夕星の底にある不言論を信じる君は

夕星の底の不言論を信じる君へ

プロローグ
数字に寄り添い、人類は幾年もの時を難儀してきた。
無数の定理、果てない証明、届かぬ予想。

やんやの喝采を求めた者もいた。
名を歴史に刻むため、数式へ人生を捧げた者。

ただ趣味一端の好奇心から、
夜を越えて未知へ手を伸ばした者もいた。

けれど

今、一翔の脳裏に浮かぶのは、
栄光でも定理でもない。

白い病室。
消え入りそうな呼吸。
点滴の音の合間に、
数を言葉のように語っていた、あの少女だった。

『ねぇかずくん、
 数字って、不思議だよね』

『嘘をつかないのに、
 見る人によって全然違う顔をする』

数字に一喜一憂し、
世界を式で見つめていた少女との記憶。

第1章:神無月の下で

「ねぇ、お兄さん」

不意に、声が落ちてきた。

柔らかい。
まるで夜風に揺れるカーテンみたいな、包み込む声。

一翔は手を止めた。
シャープペンの先が、ノートの途中式に黒い点を作る。

顔を上げると、少女がいた。

中学生だろうか。
少し大きめの制服。
肩まで伸びた黒髪。
そして何より、不思議なくらい澄んだ目。

彼女は本棚の隙間からこちらを覗き込み、
小さく首を傾げた。

「いつも図書館いるよね」

一翔は答えない。

慣れていた。
人と話さないことにも、
興味を持たれなくなることにも。

けれど少女は気まずそうに笑うこともなく、
当たり前みたいに彼の向かいへ座った。

「なにしてるの?」

机へ頬杖をつきながら、少女はノートを覗き込む。

一翔は反射的にページを閉じかけた。
だが少女の視線には、妙な圧がなかった。

好奇心。
ただ、それだけ。

「……数学」

ぼそり、と短く返す。

「へぇ」

少女は楽しそうに目を細めた。

「でも学校の問題って感じじゃないね」

「あ、お兄さんのこと聞いてなかったね」

少女ははっとしたように背筋を伸ばした。

「私は夕星夢七。ゆうずつの“夕”に、星って書いて“ゆうずつ”。夢に七で夢七」

どこか誇らしげに名乗る。

「……変な名前ってよく言われるけど、私は結構好き」

一翔は閉じかけたノートに視線を戻したまま、小さく息を吐いた。

「嶋口。一翔」

「かずと、かぁ」

夢七はその名前を口の中で転がすみたいに繰り返す。

「じゃあ、かずくんだね」

彼女はいたずらっぽく笑った。

一翔はわずかに眉を寄せる。

「……勝手に決めるな」

「えー、だって“一翔先輩”って感じでもないし、“嶋口さん”は距離あるし」

夢七は頬杖をついたまま、机の上で指をとんとん鳴らした。

「かずくん、静かだもん」

「……それ理由になるのか」

「なるよ」

即答だった。

一翔は少しだけ面食らう。

この少女は、不思議だった。
人との距離の測り方が、どこか普通と違う。

「数学好きなの?」

彼女は不思議な眼差し

「…うん」


普段の僕なら無視を続けるのだがなぜか彼女はそれを許さない不思議で優しい言葉だあった。

「なんで?」

彼女は本当に不思議そうな顔で

「…数学って生き物なんだ、一人でも何か大きいものと話していられると思えるからかな」

「…そうなんだ、素敵だね」

彼女に影を感じたが刹那で笑顔に戻った

「あ、あたしもう行かなきゃ!」

「また明日ね!」
彼女は時計をみるや立ち上がる勢いで椅子が小さく鳴った。

夢七は慌てて鞄を抱えると、
本棚の間へ駆け出しかけ――ふと、振り返る。

「かずくん」

呼ばれて、一翔は顔を上げた。

夕暮れが図書館の窓から差し込み、
彼女の黒髪を淡く橙に染めていた。

「数学と話せるならさ」

夢七は少しだけ照れくさそうに笑う。

「人とも、ちゃんと話せるよ。たぶん」

その言葉を残して、
彼女は今度こそ走っていった。

ぱたぱたと遠ざかるローファーの音。

やがて図書館は、また静寂に戻る。

一翔はしばらく、
閉じかけていたノートを見つめていた。

数式が並ぶページ。

証明途中の式。
矢印。
消した跡。

いつもと同じはずなのに、
さっきまでとは少し違って見える。

「……人とも、か」

小さく呟く。

そんなこと、
考えたこともなかった。

数学は裏切らない。
感情もない。
だから楽だった。

答えがある。
規則がある。
間違っていれば、必ずどこかがおかしい。

でも人は違う。

曖昧で、
急に笑って、
勝手に近づいてきて、
理由もなく名前を縮める。

まるで証明不能問題だ。

一翔はペンを持ち直した。

けれど、数式を書く前に、
視線が自然と入口へ向いてしまう。

もう誰もいない。

……はずなのに。

机の端に、
見覚えのない小さな紙が置かれていた。

一翔は眉をひそめる。

さっきまでなかった。

手に取る。

丸い文字で、短く書かれていた。

『難しい顔しすぎ。
 あと、かずくんの数学の話、ちょっと好き』

その下に、小さな星の落書き。

一翔は数秒それを見つめ――

「……なんだそれ」

呆れたように呟きながら、
気づけば少しだけ口元が緩んでいた。

窓の外では、
夕空の群青がゆっくり深くなっていく。

まるで、
静かな世界に一つだけ、
新しい変数が入り込んできたみたいだった。

「お、いた!」
背後から降ってきたのは、昨日と同じ、鈴を転がすような声だった。
振り返ると、そこには後顧の憂いなど微塵も感じさせない、突き抜けるような笑顔の彼女が立っていた。
「……また君か」
僕が本の隙間から視線を向けると、彼女は不満そうに、ふわりと頬を膨らませた。
「君じゃなくて、夢七って呼んで」
いくら年下に見えるとはいえ、年頃の女の子を下の名前で、しかも呼び捨てにするのはさすがに抵抗がある。
「……じゃあ、夢七ちゃんで」
妥協案を提示すると、夢七は一瞬だけ、何かに怯えるような、あるいは戸惑うような不安げな顔を見せた。けれどそれも瞬きの間のことで、すぐに弾けるような笑顔が戻る。
「うん、いいよ!」
彼女は当然のように僕の向かいの席に陣取った。
ふと、窓の外から差し込む明るい日差しが、開いたままのノートを白く飛ばす。
「そういえば、夢七ちゃん、学校は?」
今日は月曜日。至極当然の疑問だったが、対人関係の機微に疎い僕がそのことに思い至るまでには、少しばかりの時間を要した。
「見た感じ、中学生……だよね?」
そう問いかけると、夢七は今度は「不屈」という言葉が似合いそうな、断固とした表情で僕を指差した。
「ブッブー! 外れです。あたし、こう見えて高校2年生。17歳なの!」
誇らしげに胸を張る彼女を見つめ、僕は思わず手元の数式と彼女を交互に見比べた。
17歳。
そう言われてみれば、その瞳の奥にある静かな光は、ただ幼いだけの子供のものではないような気がしてくる。
「……17……。それなら、余計に授業はどうしたんだ?」
「それは……内緒。それより、今日のかずくんの『お喋り』は、昨日よりマイルドだね?」

「内緒って……」
僕はため息をつきながら、再びノートに目を落とした。
追求したところで、煙に巻かれるのがオチだろう。彼女の周りだけ、世界の時間軸が少し歪んでいるような、そんな錯覚さえ覚える。
「……今日のは、マイルドっていうか。少し視点を変えてみたんだ」
「視点?」
夢七は身を乗り出し、僕が描いた図形や、複雑に絡み合う数式を指先でなぞった。
それは、自然数という一見整然とした世界の裏側に潜む、カオスを飼い慣らそうとする試行錯誤の跡だ。
「昨日話してた、大きな『生き物』との会話……今日は、喧嘩してるみたいに見える」
彼女の言葉に、心臓が跳ねた。
専門的な知識などないはずなのに、彼女は時折、僕が数式の裏に隠した感情を正確に掬い取っていく。
「……喧嘩、か。そうかもしれない」
ある命題を証明しようとすればするほど、巨大な壁に跳ね返される。
まるで「ここから先は、まだお前の来る場所じゃない」と、数学という神様に拒絶されているような感覚。
「でも、喧嘩できるってことは、仲良くなれるチャンスでしょ?」
夢七は屈託なく笑い、窓から差し込む光を指先で弄んだ。
その仕草は、やはり年相応の少女のようにも、あるいはすべてを見透かした賢者のようにも見える。
「かずくんがそんなに一生懸命なんだもん。その『生き物』さんも、きっと根負けして、いつか秘密を教えてくれるよ」
「……だといいんだけどね」
僕は苦笑し、ペンを握り直す。
彼女が向かいに座っているだけで、昨日までの孤独な試行錯誤が、少しだけ彩りを持って動き出すのを感じていた。

「ねぇ、今読んでるフェ……フェルマーの算術ってなに?」
夢七が、僕の傍らに置かれた年季の入った本を指差した。
一瞬、思考を巡らせる。彼女に説明しても退屈させるだけかもしれない――けれど、彼女の真っ直ぐな瞳を見ていると、不思議と語りたくなった。
「『フェルマーの最終問題』って、聞いたことある?」
夢七は小首を傾げ、不思議そうに横に振った。
「この本には、ある一通の置き手紙みたいなものが記されているんだ。この問題は、実に350年以上もの間、世界中の天才たちが挑んでも今日まで誰一人として解けなかった。」
僕はノートの端に、簡潔な数式を書き込んだ。
「この n が3以上のとき、自然数の解は存在しない。……ただそれだけのことが、3世紀以上も人類を撥ね退けてきたんだ。フェルマーという男は、本の余白に『私はこの命題の真に驚くべき証明を見つけたが、ここに書くには余白が狭すぎる』なんて言葉を残してね」
「……300年以上も?」
夢七は数式をじっと見つめた。
「うん。でも、解けない時間は無駄じゃなかった。その『解けない壁』にぶつかり続けたおかげで、数学は驚くほど豊かに進化してきたんだ。さっき言った『生き物』と同じだよ。一人の人間が一生をかけても届かないほど、数学は深くて、途方もなく長い物語なんだ」
夢七は、僕が書いた数式をそっと指でなぞった。
「余白が狭すぎるから、書かなかったんだ……。なんだか、ちょっと意地悪で、でもロマンチックだね」
彼女はそう言って、僕の顔を覗き込んだ。
「かずくんも、そういう余白の続きを書こうとしてるの?」
その問いは、僕の胸の奥にある、まだ誰にも形にしていない熱を、静かに、けれど正確に突き刺した。「あ、あたし帰るね!」
唐突に、夢七が立ち上がった。
先ほどまで数式に見入っていた真剣な眼差しはどこへやら、今はもう、門限を思い出した子供のような顔をしている。
「……ああ、気をつけて」
僕が短く応じると、彼女は机の上の消しゴムのカスをパッパと払って、こちらに身を乗り出した。
「明日も、その『物語』の続き、聞かせてよね。かずくんの話、難しくて半分くらいしかわかんないけど――なんだか、宇宙の話を聞いてるみたいでワクワクするから」
彼女はそう言い残すと、夕闇が迫る窓の外を一度だけ見て、軽やかな足取りで図書室を後にした。
残されたのは、開かれたままの『算術』と、彼女が指でなぞったせいで少しだけ温度が残っている僕のノート。
「……宇宙、か」
僕は呟き、数式を見つめ直した。
かつてフェルマーが余白に残した挑発的な言葉。
そして今、僕が挑んでいるコラッツ予想という、さらに底の見えない深淵。
もしも数学が巨大な生き物だとしたら、夢七という少女は、その背中に舞い降りた一羽の鳥のようだった。
重苦しい証明の義務も、未解決の重圧も、彼女の「素敵だね」という一言で、ふわりと軽くなってしまう。
「……また明日」
僕は彼女のいなくなった向かいの席に、誰にも聞こえない声で答えた。
窓の外では、彼女の名と同じ「夕星(ゆうずつ)」金星が、群青色の空にひっそりと輝き始めていた。

師走の冷たい空気が、肺の奥をちりりと刺す。
夢七が毎日図書館に現れるようになって、いつの間にか二ヶ月が過ぎていた。
彼女の制服のこと、学校に行っているはずの時間に図書室にいること。
それらはいつしか、僕たちの間で「触れてはいけない境界線」のようになっていた。数学という、この世で最も純粋な論理の世界に浸っている間だけは、そんな現実の歪みさえも忘れられたからだ。
けれど、あの日を境に、彼女の姿はぷつりと途絶えた。
一日、また一日。彼女の座っていた向かいの席には、冬の淡い光が虚しく落ちるだけだった。
一週間が経ったある日。
僕は学部の教授に頼まれた資料を届けるため、隣接する大学病院の病棟を抜けて帰路につこうとしていた。
無機質な消毒液の匂い。
自動ドアが開くたびに流れ込む、冬の冷気。
ふと、ホスピタルモールにある中庭の入り口で、その背中を見つけた。
「……夢七ちゃん?」
聞き慣れたはずの自分の声が、少しだけ震えた。
振り返ったのは、あの日と同じ、肩まで伸びた黒髪。
けれど、そこにあったのは驚くほど白く透き通った肌と、膝に厚手のブランケットをかけた、車椅子姿の彼女だった。
「あ……」
夢七は一瞬、弾かれたように目を見開いた。
隠し事が見つかった子供のような、あるいは、一番見られたくなかった姿を晒してしまった絶望のような、複雑な色がその澄んだ瞳を過る。
けれど彼女は、震える唇を懸命に動かし、いつものように無理やり口角を上げた。
「……見つかっちゃった。かずくん、今日のお喋りは、いつもより少しトーンが低いね」
その声は、冬の夜風に揺れるカーテンのように、今にも消えてしまいそうに儚かった。

夕星の底にある不言論を信じる君は

夕星の底にある不言論を信じる君は

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-05-15

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