#梓にだって,華が咲く。
皆様こんにちは〜🔰
書きなれてない紅羽ですᡣ𐭩ʬ
のびのび書いてます、!
可愛いよ!
二人とも!
読んでみて!まじで!とあるおじさんもいい人かもしれぬ!
#梓にだって,華が咲く。【1】
第一話
「橋の下の将棋指し」
夜の河川敷は、街に見捨てられた場所みたいだった。
橋の下。
落書きだらけのコンクリート。
湿った風。
少し離れた場所では、おじさんたちが煙草を吸っている。
西園寺初華は、コンビニ袋を片手に歩いていた。
ジャージ姿。
片手には缶酎ハイ。
橋の下の奥へ進む。
十年以上前から使われていない河川管理小屋。
最初は雨宿りのつもりだった。
今では、ほとんど部屋みたいになっている。
小屋の前まで来た時だった。
「……誰」
人影。
小さい。
女。
知らない顔だった。
ツインテールの少女が、小屋の前に座っていた。
ジャージの膝に将棋盤を乗せている。
しかも。
一人で。
初華は眉を寄せた。
「なにしてんの」
少女は顔を上げる。
ぱち、と目が合った。
暗い場所なのに、その子の目だけやけに明るく見えた。
「将棋です」
「見りゃわかる」
「なら聞かないでくださいよ」
初華は少し黙った。
なんだこいつ。
怖がりもしない。
普通、中学生の女が深夜二時の橋の下にいたら警戒するだろ。
「……あんた、誰」
「九条梓です」
「フルネーム聞いてない」
「じゃあ梓で」
軽い。
妙に。
初華は缶酎ハイを開けながら、小屋のドアを開いた。
梓がその中を覗き込む。
「うわ」
「なに」
「思ったより住んでますね」
「住んでない」
半分くらい住んでるけど。
ソファ。
毛布。
小さいライト。
棚。
充電器。
どう見ても生活空間だった。
梓は将棋盤を抱えたまま立ち上がる。
「先輩、不良なんですか」
「……は?」
「お酒持ってるので」
「違う」
「煙草の匂いもします」
「うるさいな」
初華は小屋へ入った。
梓もついてくる。
「なんで入ってくんの」
「寒いので」
「帰れば」
「帰りたくないです」
その言い方が、妙に自然だった。
初華は少しだけ視線を向ける。
梓は笑っていた。
でも、笑顔のわりに目が眠っていない。
家出だ。
なんとなくわかった。
「親は」
「さあ」
「探してるでしょ」
「どうでしょう」
梓はソファの横に将棋盤を置いた。
「先輩、ここよく来るんですか」
「毎日」
「へぇ」
「……なに」
「いや、ほんとにいる人いたんだなって」
「は?」
「都市伝説みたいな」
「意味わかんない」
梓は小さく笑った。
そのあと、将棋盤の駒を並べ始める。
カチ、カチ、と乾いた音。
初華は缶酎ハイを飲みながら、それをぼんやり見ていた。
「強いの」
「世界一です」
「は?」
「同年代なら」
真顔だった。
冗談っぽくない。
「……すご」
「でも、もう無理かもですけど」
「なんで」
梓は角を置く。
「お金ないので」
あっさり言った。
初華は少し黙る。
なんとなく、その話を深掘りしてはいけない気がした。
代わりに。
「煙草嫌い?」
と聞いた。
梓は顔を上げる。
「先輩吸うんですか」
「まあ」
「やめた方がいいですよ」
「なんで」
「死ぬので」
「人類みんな死ぬじゃん」
「屁理屈だ」
初華は少し笑った。
本当に少しだけ。
梓はその顔を見て、目を細める。
「先輩」
「なに」
「名前」
「……初華」
「初華先輩ですね」
「先輩いらない」
「嫌です」
「なんで」
「先輩なので」
変なやつ。
初華はそう思った。
でも。
悪くないとも思った。
ーー
第二話
「また来た後輩」
橋の下は、今日も湿っていた。
昼間に降った雨のせいで、河川敷の土が少し柔らかい。
西園寺初華は、コンビニ袋を提げたまま小屋へ向かっていた。
橋脚の横では、いつものおじさんたちが煙草を吸っている。
「お、嬢ちゃん」
「ん」
「今日寒ぃぞ」
「知ってる」
缶コーヒーが飛んできた。
初華は片手で受け取る。
「……どーも」
「珍しく素直だな」
「うるさい」
おじさんたちは笑った。
初華はそのまま小屋の前へ向かう。
そして。
「……は?」
いた。
昨日のツインテール。
九条梓。
今日は小屋の前にしゃがみ込み、コンビニのおにぎりを食べていた。
「先輩、おかえりです」
「なんでいるの」
「来ちゃいました」
「帰れよ」
「嫌です」
即答だった。
初華はため息をつく。
「……親泣いてるよ」
「どうでしょう」
「その返し好きだね」
「便利なので」
梓は笑う。
初華は小屋の鍵代わりにしている針金を外した。
ドアが軋む。
梓が後ろから覗き込む。
「入るな」
「まだ入ってないですよ」
「今から入る気でしょ」
「バレました?」
こいつ、妙に馴染むのが早い。
初華は少しだけ眉を寄せた。
小屋の中は相変わらず薄暗い。
ソファ。
毛布。
古い棚。
小さい冷蔵庫。
梓は昨日置いていった将棋盤を見つけると、少し嬉しそうな顔をした。
「捨ててなかった」
「勝手に置いてったんでしょ」
「先輩、優しいですね」
「違う」
初華は缶酎ハイを開ける。
炭酸の音。
梓はそれをじっと見ていた。
「また飲むんですか」
「悪い?」
「未成年」
「お前もね」
「私は飲まないです」
「偉い偉い」
「馬鹿にしてます?」
「してる」
梓は頬を膨らませた。
子どもっぽい。
でも。
その顔のまま急に静かになる時がある。
それが少し気になった。
「……今日も帰んないの」
初華が聞く。
梓は少し黙った。
それから。
「帰っても、誰もいないので」
と、軽い声で言った。
でも。
軽すぎて逆に変だった。
初華は視線を逸らす。
踏み込むな、と自分に言い聞かせた。
その時だった。
「嬢ちゃーん」
外からおじさんの声。
「煙草捨ててくかー?」
「あとで行く」
「お、今日は連れいんのか」
梓が顔を出す。
「こんばんは」
「おぉ、礼儀いいな嬢ちゃん」
「どうも」
「お前の妹?」
「違う」
「先輩です」
「へぇー」
おじさんたちはニヤニヤしていた。
初華は露骨に嫌そうな顔をする。
「……うざ」
「青春だなぁ」
「違うって」
「先輩」
「なに」
「青春ってなんですか」
「知らない」
即答だった。
梓は少し笑う。
「じゃあ今度調べときます」
「将棋だけやってろ」
「先輩も華道だけやってればいいじゃないですか」
空気が止まった。
初華の目が細くなる。
「……なんで知ってんの」
「有名ですよ。西園寺家」
梓は将棋盤へ視線を落とした。
「お嬢様学校の次期当主候補が橋の下に住んでるって、ちょっと面白いですね」
「住んでない」
「半分くらい住んでます」
否定できなかった。
小屋のライトが、ぼんやり二人を照らしている。
橋の上を電車が通った。
轟音。
そのあと。
少しだけ静寂。
梓が不意に言う。
「先輩」
「なに」
「ここ、好きです」
初華は少し黙った。
それから。
「……変なの」
とだけ呟いた。
ーー
第三話
「夜に傷は見えない」
雨だった。
橋の下は濡れない。
でも湿気だけは入り込んでくる。
小屋の屋根を叩く雨音を聞きながら、西園寺初華は古いソファへ寝転がっていた。
煙草は切れている。
買いに行くのも面倒だった。
小さいライトだけが部屋を照らしている。
ぼんやり天井を見ていた時。
ガチャ、とドアが開いた。
「寒っ……」
九条梓だった。
髪が少し濡れている。
「傘は」
「風で壊れました」
「雑魚」
「酷い」
梓は笑いながら中へ入ってくる。
最近、ノックをしなくなった。
初華はもう何も言わない。
「……学校は」
と、初華が聞く。
「行きましたよ」
「偉」
「先輩は」
「行ってない」
「でしょうね」
即答だった。
梓は制服のまま床へ座り込む。
鞄を開き、中から教科書を取り出した。
初華が眉を寄せる。
「なにそれ」
「宿題です」
「ここでやんの?」
「家だと集中できないので」
「橋の下で集中できるやつ初めて見た」
「慣れですよ」
梓はシャーペンを走らせ始める。
雨音。
紙を擦る音。
変な空間だった。
橋の下の廃小屋で、中一が宿題をしている。
初華は小さく笑う。
「先輩」
「なに」
「暇なら英語教えてください」
「嫌」
「なんでですか」
「学校嫌いだから」
「理不尽」
梓は頬を膨らませた。
そのあと。
「……先輩って、なんで学校行かないんですか」
と、不意に聞く。
初華は黙る。
雨音だけが続く。
「別に」
「別にじゃないですよ」
「面倒だから」
「嘘」
即答。
初華は少し目を細めた。
「お前さ」
「はい」
「遠慮ないよね」
「先輩が遠慮しなくていい空気出してるので」
「なにそれ」
「あと」
梓は少し視線を落とす。
「先輩、たまに消えそうなので」
初華は言葉を失った。
雨が強くなる。
橋の下へ反響する音。
梓はまた宿題へ視線を戻した。
まるで今の言葉が普通みたいに。
初華は小さく舌打ちする。
「……消えないし」
「ならいいです」
梓はそう言って笑った。
その時。
初華の袖が少しずれた。
黒いシュシュ。
その下。
一瞬だけ、白い肌に細い傷が見える。
梓の手が止まった。
でも。
何も言わない。
視線だけが静かに落ちる。
初華はすぐ袖を直した。
「見るな」
「見てません」
「嘘つけ」
「……見えました」
沈黙。
初華は煙草のない口元を苛立たしげに触る。
「昔のだから」
「はい」
「別に今はやってない」
「はい」
「……なんか言えば」
梓は少し考える。
それから。
「シュシュ、新しいの買います?」
とだけ言った。
初華は思わず笑った。
「そこ?」
「隠すなら黒以外もあった方がいいですよ」
「発想が現実的すぎる」
「大事です」
梓は真顔だった。
初華は小さく息を吐く。
説教も。
同情も。
かわいそうな目も。
何もない。
それが妙に楽だった。
雨音はまだ続いている。
橋の下だけが、夜から切り離されたみたいに静かだった。
ーー
第四話
「橋の下の元王将」
その日は、やけに人が多かった。
橋脚の近く。
いつものおじさんたちが、缶コーヒー片手に集まっている。
「……なにこれ」
初華は眉を寄せた。
「祭り?」
「違ぇよ嬢ちゃん」
おじさんが煙草を咥えながら笑う。
「今日は酒田のじっさん来てんだ」
その名前に、周囲のおじさんたちが少しざわつく。
初華は小屋の前を見る。
古い折り畳み椅子。
そこに、一人の老人が座っていた。
白髪。
無精髭。
黒いコート。
ワンカップを持ったまま、ぼんやり川を見ている。
覇気がない。
ただの酔っ払いにしか見えなかった。
「誰」
「元王将」
「は?」
「昔な」
初華は目を細める。
その時だった。
「こんばんはー」
梓が橋の下へ降りてきた。
いつものツインテール。
いつもの将棋盤。
梓は人だかりを見るなり首を傾げる。
「なんですかこれ」
「お前将棋強いんだって?」
おじさんが確認するかのように言う。
梓は普通に頷いた。
「はい。世界一ですから」
真顔だった。
一瞬静まる。
それからおじさんたちが吹き出した。
「ははは! 言うねぇ嬢ちゃん!」
「同年代なら…っ…ですけど」
「マジ顔だこいつ」
初華は少し笑う。
梓は本当に、将棋だけになると変なやつだ。
「この集まりにな、元王将の爺がいるんだよ」
おじさんAが親指で示す。
「あそこにいる酒田のじっさん」
梓が視線を向ける。
酒田は無言だった。
梓も黙る。
数秒。
「……やります?」
と、梓が言った。
初華が吹き出しかけた。
「お前さ」
梓は酒田に煽るかのように言う。
「だって将棋指しですよね?」
「まあな」
初華は酒田を見る。
酒田はワンカップを飲み干すと、小さく息を吐いた。
「帰れガキ」
「嫌です」
「生意気」
「勝てるので」
食い下がる梓に初華は止めに入る。
「梓」
「はい?」
「煽るな」
おじさんたちは大笑いしている。
酒田はしばらく黙っていた。
それから。
「……盤出せ」
と言った。
一瞬、空気が変わった。
おじさんたちが静かになる。
梓の目が少しだけ細くなる。
初華はその顔を見た。
いつもの梓じゃない。
橋の下で笑ってる後輩じゃなく。
勝負師の顔。
小屋の前へ将棋盤と小さなタイマーが置かれる。
カチ。
駒音が鳴る。
橋の上を電車が通った。
轟音。
でも誰もそっちを見ない。
梓は真っ直ぐ盤を見ている。
酒田も無言。
カチ。
カチ。
時間だけが過ぎる。
最初は余裕そうだった梓の顔から、少しずつ笑みが消えていった。
初華は将棋なんてわからない。
でも。
空気だけでわかった。
今、すごいものが起きている。
おじさんたちも喋らない。
煙草の煙だけが漂っている。
「……っ」
初めて。
梓が小さく息を呑んだ。
酒田は変わらない。
ただ静かに駒を置く。
カチ。
梓が考える。
長い沈黙。
やがて。
酒田が駒から手を離した。
梓は盤面を見つめる。
数秒。
それから。
「……引き分けです」
と、小さく言った。
橋の下が静まり返る。
「は……?」
おじさんたちが声を漏らした。
「おいおい」
「酒田のじっさんに引き分けまで持ち込むとか、ガチもんじゃねーか……」
梓は盤面を見たままだった。
「引き分けは負けです」
酒田が鼻で笑う。
「中坊が偉そうに」
「事実ですから」
「可愛げねぇな」
でも。
酒田は少しだけ笑っていた。
初華はそれを見逃さなかった。
酒田は煙草に火をつける。
紫煙が夜へ溶ける。
「……嬢ちゃん」
「はい」
「行くとこねぇなら、しばらく俺んとこ来るか」
梓が目を瞬いた。
「は?」
「弟子入りだよ」
初華も目を丸くする。
「……は?」
酒田は盤を見ながら言った。
「終盤は甘ぇ。だが筋はいい」
カチ、と駒を指で弾く。
「腐らすにゃ惜しい」
梓は少し黙った。
それから。
小さく笑った。
「……考えときます」
その横顔を見ながら。
初華は、自分でもよくわからない感情を覚えていた。
ーー
第五話
「置いていった荷物」
小屋の隅に、見慣れない袋が増えていた。
スポーツバッグ。
コンビニ袋。
将棋雑誌。
初華はそれを見下ろしたまま言う。
「……増えてない?」
「増えてますね」
梓は普通に答えた。
「なんで」
「荷物なので」
「そういう話じゃなくて」
梓は笑う。
最近、ここで笑う回数が増えた。
小屋の中は少しずつ物が増えている。
毛布。
充電器。
ペットボトル。
そして今日は、歯ブラシまであった。
初華はそれを見つけて眉を寄せる。
「……お前さ」
「はい」
「帰ってる?」
梓は少し黙った。
でも、すぐに笑う。
「ぼちぼちです」
「絶対帰ってないじゃん」
「バレました?」
「バレる」
制服もしわが増えた。
寝不足の顔。
でも梓はいつも通りだった。
将棋盤を膝に乗せ、駒を並べ始める。
カチ。
静かな音。
「酒田さんのとこ行かないの」
初華が聞く。
「考え中です」
「弟子入り」
「なんか重いじゃないですか」
「将棋は軽くないでしょ」
梓の手が少し止まった。
それから。
「……辞めろって言われたので」
と、ぽつりと言った。
初華は視線を向ける。
「誰に」
「家」
短い返事。
でも、それだけで十分だった。
梓は駒を動かす。
「お金ないですし」
カチ。
「将棋って、お金かかるので」
カチ。
「遠征費とか、大会費とか」
カチ。
「九条家は確かに公家の末裔でチェスや将棋の名家ですけど今はそれどころじゃないと。」
その声は軽い。
軽く言っている。
けれど最後の、─言われました、も言えぬほど言葉はつまっていた
だから余計に苦しかった。
初華は煙草を咥えたまま黙る。
「……お前、辞めたいの」
梓は初めて手を止めた。
しばらく盤面を見る。
それから。
「辞めたくないです」
と、小さく言った。
橋の上を車が走る音。
川の音。
夜風。
全部が少し遠い。
「世界一なんで」
梓は笑った。
でも。
少しだけ泣きそうな顔だった。
初華は視線を逸らす。
そういう顔、嫌だった。
見てると胸が詰まる。
「……そこ」
初華が小屋の隅を指す。
梓が瞬きをする。
「は?」
「荷物置き場」
「追い出さないんですか」
「今さら」
梓は少し黙る。
それから。
「……ありがとうございます、初華先輩」
と、小さく笑った。
その笑顔を見ながら。
初華はぼんやり天井を見る。
『─腐らすにゃ惜しい』
西園寺家なら。
奨学金でも。
後援でも。
推薦でも。
九条梓が将棋を続ける道を、作れなくはない。
それができる家だ。
嫌になるほど。
「……最悪」
初華は小さく呟いた。
自分を縛る家なのに。
梓を救えるのも、その家だった。
ーー
#梓にだって,華が咲く。【2】
第六話
「弟子入り」
酒田の家は、思っていたより普通だった。
「……団地じゃん」
初華はぼそりと呟く。
「なんだと思ってたんですか」
「もっとこう……道場みたいな」
「偏見ですよ」
梓は笑う。
古い団地。
錆びた階段。 薄い蛍光灯。
深夜の橋の下とはまた違う、生活の古びた匂いがした。
三階。
酒田は鍵を開けながら言う。
「狭ぇぞ」
「別に住むわけじゃないです」
「毎週来るなら同じだろ」
ドアが開く。
部屋の中は静かだった。
畳。 古いテレビ。 積み上がった将棋雑誌。 湯飲み。 煙草の匂い。
そして。
壁一面の賞状と写真。
若い頃の酒田が映っている。
和服姿。 トロフィー。 記者会見。
初華は少し目を見開いた。
「……ほんとに元王将なんだ」
「今さらか」
酒田は靴を脱ぎ捨てる。
梓は部屋へ入った瞬間、空気が変わった。
目が真っ直ぐになる。
盤を見る目。
勝負師の顔。
「座れ」
酒田が将棋盤を置く。
カチ、と駒箱が開く音。
梓は無言で正座した。
初華だけが少し浮いている。
「……私いる必要ある?」
「ある」
梓が即答した。
「なんで」
「見ててください」
真顔だった。
初華は少し黙る。
酒田もおじさんだから、というのもあるかもしれない。
それから壁際へ座り込んだ。
「負けても知らないからな。」
「負けません」
酒田が鼻で笑う。
「言うなぁガキ」
対局が始まる。
カチ。
駒音。
静かな部屋。
時計の秒針。
煙草の煙。
橋の下とは違う。
でも、どこか似ていた。
梓は盤しか見ていない。
酒田も無言。
空気だけが張り詰めていく。
初華はぼんやりそれを見ていた。
不思議だった。
将棋なんてわからない。
でも。
梓が今、誰より生きてる顔をしてるのだけはわかった。
カチ。
梓が指す。
酒田が即座に返す。
「遅ぇ」
「考えてます」
「考えて見える将棋じゃねぇ」
梓の眉が少し動く。
悔しそうだった。
その顔を見て。
初華は少しだけ笑った。
数時間後。
「負けました」
梓が盤へ頭を下げた。
酒田は煙草を咥えたまま言う。
「当たり前だ」
「悔しいです」
「そりゃいい」
梓は盤面を見つめたままだった。
その目はまだ死んでいない。
むしろ熱が増している。
酒田は小さく息を吐く。
「……来週も来い」
梓が顔を上げる。
「はい」
「終盤叩き直す」
「はい」
「あと礼儀」
「はい?」
「煽るな」
初華が吹き出した。
「言われてるじゃん」
「初華先輩笑いました?」
「笑ってない」
「笑いました」
酒田は呆れたように煙を吐く。
「うるせぇ弟子だな」
弟子。
その言葉に。
梓は少しだけ嬉しそうに笑った。
帰り道。
団地の階段を降りながら、梓がぽつりと言う。
「楽しかったです」
「そりゃよかったね」
「久しぶりでした」
夜風が吹く。
梓は前を向いたまま続けた。
「ちゃんと将棋したの」
初華は少し黙る。
その横顔を見る。
橋の下で笑ってる時とは違う顔だった。
苦しくて。
でも嬉しそうな顔。
「……そっか」
それしか言えなかった。
橋の下へ戻る頃には、もう深夜二時を回っていた。
小屋のドアを開ける。
いつもの空気。
毛布。 ライト。 狭いソファ。
梓は慣れたように荷物を置く。
初華はそれを見ながら、なんとなく思った。
たぶん。
梓はこれから、少しずつ橋の下の外へ行く。
将棋の世界へ。
昼の世界へ。
それはきっと良いことだった。
なのに。
少しだけ。
面白くなかった。
初華は缶酎ハイを開ける。
炭酸の音が、小屋に響いた。
ーー
第七話
「小さな大会」
橋の下は静かだった。
いつもより。
少しだけ。
初華はソファに寝転がったまま天井を見ていた。
ライト。
毛布。
棚。
いつもの景色。
なのに妙に広く感じる。
「……暇」
誰も返事しない。
当たり前だった。
梓は酒田のところだ。
毎週。
最近は決まって通っている。
別に良い。
良いけど。
初華はスマホを見る。
二十三時四十分。
まだ来ない。
「だからなんだよ」
自分で呟いて。
缶酎ハイを開けた。
炭酸の音が響く。
その時だった。
ドアが開く。
「ただいまです」
聞き慣れた声。
梓だった。
「家じゃねーよ。遅い」
なぜか声が少しかすれた。
「怒ってます?」
「別に」
梓は笑う。
最近よく笑う。
将棋をしているせいかもしれない。
酒田のところへ通い始めてから、少しだけ表情が増えた気がした。
梓は荷物を置く。
将棋盤。
鞄。
ペットボトル。
「今日は何時間?」
「五時間くらいです」
「暇人」
「先輩に言われたくないです」
その時。
外から声がした。
古い小屋のドアにノックがかかる。
「いるかガキ」
酒田だった。
梓が顔を出す。
「どうしました?」
酒田は一枚の紙を差し出した。
ポスターだった。
「これ」
梓が受け取る。
目を通す。
その瞬間。
空気が変わった。
初華はそれを見逃さなかった。
「大会?」
梓が小さく呟く。
酒田は頷く。
「市の大会だ」
「……」
「中高生向け」
梓は黙ったままポスターを見ていた。
目が離せないみたいに。
「出るか」
酒田が言う。
初華は梓を見る。
返事はすぐ来ると思った。
でも。
「無理です」
梓はそう言った。
酒田が眉を寄せる。
煙草を加え直した。
「なんでだ」
「お金」
短い返事。
酒田は黙る。
梓はポスターから目を離した。
「参加費」
「……」
「交通費」
「……」
「色々あるので」
軽い声だった。
でも。
その声は少しだけ苦しそうだった。
初華は視線を向ける。
「出たいの」
梓は少し黙った。
それから。
「出たいです」
即答だった。
今までで一番迷いのない声だった。
酒田は小さく息を吐く。
「そうか」
それだけ言う。
ポスターは小屋の机へ置かれた。
酒田は帰る。
橋の下にはまた静けさが戻った。
梓は座ったままポスターを見ていた。
何度も。
何度も。
初華はその横顔を見る。
将棋盤を見ている時と同じ顔だった。
欲しいものを見ている顔。
諦めたくない顔。
そんな顔を見て面白くないと思った。
「……最悪」
小さく呟く。
梓は顔を上げる。
「何か言いました?」
「別に」
初華は視線を逸らした。
ポスター。
将棋盤。
梓。
そして。
西園寺家。
嫌になるほど金があって。
嫌になるほど力がある家。
初華は缶酎ハイを開ける。
炭酸の音が響く。
ふと。
あの日の考えが頭をよぎった。
──『─腐らすにゃ惜しい』
西園寺家なら。
奨学金でも。
後援でも。
推薦でも。
九条梓が将棋を続ける道を、作れなくはない。
初華は小さく舌打ちした。
橋の下の夜は、まだ終わらなかった。
ーー
第八話
「西園寺初華」
橋の下は静かだった。
梓は将棋盤を見ている。
机の上には大会のポスター。
何度も読んだせいか、端が少し折れていた。
「……」
初華はそれを見ていた。
梓は何も言わない。
でも。
出たいのだとわかる。
酒田が帰ったあとも。
ずっと見ていたから。
「先輩?」
梓が顔を上げる。
「なにぼーっとしてるんですか」
「別に」
初華は立ち上がった。
ジャージを整える。
スマホをポケットへ突っ込む。
「どこ行くんですか」
「散歩」
「夜中の一時ですよ」
「知ってる」
梓は不思議そうな顔をした。
でも追及しない。
そういうところは助かる。
---
西園寺家は眠っていなかった。
巨大な門。
長い石畳。
庭園。
見慣れた景色。
なのに。
初華は少しだけ吐きそうだった。
「……最悪」
門を押す。
音もなく開いた。
「お嬢様」
使用人が目を見開く。
「お帰りなさいませ」
「帰ってきたわけじゃない」
それだけ言う。
足は自然と進む。
廊下。
掛け軸。
生け花。
全部嫌いだった。
襖の向こう。
「失礼します」
返事はない。
でも開ける。
そこにいた。
西園寺清十郎。
四十八歳。
現当主。
筆を持ったまま顔を上げる。
「……」
「……」
沈黙。
数秒。
数十秒にも感じた。
「何の用だ」
清十郎が言う。
声は静かだった。
怒っていない。
だから余計に怖い。
---
「頼みがある」
「断る」
「まだ言ってない」
「聞く必要がない」
即答だった。
初華は奥歯を噛む。
(今にもクソ野郎と声を荒げてしまいたい)
「将棋の大会がある」
「そうか」
「後援が必要」
「そうか」
「西園寺家ならできる」
「そうか」
全部同じ温度。
壁に話しているみたいだった。
「誰のためだ」
清十郎が聞く。
「後輩」
「断る」
初華の眉が動く。
「西園寺家は慈善団体ではない」
「……」
「理由になっていない」
痛い。
全部正論だった。
「終わりか」
清十郎が筆を置く。
「なら帰れ」
帰りたい。
今すぐ。
橋の下へ。
梓のいる場所へ。
でも。
ポスターを見ていた顔が浮かんだ。
『出たいです』
迷いのない声。
初華は拳を握る。
「私は」
清十郎は黙っている。
「私は次期当主です」
部屋が静まる。
清十郎の目が動いた。
本当に少しだけ。
「……なんだと」
初華の喉が震える。
怖い。
帰りたい。
でも。
「私は次期当主です」
清十郎がゆっくり立ち上がる。
「もう一度言え」
圧力。
空気が重い。
それでも。
初華は顔を上げた。
「私は……っ」
声が掠れる。
「西園寺家 次期当主…っ」
震える。
「西園寺初華です」
静寂。
長い沈黙。
清十郎はしばらく娘を見ていた。
橋の下へ逃げた少女ではなく。
西園寺初華を。
初めて見るように。
そして。
「続けろ」
初華は息を呑んだ。
ーー
後半
---
静寂。
長い沈黙。
清十郎はしばらく娘を見ていた。
橋の下へ逃げた少女ではなく。
西園寺初華を。
初めて見るように。
そして。
「続けろ」
初華は息を呑んだ。
「……将棋を指す後輩がいます」
「知っている」
初華の眉が動く。
「知ってる?」
「お前がその話をしに来たんだろう」
清十郎は座ったまま言う。
「続けろ」
初華は拳を握る。
喉が渇いていた。
「才能があります」
「そうか」
「酒田元王将も認めてる」
「そうか」
「大会に出たいって言ってる」
「そうか」
全部同じだった。
壁に話しているみたいだった。
帰りたい。
今すぐ。
橋の下へ。
梓のいる場所へ。
「っ……出られないんだよ」
初華が言う。
「金がないから」
清十郎は黙っている。
「辞めろって言われてる」
「そうか」
「なのに」
言葉が詰まる。
頭に浮かぶ。
将棋盤。
小屋。
ポスター。
そして。
『出たいです』
迷いのない声。
あの顔。
初華は奥歯を噛む。
「腐らせたくない」
部屋が静まる。
清十郎は何も言わない。
「……私は」
初華は視線を上げた。
「西園寺家次期当主として」
震える。
でも止まらない。
「九条梓を支援する価値があると判断した」
沈黙。
長い沈黙。
掛け時計の音だけが響く。
やがて。
清十郎が口を開いた。
「責任は」
「取る」
「失敗したら」
「私が負う」
即答だった。
初華自身少し驚く。
でも。
嘘じゃなかった。
清十郎はしばらく娘を見ていた。
それから。
「企画書を書け」
初華が瞬きをする。
「……は?」
「支援が必要なんだろう」
「え」
「理由があるんだろう」
清十郎は筆を持つ。
「なら書け」
初華は言葉を失った。
「西園寺家の金は慈善事業では動かん」
淡々とした声。
「だが」
「次期当主の判断なら話は別だ」
部屋が静まる。
初華は動けなかった。
「……」
「終わりか」
清十郎が言う。
「なら出ていけ」
初華は数秒固まる。
それから。
「……あんがと」
と言った。
清十郎は顔を上げない。
「聞こえん」
「もういい」
初華は踵を返した。
逃げるように。
部屋を出る。
廊下を歩く。
誰もいない。
静かな屋敷。
「……っ」
初華は壁にもたれた。
心臓がうるさい。
手が震えていた。
今さら。
本当に今さら。
怖くなった。
---
橋の下へ戻った頃には、深夜二時を回っていた。
小屋のライトはまだ点いていた。
ドアを開ける。
梓がいた。
将棋雑誌を開いたまま眠っている。
眼鏡が少しずれていた。
梓も読み物をするときは眼鏡するんだなと思った。
「……」
初華はしばらく見下ろす。
机の上。
大会のポスター。
将棋盤。
散らかった荷物。
増えすぎた歯ブラシ。
全部そのまま。
「ほんと」
小さく呟く。
「めんどくさい後輩」
返事はない。
当たり前だった。
初華はジャージのポケットから封筒を取り出す。
西園寺家の家紋。
一番嫌いな封筒。
それを机の上へ置いた。
梓は起きない。
将棋雑誌を抱えたまま眠っている。
初華は少しだけ笑った。
たぶん。
本当に少しだけ。
橋の上を電車が通る。
轟音。
夜風。
川の音。
それでも橋の下は静かだった。
---
九条梓はまだ知らない。
その封筒のために。
初華が今日、橋の下の不良ではなく、
西園寺初華になったことを。
---
第九話
「腐らせたくない」
朝だった。
橋の下に朝日が差し込んでいる。
珍しい。
夜の場所だったはずなのに。
今日はやけに明るかった。
西園寺初華はソファの上で目を開ける。
「……まぶし」
寝返りを打つ。
毛布が落ちる。
頭が重い。
眠い。
まだ寝ていたかった。
その時だった。
机の前に誰かいる。
九条梓だった。
将棋盤じゃない。
封筒を見ている。
白い封筒。
初華は一瞬だけ固まった。
でもすぐに顔を戻す。
「なにそれ」
梓が振り向く。
「知りません」
「は?」
「起きたら置いてありました」
初華は吹き出しそうになった。
我慢する。
「怪しいな」
「ですよね」
梓は封筒を持ち上げた。
表。
裏。
横。
ひっくり返す。
「爆発しませんかね」
「しない」
「毒ガスとか」
「漫画の見すぎ」
「橋の下ですし」
「橋の下をなんだと思ってるの」
梓は少し考えた。
「橋の下です」
「そのままだな」
梓が小さく笑う。
それから封を切った。
紙の音。
数枚の書類。
大会要項。
参加申込書。
交通費補助。
推薦状。
梓の動きが止まった。
「……」
「なに」
「意味わかんないです」
「へぇ」
「参加費免除」
「へぇ」
「交通費補助」
「へぇ」
「推薦付き」
「へぇ」
梓がじっと見る。
「反応薄くないですか」
「朝だから」
「絶対違う」
初華は欠伸をした。
梓はまた書類を見る。
何度も。
何度も。
まるで消えるかもしれないみたいに。
「……出られる」
小さな声だった。
初華は聞こえないふりをした。
---
夜。
酒田の団地。
畳の部屋。
煙草の匂い。
古い将棋雑誌。
梓は封筒を差し出した。
「これです」
酒田が受け取る。
「なんだ」
「知りません」
「知らねぇもの持ってくるな」
「本当に知らないので」
酒田は封筒を開く。
書類を見る。
そして。
数秒。
止まった。
「……」
梓が首を傾げる。
「酒田さん?」
「どこで貰った」
「橋の下です」
「意味わからん」
酒田は推薦状を見る。
印を見る。
名義を見る。
煙草を咥え直す。
「……」
梓はじっと見ていた。
何年も将棋をやってきた。
対局中の相手の顔を見る癖がある。
だから。
わかった。
酒田は何か知っている。
「誰なんですか」
「知らねぇ」
「嘘です」
「知らねぇな」
「顔に書いてあります」
「生意気」
酒田は煙を吐く。
面倒そうに天井を見る。
「だったら考えろ」
梓が黙る。
酒田はそれ以上言わなかった。
---
帰り道。
夜風が冷たかった。
梓は一人で歩く。
封筒を持ったまま。
橋の下へ向かう。
街灯。
川。
静かな夜。
梓は封筒を見る。
推薦状を見る。
印を見る。
家紋を見る。
見覚えがあった。
どこで。
いつ。
考える。
考える。
考える。
そして。
不意に浮かんだ。
華道展。
新聞記事。
お茶会。
名家。
西園寺家。
「……あ」
足が止まる。
胸の奥が少しだけ冷たくなる。
西園寺。
西園寺初華。
橋の下。
封筒。
昨日。
深夜。
散歩。
「……」
梓はしばらく動かなかった。
---
橋の下。
小屋。
ライト。
ソファ。
いつもの景色。
初華は寝転がっていた。
缶酎ハイ。
スマホ。
ため息。
いつも通り。
ドアが開く。
梓が入ってくる。
「おかえり」
返事がない。
初華は少しだけ顔を上げた。
梓の表情を見る。
そこで察した。
バレた。
「初華先輩」
「なに」
梓が封筒を机に置く。
音が響く。
「これ」
「なに」
「先輩ですよね」
沈黙。
初華は缶を持ち上げる。
「違う」
「嘘です」
「知らない」
「西園寺って書いてあります」
終了だった。
初華は天井を見た。
「同じ苗字の人かも」
「西園寺ってそんなにいます?」
「知らない」
「苦しいです」
「苦しくない」
梓は笑わなかった。
ただ見ている。
真っ直ぐ。
逃がさないみたいに。
「なんでですか」
初華は黙る。
「なんでそんなことしたんですか」
「別に」
「別にじゃないです」
「別にだし」
「違います」
声が少し強い。
珍しかった。
梓がここまで感情を出すのは。
「初華先輩」
「……」
「家、嫌いじゃないですか」
初華の目が動く。
「帰りたくないって言ってたじゃないですか」
「……」
「なのに」
梓は拳を握る。
「なんで使ったんですか」
静かだった。
橋の上を車が通る。
川の音。
夜風。
誰も喋らない。
やがて。
初華が口を開く。
「腐らせたくなかった」
梓が瞬きをする。
「……は?」
「将棋」
初華は視線を逸らした。
「お前」
「……」
「将棋やってる時」
言葉を探す。
苦手だった。
こういうの。
「馬鹿みたいに生きてる顔してるから」
沈黙。
梓は何も言わない。
「酒田も言ってたし」
「……」
「腐らすには惜しいって」
初華は立ち上がる。
少し苛立ったように。
「だから使った」
「……」
「それだけ」
「それだけじゃないです」
梓が言う。
「初華先輩にとっては大きいことです」
「別に」
「別にじゃないです」
初華は舌打ちする。
「うるさいな」
「私頼んでません」
「知ってる」
「私のためにそんなこと」
「知ってる」
「なんで」
初華は振り返る。
そして。
少しだけ怒った顔で言った。
「だから腐らせたくなかったんだろ」
「……」
「何回言わせんの」
梓は黙る。
俯く。
肩が少し震える。
「私なんかのために」
小さな声。
その瞬間だった。
「お前なんかじゃない」
初華が言う。
強く。
はっきり。
橋の下が静まる。
「……」
「お前なんかじゃない」
もう一度。
「だからやった」
梓は顔を上げられなかった。
何も言えなかった。
胸の奥が苦しい。
怒りたかった。
勝手なことするなって。
そんなもの使うなって。
言いたかった。
でも。
言えなくなった。
初華の方がずっと怖かったのだ。
ずっと。
勇気が要ったのだ。
「……ずるいです」
梓が呟く。
「なにが」
「怒れなくなるので」
初華は少し黙った。
それから。
「知らない」
と言った。
---
机の上。
大会の申込書。
ライトが照らしている。
初華が顎で示す。
「出るんだろ」
梓は見る。
紙を見る。
将棋盤を見る。
そして。
少しだけ笑った。
「……出たいです」
「なら出ろ」
短かった。
でも。
十分だった。
橋の上を電車が通る。
轟音。
夜風。
川の音。
橋の下だけが静かだった。
九条梓はまだ知らない。
この先。
大会も。
九条家も。
西園寺家も。
もっと面倒なことになる。
でも今だけは。
少しだけ。
将棋を続けられる未来が見えていた。
-ーー
第十話
「企画書」
橋の下は静かだった。
夜。
川の音。
橋の上を車が走る音。
いつも通りの景色。
いつも通りの小屋。
ただ一つだけ。
違うものがあった。
「……」
机。
ノートパソコン。
資料の山。
そして。
死んだような顔の西園寺初華。
「……意味わかんない」
三十分前にも聞いた気がする。
梓は将棋盤を膝に乗せながら言った。
「頑張ってください」
「帰れ」
「酷い」
「お前のせい」
「半分くらいです」
「全部だ」
初華はキーボードを睨む。
画面には。
【九条梓選手支援企画書】
と書かれていた。
その下は真っ白。
「なんで書類ってこんな難しいの」
「知らないです」
「将棋だけやってろ」
「やってます」
実際やっていた。
梓は将棋盤を見ながら普通に詰将棋を解いている。
うざい。
少しだけ。
初華はため息を吐いた。
「酒田」
「あ?」
壁際。
煙草。
缶コーヒー。
完全に居座っている元王将。
「戦績って何書けばいい」
「知らねぇ」
「帰れ」
「お前が呼んだんだろ」
それはそうだった。
十分後。
酒田が持ってきた資料を見て。
初華は固まった。
「……は?」
紙をめくる。
もう一枚。
さらにもう一枚。
「……は?」
梓が首を傾げる。
「どうしました」
「お前これ本当?」
「何がですか」
「全国大会優勝」
「しました」
「県代表」
「なりました」
「小学生名人戦準優勝」
「しました」
「奨励会推薦」
「来ました」
「……」
初華は黙る。
梓を見る。
梓は普通だった。
将棋盤を見ている。
まるで
給食おかわりしました。
くらいのテンション。
「お前」
「はい」
「思ったより化け物じゃん」
「世界一なので」
「うざ」
即答だった。
酒田が吹き出す。
「ははっ」
「笑うな」
「いや笑うだろ」
酒田は煙を吐く。
「そいつは橋の下に転がってる方がおかしい」
梓が少し笑う。
初華は資料を見る。
将棋のことはわからない。
でも。
数字はわかる。
結果はわかる。
賞状の数。
優勝歴。
推薦。
全部。
本物だった。
「……」
初華は少し黙る。
そして。
また画面を見る。
カーソルが点滅していた。
白い画面。
そこへ文字を打ち込む。
九条梓。
将棋選手。
大会実績。
将来性。
推薦理由。
支援意義。
気付けば。
一時間。
二時間。
三時間。
時間が過ぎていた。
---
深夜。
橋の下。
梓はソファで寝ていた。
酒田も帰った。
小屋には初華だけ。
パソコンの光。
静かな夜。
最後の欄。
【支援理由】
カーソルが点滅する。
初華はしばらく見ていた。
書けない。
将来性。
地域貢献。
競技振興。
色々ある。
でも。
違う。
「……」
橋の下。
将棋盤。
梓。
笑う顔。
泣きそうな顔。
出たいです。
あの声。
全部浮かぶ。
初華はキーボードを叩いた。
---
『九条梓は将棋を続けるべき人間である』
---
短い。
理屈もない。
でも。
それが一番本当だった。
初華は保存を押した。
「終わった……」
そして机に突っ伏した。
---
三日後。
西園寺家。
長い廊下。
静かな屋敷。
初華は企画書を抱えて歩いていた。
帰りたい。
橋の下へ。
今すぐ。
でも。
足は止まらない。
襖の前。
深呼吸。
開ける。
清十郎がいた。
「持ってきた」
企画書を置く。
清十郎は受け取る。
黙って読む。
一枚。
二枚。
三枚。
静かだった。
初華は立ったまま。
ただ待つ。
長い。
とにかく長い。
やがて。
「理由は」
清十郎が言った。
「書いた」
「聞いている」
初華は眉を寄せる。
「……」
「理由は」
沈黙。
逃げたい。
でも。
逃げない。
「腐らせたくない」
清十郎は黙る。
「それだけか」
「十分でしょ」
「そうか」
静寂。
数秒。
数十秒。
やがて。
清十郎は企画書を閉じた。
「承認する」
初華の呼吸が止まる。
「……は?」
「聞こえなかったか」
「いや」
「承認する」
初華は固まった。
本当に。
一瞬。
何も言えなくなった。
「大会支援を認める」
清十郎は淡々と言う。
「ただし」
来た。
絶対あると思った。
「当日は西園寺家の名で支援する」
「……」
「つまり」
「……」
「お前も来い」
初華は顔をしかめた。
「嫌」
「却下」
「まだ何も言ってない」
「却下」
最悪だった。
---
その夜。
橋の下。
ドアが開く。
梓が顔を上げる。
「おかえりです」
初華は無言。
机へ紙を置く。
梓が見る。
一秒。
二秒。
三秒。
「……え」
目が丸くなる。
「通った」
初華が言う。
「出場決定」
梓が固まる。
本当に。
しばらく。
動かなかった。
「え」
「だから」
「え」
「出られる」
沈黙。
梓は紙を見る。
また見る。
さらに見る。
「……出られる」
小さく呟く。
そして。
少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
でも。
初華は知っている。
嬉しい時の顔だ。
---
「なら次だ」
突然。
酒田が言った。
いつの間にいた。
「うわ」
「失礼だな」
梓が首を傾げる。
「次?」
「着物」
沈黙。
「は?」
初華だった。
「なんで」
「大会だぞ」
酒田は言う。
「写真もある」
「表彰もある」
「来賓もいる」
「スポンサーもいる」
梓の顔が曇る。
初華はそれを見た。
「……持ってないの」
梓は目を逸らした。
「はい」
「家は」
「無理です」
短い返事。
十分だった。
酒田が煙草を咥える。
「西園寺」
「やだ」
「やれ」
「やだ」
「やれ」
「やだ」
「やれ」
子どもだった。
二人とも。
---
一週間後。
西園寺家。
呉服蔵。
巨大だった。
「……」
梓は固まる。
目の前。
着物。
着物。
着物。
さらに着物。
「何これ」
「蔵」
「見ればわかります」
初華は肩をすくめた。
「好きなの選べ」
梓が振り向く。
「無理です」
「なんで」
「怖いです」
「着物が?」
「値段が」
即答だった。
初華は少しだけ笑う。
そして。
奥から現れた老女が言った。
「それではお嬢様」
梓が振り向く。
「まず採寸から始めましょうか」
「……え」
「え?」
梓の顔が引きつる。
初華は嫌な予感がした。
とても。
嫌な予感が。
そして。
数十分後。
「初華先輩助けてください」
「無理」
「助けてください」
「無理」
着物地獄が始まった。
---
(※企画書のデータのUSBは封筒の中に入っていたもの、パソコンは初華が持っていた物、企画書かいたやつを印刷したのは酒田の家のプリンター)
─
第十一話
「着物地獄」
西園寺家。
呉服蔵。
巨大だった。
「……」
九条梓は固まっていた。
視界の端から端まで着物だった。
棚。
箪笥。
桐箱。
反物。
帯。
見たこともない数。
「何これ」
「蔵」
初華が答える。
「見ればわかります」
「じゃあ聞くな」
その通りだった。
梓は黙った。
黙るしかなかった。
怖かった。
値段が。
とても。
とても。
「好きなの選べ」
「無理です」
「なんで」
「怖いです」
「着物が?」
「値段が」
即答だった。
初華は少しだけ吹き出した。
「大丈夫」
「何がですか」
「もう払ってある」
「もっと怖いです」
正論だった。
---
「それではお嬢様」
奥から声がした。
梓が振り向く。
和装の女性だった。
七十代半ばくらい。
髪を綺麗にまとめている。
柔らかい笑顔。
けれどどこか隙がない。
「蓮見と申します」
梓は慌てて頭を下げた。
「九条梓です」
「お話は伺っております」
蓮見は微笑む。
「初華様のお友達ですね」
初華が嫌そうな顔をした。
「違う」
「そうなのですか?」
「違う」
「そうですか」
絶対信じてなかった。
---
「まず採寸から始めましょう」
「採寸」
嫌な予感がした。
とても。
嫌な予感が。
---
三十分後。
「初華先輩助けてください」
「無理」
「助けてください」
「無理」
梓は半泣きだった。
肩。
腕。
背中。
裄丈。
袖丈。
知らない単語が飛び交う。
老女たちは慣れた様子で記録していく。
「姿勢が綺麗ですね」
「将棋ですかね」
「違うと思います」
初華が言う。
梓は少しだけ睨んだ。
---
「では次は髪ですね」
蓮見が言った。
梓の嫌な予感は当たった。
---
椅子へ座らされる。
鏡。
櫛。
整髪料。
慣れない景色。
初華が後ろへ回った。
「動くなよ」
「動きません」
「絶対動くな」
「信用ないですね」
ない。
初華は返事をしなかった。
髪を手に取る。
さらりと指の間を流れる。
「先輩」
「なに」
「引っ張ってます」
「我慢」
「横暴です」
蓮見が笑う。
初華は無視した。
髪をまとめる。
結ぶ。
整える。
慣れた手つきだった。
昔から嫌というほど叩き込まれた。
その時。
ふと。
鏡越しに梓の首筋が見えた。
「……」
白い。
細い。
「……」
なんとなく。
本当に。
なんとなく。
嫌だった。
だから。
お団子の位置を少し下げた。
さらに少し。
もう少し。
自然に。
何事もないみたいに。
「できたよ」
梓が鏡を見る。
数秒。
首を傾げた。
「なんかお団子の位置低くないですか」
初華の肩が僅かに跳ねた。
「そう?」
「そうですよ」
「最近の流行り」
即答だった。
「そうでしたっけ」
「そう」
梓は納得しかける。
蓮見だけが肩を震わせていた。
「ふふ」
「何ですか」
「いえ別に」
何も言わない。
とても楽しそうだった。
---
「次です」
「え?」
「着付け」
「えぇ!?」
---
数分後。
梓は完全に捕獲されていた。
「右」
「はい」
「違う」
「はい」
「腕上げて」
「はい」
「もっと」
「はい」
将棋の弟子だった。
今だけ着物の。
初華は帯を締める。
襟を整える。
裾を直す。
迷いがない。
「ここ」
初華が帯を軽く叩く。
「はい」
「崩れやすいから気を付けろ」
「はい」
「階段は裾踏むな」
「はい」
「帯は自分で触るな」
「はい」
「わかった?」
「はい」
「よろしい」
梓は少しだけ驚いていた。
何でもできる人だとは思っていた。
でも。
ここまでだとは思わなかった。
---
「できた」
初華が一歩下がる。
梓が鏡を見る。
動けなかった。
見慣れない。
自分なのに。
知らない誰かみたいだった。
「……」
「何」
「いや」
言葉が出ない。
鏡を見る。
着物。
帯。
髪。
全部初めてだった。
「やっぱ初華先輩ってすごいんですね」
初華は首を傾げた。
「?」
意味がわからない。
でも。
次の瞬間。
理解した。
「……!」
口元が少しだけ上がる。
それから。
「まぁ……世界一だから」
梓が瞬きをした。
「そこ真似するんですか」
「お前が始めたんだろ」
少しだけ得意そうだった。
梓は何とも言えない顔になる。
嬉しいような。
悔しいような。
そんな顔。
「まぁ」
蓮見が微笑んだ。
「それではわたくしより着付けがお上手なのですね?初華様」
空気が止まる。
初華も止まる。
「……」
「世界一なのでしょう?」
綺麗な笑顔だった。
とても。
嫌な予感のする笑顔だった。
「いや」
「まぁ」
「いや」
「世界一なのでは?」
「その世界じゃないです」
「そうなのですか?」
「そうです」
梓が吹き出した。
「ふっ」
「笑うな」
「今のは先輩が悪いです」
「お前も言っただろ」
蓮見は本当に楽しそうだった。
---
「初華様」
「何ですか」
「立派になられましたね」
初華は眉をひそめる。
「急に何」
「いえ」
蓮見は微笑む。
「本当に」
それ以上は言わなかった。
初華は少しだけ嫌な予感がした。
聞かない方が良さそうだった。
---
帰り際。
夕方の光が庭へ差し込んでいた。
梓はまだ少し着物姿に慣れていない。
歩くたび裾を気にしている。
「踏むなよ」
「わかってます」
「怪しい」
「大丈夫です」
三歩後。
危うく踏みかけた。
「ほら」
「今のはノーカウントです」
「アウトだろ」
初華が笑う。
梓も少し笑う。
その後ろで。
蓮見は二人を見送っていた。
「……」
初華様も。
変わられましたね。
そう思う。
昔なら。
誰かのために着物を選ぶことも。
髪を結うことも。
あんな顔で笑うこともなかった。
蓮見は微笑んだ。
そして誰にも聞こえない声で呟く。
「お幸せに」
もちろん。
二人とも聞いていなかった。
---
第十二話
「世界一の証明」
朝だった。
西園寺家の客間。
障子の向こうから柔らかな光が差し込んでいる。
鏡の前に座る九条梓は、珍しく落ち着かなかった。
全国大会。
ここまで来た。
酒田との出会い。
橋の下。
あの小屋。
全部が繋がって今がある。
それなのに。
盤の前ではない場所で緊張している自分が少しおかしかった。
「動くな」
後ろから声。
初華だった。
梓は少し笑う。
「動いてません」
「今動いた」
「気のせいです」
「気のせいじゃない」
即答。
梓は観念した。
初華の細く長い綺麗な指が髪に触れる。
器用な手つき。
慣れた動き。
少し前までは華道すらも何も興味なさそうだった人が、今では当たり前みたいに自分の髪を結っている。
不思議だった。
そして少し嬉しかった。
初華は黙ったまま髪を整えていく。
やがて。
高さが整う。
綺麗な後れ毛でふんわりとしたお団子。
梓が鏡を見る。
「またこの位置なんですね」
初華の手が少し止まった。
「嫌?」
「好きです」
即答。
今度は初華が黙る番だった。
梓は鏡越しにその顔を見る。
初華は少しだけ目を逸らした。
「……動くな」
「話変えましたね」
「うるさい」
蓮見が小さく笑う。
梓もつられて笑った。
客間の空気が少しだけ柔らかくなる。
やがて髪が完成した。
初華は一歩下がる。
「よし」
それから今度は着付けに移った。
帯を整える。
襟元を直す。
皺を伸ばす。
梓はじっとしていた。
最初の頃は緊張した。
2回目となった今では不思議と落ち着く。
初華の手は丁寧だった。
驚くほど。
まるで壊れ物を扱うみたいに。
それが少しだけくすぐったい。
「先輩」
「なに」
「慣れましたね」
「誰のせい」
「私です」
「そう」
初華は帯を締め終える。
最後に肩を整えた。
少し離れる。
全体を見る。
そして。
「完璧」
梓が首を傾げる。
「着物ですか?」
初華は即答した。
「梓が」
数秒。
梓の思考が止まる。
蓮見が咳払いした。
初華は自分が何を言ったのか理解していないらしい。
真顔だった。
梓は顔を逸らす。
「……ずるい」
「なにが」
「なんでもないです」
初華は首を傾げた。
意味が分からないらしい。
その様子が余計にずるかった。
─
やがて時間になる。
あっという間に会場についていた。
西園寺家の車が二台並んでいる。
一台には蓮見さんと私(梓)…が乗っていた車。
もう一台には初華と清十郎と酒田。
私と蓮見さんは先に会場へ向かうことになっていたからだ。
荷物を持つ。
深呼吸。
すると。
「梓」
車から出た初華が呼んだ。
振り返る。
紺のワンピース。
宝石のリボン。
ハーフアップ。
小さなピアス。
朝日を受けて少しだけ輝いて見えた。
綺麗だ。
本当に。
梓は一瞬言葉を失う。
初華は気付いていない。
「緊張してる?」
梓は少し笑った。
「少しは……」
初華が近付く。
一歩。
また一歩。
そして。
不意に顎を持ち上げられた。
「頑張れよ」
距離が近い。
近すぎる。
梓の心臓が跳ねた。
(初華先輩、綺麗……)
思わず息を呑む。
初華は平然としていた。
そのまま。
二人の視線が重なる。
そして。
ほとんど同時だった。
「世界一ですから」
声が重なる。
一瞬。
私は目を丸くする。
次の瞬間。
初華が笑った。
「だろ?」
即答だった。
迷いも何もない。
当たり前みたいに。
梓は吹き出す。
「お見通しですか」
「当然」
「ご名答です」
梓は小さく頭を下げた。
「行ってきます」
そう言って歩き出そうとした。
その時だった。
「初華様!」
声が飛んだ。
振り返る。
記者。
カメラ。
マイク。
テレビ局。
新聞社。
雑誌社。
一気に押し寄せてくる。
私は目を丸くした。
─
初華は一瞬だけ眉を動かす。
(うっざ……)
だが。
表情は崩れない。
西園寺家の…いや梓のカオだから。
「初華様!本日の大会について一言!」
「九条選手とのご関係は!」
「優勝候補についてどうお考えですか!」
マイクが向けられる。
カメラが向けられる。
初華は笑った。
完璧な笑顔で。
「皆様」
「私なんかにカメラを向けていただいて大変恐縮なのですが」
柔らかい声。
怒りが滲み出ないように。
上品な笑顔。
「本日の主役は私ではなく九条梓です」
記者が食い下がる。
「しかし西園寺家が後援しているということで注目が」
初華は微笑んだまま答える。
「後援というほど大層なことはしておりません」
「私はただ、一人の棋士を応援しているだけです」
空気が静まる。
自然と皆が耳を傾ける。
初華は続けた。
「もっとも」
「私が応援する理由はありますが」
記者たちが息を呑む。
カメラが向く。
初華は真っ直ぐ前を見た。
「九条梓は」
「同年代では間違いなく世界最高峰の棋士ですから」
そして。
一拍も置かず。
「その綺麗に手入れされた一級品のカメラを向けるべきは」
「九条梓なのではないでしょうか?」
笑顔。
完璧な笑顔。
逃げ道のない笑顔。
記者たちは一瞬固まった。
その後。
一斉に梓を見る。
酒田が遠くで吹き出した。
「怖ぇな嬢ちゃん」
清十郎も苦笑する。
「怒っていますね」
「めちゃくちゃ怒ってるな」
一方。
梓は。
そんなことより。
「世界最高峰」
その言葉だけが頭に残っていた。
初華先輩が。
自分を。
そう見ていた。
胸の奥が少し熱くなる。
蓮見がそっと促した。
「梓様」
「あっ、はい」
車へ向かう。
会場へ向かう。
全国大会へ。
世界一を証明するために。
会場の入口が見えた。
─
会場は静かだった。
いや。
正確には静かではない。
人はいる。
記者もいる。
保護者もいる。
関係者もいる。
それでも。
対局場の前だけは別世界だった。
初華はその空気が少し好きだった。
誰も騒がない。
誰も笑わない。
ただ盤の上だけを見ている。
そういう場所だった。
梓は既に中へ入っている。
酒田は腕を組んで壁にもたれていた。
清十郎は静かに資料へ目を通している。
蓮見さんは梓の顔色を見ている。
初華だけが少し落ち着かなかった。
将棋は分からない。
だから余計だった。
「そんな顔するな」
酒田が言う。
「してない」
「してる」
「してるな」
清十郎まで同意した。
初華は少し眉を寄せる。
「だって分からないし」
酒田が吹き出した。
「正直だな」
「事実だし」
「安心しろ」
酒田は対局室の扉を見る。
「一回戦で負ける玉じゃねぇ」
その声には妙な確信があった。
初華は黙る。
酒田がそう言うなら。
そうなのだろう。
少なくとも将棋については。
やがて対局が始まった。
時間が流れる。
十分。
二十分。
三十分。
そして。
最初に出てきたのは相手だった。
顔色が悪い。
酒田が小さく笑う。
「終わったな」
数分後。
梓が出てきた。
普段通りの顔だった。
「お疲れ」
初華が言う。
「ありがとうございます」
「勝った?」
「勝ちました」
当たり前みたいな声だった。
酒田が鼻で笑う。
「何手だ」
「百十二手です」
「遅ぇな」
「反省してます」
全国大会で勝った中学生への言葉ではなかった。
初華は思わず笑った。
梓も笑う。
なんだかいつも通りだった。
橋の下みたいに。
それが少しだけ嬉しかった。
─
二回戦。
勝利。
三回戦。
勝利。
準々決勝。
勝利。
準決勝。
勝利。
記者の数は増えていった。
カメラも増えた。
取材も増えた。
そして。
梓の名前も増えていった。
九条梓。
西園寺初華が認める天才。
西園寺清十郎が出向くほどの秀才。
酒田が認める逸材。
全国最年少クラスの優勝候補。
その言葉が広がっていく。
初華は少しだけ嫌な予感がした。
理由は分からない。
でも。
胸の奥がざわついていた。
そんなことより。
今は。
決勝だった。
─
決勝。
対局室。
私は深呼吸した。
目の前には高校三年生。
アマチュアタイトル保持者。
優勝候補筆頭。
今日まで全勝。
強い。
間違いなく。
でも。
怖くはなかった。
盤がある。
駒がある。
将棋がある。
それだけで十分だった。
私は盤面を見る。
駒へ触れる。
落ち着く。
いつも通り。
橋の下でも。
酒田さんの家でも。
全国大会でも。
やることは変わらない。
勝つだけだ。
開始の合図。
駒音が鳴る。
カチ。
世界が狭くなる。
盤面だけになる。
時間だけになる。
相手が考える。
私も考える。
一手。
また一手。
さらに一手。
中盤。
均衡。
終盤。
読み合い。
そして。
見えた。
勝ち筋。
遠い。
でもある。
私は指す。
相手が止まる。
長考。
十分。
二十分。
三十分。
それでも。
見えている。
逃げられない。
勝ち筋は消えない。
酒田さんが言っていた。
終盤は嘘をつかない。
なら。
これは。
勝てる。
私は駒を置く。
カチ。
相手の肩が小さく落ちた。
静寂。
長い沈黙。
そして。
「参りました」
その言葉が聞こえた。
一瞬。
何も聞こえなくなる。
盤面を見る。
相手を見る。
時計を見る。
現実だった。
勝った。
全国大会。
優勝。
同年代日本一になった。
でも。
私が証明したかったものは、それだけじゃない。
──「世界一ですから」
初華先輩が、迷いなく重ねてくれたあの言葉。
あれは。
間違っていなかった。
私は思わず笑った。
最初に浮かんだ顔は。
家族でも。
記者でも。
観客でもなく。
橋の下の先輩だった。
顎を持ち上げて。
当たり前みたいに言った。
『頑張れよ』
『世界一ですから』
『だろ?』
私は小さく笑う。
そして心の中で答えた。
初華先輩。
証明できました。
世界一です。
だから。
次は。
ちゃんと胸を張って言います。
あなたのおかげだって。
─
#梓にだって,華が咲く。【3】
第十三話
「祝福の夜」
拍手が鳴り止まなかった。
壇上。
九条梓は賞状を受け取る。
優勝旗。
優勝杯。
金色のメダル。
フラッシュが眩しい。
記者のシャッター音が止まらない。
「全国大会優勝、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
短く頭を下げる。
それだけだった。
派手なガッツポーズもない。
涙もない。
いつも通りだった。
その姿が逆に会場を静かにさせた。
客席。
初華は小さく拍手を送る。
隣では酒田が腕を組んだまま笑っていた。
「やっぱ勝ったな」
「当然みたいに言いますね」
「当然だからな」
清十郎も静かに拍手を送る。
「……見事でした」
その一言だけ。
蓮見は少しだけ微笑んだ。
梓様が笑っている。
それだけで十分だった。
─
表彰式が終わる。
廊下へ出た瞬間だった。
「九条さん!」
「少々お時間を!」
「今後についてお聞かせください!」
一気に人が押し寄せる。
将棋雑誌。
新聞社。
テレビ局。
スポンサー企業。
大会関係者。
名刺が次々と差し出された。
「ぜひ専属契約を」
「将来の支援を」
「イベント出演を」
梓は少し困ったように笑う。
「えっと……」
その時。
「失礼。」
静かな声。
清十郎だった。
自然に梓の前へ立つ。
「本人はまだ中学生です。」
「契約等のお話につきましては、後日改めて。」
柔らかな口調。
しかし誰も割って入れない。
空気が変わる。
記者たちも一歩引いた。
「ありがとうございます」
「お気遣い感謝いたします。」
完璧だった。
初華は横で見ながら思う。
(こういうとこだけはほんと上手い。)
清十郎が振り返る。
「梓さん」
「はい」
「今日は何も決めなくて構いません。」
「将棋だけ考えていればいい。」
梓は少し目を丸くした。
「……はい」
─
夕方。
西園寺家が所有する料亭。
個室。
畳の香り。
豪華な料理が並んでいた。
「かんぱーい!」
酒田だけが元気だった。
「全国優勝!」
「乾杯」
全員が盃を合わせる。
もちろん梓と初華はジュースだった。
酒田は一口飲むなり笑った。
「今日はうめぇ!」
「いつも美味しそうに飲んでますよね」
梓が笑う。
「今日は格別だ。」
「弟子が全国優勝した日だからな。」
梓は少し照れる。
「弟子って認めてたんですね」
「今さらか?」
「初耳です」
「そうか」
酒田は笑った。
初華も少しだけ笑う。
珍しく穏やかな時間だった。
─
食事が進む。
将棋の話。
大会の話。
昔話。
そして。
初華が箸を止めた。
「そういやさ」
全員が見る。
「酒田とクソ親じ……」
一瞬止まる。
「……お父様って初対面じゃねーの?」
静かになった。
酒田が吹き出す。
清十郎はため息をつく。
「その言い直しに意味はあるのか」
「ある。」
「そうか」
少しだけ間が空く。
そして清十郎が湯飲みを置いた。
「初対面ではない。」
初華が目を瞬く。
「え?」
酒田が笑う。
「十歳くらいからだな。」
「腐れ縁だ。」
「幼なじみというやつです。」
清十郎も苦笑した。
「よく将棋を指した。」
「もちろん負け越したが。」
「百回以上負けたぞ」
「百七十二回だ。」
「数えてんじゃねぇ」
全員が笑う。
初華だけが固まっていた。
「……え?」
「知らなかったのか」
「知らない。」
「聞かれなかったからな」
「いや普通言うだろ。」
「言う機会が無かった。」
「いやあるだろ。」
酒田が大笑いした。
「相変わらず噛み合わねぇな俺ら!」
部屋が笑いに包まれる。
─
食事も終盤。
梓がお茶を飲んでいると。
清十郎が静かに口を開いた。
「梓さん。」
「はい。」
「改めて。」
「全国優勝、おめでとうございます。」
深く頭を下げる。
梓は慌てた。
「や、やめてください!」
「私なんかに……」
「いいえ。」
清十郎は首を横に振る。
「君は努力で才能を証明した。」
「これは誰にでも出来ることではありません。」
静かな声だった。
「君は誇っていい。」
「……ありがとうございます。」
梓は少しだけ目を潤ませる。
酒田が照れ隠しみたいに笑った。
「褒めすぎだ。」
「事実です。」
その一言だけだった。
初華は黙って聞いていた。
少しだけ。
本当に少しだけ。
羨ましいと思った。
その気持ちは胸の奥へ押し込めた。
誰にも見つからないように。
─
夜。
帰り道。
「少し寄るか。」
初華が言った。
梓は頷く。
二人は橋の下へ向かった。
夜風。
川の音。
見慣れた景色。
河川管理小屋。
初華が鍵を開ける。
扉が軋む。
「ただいま。」
自然と言葉が出た。
梓も笑う。
「ただいまです。」
小屋の灯りがぽつりと点いた。
全国優勝を果たしても。
二人の帰る場所は。
やっぱりここだった。
静かな夜だった。
だからこそ。
二人は気付かなかった。
橋の上。
一台の黒い車が、しばらく動かずに停まっていたことを。
運転席の男が、小屋をじっと見下ろえていたことを。
「……見つけました。」
小さな声。
助手席には、一冊の資料。
表紙には。
『九条梓』
その名前が印字されていた。
男は静かに携帯電話を取り出す。
「ええ。」
「確認しました。」
「……例の少女です。」
電話はすぐ切れた。
黒い車は音もなく走り去る。
橋の下には。
何も知らない二人の笑い声だけが残っていた。
---
第十三話 終
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#梓にだって,華が咲く。
ここまで読んでくれてありがとー!
大感謝!謝意!
これからも書いてくので見てね( * ॑꒳ ॑*)♡
いえい★