ミルク・ポット
冷たいミルクを飲むときの、微かな甘い匂いが好きだ。だから、ミルクは口の広いグラスで飲むに限る。
特に、朝の一杯は大事に飲む。身体の中の何かを呼び起こしているのかもしれない。
そんないつもの朝、私は声を聞いた。
「ん…、お母さん、何か言った?」
「なに?」
母は洗い物の最中の様だ。私に声を掛けた様子は無い。
「あー、何でもない」
おかしいな、確かに何か聞こえたんだけど。
思いながらもう一口。
「へ…?」
また聞こえた。確かに誰かが…呼んでいる?
確かめるため、もう一口。
『…だよ』
その声は、耳にではなく頭の中に響いた。それがはっきりと判った。
グラスはもう軽い。あと一口ってとこか。怖さと好奇心は五分五分。
私は一息に飲み干した。
『…ここだよ』
母が振り返ると、空のグラスだけがぽつんと残っていた。
飲み干して目を開けたら、私は白い街に立っていた。多分、これは夢なんだろう。
道も建物も純白という程ではないが、柔らかく白い。振り返ると、ヨーロッパの古い街並みを思わせる建物が消失点を描くまで連なっている。目の前も然り。白、白、白。
久しぶりの、色と形。
こんなに沢山の建物、なのに人っ子一人居なかった。耳がつんとなるほど静かだ。
建物の中を覗いてみると、驚いた事にその中も全て白かった。テーブルも椅子も戸棚も、全て。だが、誰も居ない。
もしも、全て白く塗られた精密なミニチュアの中に紛れ込んだらこんな感じだろうか。
「もしもーし」
どこへとも無く声を掛けてみる。何となく判っていたが、案の定答えは無い。耳を澄ましてみたが、微かな声すら返ってこない。
もう一度やってみようかと思った時、あの声が答えた。
『はーい』
妙にのんきなこの声は、何と空から聞こえてきた。見上げたが、人影は見えない。
と、いうか人一人が発する声にしては大きすぎる。あっちこっちで反響して、少しうるさいくらいだ。
飛行船か何かで拡声器を使っているのかと思ったが、空に飛行船の陰も形も見えない。もちろん、飛行機もヘリコプターも。
見上げて気がついた。空も白い。
「ちょっと、ここ何処なのよー」
向こうの声が大きいものだから、こっちもつい大声になってしまう。
『ここはミルクポットと言うらしいですよー』
ミルクポット…牛乳壷?何だそりゃ。でも、ミルクというのは何だか納得できた。
確かにミルクで街を作ったら、こんな感じかもしれない。
「ねぇー」
『はいー?』
相変わらず間延びした声が響く。
「何で私はこんな所に居るわけー?」
見えない相手に話しかけるのは慣れていたが、これはちょっと勝手が違う。やりづらいな。
『こんな所とはずいぶんですねぇ…』
何、気を悪くしたってぇの?
「そっちこそずいぶんじゃない。人を拉致しといてよく言うわ」
つぶやいた声は、驚いた事に届いていたらしい。何だ、地獄耳なんじゃない。
『拉致なんかしてませんよ。僕の呼びかけにあなたが応えたから来てもらっただけで』
あ、やっぱり。
「あの声、あなただったのね。どういう了見よ、私はただミルクを飲んでいただけで、飲む度にあなたの声が聞こえてきて…」
自分の話している内容の異常さに、少しずつ怖さが湧き上がってくる。
「あのさ…あなた、誰?ここから帰して」
焦りながらも、ずっと分かっていた。これは夢、こんな寂しい所はもう嫌。早く目覚めたい。
『うーん、あなたが望むなら。でもちょっと僕の話、聞いてもらえます?』
「聞いたら、帰してくれる?」
『帰しましょう』
なら。
「いいわ、さっさと話してよ」
白い街の白い道に、腰を下ろす。真っ白だから、汚いって事もないだろう。
『スカートであぐらなんかかいて…』
「ん?」
口煩い奴だなぁ。
『いえ、何でも。ま、話といってもそう長いものじゃありません』
「それじゃ手短に済ませてよ」
『そう急かさないで…。僕はただ、あなたがどんな人なのか話してみたかっただけなんです。ちょっとしたチャンスに恵まれて、僕があなたを選んだって事が分かったから』
「…」
内容が半端でなく訳が分からないから、どこから説明を求めればよいのやら。
『僕ね、このミルクポットに何年も一人ぼっちで居たんです。でもね、それももう少しで終わっちゃうらしいんですよ。それでね、神様みたいな人が一つだけ願い事叶えてやるって言ったんです』
「…神様…ですかい」
何だか話が妙な方向へ行きだした様な。
『ええ、神様…だと思うんですけど。だからね、僕願ったんです。僕のお母さんにプレゼントをしたいって』
「…はぁ」
よくは分からないが、親孝行…なんだな、きっと。
『で、僕はお母さんに会いたいなって思って、あなたに来てもらった訳で』
「…えっ」
その会話の流れでどうして私が出てくるの。お母さんに会いたい、で私に会いに来る訳?息子なんて、心当たりまるで無いし。
「あ、あのね、ちょっと訳わかんないんだけど…もう少し分かるように説明してくれない」
と言ってはみたが、奴は聞いちゃいなかった。
『ちょっと強引だったけど、神様みたいなのも手伝ってくれたし。僕、ものすごく幸運らしいですよ、数百年に一度の出血大サービスだって言ってましたし』
あーもー、何なんだよー、神様の出血大サービスって。その神様のフランクさ加減はどういう事。
「ね、ちょっと。待ってよ」
『だからね、僕のプレゼント受け取ってくださいね』
…は?
「何で私があなたからのプレゼントを受け取るの?それは、お母さんにあげる物なんでしょう?」
『そう。だから、確かに受け取ってくださいね』
不意に、辺りが溶解した。本当のミルクになってしまったかのように崩れる街並み。足元のミルクに飲み込まれる。
『また、会う日まで』
「ちょ、助け…」
思わず何も無い空中に伸ばした手に、柔らかい何かが触れた。
『……未来のお母さん』
その声を境に、目の前が白く染まった。
気がつくと、私は寝ていた。この感じは…あぁ、私のベッドだ。夢の余韻が尾を引いて、まだミルクの中で浮いている気がする。
ふわふわした気分を味わっていると、誰かやって来た。あの足音は、母だ。
「ちょっと、何いきなり寝なおしてるの。いきなり居なくなっちゃうから、びっくりして探しちゃったじゃないの」
「…そうだったの?」
それじゃ、あれは夢じゃなかったの?
「そうだったの、じゃないわよ。洗い物して振り返ったら、居ないんですもの」
母の声は確かに不安の響きが大きく、微かな怒りが感じられる。本当に心配したんだ。
「…ごめんなさい」
謝辞は口を突いて現れた。さっきの事は、話さないほうが良いだろう。
ふと、母の気配が変わった。怒気が消えて、興奮した感じ。
「そ、そうそう。さっき連絡があってね」
「ん?」
「提供者が現れたって」
「え…」
「角膜のよ」
私の耳に、あの声がよみがえる。
『そう。だから、確かに受け取ってくださいね』
…プレゼント?
私の世界が闇に包まれたのは、本当に小さな頃。それでも結構色々な事を覚えていたのだと思う。
提供者については、氏名も性別すら判らなかったが、脳死状態で何年も寝たきり状態の方だったと後に聞いた。
私に光をくれたのは、多分、彼だろう。ミルクポットの中で、どれだけ長い日々を過ごしていたのか。
それとも、割とフランクな神様と結構楽しくやってたのかな?
私は来月、結婚する。
親孝行で、人の話を聞かない彼に会うのは、もう少し先になりそうだ。
ミルク・ポット