東西線に対する中央線の逆襲
中央線の闇の奥
夕方だった。
中野駅のホームに立つと、線路の向こう側に沈む光が見えた。その光は美しかったが、俺は信用しなかった。美しいものは大抵、人間を騙すために存在している。
中央線がやって来る。
巨大な鉄の腸のような列車だった。
その腹の中に吸い込まれていく人間たちを見ながら、俺は煙草を吸った。
誰もが何かから逃げている。
だが何から逃げているのか、自分でも知らない。
俺もそうだった。
立飛の工場でレバーを押していた十八歳の頃から、ずっとそうだった。
押す。
数字を書く。
押す。
数字を書く。
押す。
数字を書く。
その単純作業は、人間を機械に変えるための儀式だった。
工場長が言った。
「アメリカで大変なことになっている」
後になって知った。
巨大なビルが崩壊していた。
世界は震えていた。
だが俺の世界は震えなかった。
ベルトコンベアだけが動いていた。
退屈という名の重油を燃やしながら。
男というものは奇妙な生き物だ。
金が欲しい。
女が欲しい。
認められたい。
偉くなりたい。
有名になりたい。
そのくせ、本当に欲しいものが何なのか説明できない。
だからパチンコ屋へ行く。
だから酒を飲む。
だから煙草を吸う。
だから文章を書く。
俺は文章を書いていた。
誰に頼まれたわけでもなく。
まるで井戸の底へ向かって叫ぶみたいに。
中野。
三鷹。
立川。
武蔵境。
それらの地名は俺にとって地図ではなかった。
傷跡だった。
人間は歩いた場所で出来ている。
愛した女よりも。
読んだ本よりも。
むしろ駅前の風景や、喫煙所の臭いや、深夜の自動販売機の光で出来ている。
病院へ入った。
白い壁だった。
白い天井だった。
世界から色が抜け落ちていた。
電気が頭蓋骨の奥を通過する。
闇の中で雷が鳴る。
目覚める。
頭が痛い。
また眠る。
また目覚める。
それを繰り返すうちに、自分が人間なのか記憶なのか分からなくなった。
窓の外に少年の顔が見えた。
本当にいたのか。
いなかったのか。
今では分からない。
だが闇の中には、いつも誰かがいる。
コンラッドの船乗りたちが見たアフリカの闇よりも深い場所がある。
それは精神病院ではない。
それは中央線沿線の夕暮れだ。
ドトールの窓際だ。
パチンコ屋の休憩スペースだ。
人間が一人で座り、何もせず、ただ時間だけを消費している場所だ。
そこには帝国も革命もない。
あるのは沈黙だけだ。
そして沈黙の奥には、説明できない何かが潜んでいる。
俺はそれを退屈と呼んできた。
だが違ったのかもしれない。
退屈ではない。
空洞だ。
誰の胸の中にも開いている暗い穴だ。
人はその穴を埋めるために働く。
恋をする。
パチンコを打つ。
薬を飲む。
煙草を吸う。
本を読む。
文章を書く。
だが穴は埋まらない。
中央線は今日も走る。
中野から三鷹へ。
三鷹から立川へ。
立川から夜へ。
そして夜の奥には、まだ名前のない闇が続いている。
俺は煙草に火をつける。
それだけが、今も現実だった。
東西線に対する中央線の逆襲