「それは現場ではなく“再現風景”だ」(創作メモ)
少し整理しておきたいと思います。
創作において「現場」を扱う以上、そこには必ず「失敗」「責任」「再現性」という連続性が伴います。
これは演出ではなく、構造です。どれか一つでも欠ければ、それはもはや現場とは言えません。
しかし最近、気になる傾向があります。
未熟→指摘→改心→解決、
という一見きれいな流れが繰り返される一方で、
誰が責任を引き受けたのか。
何が再発防止として残ったのか。
といった点が描かれていません。
その結果、現場は「雰囲気」として消費されてしまいます。
安全についても同様です。
安全は「いい話」ではなく、「積み上がった犠牲の記録」です。
「安全マニュアルは血文字で書かれている」
「今の安全は先人の犠牲の上に成り立っている」
これらが過度な表現と受け取られるのであれば、次のように言い換えることもできます。
「安全の確保は、規程の遵守および執務の厳正から始まり、不断の修練によって築き上げられるものです。」
いずれにせよ、これは比喩ではありません。
問題はここからです。
こうした指摘は、「過度な批判」として処理される可能性があります。
つまり、現場の実態に触れれば削除され、触れなければ何も残らない、という構図です。
その結果として、「安全な批評」だけが残ります。
そして現場は、誰にも触れられないまま、“それらしく見えるもの”として再生産されていきます。
それでよいのか、という問題提起です。
「それは現場ではなく“再現風景”だ」(創作メモ)