百合の君(110)

百合の君(110)

 敗戦後の真津太(まづだ)はより悲惨な状況になった。飢えた百姓に城の米蔵が焼かれたり、侍が襲われたりした。守るべき自らの民を手にかけ、珊瑚(さんご)の心は、国土と共に荒廃していた。
 しかし障楽六年四月二十日、一揆を討伐し帰った珊瑚は見違えた城の姿に驚いた。姫蔓蕎麦(ひめつるそば)は駆除され、(やぐら)は立て直されていた。
 なんとなく落ち着かなくて、下馬する間もなく珊瑚は聞いた。
「何事だ?」
 留守居の隣にひれ伏していたのは、薄汚れた着流しの痩せた老人だった。色あせた麻の生地に、土や煤が染みついている。
「お気に召しましたでしょうか」
 老人は下げた頭の下から珊瑚を窺った。こめかみにシミがあるのに気が付き、珊瑚は自ら粛清した今水流(いまずる)を思い出した。あれから身内や民を斬ってばかりだ。珊瑚には、その年月がどんな名刀をもってしても切れない、巨大な岩のように思われた。
「お前は名乗る名もないのか」
「これはこれは御無礼を、わたくしは生駒屋(いこまや)という商人にございます」
「ふん、勝手に城をいじられて、気に入るわけがなかろう」
「いじるだなんてとんでもない、出海(いずみ)様がお忙しい折、わたくしは百合の君のお手伝いをさせていただいただけにございます」
 母の名前を出されて、珊瑚はそれ以上言えなくなった。わざと生駒屋が驚くくらい近くに降りる。
「して、何用だ?」
 しかし生駒屋は、ぴくりとも動かない。珊瑚はそのまま続けた。
「まさか母上と庭いじりをするために参ったのではあるまい」
 ようやく生駒屋がキキと笑った。
「出海様におかれましては、喜林(きばやし)の大きな兵糧攻めに苦しんでおいでだとか」
「だったらどうだと言うのだ、そちが喜林を滅ぼすとでも言うのか」
 かばと頭を上げ、老人の目が大げさに見開かれた。
「わたくしはケチな商人にございます、そのようなことはとても」
「なら、何をしに来た」
「出海様をお救いに参りました」
「どうやって?」
「唐国と貿易をすればよいのです。日の本の大名はみな喜林に従って出海様と付き合ってくれませぬが、唐国は違います。唐国は日の本よりはるかに豊かで強い国ですから、喜林の顔色など窺う必要はございません、すぐに喜林を圧倒する財がもたらされましょう」
 生駒屋のニタニタ笑いが、また珊瑚の癇に障った。
「お前は何も知らず来たようだな。この真津太の海は遠浅で、大きな港が造れない。交易などできるものか」
「そこはこの生駒屋にお任せください」
 生駒屋はすぐに職を失った人々を雇い入れた。砂浜に石を敷き大きな港があっという間にできた。
 唐国も戦の最中にあったので、真津太の米は高く大量に売れた。腐ってしまう魚は輸送に向かないので、漁師は百姓に鞍替えし、平野はどんどん田んぼになった。
 まさか異国の戦がこれほどの助けになろうとは思わなかった。海の向こうで兵が死んでくれているおかげで、この真津太で百姓が飢え死にせずに済む。世の中とはなんとも奇妙にできているものだと珊瑚は思った。

 大人数相手の調理には慣れていたので、八津代(やつしろ)に移ったあざみは城の料理番になっていた。しかし未亡人の集まりだった百合隊とは違い、子供をみながら働くことはできない。
 あざみは四歳の(しゅん)を置いて、城に出勤していた。帰りは毎日遅かった。八津代は確かに豊かな国だが、ここでも子供を育てるのは簡単ではない。
 仕事が終わると、あざみは急いで帰った。日中はだいぶ暖かくなったが、夜はまだ冷える。旬が腹を空かせているだろう。
 戸を開けると、旬は膝を抱いて座っていた。ただいまの声に応えずに、あざみの顔を見上げる。その大人しさに、不安になった。
「かあちゃん」
 あざみはなるべくいつも通りにふるまった。
「どうしたの?」
「どうしてうちには、とうちゃんがいないの?」
 あざみは答えられなかった。答える代わりに抱きしめた。
「ごめんね」
「ううん」
 あざみは旬が泣き出すことを恐れた。もし旬が泣いたら、自分も泣いてしまう。なのに、先に泣き出したのは自分だった。止まらなかった。髪を、幼い旬の指が撫でるのを感じる。

     *

百合の君(110)

百合の君(110)

あらすじ:喜林の養子になった天蔵に戦をしかけた珊瑚でしたが、手も足も出ずに完敗してしまいます。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-05-16

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