百合の君(112)
猫がねずみを食べる前には帰れない。ならばここでやっていくしかないのだ。穂乃はとうとう義郎に文を書き始めた。初めからこうしておけばよかった。夫が投げつけた嘘と悪意に満ちた文を添えて、木怒山を告発する。
喜林が木怒山を攻めれば、それは滅びかけた真津太への侵攻よりはるかに大きな戦となるだろう。何万、何十万という民が死に、あざみのような子供を抱えた未亡人が両国に溢れるだろう。
しかし、それらの命は結局珊瑚のひとつに比べれば、ものの数には入らないのだ。たとえ日の本中の民と兵を犠牲にしても、珊瑚一人に生きてほしい。たとえそれが正義でなくても、珊瑚に死んでほしくない。
穂乃は義郎の言葉を思い出した。
「母乳だけは人の体が与えるために作るものだが、それとて他者の命を奪ってできている」
穂乃は今、その言葉に頷かざるを得ない。しかし、それが母親というものだし、子もそれを知っているから母を慕うのだ。そして人類は、そうやって何百万年も生きて来た。
筆が刃になって、紙をびりびりと破いた。手元が暗くなっているのに気が付き、灯りを点ける。穂乃は改めて自分の指先と、それと一体化したような筆を見た。震えている。浪親様も蟻螂も、自分の一言で大勢の人が死ぬというこの恐怖とずっと戦っていたのだ。
考えてみると、私は自分の行動によって天下が動いてしまうのが恐ろしかった。若き日の夫にさらわれて以来ずっと運命の被害者でいて、将軍となった夫に好きなことを言っていたかっただけなのだ。穂乃は自らが珊瑚に放った言葉を思い出した。
「自分の成すべきことを果たしなさい!」
珊瑚の母として、自分も運命に立ち向かわなくてはならない。運命によって得た力で、息子を救うのだ。
書き終わった頃には朝を喜ぶ鳥たちの声が聞こえた。穂乃は使いを呼んだ。
「急いで」
雪が朝日を反射して眩しかった。その背の低い男は積もった雪を撒き散らしながら、大股に走って行った。着くころには戦が始まってしまうのではないかと思うくらい、遅い歩みだった。
百合の君(112)