百合の君(107)
「お前が金笠か」
初めて聞く若い将軍の声には、不思議な色気があった。以前会った喜林義郎の獣のような声とは全然違う。全国を巡業する金笠は、当然、二人が実の親子だという噂は聞いていた。しかし、声だけでなく容姿も全然似ていない。野獣の毛皮を着てがっしりとした義郎に対し、珊瑚はほっそりとした体に桜色の狩衣をまとっている。同じなのは、瞳の赤い色だけだ。
「ははっ」
しかし、そのような事を口に出しては、命がいくつあっても足りない。金笠は神妙な顔を作って頭を下げた。
「奉納舞は見た。見事であった」
金笠はその表情を盗み見た。珊瑚は笑みを浮かべ、力強く頷いている。長い冬に耐え、ようやく芽を出したたんぽぽは、あっと言う間に黄色い花で草原を覆う。禽堂矢城に、広大な花畑が広がった。やっとこの日が来た、と金笠は思った。以前は大名に営業をかけるつもりが、喜林義郎を批判する芝居を当の本人の前で演ってしまい、あやうく死にかけた。今度こそやっと成功する。嫁も持てる。花は春風に吹かれ、うんうんと頷いている。白い綿毛が飛んでいる。
「ありがたき幸せに存じます」
「そこでだ・・・」
珊瑚の微笑みは美しかった。まるで異国の姫君のようだった。金笠は次の言葉を待った。春の宴で何か披露せよと言われるのだろう。
喜林に対し劣勢とはいえ、出海もまた帝を戴く征夷大将軍だ。褒美はたんまり出る。もしこの若い将軍がご所望なら、この地に残って嫁と弟子を取るのもよい。
「あの卑しい傭兵を貶める芝居を作れ」
花畑は一瞬で枯れた。黒い岩から硫黄の噴き出る地獄になった。
「よ、傭兵とおっしゃいますと・・・」
「天蔵だ、決まっておろう」
「し、しかしあのお方はただ友を探すために戦場を渡り歩いていただけ、悪い噂も一向に聞きませぬ」
珊瑚はにやりと笑った。
「お前は神を見たことがあるのか?」
からかうように覗いてくる。金笠は目を逸らした。額の生え際から汗が流れて落ちた。
「い、いえ、ございませぬが」
「でも奉納舞では神も演るな?」
「そ、それはもちろん」
「なら見たこともない天蔵も演ればよい」
珊瑚の瞳に、心の皮が薄く切り取られたような気がした。体液の光る肉が露出して、硫黄の空気が浸みた。金笠は重傷を覚悟した。重傷は覚悟したが、死ぬのは嫌だ。
「しかし、なぜ」
「私も以前は喜林の世話になった身だ。傭兵風情に御家が奪われるのは、見るに忍びない」
下らない。金笠は心で深いため息をついた。なんで武士はこうなんだろう。親だの家だのにどうしてこだわるんだろう。私は親の顔など見たこともないが、ほれこの通り、天下の大将軍の前でピンピンしている。が、それもいつまでだか分からない。その芝居が、喜林の目に触れたら・・・。金笠の胃が痛んだ。
「やるのかやらんのか」
近づいてきた珊瑚の顔が、まるで熱い火箸であるかのように感じられた。白粉も剥がれた。喜林を批判するのは、これで二度目になってしまう。もうお目こぼしはないだろう。
ゴウゴウと耳が鳴った。聞き覚えがある。あの日の川の流れだ。獣の毛を逆立たせ、血のような赤い目で睨み下ろしているのは、鬼ではない。喜林義郎だ。隣にひれ伏す木怒山由友も見える。木怒山はわずかに頭を上げ、金笠に向かってほほみかけた。それは、死にゆく者の顔だった。
ああ、そうだ、あの時、死んでいてもおかしくなかった。
そう思った途端、不思議に心の流れが変わった。あの時死んでもおかしくなかったのなら、いま生きているのはおまけみたいなものだ。ふん、捨てて惜しいものか。
そうだ、私は芸人だ。客が求めさえすれば、白い鴉に扮し、黒い雪を舞台に降らせるのが芸人だ。それで地獄に落ちるというのなら、地獄の代官を笑わせ泣かせ、その隙にまた戻って来てやる。
「花村清道には、断られたそうでございますな」
今までのどんな舞台よりも、声が通った。珊瑚の顔も恐ろしくなかった。
「だったらどうだと言うのだ」
珊瑚の声はたじろいでいた。自信が湧いてくる。かつて神は、人に芸術を与えた。世界を創造する術を与えた。私は舞台の上の神なのだ。
「聞けば山の上で誰にも見せぬ絵を描いているとか。己の満足のためだけに仕事をするなど、素人も同然」金笠の汗はひいていた。「この芝居、安くはありませぬぞ。煤又原城を落とした暁には、出海のご威光の及ぶところ、あまねく私のための芝居小屋を建ててくだされ」
百合の君(107)
花村清道が山の上で絵を描いているというのは(77)にエピソードとして出てきます。金笠と清道の芸術観の違いは隠れたテーマの一つだと思っているので、味わってみていただけたら幸いです。