誤読 ─私小説─
プロローグ
女は、保存ボタンを押した。
画面の右上に、《下書きを保存しました》という小さな文字が出る。
すぐに消えた。
公開にはしなかった。
あと一文。
たった一文なのに、そこだけが決まらない。
白い画面の光が、暗いリビングの輪郭を薄く撫でている。
ソファに深く腰を沈めたまま、女はスマートフォンを両手で包みこんでいた。親指の腹が、画面の端に少し汗を残す。
表示された時刻は、22時03分。
壁掛け時計の秒針が、部屋の真ん中を細く刻んでいく。
冷蔵庫が、ときどき思い出したように低く鳴った。
「ねえ」
思ったより、声が小さかった。
キッチンとリビングの境目に立つ男は、すぐには振り向かない。
流し台の縁に指をかけたまま、肩だけがわずかに動いた。
聞こえなかったのか。
聞こえないふりをしたのか。
女は、もう一度、画面を見た。
──星空の下で、彼はようやく私の手を取った。
甘い一文だ、と自分でも思う。
少し古い。少し照れくさい。
けれど、そこまで来るのに三年かかったのだから、少しくらい甘くてもいいはずだった。
「私たちのこと、みんなに話さない?」
問いかけというより、確認に近かった。
それでも、言葉にした瞬間、部屋の空気が一段だけ冷えた気がした。
さっきまで平気だった足先が、急に冷たくなる。
男がゆっくり顔を上げた。
その目に浮かんだものが何なのか、女には読めなかった。
困惑。
警戒。
あるいは、計算。
「……だめ?」
言うつもりはなかった。
けれど、口が勝手にその先を選んだ。
自分で言って、自分で少し傷ついた。
男は黙ったまま、女を見ている。
その沈黙の長さで、女はようやく、自分がいま何に触ってしまったのかを知った。
触れてはいけない場所。
あるいは、ずっと避けられてきた場所。
保存された下書きは、まだ誰にも読まれていない。
通知音も鳴らない。
投稿ボタンも押していない。
けれど何かはすでに、取り返しのつかない位置まで動いていた。
──私たちのこと。
その言葉だけが、部屋の中央に置き去りにされる。
次の瞬間、何が起きたのか。
それを、同じ順番で語れる者は、もういなかった。
*
録音機の赤いランプが灯る。
「正当防衛だったと、主張するんですね」
遠藤の声は平坦だった。
疑っているようにも、信じているようにも聞こえない声。
男は迷いなく頷いた。
「彼女が刃物を持ってきたんです」
言葉は整っている。
淀みも、言い直しもない。
あらかじめ何度か口の中で転がした言葉のようだった。
「止めようとして揉み合いになり、押さえ込んだ。それだけです」
それだけ。
遠藤は、その言葉を胸の内で一度だけ反芻した。
「動機は?」
「分かりません。突然だったんです」
本当にそう信じている顔だった。
少なくとも、そういう顔に見えた。
やがて男は続ける。
「関係については……書いています」
「書いている?」
「投稿サイトです。付き合うまでのことを」
遠藤の眉が、ほんのわずかに動く。
「どうして」
男は目を伏せた。
机の上には、紙コップの水が置かれている。
まだ一口も減っていない。
「記録です」
「何の」
男はためらわなかった。
「僕が、ちゃんとしていたことの」
“ちゃんと”。
その言葉だけが、録音機よりも強く部屋に残った。
赤いランプは、何も変えずに点灯を続けている。
「……読ませてください」
男はゆっくり頷いた。
弁明する者の顔ではない。
提出する者の顔だった。
第一章 正当防衛
現場に入った瞬間、俺は足を止めた。
静かすぎた。
駅から徒歩十分。築浅の分譲マンションの一室。
名義は川原綾乃、三十五歳、独身。大手電機メーカー勤務。
リビングの照明はついたままだった。
白すぎる灯りが、床と壁の境目を妙にはっきり浮かび上がらせている。
観葉植物の葉先には水滴が残っていた。
ラグはまっすぐ敷かれ、ローテーブルの上には飲みかけのグラスと、充電ケーブルにつながれたスマートフォン。
テレビは消えている。
グラスの中の水面だけが、鑑識の動きに合わせてわずかに揺れていた。
生活の途中で、夜だけが切り取られていた。
ソファの前に、女がうつ伏せで倒れている。
長い髪が床へ流れ、右腕は身体の下へ巻き込まれていた。
左手だけが、何かを掴み損ねたみたいに、不自然に横へ伸びている。
左手首には、黒いスマートウォッチが巻かれていた。
首の前から側面にかけて、赤い圧痕。
ソファ脇に包丁。
刃に血はない。
鑑識のフラッシュが瞬くたび、部屋の秩序が一瞬だけ崩れる。
そして、すぐに元に戻る。
その繰り返しが、妙に腹立たしかった。
「指紋は」
俺が聞くと、鑑識員がしゃがんだ姿勢のまま顔だけを上げた。
「柄に被害者のものがはっきり出ています。加害者のは、今のところ確認できません」
「中山の供述では、これで向かってこられたと?」
「ええ。取り上げようとして揉み合いになった、だそうです」
鑑識員は手袋越しに、包丁の位置を顎で示した。
ソファからキッチンまでは、三メートルもない。
もし本当に振りかざしたなら、グラスが倒れてもおかしくない。
ラグの端がめくれてもいい。
ソファがずれてもいい。
クッションのひとつくらい、床に落ちてもいい。
だが、何も乱れていない。
出来事だけが、ぽつんと置かれている。
そこへ至るまでの“動き”がない。
「頸部圧迫でほぼ間違いないです。詳細は解剖待ちですが」
別の鑑識が言った。
「死後、移動は」
「今のところ、なさそうです」
俺はもう一度、床を見た。
女の身体がそこにあることだけが異物で、それ以外はひどく静かだ。
こういう現場は、たいてい話がうますぎる。
*
取調室で向かい合った中山悠太は、驚くほど落ち着いていた。
二十八歳。区民課勤務。
ワイシャツの襟はきちんと収まり、髪も乱れていない。
目の下にうっすら疲れはあるが、赤くはなかった。
声も震えていない。
椅子に座るときも、背もたれに身体を預けすぎない。
手は膝の上。
役所の窓口で住民の話を聞くときの姿勢が、そのままここに持ち込まれているようだった。
「正当防衛でした」
座ってすぐ、そう言った。
「彼女が刃物を持ってきたんです」
「状況を説明してください」
「『話がある』と言われて。最初は普通でした。でも途中で急に様子が変わって……僕を責めるようなことを言い出して、感情的になって、キッチンから包丁を」
「責めるようなこと?」
「関係のことです」
「どういう関係だ」
中山は一瞬だけ目を伏せた。
だが、すぐに戻した。
「交際していました。三年です」
「結婚の予定は」
沈黙。
長くはない。
けれど、いままでの返答の速さを思えば、十分に長かった。
「そこまでは、まだ」
言い方が曖昧だった。
だが、声色は崩れない。
「そのあと?」
「止めようとして揉み合いになりました。押さえ込んだら、動かなくなって」
平坦だ。
報告書の文体に近い。
感情より先に、要点だけが並んでいる。
「動機は」
「分かりません」
「本当に?」
「はい。突然だったので」
“突然”。
その言葉だけが、少し軽かった。
紙でできた石みたいに。
「取り乱した様子はありませんね」
俺がそう言うと、中山は少しだけ眉を寄せた。
「……驚いてはいます」
「だが、泣いてはいない」
「泣けばいいんですか」
その返しも、怒っているというより、整っていた。
反射ではなく、選ばれた言葉に見える。
「そんな話はしていません」
短く返すと、中山はそれ以上続けなかった。
録音機の赤いランプだけが、机の端で点っている。
換気口の音が、やけに大きく聞こえた。
数秒の沈黙のあと、彼の方から口を開いた。
「あの……関係については、書いています」
「書いている?」
「投稿サイトです」
「どうして?」
「記録です」
「何の」
中山は、小さく息を吸った。
「僕が、ちゃんとしていたことの」
“ちゃんとしていた”。
その言葉にだけ、わずかな熱が混じっていた。
それまでずっと平坦だった声の中で、そこだけが少し浮いた。
「見せてください」
「はい」
頷きは素直だった。
そこに躊躇はない。
むしろ少し、安心したように見えた。
*
取調室を出ると、廊下の空気が少し冷たく感じた。
斎木はすでにデスクに座り、ノートパソコンを開いていた。
白い投稿サイトの画面が表示されている。
手元には、いつものハンカチ。
キーボードの脇にきちんと畳んで置かれている。
「早いな」
「気になったんで」
振り向かずに言う。
「中山悠太のアカウント、見つけました。作品は一本だけです」
俺はジャケットを椅子の背に掛け、斎木の後ろに回った。
恋愛カテゴリ。
評価は多くないが、星はそこそこついている。
コメントも数件ある。
「ゆっくり距離が縮まる感じが好きです」
「アヤさんかわいい」
そんな短い感想が並んでいた。
「投稿は二年半前。改稿も同じ時期で止まってます。AI利用作品のタグもありますね」
「AI?」
「補助ツール使用、ってやつです。最近は珍しくないですけど」
斎木はマウスホイールを少しだけ回した。
画面がぬるりと下へ動く。
「一本だけか」
「はい。付き合うまでの話、らしいです」
俺は椅子を引き、隣に腰を下ろした。
スクロール音だけがしばらく続く。
白い画面に文章が並ぶ。
数行読んだだけで、空気は分かった。
出会い。
距離。
会話。
ゆっくり進む関係。
よくある恋愛小説の骨格だ。
「……なんか、この“アヤ”って人、少し台詞が強いですね」
斎木が言う。
「変か」
「変というか、ちょっと漫画っぽいというか。現実の三十五歳って、こんな喋り方しますかね」
「知らん」
「ですよね」
斎木は軽く咳払いして、また画面を見る。
「誇張して書いたんだろ」
俺は画面から目を離さずに言った。
「まあ、恋愛小説ですしね」
斎木はそれ以上言わなかった。
部屋の奥で、誰かがコピー機の蓋を閉じる音がした。
そのあと、また静かになる。
俺は背もたれに体を預けた。
「……しょうがない。読むか」
「はい」
キーボードの音が止まる。
事件とは別の時間が、白い画面の中で流れ始めた。
第二章 私小説
#1 熱意の瞳
「おい」
公民館の会議室で、背後から声がした。
振り返ると、アヤが立っていた。
天文ボランティア団体の中心人物で、僕より年上。肩までの黒髪をひとつにまとめ、紺のジャケットの袖を折っている。研究職というより、人前で何かを説明することに慣れた人の立ち方だった。背筋がまっすぐで、片手にはいつも何かしら資料を持っている。
「アヤさん。今日も早いですね」
僕がそう言うと、彼女は眉を少しだけ上げた。
「早くないだろ。……まあ、話があってな」
彼女は最初から敬語を使わない。
最初は戸惑ったが、慣れるとむしろ楽だった。こちらが余計に気を遣いすぎなくていい。少なくとも、そう思うことにしていた。
僕は区役所で働いている。窓口に立っていると、相手の感情に合わせて言い方を調整するのが、半分仕事みたいなものだ。怒っている人には少し低い声で、焦っている人にはゆっくりと、よく分かっていない人には同じことを別の言い方で。そういうことを毎日していると、思ったことをそのまま言う人間には、少し肩の力が抜ける。
「僕はアヤさんの暇つぶしの相手じゃないですけど」
軽い冗談のつもりで言った。
彼女は、ほんのわずかに目を細めた。
怒ったというより、予想していた反応と違ったときの顔に近い。
「……相変わらずだな。今日はちゃんとした話だ」
そう言って、彼女は僕の隣に腰を下ろした。
距離が少し近い。
僕は鞄を足元に置き直した。
置き直す必要は、別になかった。
「僕は特に話すことないですけどね」
「ここの活動、今のままでいいと思ってるか?」
会議室には、まだ他に誰もいない。
長机が三列。端の方に、前回誰かが置いていったペットボトルの空き容器が残っている。窓の外では、風に揺れた枝が、ガラスの向こうで擦れ合っていた。
「悪くないんじゃないですか。ちょうどいい感じで」
僕は答えた。
この団体の距離感は悪くない。仕事ほど重くなく、趣味ほど軽くもない。たまに集まって、星の話をして、企画を立てて、子どもたちに望遠鏡を覗かせる。今の自分には、そのくらいがちょうどよかった。
「素直じゃないな。いつも一番に来てるくせに」
「せっかくやるなら、って程度ですよ」
本気で変えたいわけじゃない。
でも、何もしない自分でいるのも落ち着かなかった。そういう中途半端さを、彼女はたぶん見ていた。
彼女は立ち上がり、演台の前へ移動した。
「クリスマスに観望会をやる」
言い切る口調だった。
「クリスマスに? 人、来ますかね」
「来るかどうかは、やってみないと分からない。星を見るには悪くない日だ」
天井を見上げる横顔は、まっすぐだった。
実際には天井に星なんてない。蛍光灯のカバーに、小さな虫の影がひとつ止まっているだけだった。
「観測ドームで望遠鏡を覗くだけですよ」
ここでいう観測ドームも、大げさなものじゃない。都の科学館別館の屋上にある、小さな円形の建屋だ。週末以外はほとんど人も来ないし、空調も少し古い。冬は床から冷える。
「それでいい」
彼女は言った。
「同じ星を見て、同じことを考える時間があってもいいだろう」
淡々とした言い方だった。
けれど、その一文だけ少し浮いて聞こえた。団体の企画説明というより、別の何かを言いかけて、途中で別の言葉に置き換えたような響きがあった。
「館長、許可出しますかね」
「仮では通してある。正式な申請も出す」
内ポケットから書類を取り出し、机の上に置く。
段取りはいつも早い。書類の角がきれいに揃っているところまで、彼女らしかった。
「本気ですね」
「私はいつも本気だよ」
そう言って、少しだけ笑った。
僕は視線を逸らした。
本気という言葉を、正面から受けるのは少し重い。自分がいつも、どこか半歩だけ引いていることを、急に見透かされたような気になる。
「それなら、港で星座の話をしてから山手の公園に移動するのはどうですか。雰囲気は出ると思いますけど」
冬の海の光景を思い浮かべながら言った。
海沿いの道。イルミネーション。凍ったような夜の空気。観光客が多いだろうな、と言ってから思った。
彼女は一瞬だけこちらを見た。
「港は人が多い。公園もあの時期は照明が強すぎる。団体でやる以上、場所は絞る」
即答だった。
やっぱり、と少しだけ思う。
「……ただ、星座の話は悪くないな」
全面否定ではなかった。
そのことに、少しだけ安心する。
「まだ案の段階だ。今日の定例会では触れない。まずは形を固める」
彼女は時計を見た。開始まであと十分。
廊下の向こうから、誰かの足音が近づいてくる。階段を上がってきた人が、途中で一度つまずいたような音もした。
「チラシの素案、お願いできるか」
「僕もですか?」
「当然だろう。コアメンバーなんだから。改善案も出してくれた。参加させないわけにはいかない」
少しだけ間を置いて、彼女は続けた。
「それに、クリスマスは空いてるだろう?」
冗談にしては、妙に具体的だった。
「特に予定はないですけど」
そう答えると、彼女はわずかに視線を外した。
「ああ、そうか」
その一言は、聞こえるか聞こえないかくらいだった。
「人が集まり始めたな。この話はまた改めて」
次の瞬間には、もう団体の代表の顔に戻っていた。
やがてメンバーが入り、定例会が始まった。
パイプ椅子を引く音。紙袋の擦れる音。誰かが「寒いですね」と言い、別の誰かが「さっき駅前で焼き芋売ってましたよ」と返した。
僕は席に座り直し、資料を開く。
さっきまでの会話は、少し遠くに押しやられた。
けれど、完全に消えたわけではなかった。
*
定例会が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
駅へ向かう道を歩きながら、僕は今日の会話を思い返していた。
街灯の下を通るたび、足元の影が前に伸びたり、後ろに倒れたりする。
アヤと出会ったのは、団体に顔を出し始めた最初の月だった。彼女はすでに中心に立ちつつあった。観測計画、予算、広報、施設側との調整。誰よりも具体的で、誰よりも熱心だった。
僕がここに来たのは、区役所の同僚に声をかけられたからだ。人手が足りないらしいから、顔を出してみないか。理由はその程度だった。
仕事とは別の場所で、少し役に立てればいい。
そのくらいの動機。
でも、彼女は違った。
本気で、この団体を前に進めようとしていた。
それを、少し眩しいと思っていた。
同時に、少し面倒だとも思っていた。
変わらないのは、自分の方かもしれない。
ホームに電車が滑り込む。
風が巻き起こり、コートの裾が軽く揺れた。
車内に入り、つり革を握る。
窓に映った自分の顔は、いつも通り落ち着いて見えた。
特別なことをしているわけじゃない。
できる範囲でやっているだけだ。
その考え自体は、今も間違っていないと思っている。
少なくとも、この頃の僕はそうだった。
#2 揺れない前髪
二週間後、子育て支援課との会合資料を準備していると、会議室の扉が静かに開いた。
アヤだった。
「今日は早いですね」
「いつもだろ」
少し呆れたような返事。
そのやり取りに、わずかな安心感がある。いつもと同じ、というのは、それだけで人を落ち着かせる。
彼女は演台の前に立ち、資料を机に置いた。姿勢はいつも通りまっすぐだったが、今日は少しだけ落ち着きがないように見えた。指先が、紙の端を二度、無意味に揃えた。
「館長の正式な了承は取れた。仮押さえじゃなくなった」
「早いですね」
「段取りはしておいたからな」
視線が向く。
「チラシは?」
「デザインは知り合いに頼んでます。文言はまだですけど、無難な形でまとめます」
無難。
波風が立たない、という意味で使った。
彼女は小さく頷いた。
「行動が早い。ありがとうな」
素直な言い方だった。
僕は少し戸惑う。感謝されるほどのことをしたつもりはなかった。
「大したことしてませんよ」
「いや。動かない人もいる」
沈黙が落ちる。
外でトラックが通ったのか、窓ガラスが低く震えた。
その振動が消えるまで、彼女は何も言わなかった。
彼女は資料を持ったまま、視線を少し落とした。
「……ひとつ聞いていいか」
「なんですか」
少し間があった。
「ユウトは、その……何を大事にしてる?」
唐突だった。
問いというより、確認に近かった。
あるいは、すでに彼女の中に答えがあって、それに僕がどう近づくのかを見ているような聞き方だった。
「急に言われても難しいですね。仕事も団体も、ちゃんとやろうとは思ってますよ」
少し考えて、付け足す。
「アヤさんみたいに、全部を懸ける覚悟はないですけど」
冗談に近いつもりだった。
彼女の視線が、そこでわずかに揺れた。
「……それは“ちゃんとやる”であって、“選ぶ”とは違う」
静かな声だった。
「選ぶ?」
「何かを優先することだ。本気になるとか、責任を負うとか」
言葉は落ち着いている。
けれど、逃げ道のない言い方だった。
「……本気じゃないわけじゃないですよ」
そう返しながら、自分でも曖昧だと分かった。
本気じゃないわけじゃない。
それは、ほとんど何も言っていないのと同じだった。
彼女は小さく息を吐く。
「私には伝わってこない」
短い。
だが、そのぶん残った。
「どうすれば伝わります?」
反射的に聞き返す。
言ったあとで、少しまずいと思った。
これでは、答えを相手に預けているだけだ。
彼女は一瞬目を伏せた。
「自分で考えろ」
声が低くなる。
「私に聞くことじゃない」
窓の外で風が鳴った。
書類の端が一枚だけ持ち上がり、すぐに落ちた。
「……そうですね」
それ以上、言葉は続かなかった。
彼女は資料を抱え直す。
「今日はここまでにしよう」
背を向ける。
そのとき、いつも整っている前髪が少しだけ乱れているのが見えた。
たぶん風のせいでも、急いで来たせいでもない。ほんの一房だけが、額にかかっていた。
それだけが、なぜか妙に印象に残った。
ドアが閉まる。
会議室には静けさが戻った。
さっきまで彼女のいた場所に、資料の紙の匂いだけが残っている気がした。
*
その夜、なかなか眠れなかった。
怒鳴られたわけでもない。責められたわけでもない。
ただ、「伝わってこない」という言葉だけが残っている。
何が足りなかったんだろう。
答えは出ない。
出そうとすると、かえって遠ざかる。
布団の中で何度か寝返りを打ち、スマートフォンを見て、また伏せた。
画面の明かりが消えたあとも、目の奥だけが冴えていた。
思考は自然と、一年前へ流れていった。
あれは、科学教室の日だった。
#3 悲しみの眉
「……ここが地球の軌道。小惑星はこのあたりを通ります」
ホワイトボードに描かれた楕円。
アヤは、子どもたちの前で身振りを交えながら説明していた。
「探査機は、まっすぐ飛ばすわけじゃない。重力を利用して、何度も軌道を修正します」
声は落ち着いていたが、熱があった。
僕は机を片付けながら、その説明を横で聞いていた。
資料を回収し、質問に答え、椅子を戻す。裏方の仕事は嫌いではない。目立たない方が、たぶん自分には向いている。
「先生、それ失敗しないの?」
前の席の子どもが聞く。
「失敗することもある。でも、だからやる価値があるんです」
即答だった。
迷いがない。
子どもは、分かったような、分からないような顔で頷いた。隣の子が消しゴムを落として、小さな音がした。
やがて教室は静まり、子どもたちは帰っていった。
ホワイトボードには、軌道だけが残る。
アヤはマーカーを置き、軽く息をついた。
「今日の説明、難しくなかったか?」
机を整えながら言う。
「少し背伸びした方が、印象に残りますよ」
僕はそう答えた。
「小惑星探査って、意外と手順が多いんですね」
軽い感想のつもりだった。
彼女は振り返る。
「聞いていたのか」
「一応」
「ユウトは、聞いてない顔でちゃんと聞いてる」
からかうようで、少し嬉しそうだった。
「全部理解してるわけじゃないですけど」
「それでも来る」
少し間があった。
「興味があるからか?」
夕方の光が、ホワイトボードの軌道を照らしている。
消し忘れた線が、光の中で薄く浮いていた。
「……暇だから、ですかね」
いつもの答えだった。
彼女は目を細めた。
「“暇だから”で片づけるのは、もったいない」
「他に言い方が思いつかなくて」
沈黙。
彼女は視線を落とし、それから少しだけ間を置いて言った。
「大学の頃から付き合っている人がいると聞いた」
唐突だったが、声は落ち着いていた。
「今も、続いているのか」
僕はペンを指先で転がした。
意味のない動作だった。
「続いていると言うか。社会人になってから、お互い忙しくて」
事実だけを並べる。
「会う機会も、連絡も減って……」
言いながら、自分の声が少し小さくなるのを感じた。
彼女は小さく頷く。
「詮索した。悪かった」
眉が、はっきり下がっている。
「ボラには無理して来なくていいんだ。ここは仕事じゃない」
抑えた声だったが、少し揺れていた。
その顔を見るのは、正直きつかった。
強い人が、ふと弱い部分を見せると、こちらが勝手に悪いことをしたような気になる。
だから、軽くするつもりで言った。
「嫌ってわけじゃないですよ」
彼女が顔を上げる。
「彼女にも、ここでの話はしてます」
一瞬、間が生まれる。
「アヤさんの説明が熱いとか、面白い人がいるって」
「……面白い?」
「いい意味で、ですよ」
少し笑う。
「普通、そこまで本気にならないですから。そうやって振り切れるの、すごいと思ってます」
本心だった。
「僕はどちらかというと普通なので」
軽く肩をすくめる。
「そういうところ、僕は好きですよ」
「尊敬もしてますし」
言葉にした瞬間、空気が少し変わった気がした。
好き。
尊敬。
どちらも本当だった。
ただ、その並べ方が正しかったのかどうかは、今でも分からない。
彼女は顔を逸らした。
「……そうか」
それだけだった。
*
あの日から、彼女は以前より僕に話しかけるようになった。
僕も理由をはっきりさせないまま参加を続けた。
居心地は悪くない。
刺激もある。
何かが動き始めている気もした。
それでも、あのときの眉の下がり方だけは、今も忘れられない。
あの質問は、興味の有無を確かめるための問いではなかったのかもしれない。
もっと個人的で、もっと具体的な何かを、彼女は探していた。
その可能性を、僕はその頃から知っていたような気もする。
#4 軌道修正
定例会が終わっても、アヤは席を立たなかった。
「コアだけ、少し残ってくれるか」
いつもより低い声だった。
三人が残る。
ドアが閉まり、会議室に静けさが戻る。
アヤは資料を開いたまま、視線を落としていた。
紙面には、クリスマス観望会の文字が見える。赤ペンで引かれた線が、いくつかあった。
「クリスマス観望会の件だが」
一拍置く。
「一度、やめよう」
誰もすぐには反応しなかった。
正式決定ではない。提案段階の企画だ。
それでも、空気ははっきり変わった。
「理由は?」
誰かが聞いた。
「参加者の見込みが立たない。人員も流動的だ」
淡々としている。
「団体としては、安定を優先する」
代表の声だった。
「ユウトはどう思う?」
振られる。
喉が少し乾く。
“選ぶ”。
あの言葉が、また頭をよぎる。
今なら言えるかもしれない。
何かを。少なくとも、曖昧ではない何かを。
「僕は……」
そこまでだった。
アヤは小さく首を振る。
「いや、いい。今回は見送ろう。来年度に改めて提案する」
決定の口調だった。
他の二人も異論は出さなかった。
出さなかった、というより、出せる空気ではなかった。
会議室を出るとき、アヤは鞄を肩にかけた。
「今日は先に帰る」
僕は背中に声をかけた。
「あの」
足は止まる。
振り返らない。
「この前の話、ちゃんと考えてます」
ようやく口にする。
沈黙。
廊下の蛍光灯が、一本だけ少しちらついていた。
「……そうか」
声は穏やかだった。
「団体の話と混ぜたのは、私の落ち度だ」
そこで初めて振り返る。
表情はいつも通りだが、少しだけ柔らかい。
「忘れてくれ」
そう言って、廊下の向こうへ消えた。
忘れてくれ。
それが、なかったことにしたい、という意味なのかどうかは分からなかった。
分からなかったが、胸の奥に何かが残った。
外へ出ると、冷たい空気が頬に触れる。
観望会はなくなった。
正式決定ではない企画が、静かに引っ込められただけだ。
それなのに、胸の奥が落ち着かない。
――やめる必要はあったのか。
駅へ向かいながら、コアメンバーのグループチャットを開く。
指が止まる。
代表の決定を覆すのは、筋が悪い。
それは分かっている。
でも。
《やっぱり、やれる方法を探しませんか》
送信する。
すぐに既読がつく。
《人数絞ればいけるかもですね》
《規模小さくするなら賛成です》
流れができる。
息が少し楽になる。
自分が何かを選んだような気がした。ほんの少しだけ。
《一度、僕から相談してみます》
送信。
数秒後、返信が来た。
《分かりました》
その下に、もう一文。
《……ユウトさんは、ズルいですね》
画面の光が、指先を白く照らす。
理由は書かれていない。
《え?》と打ちかけて、やめる。
すぐに続きが来た。
《いえ、何でもないです》
既読がつく。
誰もそれ以上書かない。
画面を閉じる。
ズルい。
その言葉が、どこかに残る。
けれど、深く考えないことにした。
観望会を形にすればいい。
それが一つの答えになる。
そう思えば十分だった。
#5 頬色の情熱
水曜の夕方、予定していた庁内研修が急きょ中止になった。
早く帰れると分かっても、まっすぐ家に向かう気にはなれなかった。
理由はいくらでもあった。買い物とか、本屋とか、駅前のドラッグストアで切れかけている歯磨き粉を買うとか、そういうついで。
けれど、足は自然に駅前のショッピングモールへ向かっていた。
自動ドアが開き、暖気が頬を撫でる。
フードコートの油の匂いと、雑貨屋の甘い香りが混ざっている。クリスマス前の店内には、少しだけ浮ついた音楽が流れていた。
人の流れに紛れようとしたとき、見慣れた横顔が視界に入った。
アヤだった。
服屋の紙袋を提げ、ショーウィンドウを見ている。
試着した服を買ったのか、ただ何かを選べずにいるのかは分からない。
考えるより先に声が出た。
「アヤさん」
肩が小さく跳ねる。
振り返り、驚きが一瞬だけ浮かんで、すぐに消えた。
「……偶然だな」
「そうですね」
沈黙。
彼女は紙袋を背中側に回した。
「買い物ですか」
「まあな」
目は逸らさない。
けれど、答えは短かった。
僕は息を整えた。
「この前の話、答えを言いに来ました」
眉がわずかに動く。
「もういいと言ったはずだ」
「よくないです」
思ったより、はっきりした声が出た。
自分の声ではないみたいだった。
「“選ぶ”って何か、考えました」
彼女は黙っている。
「僕はずっと、ちゃんとやってるつもりでした。仕事も、団体も、人間関係も」
一拍。
「でも、それは選んでなかった」
視線を合わせる。
彼女の指先が、紙袋の持ち手をきつく握る。袋の角が少し潰れた。
「……今さらだな」
声は静かで、少し細い。
「今さらです。でも」
喉が乾く。
「去年のクリスマス、公園に行きました」
彼女の呼吸が止まる。
「約束はもう意味がないって分かってた。でも、行かなきゃいけない気がした」
「迎えに来てくれましたよね」
沈黙。
店内アナウンスが遠くで鳴っている。
誰かの笑い声も聞こえる。
なのに、その場だけ少し切り取られたみたいだった。
「星を見に来ただけだ、って」
彼女のまぶたが、わずかに下がる。
「……覚えているのか」
「忘れられません」
あの夜の距離。
ベンチの冷たさ。
隣にあった体温。
何も言わなかったのに、何かを言われたような気がした時間。
「アヤさんは、何も言わないのに、いなくならない」
自分の声がやけに素直に聞こえた。
「だから僕は、甘えてた」
言い切る。
「あなたが離れないと、どこかで思ってた」
彼女の目が揺れる。
「……私は」
声が掠れる。
「離れた方がいいと思っていた」
強さの奥が、少しだけ崩れる。
「私は、本気になると人が離れていく。昔からそうだ」
笑う。
乾いた音だった。
「重いんだよ、私は」
紙袋の端が歪む。
「仕事も、団体も、恋愛も。本気になった瞬間、相手は息苦しくなる」
視線を上げる。
「だから、選ばれない」
その言葉は、前からそこにあったみたいに聞こえた。
ずっと彼女の中で、言われる機会だけを待っていた言葉のようだった。
「去年だって、迎えに行ったのは」
一瞬、言葉が止まる。
「お前がひとりでいるのが嫌だっただけだ」
僕は一歩近づく。
「アヤさん」
「だめだ」
即座だった。
「それ以上、言うな」
周囲の音が少し遠のく。
エスカレーターの機械音だけが、規則正しく上下している。
彼女は目を逸らさない。
「私は知ってる」
短い呼吸。
「私は、その辺の男に惹かれないんだ」
視線がぶつかり、すぐ外れる。
「お前には、私が本気で惚れるだけの価値がある」
言い切る。
だが声が震える。
「でもな」
唇が少し白い。
「私には、お前と並ぶ資格なんてない」
言葉が落ちる。
「素直じゃなくて、偉そうで、理屈ばかりで……」
「お前まで傷つけて……」
そこで止まる。
「お前だって、こんな女と付き合いたいなんて思わないだろ」
僕は少しだけ笑った。
「……それって」
「一緒にいたいってことですよね」
彼女の目が見開かれる。
「違う」
すぐに返る。
けれど弱い。
「だって、そんな言い方されたら、“そんな事ない”っていうしかないじゃないですか」
睨まれる。
「ああ、もう」
一歩、さらに距離を詰める。
「逃げません」
短く言う。
「一緒にいたいと思ってます」
少し間を置く。
「ずっと見てきた。だから分かります」
彼女の強さも、弱さも。
初めから。
「全部、好きなんです」
まっすぐ告げる。
彼女はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「……ずるいな」
「何がです?」
「そんな顔で言うな」
視線が揺れる。
「私は、選ばれない側でいるつもりだったのに……」
言葉が続かない。
沈黙のなか、彼女が一歩踏み出す。
「アヤさん?」
そう問いかけた瞬間、彼女は手を伸ばし、悔しそうにキスをした。
一瞬だけ、強く。
駅へ続く通りの光が、彼女の涙をやわらかく照らしている。
彼女は顔を伏せたまま、もう一度だけ唇を重ねた。
冷たい夜の空気の中で、その温度だけが確かだった。
理由も、理屈も、まだ追いつかない。
けれど今は、ただこの手を離さなければいいと、僕は思った。
*
スクロールの指を止める。
あとがきには、読んでくださりありがとうございました、とあった。
その下に、小さな星評価の欄と、二件ほどの短いコメントが並んでいる。
「……以上ですね」
斎木が言う。
「どう思います?」
「普通だな」
俺は画面を閉じた。
出会いがあって、距離が縮まって、恋人になる。
不自然な箇所は、少なくとも表面には見当たらない。
「事件とは関係なさそうですね」
斎木は淡々としている。
「交際の経緯確認にはなりましたけど」
「ああ」
椅子に背を預ける。
取調室での中山の顔を思い出す。
落ち着いていた。
言葉を選んでいる様子もなかった。
いや、選ぶ必要がないほど、最初から決まった言葉を使っていたのかもしれない。
「なぜ読ませたんでしょう」
斎木が言う。
「記録だ、って言ってましたよね」
俺は頷く。
“ちゃんとしていたことの”。
便利な言葉だ。
人間は、便利な言葉ほど深く考えずに使う。
しばらく沈黙が続く。
特におかしな点はない。
少なくとも、すぐに赤線を引けるような場所は見当たらなかった。
「まあ、今のところは材料ですね」
斎木がノートを閉じる。
「彼女の方、当たりましょうか」
「ああ」
立ち上がる。
「小説の中じゃなくて、外の顔を見たい」
ドアに手をかける。
画面はすでに暗くなっている。
黒いモニターに、俺と斎木の姿がぼんやり映っていた。
なぜ読ませたのか。
答えは出ない。
だが、その問いだけが妙に残った。
廊下の蛍光灯の下で、俺は一度だけ振り返る。
画面は黒いままだった。
第三章 同期
川原綾乃の周辺には、いくつか当たってみた。
天文ボランティアの後輩。
職場の同僚。
どちらの証言も、決定打にはならない。
ボランティアのほうでは、中山の小説に近い顔が語られた。
企画を前へ引っぱる中心人物。面倒見がよく、口調は強いが、やることはちゃんとやる。怒ると怖いが、あとで必ずフォローを入れる。そういう、少し扱いにくいが頼りになる大人。
恋人の話を知っている者もいた。
「三年前から付き合ってるって聞きました」
「でも、付き合うまでが長かったんですよ。なんか、周りのほうが先に気づいてた感じで」
「二人ともはっきりしないから、こっちがやきもきしてました」
そういう話だった。
一方、職場では少し違う。
仕事はできる。
理屈っぽい。
気が強い。
少し変わっている。
その言葉だけを並べると、同じ人物には見える。だが、温度が違った。
ボランティアで語られる川原には、どこか人を巻き込む熱があった。
職場で語られる川原には、輪郭の硬さがあった。
恋人がいるという話は聞いたことがある。
ただ、詳しくは知らない。
そう答える同僚が多い中で、ひとりだけ名前が挙がった。
同期の女性。
川原が、たまに会っていた相手だという。
*
翌日の午前。署の小会議室。
窓際に置かれた観葉植物は、葉の先が少し茶色くなっていた。エアコンの風が直接当たる場所に置かれているせいだろう。斎木がノートパソコンを開き、オンライン会議の接続を待つ。
画面の隅で、くるくると読み込みの輪が回る。
「こういうの、毎回ちょっと緊張しますね」
斎木が言う。
「何がだ」
「向こうのマイクが入ってるかどうか分からない時間です」
「そこか」
「こっちの雑談、全部聞こえてたら嫌じゃないですか」
たしかに、と思う前に画面が切り替わった。
女性が映った。
自宅らしい。白い壁、後ろに低い棚。棚の上には、絵本が数冊横倒しに積まれている。イヤホンのコードが肩口で揺れていた。
髪はひとつにまとめられ、化粧気は薄い。仕事の合間か、育児の合間か、そのどちらともつかない顔だった。画面越しでも、寝不足の薄い影が目元に見える。
「川原さんの同期の……」
「三浦です」
女性は短く名乗った。
声が少し硬い。
俺は軽く会釈する。
「遠藤です。こちら、斎木」
斎木も頭を下げる。画面の中で、三浦は一瞬だけこちら二人を見比べた。
言葉を置く。
「川原綾乃さんが亡くなられました」
女性は一度だけ、ゆっくり瞬きをした。
それから視線を少し落とす。
「……そう、なんですか」
驚いていないわけじゃない。
ただ、すぐには実感が追いついていない顔だった。
訃報を聞いた人間が、必ずしも劇的な反応をするわけではない。悲しみや驚きは、遅れてくることもある。とくに、日常の途中にいる人間には。
「最近、連絡は取っていましたか」
「いえ……ここしばらくは。最後にやり取りしたの、たぶん先月です」
少し考えながら答える。
「子どもの熱がどうとか、仕事が立て込んでるとか、そういうので、お互いあまり……」
そこで言葉を切った。
言い訳みたいに聞こえたと思ったのか、口元だけわずかにこわばる。
「事故か事件かも含めて、確認が必要です。お話を伺えますか」
「……分かりました」
そのとき、画面の外から小さな泣き声が聞こえた。
高い声ではない。眠りの浅い子どもが、ぐずる前に漏らすような短い声。
三浦の肩がわずかに動く。
「すみません。子どもが」
ミュートにして席を外す。
数秒、泣き声だけが聞こえる。
正確には、ミュートにする前に少し漏れた声と、画面の向こうで何かを持ち上げる気配だけが残った。
斎木が、ごく小さく「あるあるですね」と呟いた。
「何がだ」
「寝たと思ったら、です」
「経験則か」
「現在進行形です」
それだけ言って、斎木はまた画面に目を戻した。
やがて三浦が戻ってくる。
髪を耳にかけ直して、少しだけ息を整える。肩のあたりに、さっきまではなかった小さなタオルがかかっていた。
「失礼しました」
「いえ」
俺は頷く。
「川原さんとは、どれくらいの関係でしたか」
「同期です。同じ年に入社して」
少し間を置く。
「すごく仲がいい、ってほどじゃないです。年に一回くらい食事して、あとはたまにスマホでやり取りする程度で」
それから、言い足す。
「でも……完全に疎遠、でもなかったです」
声は控えめだったが、その一文だけ少し残った。
完全に疎遠ではない。
この手の言い方には、いくつかの意味がある。
親友ではない。
だが、切れてもいない。
何かあれば思い出すし、たまに連絡する。
そのくらいの関係が、人の本音を一番よく知っていることもある。
「川原さんは、どんな人でしたか」
「……変わってる人、ですね」
少し迷ってから言う。
「理系っぽいというか。理屈っぽいし、仕事も真面目だし。会議で言うことも筋は通ってるんですけど、言い方はわりと容赦なくて」
苦笑する。
「たぶん、苦手な人は苦手だったと思います」
「三浦さんは?」
女性は一瞬だけ目を上げた。
「私は……」
短く息を吸う。
「私は、嫌いじゃなかったです」
すぐには続けない。
「面倒くさい人だなって思うことは、ありましたけど」
少しだけ笑う。
だが、そこに悪意はない。
「でも、嘘はつかない人でした。少なくとも、仕事では」
俺は黙って聞く。
「大学は?」
「理系大学院です。宇宙系の学部に行きたかったらしいんですけど」
女性は肩をすくめた。
「学力が足りなかったって、自分で言ってました。ああいうこと、自分から先に言う人だったんです。傷つく前に、自分でネタにしちゃうというか」
少しだけ目線が逸れる。
「でも、言い方が明るいわけじゃないんですよ。笑ってるのに、笑わせる気はないみたいな」
「それで今の会社に?」
「ええ」
「恋愛の話は」
女性は一瞬だけ眉を動かした。
聞かれると思っていた顔だった。
「あまりしない人でした」
「しない?」
「昔、大学院のときに変な男に騙されたらしくて」
言葉を選ぶ。
「詳しくは聞いてません。聞かせるつもりもなかったんだと思います」
少し間。
「それで、“女やめた”って言ってました」
俺は黙っている。
「冗談みたいに言うんですけど、あれは半分ほんとだった気がします」
声が少しだけ低くなる。
「だから、恋愛とか結婚とか、そういうのは距離置いてる人だと思ってました。少なくとも、自分から入っていくタイプには見えなかった」
「でも三年前に?」
斎木が口を挟む。
女性が頷く。
「そうです、そうです。急に“彼氏できた”って言い出して」
「どんな相手でしたか」
「年下って言ってました。公務員だったかな」
少し視線を上げる。
「正直、驚きました」
「なぜ」
「だって、“女やめた”って言ってた人が急に恋人ですよ」
小さく笑う。
今度は少しだけ、昔を思い出す顔だった。
「しかも、言い方が……なんというか、浮かれてるわけじゃないんです。むしろ、やけに平然としてて」
「平然?」
「うまく言えないんですけど」
指先でイヤホンのコードをいじる。
コードの先が画面の端で白く揺れた。
「嬉しそうに見せたくない人、いるじゃないですか」
そこで、自分の言い方がおかしいと思ったのか、少しだけ首を振る。
「いえ、違うかな。見せたくないというより、見せ方が分からない人というか」
沈黙が落ちる。
画面の向こうで、子どもが小さく声を上げる。
三浦はそちらを気にしながらも、話を続けた。
「でも綾乃、外では強い感じですけど」
ふと思い出したように言う。
「中身は、普通の女の子でしたよ」
「普通の女の子?」
「小説とか書いてました」
俺は少しだけ顔を上げた。
「小説?」
「はい。恥ずかしいから誰にも言うなって言われてましたけど」
女性は苦笑する。
「恋愛ものです。ラブコメみたいな」
斎木がキーボードに手を置く。
打ち込む音が、いつもより少しだけ大きく聞こえた。
「投稿していた?」
「してたと思います。前に一回、リンクが送られてきたことがあって」
そこで、言葉が止まる。
「……たぶん、誰かに読んでほしかったんだと思います」
独り言みたいな声だった。
「でも同時に、笑われたくもなかったんでしょうね」
少しだけ口元が曇る。
「私、そのとき、似合わないねって言っちゃったんです」
「怒られました?」
「ええ。普通に」
小さく笑う。
ただ、その笑いは少しだけ乾いている。
「似合う似合わないで読ないでよって」
「あとで、悪かったかなとは思いました」
短い沈黙。
画面の向こうで、三浦が何かを気にして横を見た。
子どもが起きたのかもしれない。だが、今度は席を立たなかった。
「サイト名、分かりますか」
「はい。普通の投稿サイトです」
女性は少し迷う。
「ユーザー名も分かります」
視線が少し揺れる。
「……本人には秘密って言われてたんですけど」
俺は短く答えた。
「確認が必要です」
女性はすぐには頷かなかった。
画面の向こうで、ほんの一瞬だけ唇を結ぶ。
「綾乃、こういうのだけは妙に子どもっぽくて」
誰に向けるでもなく言う。
「隠してるくせに、読んでほしがるんですよ」
それから小さく息を吐いた。
「……分かりました」
チャット欄に文字が打ち込まれる。
送信音。
斎木の画面に通知が出る。
「これです」
「ありがとうございます」
女性は軽く頷いた。
「仕事してるときの綾乃からは、ちょっと想像つかないんですけど」
少しだけ口調が柔らかくなる。
「書いてるものは、わりと可愛かったですよ。ああいうの、本当は好きなんだなって思いました」
一拍置いて、続ける。
「でも、ちょっと安心したのを覚えてます」
「安心?」
「ちゃんと、好きになったり傷ついたりするんだなって」
そこで自分でも言いすぎたと思ったのか、女性は視線を落とした。
「……すみません。今のは忘れてください」
それだけ言って、会議は終わった。
終わる直前、画面の端に小さな手が一瞬だけ映った。
三浦が慌ててそれを抱き上げるようにして、通信が切れた。
*
画面が暗くなる。
斎木がユーザー名をコピーして、投稿サイトを開いた。
検索窓に貼り付ける。
数秒後、ページが切り替わる。
「……出ました」
画面をこちらへ向ける。
投稿作品の一覧。
タイトルが縦に並んでいる。
ざっと見ただけで、空気は分かった。
「ライトノベルですね」
斎木が言う。
確かにそうだった。
軽いタイトル。恋愛もの。短めの連載。星や天文を匂わせる言葉も、ところどころ混じっている。
「ずいぶん書いてるな」
「十本くらいですかね。短編も入れたら、もう少しあります」
斎木が一つクリックする。
ページが開く。
数行だけ目で追って、すぐにスクロールする。
「……まあ、普通ですね」
「普通?」
「ラブコメです。大学のサークルで出会って、女の子がちょっと強気で、男が振り回される感じ」
「お前、ずいぶん早いな」
「テンプレってありますから」
もう一つ開く。
また数行読む。
斎木の眉が、ほんの少し動いた。
「ん?」
「どうした」
「いや……ちょっと待ってください」
スクロールを戻す。
「この台詞」
そこには、こう書かれていた。
『おい』
『アヤさん。今日も早いですね』
どこかで見た気がする。
俺は、隣の画面を思い出す。
「……中山の小説だ」
斎木がすぐに別タブを開く。
数秒、二つの画面を見比べる。
「同じですね」
文章そのものは違う。
だが、会話の芯が同じだった。
斎木が小さく息を吐く。
「もしかして、これ……」
「同じ出来事かもしれんな」
「視点違い、ってやつですか」
「ああ」
俺は画面を見たまま答える。
「かもしれん」
斎木が椅子を少し寄せる。
キャスターが床で低く鳴った。
「最初から読みます?」
「ああ」
画面のスクロールが上へ戻る。
タイトルが表示される。
ラブコメらしい、軽い名前だった。
事件現場の冷えた床や、取調室の白い光とは、どうにも結びつかない。
その下に、本文が続いている。
俺たちは何も言わず、画面を見た。
事件とは関係ないかもしれない。
ただの恋愛小説かもしれない。
それでも。
同じ台詞が、そこにあった。
斎木が小さく言う。
「……読んでみましょうか」
「そうだな」
今度は、彼女の視点だった。
第四章 ライトノベル
#1
「おい」
公民館の会議室のドアを開けながら、私は声をかけた。
強めに言ったつもりだった。
けれど、思ったほど響かなかった。
古い会議室の空気に吸われたみたいに、声は少しだけ丸くなって、机の上に落ちた。
振り向いた彼は、椅子にもたれたままこちらを見る。
手元には、定例会の資料。たぶん、今日も私より早く来て、机を並べて、人数分の紙を揃えていたのだろう。
その目が一瞬だけ、私の顔をなぞった。
――見た。
たったそれだけで、胸の奥が少し騒ぐ。
彼の名前はユウト。
天文ボランティア団体のコアメンバーで、区役所勤務。いつも一番に来て、誰よりも静かに準備をしている。なのに本人は、それを“大したことじゃない”みたいな顔で済ませる男だ。
ずるい。
「アヤさん。今日も早いですね」
彼は資料を閉じて、机に置いた。
まるで、私が来ることを知っていたみたいに。
「早くないだろ。……まあ、ちょっと話があってな」
本当は、そんな軽いものじゃない。
――気づけ。
――誘え。
――クリスマスだぞ。
そう言いたいのを全部飲み込んで、私はいつもの口調を選ぶ。
偉そうで、理屈っぽくて、代表らしい声。
「僕はアヤさんの暇つぶしの相手じゃないですけど」
彼が軽く笑う。
……この男。
内心で机を叩く。
でも、顔には出さない。
「……相変わらずだな。今日はちゃんとした話だ」
彼の隣に腰を下ろす。
距離が少し近い。
近すぎるわけじゃない。
でも、意識するには十分だった。
椅子の脚が床をこすって、小さく鳴る。彼はその音にちらりと目を落としてから、またこちらを見た。
「僕は特に話すことないですけどね」
この、どこか他人事みたいな態度。
でも、それでもここに来る。
誰に頼まれたわけでもないのに、毎回ちゃんと来る。
だから私は、まだ諦めきれない。
「ここの活動、今のままでいいと思ってるか?」
会議室には、まだ誰も来ていない。
窓の外で、風が枝を擦らせている。ガラスの向こうで、冬の木が細かく震えていた。
「悪くないんじゃないですか。ちょうどいい感じで」
彼はあっさり言う。
ちょうどいい。
その言い方が、少しだけ癪に障った。
「素直じゃないな。いつも一番に来てるくせに」
「せっかくやるなら、って程度ですよ」
軽い声。
そういうところだ。
私は立ち上がり、演台の前に立った。
息を整える。
言うなら、今だ。
「クリスマスに観望会をやる」
言い切る。
彼の表情が、ほんの少しだけ動いた。
「クリスマスに? 人、来ますかね」
……そこ?
思わず笑いそうになる。
「来るかどうかはやってみないと分からない。星を見るにはいい日だ」
天井を見上げるふりをして、呼吸を整える。
クリスマス。
恋人たちが勝手に盛り上がる夜。
その日に星を見るイベント。
普通なら、誰かを誘う。
誘わないなら、誘わせる。
それだけの話だ。
「館長、許可出しますかね」
「仮で通してある。正式な申請も出す」
書類を机に置く。
彼の視線がそこに落ちる。
ちゃんと読んでいる。そういうところは、ほんとうに律儀だ。
「本気ですね」
「私はいつも本気だよ」
少しだけ笑う。
言った瞬間、自分でも分かった。
今の声は、代表の声じゃない。
女の声だ。
彼は視線を逸らした。
その反応に、胸の奥がざわつく。
「それなら、港で恋愛にまつわる星座の話をしてから、山手の公園に移動するのはどうですか。雰囲気は出ると思いますけど」
提案。
──ふふ、釣れた。
私は内心で拳を握った。
「港は人が多い。公園も、あの時期は照明が強すぎる。団体でやる以上、場所は絞る」
代表の声で答える。
「……ただ、星座の話は悪くないな」
彼の目が少し動く。
全面否定ではない。
そのことに、彼も少しだけ安心したように見えた。
「まだ案の段階だ。今日の定例会では触れない。まずは形を固める」
時計を見る。
開始まであと十分。
廊下の向こうから足音が聞こえる。誰かが階段を上ってくる音だ。古い建物だから、靴音がやけに響く。
そろそろ人が来る。
この話は終わりだ。
それでも、最後に一つだけ言う。
「チラシの素案、お願いできるか」
「僕もですか?」
「当然だろう。コアメンバーなんだから。しかも“改善案”まで出してくれた。参加させないわけにはいかない」
逃げ道はない。
「それに」
書類をまとめながら、私は続ける。
「クリスマスは、空いてるだろう?」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、彼の表情が曇った。
「特に予定はないですけど」
やっぱり。
私は視線を逸らした。
――なら、誘え。
そう思うのに。
言えない。
結局、私はまた代表の顔に戻る。
「人が集まり始めたな。この話は、また改めて」
会議室のドアが開き、メンバーが入ってくる。
「お疲れさまでーす」
誰かが間延びした声で言う。コンビニ袋の中で、ペットボトルがかさりと鳴った。
私は資料を開き、いつもの顔に戻った。
さっきまでの空気は、どこにも残っていない。
それでも、胸の奥だけが少し熱かった。
*
定例会が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
公民館を出ると、冷たい空気が頬に触れる。
吐く息が白い。
駅へ向かう人の流れとは逆に、私は住宅街の方へ歩いた。
公民館から歩いて二十分。
この距離が嫌いじゃない。
人の声が少しずつ減って、店の明かりも減って、代わりに窓の明かりが増えていく。そういう時間の変わり目を歩いていると、自分がどこか別の場所へ帰っていくような気がする。
今日の会話を思い返す。
――クリスマス観望会。
ユウトの顔が浮かぶ。
「クリスマスに? 人、来ますかね」
……そこじゃないだろ。
思わず小さく笑う。
恋愛の雰囲気の話はするくせに、自分からは何も言わない。
でも、港の話を出したとき、ちゃんと乗ってきた。
――興味はある。
ただ、自分から踏み込まないだけだ。
住宅街の角を曲がる。
街灯の下で影が伸びる。
団体に入った頃を思い出す。
最初は人が多かった。
観測会をやって、講習をやって、企画を増やして。できることは全部やった。
でも、人は減った。
理由はだいたい分かっている。
本気になると、人は少し距離を取る。
高校の部活でも、大学のサークルでも、だいたいそうだった。
本気でやろう、と言った瞬間、誰かが笑う。
そこまでやらなくても、と言う。
空気読めよ、という顔をする。
だから学んだ。
期待しないこと。
本音を言わないこと。
そして、少しだけ偉そうに振る舞うこと。
それなら、傷つく前に線が引ける。
……でも。
ユウトは違った。
私が早口で話しても、理屈を並べても、適当に聞いている顔で、ちゃんと最後まで聞いてくれた。
相槌は少ない。
反応も大きくない。
けれど、あとで何気なく言った一言で、ちゃんと聞いていたのだと分かる。
それが、嬉しかった。
――だからこそ、怖かった。
マンションの前で足を止める。
外階段を上がり、鍵を開ける。
部屋の灯りをつけると、静けさが広がった。
コートを脱ぎ、湯を沸かす。
やかんの底が小さく鳴り始める。
マグカップにお茶を入れて、ソファに座る。
湯気がゆらゆら揺れる。
――うまくいった、よね。
そう思う。
でも、少しだけ不安になる。
もし、また流されているだけだったら。
もし、何も変わらなかったら。
もし、私だけが勝手に意味を読んでいるだけだったら。
「……あぁ、やめやめ」
小さく呟く。
考えすぎると、ろくなことにならない。
ソファに寝転がる。
天井を見上げる。
クリスマス。
その日は、彼も来る。
……たぶん。
来なかったら、そのとき考えればいい。
スマホを胸に乗せる。
画面は暗いまま、体温だけを少しずつ拾っている。
次に浮かんだのは、別のことだった。
――プレゼント。
何を渡せばいいんだろう。
直接聞く?
いや、それはさすがにバレる。
本?
でも好みが分からない。
マグカップ?
重いか。
星座早見盤?
いや、団体の備品みたいだ。
……振られるのは、嫌だな。
結局、答えは出ないまま、毛布を引き寄せて顔を埋めた。
胸の奥が、少しうるさい。
――ちゃんと聞けるかな。
鼓動が落ち着くまで、その夜、私はなかなか眠れなかった。
#2
二週間後。
公民館の会議室の扉を開けると、やっぱり彼がいた。
ユウトは机に向かい、資料を広げている。
窓の外の薄曇りの光が、その横顔をぼんやり縁取っていた。
相変わらず、少し気の抜けた姿勢。
でも、ちゃんと一番に来ている。
「今日は早いですね」
そう言って、彼は顔を上げた。
「いつもだろ」
私は軽く肩をすくめる。
このやり取りは、もう何度も繰り返している。
それだけで、少し安心する。
「館長の正式な了承は取れた。仮押さえじゃなくなった」
資料を机に置く。
「早いですね」
「段取りはしておいたからな」
視線が合う。
「チラシは?」
彼は椅子にもたれたまま答える。
「デザインは知り合いに頼んでます。文言はまだですが、無難な形でまとめます」
……少しだけ驚く。
正直、まだ何もしていないと思っていた。
いや、期待していなかったわけじゃない。けれど、こういうことを静かに進められると、こちらの段取りが少し狂う。
でも、それを顔に出すわけにはいかない。
「行動が早い。お前はできる男だ。ありがとうな」
言った瞬間、少しだけ照れくさくなる。
「大したことしてませんよ」
「いや、動かない人もいる」
沈黙が落ちる。
――今だ。
私は小さく息を吸う。
「……ひとつ聞いていいか」
彼が顔を上げる。
「なんですか」
言葉が出ない。
こんなことを聞くつもりじゃなかったのに。
もっと普通に、企画の話をして、チラシの文言を詰めて、それでよかったはずなのに。
それでも、口は動いた。
「ユウトは、その……何を大事にしている?」
聞いてしまった。
彼は少し首を傾げた。
「うーん。急に言われても難しいですね。仕事も団体も、ちゃんとやろうとは思ってます」
少し考えて、続ける。
「アヤさんみたいに、全部を懸ける覚悟はないですけどね」
……それだけ?
胸の奥で、何かが跳ねた。
一年。
一年も待って。
返ってくるのは、そんな答え?
「……それは“ちゃんとやる”であって、“選ぶ”とは違う」
声が思ったより低くなる。
彼は少し驚いた顔をした。
「選ぶ?」
「何かを優先することだ。本気になるとか、責任を負うとか」
言葉は落ち着いている。
でも胸の奥は、ぐちゃぐちゃだった。
「……本気じゃないわけじゃないですよ」
曖昧な答え。
私は小さく息を吐く。
「私には伝わってこない」
言った瞬間、後悔が追いついてくる。
でも、もう止まらない。
彼は困ったように笑った。
「どうすれば伝わります?」
……は?
胸の奥が熱くなる。
「自分で考えろ」
気づいたら言っていた。
「私に聞くことじゃない」
窓の外で風が鳴る。
会議室の空気が、急に冷たくなる。
「……そうですね」
彼は小さく頷いた。
それ以上、何も言わない。
その静かさが、逆に苦しかった。
怒ってくれたほうが、まだよかった。
面倒くさいな、と言ってくれたほうが、たぶん分かりやすかった。
私は資料を抱え直す。
逃げるみたいに。
「今日はここまでにしよう」
ドアへ向かう。
背中に視線を感じる。
振り返らない。
振り返ったら、きっと顔に出る。
ドアを閉める。
廊下の空気が、少しだけ冷たい。
歩きながら思う。
――私、何してるんだろう。
あんな言い方をするつもりじゃなかった。
ただ、知りたかっただけなのに。
彼が何を大事にしているのか。
私のことを、どう思っているのか。
でも結局。
また同じだ。
本気になればなるほど、距離ができる。
公民館の階段を降りながら、窓の外を見る。
木の枝が、風で小さく揺れている。
その夜。
ベッドの上で、私は目を閉じていた。
どうして、あんな言い方をしたんだろう。
傷つけたかもしれない。
嫌われたかもしれない。
胸の奥が、じんわり痛む。
――好きなのに。
毛布を引き寄せる。
思い出は自然と一年前へ戻っていく。
たぶん。
あれが、始まりだった。
#3
「……ここが地球の軌道。小惑星はこのあたりを通ります」
ホワイトボードにマーカーを走らせながら、私は説明していた。
円。
楕円。
交差する線。
頭の中にあるものを、そのまま図にしていく。
「探査機は、まっすぐ飛ばすわけじゃない。重力を利用して、何度も軌道を修正します」
子どもたちの前で話すときは、言葉を選ぶ。
難しくなりすぎないように。
でも、嘘にならないように。
話しているうちに、いつの間にか熱が入っていた。
「先生、それ失敗しないの?」
前の席の子どもが聞く。
頬が赤くて、鉛筆をずっと握っている子だった。
「失敗することもある。でも、だからやる価値があるんです」
即答だった。
迷いはない。
やがて教室は静かになり、子どもたちは帰っていった。
机の上には、資料とマーカーだけが残る。
床には、誰かが落とした小さな星形のシールが一枚、貼りつくように落ちていた。
私は軽く息を吐いた。
「今日の説明、難しくなかったか?」
後ろで椅子を片付けていたユウトに声をかける。
「少し背伸びした方が、印象に残りますよ」
彼は椅子に腰を下ろして答える。
「小惑星って、意外と手順が多いんですね」
……聞いてた。
私は少しだけ笑う。
「聞いていたのか」
「一応」
「ユウトは、聞いてない顔でちゃんと聞いてる」
言ってから、少し照れくさくなる。
彼は肩をすくめた。
「全部理解してるわけじゃないですけど」
「それでも来る」
間。
「興味があるからか?」
聞いてしまった。
夕方の光が、ホワイトボードの軌道を照らしている。
マーカーの線は少しかすれていて、楕円の端だけが薄くなっていた。
彼は少し考えてから言った。
「……暇だから、ですかね」
……また、それだ。
胸の奥で何かが小さく沈む。
それでも、ここに来る。
「“暇だから”で片づけるのは、もったいない」
「他に言い方が思いつかなくて」
沈黙。
私は視線を落とす。
それから、思い切って言った。
「大学の頃から付き合っている人がいると聞いた」
「今も、続いているのか」
彼の動きが止まる。
……しまった。
踏み込みすぎた。
そう思ったときには、もう遅かった。
彼はペンを指先で回しながら答える。
「続いていると言うか。社会人になってから、お互い忙しくて」
声は落ち着いている。
「会う機会も、連絡も減って……」
そこで言葉が途切れる。
私は小さく頷いた。
「詮索した。悪かった」
眉が自然と下がる。
きっと今、ひどく情けない顔をしている。
「ボラには無理して来なくていいんだ。ここは仕事じゃない」
声が少し揺れる。
それでも続ける。
「嫌なら、来なくてもいい」
沈黙。
彼はしばらく考えていた。
それから、肩をすくめた。
「嫌ってわけじゃないですよ」
顔を上げる。
「彼女にも、ここでの話はしてます」
一瞬、時間が止まる。
「アヤさんの説明が熱いとか、面白い人がいるって」
……面白い?
思わず聞き返す。
「いい意味で、ですよ」
彼は笑う。
「普通、そこまで本気にならないですから。そうやって振り切れるの、すごいと思ってます」
まっすぐな声だった。
「僕はどちらかというと普通なので」
軽く肩をすくめる。
「そういうところ、僕は好きですよ」
「尊敬もしてますし」
胸の奥が跳ねる。
好き。
その言葉が、思ったより深く落ちる。
文脈が違うことくらい分かっていた。恋愛の意味じゃない。彼が言ったのは、たぶん姿勢の話だ。私の熱意や、説明の仕方や、そういうものの話だ。
それでも。
私は顔を逸らした。
「……そうか」
それしか言えなかった。
夕方の光が、ホワイトボードの線をぼんやり照らしている。
軌道は静かに重なっている。
それから。
彼と話す時間は、少しずつ増えていった。
観測の話。
団体の話。
どうでもいい雑談。
コンビニの新商品がどうとか、館長のメールが毎回長いとか、そういう本当にどうでもいい話。
気づけば、会議が終わったあとも二人で残ることが増えた。
私は知っていた。
この一年ずっと。
私は、彼に惹かれていた。
それなのに。
……どうして、あんな言い方をしたんだろう。
この間の会議室。
「私には伝わってこない」
あの言葉。
胸の奥が、また少し痛んだ。
次、どんな顔で会えばいいのか。
私には、まだ分からなかった。
#4
次の定例会。
会議が終わったあと、コアメンバーに残ってもらった。
公民館の会議室。
いつものメンバー。
私は資料を机に置いたまま、少しだけ視線を落としていた。
この間の会話が、まだ頭の奥に残っている。
「クリスマス観望会の件だが」
声を出す。
「一度、やめよう」
静かだった。
反対は出ない。
正式決定ではない企画だ。
それでも、部屋の空気が少しだけ動いた。
「理由は?」
誰かが聞く。
「参加者の見込みが立たない。年末は人も動く」
私は淡々と続ける。
「団体としては、安定を優先する」
代表の声。
ユウトの方は見なかった。
見たら、言葉が崩れそうだったからだ。
少し沈黙があって、彼の声が聞こえた。
「僕は……」
そこで止まる。
私は小さく首を振った。
「いや、いい」
それ以上、言わせない。
「今回は見送ろう。来年度に改めて提案する」
会議はそれで終わった。
誰も、その決定を深く追及しなかった。
たぶん、みんな楽になるほうへ少しだけ流れたのだと思う。年末のイベントは面倒だ。寒いし、人員も読めない。やめる理由はいくらでもある。
私が欲しかったのは、反論だったのかもしれない。
でも、そんなことを思う資格なんて、私にはなかった。
*
会議が終わると、私はすぐ帰った。
誰とも話さず、公民館を出る。
住宅街の夜道を歩く。
街灯の光が、ぽつぽつと続いている。
……やめる必要はあったのか。
自分でもよく分からない。
でも、あのまま続けるのは少し怖かった。
もし、また同じだったら。
もし、彼が何も言わなかったら。
もし、私だけが期待しているのだと、はっきり分かってしまったら。
それを確かめる勇気が、少し足りなかった。
マンションに着く。
鍵を開けて、部屋の灯りをつける。
コートを脱ぎ、ソファに座る。
そのとき、スマホが震えた。
後輩の瑠璃からだった。
《アヤさん》
《観望会、やることになりました》
一瞬、意味が分からない。
続けてメッセージが届く。
《ユウトさんがLINEで、やりましょうって》
胸の奥が、ふっと熱くなる。
……え。
画面を見つめる。
《人数絞ればいけると思うって》
スマホを持つ手が、少しだけ震える。
……ユウト。
会議では何も言わなかったのに。
ソファに背を預ける。
胸の奥が、じんわり温かい。
――もしかして、私のこと……
そんな考えが浮かんで、すぐに顔を覆った。
何を考えてるんだ、私は。
でも。
もしそうだとしたら。
もし、そういう意味だったら。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
まるで恋愛小説みたいだ。
困ったときに、何も言わず助けてくれる人。
……いやいや。
そんな都合のいい話、あるわけない。
スマホを胸の上に置く。
天井を見る。
さっきまでの落ち込みが、少しだけ別のものに変わっていた。
でも、そのあとすぐ、別の気持ちが押し寄せる。
……私は何をしているんだろう。
自分で始めた企画なのに。
逃げて。
何も説明せずに帰って。
彼にフォローさせて。
……ひどい。
ソファのクッションを抱き寄せる。
顔を埋める。
それでも、胸の奥の温かさは消えない。
しばらくして、スマホを手に取る。
メッセージを打とうとして、やめる。
《ありがとう》
それだけでは足りない気がした。
でも、長く書けば、また何かが漏れる。
結局、画面を閉じた。
――彼に会ったら、ちゃんと話そう。
謝ろう。
それから。
それから、どうするかは。
そのとき考えればいい。
私は小さく息を吐いた。
#5
水曜の夕方は、ノー残業デーだ。
早く帰れると分かっても、まっすぐ家に向かう気にはなれなかった。
理由はいくらでもあった。
買い物とか、本屋とか、ついでとか。
実際、モールの中の服屋でセーターを一枚買った。
薄いグレーの、少し柔らかい生地のやつだ。試着室の照明が妙に白くて、鏡に映った自分の顔が少し疲れて見えた。
紙袋をぶら下げたまま、店を出る。
……でも、本当は違う。
私はショッピングモールの中を歩きながら、小さく息を吐いた。
――プレゼント。
クリスマス観望会。
あの企画は団体のためでもある。
そう自分に言い聞かせながら、店をひとつ、またひとつと覗く。
革小物。
本屋。
雑貨屋。
星座モチーフのしおり。
少し高いボールペン。
でも途中で立ち止まる。
……分からない。
男の人が何を喜ぶのかなんて、全然分からない。
私は外のウッドデッキに出た。
冬の風が、頬を刺す。
イルミネーションの光が、床の板に淡く反射している。
「……はぁ、帰ろ」
結局、何も買えなかった。
モールを出て、通りを歩く。
石畳の道に街灯が灯り始める。
遠くで車の音が流れていく。
足取りは少し重かった。
……そのとき。
「アヤさん」
背後から声がした。
心臓が、跳ねた。
ゆっくり振り返る。
そこにいたのは、ユウトだった。
紙袋を持った私を見て、少しだけ驚いた顔をしている。
「……偶然だな」
「そうですね」
沈黙。
胸の奥がうるさい。
「この前の話、答えを言いに来ました」
眉がわずかに動く。
「もういいと言ったはずだ」
「よくないです」
ざわめきの中で、彼の声だけが妙に澄んでいた。
「“選ぶ”って何か、考えました」
彼は黙っている。
逃げない。
その視線だけで、胸が苦しくなる。
「僕はずっと、ちゃんとやってるつもりでした。仕事も、団体も、人間関係も」
一拍。
「でも、それは選んでなかった」
……この男は。
どうして、こういうことを真面目な顔で言うんだ。
「……今さらだな」
声が少し細くなる。
「今さらです。でも」
彼は続ける。
「去年のクリスマス、公園に行きました」
息が止まる。
「約束は、もう意味がないって分かってた。でも、行かなきゃいけない気がした」
「迎えに来てくれましたよね」
沈黙。
あの夜。
ベンチ。
冷たい空気。
何も言えなかった自分。
……全部覚えている。
あの夜の記憶を、今年こそ上書きしたかった。
「星を見に来ただけだ、って」
私は目を逸らした。
「……覚えているのか」
「忘れられません」
彼の声は静かだった。
「アヤさんは、何も言わないのに、いなくならない」
その言葉が胸に刺さる。
「だから僕は、甘えてた」
言い切る。
「あなたが離れないと、どこかで思ってた」
胸の奥が、少しだけ痛む。
「……私は」
声が掠れる。
「離れた方がいいと思っていた」
笑ってしまう。
乾いた音だった。
「私は、本気になると人が離れていく。昔からそうだ」
紙袋の持ち手を強く握る。
「重いんだよ、私は」
視線を上げる。
「仕事も、団体も、恋愛も。本気になった瞬間、相手は息苦しくなる」
言葉が止まる。
「だから、選ばれない」
彼は黙っている。
逃げない。
それが余計に苦しい。
「去年だって、迎えに行ったのは」
少しだけ言葉を探す。
「お前がひとりでいるのが嫌だっただけだ」
彼が一歩近づく。
「アヤさん」
「だめだ」
即座だった。
「それ以上、言うな」
怖かった。
これ以上聞いたら、全部壊れる気がした。
聞きたかった言葉を、本当に聞いてしまったら、そのあと自分がどうなるのか分からなかった。
「私は知ってる」
息が浅くなる。
「私は、その辺の男に惹かれないんだ」
「お前には、私が本気で惚れるだけの価値がある」
言ってしまった。
もう止まらない。
「でもな」
喉が詰まる。
「私には、お前と並ぶ資格なんてない」
言葉が落ちる。
「素直じゃなくて、偉そうで、理屈ばかりで……」
「お前まで傷つけて……」
拳を握る。
涙をこらえる。
「お前だって、こんな女と付き合いたいなんて思わないだろ」
沈黙。
彼が、少しだけ笑う。
「……それって」
「一緒にいたいってことですよね」
頭が真っ白になる。
「違う」
反射的に返す。
でも声が弱い。
「だって、そんな言い方されたら、“そんな事ない”っていうしかないじゃないですか」
睨む。
……この男。
「ああ、もう」
彼が一歩近づく。
距離が縮まる。
「逃げません」
短い言葉。
胸が強く鳴る。
「一緒にいたいと思ってます」
そんな簡単に言うな。
こっちは、どれだけ――
「ずっと見てきた。だから分かります」
視線が真っ直ぐだ。
逃げない。
「全部、好きなんです」
その言葉が胸に落ちる。
私はしばらく黙っていた。
笑うしかなかった。
「……ずるいな」
「何がです?」
「そんな顔で言うな」
視線が揺れる。
心のどこかが、崩れていく。
「私は、選ばれない側でいるつもりだったのに……」
言葉が止まる。
沈黙。
そして。
気づけば私は、彼に近づいていた。
「アヤさん?」
彼が言う。
その瞬間。
私は手を伸ばして、悔しながらにキスをした。
街灯の光が、彼の頬を照らしていた。
顔を伏せたまま、もう一度だけ唇を重ねる。
理由も理屈も、まだ追いつかない。
でも。
今はただ、この手を離したくなかった。
***
スクロールの指を止める。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
斎木がマウスを動かし、ページの一番下まで送る。
「……終わりですね」
画面には短いあとがきが表示されていた。
『読んでくださってありがとうございました。
これは彼氏と一緒に書いた、実験作です。
同じ出来事を、男女それぞれの視点で書いてみました。
男性側の物語はこちらです。
初心者だけどAI使って頑張って書いてくれました。』
その下にリンクがある。
斎木がクリックする。
数秒後、見覚えのあるページが開いた。
中山悠太のアカウント。
この間、読んだ小説だ。
斎木が小さく息を漏らす。
「なるほど」
「何だ」
「同じ出来事を書いてるなら……内容の確認はし合ってるってことですよね」
少し間を置く。
「少なくとも、片方だけの妄想ではない」
俺は画面を見たまま頷いた。
「投稿日も二年半前ですし」
斎木が続ける。
「事件とは、今のところ直接は関係なさそうです」
俺は背もたれに体を預けた。
恋愛小説。
確かに内容に大きな齟齬はない。
同じ出来事を、二人がそれぞれ書いている。そう見れば、それで済む。
だが、読み比べると少しずつ違う。
中山の文は、出来事を整える。
川原の文は、感情を前へ出す。
同じことが起きているはずなのに、責任の所在だけが、少しずつ滑っていく。
「……そうだな」
俺がそう言うと、斎木はノートを閉じた。
「じゃあ、小説の件は一旦置きますか」
「ああ」
椅子から立ち上がる。
「小説の中じゃなくて、外の話を聞こう」
「職場ですね」
「区役所だったな」
斎木がキーボードを叩く。
「区民課です」
俺は頷く。
「まず周囲の評価だ」
「了解です」
斎木がメモを取る。
「穏やかで感じがいいタイプなら、だいたい同じこと言われそうですけどね」
俺はドアに手をかけた。
「それでも聞く」
「はい」
ドアを開ける。
廊下の蛍光灯が白く続いている。
俺は一度だけ振り返った。
パソコンの画面はもう暗い。
恋愛小説。
それ以上でも、それ以下でもない。
今のところは。
「行くぞ」
「はい」
俺たちは、そのまま廊下を歩き出した。
第五章 区民課
区役所の窓口は、昼前の光に満ちていた。
高い窓から差し込む白い光が、待合の床に四角く落ちている。自動ドアが開くたび、外の冷気が薄く流れ込み、番号札を呼ぶ電子音が一定の間隔で鳴った。
窓口の前には、高齢の夫婦、乳児を抱いた母親、昼休みに駆け込んだらしいスーツ姿の男。
誰もがそれぞれの事情を抱えているはずなのに、役所の空気は、そういう細かな切実さを全部ひとつの“手続き”の厚みに均してしまう。
住民票。保険証。印鑑。
言葉にしてしまえば、どれも同じ箱に収まる。
俺と斎木は、区民課の一角に通された。
打ち合わせスペースと呼ぶには少し狭い場所だった。半透明のパーティションで仕切られ、机の端には消毒液と、使いかけのボールペンが三本、輪ゴムでまとめて置かれている。
最初に応対したのは、係の主任だった。四十代半ば。襟元の少しくたびれたワイシャツに、紺のカーディガン。
机の上の書類を一度きっちり揃えてから、ようやくこちらを見る。
「中山の件ですよね」
そう言って、わずかに苦笑した。
「もう話、回ってますか」
「いえ、内容までは」
主任は椅子を引き、俺たちにも座るよう促した。椅子の脚が床に擦れて、乾いた音を立てる。
「中山、何か、まずいことでもやりました?」
「確認です」
俺は言った。
「職場での様子を聞かせてください」
主任は少し考えてから、短く頷いた。
「真面目ですよ」
それが第一声だった。
少し間を置いてから、続ける。
「うちの窓口、けっこう荒れるんです。税金だの保険だの、納得いかない人は多いですから。こっちが制度を決めてるわけじゃないんですけどね」
最後だけ、少し声がぼやけた。
長年、同じ説明を繰り返してきた人間の疲れ方だった。
「中山さんは?」
「うまくやりますね」
「うまく?」
「ええ」
主任は窓口の方を見た。
「怒鳴られても、顔に出さない」
それだけ言ったあと、小さく笑う。
「普通は出ますよ。困るとか、うんざりするとか、早く帰ってくれないかなとか。そういうのが、どこかに。あいつはそれがない」
俺は黙って聞く。
「感情がない、ってことですか」
斎木が聞くと、主任はすぐに首を振った。
「いや、そういう意味じゃないです。冷たいとかじゃなくて。切り替えが早いんでしょうね。表に出さないっていうか」
少し考えるように、言葉を探す。
「怒らせないのも上手いですし」
「子どもにも?」
俺がそう聞くと、主任は少し目を上げた。
「ロビーの様子、見てましたか」
「いえ。聞いただけです」
主任は窓口の端を顎で示した。
カウンターの近くで、若い母親が小さな子を抱き上げていた。子どもは退屈そうに身をよじり、靴下の片方が半分脱げかけている。
「待ち時間が長いと、ぐずる子もいるんです。あいつ、そういうとき紙を折って渡したりするんですよ」
「折り紙?」
「鶴とか、カエルとか。コピー用紙の端で」
主任は少し笑った。
「別に、誰に頼まれたわけでもないのに」
それは好意的な言い方だった。
だが、そこにも少し距離があった。
褒めている。
ただし、理解しているわけではない。
「恋人の話は聞いたことがありますか」
俺が問うと、主任は首を傾げた。
「いや」
すぐには答えず、机の端にずれていた付箋を親指で揃える。
「そういう話はしないですね。私生活をあまり出さない」
「女性と仲がいいとか、交際しているとか」
「聞いてません」
「最近の様子はどうでした」
主任は、今度はすぐには答えなかった。
「最近……ですか」
「ええ。ここ一、二か月で、何か変わった様子はありませんでしたか。落ち着かない、疲れている、誰かと揉めているように見えた、とか」
主任は少しだけ考え込んだ。
窓口の方で、別の職員が「番号札をお取りください」と言う声がする。
「いや……特には」
「本当に、何も?」
「少なくとも、仕事ぶりは変わらなかったですね。遅刻もないし、ミスが増えたとかもない。窓口対応も普通です」
そこで一度言葉を切り、付け足す。
「まあ、ああいうのって、職場じゃ出さない人もいますけど」
その言い方は慎重だった。
見ていないものは見ていない。
そう言う大人の言い方だ。
「中山さん、職場の人と深く付き合うタイプですか」
「いや」
主任は即答した。
「誰とでも同じ距離です。近づきすぎないというか。私も上司なんで、もう少し踏み込むべきなんでしょうけど……」
そこで、言葉が少し濁った。
踏み込まなかったことへの言い訳ではない。
踏み込んでも何も出てこなかった人間の声だった。
誰とでも同じ距離。
俺はその言葉を手帳に書いた。
「同じ係の方にも、少し話を聞けますか」
俺が言うと、主任は一度だけ頷いた。
「呼んできます」
それだけ言って、執務スペースの奥へ消える。
残された打ち合わせスペースに、番号札の電子音だけが聞こえた。
斎木が小さく言う。
「“見られ方”は気にしそうですね」
「ああ」
俺は窓口の方を見た。
役所の空気は、均一だ。
だが、その均一さは、何もないことの証明にはならない。
むしろ、自分の見せ方を管理する人間には、いちばん都合のいい背景になる。
誰もが忙しい。
誰もが手続きを抱えている。
だからこそ、誰か一人の内側までは見ない。
*
主任が連れてきたのは、同じ係の女性職員だった。
三十代前半。髪は肩のあたりで切り揃えられ、胸元の名札の上に細いチェーンが一度だけ光る。
打ち合わせスペースに入ってきたときには少しだけ戸惑った顔をしたが、主任が「中山のことで少し」と言った瞬間、その表情はすぐに整った。
「白井です」
短く名乗る。
俺と斎木が名刺を差し出すと、彼女はそれを一度見てから、すぐに視線を戻した。
「中山さん、ですか」
少し驚いたように言ってから、苦笑する。
「やっぱり、何かあったんですね」
「確認です」
俺は繰り返した。
「職場での様子を教えてください」
「いい人ですよ」
まずそう言った。
それから、少し考えて付け足す。
「怒ったところ、見たことないです」
「主任も同じことを言っていました」
「そうですか」
彼女は小さく笑った。
だが、すぐに真顔に戻った。
「でも、それってたぶん、褒め言葉だけじゃないですよね」
俺は少しだけ視線を上げた。
「どういう意味です」
「うーん……」
彼女は言葉を探す。
窓口の方でプリンターが紙を吐き出す音がした。
一枚、二枚。事務的な音が、妙にゆっくり聞こえる。
「出さないんです。何を考えてるか」
俺は黙って待った。
「優しいし、感じも悪くない。子どもの相手もするし、窓口では助かってるんです。でも……踏み込めないんですよね」
「距離がある?」
「そう、それです」
少しだけ安堵したように頷く。
「こっちが一段近づくと、ちゃんと一段引く感じ」
「自分のことは話さない?」
「ほとんど」
「恋人の話も?」
「聞いたことないです」
即答だった。
それから、白井はテーブルの上で少しずれていたクリアファイルを真っ直ぐに重ね直した。
無意識の動作に見えた。
「この職場、そういう話、すぐ回るんですけどね」
「そういう話?」
彼女は主任の方を一瞬だけ見た。
主任は少し離れた場所で、別の職員と何かを話している。
白井は声を少し落とした。
「去年、別の係で問題があって」
少し間。
「不倫です」
それだけで十分だった。
斎木が手帳から顔を上げる。
「職員同士ですか」
「いえ。相手は外です」
彼女は肩をすくめた。
「でも、すぐ広まりました」
「誰から」
「さあ」
口元にだけ、薄い笑いが浮かぶ。
「ここ、女性多いので」
その言葉には、当人もどうにもできない種類の諦めが混じっていた。
だが、その“諦め”が、この空気をよく知っている人間のものだということだけは伝わってきた。
「その人は?」
「辞めました」
あっさり言う。
「居づらくなって」
窓口の方で、子どもの泣く声が一瞬だけ上がる。
白井はそちらに目をやったが、すぐに戻した。
「中山さんは、その件について何か言っていましたか」
「いえ」
「気にしている様子は」
彼女は少し考えた。
「……分からないです」
「分からない?」
「気にしてても、出さないタイプなので」
小さく笑う。
「だから、最近の様子って言われても……難しいですね」
「変わった感じは?」
俺は重ねて聞いた。
「ここ一、二か月。落ち着かないとか、スマホを気にするとか、誰かを避けているとか」
彼女はしばらく考えた。
その間、指先だけがクリアファイルの角を軽く叩いていた。
「普通でした」
それから、少しだけ言い直すように続ける。
「……少なくとも、外から見るぶんには」
その“少なくとも”が、妙に耳に残った。
「マッチングアプリとか婚活とか、そういう話題は?」
斎木が何気ない調子で挟む。
白井は首を振った。
「聞いたことないです。もしやってても、言わないと思います」
「どうしてそう思います?」
「中山さん、自分の評判を崩すようなこと、あまり人前に出さない気がするんです」
その一言のあと、彼女は自分で少し驚いたような顔をした。
「……すみません、変な言い方ですね」
「いや」
俺は言った。
「続けてください」
彼女は受付票の束を指先で揃えた。
「何ていうか……誤解されたくない人、って感じです」
その表現は、俺の中に小さく引っかかった。
──誤解されたくない人。
それはつまり、どう見られるかを気にする人間でもある。
「ありがとうございます」
俺がそう言うと、彼女は小さく会釈した。
だが立ち上がる前に、もう一言だけ付け足す。
「……ここって、一回そういう目で見られると、ずっとそのままなんです」
それだけ言って、彼女は主任の後についてスペースを出ていった。
*
区役所の外に出ると、風が冷たかった。
庁舎の前の植え込みには、乾いた土と、枯れかけた低木が並んでいる。
昼の光はまだ白い。だが、空気だけが妙に硬い。
斎木が手帳を閉じる。
「……印象、揃いましたね」
「ああ」
俺は建物を見上げた。
ガラスの向こうで、窓口の職員たちが働いている。
誰もこちらを見ていない。
「怒らない。感じがいい。子どもに優しい。私生活は見せない」
斎木が言う。
「最近の様子も“特に変わらない”」
「そうだな」
俺は答えたが、すんなりは入ってこなかった。
変わった様子はない。
恋人の話もしない。
なのに、三年続いた交際相手が死んでいる。
「……普通すぎるな」
思わず口に出していた。
「普通?」
斎木が振り向く。
「ここまで揃うと、印象が薄い」
俺は役所の窓口を見た。
待合の椅子。
観葉植物。
番号表示の液晶。
床に貼られた黄色い案内テープ。
すべてが整っている。
乱れていない。
そのとき、川原のマンションの部屋が頭に浮かんだ。
リビングのソファ。
その近くに倒れていた川原綾乃。
床に落ちた包丁。
ラグはめくれていない。
コップも倒れていない。
争った形跡が薄い。
それなのに、中山は言った。
『正当防衛でした。彼女が刃物を持ってきたんです』
「なあ、斎木」
「はい」
「正当防衛っていうやつは、たいていもっと喋るもんじゃないか」
斎木は黙った。
「怖かったとか、必死だったとか、何で止めようとしたかとか。あいつはそこをほとんど説明しない」
「……はい」
「現場も妙だ」
俺は言いながら、自分の中で整理していた。
「争ったなら、もっと動く。もっと乱れる。なのに、部屋には途中がない」
途中がない。
出来事だけが、ぽつんと置かれている。
斎木が少し考えてから言う。
「正当防衛は怪しい」
「ああ」
「でも」
斎木が続ける。
「動機が見えませんね」
俺は頷いた。
そこだった。
正当防衛は怪しい。
だが、殺す理由がまだ見えない。
「いったん署に戻るか」
俺は言った。
「はい」
「現場と供述、もう一回並べてみる。動機がないなら、まだ見えてないものがある」
斎木が頷く。
俺たちは駅の方へ歩き出した。
昼の光はまだ白かった。
だが、風は妙に冷たかった。
第六章 過去
署に戻る途中、斎木は何度か手帳を見返していた。
ページをめくっては止まり、また前のページに戻る。
歩道の端に寄った水たまりを避けるたび、彼の革靴が小さく鳴った。
区役所で集めた証言は、あまりにきれいに揃っていた。
怒らない。
感じがいい。
子どもに優しい。
恋人の話はしない。
最近の様子も、特に変わらない。
信号待ちで立ち止まる。
車が何台か、一定の速度で通り過ぎていく。
排気ガスの匂いが薄く残り、すぐに冷たい風で散った。
「遠藤さん」
斎木が言った。
「何だ」
「中山の件ですけど……」
「うん」
「まだ、正直、よく分からないですね」
俺は黙って歩いた。
「小説の中だと、ずるいところはありますけど」
斎木は続ける。
「悪いやつって感じじゃないです」
少し考えてから、言い足す。
「職場の証言も同じでしたし。……まあ、“いい人”って言われるタイプではありますよね」
俺は少しだけ息を吐いた。
こういう言葉は、前にも聞いたことがある。
何度も。
***
警察に入る前、俺はDV被害者の支援をしていた。
支援団体の事務所は、古い雑居ビルの三階にあった。
外階段を上がるたび、踊り場の鉄板が少しだけ軋む。
狭い部屋に、机とソファと、電気ポットが一つ。
壁には地域の避難先一覧。窓際の書類棚には、クリアファイルが色別に詰め込まれていた。時計は五分ほど進んでいて、誰も直さなかった。
電話はよく鳴った。
相談の言葉は、驚くほど似ていた。
「でも、普段は優しいんです」
受話器の向こうで、女が言う。
「怒るのは、私が悪いときだけで」
俺はメモを取る。
向かいでは、先輩の支援員が、湯の切れたポットのスイッチを無言で押し直していた。
こういう言葉も、何度も聞いた。
「暴力は、どれくらいの頻度ですか」
俺が聞くと、少し沈黙がある。
「……最近は、減りました」
「減った?」
「はい」
そこで声が、ほんの少し明るくなる。
「この前なんて、謝ってくれて」
そのあとで、ほとんど決まったように続く。
「本当はいい人なんです」
本当は。
その言葉が出るたび、俺はいつもペンを持つ手を止めそうになった。
止めてはいけないので、続けて書いた。
*
ある女性がいた。
二十代後半。子どもが一人。
最初に相談に来たとき、腕に古い痣と新しい痣が、重なるように残っていた。
危険の度合いを確認し、避難先を探し、シェルターの仮押さえもした。
男の行動も記録した。
怒鳴る。
物を投げる。
壁を蹴る。
殴る。
書類の上では、もう十分に危険だった。
それでも彼女は言った。
「でも、普段は優しいんです」
その“普段”という言葉だけが、いつも妙に長く尾を引いた。
俺は意見書を書いた。
裁判所や行政に出すためのものだ。
被害の経緯。
危険性。
保護の必要性。
どこまでを事実として並べ、どこからを評価として書くか。
どの言葉なら届いて、どの言葉なら跳ね返されるか。
文章にするとき、俺はいつも思っていた。
これは一つの物語だ、と。
彼女の語る物語。
男の語る物語。
そして、俺が作る物語。
俺の書く物語は、暴力を止めるためのものだった。
少なくとも、そのつもりだった。
だが、彼女は戻った。
「もう大丈夫だと思うんです」
そう言った。
「ちゃんと話しました」
俺も先輩も止めた。
“ちゃんと話す”ことと、“安全になる”ことは別だと、何度も説明した。
それでも彼女は帰った。
三か月後、警察から連絡が来た。
彼女は死んだ。
ニュースでは、こう言っていた。
──口論の末の悲劇。
悲劇。
その二文字が、やけに整って見えた。
あまりに整いすぎていて、腹が立ったのを覚えている。
暴力の積み重なりも、戻った経緯も、何度も書き直された彼女の言い分も、全部が“口論の末”で片づいていく。
言葉は、人を救うためにも使える。
だが同じ言葉で、現実を平らに潰すこともできる。
そのことを、あのとき嫌というほど思い知らされた。
***
信号が変わる。
車の音が遠ざかり、人の流れが横断歩道へ動き出す。
「遠藤さん」
斎木が言った。
「ん?」
「どう思います」
少し考える。
「“いい人”っていうのはな」
斎木がこちらを見る。
「ときどき、怒る」
沈黙。
「でも」
俺は続けた。
「誰も、あいつが怒ったところを見たことがない」
斎木は黙っていた。
署の建物が見えてくる。
入口のガラスに、俺たちの姿が薄く映った。
「それって」
斎木が言う。
「変ですか」
「分からん」
俺は答えた。
「ただ、“怒らない男”と“怒るところを誰にも見せない男”は、同じじゃない」
自動ドアを押して中に入る。
蛍光灯の白い光が、床に均一に落ちていた。
「もう少し、過去を見た方がいいかもしれんな」
斎木が小さく頷く。
廊下を歩いていると、不意に彼が思い出したように言った。
「そういえば」
「何だ」
「被害者の小説、続編がありました」
俺は足を止めた。
「続編?」
「ええ」
斎木はノートパソコンの入った鞄を軽く叩く。
「もう事件と関係ないと思って、言うタイミング逃してたんですけど」
少し間。
「付き合う前の話らしいです」
「どれくらい前だ」
「……一年くらい」
俺は数秒、何も言わなかった。
一年。
その時間の長さだけが、先に頭に入った。
「見せてくれ」
斎木が画面を開く。
白いページに、文章が並んでいる。
タイトルはやけに軽く、事件の影とは結びつかない。
俺たちは何も言わず、画面を見た。
第七章 番外編
[前書き]
これは、彼氏と一緒に書いた小説の番外編です。
本編では入れられなかった、去年のクリスマスイブのことを書きました。
同じ夜のはずなのに、見えていたものが少しずつ違っていて、書いていて面白かったです。
もしよかったら、前の話とあわせて読んでください。
[ユウトサイド]
去年のクリスマスイブ。
僕は、約束の場所へ向かう支度をしていた。
#16時00分 自宅
リビングには、ストーブの低い音だけが流れていた。
テレビはついている。
けれど、何をやっているのかは頭に入ってこない。
台所から母が顔を出した。
「今から出かけるの?」
鍋の湯気の向こうで、少しだけ不思議そうな顔をしている。
「クリスマスイブなのに珍しいわね。ご飯は?」
「あとで適当に」
そう答えると、母は小さく肩をすくめた。
「寒いから、ちゃんとコート着て行きなさいよ」
「うん」
それ以上、会話は続かなかった。
スマートフォンを開く。
未読通知はない。
トーク履歴のいちばん上にある名前は、ここ数か月、動いていなかった。
最後のメッセージは短い。
――またね
それだけ。
別れたわけではない。
けれど、続いているとも言いにくかった。
会う理由を作らないまま、連絡が減った。
減ったことを、どちらも責めなかった。
責めなかったから、そのまま消えた。
終わったのかどうかもはっきりしない関係は、終わりより先に、日常の外へ追いやられることがある。
スマホをしまう。
コートを羽織って、玄関の扉を開けた。
外気が、頬にまっすぐ触れた。
#その日の午前 9時30分 公民館
会議室は、まだ静かだった。
十時から、天文ボランティア団体の定例会がある。
冬は参加者が減る。
それでも僕は、いつも少し早く来ていた。
机を並べ、椅子を整え、資料を順に置く。
頼まれたわけではない。
そうしていると、何となく落ち着くからだ。
窓の外では、風が枝を揺らしていた。
暖房はまだ効ききっていなくて、机の天板が少し冷たい。
資料を意味もなくめくっていると、後ろでドアが開いた。
振り向くと、アヤが立っていた。
ダッフルコートの肩に、黒い髪が落ちている。
「来てたのか」
彼女は、僕の手元の資料を見て言った。
「今日、クリスマスイブだぞ」
「約束は夜ですし」
答えると、アヤは少しだけ眉を上げた。
「公園に行くのか」
僕は視線を外した。
「……まあ」
彼女は、それ以上聞かなかった。
窓の外で風が鳴る。
会議室には、それだけがしばらく残った。
やがてアヤは、小さく肩をすくめた。
「そうか」
短く言って、入口脇の椅子に座る。
資料を広げる音だけが、やけに近く聞こえた。
「ま、別にいいけどな」
軽い言い方だった。
けれど、その軽さの奥にあるものまでは、うまく読めなかった。
#19時00分 海浜公園へ向かう途中
冬の夜は、吐く息まで冷たい。
歩道橋を上る。
白く広がった息が、街灯の下でほどけていく。
海浜公園は、クリスマスイブの夜には人が多い。
けれど、向かっているのはメインの広場ではない。
少し外れた、暗いほうのベンチだ。
来るはずがない。
たぶん、来ない。
それでも行く。
昔、自分が「いいね」と答えた約束だったから。
――クリスマスになったら、海浜公園で星を見ようよ
あのときは、もっと軽い言葉だった。
軽かったはずなのに、時間が経つと、約束だけが静かに重くなることがある。
僕はポケットの中で、指先を組み直した。
来ない相手を待ちに行くのは、格好のいいことじゃない。
ただ、行かなかった場合のほうが、あとで自分の中に残る気がした。
そういう意味では、たぶん誠実なんだと思う。
少なくとも、そのときの僕は、そう思っていた。
#19時15分 海浜公園
ベンチに腰を下ろす。
空を見上げる。
冬の星は、明るいというより冷たい。
遠くの灯りと、海の匂い。
時々、船の汽笛が低く響く。
手が冷えていく。
時間だけが静かに過ぎる。
やっぱり、来ない。
そう思ったとき、背後で枝がかすかに鳴った。
振り返る。
アヤだった。
何も言わずに歩いてきて、僕の隣へ腰を下ろす。
少しだけ距離を空けて。
その座り方が、いかにも彼女らしかった。
「……どうして」
思わず聞く。
アヤは空を見たまま言った。
「別に」
少し間を置く。
「星を見に来ただけだ」
その言葉に、胸の奥の冷たいものが少しだけほどける。
たぶん僕は、誰かに見つけてほしかったのだと思う。
来るかもしれない誰かではなく、来ないと分かっている場所に来てしまった自分を。
「今日は星がきれいだな」
アヤがそう言う。
僕はうなずいた。
「そうですね」
それ以上は話さなかった。
沈黙は続いたけれど、不思議と苦ではなかった。
待つ時間は終わっていて、でも何かが始まったのかどうかは、まだ分からない。
そんな沈黙だった。
しばらくして、アヤが言った。
「……そろそろ帰るか」
僕は、隣を見ずにうなずいた。
### 20時00分 帰り道
街灯の下を、並んで歩く。
遠くにイルミネーションが見える。
それは星空より近く、星空より雑だった。
「……アヤさん」
「ん?」
「来てくれて、ありがとう」
アヤは首を振った。
「礼を言われることじゃない」
「でも」
そこで言葉を切る。
――助かりました
そう言いかけて、飲み込んだ。
あまりにそのままだったからだ。
「……なんだ?」
アヤが聞く。
僕は少し笑う。
「いえ。なんでもないです」
彼女の頬が、街灯に少しだけ赤く見えた。
また黙って歩き出す。
あの夜のアヤの優しさを、
僕はたぶん、一生忘れない。
でも──
誰かを好きになって、
傷つくのも傷つけるのも、
もう十分だと思っていた。
[アヤサイド]
去年のクリスマスイブ。
私は、海浜公園へ向かう準備をしていた。
#18時00分 自宅
部屋の中は静かだった。
エアコンの送風音だけが、かすかに響いている。
ベッドに仰向けに寝転び、天井を見上げた。
……何やってるんだ、私は。
そう思う。
思うのに、体が動かない。
スマホを持ち上げる。
画面は真っ暗だった。
当然だ。
ユウトから連絡なんて来ない。
今日、彼がどこに行くかは知っている。
海浜公園。
クリスマスの夜、星を見に行く。
……元カノと。
いや、正確には違う。
待ち合わせじゃない。
もう連絡も取っていないらしい。
それでも彼は行く。
昔の約束だから。
「……バカじゃないの」
小さく呟く。
そんなの、来るわけないだろ。
それでも行く。
それが、あいつだ。
私はゆっくり体を起こした。
椅子の背にかけてあったコートを手に取る。
袖を通しかけて、ふと止まる。
……待て。
そもそも。
──何時に行けばいいんだ?
私は天井を見上げた。
「……いや、落ち着け」
両手で顔を覆う。
これは推理だ。
推理なら、答えは出る。
#18時30分 推理開始
海浜公園は広い。
でも、星を見る場所は限られる。
まず時間。
クリスマスイブの夜。
普通なら、食事をしてから公園に来る。
レストランのピークはだいたい十八時から十九時。
そこから移動すると──
「十九時半くらいか」
口に出してみる。
たぶん、それくらいだ。
ユウトの性格なら、少し早めに来る。
十九時。
それくらいのはずだ。
「……よし」
私は立ち上がった。
#18時50分 海浜公園
海浜公園の入口は、イルミネーションで賑わっていた。
カップルばかりだ。
私は小さくため息をつく。
「……最悪だな」
こんな場所に一人で来る女がいるだろうか。
いや、いる。
ここに。
私は腕を組んだ。
問題は場所だ。
海浜公園には、星を見る場所が二つある。
南の広場。
それと、東の展望台。
南は人が多い。
イルミネーションの中心だ。
星を見るには向いていない。
「……じゃあ、東か」
ユウトは静かな場所を選ぶ。
そういう男だ。
私は歩き出した。
#19時05分 社
公園の奥へ向かう途中、小さな社がある。
ほとんど誰も気づかない、小さな祠。
私は立ち止まった。
賽銭箱に百円玉を入れる。
手を合わせる。
……何を祈る?
自分でも分からない。
少し考えて、結局こう願った。
『バカな男が、これ以上バカなことをしませんように』
目を開ける。
「……よし」
深呼吸して、歩き出した。
#19時15分 東エリア
林の中を抜けると、港の灯りが見えた。
展望スペースのベンチ。
そこに──
いた。
ユウトだ。
ベンチに座り、空を見上げている。
「……ほんとバカ」
思わず呟く。
来るわけないだろ。
元カノなんて。
それでも、ここにいる。
私は少し迷った。
帰るか。
声をかけるか。
……いや。
そんな選択肢、最初からない。
私はわざと枝を踏んだ。
パキッ、と音が鳴る。
ユウトが振り向いた。
その顔を見た瞬間、胸の奥が少しだけ痛くなる。
私は何も言わず、隣に座った。
いつも通り、少し距離を空けて。
「……どうして」
ユウトが聞く。
私は空を見上げた。
「別に」
少し間を置く。
「星を見に来ただけだ」
夜空には、冬の星が冷たく瞬いていた。
「……今日は星が綺麗だな」
そう言うと、ユウトが少し笑った。
沈黙が落ちる。
でも、不思議と気まずくない。
三十分後。
──長い。
「……そろそろ帰るか」
私は言った。
ユウトは小さくうなずいた。
#20時00分 帰り道
街灯の光の下を、並んで歩く。
沈黙は続いていた。
でも、悪くない沈黙だった。
「……アヤさん」
「ん?」
「来てくれて、ありがとう」
私は首を振った。
「礼を言われることじゃない」
「でも」
ユウトが言いかける。
「……なんだ?」
「いえ」
ユウトは小さく笑った。
「なんでもないです」
私はそれ以上、何も聞かなかった。
冬の夜空は静かだった。
吐く息が白く、静かに消えていく。
隣を歩く彼の歩幅に、自然と自分の歩幅も重なっていく。
この先に何があるのかは、わからない。
けれど──
期待していいんだよね?
そんなことを考えながら、私は歩き続けていた。
***
署のオフィスは静かだった。
蛍光灯の白い光の下で、キーボードの音だけがぽつぽつ響いている。
誰かが紙コップを潰す音が、遠くで一度だけ鳴った。
「……終わりですね」
斎木が言う。
俺は机の上のノートパソコンを見たまま、何も言わなかった。
クリスマスイブ。
海浜公園。
ベンチ。
さっき読んだ小説の場面が、そのまま頭に残っている。
「特に変なところはないですね」
斎木が続ける。
「中山の小説とも、大きく食い違ってないですし」
俺は小さく頷いた。
「そうだな」
「付き合う前の話も、続編も」
斎木は肩をすくめる。
「ちゃんとしてます」
その言い方が、妙に引っかかった。
ちゃんとしている。
整っている。
読みやすい。
筋が通っている。
そういう意味では、その通りだった。
だが、整いすぎている気もした。
俺は画面を見たまま言った。
「……なあ、斎木」
「はい」
「誠実な男って、恋愛をどう終わらせると思う」
斎木が少し考える。
「え?」
「数年付き合った相手だ」
俺は言った。
「別れるなら、どうする」
「……普通は、話しますよね」
「だろうな」
少し間が空く。
斎木は首をかしげた。
「でも、それがどうかしました?」
俺はすぐには答えなかった。
画面には、海浜公園の場面がまだ残っている。
“たまたま”見つけられた男。
“たまたま”迎えに来た女。
そういうふうに読めるように、きれいに並んでいる。
「中山の元カノに、話は聞けないだろうか」
斎木が顔を上げた。
「元カノ、ですか?」
「ああ」
「……なんでです?」
率直な声だった。
責めるわけでもなく、ただ本当に繋がりが見えていない顔をしている。
「いや」
俺は視線を画面に戻した。
「少し気になるだけだ」
「この小説のことですか」
「そうだ」
斎木は少し黙った。
「正直、俺にはまだよく分からないです」
そう言って、ノートを閉じる。
「番外編って感じでしたよね。二人で同じ思い出を書いたっていう」
「……そうかもな」
俺はそう答えたが、腑には落ちなかった。
二人で書いた。
同じ出来事を書いた。
そのわりに、男の立ち位置だけが妙に都合よく見える。
元カノとの約束の場所に行く。
傷ついた男として待つ。
そこへ、川原が自分から来る。
綺麗だ。
綺麗すぎる。
それがただの偶然なのかどうか。
「中山から、連絡先を聞けるか」
俺が言うと、斎木はまだ少し納得していない顔のまま頷いた。
「……まあ、聞くだけなら」
「頼む」
「はい」
それ以上、斎木は何も言わなかった。
俺はもう一度、ノートパソコンの画面を見た。
クリスマスイブ。
海浜公園。
ベンチ。
この小説の中に、何か決定的な嘘はないのかもしれない。
ただ、何かがうまく並びすぎている。
その“並び方”が気になった。
画面を閉じる。
「行くぞ」
「はい」
斎木は、まだ少し首をかしげたまま立ち上がった。
俺たちはそのまま廊下へ出た。
第八章 元カノ
駅前の、小さなカフェだった。
昼を少し過ぎた時間で、店内は半分ほど埋まっている。
ランチの皿を下げる音と、ミルクを泡立てる蒸気音が、ときどき重なった。窓際の席には、ベビーカーが一台置かれている。
その隣に、女性が座っていた。
髪は肩の少し下で切りそろえられ、淡い色のコートの襟元には、小さな毛玉がひとつだけ見えた。
テーブルには、飲みかけのカフェラテ。表面の泡は少し沈んで、カップの縁に薄く跡を残している。
ベビーカーの中では、小さな子どもが静かに眠っていた。
毛布の端から出た手は、まだ何も掴まない形のままだった。
「すみません。お待たせしました」
俺が言うと、女性は軽く首を振った。
「いえ。ちょうど寝たところなので」
声は穏やかだった。
緊張はしている。だが、怯えてはいない。
何か大きな秘密を抱えている人間の顔ではなく、昔の知人について突然警察に呼ばれた人間の顔だった。
「岡田佑美さんですね」
斎木が名刺を差し出す。
「はい」
彼女はそれを一度見て、小さく頷いた。
「警察の方……ですよね」
「中山悠太さんの件で」
斎木が言う。
岡田は、ほんの少しだけ視線を落とした。
カフェラテの泡の跡を見ているようでもあり、もっと遠いものを見ているようでもあった。
「……事件なんですか?」
それ以上は聞かなかった。
聞いたところで、ここで答えが返ってくる相手ではないと分かっている。
そういう顔だった。
俺たちは席に着いた。
隣のテーブルでは、若い男がノートパソコンを開いたまま、冷めたコーヒーに手を伸ばしている。
奥の席では、母親らしい二人組が小声で保育園の話をしていた。
そのどれもが、この場の会話と無関係な日常の音だった。
「今日は、中山さんとの交際について少し伺えればと思っています」
斎木がメモ帳を開きながら言う。
岡田はベビーカーの方を一度だけ見てから、こちらへ向き直った。
「もう、だいぶ前ですけど」
「いつ頃まで付き合っていましたか」
「四年くらい前ですね」
あっさりした答え方だった。
記憶を隠すでもなく、引きずるでもない。時間がちゃんと過ぎた人間の言い方だ。
「別れた理由は」
岡田は、そこで少しだけ困ったように笑った。
「理由……」
視線が窓の外へ流れる。
駅前の横断歩道を、買い物袋を提げた老人がゆっくり渡っていた。
「特にないです」
斎木が手を止める。
「特にない?」
「はい」
彼女は肩をすくめた。
「社会人になって、忙しくなって」
そこで、カップを指先で少し回す。
「会う回数も減って」
「連絡も少しずつ減って」
一度、言葉が途切れた。
ベビーカーの中で、子どもが小さく鼻を鳴らす。岡田は反射的にそちらを見て、それから戻ってきた。
「気づいたら、終わってました」
その言い方は、投げやりではなかった。
かといって、未練があるわけでもない。
説明のつく理由がないまま、関係だけが少しずつ日常の外へ押し出されていった。
そういう種類の終わりだった。
「どちらから別れを切り出したわけでもない?」
「ないです」
即答だった。
「ケンカとか」
「それもないです」
岡田は、また少し笑った。
「だから逆に、説明しづらいんです」
その笑い方が、かえって自然だった。
激しく壊れた関係ではなく、どちらも手を離した覚えがないまま、間に何もなくなった関係。
そういう終わり方は、実際にある。
「中山さんは、どんな人でしたか」
俺が聞く。
岡田はすぐには答えなかった。
ひどく慎重に記憶を探る、というより、古い引き出しを開けて、まだ使える言葉を選んでいるようだった。
「優しい人ですよ」
少し考えてから、彼女は言った。
「怒らないし、穏やかだし。話してて疲れないし」
それは、ここまでの証言とほとんど同じだった。
「ただ」
彼女は少しだけ言葉を探した。
「自分から何かを決める人ではなかったですね」
俺は黙って聞いた。
「アプローチしたのも、どちらかというと私からでしたし」
「告白はしてくれましたけど……」
そこで一瞬、口元にだけ曖昧な笑みが浮かぶ。
「流れの中で、って感じでした」
“好きだから始まった”というより、
“始まる位置まで来ていたから始まった”。
そんな言い方だった。
「それは、不満でしたか」
斎木が聞くと、岡田は少し驚いたように目を上げた。
「ああ……いえ。不満というほどでは」
少し間を置く。
「でも、たまに、自分だけが決めてるみたいな気はしました」
「自分だけが」
「はい」
カップの縁に、彼女の指先が軽く触れる。
「今日は会うのか、会わないのか。旅行に行くのか、行かないのか。将来の話をするのか、しないのか」
小さく息を吐く。
「中山くんは、どちらでもいい、みたいな顔をするんです。優しいんですけどね。怒らないし、否定もしない。でも、そういうのって……」
そこで、言葉が少し濁った。
「疲れますよね」
それは中山を責める声ではなかった。
ただ、昔は言えなかったことを、今なら少しだけ言えるという声だった。
「川原綾乃さんの話は聞いていましたか」
俺が聞くと、岡田は首をかしげた。
「天文ボランティアの方です」
「ああ」
小さく納得したような声が出る。
「聞いていました」
「どういう形で」
彼女はカップを持ち上げた。
飲むのかと思ったが、口はつけず、そのまままた置いた。
「面白い人がいるって」
「よく話してました」
俺は黙ったまま、その先を待った。
「理屈っぽくて、情熱的で、変わった人だって」
「それに」
少しだけ目を細める。
「話してるとき、ちょっと楽しそうでした」
その言葉だけが、静かに残った。
「中山さんが?」
「はい」
岡田は頷いた。
「その頃にはもう、私たち、ほとんど会ってなかったので」
少し間を置く。
「だから、ああ、この人、もう別の人を見てるんだなって」
それは、責める言い方ではなかった。
ただ、あったことをそのまま置く声だった。
「それで終わった感じです」
ベビーカーの中で、子どもが小さく動いた。
岡田はそっと身を乗り出して、毛布を直す。袖口から見えた手首には、細い輪ゴムがひとつ巻かれていた。たぶん、髪を結ぶためのものだろう。
その仕草が終わるまで、俺たちは何も言わなかった。
「……でも」
彼女が顔を上げる。
「中山さんは、悪い人じゃないと思います」
俺は返事をしなかった。
「ただ」
岡田は少し視線を泳がせた。
「何ていうんでしょうね……」
小さく息をつく。
「掴みどころがない、って感じでした」
店の奥でカップが重なる音がした。
店員が「失礼します」と言って、隣のテーブルの皿を下げていく。トレーの上でフォークが小さく鳴った。
そのとき、俺のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
鑑識からだった。
眉をひそめたのを見て、斎木がこちらを見る。
「どうしました」
俺は画面を斎木へ向けた。
川原のスマートウォッチから
死亡推定時刻が判明
22時04分
斎木の目が、一瞬だけ止まる。
岡田も何かを察したのか、こちらを見た。
だが、何も聞かなかった。
店の窓から、冬の光が白く差し込んでいた。
*
俺たちは岡田に礼を言い、店を出た。
外へ出ると、風が頬に当たる。
昼の明るさはまだ残っているのに、空気だけが先に冷えている。
駅前の通りを歩きながら、斎木が手帳を閉じた。
「……普通の恋愛でしたね」
俺は何も言わなかった。
「自然消滅」
斎木が続ける。
「よくある話です」
少し考えてから、言葉を足す。
「遠藤さんが気にしてるところ、正直まだよく分からないです」
「そうか」
それだけ答える。
歩道の向こうで、信号が変わる。
人の流れがゆっくり動き出す。どこかの店から、焼いたパンの匂いが薄く流れてきた。
「でも、タイミングですよね」
斎木が言った。
「何が」
「恋愛です」
斎木は肩をすくめる。
「さっきの岡田さん、今は普通に家庭持ってましたけど」
「中山と出会うタイミングが違えば、あの人と結婚してたかもしれない」
俺は、そこで少し足を緩めた。
タイミング。
頭の中で、その言葉だけが残る。
時間。
そして、さっき届いた数字。
──22時04分。
「……斎木」
「はい?」
「中山は、いつから川原を好きになったんだ」
斎木は少し考えた。
「小説の中だと……」
手帳をめくる。
「体験教室のときじゃないですか」
「子ども向けの天文教室」
「川原さんの説明がすごかったって」
俺は歩き出した。
「それより前じゃないのか」
「え?」
「岡田は言ってた」
俺は前を見たまま言う。
「川原の話を、楽しそうにしてたって」
斎木は数秒、黙った。
「……あ」
だが、その声は小さい。
何かを掴んだというより、言われて初めて段差に気づいた人間の声だった。
俺は続ける。
「その時点で、まだ岡田とは完全には終わってない」
「はい」
「なのに、川原の話をしてる」
信号が変わり、人の流れが横断歩道へ流れ込む。
俺たちはその流れの端に乗った。
「小説の順番と、違うかもしれん」
斎木はまだ首をかしげていた。
「でも……小説って、多少並べ替えたりはするんじゃないですか」
「する」
「じゃあ、そこまで変ですか?」
俺はすぐには答えなかった。
駅前の大型ビジョンから、明るい広告の音楽が流れている。
笑顔のタレントが、何か新しいキャンペーンを告知していた。
音だけが妙に軽い。
「署に戻るぞ」
俺が言うと、斎木が顔を上げた。
「はい?」
「小説をもう一度読む」
「今度は感情じゃない」
少し間を置く。
「時間で見る」
斎木はまだ納得していない顔だったが、頷いた。
「……分かりました」
それ以上は何も言わなかった。
駅へ向かう人の流れとは逆に、俺たちは歩き出す。
さっきの岡田の言葉が、まだ頭の奥に残っている。
──ああ、この人、もう別の人の方を見てるんだな
それは自然な別れの言葉にも聞こえる。
だが、もしそうなら、中山の小説の“始まり方”は少しだけ都合がいい。
静かに惹かれた男。
傷ついて待った男。
迎えに来られた男。
その違和感が、まだ言葉にならないまま、胸の中に残っていた。
第九章 時間
署に戻ったとき、外はもう暗くなっていた。
玄関の自動ドアが閉まる音のあと、廊下の奥からコピー機の駆動音が少し遅れて響いてくる。蛍光灯の白い光はどこまでも均一で、床のワックスだけがぼんやりとそれを反射していた。昼間までのざわつきは薄れ、代わりに、残業組だけが持つ独特の静けさが署の中に残っている。
静か、といっても無音ではない。
誰かが紙をめくる音。
遠くで鳴る内線。
給湯室のあたりから聞こえる、湯沸かしポットの小さな沸騰音。
そういう細かい音だけが、かえって夜の庁舎の輪郭をはっきりさせていた。
捜査室の片隅で、斎木はすでにノートパソコンを開いていた。
机の上には、
中山悠太の投稿小説
川原綾乃の投稿小説
その続編
岡田佑美の聴取メモ
スマートウォッチの時刻データ
が、ばらばらにではなく、妙に几帳面に並べられている。
「早いな」
俺がジャケットを背もたれに掛けると、斎木は画面から目を離さずに答えた。
「忘れないうちに並べとこうと思って」
「感想は?」
「……まだです」
そこでようやく振り向く。
「さっきまでは、“普通の恋愛”にしか見えなかったんですけど」
「けど?」
「元カノの話が入ったら、急に順番が気になってきました」
俺は小さく頷いた。
その感覚で正しい。
たぶん、今ここで読むべきなのは感情じゃない。
好きだの、優しいだの、可愛いだの。そういう言葉は、小説の中でいくらでも形を変える。しかも、この二人はどちらも書く側の人間だった。感情は、自分の都合のいい温度に調整できる。低くもできるし、熱くもできる。あとから火を足すことも、水で薄めることもできる。
だが、時間だけは違う。
誰が、いつ、何を知っていたか。
誰が、いつ、どこにいたか。
何を知る前に、何を選んだのか。
そこだけは、言葉の温度より少し信用できる。
俺は椅子を引いて腰を下ろした。
「斎木」
「はい」
「今から感情は捨てろ」
彼が少しだけ目を瞬かせる。
「感情、ですか」
「恋愛小説として読むな。報告書だと思って読め」
机の上の紙束を指先で揃える。
「誰が、いつ、何を知っていたか。それだけを拾う」
斎木は、数秒だけ俺の顔を見て、それから静かに頷いた。
「……了解です」
*
最初にホワイトボードを持ってきたのは斎木だった。
会議室の隅から、小型のやつを引きずるように持ってくる。キャスターが少し引っかかり、床に低い音を立てた。夜の庁舎では、そんな音でも妙に大きく聞こえる。
「そこまでやるか」
「文字にしないと、たぶん混ざるんで」
ペンを差し込みながら言う。
「二人とも小説にしてるせいで」
たしかに、その通りだった。
書かれたものを読むというのは、読んだ瞬間に“まとまり”へ引っ張られることでもある。起承転結、因果、感情の波。現実ではもっと雑に絡んでいたはずの時間が、小説の形にされた瞬間、読者の頭の中で自然に“意味”へ整理される。
人は、順番があるものを信じたくなる。
だから、その整理を、いったん壊さなければならない。
斎木がホワイトボードの左上に、日付代わりの大きな円を書いた。
「事件当時」
その下に、
川原 35
中山 28
と書く。
「交際三年だから……」
「開始時は、川原三十二前後。中山二十五前後だな」
俺が言うと、斎木がそのまま書き足す。
「で、その一年前のクリスマスが、付き合う前の決定的イベント」
「川原三十一。中山二十四」
白い板の上に、数字だけが並んでいく。
斎木が少し離れて眺めた。
「……こうして見ると、やっぱり年齢差ありますね」
「七つ差だ」
「数字だけなら、大したことない気もしますけど」
「二十四と三十一なら、話は別だ」
斎木が振り向く。
「そこ、そんなに重要ですか」
俺はすぐには答えず、綾乃の小説の一節を開いた。
『選ぶって何か』
『私には伝わってこない』
『私は、選ばれない側でいるつもりだったのに』
そこにある言葉を、年齢ごと切り離して読むことはできない。
「二十四の一年と、三十一の一年は違う」
斎木は黙った。
「しかも、迎えに行った側の一年だ」
その一言だけで、斎木の目の色が少し変わった。
彼はそれ以上言わず、今度はホワイトボードの真ん中あたりに新しく見出しを書いた。
──元交際相手
「岡田さんとは四年前くらいまで、でしたよね」
「ああ。喧嘩も別れ話もなく、自然消滅」
「でもその頃には、川原さんの話をしてる」
「楽しそうに、な」
斎木は、元交際相手の欄の横に矢印を引き、
岡田と継続中
↓
川原の話をする
と書き込んだ。
書き終えたあと、斎木はペン先を止めたまま、少し考え込んだ。
「……これ、小説の順番と違いますね」
「そうだな」
「中山の小説だと、川原に本格的に惹かれていくのは、もっと後に見えます」
俺は頷いた。
そこだった。
「自然に見えるように、並べてるんだ」
斎木の手が止まる。
「自然……」
「気づいたら惹かれていた男のほうが、誠実に見える」
机の上の中山小説を引き寄せて、何ページかめくる。
最初のほうは、あくまで団体活動の描写として書かれている。資料を閉じる音、早く来た会議室、代表として動く川原、少し距離のある観察。文体は柔らかく、控えめで、いかにも“静かに惹かれていく男”のものだ。
だが、そこにある視線は、冷静に抜き出すと少し違う。
「……ほら」
俺は中山小説の冒頭寄りの箇所を指した。
「定例会のたびに早く来てる。川原が来るより先に」
「ええ」
「しかも、来た瞬間の描写が細かい」
肩の髪。机の資料。声の強さ。
団体全体のことより、川原の入室にピントが合っている。
斎木も同じ箇所を追う。
「でも、これは……気になる相手なら、そういう描写になるんじゃないですか」
「なる。問題は“いつから”かだ」
俺は言った。
「川原の小説では、中山は始めからずっと彼女の話を聞いていた」
「じゃあ」
「見てたんだよ。もっと前から」
斎木の視線が戻る。
「最初から?」
「告白の場面で中山が言っていたろ。初めから見ていたって」
「……なるほど」
ホワイトボードに、新しく一本線を引く。
出会い初期
↓
すでに川原を対象として見ている
斎木が、それをじっと見つめた。
「どうした」
「いや。なんか、急に小説の手触りが変わりました」
斎木が小さく息をつく。
「前は、静かで不器用な男が、情熱的な年上女性に少しずつ惹かれていく話だと思ってたんです。でも今は……」
「今は?」
「最初から川原さんを見てる男が、“自然に惹かれた”みたいな書き方をしてるように見える」
俺は黙って頷いた。
*
次に俺たちが止まったのは、クリスマスイブの場面だった。
ホワイトボードの右半分に、斎木が大きく書く。
クリスマスイブ
その下に、
中山 元交際相手との約束の場所へ行く
川原 海浜公園へ迎えに行く
と箇条書きが並ぶ。
「ん? なんか変ですね」
斎木が言った。
「何がだ」
「川原さん、どうやってその情報を知ったんですか」
「そこだ」
俺は椅子から少し身を乗り出した。
川原の小説では、彼女は“推理”して海浜公園の東エリアへ向かうように書かれている。
だが実際には、推理で埋まるのは場所の枝分かれまでだ。
そもそも、
その日行くこと
元交際相手との昔の約束であること
時間帯
公園
しかも、相手は来ないだろうが自分は行くこと
こうした前提を、川原は知っていなければならない。
偶然ではない。
察しただけでもない。
「中山から聞いてる」
俺が言うと、斎木は静かに頷いた。
「ですよね」
「しかも、かなり具体的にな」
俺は中山小説の該当場面に目を落とす。
『今日、クリスマスイブだぞ』
『約束は夜ですし』
『公園に行くのか?』
『……まあ』
川原が約束のことを話しても、中山は驚かない。
「もし本当に、川原さんが気を使って調べたなら」
斎木が言葉を継ぐ。
「中山はもっと驚くはずです」
「ああ」
「少なくとも、なんで知ってるんですか、くらいは言いそうですよね」
「そうだな」
だが、そうはならない。
ホワイトボードの前に立って、俺は一本、太い線を引いた。
中山は川原に“来られる条件”を与えている
「……呼んだんですかね」
斎木がそう言ったとき、俺は少し考えた。
「いや」
「違う?」
「海浜公園のシーン、中山は川原が来た時に“どうして”と聞いている。つまり……」
ペン先でその下にもう一行書く。
『呼んではいない。だが、来られるようにしている。』
斎木が、その文字列を黙って読む。
「来てくれとも言わない」
俺は続けた。
「頼みもしない。だが、来なければ川原は“好きな男を見捨てた女”になる」
「……行けば?」
「元カノとの未練の場所へ、自分から来た女になる」
白い板の上の文字が、静かに固まっていく。
会議室の外で、誰かが咳払いをした。
それから、足音が遠ざかる。
斎木が口を開くまで、数秒かかった。
「……それ、かなり嫌ですね」
「ロマンチックじゃないだろ」
「全然」
斎木は苦笑もせずに言った。
「今まであの場面、ちょっと綺麗に読んでました」
「そう読めるように、二人とも文体を整えてる」
川原のラノベ文体は、感情を前面に出す。
中山の文体は、静かな観察に変える。
その結果、あの夜の残酷な構図は、“すれ違いの記憶”として丸められる。
だが、順番だけを抜けば見える。
あの夜、主体を取っていないのは中山だ。
だが、傷つく役を引き受けているのは川原の方だ。
俺は板書にさらに書き足した。
『クリスマスイブ=川原が主体を負わされた最初の決定的場面』
斎木はそれを見て、額を軽く掻いた。
「なんか、恋愛小説っていうより、契約書の罠みたいですね」
「似たようなもんだ」
「いや、それはさすがに言いすぎじゃ」
「言いすぎかもな」
俺はペンを置いた。
「だが、相手に責任を取らせる構造は同じだ」
*
会議室の外で、誰かが紙コップを潰すような音がした。
それが遠のいてから、斎木がぽつりと言った。
「でも、それでも結局、付き合ったんですよね」
「ああ」
「川原さんは、そこまでして迎えに行って、そのあと一年、待った」
「待っただけじゃない」
俺は川原の小説を開いた。
『選ぶって何か』
『私には伝わってこない』
『忘れてくれ』
企画を作るのも、空気を読むのも、気持ちを探るのも、ほとんど川原の側だ。
「動かしてるのは川原だ」
斎木がメモを見ながら言う。
「観望会も、会議も、ショッピングモールの告白も」
「中山は受け取ってる」
「でも、自分からは決めてない」
「そうだ」
板に年齢を書き足す。
31 迎えに行く
32 交際開始
斎木が少し困ったような顔をした。
「遠藤さん」
「何だ」
「これ、もし同い年の大学生同士だったら、まだ“煮え切らない恋愛”で済んだ気がするんですけど」
「だろうな」
「でも三十一で迎えに行って、そこから一年……ってなると、急に見え方が変わりますね」
俺は頷いた。
「変わる」
「川原さんの“選ばれない側でいるつもりだった”って台詞も、可愛い拗ね方じゃなくなる」
「そうだ」
会議室の白い壁に、ホワイトボードの光が薄く反射していた。
「もうこれ以上、自分ばかりが関係を前に進める側ではいたくない」
俺は、その言葉をあえて口にした。
「川原の言ってることは、たぶんそういう意味だ」
斎木は、しばらく黙っていた。
蛍光灯がわずかに唸っている。
外の窓は黒く、そこに会議室の白い板だけが映っていた。
「……じゃあ、中山は」
「何だ」
「川原さんを好きではあったんですよね」
そこは、即答できた。
「ああ。好きだったと思う」
「でも、選ばなかった」
「選び切らなかった、だな」
好きでいることと、人生に入れることは別だ。
その線を、中山はずっと曖昧にしている。
そして、その曖昧さを“優しさ”や“慎重さ”として読ませることもできる。
実際、読めてしまう。
だから厄介だった。
そこで初めて、俺の中で別の問いが形になり始めた。
川原に主体を負わせる。
川原に迎えに来させる。
川原に告白させる。
川原に“関係を動かす側”を引き受けさせる。
では、中山はその間、自分の将来をどう考えていたのか。
ここまで“決めない”男が、ただ何も考えていなかったとは思えなかった。
「斎木」
「はい」
「中山は川原を恋人としては欲しかった」
「ええ」
「だが、人生の表に出す相手として見ていたかどうかは別だ」
斎木が視線を上げる。
「……それ、どういう意味です」
俺は少し間を置いた。
自分でも、まだ完全には言語化しきれていなかった。
「たとえばだ」
「はい」
「好きな相手と、戸籍に入る相手が同じとは限らん」
斎木は何も言わなかった。
その沈黙のぶんだけ、言葉がこちらへ返ってくる。
「子どもが欲しいとか、結婚したいとか、そういう話を、あいつが誰かにしていたとしたら」
「……川原さんじゃない誰かに?」
「あるいは、川原を入れずに、な」
会議室の空気が少しだけ重くなる。
そこでようやく、斎木の表情が変わった。
「それ……」
「何だ」
「嫌ですね」
「だろうな」
「二人は三年付き合って、結婚の話も出てなかったんですよね」
「ああ」
「川原さんからしたら、“私はいつまであなたの人生の外側に置かれたままなの”ってなる」
俺は斎木を見た。
「そうだな」
「もし中山が、川原さんとは別に“普通の人生”を探してたとしたら……」
「バレたら、かなりまずい」
「まずい、どころじゃないですよ」
斎木の指が、無意識にハンカチの端をいじる。
「……でも」
斎木の言葉が詰まる。
「そうだ。そうなると、川原が包丁を持ち出してもおかしくない」
「しかし、現場は乱れていない」
斎木が続ける。
「……動機は何なんでしょう?」
「情報が足りないのかもしれん」
斎木がノートを開き直す。
「じゃあ、どこを当たります」
「中山の職場だな」
「でも、前にも行きましたよね」
「ああ。だが、聞き方が違う」
前回聞いたのは、
怒るか
私生活を見せるか
最近様子が変だったか
だった。
今度探すべきは、別のものだ。
「同じ課の人間には、私生活を出してない」
「はい」
「なら、別の場所に漏れてるかもしれん」
斎木が少し考える。
「男の同期とかですか」
「そうだな」
結婚、子ども、婚活。
そういう露骨な未来の話は、むしろ同じ課の女たちより、雑談で交わした男の方に残ることがある。
しかも中山は、“どう見られるか”を管理する人間だ。
同じ課の噂好きな人間には出さず、別課の安全圏にだけ本音を漏らすことは十分あり得る。
「遠藤さん」
「何だ」
「もし、ですけど」
斎木が言いよどむ。
「もし中山が本当に、川原さんと付き合いながら別の未来を探してたとしたら」
「ああ」
「“ちゃんとしていた”っていうのは」
俺は答えた。
「誠実って意味じゃない」
「……印象の管理、ですか」
「そうかもな」
ホワイトボードの一番下に、最後の一行を書く。
『誠実だったのではない。誠実に見える順番を守っていた』
その文字を見て、斎木は長く息を吐いた。
「もう、だいぶ嫌な男ですね」
「まだ断定はするな」
「でも方向は見えました」
「そうだな」
会議室の時計を見る。
もう二十三時近かった。
庁舎の窓は黒く、外の気配はほとんど残っていない。どこかの部屋で椅子を引く音がして、それきり静かになった。
俺は、机の上の川原の小説をもう一度開いた。
『期待していいんだよね?』
その一行の軽さが、今はまったく軽く見えなかった。
期待というより、確認。
確認というより、賭けだ。
相手が何も言わないから、自分の側で意味を組み立てるしかない。
それを恋愛と呼ぶには、少しだけ片方の負担が大きすぎる。
「明日、区役所ですね」
斎木が言う。
「ああ」
「まずは主任から交友関係を聞く」
「はい」
俺は立ち上がって、ホワイトボードのマーカーを戻した。
キャップをはめる音が、やけに乾いて聞こえる。
会議室の照明を落とすと、白い板の文字だけが最後にぼんやり浮いた。
31 迎えに行く
32 交際開始
35 事件
その数字の並びが、妙に冷たく見えた。
感情を削って最後に残ったものが、これだった。
三つの数字。
そして、そのあいだに置き去りにされた三年分の時間。
俺はドアを開けた。
廊下の明かりが、会議室の床に細く差し込んだ。
第十章 子育て支援課
翌日の区役所は、前回来たときと同じように、明るく、乾いていた。
正午前の光が高い窓から差し込み、待合の床に白い四角をつくっている。自動ドアが開くたびに外の冷気が薄く流れ込み、番号札の機械音が一定の間隔で鳴った。窓口には高齢の男と、乳児を抱いた母親と、昼休みに駆け込んだらしいスーツ姿の男が並んでいる。
誰もが、それぞれに差し迫った事情を抱えているはずだった。
保険証。転出届。児童手当。住民票。
そういう言葉の中に、人ひとりぶんの生活が押し込められている。
だが、役所の空気は、それらをひとつの平坦な日常に均してしまう。
焦りも苛立ちも、紙と番号で処理される。
俺と斎木は、区民課の奥にある打ち合わせスペースへ通された。
前回と同じ主任だった。机の上の書類をいったん揃えてから、こちらを見る。その手つきだけが、妙にきっちりしている。
「また中山の件ですか」
「ええ」
俺は答える。
「少し、前とは別のことを聞きたくて」
主任は短く息を吐いた。
「……別のこと、ですか」
言い方は柔らかい。
だが、前回よりわずかに身構えているのが分かった。
何も知らない人間の顔ではない。
少なくとも、こちらが中山の“感じのよさ”以上のものを探し始めていることには、もう気づいている。
「前回は、職場での様子や最近の変化を伺いました」
斎木がメモ帳を開きながら言う。
「今回は、もう少し交友関係のことを」
「交友関係ねえ」
主任は椅子に座り直した。背もたれには体を預けない。
「中山、うちの課ではそんなにベタベタ付き合うタイプじゃないんですよ。昼も一人のときがあるし、定時で上がるときも“お疲れさまです”だけで帰る」
「それでも、誰かとよく話す相手は?」
俺が聞くと、主任は視線を少し上にやった。
「……別の課なら、いましたね」
斎木が手を止める。
「別の課?」
「子育て支援課の真鍋です」
即答ではなかった。
考えた末に、いちばん差し障りのない名前を選んだ、という間だった。
「年齢も近いし、研修が一緒だったんじゃないですかね。たまに食堂で飯食ってるのは見ました。帰り際に廊下で話してることもあったかな」
「どういう話を?」
「そこまでは」
主任は首を振る。
「ただ、同じ課の人間相手よりは、少し気が抜けてる感じでしたね」
その言い方で十分だった。
同じ課では出さない顔を、別課の男には出していたということだ。
「区民課では、そういう私的な話はしなかった?」
俺が重ねると、主任は小さく苦笑した。
「しませんよ。出すわけがない」
「どうして、そう思います」
主任は一瞬だけ、窓口の方へ目をやった。
カウンターの向こうでは、若い女性職員が来庁者に身を乗り出して説明している。声は届かない。だが、口の動きと身振りだけで、話の長さは分かった。説明が終わると、彼女は隣の席の職員に何か囁いて、小さく笑う。
主任は、その笑いを見ないふりで見ていた。
「前にも白井が言いましたけど」
声が少し落ちる。
「ここ、そういう話が広がるのが早いんです」
斎木が頷く。
「前に、不倫で揉めた件がありましたね」
「ええ。別の係の男でしたけど、相手は外の人で。……昼にはほぼ全員知ってました。誰がどこで聞いたのか分からないまま、気づいたらそういう空気になる」
主任は机の上のボールペンを、親指で一度だけ転がした。
ペン先が書類の端に当たり、小さく音を立てる。
「中山みたいなタイプは、ああいうのをいちばん嫌がるでしょうね。悪口を言うわけじゃないけど、“どう見られるか”には敏感ですから」
その言葉が、昨日ホワイトボードのいちばん下に書いた一文と、ぴたり重なった。
誠実だったのではない。
誠実に見える順番を守っていた。
「真鍋さん、今いらっしゃいますか」
俺が聞くと、主任はすぐに立ち上がった。
「確認してきます」
そう言って、執務スペースの奥へ消える。
残された打ち合わせスペースに、番号札の電子音だけが聞こえた。
斎木が小さく言う。
「やっぱり、同じ課では出してなかったですね」
「ああ」
「……ここまで来ると、“隠してた”というより、“出す場所を選んでた”って感じですね」
俺は窓口の方を見た。
役所の空気は、相変わらず均一だ。
だが、その均一さは、何もないことの証明じゃない。
むしろ、出す場所と出さない場所を分ける人間には、都合がいい。
*
真鍋は、子育て支援課の職員だった。
三十代前半。濃紺のカーディガンの袖を肘までまくり、首から職員証を下げている。背はそれほど高くないが、忙しく動き慣れた人間の体つきだった。こちらへ案内されてきたときには少しだけ警戒した顔をしていたが、主任が「中山のことで、少し」と言った瞬間、その表情がわずかに変わった。
「……中山ですか」
「お忙しいところすみません」
斎木が名刺を差し出す。
真鍋はそれを受け取り、一度だけ目を通した。
「いや、別に。急ぎの相談じゃないんで」
彼は椅子に腰掛けた。
だが、膝の上に置いた手が少し落ち着かない。指先がズボンの縫い目を何度か撫でている。
大事なことを知っている人間の緊張というより、何をどこまで言うべきか決めかねている人間の落ち着かなさだった。
「中山さんとは、よく話していましたか」
俺が聞くと、真鍋はすぐには頷かなかった。
「よく、ってほどじゃないです」
少し考えてから続ける。
「でも、庁舎食堂で一緒になることはありました。研修が一緒だったんで、向こうも話しかけやすかったのかもしれません」
「同じ課の人間には、あまり自分のことを話さないようだ、と」
斎木が言う。
真鍋は小さく笑った。
「それはまあ、そうなんじゃないですか。区民課って女性多いし、噂が回るの早いってよく聞くんで」
そこには、当事者ではない人間の気安さがあった。
同じ庁舎にいながら、少し外側にいる人間の距離だ。
「子育て支援課だと、結婚とか家族の話が出やすい?」
「出ますね」
今度は、はっきり頷く。
「仕事でも児童手当とか保育園とか、そういう話ばっかりですし。雑談でも、“うちは何歳で”とか“二人目が”とか、自然に出るんですよ。まあ、独身にはちょっと居づらいときもありますけど」
最後だけ、少し自分のことのように笑った。
「中山さんも、その手の話を?」
「……一回、しました」
真鍋はそこで少しだけ記憶を探る顔になった。
「窓口で兄弟連れの家族が来た日があって。上の子が走り回って、下の子が泣いてて。こっちはまあ、慣れてるんですけど」
彼は苦笑する。
「それで、“騒がしいけど、ああいうのも悪くないですよね”って話になったんです。そのとき、中山が、“自分は二人か三人くらい欲しいですね”って」
「子どもを?」
「はい」
「本気に聞こえた?」
「冗談ではなかったです」
真鍋は言い切るでもなく、補足するように続ける。
「夢みたいに語る感じじゃなくて……何ていうか、“そういう将来は普通にある”っていう口調でした。予定の話というか」
俺は黙って聞く。
「その時点で、中山さんに交際相手がいるとは聞いていましたか」
「いや、まったく」
真鍋は首を振った。
「むしろ、いない前提で話してました」
空気が少しだけ変わる。
「たとえば?」
斎木が声を落とす。
真鍋は少し迷ってから言った。
「……アプリの話とか」
「マッチングアプリですか」
「たぶん、そうです」
“たぶん”をつけたのは、言い切る責任を避けたかったからだろう。
「本人が、そこまではっきり言ったわけじゃないんです。ただ、“プロフィールって、最初どこまで書くもんなんですかね”って聞かれたことがあって」
真鍋はそのときのことを思い出したのか、少しだけ苦笑した。
「俺が“何の話?”って返したら、“いや、ちょっと見てて”みたいな感じで」
「プロフィール、ですか」
「写真とか、仕事の書き方とか。年齢って正直に出したほうがいいですかね、とか。あと、公務員って書くと堅く見えますかね、とか」
そこで彼は一度こちらを見た。
「だから俺、普通に独身のやつが、ぼちぼちそういうの考えてるんだと思ってました」
三年付き合っている恋人がいる男に向けて、人はそんな助言をしない。
少なくとも真鍋はその時点で、中山を“自由に次を探せる側の人間”だと思っていた。
「結婚願望みたいなものは、口にしていましたか」
俺が聞く。
「ありましたよ」
真鍋はあっさり答えた。
「強くはないですけど、いずれはちゃんとしたい、みたいな。年齢的にもそろそろ考えないと、って」
「“ちゃんとしたい”」
俺が繰り返すと、真鍋は小さく頷いた。
「そんな感じでした」
その言葉の整い方が、逆に耳に残る。
川原と三年続いている男の言い方ではなく、まだ“ちゃんとする相手”を探している男の口調に近かった。
「他に、女性と親しくしている様子は?」
俺が聞くと、真鍋は今度こそはっきり迷った。
「親しく、ってほどかどうか……」
「見たことを、そのままで構いません」
俺が言うと、真鍋は少しだけ肩の力を抜いた。
「去年入った新人と、何回か話してるのは見ました」
「同じ課の?」
「はい。桐野っていうんですけど」
「二人で食事していたとか」
「一、二回、食堂で向かいに座ってるのは見ました。あと、帰り際に一緒になってるのも一度。エレベーター前で、まあ、普通に喋ってました」
断定しない。
そこが逆に生っぽかった。
「ただ、べつにそれだけです。俺も、そこまで気にして見てたわけじゃないんで」
「その新人は、中山さんに恋人がいると知っていたと思いますか」
真鍋は首を振った。
「知らないと思います」
「どうして」
「知ってたら、ああいう距離では話さない気がします」
言い切ったあとで、彼は少しだけ言い足す。
「いや、もちろん仕事の相談だったのかもしれないですけど。でも少なくとも、“彼女います”って空気ではなかったですね」
“彼女いますって空気ではなかった”。
その曖昧で雑な言い方のほうが、今は信用できた。
「同じ課では出さない。別課では独身のように振る舞う」
斎木が、半ば独り言のように言う。
真鍋は、そこで初めて少しだけ顔をしかめた。
「……そこまで俺は分かりません」
真面目な否定だった。
「でも、中山って、そういうのを混ぜないタイプではありました。課の中と外で、喋ることを分けてる感じはあったかもしれないです」
それで十分だった。
「ありがとうございます」
俺はそこで区切った。
「参考になりました」
真鍋は少しだけほっとした顔をした。
ただ、席を立つ前にもう一度こちらを見た。
「中山、何か大きいことに巻き込まれてるんですか」
その問いに、俺はいつものように曖昧に答える。
「確認中です」
それ以上は言わなかった。
*
打ち合わせスペースを出ると、区役所の廊下は思ったより静かだった。
昼休みに入りかけたのか、窓口の密度が少し薄れている。奥の自販機の前で、若い職員が二人、紙パックの飲み物を選んでいた。片方がストローを差し損ねて、小さく笑う。その笑い声はすぐ、空調の音に溶けた。
建物を出るまで、斎木は何も言わなかった。
外気が頬に触れたところで、ようやく息を吐く。
「……だいぶ、見えてきましたね」
「何がだ」
「中山が、何を隠したかったのかです」
俺は黙って歩いた。
区役所前の植え込みは、きれいに刈られていて、冬の色をしている。土の表面は乾いていた。
「交際相手がいること自体、じゃないですね」
斎木が続ける。
「同じ課に私生活を知られること。その中でも、“説明しづらい関係”を知られることのほうを、嫌がってた」
「そうだな」
「前に不倫で辞めた人がいた。そういう話が広がると、職場に居づらくなる空気も見てる」
斎木はハンカチで掌を拭った。
「だったら、同じ課じゃ絶対に出さないですよね」
「出さないだろうな」
「でも別課の真鍋には、“次を探してる男”みたいな顔を見せる」
俺は何も言わなかった。
「……嫌ですね」
斎木がぽつりと言う。
「浮気とか二股とか、そういう派手な話じゃないのが余計に」
歩道の向こうで信号が変わり、人の流れが動き出す。
「川原さんのこと、嫌いだったわけじゃないんでしょうね」
斎木は続けた。
「好きではあった。たぶん」
「ああ」
「でも、“職場を失ってまで守る相手”ではなかった」
俺は少しだけ斎木を見る。
「遠藤さん」
「何だ」
「動機、そこに近そうですよね」
「かなり、な」
俺は答えた。
「だが、まだ一枚足りん」
「一枚?」
「ああ」
現場は静かすぎた。
正当防衛には見えない。
口論の勢いだけでも、少し整いすぎている。
もう一つ、あの夜の中に、決定的な言葉か行動があったはずだった。
中山が“守る”と決めるに足るもの。
川原が、最後に突きつけたもの。
それがまだ見えていない。
*
駅前の信号に差しかかったところで、斎木の携帯が震えた。
彼は歩きながら画面を見て、少しだけ眉を動かした。
「……伊達さんです」
「鑑識か」
「はい」
通話を取る。
「はい、斎木です」
最初の数秒、斎木はほとんど喋らなかった。
ただ、相手の言葉を聞いているだけだった。
やがて、
「……ええ」
「はい」
「保存時刻も出てますか」
「……そうですか」
そこで、足が止まる。
信号待ちの人波の中で、斎木だけが少しだけ動きを失った。
「分かりました。戻ったら確認します」
通話が切れる。
俺は彼の顔を見た。
「何だ」
斎木は、携帯の画面を見たまま、少し言いづらそうに口を開いた。
「……一つ、先にやってました」
「何を」
「川原さんのアカウント解析です」
俺は何も言わなかった。
斎木は続ける。
「昨日、伊達さんに頼んでました。小説のこと、正直そこまで事件に関係すると思ってなかったんですけど……二人とも書いてたし、未公開のものが残ってる可能性はあるかなと思って」
「結果は」
短く聞く。
「出たそうです」
「何が」
「川原綾乃のアカウントから、未公開の下書きが一つ」
冬の風が、通りを横に流れる。
「保存時間も判明したらしいです」
「いつだ」
斎木は画面から目を離さず答えた。
「22時03分」
その数字で、足元が少しだけ冷えた。
川原綾乃のスマートウォッチから出ていた死亡推定時刻は、22時04分。
たった一分。
下書き保存の直後に、何かが起きたことになる。
「内容は」
俺が聞くと、斎木はほんの一瞬だけ黙った。
「要点だけですけど」
「何て?」
斎木は、ようやく顔を上げた。
その表情を見た時点で、もう半分は分かった。
「二人の関係の位置づけが、はっきり分かる内容だったそうです」
それだけだった。
細部は言わない。
だが、それで十分だった。
川原は、死ぬ直前まで書いていた。
しかも未公開で、保存時刻は22時03分。
その内容が、“二人の関係をどう捉えていたか”を明確にするものだった。
なら、あの夜に起きたことは、もう“感情のすれ違い”では片づかない。
斎木が、小さく息を吐く。
「……これで、だいぶ」
「ああ」
俺は頷いた。
信号が青に変わる。
人の流れが前へ動き出す。
それでも、俺たちは一瞬だけ、その場に立ち尽くしていた。
22時03分。
未公開の下書き。
そして、その一分後。
遠くで車のクラクションが短く鳴る。
誰かが苛立った声で「早く」と言った。
俺はようやく足を動かした。
「戻るぞ」
斎木は黙って頷いた。
駅へ向かう人波の中で、俺たちは逆方向へ歩き出す。
昼の光はまだ残っている。
なのに、胸の奥では、ようやく夜の輪郭だけが揃い始めていた。
第十一章 供述
取調室の空気は、昨日までと何も変わっていなかった。
壁の薄いグレー。
天井の蛍光灯。
テーブルを挟んで向かい合う椅子が二つ。
録音機の赤いランプが、静かに灯っている。
違うのは、机の上に置かれた紙の束だけだった。
鑑識から上がってきたスマートウォッチの解析資料。
川原綾乃のアカウント解析結果。
未公開下書きの保存時刻。
どれも感情を持たない。
ただ、時間だけを記録している。
向かいに座る中山悠太は、今日も整っていた。
背筋を伸ばし、両手は膝の上。
髪も、襟元も、乱れていない。目の下に薄い疲れはあるが、取り乱した様子は見えなかった。
あくまで静かだった。
自分がこれから何を問われるのか、ある程度分かっている顔だった。
斎木は壁際に立ち、ファイルを開いたままこちらを見ている。
俺は椅子に腰を下ろし、資料のいちばん上を揃えた。
「中山さん」
呼ぶと、彼は小さくこちらを見た。
「前回、君はこう話したな。川原綾乃さんが刃物を持ち出した。止めようとして揉み合いになった。押さえ込んだら、結果として死なせてしまった。正当防衛だった、と」
「はい」
返答は早い。
迷っていないというより、その形ならまだ自分の中で持てる、という響きだった。
「今日は、その話の“時間”を確認したい」
中山は黙った。
斎木がファイルから一枚抜き出し、机の上に置く。
印字された時刻の並びが、蛍光灯の下で白く浮いた。
「川原さんのスマートウォッチ解析結果です」
斎木が言う。
「心拍、体動、姿勢変化から推定された死亡時刻は、二十二時四分」
中山の目が、その紙に落ちる。
それだけだった。
表情はまだ崩れない。
俺はその隣に、もう一枚置いた。
「こちらは、川原さんのアカウント解析」
中身ではなく、メタデータだけが印字された紙だ。
「未公開下書きの保存時刻は、二十二時三分」
そこで初めて、中山の視線が止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、止まった。
俺は続ける。
「一分しかない」
短く言った。
「二十二時三分に、川原さんはスマートフォンで文章を保存している。そこから二十二時四分までの一分のあいだに、君の言うとおりのことが起きたことになる」
中山は、まだ何も言わなかった。
「保存を終える。立ち上がる。包丁を持ち出す。君と口論する。揉み合う。君が押さえ込む。死亡する」
紙の時刻に指を置く。
「一分で、だ」
空調の低い音が、天井の奥で鳴っていた。
廊下のどこかで台車が動く音がして、すぐに遠ざかった。
「現場もそれを裏づけていない。ラグは乱れていない。グラスも倒れていない。ソファも大きくずれていない。君の言う“途中”が、部屋のどこにもない」
中山は、そこでようやく喉を動かした。
俺は言葉を重ねる。
「正当防衛という話に、時間がついてこない」
しばらく沈黙が落ちた。
中山は紙から目を離さなかった。
その沈黙は、“考えている”というより、すでに頭の中で組み上げていたものの継ぎ目を探している沈黙に見えた。
斎木が、壁際から低い声で言う。
「下書きの中身も確認しました」
中山の目が、そこで初めてはっきり動いた。
反応は小さい。
だが、どの紙よりも、その一言が効いたのだと分かった。
中山は、自分の知らないところで、川原の最後の文章がこちらに渡っていることを、その瞬間に理解した。
「中山さん」
俺は、できるだけ平坦に言った。
「正当防衛ではないな」
長い沈黙が落ちた。
録音機の赤いランプだけが、変わらず点いている。
空調の音と、どこか遠くの足音だけが、ごく薄く部屋の外にあった。
やがて中山は、小さく息を吸った。
「……その通りです」
声は思ったより落ち着いていた。
観念した声というより、ようやく“言い直せる位置”に辿り着いた人間の声だった。
「でも」
そこで一拍置く。
「正当防衛なんです」
俺は何も言わなかった。
中山は視線を落としたまま続ける。
「脅されたんです」
「何を」
「綾乃が……言ったんです」
そこで、彼は初めて言葉を選んだ。
「関係のことを、外に出すって。みんなに話すって。だから……それで口論に」
「口論に?」
中山は頷いた。
「はい」
少しだけ、唇の端が乾いていた。
舌で湿らせるような仕草をしてから、彼は続けた。
「同じ課に広がったら、僕はもういられない」
その一言だけ、声の芯が少し強くなった。
「前にもいたんです。そういう話が広まって、居場所をなくした人が。表向きは普通でも、みんな見方が変わる。何をしても、“ああ、あの人ね”ってなる。……あそこは、そういうところなんです」
俺は黙って聞く。
「せっかく公務員になったのに」
その言葉は、ほとんど独り言に近かった。
「やっと、ここまで来たんです。真面目にやって、怒られないようにして、余計なことも言わないで、ちゃんと働いて……」
中山の手が、膝の上で小さく握られる。
「僕は、ちゃんとしていたんです」
また、その言葉だった。
「ちゃんと生活して、ちゃんと仕事して、変な目で見られないようにして。誰にも迷惑をかけないようにして」
少しずつ、息が浅くなる。
「それを壊されると思った」
「壊される?」
中山は顔を上げる。
「はい」
その“はい”には、少しも比喩のつもりがなかった。
「綾乃が全部言ったら、僕は終わるんです」
「終わる?」
「職場にいられなくなる」
「それで?」
中山は一瞬だけ眉を寄せた。
「……だから、正当防衛なんです」
斎木が、壁際から声を挟む。
「何に対する、ですか」
中山は、その問いには迷わなかった。
「僕の生活に対する、です」
その答えの直後、斎木は視線を少し落とした。
表情が崩れたわけではない。
けれど、何かを飲み込むように、口元が一度だけ固く結ばれた。
「……少し、失礼します」
それだけ言って、静かに取調室を出た。
俺はそれを止めなかった。
ドアが閉まる。
室内には、俺と中山だけが残った。
録音機の赤いランプは、変わらず点いている。
「中山」
俺は相手の目を見て言った。
「はい」
「君は今、自分が何を言っているか分かってるか」
「……分かってます」
「本当にか」
中山はわずかに黙った。
俺は、ひとつずつ並べる。
「職を失うのが怖かった」
「噂が広がるのが怖かった」
「自分の生活が壊れると思った」
一拍置く。
「それは分かる」
中山の目が少し動く。
「だが」
そこで、あえて間を取る。
「それで人を殺していいわけじゃない」
中山は、そこで初めて、ほんの少しだけぽかんとした顔になった。
怒られた顔ではなかった。
責められた顔でもない。
なぜそこに線があるのか、本気で分からない人間の顔だった。
「……でも」
彼は小さく眉を寄せた。
「綾乃が言うって」
「そうだとしてもだ」
俺は遮る。
「人を殺す理由にはならない」
中山は何も言わなかった。
言い返せないのではない。
納得していない顔だった。
その沈黙の長さだけで、かえってはっきりした。
こいつにとって、川原綾乃はその瞬間、人間ではなかった。
生活を壊す危険物になっていた。
取り除くべきもの。
止めるべきもの。
黙らせるべきもの。
「……今まで通りでよかったんです」
やがて、中山が低い声で言った。
「何がだ」
「職場では何も知られず」
「僕はそのまま働いて」
「綾乃とのことは……そのままで」
言いながら、自分でも言葉の形が曖昧なのが分かっているのだろう。
最後のほうは、ほとんど口の中で崩れた。
「そのまま?」
俺が聞くと、中山は小さく頷いた。
「変えたくなかったんです」
「変えるつもりは、なかったのか」
中山はそこで、少しだけ考えた。
「……考えてはいました」
その言い方が、もう曖昧だった。
「でも、今じゃなくてよかった」
それは答えではない。
先送りの別名だった。
俺は、それ以上追わなかった。
追っても、こいつはたぶん同じところを回る。
自分はちゃんとしていた。
急に壊されそうになった。
だから、それを防いだだけだと。
そのときだった。
ドアが、控えめに二度だけノックされた。
「遠藤さん」
斎木の声だった。
「少し、いいですか」
俺は中山を見た。
中山は、まだ自分の言葉の中にいた。
向こうからこちらへ届いているようで、実際にはほとんど届いていない。
「少し外す」
そう告げて、俺は外へ出た。
エピローグ
取調室の裏にある観察室は、薄暗かった。
ガラス越しに、向こうの取調室が見える。
白い蛍光灯の下で、中山悠太は一人、椅子に座ったまま動かなかった。背筋だけはまだ伸びている。
やり取りが終わったあとも、途中で止められた会話の続きを、頭の中でまだ整えようとしているような顔だった。
斎木が、手にしていた資料を差し出す。
「伊達さんの資料です。再確認してました」
俺は受け取り、立ったまま目を落とす。
資料の一部にマーカーが引いてある。
スマートウォッチ解析の備考。
体動の変化。
姿勢の推定。
頸部圧迫時の身体位置。
そこに書かれていたのは、簡潔な一文だった。
『被害者は、座位に近い状態から頸部を圧迫された可能性が高い』
読み終えたあとも、しばらく紙から目を離せなかった。
揉み合いではない。
立ったまま押し合ったのでもない。
座っていた相手。
あるいは、立ち上がる前の相手。
「……口論して、揉み合って、そのまま、じゃないですね」
斎木が言う。
俺は答えず、もう一度だけその一文を読んだ。
取調室の向こうで、中山はまだ顔を上げていない。
自分の中では、もう説明がついているのだろう。
脅された。
壊されると思った。
守らなければならなかった。
だから仕方なかった。
そういう順番で。
だが、現実はその順番ではなかった。
机の端に資料を置き、俺は目を閉じた。
頭の中に、別の白い画面が浮かぶ。
『星空の下で、彼はようやく私の手を取った。
冷えた指先が触れて、そのあとで、薬指に小さな重みが添えられる。
けれど、私は──
その触れ方だけを、忘れたくないと思った』
二十二時三分に保存された、川原綾乃の未公開下書き。
川原綾乃は、物語を書いた。
中山悠太も、物語を書いた。
そこにあった差は、好きかどうかじゃない。
選ぶか。
選ばないで済ませるか。
その違いだったのかもしれない。
「遠藤さん」
斎木が、少し控えめに言う。
「これで、ほぼ固まりましたね」
「……ああ」
短く答える。
事件の輪郭は見えてきた。
時刻も、姿勢も、供述の歪みも、だいぶ揃った。
それでも、終わった感じはしなかった。
向こうの取調室に座っている男は、まだ自分がどこに立っているのか分かっていない。
自分は守ったのだと。
壊される前に防いだのだと。
ちゃんとしていたのだと。
そう信じることでしか、自分のやったことを支えられないままに。
俺はガラス越しに、その横顔を見た。
こいつを裁くのは、法の仕事だ。
だが、現実に立たせるのは、取調べの仕事でもある。
川原綾乃の人生を、あいつの都合のいい言い換えで終わらせないために。
そして、あいつ自身を、物語の外へ引きずり出すために。
俺は資料を閉じた。
取調室の向こうでは、まだ白い蛍光灯が点いている。
斎木が一歩退いて、無言で道を空けた。
俺はドアノブに手をかける。
冷たい金属の感触が、掌に残る。
俺は取調室のドアを開けた。
誤読 ─私小説─