」
始まった。
フォークリフト。
ハンドリフト。
プリンター。
電話。
電卓。
ガムテープ。
油性ペン。
佐伯さんがExcelで納品書を作る。
森田がパレットを組む。
吉岡が走る。
所長が怒鳴る。
「吉岡!走るな!」
会社はなくなるってのに、えらく賑やかだ。
評価がない。
査定がない。
出世がない。
明日の売上もない。
残業申請を出す相手すら、もういない。
働く理由が、
ひとつずつ消えていった。
最後に何が残るのか。
ちょいと、
見てみたくなった。
午前二時。
時計の数字が変わった。
積み込みは終わっていない。
「あーあ」
俺は言った。
「時間切れだ」
誰も手を止めなかった。
所長が聞いた。
「トラックは?」
俺は運転手に電話した。
「もしもし。悪い。まだ終わらねえ」
少し黙って、運転手が言った。
「待ちますよ」
「二時までって話だろ」
「ここまで待ったんで」
電話を切った。
「待つってさ」
佐伯さんが笑った。
「ヤケになったの、私たちだけじゃないみたいね」
なんだか、
無性に腹が立ってきた。
会社は俺たちを切った。
営業所コードも消した。
明日から給料も出ねえ。
出世もねえ。
評価もねえ。
この荷物を届けたところで、
誰も褒めちゃくれねえ。
結構じゃねえか。
だったら今夜くらい、
好きに働かせろってんだ。
「ヤケになった俺たち、舐めんなよ」
静かになった。
しまった。
口に出てた。
所長が俺を見た。
「そういうこと言わない」
怒られた。
佐伯さんが吹き出した。
森田も笑った。
吉岡なんか段ボール抱えたまま笑っている。
俺も笑った。
所長だけ怒っていた。
その顔を見ながら思った。
若けりゃ口説いてた。
いや。
やっぱり口説いてねえな。
こういう女は、
口説くもんじゃねえ。
勝手に前を歩かせときゃいい。
こっちは半歩後ろで、
へいへい、と言いながら付いていく。
それでいい。
午前二時五十二分。
最後の段ボールが積まれた。
佐伯さんが運転手に伝票を渡した。
「受領印、お願いしますね」
運転手が笑った。
「会社、なくなるんでしょ」
「なくなるからって、帳簿までなくなりません」
この人も大概だ。
所長が壁のスイッチを押した。
モーターが唸った。
シャッターが、
ゆっくり上がった。
九月の終わりの冷たい空気が、
倉庫へ流れ込んできた。
誰も喋らなかった。
トラックのエンジンがかかった。
運転手が窓を開けた。
「じゃ、行ってきます」
森田が手を上げた。
佐伯さんが頭を下げた。
吉岡が笑った。
所長は、
少し前に立っていた。
俺はその半歩後ろにいた。
いつもの場所だった。
トラックが動いた。
赤いテールランプが、
開いたシャッターの向こうへ出ていく。
誰も拍手しなかった。
万歳もしなかった。
会社は救われない。
明日になれば、
この営業所はない。
俺たちは散り散りになる。
何ひとつ、
ひっくり返っちゃいない。
ただ一台。
トラックが前へ進んだ。
俺はずっと、
あの人の後ろを歩いているつもりだった。
へいへい。
しょうがねえな。
そんなことを言いながら、
付いてきただけだった。
けれど。
気がつけば俺たちは、
同じところまで来ていた。
若けりゃ口説いてた。
いや。
口説いてねえな。
あの人を、
こっちへ連れてくる必要なんかない。
あの人が前へ行くなら、
俺が少しだけ、
そっちへ行けばいい。
午前二時五十二分。
シャッターは、
完全に開いていた。
COMITATUS FIT PROGRESSUS
背骨ミラージュ
私はあの人を知っているはずだ。
彼女は私を見て笑った。
「まだ?」
何が、とは聞かなかった。
聞けば負ける気がした。
[ K(her)=1 ]
既知判定。
しかし、
[ R(her)=\varnothing ]
検索結果なし。
私は彼女を知っている。
私は彼女を知らない。
[ 1 \land 0 ]
矛盾ではない。
欠落だ。
「じゃあ、これは?」
彼女が左手を上げた。
薬指。
何もない。
それだけだった。
心拍数が上がった。
[ \Delta HR > 0 ]
理由はない。
「へえ」
彼女が笑う。
実験されている。
いや。
遊ばれている。
チキンレースだ。
彼女は一つずつ、崖へ近づいてくる。
言葉。
仕草。
固有名詞。
匂い。
歌。
私の知らない私。
どこまで近づけば、
[ R(x)\neq\varnothing ]
になるのか。
彼女は知りたいらしい。
私は知りたくない。
「昔さ」
やめろ。
「あなた――」
やめろ。
潜れ。
なぜ欠落した。
潜れ。
[ self(t_0) \neq self(t_1) ]
現在の私と、
彼女の記憶に保存されている私は、
同一人物なのか。
[ sim(self_{now},self_{her}) \rightarrow 0 ]
違う。
彼女を忘れたんじゃない。
私がいない。
ある期間の私だけが、
きれいに抜け落ちている。
[ M(self,t_a:t_b)=\varnothing ]
ところが彼女の中には残っている。
[ M_{her}(self,t_a:t_b)\neq\varnothing ]
彼女だけが、
私の失われたバックアップを持っている。
「もう一個やっていい?」
彼女は楽しそうだった。
私は答えなかった。
彼女が言った。
たった一言。
知らない言葉だった。
なのに、
身体が先に振り向いた。
[ M_{language}=0 ]
[ M_{body}=1 ]
消えていない。
どこかが通電している。
人のいなくなった家で、
消し忘れたライトみたいに。
私はその明かりを知っている。
誰が点けたのかも知らない。
いつから点いているのかも知らない。
ただ、
帰らなければならない気がする。
彼女が笑った。
「近い」
潜れ。
潜れ。
あの光まで。
いや。
待て。
あれは出口じゃない。
彼女が点けっぱなしにした、
ルンルン
前髪を切った。眉を少し細くした。口紅は赤くないやつ。チークはほとんど塗らない。
鏡の前で右を向く。
左を向く。
顎を引く。
[sim(face_{now},face_{then})=0.73 ]
七割三分。
いい感じ。
バター風味みたいな。オリーブ風みたいな。ローズマリーを散らして、まとめたらプロヴァンス。
ノノックみたいな感じ。
何の話だ。
まあいい。
好きでしょ。
わかってルンだから。
ルンルン。
彼は私を知らない。
正確には、
知らないことになっている。
目は見えている。耳も聞こえている。記憶も、全部なくなったわけじゃない。
ただ、
届かない。
[ input=1 ]
[ memory\neq\varnothing ]
[ recognition=0 ]
アグノシア。
失認。
医者はそう言った。
ずいぶん雑な名前だと思った。
あるのに。
「ない」にされている。
だったら探せばいい。
私はそういうの、けっこう好き。
燃える。
「まだ?」
彼が眉を寄せる。
「何が」
お。
今日は聞いた。
[ response=1 ]
一点。
「なんでもない」
私は笑う。
彼は嫌そうな顔をする。
そこは変わってない。
次。
顔。
私は黙って彼を見る。
彼も見る。
一秒。
二秒。
まだ見る。
[ gaze=2.8sec ]
昨日より〇・六秒長い。
七割三分。
効いてる。
ルン。
「何」
「別に」
次。
左手。
頬杖をつく。
薬指が見えるように。
何もない。
彼の視線が落ちる。
一秒。
二秒。
喉が動いた。
あ。
本当にわからないんだ!
[ recognition=0 ]
[ \Delta HR>0 ]
「へえ」
「何だよ」
「別に」
ルンルン。
楽しい。
たぶん私は性格が悪い。
それは知っている。
昔も言われた。
お前さあ。
これはまだ使わない。
強いカードは後。
チキンレースなんだから。
最初からアクセルを踏み抜いたら、ただの事故だ。
次。
匂い。
昔つけていた香水は廃番だった。
三軒回って、近いものを見つけた。
ベルガモット。白い花。
ジャスミンとかさ。
少しだけ木。
[sim(scent_{now},scent_{then})=0.61 ]
六割一分。
弱いかな。
彼がアイスコーヒーを飲む。
反応なし。
ちぇ。
「今日、なんかつけてる?」
きた。
「柔軟剤」
嘘。
彼がもう一度、小さく鼻で息を吸う。
二点。
ルン。
次。
店の名前。
零点。
駅名。
彼の指が止まる。
一点。
雨の日の話。
零点。
歌。
三小節だけ。
彼の人差し指が、四小節目をテーブルに刻んだ。
三点。
「その曲、知ってる?」
「知らない」
「続き知ってるじゃん」
彼が自分の指を見る。
知らない虫でも止まっているみたいに。
私は笑った。
彼は笑わなかった。
[ know_{head}=0 ]
[ know_{body}=1 ]
へえ。
面白い。
ちゃんといる。
どこかに。
「昔さ」
彼の肩が固くなる。
「あなた――」
そこで止める。
「何」
「なんでもない」
「言えよ」
「やだ」
崖まで三メートル。
ルン。
私は彼の知らない彼を知っている。
変な感じ。
昔の癖。
嫌いな食べ物。
嘘をつくときの目。
眠いときの声。
右側から名前を呼ばれると、左から呼ばれるより少し機嫌が悪い。
どうでもいいデータばかり。
でも本人は持っていない。
[ database_{me}>database_{him} ]
私は彼の取扱説明書を持っている。
旧版。
改訂前。
何ページか破れている。
それでも本人より詳しい。
ちょっと面白い。
次。
強いやつ。
私は身を乗り出した。
耳元で、
あの言葉を言う。
一言。
辞書にもある言葉。
でも私たちは、 違う意味で使っていた。
二人だけの誤用。
言った。
彼は動かない。
[ M_{language}=0 ]
駄目か。
そう思った瞬間、
彼が振り向いた。
速かった。
考えるより先に。
私を見る。
いや。
私の顔がある場所を見る。
[ recognition=0 ]
[ response=1 ]
私は笑った。
「近い」
彼の顔が強張る。
「何が」
「近い近い」
「何なんだよ」
「もう一回やる?」
「やめろ」
その言い方。
私は一瞬、黙った。
声の高さ。
目を細める角度。
口の端。
全部、
知っている。
[ sim(response_{now},response_{then})=0.94 ]
九割四分。
すご。
私は笑った。
「何がおかしい」
「別に」
彼は知らない。
私だけが知っている。
ぱち。
薬指。
ぱち。
香水。
ぱち。
歌。
ぱち。
言葉。
人のいなくなった家で、部屋の灯りを順番につけていくみたい。
誰もいない。
でも電気は来ている。
ぱち。
点く。
ぱち。
ここも。
ぱち。
ここも。
楽しい。
「次、これね」
彼が目を閉じた。
私は止まった。
まだ何もしていない。
[ stimulus=0 ]
[ response=1 ]
「……何してんの」
彼は目を閉じたまま言った。
「知らない」
「知らないのに?」
「なんか嫌な予感がする」
「なにそれ」
笑おうとした。
声が出なかった。
彼が言った。
「楽しそうだな」
「まあね」
「ルンルン?」
止まった。
それは今日、
一度も言っていない。
口にも出していない。
[ input=0 ]
私は彼を見る。
彼が目を開ける。
目が合う。
知らない女を見る目だった。
「何?」
「……なんでもない」
彼がコーヒーを飲む。
私は左手をテーブルの下へ隠した。
今日は終わり。
*
次の日。
顔は大事だよね。
だから、
もう少し寄せてみた。
前髪を三ミリ。
眉尻を少し下げる。
昨日より薄い口紅。
鏡の前で笑う。
違う。
もう一回。
違う。
もう一回。
これ。
[ sim(face_{now},face_{then})=0.81 ]
八割一分。
よし。
スマホをバッグに入れる。
香水。
一プッシュ。
左手を見る。
薬指。
何もない。
完璧。
今日は何からやろう。
歌?
匂い?
それとも、
顔。
顔、大事だよね。
好きでしょ。
わかってルンだから。
ルンルン。
デストロンノーエバ
「もう、終わりにしよう」
私は頷かなかった。
否定もしなかった。
ただ、少し計算した。
二人の関係を R(t) とする。
出会う以前、
[ R(t_0)=0 ]
出会った。
[ \exists t_1 \quad R(t_1)>0 ]
それから時間が経った。
笑った。 喧嘩した。 眠った。 食べた。 待った。 待たせた。
それらをすべて積分する。
[ H=\int_{t_1}^{t_n}R(t),dt ]
これを履歴と呼ぶ。
妻は言う。
「もう無理だと思う」
現在時刻を t_n とする。
仮にここで、
[ R(t_n+\varepsilon)=0 ]
になったとする。
なるほど。
未来における関係はゼロになる。
しかし、
[ H \neq 0 ]
である。
私はもう一度計算した。
もしかすると私が間違っている。
別れとは関係の終了ではなく、 関係そのものの消去なのかもしれない。
ならば演算子 D を定義する。
[ D(R)=\varnothing ]
離婚。 離別。 絶縁。 好きではなくなること。
好きだった人を、 好きではない人へ写像する関数。
[ D:A\rightarrow \bar{A} ]
ここで問題が発生する。
過去の任意の時刻 \tau<t_n において、
[ R(\tau)>0 ]
だった事実まで、
[ D(R(\tau))=0 ]
にできるだろうか。
できない。
時間発展は一方向だからだ。
[ \frac{\partial t}{\partial \tau}>0 ]
過去は読み取り専用である。
権限がない。
私にも。 妻にも。
妻は黙っていた。
私は何も言わなかった。
頭の中だけで証明を続けた。
彼女が私を嫌いになる。
[ L_{\mathrm{wife}}(\mathrm{me},t_n)<0 ]
成立。
私が彼女に嫌われる。
[ L_{\mathrm{me}}(\mathrm{wife},t_n)>0 \land L_{\mathrm{wife}}(\mathrm{me},t_n)<0 ]
成立。
相互性は破れている。
[ L_{a\rightarrow b}\neq L_{b\rightarrow a} ]
愛情は対称行列ではない。
知っていた。
そんなことくらい。
もっと嫌な計算をする。
妻が私のいない未来を選ぶ確率を、
[ P(S\mid t>t_n) ]
とする。
高い。
非常に高い。
私がそれを拒否する確率を、
[ P(\neg S) ]
とする。
ほぼ一。
しかし、
[ P(S)+P(\neg S)\neq1 ]
である。
同じ確率空間にいないからだ。
私は私の世界で、 彼女は彼女の世界で、
それぞれ正しい。
だから、
[ S\land\neg S ]
は論理矛盾ではない。
二人だ。
妻が立ち上がった。
テーブルの上に、 飲みかけの水が二つ残った。
私はそれを見た。
二つ。
まだ二つある。
くだらないと思った。
コップの個数に意味などない。
[ N_{\mathrm{glass}}=2 ]
ただの自然数だ。
それなのに私は、
[ 2\rightarrow1 ]
という写像だけが、 どうしても理解できなかった。
一人になることはわかる。
一人で眠ることも、 一人で食べることも、 一人で老いることも、
計算はできる。
だが、
[ 2=1 ]
にはならない。
二人だったものが、 一人になるのではない。
二人だったものから、 一人と一人が生まれる。
[ 2\rightarrow1+1 ]
保存されている。
何が。
わからない。
妻が玄関へ向かった。
私は追わなかった。
境界条件を変える権利は、 私にはない。
[ \mathrm{FreeWill}_{wife}\notin \mathrm{Domain}(\mathrm{me}) ]
これだけは、 証明するまでもない。
だから私は、 別れを否定しない。
妻の決定を否定しない。
未来を否定しない。
扉が閉じる可能性も否定しない。
私が否定するのは、 ただ一つだ。
[ D(H)=0 ]
これだけは違う。
終わったものは、 なかったものではない。
愛されなくなることは、 愛されなかったことではない。
失うことは、
[ \mathrm{Loss}(x) ]
であって、
[ x=\varnothing ]
ではない。
むしろ、
[ \mathrm{Loss}(x) \Rightarrow \exists x ]
である。
失ったという事実だけが、 それが存在したことを、 最後まで証明してしまう。
玄関の向こうで音がした。
私は目を閉じた。
証明終了。
[ \boxed{ \mathrm{Farewell} \neq \mathrm{Erasure} } ]
さようならは、
存在しなかった。
マッカンチーズ
死んでから三年になる。
元彼はまだボルチモアに住んでいた。
同じ家だった。
私が選んだ白いカーテンはなくなっていた。 窓にはホームセンターで買ったらしいブラインドがついている。一本だけ折れている。
観葉植物もない。
日曜日になると私が一枚ずつ葉を拭いていたフィカスも、ローズマリーも、キッチンの窓辺に並べていた小さな多肉植物も消えていた。
代わりにテレビが大きくなっていた。
「最悪」
吐き捨てた。
もちろん、彼には聞こえない。
午後六時四十二分。
玄関が開いた。
バスターが飛んでいく。
十二歳になる雑種犬 昔はソファなんて助走なしで飛び乗ったのに、いまは後ろ脚が少し弱い。
それでも彼が帰ってくると、仔犬みたいに尻尾を振る。
「Hey, buddy」
彼はバスターの頭を乱暴に撫でた。
靴を脱がない。
「靴」
そのままキッチンへ行く。
「靴!」
冷凍庫を開けた。
嫌な予感がした。
出てきた。
黒いプラスチックのトレー。
SALISBURY STEAK
MACARONI & CHEESE
「やめて」
フィルムにフォークで穴を開ける。
電子レンジ。
7:30。
START。
それだけ。
彼は二階へ行った。
シャワーの音がする。
「効率だけは良くなったね」
昔は違った。
私はレンズ豆のスープを作った。
ケールのサラダ。鶏肉は前の日から塩麹に漬けた。
オリーブオイルは遮光瓶。
塩は三種類。
コーヒー豆は飲む直前に挽いた。
食事は身体を作るものだから。
何度もそう言った。
彼はいつも、
「Yeah」
と言った。
たぶん半分も聞いていなかった。
シャワーが止まる。
五分後、彼が降りてきた。
DUFF BEER。
胸いっぱいにロゴが入った、よれよれのTシャツ。
「四十過ぎてそれ着る?」
冷蔵庫を開ける。
Budweiser。
一本取り出す。
彼の顔がちょっと明るくなった。
「Oh,yeah」
プシュ。
一口。
「Ahhh」
そして缶を眺めた。
「Dog piss」
笑っている。
もう一口。
「Fucking dog piss」
嬉しそうだった。
「じゃあ飲むな」
聞こえない。
Budweiserを飲む。
犬のションベン。
もう一口。
犬のションベン。
大好きなくせに。
この人は昔からそうだった。
好きなものほど少し悪く言う。
高いものには緊張するくせに、安いものには安心して悪口が言える。
たぶんこれは彼なりの愛情だった。
バスターが足元へ来た。
「You want some dog piss?」
「犬にビールを勧めない!」
バスターが彼の横を通り過ぎた。
そのとき、
私を見た。
私は気づかなかった。
BEEP.
BEEP.
BEEP.
彼は電子レンジを開けた。
「Hot!」
「だからミトンを使え!」
フィルムを剥がす。
湯気。
茶色い肉。
茶色いグレービー。
黄色いマカロニ。
緑色の何か。
栄養という概念が色分けされていた。
彼はトレーを持ってソファへ行った。
テーブルは使わない。
テレビをつける。
オリオールズ。
バスターが足元に伏せる。
彼はサリスベリーステーキを切った。
食べた。
Budweiser。
野球。
マッカンチーズ。
Budweiser。
「Hell yeah」
私は呆れた。
私が死んでから、この人の生活からは、あらゆる工程が消えていた。
豆を挽かない。
アイロンをかけない。
花を飾らない。
タオルを畳まない。
ビールをグラスに注がない。
夕食は七分三十秒。
犬。
野球。
犬のションベン。
マッカンチーズ。
寝る。
こんなものは生活じゃない。
私はそう思った。
そう思いたかった。
夜中。
テレビが、
ARE YOU STILL WATCHING?
と訊いていた。
彼は答えなかった。
ソファで眠っている。
私は家の中を歩いた。
別に探していたわけじゃない。
本当に。
洗面台。
歯ブラシは一本。
シャンプーも一種類。
クローゼット。
彼の服だけ。
ベッドの反対側には洗濯物。
女物の化粧品はない。
長い髪もない。
見覚えのないピアスもない。
冷蔵庫にはBudweiser。
ハインツ。
マイユディジョンマスタード。
卵。
開封日不明のチーズ。
ワインはない。
誰かと暮らしている気配が、
本当に、
ひとつもなかった。
「馬鹿じゃないの」
三年だよ。
死んで三年になる。
誰か好きになればいいのに。
私はもう怒らないのに。
たぶん。
階下へ戻った。
彼はまだソファで眠っていた。
DUFF BEER。
片方だけ靴下。
テーブルには空のBudweiser。
ゴミ箱にはTVディナーの黒いトレー。
ひどい。
本当にひどい。
バスターがソファへ上がろうとした。
一回。
失敗した。
可愛い。
爪が床を滑る。
彼が目を覚ました。
「C'mere,old man」
半分眠ったまま、バスターの身体に腕を回す。
抱き上げる。
「Jesus Christ, you're heavy」
「あなたもね」
バスターは彼の胸に収まった。
羨ましい。
抱いたまま、また眠った。
私は向かい側に座った。
座れるわけではないけれど。
そういう格好をした。
なんとなく、そんな感じに。
しばらく二人を見ていた。
彼の腕が動いた。
バスターを抱き寄せる。
それから、
私の名前を言った。
小さな声だった。
私は動けなかった。
寝言だった。
「……ずるい」
「そういうの、一番ずるいんだから」
彼は眠っている。
バスターも目を閉じている。
私は彼の前にしゃがんだ。
髪に触れようとした。
指は通り抜けた。
当たり前だ。
三年も幽霊をやっている。
それくらい知っている。
「もういいよ」
私は言った。
何がもういいのか、
自分でもわからなかった。
「許す」
何を許したのかも、
わからなかった。
Budweiserかもしれない。
マッカンチーズかもしれない。
靴のままキッチンへ入ることかもしれない。
私が死んだあとも、
この人の生活が続いたことかもしれない。
あるいは、
こんなふうにしか続けられなかったことかもしれない。
そのとき、
バスターが目を開けた。
私を見た。
まっすぐ。
私は固まった。
バスターは瞬きもしなかった。
「……あんた」
尻尾が動いた。
ぱたん。
ソファを一度だけ叩いた。
「見えてるの?」
ぱたん。
私は思い出した。
玄関。
キッチン。
Budweiser。
電子レンジ。
この子は今日、
何度も私を見ていた。
「最初から?」
ぱたん。
「言いなさいよ」
無茶を言っている。
笑った。
彼は眠っている。
私の名前を呼んだ男を、
バスターが抱かれているのか、
彼がバスターに抱かれているのか、
もうよくわからなかった。
「この人、お願いね」
バスターは私を見ていた。
「犬のションベンばっかり飲ませないで」
ぱたん。
「マッカンチーズも週三まで」
ぱたん。
「野菜」
尻尾が止まった。
「そこは協力しなさいよ」
笑った。
玄関まで来ると、
バスターもついてきた。
彼はソファで眠っている。
私はドアの前に立った。
開ける必要はない。
「バスター」
老犬が私を見上げた。
「長生きしなさいよ」
尻尾。
ぱたん。
「できるだけでいいから」
私はドアを抜けた。
バスターは来なかった。
来られなかった。
それでいい。
振り返る。
古い家。
折れたブラインド。
大きすぎるテレビ。
庭。
冷蔵庫のBudweiser。
冷凍庫のTVディナー。
ひどい生活。
本当に、
ひどい生活。
でも、
生活だった。
私はもう一度だけバスターを見た。
「じゃあね」
朝。
彼は首を痛そうに押さえながら目を覚ました。
「Fuck」
バスターが床にいる。
「Morning, buddy」
頭を撫でる。
キッチンへ行く。
冷凍庫を開けた。
TVディナー。
一個取り出す。
少し考える。
もう一個に手を伸ばす。
バスターが、
「ワン」
と鳴いた。
彼は止まった。
「What?」
バスターは冷凍庫を見ている。
「ワン」
「……Seriously?」
彼は二個目を見た。
バスターを見る。
また二個目を見る。
「All right, all right」
一個戻した。
冷凍庫を閉める。
冷蔵庫を開ける。
Budweiserを一本取り出す。
プシュ。
朝から飲むな。
彼は一口飲んだ。
顔をしかめる。
そして嬉しそうに言った。
「Dog piss」
ロゼッタ
マーク・ボランはこう言った。
三十までに俺は死ぬ。
ビートルズはこう言った。
三十過ぎを信じるな。
どっちも無理だった。俺は三十九歳で、明後日には四十になる。
小遣いは月二万円。煙草はやめられない。酒は家で飲む。欲しいものは一週間考えると、だいたい欲しくなくなる。
浮いた金は娘の将来になる。たぶん。だから勝手に自分へ縛りを入れている。課金禁止、回復アイテム節約。俺が不自由であるほど、娘のマップが広くなる。そういうゲームだと思っている。
その日、娘のアンパンマンを借りにゲオへ行って、見てしまった。
PlayStation 3。クリムゾン・レッド。中古八千円。
馬鹿みたいに赤かった。
カミさんに電話して、自分の小遣いで買う許可をもらった。三十九歳の小遣いだ。なのに、ものすごく嬉しかった。
それから中古ソフトを買い漁った。三百円、五百円、八百円。昔は七千円したゲームが煙草より安い。ヴァンキッシュ、イージーでクリア。ベヨネッタ、イージーでクリア。軟骨まで齧らない。一番うまい肉だけ食って、次へ行く。三百円で知らない街へ行き、八百円で神様を殺す。
いつの間にか、会社に残らなくなった。ただ、早く帰りたかった。今日は何をやろう。それだけだった。
帰り道、ボンベルタの喫煙所から古墳が見えた。三十九歳が煙草を吸い、缶チューハイを舐める向こうに、昔の偉い人の墓がある。
のんきなもんだね。
ゲームボーイアドバンスを開き、卵を孵す。
自転車を走らせ、割る。違う。またもらう。走る。孵る。違う。
娘の学校、俺の仕事、家計、四十歳。現実は引き直せない。だから手のひらの中だけで、何度も引き直す。
違う。もう一回。
違う。もう一回。
液晶の青い光を浴びて、家へ帰る。そこには赤いPS3がある。
そのうち『ドラゴンズドグマ』を買った。
イージーでぱっぱと終わらせるはずが、二か月経っても黒呪島の陰気な地下にいた。
死神が出た。大鎌を持った本物のデスだ。狭い通路へ逃げ込み、反射する矢を放った。
キン。壁に跳ねて死神に当たる。
「ォ――」
変な声がした。もう一発。
壁、床、天井。キン、キン、キン、キン。
「ォ、ォ、ォ、ォ――」
死神が震えた。俺は声を殺して笑った。娘もカミさんも寝ている。明日は仕事で、煙草は残り六本。テレビの下で、八千円の赤が光っている。
死神がこちらを向いた。俺は弓を構えた。
もう一回。
青白い光が集まる。
もう一回。
放つ。
キン。
「ォ――」
イグニション
目ぇ覚めた。
窓から見える景色の湿度が、東山区やった。
山が近い。
朝やいうのに、空気からまだ水が抜けきってへん。建物の輪郭が、少し青い。
電線の下をハクセキレイが飛んどる。
一羽。
二羽。
あいつらは妙な飛び方する。
ちょっと浮いて、すぐ落ちる。
地面に降りたら、うつむいて歩く。なんか探しとる。
また飛ぶ。
また落ちる。
東山界隈の湿度の中を、白と黒のちっさいカーソルが点滅しとる。
東福寺。
本町通。
第一日赤。
ここや。
現在地は正常に認識されとる。
問題は、
現在時刻やった。
「おじさん」
声がした。
四十くらいの男がおる。
知らん。
「俺やって」
知らん。
「健太」
知っとる名前やった。
マジで?
最後に見た健太は小学生や。
俺の部屋に勝手に入ってきて、 机の上のQuantum Fireballを素手で掴もうとした。
「触んな!」
本気で怒鳴った。
「なんで?」
「静電気で死ぬ!」
「おじさんが?」
「HDDがや!」
泣かせた。
あの健太や。
「……健太?」
「せや」
POSTは通った。
けどBIOSが狂っとる。
健太が四十のおっさんであるはずがない。
二〇二六年。
そう説明された。
俺の最後の記憶は二〇〇〇年にある。
二十六年。
数字としてはわかる。
意味がわからん。
「おじさん、なんか食べたいもんない?」
食べたいもん。
考えた。
なんもなかった。
代わりに、ひとつだけ確かめたいことがあった。
「寺町!」
「え?」
「電気街。寺町行きたいなぁ」
健太はちょっと黙った。
ほんで笑った。
「もうないんや(笑)」
何言うとるんかわからんかった。
窓を見る。
セキレイがおる。
東山がある。
第一日赤がある。
ほんなら、
寺町もあるやろ。
「寺町通はあるよ」
「ほんならあるやないか」
「そうやなくて。おじさんが言うてる寺町は、もうないねん」
意味がわからん。
寺町は場所やない。
抵抗。
コンデンサ。
DIPスイッチ。
SIMM。
DIMM。
SCSIケーブル。
用途のわからん変換コネクタ。
ジャンク箱。
マジックで書かれた、
《動作未確認・返品不可》
寺町いうたら、
そういうもんや。
なくなるもんやない。
「パーツ、どこで買うねん」
「ネット」
「ネットのどこや」
「Amazonとか」
「古本屋?」
「うん」
CPUを古本屋で買う。
現物見いひん。
箱見いひん。
店員にステッピング聞かへん。
ロットも見いひん。
同じ型番でも石は同じやない。
回る石と、
回らん石がある。
俺のCeleron 300Aは回った。
Mendocino。
4.5×66。
297MHz。
それをFSB 100MHz。
4.5×100。
450MHz。
五割増し。
空冷。
アホみたいな石やった。
いや。
石やない。
事件やった。
Abit BH6。
SoftMenu。
ジャンパ弄らんでもBIOSからFSBを変えられる。
初めて見たとき、
マザーボードのほうから俺らに歩み寄ってきよった、
そう思った。
PC100 SDRAM。
CAS Latency。
AGP。
PCI。
ISA。
IRQ。
DMA。
I/Oポート。
全部が一枚の板の上で、互いに肘ぶつけながら生きとった。
Sound Blaster挿す。
音が出えへん。
ええやん。
そこからや。
IRQ 5か7。
DMA。
I/O。
SET BLASTER。
AUTOEXEC.BAT。
CONFIG.SYS。
DEVICE=HIMEM.SYS。
EMM386.EXE。
DOS=HIGH,UMB。
640KB。
あのクソ狭い土地から、一バイトでも多くコンベンショナルメモリを奪い返す。
DEVICEHIGH。
LOADHIGH。
再起動。
MEM /C /P。
あと4KB。
まだ行ける。
マウスドライバ替える。
CD-ROMドライバを上へ追い出す。
再起動。
622KB。
よっしゃ!。
ゲームを起動する。
動く。
その瞬間、
ゲームなんかどうでもようなる。
勝ったんや。
ゲームにやない。
IBM PCいう、
古い設計を何層も引きずった、
巨大な地層にや。
退院してから、
健太の家で今のPCを見せてもろた。
黒い箱やった。
横が透明。
中が光っとる。
「なんで光っとんねん」
「そういうもん」
「なんでや」
「知らん。流行り」
意味がわからん。
でっかい板が刺さっとる。
「これ何や」
「GPU」
「グラフィックカードやろ」
「まあそう」
「GeForce?」
「そう」
知っとる。
GeForce 256。
Transform & Lightingをハードウェアに持っていった。
CPUの仕事を奪い始めた化け物。
その子孫や。
クロック聞いた。
聞き間違えたと思った。
もう一回聞いた。
同じやった。
メモリ容量聞いた。
笑った。
SSDいうもんの転送速度聞いた。
笑えんようになった。
「SCSIは?」
「使わん」
「IDEは?」
「ほぼ使わん」
「AGP」
「ない」
「PCIは?」
「PCI Express」
「IRQは?」
「知らん」
俺は健太を見た。
「これ、自分で組んだんやで」
ちょっと得意そうや。
「IRQ知らんのに?」
「知らんでも組める」
「DMAは?」
「知らん」
「ジャンパは?」
「ほぼない」
「ディップスイッチ」
「ない」
「SCSI ID」
「せやからSCSI使わんて」
「終端抵抗」
「何を終端すんねん」
頭痛うなってきた。
第一日赤に戻ったほうがええかもしれん。
「でも俺、PC結構詳しいで」
健太が言うた。
CPU載せる。
メモリ挿す。
SSD挿す。
GPU挿す。
電源つなぐ。
規格が合うとったら動く。
UEFIが見つける。
OSがドライバ持ってくる。
組んだ?
それ、
差しただけちゃうんか。
俺らの頃は、
組み上がってからが始まりやった。
POSTせえへん。
ええ。
そこからや。
メモリ一本抜く。
CMOSクリア。
最小構成。
起動。
一枚戻す。
起動。
もう一枚。
落ちる。
見つけた。
原因わかった瞬間、
頭の奥で火ぃつく。
せやから、
また踏む。
FSB上げる。
電圧盛る。
冷やす。
POST。
起動。
ベンチ。
完走。
もう一段。
フリーズ。
そこや。
そこが崖や。
崖が見えたら、
一段戻す。
そこに住む。
メーカーが引いた安全域なんか、
ただのハザードマップや。
ガードレールの横に自分でバイパス通して、
クロックアップの限界までアクセル踏み込む。
「壊れたらどうすんねん!」
健太が言うた。
何言うとるんかわからんかった。
壊れたら?
原因探すやろ。
電圧か。
熱か。
メモリか。
バスか。
一個ずつ潰す。
直す。
直らんかったら交換する。
ほんで、
なんで壊れたんか覚える。
それが次の一台の性能になるんや。
「せっかく高いパーツ買ったのに壊れたら嫌やろ」
「……まあ、それはそうやな」
「せやろ?」
「クロックは弄れるんか」
「弄れるけど、やめろや」
できるらしい。
ほんなら、
まだPCや。
巨大なGPU。
アホみたいなメモリ。
見たこともないSSD。
IRQ知らんでも動く。
DMA知らんでも動く。
ジャンパもない。
俺は笑った。
「便利なもんやな!」
口から出た。
その瞬間やった。
――便利なもんやな!
俺やない。
もっと低い声。
匂いがした。
塗料。
油。
埃。
松原通りの模型屋や。
小学生の俺がおる。
ズゴック作っとる。
ランナーから部品切る。
合わせる。
タミヤのちっさい角瓶。
蓋に刷毛がついとる。
塗る。
貼る。
モビルスーツになる。
横で模型屋のおっちゃんが笑っとった。
――便利なもんやな!
あの人らは、
竹ひご曲げた。
バルサを小刀で削った。
図面から翼を起こした。
左右合わせた。
紙張った。
重心取った。
飛ばした。
落ちた。
削った。
また飛ばした。
俺はランナーから部品切った。
接着剤塗った。
シャア専ができた。
便利ならええやん。
そう思っとった。
四十年以上経って、
俺が言うた。
便利なもんやな。
「あのときのおっちゃん、こんな景色見とったんか」
「何?」
「いや。なんでもない」
俺も、
同じ顔しとったんやろな。
竹ひご削っとった人間から見たら、
刷毛付きの接着剤でプラモ作っとった俺かて、
ずいぶん完成品に近い世界で遊んどった。
遊びが簡単になったんやない。
人間が触らんでええ場所が、
少しずつ増えていく。
竹ひごが消えた。
IRQが消えた。
次は、
何が消えるんやろ。
恐いなコレは。
「おじさん」
「ん?」
「PCで何してたん?」
考えた。
ゲーム。
通信。
MIDI。
CD-R。
エンコード。
ベンチマーク。
いろいろやった。
けど、
どれもちょっと違う。
俺はPCで何かしとったんやない。
PCそのものが、
まだ目的語になれた時代におった。
「パソコンをしてた」
「何言うてんの?」
健太が笑った。
懐かしかった。
二十六年。
寺町はもうない。
俺の知っとる店もない。
SCSIもない。
ISAもない。
AGPもない。
Quantum Fireballも、
たぶんもう回っとらん。
俺らがPCを速うしようとしとった間にも、
PCは俺らを置いて、
ずっと速うなり続けとったらしい。
せやけど。
「おじさん」
「ん?」
「GTA6のトレーラーとか見たら、ちびるかも」
「GTA?」
「グランド・セフト・オート」
「そんなすごいんか」
「最後に見たゲーム何?」
考えた。
「Quake IIIかな」
健太が黙った。
ほんで、
嫌な笑い方した。
「絶対ちびるわ」
「何やねん、それ」
健太がマウス握った。
俺は椅子を引いた。
画面が暗うなる。
一瞬だけ、
何も映らん。
昔から、
この瞬間が好きやった。
電源入れて、
まだ何も始まってへん時間。
真っ黒な画面の向こうで、
何かが動き出す。
次の瞬間、
光った。
知らん街が映った。
知らん車が走っとる。
知らん光が、
知らん水面に反射しとる。
なんやこれ。
健太がこっちを見る。
笑っとる。
俺も、
たぶん笑っとった。
寺町はもうない。
まあ、
ええか。
「楽しみやな」
窓の向こうを、
ハクセキレイが飛んどった。
東山界隈 ―ビヨンドレイニー―