忘れられた暗黒は、白銀の夢を魅る。
コクヨウとフィオの出会い~ミアレ行き前夜までの話。
◇…本文
◆…主要人物のモノローグ
◇邂逅◇
フィオとコクヨウが、初めて出会った日のこと。
その日、フィオは自室でベッドに腰掛け、スマホロトムを操作しながら、いつものようにボックスの整理をしていた。
捕まえたばかりのポケモンを分布域ごとに確認し、図鑑登録が済んだ個体は元の生息地へ戻す。
人から譲り受けたポケモンや、他地方から来た珍しいポケモンは、間違えないように一つのボックスにまとめる。
それはもう何度も繰り返してきた、慣れた作業だった。
──だからこそ。
フィオは、ある一点で指を止めた。
「……あれ?」
視線を落とした先。
自分が作った覚えのないボックス。
そこに、ぽつんと一つだけ収まっているボール。
「……こんなボックス、作ったっけ……?」
胸の奥に、じわりとした違和感が広がる。
恐る恐るそのボールをタップした瞬間、画面全体に激しいノイズが走った。
個体名、不明。
タイプ、不明。
性別、不明。
レベル、不明。
まるでデータそのものが拒絶しているかのように、表示される情報はことごとく欠落し、歪んでいた。
「……何で、このボックスの……このボールだけ……」
息を呑み、目を見開く。
これまでに何体ものポケモンを扱ってきたが、こんな表示は一度も見たことがない。
スマホロトムが壊れている様子もない。
異常なのは、明らかにこのボールだけだった。
その日から、フィオは何度も考えた。
調べて、確認して、それでも答えは出なかった。
ボールをそのままにしておくことも出来たはずだ。
だが、日を追うごとに、その存在が心に引っ掛かり続けた。
──中に居るのは、どんなポケモンなんだろう。
──苦しんでいたら、どうしよう。
そして数日後。
フィオは静かに決意し、そのボールをボックスから取り出した。
淡い翡翠色。
どこか懐かしさを感じさせる、不思議な色合いのボールを、両手でそっと包み込む。
「──……綺麗」
思わず、そう呟いていた。
スマホロトムを確認すると、そのボールは「ストレンジボール」と表示される。
本来は、現代とは異なる時代や場所に存在するポケモンを、現代に呼び寄せる際に変換される特殊なボール。
しかし、この個体は変換の過程が歪み、無理矢理現代に引き寄せられたせいで、深刻な劣化とノイズが発生しているらしかった。
フィオは翡翠色のボールを見詰め、しばらく黙り込む。
胸の奥が、妙にざわついていた。
「……大丈夫、かな……」
誰にともなく呟き、そして小さく頷く。
「……出ておいで。」
そっと、ボールを放った。
淡い光が弾ける。
空気が、一瞬だけ重く沈んだ。
現れたのは──漆黒の身体。
胸元に浮かぶ、存在感のある赤い突起。
背後にたなびく、白い霧のような髪。
「──……ダークライ……?」
暗黒ポケモン。
人に悪夢を見せる、幻の存在。
図鑑の中でしか見たことのない姿を前に、フィオは思わず息を止めた。
その声に反応するように、ダークライの身体がわずかに動く。
ゆっくりと瞼が開かれ、その奥で、深く澄んだ青い光が灯った。
視線が、フィオを捉える。
永遠のようにも感じられる沈黙。
空気が張り詰め、心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。
その沈黙を破ったのは、ダークライだった。
『──……私の元へ、戻って来たのか。』
直接、頭の中に響く声。
低く、静かで、それでいて異様なほど甘く、重い。
『──”リッカ”』
銀糸の髪に、冷たい指先が触れる。
撫でるように、確かめるように。
(……違う)
フィオは即座に悟った。
(……私を、誰かと間違えてる)
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
それでも彼女は、視線を逸らさず、真っ直ぐに答えた。
「……貴方の言う“リッカ”が誰かは分からないけど……私は、リッカじゃないよ」
その瞬間。
触れていた手が、ぴたりと止まった。
『………に……のだ……』
低く、震える声。
次の瞬間、ダークライの気配が一変する。
怒り。
殺意。
『──ッ、何者だ!!』
激昂が、空間を震わせた。
「っ……!」
鋭い爪がフィオの肩を掴み、制服越しに食い込む。
痛みに唇を噛み、思わず目を閉じる。
『何故貴様が!!何故、あの子と“同じ魂”を持っている!!貴様は、あの子の何だ!!あの忌々しい“創造神”の差し金か!!答えろ!!』
絞り出すように、フィオは言葉を返す。
「…………“リッカ”は……私の……母さんの、名前……だよ……」
息も絶え絶えの声。
それを聞いたダークライは、せせら笑った。
『母……だと?笑わせるな』
青い目が、冷たく光る。
『あの子は殺された!!私の目の前で!!陸の鮫に!!子など、生まれようがない!!』
首へと手が移り、力が籠もる。
『──ましてや……人とポケモンの間の子など……私の前で、あの子を騙るな』
──殺される。
そう思った瞬間。
衝撃。
首に掛かっていた力が解け、フィオはその場に崩れ落ちた。
咳き込みながら目を開けると、そこには──
ボールから飛び出したウェーニバルの姿があった。
普段は艶やかに整えられている羽毛を逆立て、鋭い蹴りをダークライへ叩き込んでいる。
「……だめ……ウェーニバル……やめて……」
掠れた声に、彼は一瞬だけ動きを止め、渋々距離を取った。
ダークライは地に伏したまま、憎々しげに呟く。
『……何故だ……何故、この小娘なのだ……創造神め……』
フィオは、苦しそうに息を整えながら、彼を見詰める。
「……貴方の喪った人と、私が似てたとしても……
私は、その人の代わりにはなれない……ごめんね」
『……五月蝿い』
突き放すような声。
ウェーニバルが、心配そうにフィオの顔を覗き込む。
彼女は小さく頷き、「ありがとう」と囁きながら、再びダークライへ視線を戻した。
この出会いが、
この歪で、痛みを伴う邂逅が、
やがてフィオとダークライ──コクヨウの運命を大きく変えていくことを。
この時の二人は、まだ知らなかった。
◆フィオ視点◆
あの日のことは、今でもはっきりと思い出せる。
コクヨウと名乗るようになるずっと前、彼がただ“喪失と怒りだけで出来ている影”だった頃のこと。
ストレンジボールから現れたあの瞬間。
空気が重く沈み、息をするのも怖くなったあの感覚。
それでも、不思議と――「逃げなきゃ」という思考は浮かばなかった。
理由は、今なら分かる。
彼の中に渦巻いていた感情が、私の中にある“何か”と共鳴していたからだ。
彼が呼んだ名前、「リッカ」。
それは確かに、私の母の名前だ。
けれど、彼の記憶にあるリッカは、私の知る母とは違う。
後になって知った真実。
母・リッカは、最初から“人間だけの存在”ではなかった。
彼女の正体は、リッカという一人の人間のために、遺伝子の奥底から完全に成り代わったヒスイゾロアーク。
本当の”リッカ”として生きるため、母として生きるために、己の種を捨てたポケモン。
だから――
私とネロは、人とポケモンの境界に生まれた存在。
完全な人間でも、完全なポケモンでもない。
そして私だけが、ゴーストタイプのポケモンと“言葉ではない言葉”を交わせる理由。
それは、母の力だった。
でも、あの日の私は、そんなことを何一つ知らなかった。
ただ、目の前で怒りと悲しみをぶつけてくるダークライを見て、思っただけだ。
――このダークライは、壊れている。
――そして、ひどく独りだ。
首を締められ、恐怖で身体が震えても、
彼の青い瞳の奥にあったのは、純粋すぎるほどの絶望だった。
「代わりにはなれない」
そう言った私の言葉は、冷たかったかもしれない。
それでも、嘘は言えなかった。
私は母じゃない。
彼が愛した“リッカ”でもない。
だけど――
“今ここにいる私”としてなら、彼の前に立てるかもしれない。
そう、心のどこかで思っていた。
ウェーニバルが間に割って入らなければ、私はきっと死んでいた。
それでも、不思議と後悔はなかった。
怖かったけれど、それ以上に、彼を理解したいと思ってしまったから。
あの日から、コクヨウは少しずつ変わっていった。
警戒し、拒絶し、距離を取りながらも、完全には離れなかった。
影の奥で、ずっと私を見ていた。
きっと彼は、私の中に“母の名残”を見ていたのだと思う。
魂の響き。
血ではなく、存在の在り方そのもの。
それが重荷になることもある。
期待されるのは、正直怖い。
それでも私は――
彼が失ったものの“代わり”ではなく、
彼がこれから選ぶ“誰か”でありたい。
いつか、
彼が私の名前を、
「リッカ」ではなく「フィオ」と呼んでくれる日が来るなら。
その時こそが、
私たちが本当に出会い直す瞬間なのだと、
今は、そう信じている。
◆コクヨウ視点◆
――あの日。
影の奥で眠りから引き剥がされた瞬間のことを、私は今でも鮮明に覚えている。
永い、永い沈黙。
怒りと後悔と喪失だけを抱え、時間という概念すら失ったまま漂っていた。
目を閉じていれば、あの娘はまだ生きている気がした。
目を開けば、世界は既に終わっている。
だからこそ――
翡翠色の光と共に現れた“気配”に、私は縋り付いた。
あまりにも、似ていた。
魂の響きが。
存在の輪郭が。
呼吸の間合いが。
「戻って来たのか」
そう口にした瞬間、私は確信していた。
奪われたものが、ようやく私の元へ帰ってきたのだと。
だが――違った。
その娘は、私の名を呼ばなかった。
私の記憶を共有していなかった。
それでもなお、魂だけが、酷く似通っていた。
理解できなかった。
理解できるはずがなかった。
殺されたのだ。
私の目の前で。
陸の鮫に引き裂かれ、血を流し、声を上げる間もなく。
それなのに、なぜ。
なぜ“同じ魂”が、ここに在る。
怒りが爆ぜた。
疑念が牙を剥いた。
創造神への憎悪が、理性を喰い潰した。
首に手を掛けた時、私は“守っている”つもりだった。
偽物を排除し、冒涜を許さぬために。
だが――
その小さな身体の震え。
恐怖に歪む呼吸。
それでも逸らされなかった視線。
……違う。
あの娘は、恐怖の中で私を見なかった。
“怒りに囚われた哀れな存在”として、見ていた。
力を緩めたのは、
あの娘の言葉のせいではない。
自分自身の愚かさに気付いたからだ。
私は、奪われた過去に縋り付いて、
未来を殺そうとしていた。
後に知った真実――
この娘の母が、ヒスイゾロアークであったこと。
魂と存在を丸ごと捧げ、人として生きたこと。
その血と力を、この娘が受け継いでいること。
ああ、成程。
似ているはずだ。
魂の“型”が、同じなのだから。
それを知った今でも、
私は未だにこの娘を「縄張り」と呼ぶ。
独占欲。
執着。
偏愛。
醜いと分かっている。
だが、手放せない。
この娘は、私を恐れながらも拒絶しなかった。
代わりになれないと告げながら、去らなかった。
それは――
“選ばれたい”と願う私にとって、
何よりも残酷で、甘美な希望だった。
だから私は、影に在る。
この娘の傍に在り、眠りを守り、悪夢を退ける。
同族が近付けば、追い払う。
この娘の世界に、余計な影は要らない。
いつか、
あの娘が私を選ぶ日が来るなら。
その時、私はきっと――
過去ではなく、今を生きる影になるのだろう。
……それまでは、良い。
あの娘が笑い、歩き、仲間と語らう姿を、
影の中から眺めていられるなら。
それだけで、
今の私には――十分すぎるほどの“生”なのだから。
◇悪夢の胸中◇
フィオがミアレ美術館で開催される”大ヒスイ展”の告知を目にし、カロス地方へ向かう決意を固めたのは、季節の移ろいを感じ始める頃だった。
かつてヒスイ地方で生きた人々とポケモン、その文化と歴史を集めた展示。
それは、彼女自身の過去と現在、そして隣にいる“影”の存在を否応なく想起させるものだった。
悪夢を見せる存在――ダークライ、コクヨウ。
彼と行動を共にしてからというもの、フィオが悪夢に苛まれることは目に見えて減っていた。
最初の頃は違った。
眠れば必ず、息が詰まるような闇と恐怖に引き摺り込まれ、目覚めるたびに冷や汗をかいていた。
それは彼の特性――ナイトメアによる影響だと、図鑑や文献を調べて理解していた。
”悪夢を見せるのは、防衛本能であり悪意はない”
”力を制御できないため、他者と距離を取るしかない”
そう書かれていた。
それなのに今はどうだろう。
同じ屋根の下で眠り、同じ影の中に彼がいるにも関わらず、悪夢はほとんど訪れない。
(……本来の姿とは、違う)
理解しているはずなのに、理解できない。
その違和感が、彼女の胸の奥に静かに積もっていった。
その夜、フィオは久しぶりに“夢”を見た。
だが、それはこれまで経験してきた悪夢とは明確に異なっていた。
恐怖で心を壊すようなものでも、幸福に満たされるものでもない。
ただ、静かで、暗く、否応なく目を向けさせられる夢。
果ての見えない暗闇。
そこに広がるのは、鏡のように静まり返った水面だった。
揺れもなく、波紋もない。
まるで世界そのものが息を止めているかのようだった。
水面には、一人の少女の姿が映し出されている。
白銀の髪。
淡く澄んだ水色の瞳。
透き通るような白い肌。
彼女は知っていた。
知らないはずなのに、直感的に理解してしまった。
(……この人が)
危険なポケモンを相手取る研ぎ澄まされた姿。
図鑑に新しい情報を書き足す、真剣な横顔。
村人と共に汗を流し、笑い、働く日常。
それらの光景が、水面に映っては消え、また別の情景へと切り替わっていく。
──走馬燈みたい。
そう思った瞬間、水面の向こう側に“存在”を感じた。
漆黒。
どんな闇にも紛れない、濃密な影。
コクヨウだった。
彼は、水面に映る少女を、まるで宝物でも見るかのように見詰めていた。
その背中から伝わる感情は、あまりにも静かで、あまりにも重い。
『……お前、何故ここに』
フィオの気配に気付き、彼は僅かに目を見開いて振り返る。
夢の中だというのに、その声ははっきりと響いた。
「……この人は?」
彼女の問いに、コクヨウは再び水面へ視線を戻す。
『分かりきったことだろう。──リッカだ。私がヒスイで、何に変えてでも守りたかったもの』
その声には、悔恨と執着、そして諦観が滲んでいた。
胸に溜めていた疑問が、自然と口を突いて出る。
「ねぇ、コクヨウ。私と初めて会った時、“戻って来た”って言ったよね。……あれ、どういう意味だったの?」
空間が凍り付いたかのような沈黙。
水面ですら、動かない。
『……まだ、全てを話す時ではない』
低く、慎重な声。
『だが、掻い摘んでなら話せる』
フィオは何も言わずに頷いた。
それを見て、彼は深く息を吐く。
『……要するに。“私のもの”にならなかったあの娘が、“私のもの”になるために戻って来たと、勝手に喜んだ。それだけの話だ』
「……そっか」
フィオは水面の少女を見つめながら、静かに続ける。
「私って……そんなに、リッカさんに似てる?」
『似ている』
即答だった。
『だが、同じではない。あの娘は“暗黒”を拒まず、隣に在ることを許した。お前は、“暗黒”と対等であろうとする』
彼の青い目が、かすかに揺れる。
『──どちらも眩しい。欲さずには、いられない』
その言葉に、フィオの胸がざわめいた。
理解してはいけない何かに、触れてしまった感覚。
「……“どちらも”って……もしかして……」
言葉の続きを、彼女自身が恐れる。
コクヨウの視線が、真っ直ぐに彼女を捉えた。
深く、暗く、絡め取るようでいて、どこか甘い色を帯びた眼差し。
『お前は聡い娘だ。だが、それ故に、知らずとも良いことまで知ってしまう』
鼓動が速まる。
理由は分からない。ただ、逃げ場がないと本能が告げていた。
『喪ったあの娘を“私のもの”にすることは叶わない。だが……今、生きているお前は、“私のもの”に出来る』
一拍の間。
『尤も、お前が拒むなら、それを受け入れる』
「……選んで、いいの?」
震える声で、フィオは問う。
『当然だ』
迷いのない返答。
『お前は同じ魂を持っているが、あの娘ではない。この想いを受ける理由はない』
胸の奥に溜まっていた緊張が、少しだけ解ける。
だが――。
『だが』
彼は、逃がさなかった。
『もし、お前が答えを出す気があるなら、私は待つ。お前の生が尽きるまででも待とう』
静かで、確固たる宣告。
『人の生は短い。私にとって、待つことは容易い』
その言葉に、フィオは笑うことも、否定することも出来ず、ただ小さく息を吐いた。
「……考えとく」
それが精一杯だった。
水面は再び静まり返り、夢はゆっくりと闇に溶けていく。
目覚めた時、胸に残っていたのは、恐怖でも幸福でもない。
ただ――選択を委ねられた重さだけだった。
◆フィオ視点◆
静かな息遣いとともに、フィオはゆっくりと目を開けた。
天井。見慣れた自室の天井だ。カロスへ向かう準備で半分ほど片付いた部屋。壁際に積まれた鞄と、机の上に広げた資料の束。
――夢、だった。
そう理解するまでに、少し時間がかかった。
あまりにも感触が生々しく、感情だけが現実のまま胸に残っていたからだ。
胸に手を当てると、まだ心臓が早鐘を打っている。
息を整えようとしても、どうしても先程の光景が脳裏に蘇る。
水面。
白銀の少女。
そして、その少女を見つめるコクヨウの背。
(……リッカさん)
彼の口から語られた名前。
彼がヒスイで、何に変えてでも守ろうとした存在。
「……私、似てるんだよね」
小さく呟く声は、誰に聞かせるでもない独り言だった。
似ている、と言われても実感はない。
けれど、似ているからこそ、彼は“重ねた”。
その事実が、胸の奥をじくりと痛ませる。
布団の端に座り込み、視線を足元へ落とす。
そこには、いつものように濃い影が広がっている。
「……コクヨウ」
名を呼ぶと、影がわずかに揺れた。
けれど、彼は姿を現さない。
新月の夜――いや、今はもう夜明け前だ。それでも、彼は必要以上に出て来ようとはしなかった。
(……夢の中で言われたこと)
“今生きているお前は、私のものに出来る”
“拒むなら受け入れる”
“答えを出すなら、生の果てまで待つ”
思い返すだけで、胸がざわつく。
それは恐怖とは違う。
束縛される予感でも、甘い期待でもない。
(……選んでいい、って言われるのが、こんなに重いなんて)
彼女は膝を抱え、背中を丸めた。
今までだって、選択はしてきた。
旅に出ることも、危険なポケモンと向き合うことも、ゴーストタイプと関わることも。
けれどそれらは、自分一人の意思で完結する選択だった。
コクヨウが差し出したものは違う。
彼の長い時間と、執着と、喪失を含んだ感情。
それを受け取るか、拒むかを、委ねられている。
「……ずるいよ」
思わず漏れた言葉は、苦笑混じりだった。
「そんなの、すぐ答え出せるわけないでしょ」
影は答えない。
だが、不思議と寂しさはなかった。
彼が“そこにいる”と、はっきり分かっているからだ。
フィオは立ち上がり、窓辺へと歩いた。
カーテンを少しだけ開くと、夜明け前の薄青い空が広がっている。
星はもうほとんど消え、東の空がわずかに白み始めていた。
新月の夜は、終わりに近付いている。
「……ミアレ、か」
美術館。
ヒスイ展。
彼の過去と、彼女の未来が交差する場所。
(逃げるわけじゃない)
自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。
考える時間が欲しいだけだ。
彼の言葉を、感情を、ちゃんと理解するために。
影に向かって、彼女は静かに告げる。
「……ねぇ、コクヨウ。私、まだ分からない」
一瞬、影がわずかに濃くなった気がした。
「でも……考える。ちゃんと」
それは、彼への返事ではなく、自分自身への約束だった。
窓の外から、朝の気配が忍び寄る。
新しい一日が始まる音が、確かにそこにあった。
◆コクヨウ視点◆
影の中で、私は静かに在った。
新月の夜が終わりに近付き、悪夢の奔流が徐々に鎮まっていくのを、肌――否、存在そのものが理解している。
フィオが目覚めた瞬間から、私はあの娘を見ていた。
呼吸の乱れ。
心拍の速さ。
夢の残滓に揺れる感情。
――やはり、見せてしまったか。
意図したものではない。
だが、完全に無意識でもなかった。
私の内側で渦巻いていた思考が、夢という形で漏れ出ただけだ。
(愚かなことをした)
そう結論付けながらも、後悔はしていない。
あの場で言葉にしなければ、私はいずれ別の形で壊れていただろう。
あの娘が名を呼ぶ。
「……コクヨウ」
影が揺れ、私は返事を返さなかった。
否、返せなかった。
今の私は、この娘の前に出るべきではない。
新月の夜という理由だけではない。
あの娘が答えを出すまで、私が不用意に姿を現すことは、彼女の思考を歪める。
(選ばせる、と言った以上……待つしかあるまい)
あの娘が窓辺へ向かうのを、私は影越しに見つめる。
朝の気配が差し込み、彼女の輪郭が淡く照らされる。
――あの娘と、よく似ている。
否、違う。
似ているのは外見でも、魂の色でもない。
“暗黒”に向ける眼差しだ。
リッカは、暗黒を拒まなかった。
恐れながらも、手を伸ばし、隣に在ることを選んだ。
フィオは違う。
あの娘は暗黒を理解しようとし、対等であろうとする。
それは支配でも、隷属でもない。
(だからこそ……眩しい)
欲するなと言う方が無理だ。
守ると決めたものが、己の意思で歩こうとする姿を見せるのだから。
「……ずるいよ」
あの娘の呟きが、影越しに届く。
私は、わずかに目を伏せた。
――そうだろうな。
人の身で、短い生を生きる者に、
私のような存在の時間感覚を押し付けた。
待つことが容易いのは、私だけだ。
(だが、それでも)
あの娘は逃げなかった。
答えを拒否せず、「考える」と言った。
それだけで、十分だ。
私は影の中で、己の“縄張り”を静かに広げる。
この部屋。
この時間。
あの娘が安心して思考できる場所。
悪夢は見せない。
新月の夜は終わった。
そして、今は――
(守るべき時だ)
あの娘が再びこちらを向き、影に言葉を投げる。
「……考える。ちゃんと」
私は小さく、だが確かに応じる。
『ああ。』
声に出さずとも、意思は伝わる。
それで十分だった。
人の生は短い。
だが、この娘が答えを出すその日まで、私はここに在る。
影として。
悪夢として。
そして――この娘の選択を、ただ待つ存在として。
◇答え◇
いよいよ、フィオがミアレシティへ向かう前夜。
部屋の明かりは落とされ、机の上だけを照らすランプの淡い光が、静かな緊張を孕んでいた。
机の上に整然と並べられた六つのボール。
それぞれが、かつてパルデアで彼女と日々を共にし、戦い、笑い、眠った仲間たちだ。
カタカタ、と小さく揺れる音。
まるで「一緒に行く」と主張するような、微かな抗議。
「……ごめんね」
フィオは一つ一つに視線を落とし、静かに、だが確かな声で語りかける。
「どうしても連れて行けないの。でも……必ず帰ってくる。約束する」
指先でボールを撫でると、揺れは少しずつ収まり、やがて静寂が戻った。
それでも完全に消えない、名残惜しさの気配が、空気の底に残っている。
彼女は深く息を吸い、窓辺へと歩み寄った。
夜空は澄み切り、月は高く昇り、白銀の光が室内に差し込んでいる。
そこで彼女が取り出したのは、他のどのボールとも異なる色合いを持つものだった。
淡い翡翠色。
歪で、しかしどこか懐かしさを覚える──ストレンジボール。
フィオはそれを両手で包み、しばし見つめる。
この中にいる存在の重さを、今はもう、はっきりと理解しているからだ。
「……コクヨウ」
名を呼ぶように、影へとボールを放る。
淡い光が弾け、月明かりの中に漆黒が立ち上がる。
影から分離するように姿を現したダークライ──コクヨウ。
長く伸びた影の奥で、彼の青い瞳が静かに輝いていた。
『──何だ』
低く、落ち着いた声。
いつもより、どこか構えた響き。
フィオは彼を真っ直ぐ見つめ、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「……私ね、ずっと考えてたんだ。あの日のこと。夢の中で、貴方が言った言葉」
その瞬間、コクヨウの気配が僅かに変わる。
彼はすぐに理解した。
“答え”の話だと。
──私のものに出来る。
──拒むなら受け入れる。
──生の果てまで待つ。
全てが本心であり、同時に、覚悟を伴う言葉だった。
『……そうか』
彼は短く息を吐き、静かに頷く。
『ならば、聞かせてもらおう。お前の答えを』
フィオは一度だけ目を閉じ、深く呼吸を整えた。
「──私は、貴方のものにはならない」
月光に照らされた声は、驚くほど澄んでいた。
「ならないし、なれない。私は……私自身のものだから」
理解していた。
この答えが返ってくることなど、最初から分かっていた。
それでも、胸の奥で何かが軋む。
コクヨウは静かに目を閉じた。
拒絶ではない。
受容だ。
(やはりな)
その刹那──
「でも」
フィオの声が続く。
彼は目を見開き、彼女を見る。
月明かりを背にした彼女の表情は影に隠れているが、それでも視線を逸らさなかった。
「もし、いつか私が命を落としたとして……その時も、貴方がまだ私を欲しいと思っていたら」
一拍、沈黙。
「その時は、私の魂をあげる。死んだ後なら……貴方のものになっても、私は何も言わない」
言葉の意味が、ゆっくりとコクヨウの内側に沈み込む。
魂。
死後。
永遠。
それは、ダークライにとって、何よりも甘美で、抗い難い申し出だった。
『……』
彼は一瞬、言葉を失う。
「ただし」
フィオは、穏やかに、しかし確固たる意思で続ける。
「条件を付けさせてほしい」
『……どんな条件だ』
努めて平静を装った声。
だが、その奥に、僅かな緊張が滲む。
「私と一緒に、ミアレへ来てほしい」
彼女は一歩も引かずに言った。
「その条件を飲んでくれるなら……さっき言った約束、守るよ」
短い沈黙の後、影の中から低い笑い声が漏れた。
『成程……』
喉の奥で転がすような、愉悦を含んだ笑み。
『己自身を餌にして、私を釣ろうという訳か。何と大胆で、愚かで……』
──愛おしい
影が動き、コクヨウはフィオの傍へと歩み寄る。
『良いだろう』
即答だった。
『元より、求められれば応じるつもりではあった。お前の条件を飲もう』
彼は彼女の足元の影へ視線を落とし、次いでストレンジボールを指差す。
『その答えの証として、お前の影を貰い受ける』
影が、ゆっくりと波打つ。
『これまでは一時の居所に過ぎなかったが……これからは、私のものとして留まる』
『そのボールは用済みだ。好きにするといい』
彼の身体が溶けるように影へと沈み込み、フィオの影が生き物のように脈動した。
影の中から、最後の声が響く。
『案ずるな。お前の寿命を削ってまで、奪おうとは思わん』
『お前がその命を全うするまで、私は待つ。何者にも奪われぬよう、侵されぬよう、守り続ける』
『……長く待つほど、手に入れた時の悦は強くなる』
静まり返った部屋で、フィオはゆっくりと息を吐いた。
手に残る、空になったストレンジボール。
それを胸元で握りしめ、彼女は窓辺を離れる。
月明かりの中、彼女の影は──
確かに、喜色を帯びて、ゆっくりと揺れていた。
◆コクヨウ視点◆
……静かだ。
人の気配も、夜の街のざわめきも、この部屋には届かない。
あるのは月光と、呼吸の音と──私の影の中に在る、フィオの温度だけだ。
私は今、確かに“居る”。
これまでの私は、影に“留まって”いただけだった。
必要とあらば姿を現し、必要がなければ溶ける。
それ以上でも以下でもない、仮初の共存。
だが今は違う。
私は、この影を“縄張り”として定めた。
奪ったのではない。
差し出されたのだ。
自らの意思で。
(……まったく)
人間というものは、どうしてこうも理解し難い選択をする。
己を所有しないと断じながら、死後の魂を差し出すなど──矛盾している。
だが、その矛盾こそが、あの娘の本質なのだろう。
フィオ。
お前は、私を拒んだ。
だが同時に、私を信じた。
“今”は与えない。
“未来”は奪わせない。
それでも、“選ぶ余地”は残す。
……あまりにも残酷で、あまりにも誠実だ。
私は影の中で、そっと目を閉じる。
かつて、ヒスイで喪った存在が脳裏を掠める。
リッカ。
私の暗黒を拒まず、隣に置き、そして……私の手から零れ落ちた光。
同じ魂。
だが、違う在り方。
フィオは、暗黒に飲み込まれない。
支配も、隷属も、慰めとして受け取らない。
それでもなお、傍に居ることを選ぶ。
(……厄介だ)
欲するほどに、奪えぬ。
守るほどに、遠ざかる。
だが、それでいい。
私は、待つことを知っている。
人の一生など、悪夢の一夜にも満たぬほど短い。
待つことは、苦ではない。
それに──
(お前が生きている間、私の悪夢が及ばぬようにする程度は、造作もない)
新月の夜。
力が満ちる刻。
本来ならば、周囲の人間を眠りに落とし、恐怖に沈めるはずの夜。
だが、私は抑えている。
否。
“抑えられている”。
影の奥に、確かに存在する温度。
心拍。
生きている証。
それが、私の力を鎮めている。
……笑えぬ話だな。
悪夢を司る存在が、一人の人間の生を守るために、力を制御しているなど。
フィオが歩く。
部屋の中を移動するたび、影もまた形を変える。
私はその変化に合わせ、自然と重心を移す。
無意識だ。
意識する必要すらない。
これが、“共に在る”ということなのだろう。
(……ミアレか)
カロス。
人と光の街。
私にとっては、忌々しいほど眩しい土地だ。
だが、行く。
お前が行くなら、影はそこに在る。
それが、今回の取引だ。
取引であり、契約であり、誓約でもある。
私は、影の中で静かに口角を上げる。
(逃がさん。だが、縛らん)
生きている間は、お前のもの。
死した後は、私のもの。
この境界を、お前自身が定めた。
ならば私は、それを尊重しよう。
……それが出来てしまうからこそ、私はダークライなのだ。
フィオ。
お前は気付いていないだろうが──
お前の影は、もう随分と、私の形を覚えている。
それは、所有ではない。
侵略でもない。
ただの事実だ。
そして私は、今日も影の中で目を閉じる。
お前が眠るまで。
悪夢が、二度とお前に触れぬように。
生の終わりが来る、その日まで。
◆フィオ視点◆
──影が、少しだけ重い。
そう感じたのは、灯りを落としてベッドに腰掛けた瞬間だった。
怖いとか、不快とか、そういう類のものじゃない。
むしろ逆で、毛布を一枚余計に掛けた時のような、確かな存在感。
私はそっと自分の足元を見る。
月明かりに縁取られた影は、いつもより濃く、深く、静かに揺れていた。
(……居るんだ)
声に出さなくても分かる。
さっきまで交わしていた会話の余韻が、まだ空気に残っている。
胸の奥が、少しだけ落ち着かないのに、不思議と怖くはなかった。
机の上には、空になったストレンジボール。
指で触れると、ひんやりしている。
本来なら、相棒を収めるためのものなのに、今はもう役目を終えた器。
私はそれをそっと引き出しにしまい、代わりにベッドに横になる。
天井を見上げると、月の光がカーテンの隙間から差し込んで、淡く揺れている。
明日になれば、ここを発つ。
パルデアを離れ、カロスへ。
ミアレシティという、まだ見ぬ街へ。
不安がないと言えば、嘘になる。
一人で行くわけじゃない。
それでも、慣れ親しんだ場所を離れる夜は、どうしても胸が静かに軋む。
「……ねえ、コクヨウ」
小さく呟くと、影が僅かに脈打った。
返事はない。
でも、聞いていると分かる。
「私、正しい選択したのかな」
答えなんて、最初から求めていない問い。
それでも、言葉にしないと眠れなかった。
私は、彼のものにはならないと告げた。
それは譲れない。
生きている間の私は、私自身のものだから。
でも同時に、完全に拒むこともしなかった。
死んだ後の魂。
そんな遠い未来の話を、条件として差し出した自分が、少しだけ怖い。
(……ずるいよね)
自分で自分を守りながら、同時に逃げ道を残している。
それでも、あの時はそれしか言えなかった。
影の中で、何かが静かに動いた気配がする。
まるで、息を整えるみたいに。
「……大丈夫。ちゃんと生きるから」
誰に言い聞かせるでもなく、私はそう呟いた。
約束、というより宣言に近い。
私は生きる。
精一杯、最後まで。
だから、その時が来るまで──
コクヨウ、あなたは待つしかない。
その考えに至った時、影がほんの一瞬、柔らかく揺れた気がした。
喜色、なんて言葉が浮かんで、自分で苦笑する。
(気のせい、だよね)
私は目を閉じる。
部屋は静かで、夜は深い。
けれど、不思議と孤独じゃない。
悪夢のポケモン。
暗黒を纏う存在。
そんな彼が、今はただ、私の影としてここに居る。
怖いはずなのに。
危険なはずなのに。
「……行こうね。ミアレ」
そう囁くと、影は否定しなかった。
まるでそれが当然だとでも言うように、
私の輪郭にぴたりと沿って、静かにそこに在り続けた。
その夜、私は久しぶりに、夢を見なかった。
忘れられた暗黒は、白銀の夢を魅る。