映画『急に具合が悪くなる』レビュー
本作は主に3つのテキストからなる映画だと言えます。具体的には①往復書簡からなる同名の原作『急に具合が悪くなる』に加え、②濱口竜介監督が以前から関心を持っていたユマニチュードという介護ケアの技術ないし理念、③イタリアの地で法律に基づく精神病院の廃絶という形にまで結実した精神科医、フランコ・バザーリアの活動に通底する問題意識を共鳴させ、ほんの束の間、不可能が可能になる瞬間を二人の「マリ」に目撃させる。そこに至るまでの軌跡を3時間16分の上映時間をたっぷり使って丁寧に、かつ、厚みをもって描く作品です。
ストーリーの主な舞台は主人公の一人であるマリー=ルーがディレクターを務める認知症患者の介護施設。そこにユマニチュードの理念がどのように浸透していくのかを、もう一人の主人公、真理との出会いの前後で起きる変化を軸に描いていきます。
認知機能の低下によって過剰な防衛反応を示すことがある認知症の方々の目線に立ち、彼らとのコミュニケーションの確立に特化したケアを行うことで介護をする者/される者という垣根を取り払い、互いに人間らしさを尊重するための関係を築こうとするユマニチュードは、その理念が施設全体で機能すれば経営面でもプラスとなる効用を齎します。
しかしながらそこに至るまでの準備過程には、施設職員の意識改革など、色んな面で相当な時間がかかってしまうのが否めず、施設を運営させながら導入するとなればあらゆる場面で無理が生じてしまう。法的にも制限される予算、労働に見合ってるとは言い難い簿給、人員不足で削られていくプライベートな時間など、走りながら生まれ変わるには足枷となるものが多すぎて、マリー=ルーも頭を抱えている。彼女自身、不眠症の傾向が強く、決して万全な状態にあるとはいえません。
にっちもさっちもいかない中、偶然に出会った真理がマリー=ルーとの間で育んだ対話の時間は、哲学者と文化人類学者との間で交わされる言葉のやり取りという点で最も上記①の内容に沿ったものとなり、少子化と資本主義経済の負の相関関係をめぐる論考を通じて共有される問題意識がシステムと個人、正常と異常といった対立を生み出す様々な構造を引き寄せ、ブレイクスルーを果たす前に破綻することを免れ得ない私たちの世界の実相を浮かび上がらせます。運命にも似たロジックの袋小路。そこにステージ4のガンを患っている真理の人生も乗せられた時、本作は物語のアクセルを本格的に踏み出します。
その原動力となったのが他でもない、演劇的な真実の活写であったという事実は、濱口監督の名を世間に知らしめた『ドライブ・マイ・カー』とのシンクロを思わせてファンとしては熱くなる部分でした。
劇中で真理がマリー=ルーに対して暗に語ったように、舞台は決して自由ではありません。脚本を始めとして多くの制約が存在し、その制約の中で観客の想像力を羽ばたかせることを信条とする。こう記しても過言じゃない側面が確かに認められます。
けれど、一方で、演劇は生物(なまもの)です。予め決められたことが何ひとつ守られなくても、観客の前で披露すればそれは全て「舞台」となる。予測不可能なものも予定通りにしてしまう矛盾は、テレビや映画と違って、本番という時間を迎えないと完結しない表現行為ならではのものといえるでしょう。
そういう意味で、舞台の構造は際立ってフレキシブルなんですよね。ルールに従わないものの闖入も許してしまう。演者=プレイヤーがそこにいて、そこでプレイする限り、舞台が破綻することはない。この事実を、例えば資本主義と消費者との関係に置き換えたらどうなるか。あるいは、行き詰まった介護施設の経営を巡る困難に当て嵌めるとどうなるか。
「不可能なことは、不可能なままです。」
マリー=ルーに問われてはっきりとそう答えた真理が、それでもほんの束の間、不可能が可能になる瞬間を二人の「マリ」として目撃した時、真理はマリー=ルーに強く抱かれて、自分が生きる世界を精一杯に言祝ぐ。真正面にあるカメラに向かって、それぞれの顔を真っ直ぐに残したまま流れ去るこのシーンに覚える感情の奔流は、統計に基づく確率として、専門家から宣告される余命が振り下ろす鎌を跳ね除ける。
急に具合が悪くなって、今まで通りに行かなくなっても、真理が行った選択に応じて力強く下ろされていく物語の幕に、私は拍手を送るのを惜しみませんでした。実写化に向かない原作であったにも関わらず、エッセンスを凝縮させて、ここまで映画にしてくる濱口監督は間違いなく邦画界の極北。その揺るぎない輝きで映画の未来を照らして欲しいと強く思いました。
主演のお二人の演技だってとにかく素晴らしい。カンヌ国際映画祭での受賞も宜なるかな。終始、夢中になれる作品なので、長時間のハードルなんて少しも気にせず映画館へ向かうのが正解です。『急に具合が悪くなる』。興味がある方は是非。
映画『急に具合が悪くなる』レビュー