百合の君(115)
仲の良い夫婦ではないので男がいることに不思議はないが、まさか出海珊瑚とは思わなかった。人質時代に仲良くしたとは聞いていたが、その頃珊瑚はまだ十にもならなかったはずだ。
木怒山は、姪が恐ろしくなった。密書には、共に喜林義郎を討ち、天下を取ろうと書かれている。ついこの間喜林を諦めたばかりだというのに、もう危ない橋は渡りたくない。髪はすっかり白くなり、刀を振るう腕も衰えた。そしてそのような事を考えている自分を顧みて、きっと喜林義郎ならこんな機会は逃さないと思った。義郎は躍進するための好機であれば、それがどれだけ危険でもすぐに実行した。そして老いた木怒山は、それが自分と義郎との差なのだと知っている。剣の腕ではない、若さではない、その勇気と決断力なのだ。自分が今まで義郎にあれこれ言えたのは、自分が最終決定者ではなかったからだ。運命に対し責任を持つというのは、これほど重いものなのか。
木怒山は文から顔を上げ、蝶姫を見た。その瞳は自信に満ち、輝いている。考えてみれば哀れなものだ。この女は二十年以上も前に、父親の命令で、好かぬ男の妻となったのだ。あの猿が山から下りて来なければ、きっと別な男ともっと幸せな人生を送れたのだろう。
「姫様、残念ですがこのお話はお断りいたします」
蝶姫の瞳が揺れた。
「叔父上、いま何とおっしゃられました?」
「木怒山は、喜林につきます」
「父上が殺された事、お忘れですか? あの男は我らから喜林を奪ったのですよ」
木怒山が小さなため息をつくと、白い髭がわずかに揺れた。
「もう何十年も前のことです、この老いぼれは忘れました」
蝶姫の手が、唇が震えている。ふと昔の記憶がよみがえった。
何かの拍子で、遊んでいた蝶姫の玩具を、踏んづけて壊してしまったことがある。破裂したように泣き出した姪は、謝る間も与えず、いきなり平手でふくらはぎを叩いてきたのだった・・・。
パチーンと音がしたような気がして、木怒山は足をなでた。目の前の顔は、その時とそっくりだ。もしかして短刀でも取り出すつもりか?
木怒山は刀の柄に手を伸ばしかけた。蝶姫は立ち上がると、
「なら、結構です!」
叫び踵を返した。が、さすがに逃がすわけにはいかない。兵が蝶姫を取り囲んだ。
しかし蝶姫とて、叔父を無条件で信用するほど甘い女ではなかった。指示が途絶えたのを受け、使いが古実鳴に向けて走り出した。
百合の君(115)