二つの視界 三つの子宮
目の前には、家族だった人たちの手足や首が散らばっていた。そのじっとりと濡れた表面は、むしろ生きていた時よりも生々しく輝いていた。
濡れた股の間が冷えるにしたがって、興奮も醒めた。俺はすでに目の前の死体ではなく、心のうちに開いた底のしれない穴を見ていた。比喩でもなんでもなく、俺には血の海の他に、直径五十メートルはあろうかという穴が見えていた。垂直に切り立った崖に生えた、小さな苔までが、バラバラの手足と同時に、鮮明に見えているのだ。人間に目が二つあるのは、こういうわけだったのかと、妙に納得した気にさえなった。
しかし、穴が見えているからと言って、それを埋める方途はなかった。そもそも、埋めた方がいいのかどうかすら、俺には分からなかった。ただ、騒ぎ立てる人々の声が、別の宇宙からのように遠く聞こえた。
*
俺は拾い子だった。俺を生んだ親は、いや、親かどうかは分からない。おそらく親であろうが、俺を捨てた奴は気がおかしくなっていたのだろう、俺を入れた籠にあふれんばかりの桃を詰めて、川に流した。
夏の日を受けて、すぐに果物は腐った。ねばつく液体が産着を濡らし、蝿がたかった。俺は第二の子宮の中で、蛆を兄妹にしていたのだ。
そんな俺を拾ったのが、じいさんとばあさんだ。二人は赤子の泣き声を聞いて、放っておいたら「お天道様の罰が当たる」と思い、俺を助けたのだそうだ。その「お天道様の罰が当たる」というのは二人の口癖だった。俺がちょっと家事をさぼると、「助けてやった恩を忘れるなんて、お天道様の罰が当たる」と言って俺を殴った。実際に罰を当てていたのは、お天道様ではなく主にじいさんだったが、あの桃を腐らせる日差しで、すでにお天道様は罰を当てていたのだろう。俺は生まれたことがすでに罪なのだ。
じいさんとばあさんは、俺の入っていた籠を川から引き上げると、さっそくねばついた体を洗い、その時に初めて男と気付いた。二人は顔を見合わせた。一言も必要なかった。
二人は俺をわきへのけると、桃をあさりはじめた。そして、使える部分は食べたり、酒の材料にしたりした。これは俺の想像だが、その時に蛆も何匹かは食っていたはずだ。
一通りの作業を終えた二人は、やっと俺のことを思い出した。そして、ようやく相談の必要が生じた。
「この子、どうする?」
じいさんは桃の種を吐きながら言った。
「どうするって言っても、男じゃねえ・・・」
学も教養もない二人は、かぐや姫の伝説を史実と思い込んでいて、拾ったのが女の子であれば、大きな福徳をもたらすと信じていたのだ。
「でも、捨てたらお天道様の罰があたる」
じいさんはまずそうに桃を食べて、また種を吐いた。
「そんなこと言ったって、こんな餓鬼拾ったらそれこそ罰だよ」
それでも二人は、俺を家に連れて帰った。そこのところがどうしても俺には理解できないのだが、美男子になったら男娼にでもすれば、かぐや姫とは言わぬまでも役には立つと思ったのかもしれない。
二人は俺を「桃太郎」と名付けた。思えばそれも罰だ。俺はあの臭いと感触と蠢く虫共のせいで、桃が大嫌いになっていたからだ。嫌いどころではない、ほのかに桃の匂いを嗅ぐだけで、嘔吐してしまうのだ。じいさんとばあさんは、そんな俺に、「命を助けてくれた桃に対して、なんて失礼な奴だ」と言って、吐いた物を食うよう命じた。
桃から生まれたら桃太郎なら、人から生まれたお前らは人太郎なのか。人を食うのか。いや、あいつらなら食いかねない。
生まれながらにお天道様の罰があたっていた俺は、二人の望んだようには全く育たなかった。まず第一に、不細工だった。頬の痘痕を見て、ばあさんはよく「あの時蛆に食われていたんじゃないか」と言ったものだ。そのおかげで男娼にはされずに済んだが、柴刈りなんかはたくさんさせられた。朝から晩まで山を駆けずり、背中いっぱいに背負うと、もう肩が外れそうに重い。やっと歩けるようになった頃から、それを毎日させられた。
しかし、俺は山が嫌いではなかった。俺はよく、山から村を見下ろした。自分の住む村が、海と山に囲まれた地形になっていることを、俺はそこで初めて知った。まるで村自体が閉じ込められているようだ。
そのイメージは俺に桃を連想させた。あのベタベタした、うるさい羽音のする籠。その不快な幻影を俺はなぜか何度も求めて、山に入るたびに見下ろしていた。
十歳くらいの頃から、体はへとへとなのに眠れない夜が増えた。俺は夜中にこっそり家を抜け出して、浜へ行った。どこまでが海で、どこまでが空かも知れない闇に、明かりが散りばめられている。最初のうちは、どれが星でどれが灯りかも見分けられないが、ずっと座って眺めていると、弧を描くように移動しているのが星で、じっと止まっていたり、横に動いているのが漁火だと分かるのだった。波音が絶えず耳をなでて、潮が満ちると、いつの間にか足元を濡らしている。
それは、山の不快な、それでいて蠱惑的な幻想とは全く正反対の、不眠の産物とは思えないほど健康的で、真夜中であるにもかかわらず、明るい景色だった。
あれは冬だった。座っていた岩が、やっと温まってきた頃だ。気配を感じて振り返ると、星明りに人が座っているのが見えた。相手は、俺に気付いていないらしい。
変にドギマギして、俺はその人物を見つめていた。きらりと光ったのは、目元の涙だった。とっさに俺は、視線を海の闇へと移した。
嗚咽が聞こえて来た。やがて嗚咽は、叫びと言ってもいいほど大きくなった。声から察するに、俺と同じ年頃の男のようだ。
俺は呼吸をするのさえためらわれて、ただじっとしていた。
そういうことが、何度も続いた。自分だけの聖域に他人が踏み込んで来たというのに、俺は夜の浜に出ることを止めなかった。
「なあ、気付いてるんだろ?」
声がして、俺は振り返った。泣きはらした後の、かすれた声だった。
「いつもいるの、知ってるぞ」
涙は拭われて、潤んだ瞳が俺を捉えている。俺は観念したような気になって、答えた。
「すまねえな」
「別に、悪い事してねえじゃねえか」
「そうだな」
そう言って、俺は何か続けなくてはならないような気がして、余計なことを言った。
「俺、桃太郎。お前は?」
「野暮な奴だな。まあ、仮に星太郎とでもしておくか」
「なんだそれ」
「分からんのか」
「分からん」
「だから野暮というんだ」
俺が黙ったのは、星太郎のいうことが分かったからではなかった。それ以上続けても自分には分からないということが、分かったからだ。しかし、星太郎は俺にとって、唯一不快でない人間として認識された。
それから、俺は何度か星太郎の本名を尋ねたが、名前は奴にとってタブーのようだった。決して答えてくれなかったが、狭い村だ。すぐに分かった。
「なあ、猿彦」
ある夜、俺は星太郎の本名で話しかけた。奴はだまっていた。波音がいつもと変わらず、二人のそう親密ではない、かといって離れてもいない距離を埋めていた。
「星太郎」
言い直しても、答えなかった。その時になって、初めて俺は取り返しのつかないことをしたのだと悟った。
「すまねえ」
波音が、俺の言葉だけを返した。滑稽なくらい情けない声だった。それでも、俺は星太郎と過ごす夜を失いたくなかった。しかし、砂を蹴って、立ち上がる音が聞こえた。
それ以来、星太郎は来なかった。俺はいくつもの夜をひとりで過ごし、そしてそれにもまた慣れていった。
十二歳になると、柴を担ぐのがだいぶ楽になった。俺はいつものように山頂から、村を眺めていた。していたはずの足音には、気付かなかった。「おかしいな」と思ったのは、いやに長く、土を掘るような音が聞こえていたからだ。芋掘りにしてもずいぶん深いし、こんな山のてっぺんに、畑なんてあるはずもない。
別に何かするつもりがあったわけではない。ただ、「なんだろう」と思って、俺は音のする方に向かった。その時、落ち葉が音を立てないよう、ゆっくり進んでいたのは、今思うと、その先にある物を予感していたのかもしれない。
男が、鋤で穴を掘っていた。かたわらに横たわっているのは、星太郎こと猿彦だった。異常だったのは、猿彦が全裸だったことと、肌に付いた枯れ葉を取ろうともしないことだった。尻を這っている蟻が肛門に向かっても、微動だにしなかった。
俺は、反射的に逃げようとした。物が落ちる音がして、俺は初めて自分が柴を担いでいたのを思い出した。男がこちらに振り向いた。男は、猿彦の父親だった。
素早かった。猿彦の父は、驚いた様子も見せず、俺に鋤を振り下ろした。俺はすんでのところでそれをかわし、柴の一本を抜き取ると、それで親父の頭を叩いた。が、枯れ木は簡単に折れた。
俺は、もう一度振り下ろして来た鋤の柄を握った。とっさに取った行動だった。それで本当に受け止められると思っていたわけではないが、鋤は俺の頭をかち割ることはなかった。それは完全に静止していた。
見ると、親父は真っ赤な顔をして力を込めている。しかし、それは俺にとって大した抵抗ではなかった。孤独な俺は、自分がとんでもない怪力だと知らずにいたのだ。
自信を得た俺は鋤を奪うと、反対に親父に向かって振り下ろした。
噴き出た血が、俺を包んだ。温かかった。親から抱きしめられたことのない俺は、友人を殺した父親の血によって、人間のぬくもりを知ったのだった。見ると腕を覆う赤い血から、湯気が立っていた。まるで俺の力そのものが目に見えるようだった。俺はこのために生まれて来たのだと、とっさに理解した。ためらいなく人を殺せるよう、俺は誰からも愛されないのだ。
俺は山を下りると、家に駆け込んだ。あの死体が見つかるまでに成し遂げなくてはならない。
幸い、二人とも家にいた。じいさんとばあさんはセックスをしていた。気色悪いが、裸でとっさに抵抗もできないのは都合がいい。
俺は血の付いたままの鋤を振り下ろした。ばあさんの上に乗ったじいさんの背骨の砕ける感触がした。俺は童貞だが、きっとその感触はセックスより気持ちがいいに違いない。その証拠に、俺は射精していた。精通だった。
*
二人を殺したあと、当然俺はすぐに捕まった。
「何か弁明はないか?」
村長の声は冷たかったが、屋敷の前庭には落ち葉が敷き詰められ、座り心地はよかった。
「ありません」
「なぜお前は養父母とも言うべき二人を殺したのだ?」
村長の顔は嫌悪に満ちていた。もっとも、こういう時でなくても、このじじいは常に不機嫌ではあった。
「そのために私が生まれてきたからです」
「おそろしい」村長は呟いた。それは波紋のように村人に広がった。波紋の中心になる気持ちは、悪くなかった。
「殺してください!」
女の声がして振り向くと、猿彦の母だった。
「こいつは、私の夫と息子も殺したのです!」
なるほど、と俺は思った。状況からして、そう誤解されるのは不思議ではない。初めて弁解したいという気持ちが湧いた。
「猿彦を殺したのは、俺じゃありません」
「では、誰だと言うのだ?」
「猿彦の親父です」
ひいいいっっっ、母親の声がした。俺は殺人鬼だが、猿彦の母の声は、俺よりも人間の標準から遠いようだった。「何を言うの」とか「お前が」とかいう言葉以外は、まったく人間の言語ではなかった。村長はそれを聞いているのかいないのか、顎を撫でていた。
「わしには、桃太郎の言う事が嘘か本当か分からん」
おぇおぇえおごごぉ、と母親が言ったが、彼女が狂態を演じれば演じる程、他の人間は冷静になるようだった。
「死刑にしてしまって、後で冤罪と分かったら取り返しもつかんじゃろ」
母親以外、頷いている。
「鬼ヶ島に、流してはどうじゃろ」
鬼ヶ島というのは、殺人鬼や放火魔を流すための島で、要するに流刑地だ。みいいんぅようらあぃいいの、と母親が叫ぶと、皆が顔を見合わせて頷き合った。
*
今、俺は舟の上にいる。鬼ヶ島にいる犯罪者なら、いくら殺しても罪にはなるまい。どれほどの血なら、この穴を埋められるだろうと俺は思った。あの二人を殺した時から、ずっと見えている穴。埋めるべきかも分からぬ穴を埋めるために、俺はこれからの人生を費やすだろう。あの村という第三の不快な子宮を出て。
二つの視界 三つの子宮
ときどき、こういうものを書かずにはいられなくなるようです。