ゆーえんみー 4話 だから僕はそれをするんだ
赤い星が地球に迫って、地球がそれにぶつかってもうすぐ滅びるらしい。
そんなことがニュースで報道されたのは、二年前……いや、一年半前だっただろうか。とにかくあまりにも急なことだった。正直言って現実味が無かったし、最初は呪いだ災厄だ滅びだと騒いでいたテレビの向こうの人たちも、あとほんの少しで世界が滅ぶという早すぎる死刑宣告を受けた事実を呑み込んで、せめて恐怖の無い終わりになりますようにとそれぞれ信じるものに祈りを捧げるようになった。
こういう時、宗教って人を救うんだなあと思う。飢饉とか災害とか、かつての人々も死が近くにあったときはきっと祈っていたに違いない。
そして僕は、小学校を卒業して、世界が終わると告げられた日の朝に、両親からぽつりと「……引っ越そうか」と言われた。理由はきっと、この髪と瞳だ。
やたらと目立つこれのせいで、僕は……多分、いじめられていた。別に殴る蹴るの暴行をされていたわけではないが、くすくすと遠巻きにされたり、文房具を勝手に捨てられたり、机に落書きをされたり。
先生も理解が無くて、ありのままの自分でいなさいと染髪もカラーコンタクトレンズも、そもそもいじめの事実さえも認めてくれなかった。両親にも怖くて言えなかった。だって、この髪と瞳は母親由来のもので、これを否定することは母さんを否定することだと僕は思っていた。だから皆勤賞を取ったけれど、卒業式が終わった後に、僕の中で何か糸が切れたのか家でぽつぽつと事実を話してしまい、世界が終わる前に、周りの環境を変えることになった。
「ユウのことを誰も知らない場所に引っ越そうか」
「学校だって、面倒だったら行かなくて良い」
「もういいの」
「今までごめんね、ユウ」
父さんと母さんが謝ることじゃないと言いたかったが、それは言わないことにした。こうして、僕はこの久遠町に状況外れの転入生として、中学から通うことになったのだ。
……いや、通うことになった、というのは嘘だ。僕はほとんど学校には行かなかった。小学生の頃に嫌なことをされていた、学校で浮いていたという事実が、今さらながら僕の心を刺し、登校を憂鬱なものとさせていた。両親はそれに対して何も言わなかった。今さら言っても仕方ないからだろう。地球は、世界は終わるのだから。
そんなこんなで、僕は入学式にだけ出て、あとは約半年間……夏になるまで、家でずっと読書をしていた。あとは両親が仕事に行っている間に代わりに家事をこなしたり。ゆったりとした一日を過ごしていた。けれど、ある時からほんの少しだけ──学校に行ってみたくなった。
小学校時代には無かった制服を着たくなった。それだけのこと。両親にそれを言ったら、喜びより先に無理だけはしないでね? と念を押された。
それから数日後の朝、僕は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。
夏の光は容赦なく、カーテンの隙間から白く差し込んでいる。蝉の声がもう聞こえていて、今日はきっと暑くなるのだろうと思った。
制服は前の日の夜に用意しておいた。皺一つ無いシャツと、穿き慣れていないからまだ少し硬いズボン。鏡の前に立って袖を通すと、なんだか知らない人になったみたいな気分になる。小学校の時の僕と、今の僕は、もう別人だ。
……そう、思いたかった。
洗面台で顔を洗い、鏡を見る。
銀色の髪と、碧い目。
久遠町では、これを見て何か言われたことはまだ無い。でも、言われていないだけで、見られていないわけではない。視線というものは、いつだって空気の中にある。
だから僕は、少し俯いて髪を整えた。全部隠すことはできないけれど、せめて目立たないように。
それは防御で、癖で、もう染みついてしまったものだった。
朝食を食べながら、母さんが言う。
「本当に、今日は行くの?」
「……うん。保健室だけ」
「無理だと思ったら、すぐ連絡するのよ? 迎えに行くからね」
「わかってる」
父さんは何も言わずに、コーヒーを飲んでいた。ただ一度だけ、ちらりと僕を見て、少しだけ眉を下げた。
心配してくれているのだと思う。でも、それ以上踏み込まない優しさも、僕はちゃんと分かっている。
玄関で靴を履く時、胸の奥が少しだけ重くなった。怖い、というほどじゃない。でも、足が前に出るまでに、ほんの一拍、間が必要だった。
学校までの道は、知っている。
でも、通学する道として歩くのは、今日が初めてだ。夏のにおいがする。アスファルトが熱を溜めていて、制服の中にじんわりと汗がにじむ。
校門の前で一度だけ立ち止まった。登校している生徒たちの声が聞こえる。笑い声も、部活の話も、どうでもいい日常の断片。本当に、世界は終わるのだろうか。……そう思ってしまうくらいだ。
でも、世界は終わる。
赤い星が来る。
この学校も、この町も、全部なくなる。
だから、少しくらい踏み出したって良い。傷ついたって、どうせ終わるのだから。
そう自分に言い聞かせて、僕は校舎に入った。職員室で事情を説明して、案内された保健室は、思ったよりも静かだった。カーテン越しに入る光が柔らかくて、薬品の匂いがほんのりする。
ベッドに腰を下ろすと、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。ここなら、だれも僕を見ない。少なくとも、直接は。
時計を見る。授業の時間が、ゆっくりと進んでいく。……不思議だ。怖かったはずなのに、ここにいると逆に外が気になってくる。教室って、どんな感じだっただろう。中学校の教室。半年、空白になってしまった場所。
放課後のチャイムが鳴ったとき、僕は少しだけ考えて──
何の理由もつけずに、保健室を出た。
ただ、なんとなく。それだけだった。
その『なんとなく』が、この後の僕の全てになることも知らずに。
教室は、放課後のにおいがしていた。
朝と昼間のざわめきが嘘みたいに引いて、机と椅子と窓だけが残されている。黒板に書かれた文字も消されかけで、チョークの粉がまだ空気に浮いている気がした。
(来るんじゃなかったかな)
そう思った。保健室を出た勢いだけで、ここまで来てしまった。誰もいない教室は、静かすぎて、逆に僕を目立たせる。
そのときだった。
かさ、と小さな音がして、机の列の向こうで誰かがしゃがみ込んでいるのが見えた。
女の子だ。
一人で、床を見ている。
「……あれ? おっかしーな、無い……」
小さな声。独り言みたいで、でも切羽詰まっている。
彼女は机の脚を一本一本覗き込んで、床に手を伸ばしていた。
その拍子に、何かがころりと転がる。
消しゴムだった。
白くて、新品の、ごく普通の消しゴム。それが、僕の足元で止まった。あ……と思った瞬間には、彼女がこちらに気づいていた。
「あ、ご、ごめんね……!」
慌てて駆け寄って、しゃがみ込む。近い。思ったよりも、ずっと。僕がそれに気づいて、消しゴムを拾い上げて───
目が、合った。
その瞬間、胸の奥で、何かがぱちんと鳴った。音なんて本当はしない。でも確かに、世界のどこかの接続が切り替わった……気がした。
黒い髪。厚めに切り揃えた前髪。夏の光をそのまま映したみたいな、大きな瞳。
──かわいい。
彼女は一瞬目を見開いて、それから、僕が差し出した手に乗った消しゴムをはっとしたように掴んだ。
「あ、ありがとう……、あ」
そこで、彼女は初めて気づいたみたいに、僕を見上げた。制服、見慣れない顔。そして、僕の髪と目。
でも、彼女は何も言わなかった。驚きも訝しさも、拒絶もない。ただ少しだけ不思議そうに首を傾げて。
「……転校生?」
その一言で、僕の中の何かが少しだけ軋んだ。違う、転校生じゃない。ただの、逃げていた人間だ。でも、そんなことは言えなくて。
「……、うん」
それだけ答えると、彼女はふっと笑った。
「そっか。……ありがとうね、消しゴム。今日おろしたばかりだったから、無くしたらお母さんにもったいないって怒られてた」
それだけだった。
名前も聞かない。詮索もしない。ただ、当たり前みたいに礼を言って、立ち上がる。なのに、どうしてだろう。胸の奥が、じん、と熱くなる。彼女が机に置いていた鞄を持ち、「それじゃあね」と立ち去ろうとした瞬間、僕は、僕は一歩踏み出していた。
「あの……! 名前、君の名前、教えてほしい……!」
◇
「君嶋、みー、おね?」
「みおね! 澪音だよ。ミーはだめ」
「ご、ごめん。……どうして?」
「ミーは小学生までのあたしの名前だから」
「そうなんだ……どういうことだろう」
「深く考えないで。ていうか喜多見くん、喜びが多いって書いて喜多見って読むんだ。良い名前じゃん」
「あ……ありがとう?」
「そこは胸張りなよ」
君嶋澪音さんは、案外ずけずけと物を言ってくる女の子だった。笑うと口の端に八重歯が覗く、快活そうな女の子。
でも、嫌ではなかった。むしろ、その軽さが、胸に引っかかっていた学校への不安を少しだけほどいてくれる。
「君嶋さんは、よく一人で残ってるの?」
何を聞けばいいのか分からなくて、どうでも良いことを聞いた。彼女───澪音は教室の窓際まで歩きながら、振り返って言う。
「あー、たまにね? あたし忘れ物多いし」
「……消しゴムとか?」
「そうそう。今日のは完全にやらかした」
へへ、と笑う。その笑い方が、妙に自然で。誰もいない教室なのに、急に空気が柔らかくなった気がした。
「喜多見くんは?」
「え?」
「だから、喜多見くん。放課後まで学校にいるの、部活?」
そっか、部活動があるんだった。僕は少し考え……そう、少しだけ正直な言葉を選ぶ。
「……今日、久しぶりに来たんだ」
「へー」
それだけで、彼女はそれ以上踏み込まなかった。理由も、事情も、聞かない。ただ「そーなんだ」で済ませる。それが、ありがたかった。
「じゃあさ」
澪音は、思い出したみたいに手を叩いた。
「喜多見くん、これからどうするの?」
「え……?」
「帰る? それとも、まだどこか行く?」
どうするかなんて、考えていなかった。
保健室を出たのも、教室に来たのも、全部何となくで。──でも、今は。
「……まだ、帰らない」
そう答えると、彼女は満足そうに頷いた。
「じゃあ一緒に帰ろ。途中まで」
「……いいの?」
「別に。あなたとなら、寄り道もいいかもって」
軽い口調だった。冗談みたいに。
でも、その一言が、胸の奥に優しく静かに沈んだ。
教室を出て、廊下を並んで歩く。
夕方の校舎、ヒグラシの声。窓から入る光はオレンジ色。
「ねえ、喜多見くん」
「なに?」
「堅い」
「……え」
「呼び方。あたしたち、堅くない?」
そう言って、澪音は僕の顔を覗き込んだ。近い。さっきよりは慣れたけど、それでも少し、心臓が跳ねる。
「優くん、で良い?」
「……」
一瞬、言葉に詰まる。名前を呼ばれることには、慣れていなかった。家族以外に下の名前で呼ばれるのは、いつぶりだろう。
「……ユウ、でいいよ」
両親に呼ばれてきた、慣れている呼び名を使う。
「えっ、呼び捨て? いいの?」
「うん」
小さく頷くと、彼女はぱっと笑った。
「よし。じゃあユウね、よしよし、ユウ……」
「……」
「なに?」
「君嶋さんも」
「え」
「名前で呼んでいい?」
「もちろん」
「じゃあ、ミー」
「うえっ!?」
今度は、彼女が固まった。
「ちょっと! それはダメって言ったじゃん!」
「……良いニックネームだと思うけどな……」
それから、考えるように視線を泳がせて。
「そう? じゃあ……しょうがないな。ユウなら」
また小さく頷いてくれた。
「じゃあ、ミー」
「……うん。ユウ」
名前を呼び合うだけなのに、なんだかくすぐったい。
でも、悪くない。
友達。と言うにはまだ曖昧で、知らない人、と言うにはもう近すぎる。
昇降口で靴を履き替えながら、ミーが言った。
「ねえ、また学校来る?」
「……たぶん」
「そっか。じゃあさ」
彼女は、当たり前のようにそれを言うのだ。
「また話そうよ。ユウ」
「……うん」
外に出ると、夏の夕方の空気が広がっていた。
世界はまだ終わっていない。
赤い星は、まだ遠い。
「いやあ、夏休みまで秒読みですよ。ユウ」
「……び、秒?」
「もー、言葉のあやだって。ユウは何か予定あるの?」
ぐ、と喉に石が詰まったような感覚がした。だいたい、来年世界が終わるのに遊びなんて……いや、これは言い訳だ。僕に友達がいないことへの。
「な、無い」
正直に言うしかなかった。
「だよね。あたしも予定無いんだ、友達みんな親戚のところで過ごすって。ほら……赤い星の話で、親しい人同士で顔見せ合っておこうって」
むしろ自由に過ごしなよって言ってくれたうちの両親が変わってるというか? とミーは道ばたの小石を蹴った。小石は無力にころんころんと転がって側溝に落ちた。赤い星も誰かに蹴られて地球への軌道をそらしてくれないだろうか。
「だからあたしは家でごろごろと……」
「……じゃあ、さ。ミー」
「あっ」
「あっ」
「……ど、どうぞ? ユウ」
「う、うん」
息を吸って、吐く。勇気を出せ、僕。
「勉強会、しない? 宿題の見せ合い……図書館とかで」
「あ……」
「あ! いいんだ、別に。ごめん、ぐいぐい行き過ぎた」
「ううん! 助かる! やろうよ、ユウ!」
ぱあっと笑顔を見せるミーが眩しくて、僕もつられて笑ってしまった。
それから、僕とミーの夏が始まった。
特別なことは何もしなかった。図書館で夕方まで勉強をしたり、ファミリーレストランでデザートを頼んで長居したり。家以外の冷房を求めたその日限りの旅。それでも、僕を見ると日陰から出てでも駆け寄ってくるミーが、その……可愛くて、僕は幸せな夏休みを過ごした。
「あー、あと一週間で夏休みも終わりかあ」
「……ミー。楽しかった?」
「そりゃもう! ……ユウは?」
「僕も。すごく楽しかった」
聞き慣れたヒグラシの声の中、二人で笑い合う。すると、ミーがあっと声を上げた。
「ねえ、ユウ」
「……ん?」
「来年はさ、一緒に夏祭り行かない?」
「え……」
「……。……あたし! あたし、君嶋澪音は!」
僕の少し前を歩いていたミーは、僕の方へ勢いよく振り返る。肩までの黒髪がふわりと揺れた。
「喜多見優くんが……好きです! だから、世界最後の夏、君と一緒にいたい! デートがしたい!」
その輝きに、僕は目を灼かれた。
「あ……」
「ど、うでしょうか? ユウ……」
「そんなの、そんなの……!」
「わっ!」
そして、灼かれた目のまま、彼女を手繰り寄せて抱きしめていた。
「……僕も、君が好きだよ。君嶋澪音さん」
「ユウ……あたし、あたしさ……」
震えた声で、ミーは僕に抱きしめられたまま囁く。そして、僕は見てしまった。
ぴしり、と音を立てて、空がひび割れるのを。そしてその奥に浮かぶ、赤い光を。
「来年は、なんて言わず、ずっとユウといたかったな……」
「……僕もだよ、ミー」
ずっと一緒にいたかった。
それだけのことが、叶わないのだ。僕たちは。
その事実が怖くて、僕はまた学校に行かなくなった。先生は、宿題をやったことを手紙で褒めてくれた。全部彼女のおかげだ、全部全部、全部……!
僕の全ては、ミーへの恋でできている。
──巡り巡って、夏が来た。世界最後の夏が。屋台の値段はやけくそのように安くて、賑わいもやけくそのように多い。
「ユウ……! 見てこれ、着付け頑張ってみた……わっ!」
「わっ! 大丈夫? ……似合ってる、可愛いよ。ミー」
「……へへ」
ミーは照れくさそうに笑った。僕たちも僕たちで、やけくそのように恋人らしいことをした。手の繋ぎ方から、お菓子の分け合いまで。浴衣姿のミーはやっぱり可愛くて、慣れていない下駄に躓くのもまた、素敵だった。
それでも、空はひび割れている。ミーは気づいていないようだ。僕だけがなぜか気づいてしまっている。そして赤い光がどんどん近づいてきていることにも。純粋な赤というより赤褐色に近い丸い星は、禍々しい気配がした。
僕たちは誰もいない、神社の近くのちょっとした高台に来ていた。事前に僕がリサーチしていた、花火が見やすくて誰も来なさそうな場所。ミーは両手を広げくるくると回ると、僕に向かってあの快活な笑顔を見せた。
「ねえ、ユウ」
「ん」
「大好きだよ」
「僕も」
「へへ……あのさ、大好きならさ、その……してみてよ、ユウから」
「……うん」
言葉にしなくても、通じ合っていた。僕は彼女の頬に手を添える。彼女は目を閉じる。
だんだんと距離が縮まる。そして──
ぶつん。
赤だけが、残った。
「……あ……?」
僕はきょろきょろと辺りを見渡す。天も地も赤褐色で、何も、見えない。
「ミー! ……ミー! ねえ! どこ……!?」
叫んでも、彼女はいない。
世界が終わった。たった今、すべてが終わった。──僕ひとりをのぞいて。
「銀の子よ」
真後ろから声がした。思わず振り返る。そこには、ヴェールを纏った、素顔の見えない誰かがいた。
「銀の子、門の子、時空の子よ。お前に力を与えよう」
僕は息を呑むことしかできなかった。正体の分からない何かは続ける。
「書き続けろ。世界を。───お前は、選ばれた。我が子よ」
すると、僕の手の中に、何かが現れた。手のひらを開いてみると、それは銀色の意匠が施された鍵だった。
拍子抜けするほど軽い。
なのに、その瞬間、世界の重さがすべて流れ込んできた。
無数の書架。
無数の記録。
生まれては滅び、生きては失われた、ありとあらゆる可能性。
───アカシックレコード。
時間も、因果も、感情さえも、ただの情報として並べられた場所。そこではヒトもカミも区別はなく、愛も祈りも等価に冷たい。
僕は、ユウは見た。
何万回も終わる世界を。赤褐色の星が近づき、空がひび割れ、町が音もなく崩れていく光景を。
そして、その中に、ミーもいた。笑っているミー、泣いているミー、消えていくミー。
どうして。
叫びは声にならなかった。
これだけの世界があって、どうして彼女はいつも最後に消えてしまうのか。言っていたじゃないか。「ずっと一緒にいたかった」と。そんな小さな願いを胸に抱く女の子が、どうして。
……僕は、銀の鍵を握りしめた。
ミーが消える世界の方が、間違っている。
「多くは求めない。全部はいらない」
拳が痛む。神に向けた言葉でも、誰かへの懇願でもない。
欲しいものは、最初からひとつしか無かった。
放課後の教室で、消しゴムを拾いに来て、目が合って。へへ、と笑った、あの女の子。
「あの子だけでいい」
それは恋だった。
同時に、祈りだった。
そして、決意だった。
どれほど冒涜的で、どれほど歪んでいても。理を踏み越える行為だとしても。
彼女が笑っている世界を、たったひとつ作れたら良い。
『守りたい』なんて綺麗な感情ではない。彼女を世界から引き剥がすこと。滅びから奪い取ること。何度でもやり直し、彼女が苦しまない結末を書くことができるまで、手を止めないこと。
───それを、人は執着と呼ぶ。
それでも
「待ってて。ミー」
記録の海の中で、僕は初めてあの子の名前を呼んだ。祈りはもう、神に向けるものじゃない。恋はもう、相手に伝えるものじゃない。
これは、誓いだ。
君が生きる世界を作るまで、僕は何度でも世界を壊す。
ただ、ミーと、夏を越えたかった。
ゆーえんみー 4話 だから僕はそれをするんだ