百合の君(118)
「蟻螂、どうしたのです? ぼーっとして」
狐の毛皮を腹に巻いた穂乃が、目の前に座っている。膝の上に、小さな男の子がいる。色あせた着物、ぼさぼさの髪から今にも虱が出てきそうだが、こちらを見つめる赤い目は女子のようにかわいらしい。
「その子は?」
穂乃は目を丸くした。膝の子供も同じ顔だ。薪のはぜる音がして、囲炉裏があるのに気が付いた。囲炉裏といっても、ただ堆積した灰にしわくちゃの紙のような鍋が乗っかっているだけだ。破れ目から何か汁がこぼれて、ジュッと音を立てた。
「変なおっ父だねえ、珊瑚、弓を見せてやったら?」
話しかけられた子は、穂乃の膝から飛び降りると、小さな弓を持って小屋の外に駆け出した。外の夜はあっという間に明けた。
「おっ父、見てろよ」
藪に潜んで弓を構える。その先にいるのは、夕日にかがやく湖面のような大鹿だ。
珊瑚の放った矢は、敵を一人仕留めた。
蝶様は、失敗したのだ。珊瑚は兜の緒を噛んだ。苦かった。それとも、最初から蝶様にはめられていたのだろうか? いずれにせよ、木怒山の立場で考えれば、私を排除しようとするのは当然だ。いや、木怒山は喜林義郎の子である私を擁立し、喜林を奪うことを考えていたのではなかったか?
思いは千々に乱れながらも、数ある敵の中から的を絞り、矢を放った。そして、それらが同時に行われているのが、不思議なことのように思えていた。まるで自分自身、意識、魂がバラバラになって思考や行為の間を行ったり来たりしているようだ。混雑し停滞しないのを不思議に思い、その思いもまた霧散した。
そして、敵の軍勢は確実に迫って来ていた。死の間際とは、こんなものだろうか? という考えがまた新たに生まれた。死ぬときは、侍らしく潔く死にたい、とも思った。
珊瑚自身、その雑多な考えを重荷に感じていたので、天蔵が現れたのはむしろ幸運だった。黒い襤褸が鉄砲水のような勢いで突進してくる。守隆の制止を押し切って、珊瑚は突撃した。
「さんごー、園はどこだー」
言うが早いか迫って来る剣撃を、紙一重で躱す。光が通過した後に、天蔵の髪がふわりと肩に垂れる。一瞬兆した後悔を吐き出す。
「貴様さえいなければ!」
珊瑚も刀を振るったが、それは天蔵の体臭を払っただけだった。
「相変わらず弱いなー、だから」
「だから何だ!」
「喜林の父さまにも捨てられるんだぞー」
天蔵の言葉のためか、あるいはその剣が迫っていたからか、珊瑚の心臓が強く脈打った。
百合の君(118)